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竹之下古戦場(静岡県小山町) [その他の史跡巡り]

DSC04913.JPG←古戦場碑
 竹之下古戦場は、南北朝時代に行われた日本の歴史上重要な古戦場である。1333年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を始めたが、失政相次ぎ、諸国の武家だけでなく公家からも怨嗟の声が上がった。そんな中の1335年7月、執権北条氏の残党が北条高時の遺児時行を奉じて大規模な反乱を起こした。いわゆる中先代の乱である。挙兵した北条家残党は鎌倉奪還を目指して瞬く間に関東を席巻した。この時鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向けたが、女影原では岩松経家や渋川義季(直義の妻の兄)が戦死。府中では、下野の名族小山秀朝が一族家人数百人と共に討死するという事態に陥った。そして直義が自ら軍勢を率いて井出の沢で時行勢を迎え撃ったが、激戦の末ここでも足利勢は敗れ、直義は鎌倉府の主の成良親王を京都に逃げ延びさせ、自身は兄尊氏の妻登子と嫡男千寿王(後の義詮)と共に三河まで落ち延びた。この後、時行勢は鎌倉を占領したが、後醍醐天皇の聴許を待たずに東下した足利尊氏率いる足利勢は、三河矢作宿で直義と合流すると、遠江の橋本の戦いを皮切りに、佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川、鎌倉口と東海道7つの要害戦を一度も落とさず進撃し、たちどころに時行勢を追い散らして鎌倉を取り戻した。時行が鎌倉を保つこと20日余り。故に中先代の乱は二十日先代の乱とも呼ばれる。

 この後、尊氏は後醍醐天皇の帰京命令に従わず、鎌倉に腰を落ち着けてしまった。その為、同年11月、後醍醐は新田義貞に足利討伐を命じた。尊氏はこの時、弟直義に足利勢の統帥権を譲り、自らは恭順の意を示すため鎌倉の浄光明寺に蟄居した。尊氏の将高師泰は、防衛線と定めた三河矢作川で義貞軍を迎え撃って敗退し、続いて直義が駿河手越河原で迎撃したが、これも敗れて、足利方の将士は箱根山中の水呑を掘り切って要害を構え、最後の抵抗を試みようとした。足利一門の命運も風前の灯と知った尊氏は、直義と一門を助けるため出陣を決意し、鎌倉に予備兵力として残していた小山・結城・長沼諸氏の軍勢を率いて鎌倉を出立した。

 後世、優柔不断と揶揄されることの多い尊氏であるが、竹之下合戦に於いて、名将たるに違わず、その戦術家としての才を遺憾なく発揮した。即ち、箱根に籠って義貞本軍に追い詰められた味方の救援に向かったのではなく、大きく北に迂回して足柄峠を越え、義貞勢の搦手軍である脇屋義助の軍勢に夜明けの奇襲攻撃を掛けたのである。一宮尊良親王を奉じた義助軍は、この側面からの奇襲攻撃に狼狽し、崩れたって敗走しつつ反撃を続けた。翌日、義助軍が引き退いた竹之下の南の佐野山に主戦場が移り、引き続き合戦が行われた。その中で、大友左近将監貞載が足利方に寝返り、この乱戦の中で親王を防ぎ戦った公卿大将の二条為冬は討死した。戦闘3日目になると、足利勢は箱根の陣を引き払って退却してきた義貞本軍と伊豆国府(三島)で戦い、畠山安房入道が戦死するものの義貞勢を駆逐した。竹之下合戦とは、この3日間に渡って繰り広げられた、竹之下から三島までの南北25km程に及ぶ広い範囲での戦い全般を指す。敗れた義貞は、富士川を渡って敗走した。

 これ以後、時代は南北朝分裂の時代に突入することとなり、この戦いは建武の新政を事実上瓦解させ、尊氏による室町幕府樹立へと時代を大きく転換させる画期となった。

 場所:【石碑】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334698/138.979164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

 竹之下付近には、竹之下古戦場碑以外にもこの合戦にまつわる史跡が数多く残る。

<竹之下合戦供養塔>
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 竹之下堀之内館跡とされる興雲寺の境内に、竹之下合戦の戦死者供養塔と古戦塚が建てられている。近年建てられたもので真新しく風情はないが、今でもこの地に700年前の歴史が息づいていることがわかる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.336168/138.976010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<釜澤>
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 湧き水があり、官軍が兵糧を炊いた場所と言う。すぐ南隣にあしがら温泉があるので目印になる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.328168/138.973843/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<陣場>
陣場に残る堀状地形→DSC04926.JPG
 官軍の先手が布陣した場所と言う。背後の山林の中に堀のようなものがあるが、陣場の遺構であろうか?

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326400/138.973671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<千束橋>
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 官軍が退く際に橋を落としたので、足利軍が薪を千束入れて橋の代わりにして渡ったところと言う。足柄駅近くの小さな橋である。解説板の文字が消えかかっているので何とかして欲しいところ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.333805/138.980817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<合士ヶ窪>
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 官軍の二条為冬が錦旗を立てて残軍を集めた場所と言う。県道149号線沿いの畑に解説板が建つ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.338339/138.977276/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<有闘坂>
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 脇屋義助が防戦した場所と言う。坂道に標柱が建つのみで解説はない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334015/138.976847/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<白旗神社>
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 足柄古道の麓近くに建つ。尊良親王が鮎沢川を下って落ち延びるのを見届けた二条為冬は、この地で74人の将兵と共に自刃したと言う。但し、この伝承は梅松論の記載とは異なる。梅松論では、二条為冬は前述の通り翌日の佐野山の戦場で討死したとされる。為冬は、この時代の和歌の大家で二条派の総帥二条為世の末子であった。尊氏の朋友でもあり、尊氏は為冬の首を召し寄せて見て、深く嘆いたと言われている。おそらく隠然たる新政の実力者でありながら、その勢力故に公家たちから何事にも「尊氏なし」と言われて排斥されていた尊氏にとって、数少ない心許せる公家の友人であったのだろう。和歌を好んだ尊氏と、連歌の会でも催していたものであろうか。尚、白旗神社の社殿右手に二条為冬の墓が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.348893/138.982812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

<渡り上り>
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 二条為冬が退陣する際、川を渡って所領部落に向かった場所とされる。鮎沢川に架かる橋の袂に解説板が立つ。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341787/138.980945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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