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小夜の中山古戦場(静岡県掛川市) [その他の史跡巡り]

DSC04858.JPG←名越邦時を葬った鎧塚
 小夜の中山は、箱根と並ぶ東海道の難所と言われた峠である(「佐夜の中山」とも書く)。交通の要所を押さえる高地であったため、度々合戦の舞台となった。最も有名なのは、南北朝時代の合戦である。1333年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を始めたが、失政相次ぎ、諸国の武家だけでなく公家からも怨嗟の声が上がった。そんな中の1335年7月、執権北条氏の残党が北条高時の遺児時行を奉じて大規模な反乱を起こした。いわゆる中先代の乱である。挙兵した北条家残党は鎌倉奪還を目指して瞬く間に関東を席巻した。この時鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向けたが、女影原では岩松経家や渋川義季(直義の妻の兄)が戦死。府中では、下野の名族小山秀朝が一族家人数百人と共に討死するという事態に陥った。そして直義が自ら軍勢を率いて井出の沢で時行勢を迎え撃ったが、激戦の末ここでも足利勢は敗れ、直義は鎌倉府の主の成良親王を京都に逃げ延びさせ、自身は兄尊氏の妻登子と嫡男千寿王(後の義詮)と共に三河まで落ち延びた。この後、時行勢は鎌倉を占領したが、後醍醐天皇の聴許を待たずに東下した足利尊氏率いる足利勢は、三河矢作宿で直義と合流すると、遠江の橋本の戦いを皮切りに、小夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川、鎌倉口と東海道7つの要害戦を一度も落とさず進撃し、たちどころに時行勢を追い散らして鎌倉を取り戻した。時行が鎌倉を保つこと20日余り。故に中先代の乱は二十日先代の乱とも呼ばれる。小夜の中山合戦は、足利尊氏が北条時行の軍勢を打ち破ったこれらの戦いの一つであった。

 小夜の中山合戦では、足利一門で海道軍の大将の一人であった今川頼国(今川範国の兄、今川了俊の伯父に当たる)が北条一族の大将名越太郎邦時を打ち取った。頼国は、討死した邦時の武勇を讃え、この地に塚を作って葬ったと言われ、「鎧塚」として現在に残っている。この他にも周辺には史跡が多く、なかなか見所が多い。峠付近は公園になっており、西行の歌碑が建っている。また関ヶ原合戦の前、会津の上杉討伐に東下する途中の徳川家康を、掛川城主山内一豊が茶亭を設けてもてなしたと伝えられる久延寺や、その時水を汲んだという「御上井戸」も残っている。

 静岡に来たことがほとんど無かった私は、東海道はてっきり海岸近くや平地の街道だとばかり思っていたが、途中には山も多く起伏の多い街道であったことがよくわかった。殊に小夜の中山峠付近は、難所と言われるだけあって急坂の道が続き、車のなかった昔は、多くの旅人や軍勢を苦しめたことであったろう。思うに、小夜の中山合戦は高地の争奪戦だったようである。小夜の中山には、その地名のなんとも言えぬ風雅な響きが好きで、以前から一度は来てみたいと思っていた。茶畑の中を続く旧東海道の小道は、ここを西に東にと多くの武将たちが通ったかと思うと、何とも感慨深い。
一豊が家康をもてなした茶亭跡→DSC04898.JPG
DSC04874.JPG←公園頂部からの眺望

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815318/138.096074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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