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龍野古城(兵庫県たつの市) [古城めぐり(兵庫)]

DSC03567.JPG←豪快な竪堀
 龍野古城は、単に龍野城とも、或いは鶏籠山城とも呼ばれ、1499年、播磨守護赤松氏の庶流で塩屋城主赤松政秀が、幼い村秀の為に築いた戦国期の山城である。その後、龍野赤松氏4代78年の歴代の居城となった。赤松広秀が城主の時の1577年、天下統一を目指す織田信長の部将羽柴秀吉は、播磨平定に出陣し、2万の大軍で揖保川まで攻め寄せた。広秀は一度は籠城戦を覚悟したが、赤松家の滅亡を惜しんで戦わずして秀吉に降り、広秀は後に但馬竹田城主となった。赤松氏の退去した龍野城は、秀吉の支配下となり、豊臣秀吉の時代には蜂須賀正勝・福島正則など、錚々たる秀吉幕下の大名が城主を歴任した。徳川の時代になると、播磨一国は姫路城主池田輝政の所領となり、龍野城には城代が置かれた。慶長年間(1596~1615年)の石川光元時代か、或いは元和から寛永年間(1615~43年)にかけての本多政朝か小笠原長次時代に龍野城は麓に移され、以後近世城郭としての山麓の龍野城が龍野藩主の居城となり、龍野古城は廃されたと思われる。

 龍野古城は、城山城がそびえる亀山(きのやま)の尾根筋の最南端が東に張り出した、標高218m、比高178mの鶏籠山に築かれている。山頂部に本丸を置き、尾根の鞍部を挟んでその南の小高い部分に二ノ丸を置いている。二ノ丸の周囲には、多数の腰曲輪群が前衛の防御を担い、土塁や横堀で更に防御性を高めている。西側山腹を落ちる竪堀は、山頂から山麓まで落ちる非常に豪快なもので、南側に竪土塁を伴い、この竪土塁は下方でL字状に曲って段曲輪の土塁に連結する構造を取っている。これによって竪堀側から城内への侵入を食い止めようとする意図がわかる。山上部の主要な曲輪では、桝形虎口や動線の屈曲が明瞭で、中道子山城と同様、中世城郭の完成形と言っても良い。城内には、石垣の残欠が散在しているが、崩落しているものが多く、麓の龍野城に転用された可能性もあるだろう。尚、本丸と二ノ丸の間の鞍部には馬場状の広く平坦な曲輪が広がっている。赤松氏の城郭では、白旗城置塩城も全く同じ構造で、鞍部の曲輪で城域を分断した一城別郭構造は、赤松流の築城術の様である。城内は下草なども整備され、登山道も完備しており、地元の人もトレーニングで登っている親しまれる山城である。
石垣の残欠→DSC03497.JPG
DSC03425.JPG←土塁を伴った腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.872711/134.544936/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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