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高天神城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04242.JPG←堂ノ尾曲輪の横堀と腰曲輪
 高天神城は、武田軍玉砕の城であり、武田氏滅亡を決定付けた城である。難攻不落の要衝として知られ、戦国期には「高天神を制する者は遠州を制す」と言われた程重要な拠点であった。

 その創築は、室町時代に今川氏によって築かれたと言われる。今川氏没落後は、遠江に進出した徳川家康の持ち城となり、その家臣小笠原長忠が城主となった。1571年、武田信玄は2万余の軍勢を率いて遠江に侵攻し、高天神城を攻めた。しかし城主小笠原長忠は2千騎を以って守りを固め、軍監大河内政局・武者奉公渥美勝吉以下500騎と遊軍170騎が本丸に籠り、武田勢は高天神城を攻めきれず撤退した(近年の研究では、この戦いは誤伝であるとされる)。信玄が病没すると、その子勝頼は1574年5月、再び2万余の大軍を率いて高天神城を包囲した。小笠原長忠は、匂坂牛之助を密使として家康の元に走らせて救援を請うたが、後詰を約束した家康は頼みの織田信長の援軍が遅れたため、結局軍勢を出さず、長忠は激戦の末、勝頼の開城勧告を受け入れて降伏した。勝頼は城の攻略を優先して城兵の寛大な処置を約束し、開城後に城兵は、武田方に降る者と徳川方に残る者と東西に分かれて退去した。大河内政局のみは捕らえられても勝頼に服さず、怒った勝頼は政局を土牢に幽閉した。その後勝頼は、城番に横田甚五郎尹松を置いて城を守らせ、尹松は政局の義に感じて政局を密かに厚く持て成したという。
 翌75年、長篠合戦で大敗した勝頼は劣勢となり、徳川家康に西から徐々に蚕食されて諏訪原城も陥落し、高天神城は徳川領東部沿岸域に孤立した突出点となった。家康は、高天神城に対抗する拠点として馬伏塚城を築いていたが、1578年、前進基地として大須賀康高に命じて横須賀城を築城した。翌79年、勝頼は猛将岡部丹波守真幸(元信)を城将とし、横田尹松を軍監とした。同年10月、家康は高天神城の周囲に6つの砦(小笠山砦獅子ヶ鼻砦中村砦能ヶ坂砦火ヶ峰砦三井山砦)を築き、武田方の後方支援を遮断して完全包囲し、翌年には更に城の間近に砦を構えて兵糧攻めとした。1581年には、北条・徳川と東西を敵に挟まれた勝頼は余力がなく、高天神城の後詰を諦め、城からは家康に向けて降伏の申し出があった。しかし家康から報告を受けた織田信長は、「降伏を受け入れれば遠江は簡単に奪回できるが、計画中の武田攻めのために高天神城の降伏を許すな」と厳命した。降伏も許されず、10ヶ月に渡る兵糧攻めで飢えに瀕した城兵は、1581年3月22日夜半、大将岡部真幸・軍監江馬直盛以下残兵800が二手に分かれて敵勢に突撃し、激闘の末全滅した。横田尹松は、「犬戻り猿戻り」の険から抜け出て甲府に逃れた。武者奉行孕石元泰は捕らえられ、入城検視に来た家康の命で、旧怨を以って誅殺された。土牢から救出された大河内政局は、長期の幽閉で歩行困難となっていたが、家康は過分の恩賞を与えて労をねぎらい、津島の温泉で療養させた。こうして家康は、遠江における武田方最大の拠点を攻略し、以後高天神城は廃城となった。
 そして、高天神城を見殺しにした勝頼は家中の信望を失い、1582年、織田信長が大軍で武田征伐を行うと、武田家臣団は大した抵抗もせずに逃亡または投降し、総崩れとなって、新羅三郎義光以来の甲斐源氏の名門武田氏はあっけなく滅亡した。

