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新井城(神奈川県三浦市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC02561.JPG←主郭周囲の土塁
 新井城は、相模の名族三浦氏の滅亡の地である。三浦氏は、桓武平氏の一流で、坂東八平氏の一である。平安時代後期に衣笠城を本拠として三浦半島を支配下に収め、源頼朝の挙兵に従って功績を挙げ、鎌倉幕府の重臣となった。しかし1247年、宝治合戦で執権北条氏に敗れてほとんど族滅したが、わずかに一族の佐原氏だが北条方に付いて生き残り、佐原盛時が三浦氏を再興した。その後、南北朝の動乱を足利方に付いて生き抜いた三浦氏は、扇谷上杉氏の重臣となって勢力を拡大した。新井城が築かれたのは、南北朝時代の頃であろうと推測されている。新井城は2度の合戦の舞台となった。一度目は、1494年、新井城主三浦時高と扇谷上杉氏からその養子に入った三浦義同(後の道寸)の戦いである。一度は義同に家督を継がせようとした時高は、晩年になって実子が生まれると、義同を廃嫡しようとした。武将としての器量に優れていた義同の元には、多くの三浦氏家臣が付き従い、遂に新井城を攻め落として養父時高を滅ぼした。二度目の合戦は、1512~16年にわたる伊勢宗瑞(北条早雲)の三浦氏討滅戦である。養父時高を滅ぼして実力で家督を継承した道寸は、新井城に嫡子弾正少弼義意を置き、自身は岡崎城に入って勢力の拡大を図った。しかし謀略を以て小田原城を奪取した伊勢宗瑞は相模平定戦を開始し、三浦氏と激突した。1512年、岡崎城を猛攻で攻め落とした宗瑞は、逃げた道寸を逐って住吉城も攻略し、道寸は子の義意と共に新井城に立て籠った。堅城の新井城を短期で攻め落とせない宗瑞は持久戦を取り、新井城を包囲する一方、玉縄城を築いて扇谷上杉朝興の援軍を断ち切った。3年にわたる籠城戦の末、1516年、兵糧の尽きた道寸・義意父子は城門を開いて討って出て壮絶な最後を遂げ、ここに名族三浦氏は滅亡した。三浦氏を討滅した宗瑞は相模一国の平定を完了し、小田原北条氏5代100年の礎が築かれた。この後、新井城は北条氏の持ち城となった。

 新井城は、油壺湾に望む標高30mの三浦半島の突端に築かれた城で、周囲を断崖に囲まれた要害に築かれている。現在城跡には油壺マリンパークや東大地震研究所が建ち、改変を受けているが、思いの外に良好に遺構が残っている。特に本丸跡とされる地震研究所の周辺や敷地内にはかなり規模の大きい土塁や横矢の掛かった見事な空堀が残っている。ただ敷地内には入れないので外回りから眺めるしかないのが残念である。また、東の台地基部(「内の引橋」と呼ばれる)には堀切跡も明瞭に残っていて、そこを塞ぎさえすれば敵の攻めこむ隙のない、難攻不落の要害であったことがよくわかる。北の断崖上には、物見台の小郭があり、三浦道寸の墓が建てられている。この物見台の横は深い堀切となっている。この他、城から東に3km程離れた所にも引橋があり、その両側は天然の深い堀切となっており、城の大手を守る外敵防御の第一線であったそうである。尚、新井城の地形は、度重なる大地震で隆起している為、戦国期とは異なるらしいことを付記しておく。
主郭の空堀→DSC02545.JPG
DSC02515.JPG←引橋

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.160214/139.612552/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【引橋】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.164126/139.642400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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