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戸倉城(静岡県清水町) [古城めぐり(静岡)]

DSC00736.JPG←石積み跡
 戸倉城は、小田原北条氏の築いた駿豆国境の境目の城の一つである。その創築は、戦国時代前期の北条氏2代氏綱の頃と言われている。氏綱の時代には、駿河今川氏との間に「河東一乱」と呼ばれる激しい抗争があり、戸倉城も最前線の防衛拠点として築かれたものだろう。1568~71年に掛けて、甲斐の武田信玄が今川氏を滅ぼして駿河を併呑すると、戸倉城は北条・武田両軍の争奪の場となり、北条氏康は一族の北条氏堯を戸倉城に入れて守らせた。氏康の死後、甲相同盟が成立し和睦したのも束の間、越後上杉氏の家督争いである「御館の乱」を巡って、北条氏政は武田勝頼と再び対立することとなり、北条・武田両軍の間で、駿豆国境を挟んで再び戦闘が繰り返されることとなった。1580年、勝頼は沼津三枚橋城に本拠を置いて戸倉城を攻撃した。翌81年には、氏堯の家臣で戸倉城主となっていた笠原新六郎範定(北条家筆頭家老松田憲秀の次男)は、武田氏の誘いに乗って武田方に寝返り、城は武田氏の手に移った。北条氏政は、戸倉城奪還の為、度々兵を出して城下で交戦した。1582年に武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、戸倉城は再び北条氏の手に帰し、以後、北条氏滅亡まで続いた。1590年の小田原の役の際には、北条氏は戸倉城を放棄して韮山城に退いた。以後廃城になったと伝えられている。

 戸倉城は、狩野川屈曲部に西から張り出した、標高75m、比高65mの本城山に築かれている。東の山頂部に主郭と腰曲輪群を置き、西に伸びる尾根筋に狭小な曲輪を連ねた城で、間の大きな鞍部を天然の堀切として分断した、基本的に一城別郭の縄張りの城である。主郭の東尾根と南尾根には腰曲輪・段曲輪が置かれているが、薮が酷く遺構がわかりにくい。主郭の西側は鞍部の大堀切で、二重堀切とされているが、自然地形に近い。この近くにある金比羅神社周辺には石積み跡や、矢穴の跡の残る石があり、尾根上の櫓台などにも石積みが散在し、石積みで防御されていた城らしいことが伺われる。この他、櫓台らしい土壇が尾根筋に残り、小規模な堀切も残っている。
 現在は本城山公園となっており、公園だから遺構確認も楽勝だと思っていたが、予想外の藪城で、遺構の探索に苦労した。
西尾根筋の堀切→DSC00760.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.095275/138.898764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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