So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
前の10件 | -

矢筒城(長野県飯綱町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5787.JPG←稜堡式のような三角形状の出桝形
 矢筒城は、北国脇街道と各街道が合流する要衝に築かれた、北信濃の拠点城郭である。1513年の越後守護代長尾為景の福王寺彦八郎宛の書状に記載された福王寺要害が矢筒城のことだと推測されている。この頃は福王寺氏が城主であったが、永禄~天正年間(1558~92年)にはこの付近は島津泰忠の本領であったとされ、島津氏が城主であったとも伝えられるが、天正年間(1573~92年)に福王寺氏の存在も確認されており、この間の状況は不明である。1582年、織田信長の武田征伐が始まり織田軍が信濃に侵攻すると、海津長沼両城に拠っていた武田勢は上杉景勝に援軍を要請し、景勝は上条宜順を主将とする援軍を直ちに派遣した。この時上杉軍は矢筒城で合流し、長沼城に入城している。また景勝は福王寺氏らに対し城を堅固にするよう指示しており、信濃に入った上杉軍を動員して城の修築がされたと考えられている。その後、武田勝頼・織田信長が相次いで滅亡すると、北信濃4郡は上杉氏の支配下に入り、矢筒城もその持城となって整備拡張された。その後の歴史は不明である。

 矢筒城は、標高566.6mの矢筒山というなだらかな山容の独立丘陵全体を城砦化した城である。町立飯綱病院の裏山がそれで、城内は公園化されているので比較的遺構が見やすい。なだらかな丘陵上に幾重にも曲輪を築いた多段式の城で、曲輪間は段差で区切られているだけで、堀切は見られない。切岸の一部に物見台のような土壇や内桝形の様な形状が見られる程度である。土塁も少ない。一部の段差部に石垣が見られるがわずかである。但し、大手虎口と思われる登り道脇や搦手道にははっきりとした石垣があり、虎口は石垣造りだったらしい。しかしいずれも低い石垣で、雑草が生えてくる時期には見辛くなってしまう程度である。一番はっきりしているのは主郭の南側腰曲輪にある石塁である。また主郭東側の腰曲輪から二ノ郭に通じる虎口には三角形状の小型の出桝形があり、まるで稜堡式の様である。幕末に何か使われることでもあったのだろうか?戦国~安土桃山時代の遺構だとすれば、かなり珍しいものである。この他、東側の山腹には横堀が延々と穿たれ、北西端でニノ郭先端から落ちる竪堀と繋がっている。尚、往時は飯綱病院の所に居館があり、その外周には外堀があったとされる。現在は車道になっているが地形は名残を留めている。城の南の車道脇には舟繋石の標柱が立っているが、他の方が撮った写真の様な石はなく、どこかに持ち去られてしまった様だ。以上の様に矢筒城は、縄張としては単に無数の曲輪を連ねているだけであまり面白味はないが、織田信長の武田征伐とも関係した歴史的には重要な城である。その様な点も含めて出羽長谷堂城とよく似た印象の城である。
二ノ郭から落ちる竪堀→IMG_5724.JPG
IMG_5806.JPG←南腰曲輪の石塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749459/138.233414/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/24
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

替佐城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5575.JPG←堀切から落ちる大竪堀
 替佐城は、1564年頃に武田氏によって築かれたと推測される城である。川中島をめぐる甲越両軍の抗争の中で、上杉方の拠点飯山城に対して、壁田城と共に武田方の最前線の拠点として築かれたと考えられている。城主は壁田城と共に小幡上総介であったと言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。尚、千曲川対岸にそびえる壁田城との連絡は、びわ島地籍からの渡し船であったと考えられている。

