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鳥羽山城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC06700.JPG←主郭北側の腰曲輪群
 鳥羽山城は、徳川家康が武田軍の守る二俣城を攻略するため、本陣を敷いた城である。しかし発掘調査の結果では、もう少し築城年代が遡る可能性が指摘されており、当初から二俣城と別城一郭的な関係で使用されていたと考えられている。いずれにしても、鳥羽山城が明確に歴史上に姿を表すのは二俣城攻防戦の時である。1575年5月の長篠・設楽ヶ原の戦いで、勝ちにはやる武田勝頼は、織田・徳川連合軍を強攻して大敗し、信玄以来の多数の重臣を失った。この戦いを境として、遠江での攻守は逆転し、間もなく徳川家康は二俣城を奪回する為、鳥羽山城・毘沙門堂砦・蜷原砦・和田ケ島砦といった付城群を築いて、二俣城を完全包囲した。中でも鳥羽山城には本陣が置かれ、重臣の大久保忠世を置いて守らせた。兵糧攻めに遭った二俣城が、7ヶ月後に落城すると、鳥羽山城は歴史の表舞台から姿を消すが、廃されることなく存続して順次拡張されたらしい。徳川氏の関東移封後は、二俣城と共に豊臣秀吉の家臣堀尾氏の持ち城となり、この時期に大きく整備されたと考えられている。特に鳥羽山城は、発掘調査の結果、幅6mの大規模な大手道や庭園遺構が確認され、迎賓館的な位置付けで使用されたものと推測されている。

 鳥羽山城は、天竜川が大きく蛇行した部分に半島状に張り出した台地上の鳥羽山に築かれている。城址は現在、鳥羽山公園に変貌しているが、遺構は良く残っている。特に主郭周囲の土塁や虎口付近の石垣(大手門、搦手門など)、主郭周囲の腰曲輪、笹曲輪、腰巻き石垣など、公園化されながらも往時の面影を色濃く残している。また、主郭・ニノ郭の西側に連なる尾根には、2つの中規模の堀切が明瞭に残り、更にその先の尾根を貫通する車道も、往時の巨大堀切であったらしい。この巨大堀切は、更に東側の大堀切と共に深さ15~20m程もある絶壁状の薬研堀で、往時からこの規模であったとすれば八王子城太鼓曲輪の大堀切に匹敵する巨大さである。本当に元々この規模の堀切であったのか、やや疑いも残るが、いずれにしてもかなりの大堀切であったことは間違いない様だ。公園化でかなり整備されている割には、十分楽しめる城址である。
堀切→DSC06620.JPG
DSC06662.JPG←大手門の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.858221/137.805709/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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