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鎌倉史跡巡り その3(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

 稲村ヶ崎に続く、鎌倉巡り2日目の足跡である。

<十一人塚>
DSC03512.JPG
 現地解説板に拠れば、新田義貞の鎌倉攻めの際、新田氏の一族である大館宗氏は極楽寺坂の切通しから府内へ攻め込んだが、幕府方の反撃に合い、宗氏以下11人、稲瀬川で討死にしたと言う。十一人塚は、その11人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を弔った場所と伝えられている。
 しかし大館宗氏が攻め込んだのは極楽寺坂切通しではなく、稲村ヶ崎であるとも伝えられ、はっきりしていない。いずれにしても化粧坂を攻めあぐねていた義貞の眼が南に向いたのは、宗氏の突破があったからであろう。切通しからでは幕府方の防備が厳しく、少数の兵での突破は難しかったであろうから、ここでは宗氏が突破したのは稲村ヶ崎ということにしておきたい。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.31.36.0N35.18.2.8&ZM=9

<極楽寺坂切通し>
 極楽寺坂切通しは、新田義貞が攻めた鎌倉の3切通しの一つで、大館宗氏、江田行義らがこの方面の大将となって、幕府方の将大仏貞直と対陣していた。一時的ながら大館宗氏が府内突入を果たしたのは、上述の通り稲村ヶ崎ではなくこの極楽寺坂切通しであったともされる。
 現在、切通しは拡幅されて車道が通るが、その両側は岩盤の絶壁となっていて、往時の様子が目に浮かぶようである。江ノ電の極楽寺駅も、駅舎の素朴な雰囲気が素晴らしい。
DSC03518.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.5.4N35.18.21.8&ZM=9

<鎌倉公方邸跡>
DSC03522.JPG←鎌倉公方邸の石碑
 鎌倉公方は、足利尊氏の次男基氏を初代とする室町幕府鎌倉府の長である。基氏を鎌倉府に置くに当たっては、京の将軍の過ちを正す唯一の押さえとして、関東の諸武家と共に日本国の守護たるべしとの尊氏と直義の合議があったと、今川了俊の難太平記に記されている。しかしその時期は、観応の擾乱の序章、直義が将軍家元執事の高師直のクーデターによって政務から引き摺り下ろされる時であったので、直義が他日の為に打った布石と考えられる。直義派の上杉憲顕が鎌倉府執事となったのがその証左である。以後、基氏の系統が代々鎌倉公方となったが、将軍尊氏の血を引くと言う貴種性とその自尊心から、初代の基氏を除いて、代々の鎌倉公方は室町将軍に対して極めて反抗的な態度を取った。5代成氏は関東管領上杉憲忠と対立、これを謀殺し、ついに享徳の大乱を引き起こし、自身の出陣中に鎌倉が幕府・関東管領方に押さえられると、下総古河に落去し、以後古河公方と称された。
 鎌倉公方邸は、古河に移座するまでの鎌倉公方の歴代の居館であった。現地に建つ石碑に拠れば、元々源頼朝開幕時の足利氏当主義兼の居館であったと言い、以後鎌倉時代を通して有力御家人足利氏の歴代の居館であったと言う。ということは、若き日の尊氏も、それを温かく見守っていた父貞氏も、ここに住んでいたということである。現在は、完全に住宅地と化していて往時の面影は無いが、そう思うとなかなか感慨深い。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.34.36.2N35.18.58.3&ZM=9

<犬懸上杉氏邸跡>
 犬懸上杉氏は上杉氏の主流4家の一つである。朝宗の子で関東管領となった上杉禅秀(氏憲)は、鎌倉公方足利持氏と対立し、「上杉禅秀の乱」を起こした。この乱は関東諸将を二分する抗争となったが、後に鎮圧され、禅秀は鎌倉雪ノ下で自害して乱は集結した。関東戦乱の序章となった騒乱であった。
 この犬懸上杉朝宗・禅秀の居館が犬懸上杉氏邸跡で、金沢街道から一本南に入った田楽辻子に面したところにある。現在は住宅地となり往時の面影はないが、滑川沿いにあり、天然の堀としていたようだ。
犬懸上杉氏邸の石碑→DSC03547.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.34.10.6N35.19.2.3&ZM=9