 替佐城は、標高460m、比高110m程の丘陵上に築かれた城である。城内は公園化されているので、主要な部分の遺構は見やすいが、城の背後の北西尾根の搦手筋や斜面は未整備となっている。また今年の春は雑草が伸びるのが早かったので、5月初旬の長野なのに、もう薮で遺構が見辛くなり始めていた。大きく3つの曲輪群から成り、北西から順に主郭群・ニノ郭群・三ノ郭群が連なっている。それぞれ数段の腰曲輪が付随し、曲輪群の間は堀切で分断されている。北西の搦手には合計3本の比較的大きな堀切が穿たれその間に櫓台を備えた小郭を置いている。主郭から北西尾根にかけての北斜面には、畝状竪堀や横堀が穿たれ、また竪堀と横堀が交錯するなど、厳重に防御を固めている。また搦手最後の堀切には土橋が架かり、いざという時の退路確保にも余念がない。また三ノ郭群の南斜面には、やはり竪堀と横堀がクロスして構築され、ここの横堀では山上にもかかわらず水堀となっている。この他、ニノ郭群から北東に張り出した尾根にも堀切を挟んで小郭があり、その東側下方にも腰曲輪群が築かれている。かなり手の混んだ造りの城で、全体的にちょっと薮っていて残念だったが、もっと薮の少ない時期に行けば、もっとその技巧的な構造を堪能できるだろう。
北斜面の畝状竪堀→IMG_5568.JPG
IMG_5677.JPG←二ノ郭から見た堀切と主郭群
南斜面の水堀→IMG_5639.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.771171/138.314888/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


[新装版]戦国武田の城

[新装版]戦国武田の城

  • 作者: 中田 正光
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2010/05/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

西山館が破壊されました [城郭よもやま話]

IMG_4230.JPG
↑禿山になった西山館

伊達政宗が本陣を敷いたと伝えられる冥護山館の隣にある、
伊達成実の陣城と伝えられる西山館。
昨日行ったところ、山林伐採で破壊を受けていた。

昨秋、冥護山館を訪城した時、隣の西山館にも行こうとしたところ、
館の南の車道の北側で大々的に重機を入れて材木伐採していたので、
西山館まで破壊を受けるのではないかと危惧していたが、
1年後にリベンジで再訪したところ、
案の定、城内まで重機が入って破壊を受けていた。

雑木や薮が根こそぎ伐採されたので、見晴らしは良くなったが、
主郭まで重機が入り、曲輪内は蹂躙されていた。
主郭は、南の土塁・堀切は原型を留めているが、
北の堀切は跡形もなく破壊されていた。
枡形虎口もあったらしいが、既に失われていた。
ただ、辛うじて主郭の腰曲輪は残っていた。

南のニノ郭は幸い伐採だけで済んでおり(かなり荒いやり方だが)、
曲輪の破壊は免れていたが、南の横堀などは重機に荒らされた後だった。
しかし土塁が僅かに残っていて、横堀の名残を残していた。

間伐など、山林を維持しながら材木伐採するのはいいが、
この様に地山を破壊し、樹木を根こそぎ切って禿山の様してしまうやり方は、
林業として正しいやり方なのだろうか?
金儲けのために、自然を乱雑に破壊しているだけに見えてならない。

山を守る林がなくなってしまったので、
豪雨などで土砂が流出し、辛うじて残った遺構も数年で失われてしまうだろう。
残念でならない。

丸森町にメールを入れようかとも思ったが、
宮城県の遺跡地図を見たら、西山館は埋蔵文化財と認識されておらず、
これでは破壊されるのも仕方ないと、諦めざるを得なかった。
重機で破壊された主郭↓
IMG_4258.JPG

nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

三日城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5455.JPG←主郭から見た前面の堀切
 三日城は、北信濃をめぐる武田信玄との抗争の際に、上杉謙信が築かせた城と伝えられる。弘治・永禄年間(1555~69年)に川中島をめぐって甲越両軍は5度に渡って戦いを繰り広げたが、その中で謙信は元取山(髻山)に在陣し、家臣甘粕近江守数直に命じてこの砦を築かせ、わずか3日で落成したことから、三日城と呼ばれる様になったと言う。髻山城の普請が完成するまでの仮の砦であったとされる。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、上杉軍は髻山城・三日城・手子塚城大倉城のラインを大事な防衛線としていたと推測している。

