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会下山楠木正成本陣跡(兵庫県神戸市) [その他の史跡巡り]

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 会下山は、1336年の湊川合戦の際に楠木正成が本陣を敷いた場所である。この年の正月、京都争奪戦に敗れた足利尊氏は、丹波を経由して、赤松円心の勢力圏であった兵庫まで退き、更に室の津まで落ち延びた。ここで「室泊の軍議」と呼ばれる、今後の行方を左右する重要な軍議が開かれた。即ち、尊氏が一旦九州まで落ち延びてから再挙東上する迄の間、多くの一族武将を西国各地に派遣して、来るべき新田勢による追撃の防衛に当たらせることにしたのである。こうして今後の処置を抜かりなく行った尊氏は僅かな兵を連れて九州に向かい、少弐頼尚に迎えられて筑前に入った。多々良浜の合戦で、兵数的に圧倒的な不利な状況にもかかわらず、大逆転によって勝利した尊氏は、鎮西諸豪を傘下に収め、都での敗戦から僅か3ヶ月で態勢を立て直し東上を開始した。5月10日に備後の鞆の津を発向した足利勢は、尊氏が水軍を率いて海路を進み、弟の直義が大軍を率いて陸路を並進した。備中福山城三石城の新田勢を追い散らし、足利勢は兵庫に迫った。24日、直義は陸路軍を三手に分け、中央の大手軍を直義が直率し副将に高師泰、山の手軍の大将を斯波高経、浜の手軍の大将を少弐頼尚として進撃した。対する新田義貞は、二本松から和田の岬にかけて本軍を布陣して尊氏の直率する水軍の上陸に備え、和田の岬北西に位置する会下山に楠木正成が本陣を敷いて、足利方の陸路軍に備えた。合戦が始まると、足利方は水軍を擁する利点を活かして、細川定禅率いる水軍を新田軍の背後に当たる生田の森に迂回上陸させ、義貞を東西から挟撃する姿勢を示した。義貞は挟撃の危険に晒されて全軍を東に後退させた為、会下山に拠る楠木軍は孤立することとなった。正成は、元々この合戦に臨むに当たって死を覚悟していたと言われ、眼下に迫る足利の大軍を前に一歩も退かず、奮戦して一族もろとも自刃して果てた。尊氏は、正成の死を深く悲しみ、首実検して軍法に従って梟首した後、河内の遺族の元に首を送り届けたと伝えられている。

 会下山は、標高50~60m程の丘陵地で、ここからは義貞が全軍を布陣させた浜手から大阪湾を一望できる要衝で、会下山公園内に東郷平八郎の筆になる「大楠公湊川陣之遺蹟」と刻まれた石碑が建っている。公園付近は急峻な地形と狭い路地が入り組んだ住宅地に囲まれているので、車だと近づくのも容易ではない。往時はなおのこと、近づき難い地形だったことだろう。ここに布陣した正成の心中はいかばかりであったろうか。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.67776&lon=135.157463&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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NO NAME

開創年代は不明。開山は仏僧国師約翁徳倹。開基は木下源太と伝えられる。
『摂津名所図会』に元弘3年(1333年)5月晦日に後醍醐天皇が隠岐から京へ戻る途中に入り、6月朔日、大般若経を転読させたとある。
天正年中(1573年~1591年)兵火にあい焼失、のち再建。
史跡後醍醐天皇駐蹕之處
赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が出迎えた寺として知られる。
『福厳寺塔頭』 境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵があったが、 明治後合併廃寺されて、名目上に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になった。 また和田岬にあった尼僧寺院、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されている。
by NO NAME (2015-04-25 07:12) 

アテンザ23Z

>NO NAMEさん
福厳寺ですね(^^)
by アテンザ23Z (2015-04-29 22:21) 

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