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平井城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02427.JPG←復元された本丸東側の空堀
 平井城は、関東管領を世襲した山内上杉氏の居城である。上杉氏は、室町将軍となった足利氏の外戚で、上杉氏の隆盛の基礎を築いた上杉憲房は足利尊氏の母方の伯父(母の兄)に当たる。憲房は、尊氏の挙兵からこれに従ってよき相談相手となり、1336年の京都争奪戦では尊氏を庇って討死を遂げた。その長子憲顕は鎌倉府の義詮、基氏の執事となって、後に初代関東管領となった。以後、関東管領職は上杉四家(山内・扇谷・詫間・犬懸)が相次いで襲ったが、途中からは山内上杉氏の系統のみがこれを世襲することとなった。1438年、鎌倉公方足利持氏は関東管領山内上杉憲実と不和となり、永享の乱が勃発した。平井城は、この時に上杉憲実の命で蒼海城主の総社長尾忠房が築城したと考えられている。その後、山内上杉氏を継いだ顕定によって、1467年に改修を受けたとされる。この時、詰城に当たる金山城も築城された様である。山内上杉氏は、その後も結城合戦・享徳の乱・長享の乱と打ち続く関東動乱の中心であり続け、それが伊豆・相模に討ち入った伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)に付け入る隙を与え、小田原北条氏の勃興を助けることとなった。北条氏は、2代氏綱・3代氏康と着々と勢力を拡張し、1546年の河越夜戦で一気に山内・扇谷両上杉氏の勢力を南関東から駆逐し、山内上杉憲政は平井城に敗走して逼塞を余儀なくされ、1552年遂に北条氏康に城を陥とされ、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元に逃れて援助を求めた。その後、平井城は北条氏の支配下に置かれた。1560年、長尾景虎は関東に出兵して平井城を奪還したが、間もなく破却したと言う。この後、景虎は小田原城を包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領職に就任し、上杉氏の名跡を譲られて上杉政虎と名を改めたことは、よく知られている通りである。

 平井城は、鮎川西岸に築かれた崖端城で、五角形の本丸とその西に二ノ丸とささ郭、北側に三ノ丸と総郭を連ねていた。現在は宅地化・耕地化によって遺構はほとんど湮滅している。しかし県道沿いに本丸土塁が復元され、本丸の東端には虎口・空堀・腰曲輪・竪堀・土橋が発掘復元されている。各曲輪は空堀によって分断されていたが、現在堀跡はほとんど湮滅している。しかしよく見ると、わずかにそれらしい痕跡が散見される。また県道沿いに幾つも標柱が立ち、平井城の歌とか永享の乱の歌など、不思議なものが平井城資料展示所に掲げられている。かつての一時期、この地が関東の中心であったが、今では思い浮かべられるよすがもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.219271/139.030437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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