 三日城は、髻山城の南東1.6kmの位置にある、標高450m、比高70m程の丘陵上に築かれている。山の東側の谷戸に畑の中を登っていく道があり、その奥左手に小学生が作った案内板があり、登山道が南西へと伸びている。傍から見るとただの山林だが、一応城跡は「三念沢自然公園」という公園になっている様で、展望台も建てられている。非常に小規模な城で、低土塁で囲まれた方形の主郭と、その南東側にコの字型の土塁が付随し、主郭前面(北東側)と左方(北西側)を堀切・横堀で防御した縄張りとなっている。コの字の土塁は、南側で土橋状に主郭に連結しているが、土橋の西側に竪堀が穿たれている。よく見ると、この土橋から主郭土塁の脇を武者走りがすり抜けて、主郭の虎口らしい土塁の切れ目につながっているので、一見しただけではわかりにくいが枡形虎口になっていたことがわかる。そうすると、前述の土橋脇の竪堀は動線制約の竪堀であったことも判明する。その他では、主郭の北東の丘陵地は自然地形のままで、明確な普請の跡は見られない。一方、主郭の南東には小ピークがあり、物見台になっていたらしく、東側に竪堀が穿たれている。しかし主郭以外はほとんど自然地形に近い。結局、臨時の陣城であり、たしかにこの程度の砦なら3日で完成したであろう。だが主郭の普請はしっかりしており、主将が主郭に陣取ったほかは、なだらかな丘陵全体に軍団を駐屯させていたのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.711624/138.257554/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


川中島合戦:戦略で分析する古戦史

川中島合戦:戦略で分析する古戦史

  • 作者: 海上 知明
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2016/11/21
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安源寺城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5352.JPG←主郭南の堀切
 安源寺城は、高梨氏が築いたとされる城である。創築にはいくつかの伝承があるが、武田氏の侵攻によってこの地を逐われた高梨政頼の子頼親が、1582年の武田氏滅亡・織田信長の横死による織田領国の崩壊後に上杉景勝の命でこの地に戻り、安源寺城を築城したとされる。しかし、築城開始後間もなく、元の本拠地であった中野小館に戻ることができたため、築城途中で放棄されたと言う。或いは武田氏侵攻以前から高梨氏の一族がこの城にいたともされ、いずれが正しいかは不明である。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、遺構を見る限り築城途中で放棄されたと言うのも案外当たっているかもしれないと書いている。

 安源寺城は、標高410m、比高50m程の丘陵上に築かれている。ここは中野市街地と千曲川の間に横たわる丘陵地の南端部に位置している。北西から南東に延びる長い丘陵上に、曲輪を直線状に連ねた連郭式の縄張りとなっている。南端の曲輪は墓地となっていて改変されているが、その他の曲輪は概ね良く残っている。しかし耕作放棄地らしく雑草の繁茂や倒木で曲輪内の踏査は困難である。この城に行ったのは5月の初めであったが、今年は暖かくなるのが早かったので雑草の伸びが早かったせいもあって、もう進入が困難になっていた。南の二ノ郭はただの方形の平場で、主郭との間に堀切が穿たれている。主郭は土塁で囲繞されたほぼ方形の曲輪で、主殿が置ける様な広さを有している。やはり雑草と倒木が凄いが、ここでは立派なカモシカを見かけた。また主郭の西側塁線はわずかに曲がり、横矢掛かりが見られる。主郭の北にも堀切が穿たれ、主郭の土塁は北辺と南辺の堀切沿いは高く盛られている。主郭の北は三ノ郭で、ただの広い平場が長く伸びている。主郭と三ノ郭との間の堀切東端・西端にはそれぞれ土橋が架かっているが、東のものは薮で全くわからない。三ノ郭は薮が少なく進入可能である。三ノ郭の北端に土塁と堀切が築かれ、その北にも平場が広がっている。所々に土塁が見られるが、途中で切れている部分が多く断片的であるが、一部はL字状となっている。しかし全体の形状ははっきりしない。この他、各曲輪の西側には帯曲輪が延々伸び、一部は横堀状となっている。東側にも帯曲輪がある様だが、三ノ郭の東以外は薮が多くて確認できない。
 安源寺城は、広大な城で居住性を持たせており、確かに伝承の通り居館的な性格の城だった様である。一方でしっかり土塁が築かれた主郭以外は防御が不十分で普請途中で放棄されたと言うのも首肯できる状態である。
主郭北辺の土塁→IMG_5378.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743011/138.334951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

壁田城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5191.JPG←中間阻塞型の二重堀切
 壁田城は、北信濃に侵攻した武田氏が、替佐城と共に北方の上杉氏の拠点飯山城に対峙する最前線の拠点として築いた城である。替佐城と共に、小幡上総介が城将となったとも言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。1566年に武田信玄が山田飛騨守・同左衛門尉にこの地を宛行なっていることから、山田氏が壁田城の守備に付いていたものと推測されている。

