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高知城(高知県高知市) [古城めぐり(高知)]

DSC01774.JPG←堀切に掛けられた詰門
 高知城は、現存12天守の一つで、土佐藩山内家の歴代の居城である。元は大高坂城と言い、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて、南朝方として戦ったと伝えられている。戦国末期の1588年、岡豊城に本拠を置いた土佐の戦国大名長曽我部元親は、新たにこの地に築城を開始して居城を移したが、城下が低湿地の為水害に悩まされて、3年程で浦戸城を築いて移った。1600年、関ヶ原合戦の戦功により土佐を与えられて入部した山内一豊は、浦戸城が南に偏し、土地が狭く城下町の建設に適さない為、徳川家康の許可を得て新たに大高坂城の故地に築城を開始した。城の名を高知城と改め、以後、土佐藩の居城として幕末まで存続した。尚、1727年に火災の為、山上の建造物は悉く焼失し、1753年迄掛けて元の姿に再建された。

 高知城は、西国の有力な外様大名の居城らしく、大きな規模を持った平山城である。追手の枡形や櫓門を始め、本丸の詰門・本丸御殿・天守・黒鉄門など、遺構は全体によく残っている。特に本丸の全ての建築物が残る唯一の城で、本丸御殿は規模こそ小さいものの現存例の稀有な貴重なものである。比較的狭い本丸を持った平山城の御殿とは、本来この程度のものだったのだろう。面白いのは、天守に窓からの視界(射線)をふさぐ屋根が見える部分があり、設計に無理があるようだ。太平の世になってからの改変によるものであろう。

 また詰門は、一見それとは分かりにくいが、よく見ると本丸と二ノ丸を分断する堀切上に掛けられた渡り廊下であることがわかる。おそらく築城当時は、現状見られる2階建ての建築物ではなく、彦根城などに見られる様なただの木橋だったのではないだろうか?頑丈な建物にしてしまっては、堀切による敵兵の遮断効果が用を成さなくなるからである。近世の平山城で、これ程本丸~二ノ丸間の分断を明確に意識した縄張りは、そう多くないと思う。一豊入部当時の不穏な土佐情勢を反映したものであろうか。

 本丸・二ノ丸・三ノ丸は言うに及ばず、それ以外の曲輪も全周を見事な反りを持った高石垣で防御しており、御台所屋敷跡には古風な野面積みの石垣も残っていて情緒を感じさせる。また雨の多い高知城は、石垣に雨樋がうまく造られており、三ノ丸ではその構造を解説している。また三ノ丸には、発掘された長曽我部時代の石垣も展示されている。なかなか見所の多い名城である。
天守から見た三ノ丸→DSC01832.JPG
DSC01923.JPG←台所屋敷跡の野面積み石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E133.32.2.4N33.33.26.3&ZM=9
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