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五十子城(埼玉県本庄市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC10215.JPG←本丸~二ノ丸の空堀跡
 五十子(いかっこ)城は、享徳の大乱の際に、古河公方足利成氏に対して関東管領山内上杉房顕が築いた陣城である。永享の乱、結城合戦と動乱の続いた関東平野にも、ようやく平和の兆しが見えたかと思った矢先、永享の乱で滅んだ鎌倉公方足利持氏の遺児であった成氏は、鎌倉府が再興されて鎌倉公方の座に座ると、父と同様に関東管領と対立するようになった。そして、ついに1454年、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。以後30年にわたる享徳の大乱の始まりである。成氏は関東を転戦している間に鎌倉を占領された為、下総古河に本拠を移し、初代古河公方となった。古河公方の勢力と関東管領の勢力は、丁度利根川を挟んで対峙しており、利根川中流域を押える為の要衝として築かれたと考えられる。五十子城はその重要性から、陣城とは言いながら20年もの長きにわたって重要な位置を占め、長尾景春の乱でも戦場となった。しかし、景春の乱で関東管領の勢力が一時的に後退した際、五十子城は放棄されたと言う。
 五十子城は、中世関東の歴史に大きな足跡を残す城であるが、現在では遺構の大半が破壊され、往時の面影はほとんどない。しかし、小山川と女堀川の合流点の段丘上に築かれた要害の地で、城を築くにふさわしい地勢であったことが伺われる。「北武蔵城郭フォーラム」で引用する「秩父路の古城址」の縄張図に拠れば、昭和20年代ぐらいまでは本丸と二ノ丸の間の空堀なども良好に残っていたようであるが、その後の国道17号線建設や工業団地の建設によって、ほとんど失われてしまっている。それでも民家の横に、空堀跡が断片的に残っていて、ここが城であったことをわずかに物語っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229095/139.216583/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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