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亘理城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2259.JPG←本丸切岸と内堀
 亘理城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、亘理要害と呼ばれた城である。元々はこの地の豪族亘理氏の居城で、天正年間(1573~92年)に亘理元宗・重宗が伊達氏の命で相馬氏と度々戦った頃には、小堤城から亘理城に居城を移していたと推測されている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は百々城・涌谷城へと移り、代わって亘理城には、政宗股肱の臣片倉小十郎景綱が入った。1600年の関ヶ原合戦の後、刈田郡が伊達領となると景綱は白石城に移封となり、亘理城には伊達一門の重臣伊達成実が入城した。成実は、大森城主伊達実元(稙宗の5男)の嫡子で、人取橋の合戦では寡勢の伊達勢にあって奮戦し、摺上原の戦いでも敵の側面を強襲して敵勢を突き崩す等、勇名を轟かせた。後へ退かないと言う意味の「ムカデ(或いは毛虫とも)の前立て」でも有名で、1歳違いの政宗を補佐して大功があったが、政宗の元から謎の出奔をし、関ヶ原の前哨戦である白石の役で伊達家に帰参して戦功を挙げた。亘理城に入ってからは、亘理伊達氏の祖となり、以後伊達一門でも最高の知行を有する亘理伊達氏の歴代の居城となった。元和の一国一城令で城の名は廃され、亘理要害と称されて幕末まで存続した。戊辰戦争では仙台伊達藩は奥羽列藩同盟の盟主として政府軍と戦ったが、各所の戦いで敗れ、亘理要害の御館(本丸)で伊達藩は降伏した。

 亘理要害は、比高10m程の東西に長い丘陵上に本丸(御館)を置き、その西続きに馬場、東の平地部に外堀で囲んだ二ノ丸を置いていた。現在はかなり改変が進んでしまっており、本丸は往時の雰囲気を残すが、南北にあった城門跡を車道が貫通して破壊を受けている。本丸には土塁が廻らされていたらしく、亘理神社の背後や車道の東側の段丘上(本丸の一部)に土塁が残っている。また本丸南には内堀が残り、それに沿って往時の雰囲気をよく残す切岸が見られる。その他は改変されており、二ノ丸はスーパーになり、馬場は亘理高校となっている。もっと破壊されているかと思ったが、内堀が残るなど想像していたより遺構が残っており、城の雰囲気はよく残っていると感じられた。
往時の雰囲気を残す本丸切岸→IMG_2258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.033743,140.850713&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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