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大浦城(青森県弘前市) [古城めぐり(青森)]

DSC08419.JPG←本丸西側の堀跡
 大浦城は、津軽氏発展の礎となった城である。1491年に種里城主となった南部光信は、1501年、西根城を改修して大浦城と改称し、養子の盛信を入れて津軽平野に勢力を伸長した。盛信は大浦氏を称し、光信の死後、その跡を継いだ。以後、政伸・為則・為信と続き、大浦城は大浦氏歴代の居城となった。1571年、弱冠21歳の為信は、居城の大浦城を拠点とし、支城の堀越城を足掛かりとして、津軽統一を目指して挙兵した。強敵石川城の郡代南部高信を討ち、その日の内に高信麾下の猛将和徳讃岐の拠る和徳城も一挙に攻め滅ぼした。その後、次々と敵を攻め滅ぼし、1588年、最後まで残った飯詰城を攻め落として、17年に渡る津軽統一事業を成し遂げた。その後、大浦氏から津軽氏に改称した為信は、豊臣秀吉に臣従して南部氏から独立した大名として認知され、所領を安堵された。1594年、領内統治と南部氏に対する備えから居城を堀越城に移すと、大浦城は主城としての役目を終えた。その後、津軽藩2代信枚が弘前城を築城すると、大浦城の建物などを移築し、大浦城は廃城になったと推測される。

 大浦城は、後長根川を天然の外堀とした平城である。現在は、本丸跡に津軽中学が建てられ、二ノ丸は宅地や校庭に変貌し、西ノ丸は耕地化しており、市街化で遺構は少ない。しかし、本丸南辺の切岸や櫓台、本丸西側の堀と櫓台がはっきりと残っている。国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真では、二ノ丸の外堀や本丸と二ノ丸の間の横矢の掛かった内堀がはっきりと確認でき、西ノ丸の輪郭も明瞭である。これらの遺構の大半が失われてしまったのは非常に残念であるが、市街化で失われていると思っていた遺構が、一部とはいえここまではっきり残っているとは嬉しい誤算だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/40.618261/140.414296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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