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神尾山城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6577.JPG←虎口の石垣
 神尾山城は、別名を本目城とも言い、丹波の戦国大名波多野稙通(元清)の弟柳本弾正賢治が拠った城である。1507年に幕政を壟断してきた管領細川政元が、家督相続を巡る内紛から家臣に暗殺されて以降、細川氏内部で激しい抗争が繰り返された。このため、細川氏の重要な守護管国の一つであった丹波にも抗争の余波が広がった。波多野稙通は管領細川高国の後ろ盾を得て勢力を伸ばし、八上城を本拠とし、弟元盛を讃岐出身で細川管領家(京兆家)内衆の香西氏に、末弟の賢治を大和国衆の柳本氏に入れて、細川氏内部での立場を強化していった。1526年、高国は細川尹賢の讒言を信じて、近臣の香西元盛を誅殺し、怒った元清は弟の賢治とともに高国の政敵細川晴元に通じて高国から離反した。この時、賢治は神尾山城に拠って兵を挙げ、高国の追討軍を撃退したと言う。その後の1553年には、丹波守護代の八木城主内藤国貞は守護代の地位を巡って波多野晴通と対立し、本目城で討死したと伝えられている。1575年、織田信長から丹波平定を命じられた明智光秀は、神尾山城を波多野氏討伐の拠点の一つとして利用したと考えられる。光秀の丹波平定に最も激しく抵抗したのが八上城主波多野秀治兄弟で、八上城を兵糧攻めの末、人質を差し出すことで和睦が成立し、波多野兄弟が連れて来られたのが、神尾山城であったと伝えられている。

 神尾山城は、金輪寺背後の標高430mの山上に築かれた城で、金輪寺も城の一郭として機能したものと推測される。城域は広いが、旧態依然とした縄張りの城で、仕切り土塁で区画されただけの広い主郭・ニノ郭の周囲に腰曲輪を廻らし、南下方に三ノ郭を配置し、支尾根に段曲輪群を築いただけの構造となっている。堀切は唯一、三ノ郭背後に土塁とともに築かれているだけで、曲輪間の分断にもあまり考慮がされていない様である。この他、ニノ郭に登っていく大手道の途中にわずかに石垣の残る虎口があり、主郭周囲の腰曲輪にも石積みの跡が見られる。主郭やニノ郭から腰曲輪・段曲輪に繋がる部分には虎口が数ヶ所築かれているが、いずれも平易な坂虎口で、枡形虎口は見られない。金輪寺までは車で登れ、寺のすぐ背後から曲輪が展開し、ニノ郭まで登道も整備されているので訪城は容易だが、如何せん縄張りの面白みには欠ける城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.039623&lon=135.469837&z=16&did=std&crs=1
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