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一宮城(千葉県一宮町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9480.JPG←南外郭の物見台の堀切
 一宮城は、一宮正木氏の居城である。築城時期は不明で、その歴史についても不明点が多く、1562年9月に城主内藤久長が里見義頼・万喜城主土岐頼春・大多喜城主正木盛賢らに攻められて落城したとも、或いは同年7月に城主糟谷大炊助が勝浦城主正木時忠・時通親子に攻撃されて数ヶ月後に落城したとも言われるが定かではない。いずれにしても正木氏の支城の一つであったが、1564年の第二次国府台合戦の後、勝浦正木氏が里見氏から離反して小田原北条氏に付くと、一宮城を攻略して嫡男正木時通を城主とした。しかしその後、里見氏は勢力を回復し、1575年に万喜城や一宮城に攻撃を掛けると、北条氏政はその救援の為に下総・上総に侵攻した。1577年に里見氏と北条氏の間で和睦が結ばれると、勝浦正木氏は里見方に復帰し、一宮城は里見氏の支城となった。1590年には里見氏の家臣鶴見氏が一宮城主となっていたが(或いは、上総土岐氏の家臣にも鶴見氏がいるので、土岐氏の支城となったものか)、小田原の役の一環で徳川四天王の一人本多忠勝が房総諸城を攻略した際、一宮城も落城した。江戸時代に入ると、1657年には脇坂淡路守安元が、また1826年には加納遠江守久儔が藩主となってこの地に陣屋を構え、幕末に至った。

 一宮城は、「城之内」の地名の残る台地と、その外周を取り巻く細尾根の外郭で構成された城である。規模は異なるが、この城郭構造は長南武田氏の居城長南城とよく似ている。現在「城之内」地区は城山公園となり、おそらく往時は主殿が置かれたであろう台地最上段には振武館と言う体育館が建てられており、城内はかなり改変されている。振武館の北と南には細尾根外郭が残っているが、北側は藪が激しく踏査不能で、南側だけ途中まで確認した。要所に物見台を設け、その間を細尾根で連結し、垂直切岸の外側に帯曲輪を巡らした、上総式細尾根城郭の典型的な縄張りを有している。この南尾根の中間の物見台には堀切も穿たれている。その他は改変が激しく、往時の遺構はあまり見ることができないので、物足りなさを感じる城である。
細尾根周囲の帯曲輪→IMG_9485.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.372659&lon=140.360939&z=16&did=std&crs=1
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