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鷲城(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC00989.JPG←大きな空堀
(2006年10月訪城)
 鷲城は、南北朝末期に小山義政の乱の舞台となった城である。小山氏は、藤原秀郷の嫡流に当たる下野の名族で、その事績は祇園城の項に記載する。鷲城の創築は明確ではないが、1380年から始まった小山義政の乱では、小山氏の本城として機能した。1380年5月、裳原の戦いで宇都宮基綱を敗死させた義政は、鎌倉公方足利氏満の討伐を受け、一旦降伏したものの翌年再び挙兵した。この時義政は、鷲城を本城とし、思川東岸に長福城(新城)・祇園城を連ね、東にやや離れて中久喜城(岩壺城)を構え、鎌倉方の大軍を相手に6ヶ月に渡る攻防戦を繰り広げた。しかし結局衆寡敵せず降伏し、出家して永賢と号したが、翌年粕尾城において三度挙兵、結局義政は自刃して果てた。鷲城の名はその後歴史に現れず、現在残る遺構から考えて、そのまま廃城になったものと思われる。

 鷲城は、思川東岸に並んだ小山氏城砦群(祇園城・長福城・鷲城)の中では最も南に位置している。大きな空堀で隔てられた南北2郭から成る城で、それぞれの曲輪は広大で、多数の兵が駐屯可能な規模である。北の主郭は、北東端に櫓台が築かれ、中央付近には小規模ながら土塁と堀跡が残る。それ以外はただの広大な平坦地で、郭内の南半分は畑となり、西側には城の名前の由来となった鷲神社が鎮座している。不思議なのは、東側の台地続きに何らの構築物もないことである。普通ならば土塁や空堀で防御するところであるが、早くに湮滅したものであろうか。主郭の南には大きく円弧状に穿たれた大きな空堀がある。南北朝期の城としては屈指の規模で見応えがあるが、横矢掛かりはなく、戦国期に使われた形跡はない様だ。この堀に沿って主郭には大きな土塁が築かれている。南のニノ郭は宅地化が進み、遺構の湮滅が進んでいるが、思川沿いの西辺部に一直線に土塁が残り、東端にも櫓台と土塁がわずかに残っている。この他、主郭西側から空堀に続く城道があり、虎口の土塁が残っている。南北朝期の城らしく素朴な縄張りであるが、円弧状の大きな空堀が見所の城である。
主郭の大土塁→DSC08750.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.304667/139.785840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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