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福知山城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8536.JPG←本丸の石垣
(2014年4月訪城)
 福知山城は、丹波を平定した明智光秀が築いた近世城郭である。元の名は横山城と言い、小笠原氏の流れを汲むと言われる塩見大膳頼勝が初めてこの地に城砦を築いたとされる。その後頼勝は、長男の頼氏を横山城に、次男長員を奈賀山に、3男利勝を猪崎城に、4男長利を和久城に、5男利明を牧城にそれぞれ配したと言われている。そして頼氏は姓を横山と改め、その子信房が横山城主の時、1579年8月に、既に丹波の大部分を平定していた明智光秀によって城を攻め落とされ、信房は自刃した。光秀は丹波を平定すると、家臣明智左馬頭秀満(三宅弥半次)に命じて横山城を大改修して近世城郭へと変貌させ、丹波統治の拠点とした。この時、治世に反抗的な近隣寺社を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと言われている。1580年4月、光秀は天橋立見物に行く途中、福知山城で城代の秀満より七五三の膳で振舞を受けた。1582年、光秀が滅亡すると、福知山城は羽柴秀長(秀吉の弟)の家臣が管理したとされ、その後、杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続いた。重勝は1600年の関ヶ原合戦で西軍方に付いて滅亡し、その後有馬玄蕃頭豊氏が城主となった。その後、城主は変遷し、1669年に朽木稙昌が城主となって以降、幕末まで朽木氏が続いた。

 福知山城は、由良川と土師川の合流点西側の丘陵上に築かれた平山城である。かつては本丸と二ノ丸を東西に連ね、堀切を挟んで西に伯耆丸と言う出丸を置き、更に平地に水堀を築いて外郭を囲んだ城であったが、現在は市街化によって、本丸以外のほとんどの遺構が失われている。しかし大手門跡やニノ丸跡などの解説板が各所に建っていて、往時の城の配置がわかるように配慮されている。また二ノ丸は台地ごと削られてしまったが、伯耆丸の台地は残っていて、改変されているものの往時の雰囲気を感じさせる。一方、本丸の石垣の上には天守や小天守・櫓等が再建されており、見事な姿を現している。天守台石垣には墓石が多数混ざっており、転用石だらけであるが、さすがにここまで来ると「なんか酷いなぁ」と思ってしまう。織田政権の持つ、非人間的な強権政治の側面が見て取れる。
天守台の転用石→IMG_8611.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.296765/135.129647/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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