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大多喜根古屋城(千葉県大多喜町) [古城めぐり(千葉)]

DSC01043.JPG←大多喜城本丸から見た根古屋城
                                      (中央の丘陵地)
 大多喜根古屋城は、上総に入部した真里谷武田氏が支城網の一角として築いた平山城である。後に築かれた大多喜城の北方、平野のただ中にある独立小丘陵に築かれた。1521年、真里谷城主の武田信興は、安房里見氏の侵攻に備えて、次男信清に大多喜根古屋城を築城させた。その後、3代にわたって武田氏の支城網の一角を成したが、武田氏は一族内部の抗争で勢力が弱まり、里見氏に組する正木大膳亮時茂が東上総に侵入して大多喜根古屋城を手に入れた。以後、大多喜根古屋城は正木氏の歴代の居城となり、万喜土岐氏との攻防で勇名を馳せるなど、正木氏は里見氏の強力な藩屏として活躍したが、1590年に小田原北条氏が滅び、関東に入部した徳川家康が本多忠勝に房総諸城の攻略を命ずると、大多喜根古屋城も落城して正木氏は里見氏の下に退去し、代わって本多忠勝が入城した。忠勝は、根古屋城の防備の薄さを危惧して、家康の許可を得て新たに大多喜城を築いて移り、大多喜根古屋城は廃城となった。

 大多喜根古屋城は、現在ほとんど全て住宅地になってしまい遺構は湮滅しているが、水田地帯の真ん中に浮かぶ独立丘陵という地勢は、城の名残を伝えている。城の南東端の丘に城跡碑が建っているようだが、この丘も改変を受けているので、旧状を偲べるものはなさそうだ。この日は大多喜城から遠目に眺めて終わりにした。

 それにしてもいくら中世城郭とは言っても、里見氏に組して戦国大名的な勢力を持っていた正木氏の本拠にしては城郭の規模が小さく、やや疑問を持たないではないが、かつては周囲の平地に二ノ丸に相当する「手後丸」が置かれるなど、現状見られる丘陵地よりかなり広い城域を持っていたようなので、妥当なところであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.292822&lon=140.240148&z=16&did=std&crs=1
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コメント 2

fuzzy

城と名の付く物にも、しっつかりとした城郭と砦的要素の物がありますね、陪臣の城はあくまでも砦・出城の位置付けなのでしょう。
南総里見氏は、なかなかの武家でした武田・北条に果敢に挑んだのですからね。(元は新田一族からの支族で源氏の血が勇猛なのでしょうか)
by fuzzy (2009-11-17 10:25) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
北条ファンの私の側からすると、あれほど強大だった北条氏が里見氏を攻め切れなかったのが不思議でなりません。背後には佐竹氏も控えていたので、うかつに動けなかったのかもしれませんが。それにしても三船山の敗戦は痛かったです・・・。
by アテンザ23Z (2009-11-17 18:26) 

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