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長瀞本楯館(山形県東根市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3674.JPG←堀跡の水田
 長瀞本楯館は、最上氏4代満家の居館であったと推測されている。満家は長瀞殿と呼ばれており、隠居後に長瀞本楯館に移ったと考えられている。
 長瀞本楯館は、現在は微高地の果樹園となっている。かなり大きな城館で、南北に長い縦長の主郭の周囲には一段低い堀跡の水田がコの字型に明瞭に残り、主郭東側の塁線は中央がやや内側にへこんで、横矢掛かりの折れも見られる。特に解説板も標柱もないが、遺構は明瞭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.462713/140.359697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 作者: 伊藤 清郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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豊龍館(山形県朝日町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3585.JPG←主郭の現況
 豊龍館は、戦国期の鳥屋ヶ森城主岸美作守の館と考えられている。東五百川の大部分と山辺の一部を支配していたという。現地の石碑の碑文によれば、1494年、岸民部義忠が鳥屋ヶ森城主となりこの地を治め、その子孫が岸美作守義満で豊龍館に居住したらしい。前田沢楯と共に鳥屋ヶ森城の支城として機能したとされるが、支城と言うよりは平時の居館と言う方が相応しい様に思う。

 豊龍館は、最上川東岸に突き出た標高189.4mの舌状台地に築かれている。現在は豊龍の丘公園となって改変を受けている。台地の付け根から先端に向かうに連れて徐々に高くなり、先端の主郭部が一番高くなっている。主郭と東の平場の間は7~8m程の高低差がある。『山形県中世城館跡調査報告書』に「2本の空堀の一部が残る」とされるのがこの段差部らしいのだが、公園化による改変が多く、腰曲輪の様にしか見えない。主郭北端に土壇があり、櫓台か土塁の跡らしい。また主郭外周には帯曲輪が遊歩道に変貌して残っている。この他、主郭東の平場の周りに土塁状の土盛りがあるが、これは遺構ではないのだろうか?虎口っぽい地形もあり、非常に紛らわしい。立派な城址碑が建っているが、とにかく改変が多く、遺構としてはかなり不明瞭なのが残念である。それと、なぜか北側の眼下にダチョウ!が放し飼いされているのにはビックリした。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.304638/140.141945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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荒谷(阿谷)古戦場(山形県天童市) [その他の史跡巡り]

IMG_3464.JPG←古戦場碑
 荒谷(阿谷)古戦場は、南北朝時代に北朝方の幕将で奥州管領吉良貞家・貞経父子と南朝方の北畠顕信が会戦した場所である。1351年11月のことと言われる。この時期は室町幕府の大規模な内訌「観応の擾乱」の最中で、奥州の押さえである奥州管領(後の奥州探題)として下向していた畠山国氏・吉良貞家が足利尊氏派・直義派に分かれて争い、1351年2月に直義派であった吉良氏は、尊氏派の畠山高国 ・国氏父子を岩切城に攻め滅ぼしている。北畠顕信は、兄・北畠顕信が石津の戦いで敗死した後、奥羽を転戦して逼塞を余儀なくされていたが、この両派の抗争の隙を突いて再起し、荒谷(阿谷)等で吉良氏の軍勢を相次いで撃ち破ったと言う。一時は多賀城を奪還するまでに至ったが、しかしそれも束の間で、態勢を立て直した吉良氏の反撃を受け多賀城を失陥、1353年には宇津峰城も落城して、再び出羽に逼塞したと見られている。

 古戦場跡には現在北畠親房・顕信父子を祀った北畠神社が建てられている。境内には古戦場碑が建ち、往時の合戦の歴史を伝えている。それにしても、神社の由緒に「南朝の忠臣北畠顕信卿」「北朝の賊将陸奥探題吉良貞家・貞経父子」とあり、漆川古戦場の項でも書いたが、いい加減に皇国史観に毒せられた時代錯誤な解説文は書き改めて欲しいものだ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.314707/140.393965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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泉出城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3450.JPG←城跡付近に残るもとだて公園
 泉出城は、最上氏の庶流大極兼義の初期の居城である。兼義は、羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として山形に入部した最上氏の祖、斯波兼頼の子・直家の6男で、成沢の地に分封されて、1381年に泉出城を築いたと言われている。しかし、僅か2年後に成沢城を築いて居城を移したと伝えられている。
 泉出城は、須川と鳴沢川に挟まれた台地上に築かれている。現在城跡は完全に市街化され、遺構は完全に湮滅している。付近には的場・主屋敷・本舘(本楯)・稲荷堂等の地名が残っているらしいが、短期間の城館であったため、どの様な縄張りだったのかは全く不明である。僅かに「もとだて公園」と言う名前のみにその名残を留めているだけである。尚、もとだて公園の南東にやや離れて稲荷社があり、その由来に「山形城の護衛として本楯があったが、毎年の川の氾濫のたびに流域が変わり住民とともに困惑を見兼ねて、山形城主最上家の近親が荒川圭水の守り神として寄贈した」と記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.209371/140.314443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (織豊大名の研究6)

