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石倉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02842.JPG←かつての外堀跡の道路
 石倉城は、1485年に上野守護代の蒼海城主総社長尾忠房の嫡子憲景が築城した城である。憲景は1512年の新井城の戦いで戦死し、三男長景が城主となった。1563年、武田信玄が西上野に進攻すると、長景は厩橋城の守りについたが、留守となった石倉城を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。1565年には越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還したものの、翌66年、再度信玄に攻め取られ、信玄の重臣で保渡田城主の内藤修理亮昌豊親子が城将を兼帯した。その後、昌豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条(きたじょう)丹後守高広に降り、その家臣寺尾左馬助(石倉治郎)がこれを守った。1590年の小田原の役では、松平修理太夫康国率いる徳川勢の進攻に対し、寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。康国はこの戦いで討死し、弟の松平新六郎が一千余騎で猛攻を掛け、左馬助以下残る城兵は城を枕に討死し、石倉城は落城したと言う。
 尚、この歴史は、現地の石碑に記されたものに拠ったが、日本城郭体系では1565年に信玄が築いた城とされ、小田原の役の際の落城の経緯も異なったものが書かれており、どちらが正しいのかは分からない。

 石倉城は、総社城などと同じく利根川西岸に築かれた崖端城で、利根川の浸食によりかつての本丸跡はかなり崩壊してしまっている。梯郭式に近い囲郭式の城で、本丸の周囲に二ノ丸があり、二ノ丸の西側外周を三ノ丸で囲んでいたようである。現在は市街化によって遺構は完全に湮滅し、わずかに二の丸公園や外堀公園にその名を残すだけである。しかし国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真によると、耕地の中に本丸や二ノ丸周囲の堀跡が見られ、最も明瞭に残っているのは外郭の外堀であった。現在の外堀公園東側に隣接する道路が、この外堀跡だったようだ。戦国後半の関東三国志の渦中の城も、今ではすっかり市街化の中に埋没してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.3.30.5N36.23.22.2&ZM=9
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