 壁田城は、千曲川の曲流部に突き出た独立峰である、標高480m、比高145mの城山に築かれている。城内は公園として整備されており、城域のすぐ北の尾根まで車道が付いているので、訪城はたやすい。公園化されている分、やや遺構が破壊を受けているが、概ねの遺構は残っている。南北に伸びる尾根上に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断した連郭式の縄張りを基本としている。山頂の主郭を中心に、北尾根に3つ、南尾根にも3つの曲輪を築いている。ほとんどの曲輪間は堀切で分断されており、特に北の3郭と4郭の間は中央に低い畝状の土塁が築かれた中間阻塞型の二重堀切になっており、青森や山形で見られるものと同形である。また主郭等には腰曲輪も築かれ、北の3郭の東斜面には畝状竪堀があるとされるが、熊笹藪でよくわからない。主郭の西尾根にも細尾根の曲輪と堀切が築かれているが、薮が多くて形状が分かりにくい。この他、南の尾根の先に腰曲輪群が築かれ、南東中腹には籠池と呼ばれる池があり、水の手曲輪になっていたらしい。この周辺にも櫓台状の土壇や堀切が見られる。壁田城は、縄張り的には少々面白味に欠け、技巧性も他の武田氏系城郭と比べると見劣りするが、堀切はいずれもそこそこの規模があり、見て損はない遺構である。
水の手曲輪の籠池→IMG_5312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.786415/138.343492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


[新装版]戦国武田の城

[新装版]戦国武田の城

  • 作者: 中田 正光
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2010/05/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

更科峠旗塚(長野県山ノ内町) [その他の史跡巡り]

IMG_5169.JPG←旗塚
 宮坂武男氏の大著『信濃の山城と館』を見ていると、「旗塚」というものがところどころに掲載されている。その役割としてはいくつか考えられており、①領域を相手に知らせる、②旗をたくさん立てることによって敵を威嚇する、③味方の守備範囲を明確にする、④敵に備えの堅いことを悟らせる、⑤領民にも領主が誰であるかを知らしめる、⑥守備兵が大勢いるように見せかける、という様な推測が宮坂氏によってなされている。

 更科峠にも旗塚があり、菅の山城からすぐのところにあるので、菅の山城に訪城した帰りに寄り道して、どの様な遺構か確認してみた。小道沿いに確かに数個の小さな塚が確認できる。しかし塚が小さい上、薮のせいもあって明確には分かり辛い。風化しているせいもあるのか、あまりパッとしない遺構だった。しかし他県ではあまり例のない遺構なので、これはこれできちんと保護の手立てを講じて欲しいものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.732178/138.394732/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

菅の山城(長野県山ノ内町) [古城めぐり(長野)]

IMG_5151.JPG←二ノ郭の櫓台
 菅の山城は、菅城とも呼ばれ、高梨氏の庶流小島氏が拠った城と伝えられている。しかし別説もあり、高梨某が築いてその家臣時田甲斐守の居城となり、後に時田氏の家臣竹腰次郎の居城となったとも言われている。小島氏は、南北朝期頃に須毛郷に入部したらしいが、その後1513年に小島高盛は本家の高梨氏へ反乱を企てたが鎮圧され、滅亡した。しかしその分家が下之郷に居て残り、武田信玄が北信濃に侵攻すると、いち早く武田氏に降り、高梨氏敗退の契機となった。高梨政頼が居館の中野小館を出て飯山城まで退くと、小島氏は中野小館に入った様である。1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、上杉氏に仕えていた高梨氏が信濃の旧領に戻ると、小島氏は中野小館を明け渡し、菅へ戻ったとされる。