最上義光 (織豊大名の研究6)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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掛入石(山形県上山市) [その他の史跡巡り]

IMG_3385.JPG←国道脇の掛入石
 掛入石は、慶長出羽合戦にまつわる史跡である。古くから置賜と村山の領境を示す境石であった。往時は下部が窟となっていて、数十人も入ることができたと伝えられている。1600年の慶長出羽合戦の際、直江兼続率いる上杉勢は背後の憂いをなくすために置賜・庄内の2方面から最上領に大挙侵攻した。この内、置賜からの侵攻軍は畑谷城へ向かった主力軍とは別に、中山城の城将横田旨俊らに率いられた別働隊4000が、最上領との国境中山口から山形を衝くべく、上山城の攻略を目指した。これを迎え撃った最上勢は、上山城主里見民部及び山形からの援軍草刈志摩守を将とする軍勢で、果敢に攻撃を仕掛けて激戦の末に上山口の上杉勢を撃退した。この戦いの中で広河原合戦が行われたが、撤退した上杉勢はこの窟に潜んで、追ってきた最上勢を撃退したと伝えられ、その故事から「かくれ石」とも呼ばれていると言う。

 掛入石は、明治29年に奥羽本線敷設の障害となったため、ダイナマイトで割削されたらしい。しかし今でも大きな岩塊で、多くの祠と上山藩領境界石標が残っている。車がバンバン走る主要国道13号線の脇の下方に解説板と岩塊が人知れず立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.129122/140.221317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 作者: 伊藤 清郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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内小山の砦(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3291.JPG←砦跡の現況
 内小山の砦は、後閑館を防衛する砦である。後閑館の東側に隣接する台地の突端に築かれており、北端に堀切があるらしい。後閑館の脇から台地上に登る小道がある。現在砦跡の大半は畑となっており、北端部は山林となっている。おそらくこの山林内に堀切が眠っていると思うが、訪城したのがまだ草枯れの時期には早く、しかも民家の裏で丸見えだったので、それ以上の探索は諦めた。尚、『日本城郭大系』では「内小山」とは「内出」の誤写ではないかと推測している。確かに古文書ではありがちな、字の写し間違いの可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.684871/138.997757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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後閑館(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3275.JPG←館跡の土塁と石垣
 後閑館は、南北朝時代初頭に後閑次郎祐房が築いた居館と言われている。後に内小山砦(内出)を附加した。祐房以後、後閑氏は7代続き、1554年に民部泰良が亡くなると、その家系は娘婿の増田正雲斎が相続した。その後、1681年まで増田氏により庄屋職が継承されたと言う。
 後閑館は、利根川東岸の段丘上に築かれている。後閑集落の一角にある民家が館跡で、西側に石垣、北側に土塁が残っている。この土塁には虎口跡らしい切れ目があり、土塁内側は石垣になっている。北西の角に標柱が立っている。館跡奥の 増田堂というお堂の脇に解説板があったらしいが、見逃した。というか、民家の敷地なので無断では入れなかったと言うのが正しい。石垣は後世に積み直されていると思うが、館跡を囲っていることは明瞭で、しっかりした遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683443/138.997307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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天神城(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3255.JPG←城址の遠望
 天神城は、1557年に沼田万鬼斎顕泰が築いた隠居城である。しかしただの隠居城ではなく、血生臭い沼田氏の抗争の場となり、結局それが沼田氏滅亡の原因となった。万鬼斎は嫡男朝憲に家督と沼田城を譲り、朝憲は上杉方の部将として活躍していた。隠居した万鬼斎であったが、共に天神城に移っていた末子平八郎景義を溺愛し、その母親である側妾(重臣金子美濃守の妹。伝承では「ゆのみ」と言う名であったらしい)の願いを容れて景義を沼田家の当主にする為、1569年正月に朝憲を天神城で誘殺した。朝憲が殺されたことを知った朝憲の一族・家臣達は、万鬼斎父子を討とうと川場に押し寄せ、川場合戦となった。大雪の中で生品を中心に合戦が行われ、小勢の万鬼斎は敗れて、景義と共に会津蘆名氏を頼って落ち延びた。その後、万鬼斎は会津で客死し、景義は葦名氏の庇護を受けて沼田への復帰の機会を窺った。一方、城主を失った沼田城は、上杉謙信の関東経略の際の重要拠点であった為、上杉氏の支配下に置かれた。1578年に謙信が急死すると後継を巡って御館の乱が起こり、沼田城は北条氏の管轄下に入った。しかし1580年、沼田城将の藤田信吉は真田昌幸に通じて武田方に寝返り、沼田城は真田氏の管轄下に置かれた。1581年3月、由良氏の支援で女渕城主となっていた景義は、金山城主由良国繁の後援を受けて沼田城奪還を目指して攻め寄せ、高王山城に本陣を置いて沼田城を窺った。景義の伯父金子美濃守は藤田氏と共に沼田城にあって昌幸の麾下にあり、昌幸から恩賞を約束されて、景義を沼田城へ誘い出し謀殺した。この結果、13代に渡って利根沼田の盟主であった沼田氏は滅亡した。

