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観音寺城(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

DSC02782.JPG←主郭北側の空堀
(2010年12月訪城)
 観音寺城は、来次城とも言い、奥州の古代名族清原氏の後裔を称する来次氏の居城である。来次氏は来次出雲守時衡が祖とされ、時衡は清原氏の一族として後三年の役で清原家衡・武衡と共に戦ったが、勝算なしとして戦列を離れて出羽羽黒山に入山し、山伏となったと言う。時代は下って戦国中期には、時衡より20代目の氏房が武士として再興を図り、下山して常禅寺に入り、やがて観音寺城西麓の平地に居館(古楯と言う)を築いた。氏房の子時秀は、平地居館の古楯では防備が弱い為、東の山腹に観音寺城を築いたと言う。時秀の子氏秀は、文武両道に秀でた知将と言われ、尾浦城の武藤(大宝寺)義氏、山形の最上義光、越後の上杉景勝による庄内争奪戦に巻き込まれることとなった。氏秀は武藤氏に従っていたが、義氏は強引な領国経営が祟って、最上氏の後援を受けた前森蔵人らの挙兵を招き、1583年に尾浦城で自刃した。この後、庄内は最上氏の支配下に入ったが、1588年、上杉景勝の意を受けた本庄繁長は庄内に侵攻し、十五里ヶ原で最上勢に大勝し、庄内を制圧した。来次氏秀も本庄氏を通じて上杉氏の家臣となって観音寺城を預かった。その後氏秀は、小田原の役の際にも上杉勢に参加し、文禄の役でも上杉氏に従って九州まで出征した。1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝ち、徳川方に付いた最上氏が上杉氏に対して優位に立つと、翌年最上義光は青沢越えから観音寺城に迫った。最上勢の降伏勧告を受けた氏秀は、観音寺城を去って上杉氏の米沢移封に同行して米沢に移ったと言う。この後、元和の一国一城令で観音寺城は廃城になった。

 観音寺城は、山腹の平地に築かれた複郭の城で、主郭と二ノ郭から構成されている。主郭と二ノ郭は空堀で分断され、主郭には空堀に沿って土塁と櫓台が築かれている。この空堀は天然の沢を利用したらしく、南側斜面に近づくにつれて深く大規模なものとなっている。二ノ郭背後にも空堀があり、これに沿ってやはり土塁が築かれている。主郭には石積みらしき跡が散見され、畑として利用された後世の改変かと思ったが、日本城郭大系によればこれも遺構らしい。主郭も二ノ郭も内部は数段の平場に分かれており、主殿や倉などの区画に分かれていたと考えられる。また主郭の西斜面と南斜面には腰曲輪が築かれて、防備を固めている。単純な縄張りではあるが、空堀はなかなか豪快で見応えがある。
主郭内に見られる石積み→DSC02838.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.973106/139.947635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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