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後屋城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5778.JPG←神社手前に残るL字状の土塁
 後屋城は、後谷城とも書かれ、丹波の戦国大名赤井氏の宗家の居城である。伝承によれば赤井氏は、信濃源氏頼季流の井上満実の3男家光が、平安後期に丹波国氷上郡芦田庄に移住して芦田氏を称し、1215年にその5代の孫為家が赤井野に分封されて赤井氏を称し、後屋城を築いたと言われている。この赤井氏の嫡流が、後屋城を居城とした赤井氏の宗家で、一方、為家の次男重家は朝日村に分封されて朝日城を築き、荻野氏を称した。従って、芦田・赤井・荻野は同族である。しかし赤井氏の事績は暫くの間は闇の中で、南北朝期にも太平記に記載される活躍をしたのは、庶流の荻野彦六朝忠であった。赤井氏の事績が歴史の表舞台に現れるのは戦国時代初期のことで、為家から10代目の伊賀守忠家以降である。その後、時家・家清・五郎忠家と続き、徐々に領地を拡張し、氷上郡全域を支配下に収めた。特に家清の弟が、戦国丹波随一の勇将として名を轟かせた赤井直正で、直正は当初朝日城主荻野氏の養子に入ったが、1554年に叔父の黒井城主萩野秋清を宴席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。1557年に後屋城主の兄赤井家清が没すると、その嫡子五郎忠家が若年であった為、直正が赤井・萩野一族の事実上の統帥者となった。1565年には、丹波守護代の八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の実弟)を和久郷合戦で破って敗死させ、直正は丹波西方に武威を振るい、自身を「悪右衛門」を称して(中世の「悪」は「強い」の意味)全国にその名を轟かせた。1575年に始まった明智光秀の丹波平定戦でも、数次にわたる明智勢の猛攻を撃退したが、1578年に直正が病没すると、翌79年に八上城主波多野秀治を滅ぼした光秀の攻撃によって後屋城も落城し、黒井城の落城と共に戦国大名赤井氏の歴史は終わりを告げた。

 後屋城は、白山東麓の微高地に築かれている。白山山頂から移されたという白山神社とその周辺一帯が城跡で、L字状の土塁や外周の空堀がはっきりと残っている。北側の土塁の中程には出枡形の虎口があり、その部分で空堀が屈曲してわずかに横矢が掛けられている。また周囲に見られる低い石垣のある部分は、家臣団の屋敷地跡と推測されている様だ。これらはいずれも平地の居館であるが、この他に居館の北西と南西に西から張り出した尾根先端には砦の跡があるらしい。また白山山頂にも小規模な詰城があった様である。丹波の戦国史に名を轟かせた赤井氏の宗家の居城としてはささやかな規模で、その事績の不明さとも相俟って、赤井氏の歴史の謎を感じさせる。

 尚、後屋城前の道を真東に500m程進んだ先にある谷村公民館の裏手に、赤井伊賀守忠家と赤井一族の供養塔がある。
赤井伊賀守忠家供養塔→IMG_5829.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.14674,135.017391&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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