 高天神城は、小笠山山系の南端の近く、標高132m、比高100m程の高天神山に築かれた山城である。尾根が東に張り出した先端に築かれており、H字形になった二つの尾根にまたがって築城されている。東の峰に本丸や三ノ丸を構え、東西を繋ぐ鞍部を介して西の峰に西ノ丸や二ノ丸を置いた、一城別郭の縄張りとなっている。大手は南東部にあり、駐車場から登って行くと、東峰の曲輪群を最初に巡ることになる。登り口の左手には、段々に曲輪が築かれ、その上に着到櫓の曲輪があって、大手門を防御している。それらの曲輪群の上部に広い三ノ丸があり、周囲を低い土塁で囲んでいる。三ノ丸の先には緩斜面の曲輪が続いた後、急峻な崖の上に御前曲輪がそびえ、真ん中に一段高い元天神社を挟んで、北側に広い本丸が築かれている。本丸も低い土塁で囲まれ、北側には食い違い土塁の虎口を置き、そこから西側下方に的場曲輪などの広い腰曲輪が数段築かれている。これら東の曲輪群は、基本形は平易な連郭式である。そこから西の鞍部の井戸曲輪を経由して西の曲輪群に繋がっている。西の曲輪群は最上部には西ノ丸(丹波曲輪とも言う)を置き、その北に二ノ丸、更に北に堀切を介して堂ノ尾曲輪・井楼曲輪を連ねている。二ノ丸の、西ノ丸直下には浅い横堀が残るが、数本の畝が見られ、畝堀であったらしい。二ノ丸は外周に横堀や腰曲輪を備え、北側には袖曲輪を介して堂ノ尾曲輪・井楼曲輪と連なっている。それぞれ堀切で分断されており、この部分だけは西側に長い横堀・腰曲輪による防御線を構築している。しかし丸子城のものほど技巧的ではなく、割りと平易な構造である。西ノ丸の更に西には堀切を介して馬場平があり、その先は横田甚五郎が逃れたという甚五郎抜け道の一騎駆けが繋がっている。西ノ丸の南側にも物見台とされる細長い曲輪群が連なり、2本の堀切や三重竪堀が見られる。西の曲輪群は東の曲輪群と比べると、横堀や堀切が効果的に構築され、築城法に違いが見られる。
 高天神城は、さすがに長い籠城戦に耐えた要衝だけあって、広く見所が多いが、横堀も堀切も中規模で、丸子城ほどの技巧性はない。しかし全体に遺構はよく整備されており、歴史的重要性も高く、必見の城であろう。
二ノ丸の畝堀→DSC04166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.698629/138.035643/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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ノリパ

一度いって見たいです!横堀、畝堀、凄い。攻城戦に耐えたお城ですか、いつか行かなきゃ。
by ノリパ (2013-06-16 16:58) 

らんまる

小生も昨年秋に念願叶って訪問しましたが、ご指摘の通り大雑把な作りの城かと・・(笑)

端から端まで見て歩いて、土砂崩れで通行禁止の場所も自己責任で徘徊してました・・(汗)
武田勝頼が後詰めを諦めた為に人心の離反を招き滅亡に至った原因となった高天神城・・よりも小笠山砦に感動しました(爆)
なんせ周囲は相変わらず茶畑ばかりで、位置がイマイチ把握出来ておりません。
横須賀城から高天神城方面?さっぱりわかりません。田舎のネズミは不滅です(笑)

信州人が天下を盗れない道理は明白ですね・・(汗)


by らんまる (2013-06-16 21:47) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
やっぱり山城は、薮のない冬場に行くのがベストです。
今度の冬にでも、ぜひご訪問を。
by アテンザ23Z (2013-06-16 23:23) 

アテンザ23Z

>らんまるさん
小笠山砦は、全く期待していなかったので、
予想外の遺構群にびっくりしました。
これでもかこれでもかと、次々に遺構が現れてきます。
高天神城も中々ですが、
家康の執念を感じる小笠山砦の方が、格が上でしょうか。
by アテンザ23Z (2013-06-16 23:48) 

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