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東金城(千葉県東金市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_2704.JPG←虎口兼用堀切と櫓台
 東金城は、土気城を拠点に勢力を張った土気酒井氏の庶流、東金酒井氏の居城である。城の初見は、享徳の乱の際に関東に下向した東常縁による。鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を1455年に謀殺し、関東を二分する大乱が生起した。これが享徳の乱である。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、千葉氏の庶流であった馬加城主馬加康胤が、宗家の千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この事態を受けて京都の将軍足利義政は、千葉氏の一族で美濃の豪族東常縁を下総に下向させ、千葉氏内訌の鎮定に当たらせた。康胤を討って両総を制圧した常縁は、家臣の浜春利を東金城主としたと言う。その後、応仁の乱以降は山口主膳が東金城主となった。1509年、土気城主酒井定隆は嫡子定治に土気城と家督を譲り、田間城を新たな居城として築いて3男隆敏と共に移ったが、城地が狭隘であった為、間もなく東金城を居城とした。以後、東金城は東金酒井氏の歴代の居城となり、同族の土気酒井氏と共に両酒井氏と並び称されて勢力を保った。東金酒井氏は、当初は反北条方であったが、河越夜戦第二次国府台合戦での北条氏の勝利を通して北条方に転じ、以後北条方として活動した。1590年の小田原の役の際には、豊臣秀吉の軍勢によって東金城は落城し、城主酒井政辰・政成父子は蟄居して恭順の意を示し、北条氏滅亡後は徳川家康の旗本に取り立てられた。

 東金城は、標高70m、比高50mの丘陵先端部に築かれた城である。まとまった広さがあるのは主郭とニノ郭だけで、それ以外は外周に築かれた腰曲輪と尾根状の小郭で構成され、派生する支尾根は全て堀切で分断した、細尾根城郭の典型的な縄張りである。主郭・ニノ郭とも広いが薮が多く、全体の確認は困難である。ニノ郭の先端には太平洋戦争中に構築されたトーチカ等があり、改変を受けている。支尾根に穿たれた堀切はいずれもあまり規模は大きくないが、しっかりと穿たれた鋭い薬研堀が多く、北尾根では円弧状に穿たれた堀切も存在する。また外周を廻る腰曲輪では、腰曲輪間を繋ぐ虎口兼用の堀切となり、堀切の先の尾根が櫓台となって腰曲輪間を分断しつつ防御を固めている。また南東尾根の堀切は、横堀状の虎口と組み合わせて枡形虎口を形成するなど、規模は大きくないが作りは巧妙である。東麓から登山道が整備されているが、全体に藪が多く、特に腰曲輪は未整備で踏査に骨が折れる。折角「史蹟 御殿山」という石碑が登山道入口に建っているのだから、全体を綺麗に整備してもらえるともっと見応えがあるのにと惜しまれる。
主郭腰曲輪と虎口兼用堀切→IMG_2791.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.560167&lon=140.353605&z=16&did=std&crs=1
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