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河村城(神奈川県山北町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC04820.JPG←茶臼郭から見た畝堀と小郭
 河村城は、足柄平野の西北端に築かれた山城である。河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。南北朝期には、河村氏は松田氏と共に南朝方の新田氏に協力し活躍するが、北朝方の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治と共に河村城に籠城した。1352~53年にかけて鎌倉府執事(後の関東管領)の畠山国清を主将とする足利勢と干戈を交えるが、南原の戦いで敗れ、義興・義治らは中川城を経て甲州に逃れたと「太平記」に記載されている。南原合戦後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれたと考えられる。戦国時代、丹沢方面から相模に侵攻を繰り返した甲斐武田氏への備えとして、北条氏は足柄方面の各城と共に小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間(1570~73年)には河村城の補強を行った様である。その後、武田氏との間で争奪戦を繰り返し、1590年の小田原の役で落城し、廃城になったと考えられる。

 河村城は、主郭を中心に三方に曲輪を連ねた縄張りで、曲輪間を掘切で分断している。その縄張り自体は珍しくもないが、河村城で特筆すべきは堀切に作られた見事な畝である。北条氏のハイテク築城技術の特色の一つである畝堀は山中城のものが有名であるが、この河村城のものも中世城郭研究家の間ではよく知られている。この畝堀が顕著なのは、主郭~小郭~茶臼郭の部分であるが、馬出郭~西郭~北郭の堀切も発掘すれば畝があるのだろう。現状ではこちらの部分の堀切には畝は見ることができない。また主郭の東側には、蔵郭・近藤郭・大庭郭等の大きな曲輪が連ねられているが、近藤郭と大庭郭の間の大堀切にも畝が確認されている様である。ただ蔵郭の先は現在発掘整備が進められているため、シートなどで覆われていてはっきりと遺構を確認することはできない。また、大庭曲輪はミカン畑となっており私有地らしいので、史跡としての整備はされないかもしれない。いずれにしてもまだ史跡整備中の為、あと数年して整備が完了したら再度訪問してみたい。河村城の畝堀は必見の貴重な遺構である。
発掘整備中の大庭郭大堀切→DSC04878.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.355141/139.077333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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コメント 2

ねじまき鳥

ここにも畝堀はあったのですね。流石北条の城。
by ねじまき鳥 (2011-05-11 20:47) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
北条のすごい城は、これだけにとどまりません。
まだまだたくさんありますので、お楽しみにしてください。
by アテンザ23Z (2011-05-12 20:28) 

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