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備中福山城(岡山県総社市) [古城めぐり(岡山)]

DSC08581.JPG←土塁上に残る石列
 備中福山城は、南北朝時代に、太平記に名高い備中福山合戦が行われた地である。後醍醐天皇の建武の新政から離反した尊氏は、京都争奪戦に敗れ、続く兵庫でも敗北して、1336年2月、九州に落ち延びて再起を図った。尊氏は官軍の西進を防ぐため、予め各国に足利一門や味方の有力武家を配置しておいた。官軍の総帥新田義貞はその術策にはまり、播磨の土豪赤松円心の籠る白旗城に釘付けとなり、虚しく50余日を空費した。その間に頽勢を立て直した尊氏は大軍を率いて西上を始めた。5月5日、備後鞆の津に着いた尊氏は、大軍を海陸2軍に分け、自身は大船団を率いて瀬戸内海を東に向かい、弟直義に高師泰・少弐頼尚らを先陣とした陸上軍を率いさせた。既に尊氏は、光厳上皇の義貞討伐の院宣を受けた官軍であった。士気・兵力共に勝る直義の軍勢は、新田一族の大井田氏経の拠る備中福山城に迫った。直義は5月16日、朝原峠より攻撃を開始した。城兵は善戦したが多勢に無勢で17日に落城し、城将大井田氏経は囲みを打ち破って三石城に逃れた。直義はここで兵を休息させ、首実検をして諸将の戦功を賞したと言う。この序戦で快勝した足利勢は、約1週間後の5月25日、摂津湊川の戦いで新田義貞を破り、楠木正成を敗死させた。こうして時代は室町幕府の樹立へと大きく動いてゆくことになった。

 備中福山城は、南北朝時代の城らしく素朴な造りの城である。南北に長い尾根上に、削平された曲輪を5つ連ねた縄張りで、堀切はなく、切岸付近に石列を伴った土塁が残っている。一部にはわずかに横堀らしき跡も残っている。曲輪は広く、門跡・井戸跡なども残るが、全体に削平が甘くあまりはっきりしない遺構で、やはり南北朝期の城と言う感じの造りである。城の築かれた福山という山自体が、峻険さの乏しいなだらかな山容で、ここに城を築くのは物見以外の用途では無理がある。それゆえ戦国期には利用価値がなかったと思われ、支峰に新たに幸山城が築かれたのであろう。とはいえ、太平記にも大きく一項を割いて記載された城であり、歴史的に重要である。
門跡の石積み→DSC08554.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.646307/133.759757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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