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松山城(埼玉県吉見町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC00348.JPG←二ノ丸周囲の堀
 松山城は、北武蔵の戦略上の要衝である。築城時期には諸説あるが、おそらくは関東戦国の只中、古河公方足利成氏と扇谷上杉氏が対立している頃に築かれたと見るのが有力な様である。その後、扇谷上杉氏被官の上田氏が長く城将を勤めたが、河越夜戦で小田原北条氏が一気に南関東の覇権を握ると、時の上田家当主朝直も北条氏に帰服し、以後、北条氏麾下で松山衆という有力な軍事集団が組織された。その後、北条、上杉、武田三氏による関東三国志の動乱の渦中にあって、北武蔵争奪の中心として幾多の兵火に見舞われることとなった。最終的には1590年の小田原の役で松山城も上杉景勝・前田利家らの北国勢に攻められ落城した。その後、徳川家康の関東入封に伴って松平家広が松山城に入ったが、関ヶ原の論功行賞で松平忠頼が掛川に移封になると廃城となった。

 松山城は、吉見丘陵の先端に築かれた丘城で、三方を市野川に守られた要害の地であった。城の規模は大きく、丘全域に幾重にも深い堀をめぐらし、しかもそのいずれもが複雑に屈曲して横矢を掛けた見事なものである。以前に見てすごいと思った膳城は、この城を手本にして縄張りしたのではないかと思うぐらい、雰囲気がよく似ている。ただ松山城の方が曲輪間の高低差が大きく、本丸が厳重に防御され、より防御性が高いようだが、全体としてはなだらかな丘陵上に築かれているので、平地との高低差もさほど大きくはなく、要害性というよりも地域の統治拠点としての機能を重視したのかもしれない。現在は公園化され藪もほとんどなく、主要部の遺構はほとんど手付かずなので、非常に見易くありがたい。関東旧勢力による動乱から、北条氏滅亡までを見続けた由緒ある歴戦の城の一つである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.036676,139.420828&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(2) 
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ノリパ

こちらも松山城ですか。よくありますよね、同じ名前のお城が。
ここはあまり登らなくてすみそうですね。
by ノリパ (2009-03-29 19:21) 

アテンザ23Z

>ノリパさん

確かに松山城って名前の城は多いですね。
なんと言っても一番は、四国の松山城でしょう!
行きたいけど、遠い・・・。
by アテンザ23Z (2009-03-29 22:02) 

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