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足利尊氏挙兵地(京都府亀岡市) [その他の史跡巡り]

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 室町幕府の初代将軍となった足利尊氏は、元の名を高氏と言った。鎌倉幕府の御家人筆頭として、また頼朝の血脈が絶えて以来の源氏の嫡流として、鎌倉幕府の執権北条氏から厚遇を受け、得宗北条高時の一字を拝領して、高氏と名乗っていた(得宗とは北条氏の惣領のこと)。しかし鎌倉時代後期になると北条氏の得宗専制体制が強化され、得宗家の家来筋に当たる内管領が権勢を強め、また諸国の守護も多くを北条一門が独占する様になると、足利氏も圧迫を受けるようになったと考えられている。そして1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が、島を脱出して名和長年の支援で伯耆船上山に立て籠もると、狼狽した幕府首脳は名越氏などの北条一門と共に、高氏を船上山討伐に出陣させた。途中分国であった三河で一族の軍勢と合流して上洛した高氏は、京から丹波に入り、伝来の所領であった丹波篠村の篠村八幡宮に本陣を敷くと、この地で後醍醐天皇の綸旨を掲げ、倒幕の旗を挙げて全国の武家に参陣を促した。そして、一族と共に戦勝祈願の願文を捧げた。4月29日のことであったと伝えられる。こうして挙兵した高氏の元には、北条氏支配に反感を募らせていた諸国の武家が多数参集し、高氏はこれらを率いて京に進撃し、5月7日に六波羅探題を滅ぼして、建武の新政が始まる端緒となった。京に還幸した後醍醐天皇は、高氏を勲功第一とし、多くの所領と共に、自らの諱「尊治」の一字を与え、「尊氏」と名を改めさせた。
 しかしこうして始まった建武の新政は失政相次ぎ、諸国の武家の不満は以前にも増して高まった。そして1335年の中先代の乱を契機として、尊氏は新政より離反し、伊豆竹之下で新田義貞の討伐軍を打ち破り、再び京都に進撃した。しかし翌36年1月30日、一旦制圧した京都攻防戦に敗れた尊氏は、再び丹波篠村八幡宮に逃れてここで残兵を集め、再起を祈願した。この後、兵庫に出て、室津から九州に落ち延びた尊氏は、瞬く間に勢力を盛り返し、室町幕府を開くこととなった。

 足利尊氏の挙兵の地である篠村八幡宮は、亀岡市街の東の外れに位置する。それ程大きくはない、よくある程度の広さの境内と社殿に過ぎないが、「足利高氏旗あげの地」という石碑の他、足利一門が矢を奉献して塚の様になったという「矢塚」や、足利家の軍旗を掲げた「旗立楊(やなぎ)」などの史跡が残り、太平記や梅松論に伝えられる往時の状況が、目に見える様である。よく見ると、境内の林の中に土塁状の土盛が見られたが、まさか往時の陣跡であろうか?この地を訪れるのは2000年以来14年ぶりで、何とも懐かしかった。
矢塚→IMG_6243.JPG
IMG_6245.JPG←旗立楊
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.002731/135.611286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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