 天神城は、薄根川と溝又川の合流点に突き出た段丘先端部に築かれている。城址は公園として整備されている。台地基部から城に向かって遊歩道が伸びているが、途中で大きく降った鞍部となっており、堀切の名残と思われる。城自体は狭い主郭だけの単郭の城の様であるが、城址石碑裏の碑文によると、明治の頃までは数倍の広さがあったが、その後の水害による崩落で現在の状況になったらしい。平場しか残っていないが、沼田氏滅亡の原因となった城として、歴史的に重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.682841/139.085219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


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勝山城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3240.JPG←解説板が建つ遊歩道
 勝山城は、1371年に赤松氏が築いたと言われている。その後1427年、赤松能亮の時に関口へ改姓したとされる。戦国前期の1525年、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年に武田信玄の上州攻めにより、箕輪城主長野氏が滅ぼされると、勝山城も武田勢の攻撃によって落城、廃城となった。江戸時代に入り、総社領主となった秋元長朝が総社城を築くと、勝山城の故地はその一部に取り入れられた。現在勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川の氾濫により崩落して消滅したと言う。

 勝山城は、現地解説板によれば元景寺の北西側一帯にあったらしい。外郭外周は全長4kmにも及んでいたらしいが、今は改変され尽くしてしまい、どのような縄張りだったのかもよくわからない。解説板は利根川沿いの遊歩道脇に建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417087/139.039493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


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大友氏館(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3047.JPG←境内に残る土塁らしき跡
 大友氏館は、川場館とも言い、南北朝時代には鎮西の三豪とも言うべき豪族で織豊期まで存続した戦国大名大友氏の所縁の城館である。特にキリシタン大名として有名な大友宗麟を輩出した大名として知られている。元々大友氏は、相模国足柄郡大友郷を本領としていたが、鎌倉初期には豊前・豊後守護職兼鎮西奉行となり、九州に本拠を移した。『日本城郭大系』には、大友刑部がこの館に住み、南北朝時代の1368年に新田義宗と戦って討死したと記載されており、館跡に建つ桂昌寺の解説板にも同様の記載があるが、これは史実とは見做し難い。大友氏が創建した吉祥寺のパンフレットによれば、川場村には大友氏6代貞宗の庶子即宗や8代氏時の庶子氏能など大友氏の係累が多く居住したとされ、それら大友一族の居館であったのが実態であろう。しかし大友氏と川場村の関係については、河波姫の伝説などに彩られており、実態は不明である。

 大友氏館は、桂昌寺周辺が館跡とされる。土塁が残っていると現地解説板にあるが、かなり改変されているらしく、どれが土塁跡なのか明確ではない。西には細流があって天然の堀となっていたほか、周辺にも水路が流れ、堀の名残を残している様である。また境内には大友氏時夫妻のものとされる墓が残っている。大友氏館は、偶々花が綺麗だということで吉祥寺に行ったところ、なんと大友氏所縁の寺であったことがわかったため、帰ってからネットで調べてみたらその存在がわかったため訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.700184/139.106591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

  • 作者: 八木 直樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/09/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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