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檜原城(東京都檜原村) [古城めぐり(東京)]

DSC07487.JPG←東斜面の長大な竪堀
 檜原城は、奥多摩に築かれた山城である。源平合戦で名高い平山季重の後裔の平山氏の居城であったと言われている。1416年に上杉禅秀の乱が起こると、平山三河入道は鎌倉公方の足利持氏方として武州南一揆を率いて活躍し、その戦功により持氏から檜原谷を与えられて、禅秀残党の甲斐武田氏に対する押さえの城として檜原城を築いたと言う。その後、小田原北条氏が武蔵を制圧すると平山氏はその傘下に入り、檜原城は北条氏の支城となって、甲斐武田氏に対する警衛の城として重視されたと思われる。その証拠に、檜原城を起点とする北条氏の狼煙台ネットワークは、戸倉城網代城戸吹城と経由して、緩やかな弧を描いて滝山城まで通じている。しかし1569年の武田信玄による小田原侵攻の際には武田勢はこの地を通らず、本軍は碓氷峠から武蔵を南下し、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠を越えて滝山城に侵攻した為、この城が攻防の的となることは無かった。1590年の小田原の役の際には、城主の平山伊賀守氏重が守っていたが、八王子城落城後に八王子城代の横地監物らの敗残兵と共に籠城して前田利家・上杉景勝らの北国勢と戦った。しかし衆寡敵せず7月12日に落城し、平山氏重、氏久親子は城下で自害した。北条氏滅亡後、廃城となった。

 檜原城は、標高449m比高170mの峻険な山上に築かれた城である。吉祥寺から登る登山道はなかなか斜度がきつく大変である。登山道の途中では山腹をぶち抜く長い竪堀を見ることができる。この長大な竪堀は、一直線ではなく湾曲している。大手道を登り切ると二ノ郭下の腰曲輪に至るが、ここから二ノ郭に登る虎口は明確に屈曲して横矢を駆けている。山上の遺構は、その規模・縄張は詰城そのもので、小規模な主郭の北側に3段の段曲輪と堀切を介して最も広い二ノ郭が連なっている。この堀切が起点となって、前述の長い竪堀が東側斜面を遥か下まで伸びている。二ノ郭の北側斜面にもいくつかの段曲輪と2つの堀切が続いている。主郭の背後の南尾根には3つの堀切が連なっていて、その両側に浅くなった竪堀が続いている。戸倉城と同程度の規模であるが普請はよりしっかりしており、この城の重要性を感じさせる。小規模ではあるが、武蔵、ひいては関東防衛の要として重視された城である。
主郭前面の段曲輪群→DSC07504.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.8.48.2N35.43.22.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=354335&l=1390837
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コメント 2

fuzzy

以前に「戦国関東血風録」を読んでいますとコメントしました、アテンザさんの訪ねた後北条氏の城とリンクしていますので、記事を楽しく読ませて頂いています。後北条・武田・上杉の関係は、本当に面白いですね(読んでいる本では既に武田滅亡・信長誅殺にいたっています)
by fuzzy (2010-04-07 14:51) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
ちょうどfuzzyさんが読んでいらっしゃる小説の舞台と重なるとは、奇遇ですね。
今にして思えば、北条から養子入りした景虎を破った上杉景勝が、北条氏に引導を渡すのに一役買ったのは、天命だったのでしょうか。
by アテンザ23Z (2010-04-07 17:55) 

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