<源頼朝邸跡・頼朝墓>
DSC03554.JPG←源頼朝邸の石碑
 源頼朝邸は、一般には大蔵幕府跡と呼ばれている。かつては鶴岡八幡宮の東側一帯に広がっていた広大な邸宅であったと言う。もともと頼朝の私邸であったものに政庁機能が付加されていったと言うことで、大蔵幕府というよりも源頼朝邸と言う方が正しいのだそうだ。
 また頼朝の墓は、源頼朝邸から北に200m程の山中にある。頼朝の落胤を称する島津氏が江戸時代に建てたものである。更にここから東の山中に分け入ると、大江広元などの墓がある。これは大江氏の後裔である毛利氏が、同じく江戸時代に建てたものである。
 さてここで、思い掛けない事が起こった。友人達と墓を見ながら話していたら、側にいた人が急に墓の解説をしだしたのである。話の内容から推察すると、どうも大学かどこかの先生らしい。中世の墓が専門だとのことで、この日は墓の修復に来ていたそうである。大蔵幕府跡が、より正しくは源頼朝邸と呼ぶべきと言うのは、この方のご教示による。その他にも、かつての頼朝邸の大きさや石碑の土台の亀石の話など、いろいろな話をして頂いた。明治時代の陸軍作成の鎌倉古地図を取り出して、その正確さから、維新政府に引き継がれた旧幕府官僚の優秀性についても言及されていた。なんと鎌倉全域をわずか6日間で現在とほとんど変わらぬ正確な測量をし終えたそうだ。ただこの方、話し出したら止まらず結局1時間近くも話を聴くことになってしまったのは誤算。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.51.8N35.19.16.4&ZM=9

<鎌倉宮・大塔宮墓>
 大塔宮護良親王は後醍醐天皇の第2皇子で、1331年の元弘の変以降、叡山の僧兵や畿内の武士を率いて倒幕戦を繰り広げ、2年近くにわたってゲリラ戦を展開し続けた勇猛な皇子である。楠木正成や赤松円心(則村)の倒幕戦も、基本的には大塔宮の令旨によって動いていた。1333年、倒幕が成り建武の新政が始まると、足利尊氏を公家一統への大きな障害と見て対立し、信貴山に籠ったままなかなか入京しようとしなかった。ようやく父後醍醐の説得を聞き入れて入京し、晴れて念願の征夷大将軍に宣下されるも、尊氏や、後醍醐の寵妃でわが子を皇太子にしようと画策する阿野廉子と対立し、結局政争に敗れて捕らえられた。謀反と認定されざるを得ない企てがあったとされる。捕縛された大塔宮は、尊氏の弟で東国の押さえとして鎌倉に下向していた直義の元に送られて東光寺に幽閉された。1335年に中先代の乱が生起し、直義率いる軍勢が鎌倉最後の防波堤である井出の沢で敗れると、直義は大塔宮が北条方に利用されることを恐れ、家臣の淵辺義博に命じて宮を殺害させた。
 鎌倉宮は、この大塔宮を祀った神社で明治維新後に建てられたものである。ここには大塔宮が幽閉されていたとされる土牢があるが、これは完全な誤伝で、実際は堂宇内に幽閉されていたようだ。また御構廟(おかまえどころ)と言う、淵辺義博が大塔宮の首を置いたとされる場所が残る。鎌倉宮から真東に300mの山上には、大塔宮の墓がひっそりと立っている。
伝大塔宮の土牢→DSC03589.JPG
DSC03602.JPG←大塔宮の墓所
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.34.25.3N35.19.21.9&ZM=9

<覚園寺>
 覚園寺は、2代執権北条義時が建てた薬師堂が前身の寺である。1354年に足利尊氏によって再建された。寺僧による定時の案内でないと拝観はできないので、敷居が高く感じるが、閑静な古寺の雰囲気は最高である。薬師堂には仏像などが多数並び壮観であるが、それ以上に私の印象に残ったのは、堂の天井に尊氏謹書の棟札があったことである。自筆らしいので、これだけでも尊氏ファンとしては感涙ものである。尊氏の足跡は鎌倉の至る所に残っているものだと改めて感じた。
DSC03604.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.34.3.3N35.19.40.1&ZM=9

<北条執権邸跡>
DSC03629.JPG←宝戒寺門前の石碑
 鎌倉幕府は源頼朝に始まる3代の将軍の血筋が絶えると、その実権は執権の北条氏に移った。その邸跡は宝戒寺にある。宝戒寺は、北条氏の屋敷跡にその菩提を弔う為に後醍醐天皇の命で足利尊氏が建立したものである。残念ながら遺構は無い。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.40.4N35.19.8.2&ZM=9
タグ:墓所 居館
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コメント 4

fuzzy

鎌倉への攻め口は、当然切通しを考えますから、防御策は厚くされていたでしょう、稲村ケ崎は攻め口としては非常に考えづらい拠点だったので鎌倉突入を容易に許すことになったのですね。現在の鎌倉は墓所や所縁の寺社やは残っていますが、幕府政庁などは全く残されていないのは残念です。

by fuzzy (2010-02-10 14:43) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
やはり戦乱で焼けてしまったのでしょう。
小田原北条氏勃興後は、小田原が本拠になってしまいましたので、
再建されなかったのでしょう。
京都と似たようなものですね。
by アテンザ23Z (2010-02-10 18:45) 

ノリパ

な~るほど・・・、めっちゃ勉強になります。
by ノリパ (2010-02-14 17:54) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
古都っていうのは、どうしても争奪の地となるので、
戦乱でみんな焼けてしまいますね。
by アテンザ23Z (2010-02-21 21:14) 

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