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難波田城(埼玉県富士見市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC01319.JPG←復元された曲輪と水堀
 難波田城は、難波田氏館とも呼ばれ、武蔵七党の村山党の難波田氏が築いた城である。村山党の中心であった金子氏は承久の乱で小太郎高範が討死したが、その恩賞としてその子孫に難波田の地が与えられて入部し、以後難波田氏を名乗った。南北朝期に足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱では、難波田氏は直義側につき、羽祢蔵合戦で難波田九郎三郎が高麗経澄と戦って討死したが、戦国期になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣となって活躍した。しかし1546年の河越夜戦で小田原北条氏に敗れて討死し、以後難波田氏は北条氏の家臣となり、難波田の地は松山城の上田氏に与えられた。こうした変遷の中で、当初は小規模な居館であったものが、大々的な改修を受けて城郭として整備されたと考えられる。そして1590年の小田原の役で北条氏が滅びると、難波田城も廃城となった。
 難波田城は、湿地帯に浮かぶ水城の典型で、本丸は宅地化して湮滅しているが、周囲の曲輪(城域の南1/4程度)は復元整備されてかつての姿を再び取り戻している。以前は水田となって城の姿はほとんど消えていたようなので、発掘の成果に基づいて土塁などはほとんど創作したものと思われるが、これはこれで城址復元の一つのあり方として評価できると思う。復元された曲輪は馬出しや腰曲輪のためいずれも小さいが、全域を復元できればそこそこの規模にはなるのだろう。同じ水城でも岩槻城忍城のような壮大な規模の城とは比べるべくもないので、実際の城郭としての防御性がどの程度あったのか疑問に思わないでもないが、土豪クラスの城とは、本来この程度のものだったのだろう。その他では、宅地ではあるが天神曲輪がおぼろげにその姿を残し、堀跡も明瞭である。
 全体の一部ではあっても見事に城址を復元させた富士見市の史跡整備の姿勢は、素晴らしいと思う。
天神曲輪と堀跡→DSC01369.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.34.13.1N35.51.17.2&ZM=9
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コメント 4

fuzzy

城でなく、大規模な館跡の部類でしょう、当時の面影を感じさせ、よく整備されているようです。好い所ですね。

by fuzzy (2009-11-28 14:03) 

ノリパ

行政の心意気がイイですね。あまり痕跡が分からなくても、
誰かが整備してくれなければ、ホントに消え去るだけですもんね。
by ノリパ (2009-11-28 18:14) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
館と城の区分は、学術上もどうも明確ではないようです。どこまでが館で、どこからが城になるのか・・・。
私個人としては、単郭の平城・平山城は館、複郭のものは城と定義しています。複郭のものは、大抵は単郭居館から発展した形態と思われるからです。この定義だと、難波田城は居館から発展した平城ということになります。一応、これが私の解釈です。
by アテンザ23Z (2009-11-29 04:04) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
ほとんど観光などには寄与しないと思われる城郭整備に、わざわざお金をかけて、正しい歴史考証に基づいて実行したことは、この自治体の見識の高さを示すものと思います。
埼玉県は全体的にこういう史跡整備に熱心な自治体が多く、不熱心な栃木県に住んでいる私から見ると、羨ましい限りです。
by アテンザ23Z (2009-11-29 04:09) 

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