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椎津城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6407.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 椎津城は、小田原北条氏と安房里見氏の間で争奪の場となった城である。元々の創築は千葉氏の一族椎津三郎に因ると言われるが定かではない。或いは、明応年間(1492~1501年)頃に真里谷城主真里谷武田氏が築いたとも言われる。1519年頃には、真里谷武田氏が擁立した小弓公方足利義明が「椎津要害」に居り、古河公方足利高基の軍勢が攻めたことが伝わっている。1534年、真里谷武田氏家中で内訌が生じ、信隆とその子信政は椎津城に立て籠もったが、小弓公方足利義明に攻められて敗走した。1537年、第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡すると、椎津城は北条氏の属城となり、真里谷武田信隆・信政父子が再入城した。1552年、里見義堯は万喜城主土岐頼定と大多喜城主正木時茂に椎津城を攻めさせ、武田信政は敗れて自刃し、椎津城は里見氏の手中に帰して、里見氏の下総進出の前進基地となった。1564年の第二次国府台合戦で里見方が大敗すると、北条勢は椎津城を攻め落とし、里見方の守将木曾左馬介は城を追われ、代わって北条方の白幡六郎が守将となった。天正年間(1573~92年)には、里見氏に対する境目の城であったため、土気酒井氏や原氏等が交替で城番を務めた。1590年の小田原の役の際に、上方勢に攻め落とされ、椎津城は廃城となった。

 椎津城は、比高30m程の台地先端部に築かれた城である。城内は宅地化が進んでいるが、主郭付近は遺構が良く残り、周囲の地形も往時の面影をよく残している。主郭の一部は広場となり、解説板が立っている。その脇の竹藪の中に突入すると、方形の土塁で囲まれた枡形状遺構がある。これは、一説には近世の神社跡と考えられているらしい。その西側に隅櫓台を伴った主郭が広がり、その北面から西面にかけて腰曲輪が巡らされている。腰曲輪からは主郭に繋がる城道と虎口が残っている。主郭背後には堀跡が宅地や畑となって残っており、その背後に一段高い方形区画の畑があるが、これが二ノ郭とされている。二ノ郭背後も一段低くなっており、空堀跡であることが辛うじて分かる。この他、台地東側も谷戸に面して腰曲輪が畑などになって残っているのがわかる。住宅地の中としては奇跡的なほど往時の地形を残しており、城の姿を朧気に想像することができる。椎津城は、主郭切岸の脇に遠くのコンビナートが見える、現代と中世とが混在した不思議な空間を現出している城である。
主郭背後の空堀跡→IMG_6431.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.471706,140.035858&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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