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米野井城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7075.JPG←主郭の切岸
 米野井城は、蛇峰城とも呼ばれ、千葉氏の庶流木内氏の居城である。千葉六党の一、東胤頼の次男胤朝が香取郡木内庄に分封されて木内氏を称した。その後、南北朝初期の1336年に宗家千葉貞胤の命により、木内胤氏が米野井城を築いたと言われている。以後、米野井城は木内氏の歴代の居城となった。その後木内氏は、千葉氏四老臣に列するなど千葉氏の重臣として活躍した。享徳の大乱の余波で千葉氏内部に内訌が生じて千葉宗家が滅ぼされ、その後は庶流の馬加康胤の系統が千葉氏を称した(後期千葉氏)。木内胤敬は再び千葉氏に召し出されて、原・鏑木氏と共に「千葉三家老」と呼ばれる重臣となった。続く長尾景春の乱では、千葉孝胤は景春方に付いた為、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の討伐を受け、境根原合戦で大敗した。この時、木内胤邦、原二郎ら数百人の将兵が討死したと言う。戦国時代に入ると、小弓公方を擁するなどした安房里見氏が下総に度々進軍し、木内氏は千葉氏と共に小田原北条氏に属して里見氏に抵抗した。1565年、里見氏の重臣正木大膳が東総に侵攻して森山城を攻め、米野井城をも攻撃した。木内胤章は、米野井城で激しく抵抗したが、遂に落城し、主だった武将36人と共に胤章も討死したと言う。その後正木勢が撤退すると、胤章の子胤統は、松子城主大須賀氏の支援を得て、米野井城を奪還した。しかし翌年、胤統はわずか27歳で里見勢との交戦で生実城にて討死した。こうして木内氏は、里見氏との戦いで代々の当主や一族の多くが討死し、弱体化した。1590年の小田原の役で千葉氏が滅亡すると、木内氏は帰農したと言う。

 米野井城は、比高20m程の台地の突端に築かれている。比較的平坦な台地全体を城域に取り込んでいた様であるが、南東部は宅地化で改変され、その他は薮に埋もれていて縄張りはあまりはっきりしない。集落の北の山林の中に主郭と思われる最高所の平場があり、その周囲は切岸で囲まれている。周囲に広い腰曲輪などを築き、北に伸びる尾根には物見台状の曲輪が2つ築かれ、小掘切で分断され、更に小掘切を介して先端の物見台があって、城域が終わっている。一方、集落の西側台地も外郭だった様で、小道に沿って土壇や腰曲輪らしい平場が散見されるが、藪が多いせいもあって縄張りはあまりはっきりしない。千葉氏の重臣として活躍した武家の城としては、やや拍子抜けである。戦国期にはもはやあまり勢威を持っていなかったことの証であろうか。
先端の物見台の掘切→IMG_7091.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.832436,140.578201&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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