 菅の山城は、鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城の南の尾根続きの、標高700m、比高100m程の山上に築かれている。すぐ南には更科峠を通る古道がある。更科峠からも小道があるし、南東尾根の麓からも鴨ヶ嶽林内歩道という登山道が整備されているので、訪城は容易である。南東麓から高さ70m程登ると平坦な尾根となり、周囲に腰曲輪が築かれているので、既に城域に入ったことがわかる。更に登ると、数段の段曲輪を経て電波塔やテレビアンテナが建てられた曲輪に至る。かなり長さがある曲輪で、小屋掛けぐらいはあったと思われる。ここも周囲に帯曲輪が確認できる。そこから段曲輪を3段ほど経て、城の中心部に至る。中心部は堀切で分断された3つの曲輪で構成されている。中央が主郭で、その背後に二ノ郭、主郭の前面に三ノ郭が築かれている。まず前面の三ノ郭は小さな方形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らし、北東側に小郭を築き、その両側に竪堀を落としている。三ノ郭から堀切を挟んで縦長の主郭がある。主郭には祠が祀られ、後部に土塁が築かれている。主郭の両側には腰曲輪が築かれ、主郭前後の堀切と連絡している。主郭背後は城内でも最も大きな堀切が穿たれ、その西側に二ノ郭が築かれている。ニノ郭は後部に大きな櫓台を築き、曲輪の外周に土塁を廻らしている。二ノ郭の西側にも堀切が穿たれて城域が終わっている。それぞれの堀切は、両側に竪堀となって落ち、その側方には竪土塁も築かれている。
 菅の山城は、それほど大きな城ではないが、普請はかなりしっかりしており、堀切も最大のもので深さ3~4m程もあって、このサイズの城としては規模が大きく、なかなか見応えがある。
主郭背後の堀切→IMG_5132.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733553/138.395913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

箱山城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5006.JPG←山頂の主郭
 箱山城は、歴史不詳の城である。南の箱山峠を挟んで鴨ヶ嶽城と隣接していることから、高梨氏が永正年間に中野に進出して中野小館を築き、鴨が嶽城を本城にしていく中で、本拠地防衛のために支城として築かれたものと推測されている。

 箱山城は、標高695.1mの箱山山頂に築かれている。山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根に曲輪を配した縄張りとなっている。この城へは三方の尾根に登山道が伸びている様だが、最も近いルートは箱山峠からアクセスする南尾根のルートである。現在箱山峠には車道が通っているが、箱山トンネルの西端の脇から南に登る古道が残っており、それを登っていくと切り通しの峠に至る。大きな切り通しだが、これは江戸時代に切り開かれたものらしい。この切り通し脇から北側の尾根に登る道があり、尾根上で堀切状になっている。どうもこれが元からの中世の峠道だったようである。ここから尾根を北へ進んでいくと、途中に小ピークと細尾根に曲輪があり、更に北東に尾根を登っていくと2郭群に至る(以下、曲輪の名称は『信濃の山城と館8』による)。2郭群は、尾根上の曲輪とその西側の数段の小郭群から成っている。更に尾根を登ると、2つの小郭と堀切があり、山頂の主郭に到達する。主郭は、祠などが祀られ、北辺に低土塁が築かれている。西側の切岸には石積み跡らしいものも見られる。主郭の北には腰曲輪が一段あり、尾根の先に浅間社が祀られた5郭がある。その北側に数段の小郭が築かれている。また主郭の東側には堀切を挟んで2段の舌状曲輪があり、東尾根に通じている。この舌状曲輪も東尾根も岩場が多く、居住性は殆ど無い。また尾根上の岩には矢穴の跡が散見され、石切り場になっていたらしい。その先に竪堀があり、東の物見台らしき8郭に至る。8郭の東にも腰曲輪が一段築かれている。遺構としては以上で、大堀切で防御された鴨ヶ嶽城と比べると、随分と古色蒼然とした城で、堀切も規模が小さい。傾斜のきつい急峻な尾根で囲まれているので、大きな堀切を必要としなかったのかもしれない。峠を押さえる城かと思ったが、鴨ヶ嶽城から独立した物見の出城として築かれていた様である。
東尾根の矢穴のある岩→IMG_5035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.750559/138.390634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_4945.JPG←鎌ヶ嶽城の石垣
 鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城は、この地に勢力を振るった高梨氏の詰城である。高梨氏は、平時は西麓の居館(中野小館)に居たが、戦時の要害としてこの城を取り立て本城とした。元々この地は鎌倉幕府の重臣中野氏が支配しており、鴨ヶ嶽城も中野氏によって創築されたのではないかと推測されている。戦国前期の1507年、越後で守護上杉氏と守護代長尾氏との間に争いが起こり、高梨政盛は長尾氏を支援して越後に攻め入り、1510年7月長者森で前関東管領上杉顕定を討ち取った(永正の乱)。この乱の頃に高梨氏は中野に入部して、中野小館を築いて居館としたと考えられている。そしてこの時、鴨ヶ嶽城も現在残る大規模なものに改修されたと思われる。しかし弘治年間(1555~58年)に武田信玄がこの地に侵攻すると、高梨政頼は中野の地にわずかの守備兵を置いて、自身は飯山城まで退き、泉氏と共に飯山城を守った。その後、武田氏支配時代は武田氏に降った一族の小島氏が中野小館に入った様である。高梨氏は旧領を離れたまま上杉氏に仕えたが、1582年、武田氏滅亡と本能寺の変での織田信長の横死によって、権力の空白地帯となった北信濃に上杉景勝が進軍し、高梨氏は信濃の旧領に復帰した。しかし1598年に上杉氏が豊臣秀吉の命で会津に移封となると、高梨氏もこの地を離れた。

