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長谷堂城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

DSC07509.JPG←本郭周囲の腰曲輪
 長谷堂城は亀ヶ城とも言われ、山形盆地の南西端にある比高80m程の城山に築かれた平山城である。築城時期は定かではないが、1514年に伊達稙宗が「最上と戦って長谷堂を陥す」と伊達文書にあるのが資料上の初見で、それ以前に城砦が築かれていたと考えられる。そしてこの城が現在に残る勇名を馳せるのは、1600年の慶長出羽合戦の時である。

 上杉討伐の為、下野小山まで進軍していた徳川家康が、石田三成の挙兵の報に接して軍を反転させると、上杉景勝は西上する前に後顧の憂いを断つ為、宿敵最上氏の打倒に乗り出した。総大将は重臣の直江山城守兼続で、兼続が直率する本軍は2万と伝えられる。米沢城を発して、荒砥城を経由して狐越街道より山形城を目指した兼続は、2日間の激戦の末、畑谷城を抜き、更に軍を進めて山形城の最終防衛線である長谷堂城の攻略に取り掛かった。最上方の城将は最上四天王の一人志村伊豆守光安、副将は鮭延越前守秀綱で、将兵1000を率いて籠城。これより約半月にわたる激戦が繰り広げられた。光安は名将の名に恥じぬ戦振りで、終始上杉勢を翻弄し、上杉方は上泉主水、岩井備中、松本杢之助らの猛将が討ち死にする大難戦であった。そして、関ヶ原での西軍の敗報が届くと攻守ところを変え、撤退する上杉勢に最上勢が猛攻を掛ける事となった。しかし、後代まで語り継がれる兼続の見事な撤退戦で、最上義光が兜に銃弾を浴びる程の激戦となり、最上勢も深追いを避けて軍を収めた。この、強敵上杉勢を東北の地に釘付けにした大功により、最上義光は出羽・庄内57万石の大大名となったのである。

 長谷堂城の築かれた城山は、平地の中にぽつんとたたずむ独立丘陵で、遠くから見ると本当に亀の形に見える。山の形状は、彦根城によく似ている。全山公園化され、神社の造営や遊歩道の整備に伴って若干の改変を受けているようだが、遺構はよく残っている。本郭を中心にして無数の帯曲輪、腰曲輪を持ち、大兵力の籠城が可能であったことがわかる。しかしその一方で、竪堀・横堀・土塁などの防御構造は、あるにはあるが非常に少ない。殊に竪堀に至っては、はっきりそれとわからないほどである。ところがこの城は、戦国期の平山城には珍しく、周囲の平野部を本沢川から導水した水堀で囲んだ、総構えを持った城であったようである。現在この総構えは宅地化で湮滅しているが、山形市が一部を発掘復元している。こうした城郭構造と、長谷堂城が周囲を一望に見渡せる絶好の陣場でもあり、しかも周囲は深田であったことを考え合わせると、抜群の防御性を発揮していたのだろう。

 思うに直江兼続は、来るべき西上戦のことを考えて兵の消耗を避けた為、なかなか陥せなかったのではないだろうか?もしくは、見るからに一揉みで潰せそうな小城であったが故に、返って油断したのかもしれない。桶狭間での今川軍もそうであったが、あまりに兵力差のある大軍であると、返って兵が油断し、脆くなるものである。

 縄張としては単に無数の曲輪を連ねているだけであまり面白味はないが、歴史的に重要な城であり、街中に近く行きやすいので是非見て欲しい城である。ちなみに、時まさに「天地人」で取り上げられる絶好のタイミングでもあり、新たに駐車場も新設され、城の随所に解説板も設置されている。山形城の復元整備など、山形市は史跡整備に熱心で本当に偉いと思う。
二重横堀→DSC07462.JPG
DSC07536.JPG←復元された総構えの水堀
長谷堂城遠景→DSC07556.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.21259&lon=140.272389&z=16&did=std&crs=1
nice!(4)  コメント(2) 

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コメント 2

ノリパ

池波正太郎先生の密謀の最後で出てきました。
さっき読み直しました。上杉方は、上泉泰綱をこの
攻城戦で亡くした、とありました。激戦の場所ですね。
行きたいですね。
by ノリパ (2009-07-14 22:56) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
池波正太郎さんの小説でも取り上げられてたんですね。
上泉主水が討ち死にした場所には、
主水塚というお墓が建立されています。
by アテンザ23Z (2009-07-16 01:46) 

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