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丸森城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1388.JPG←腰曲輪と詰丸の切岸
 丸森城は、丸山城・丸山館とも言い、伊達氏の大規模な内乱「天文の乱」で敗れた伊達稙宗が隠居城とした城である。稙宗は、桑折西山城を拠点にして分国法「塵芥集」を制定するなど伊達氏の戦国大名化を進めたが、稙宗の急速な拡大路線に危惧を抱いていた嫡男晴宗は、弟実元の越後守護上杉氏への入嗣問題を契機として稙宗と対立し、伊達家中のみならず奥州諸豪を二分する大乱へと発展した。これが天文の乱である。稙宗方には、その長女の嫁ぎ先である相馬氏も付いていたが、乱は6年間に及ぶ抗争の結果、結局晴宗方の勝利に帰し、1548年に和睦が成立し、稙宗は相馬領に近い丸森に丸森城を築いて、隠退した。1565年に稙宗がこの城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた丸森他5ヶ村(伊具郡)は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、その後長く続く伊達氏と相馬氏の争いの大きな原因となった。1570年には、相馬氏は家臣の門間大和を丸森城主とした。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。そして伊達氏家臣の黒木宗元が丸森城主となった。その後、家老の高野壱岐親兼が城主となり、1601年には大條薩摩守実頼が城主となったが、その年の内に実頼は鳥屋館に居城を移し、丸森城は廃城となった。

 丸森城は、阿武隈川の支流、新川と内川の合流点東側に張り出した、標高70m、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。東西に主要な曲輪を連ね、その周りに腰曲輪を廻らした、連郭式のやや広めの城である。しかし隠居城であるという性格のためか、戦国中期に新たに築城されたにしては、あまり技巧的な部分はなく、また堀切もあるにはあるが鋭さがなく、あまり防御性の高くない縄張りである。現地表記で本丸とされるのは最上部の広い曲輪で、その奥には堀切を介して愛宕神社が建てられている曲輪があり、御前曲輪又は詰丸の様なものであろうか。神社近くには伊達稙宗の墓碑が建てられている。本丸東側の腰曲輪とニノ丸の間には箱堀形状の堀切がある。更に二ノ丸東側に数段の腰曲輪が続き、その東に三ノ丸があるが、三ノ丸は民家に変貌している。いずれの曲輪も土塁はなく、切岸のみで防御されている。あまり面白みのある城ではないが、天文の乱に敗れた稙宗の隠居城という歴史的な場所であり、重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.910685,140.773809&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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