 鴨ヶ嶽城・鎌ヶ嶽城は、標高688.3m、比高308mの鴨ヶ嶽の稜線に築かれている。2つの城は一つの稜線上に連続して築かれているので、あえて城名を分ける必要もない様に思うが、現地表記や城郭文献に従って、2つの城として記載する。尚、以下の曲輪等の表記は『信濃の山城と館8』に従った。
 まず鴨ヶ嶽城は、鴨ヶ嶽の山頂に主郭を置いている。南北に延びる稜線上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、要所を堀切で分断している。それらの堀切の中では、主郭背後のものと4郭背後のものが規模が大きく、深さ8~10mにも達する大堀切である。その他の堀切は、形状は明瞭であるが、それほど大きなものではない。主郭の前面には堀切が穿たれ、主郭の手前に3郭、更に小堀切を挟んで北尾根に段曲輪群が築かれ、先の方は細尾根上の細長い曲輪群が連なり、先端が物見の曲輪となって終わっている。一方、主郭の後部に櫓台が築かれ、背後は大堀切を挟んで二ノ郭が築かれている。二ノ郭には井戸があったらしい。二ノ郭の南には段曲輪が数段築かれ、鞍部に堀切を穿った後、4郭に至る。4郭は主郭の次に大きな曲輪で、東側と南側に土塁が築かれている。その南には二重堀切が穿たれているが、内堀は前述の通り大堀切となっている。4郭から大堀切に通じる城道上に虎口郭が置かれている。二重堀切の南にも段曲輪群が築かれ、堀切を挟んで鎌ヶ嶽城に至る。
 鎌ヶ嶽城は単郭の城で、内部が僅かな段差で10段程に分かれた広大な曲輪(主郭)となっている。南と南西部に土塁が築かれ、この土塁の外側には石垣が残っている。土塁上にも石が散乱しているので、ここだけしっかりした石垣が築かれていたらしい。鎌ヶ嶽城の主郭の南にも大堀切が穿たれ、幅広の尾根を長く貫通し、東西両端でやや湾曲して竪堀となって落ちている。大堀切の外側にもしっかりした土塁が築かれている。この南は自然地形となるが、小堀切が1本穿たれて城域が終わっている。また主郭の南西下方に腰曲輪と横堀が穿たれ、横堀両端は折れ曲げて竪堀にして落としている。
 以上の2つの城の他に、西から登る登山道の脇に七面山砦という出城が築かれている。段曲輪群だけで構成された小規模な城砦で、『信濃の山城と館8』の縄張図では5つの小郭が記載されているが、実際には更に3つの曲輪が西側に確認できた。また七面山砦から登山道を登った先にも細尾根上の平場(7郭)が見られ、登山道からやや北に突出した場所に物見台があり、眼下の高梨氏館がよく見える。

 城の遺構は以上で、鴨ヶ嶽城の方は主郭・4郭だけが多少広いが、その他の曲輪はいずれも大した広さがなく、あくまで詰城の位置付けだったことがわかる。一方で4郭と鎌ヶ嶽城は、鴨ヶ嶽城の主要部と比べると普請の規模と質が異なり、より新しい時代の構築であった可能性が考えられ、武田氏支配時代に増強された可能性も考えられる。鎌ヶ嶽城に至っては、主郭が広く居住性があるので、高梨氏一族の避難所として築かれたものかもしれない。城に関する案内は少ないが、登山道が整備され、城内も比較的整備されているので、訪城しやすいのが助かる。
4郭南の大堀切→IMG_4888.JPG
IMG_4850.JPG←主郭と後部の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【鴨ヶ嶽城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743372/138.388510/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【鎌ヶ嶽城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.740243/138.388875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
    【七面山砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.744318/138.383553/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


須坂・中野・飯山の歴史

須坂・中野・飯山の歴史

  • 作者: 酒井 健次
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2012/06/03
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の10件 | -