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松山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9072.JPG←堀切と二ノ郭
 松山城は、1582年に小田原北条氏の家臣上田信善(信義)によって新造された城である。時に武田勝頼、織田信長が相次いで滅びると、徳川家康との天正壬午の乱を経て、権力の空白地帯となった上野国は北条氏の勢力下に入った。しかし吾妻郡には依然として真田昌幸が独立勢力として割拠し、北条氏の上野全域制圧にとって目の上のたんこぶとなっていた。そこで武州松山城主上田安独斎朝直の子、信善にこの城を築かせ、吾妻真田領の大戸城・岩櫃城攻略の足掛かりとしたと言う。しかし北条氏は真田方の頑強な抵抗に遭い、岩櫃城を攻略できないまま1590年の小田原の役を迎えることとなった。前田・上杉連合軍による北国勢が来襲し、松山城は無血開城したと言う。尚、松山城の名は上田氏の本拠であった武州松山城に由来している。

 松山城は、滑川北岸の標高265m、比高50m程の山上に築かれている。北条方が真田攻撃の橋頭堡とした城にしては、コンパクトで簡素な縄張りの城となっている。金比羅神社の鎮座する山頂が主郭で、堀切を挟んで東側にあるのが二ノ郭である。堀切の南側は二ノ郭に入る桝形虎口となっている。主郭・二ノ郭の南斜面から東を回って北斜面まで、段々に腰曲輪群が築かれており、下野皆川城の様な縄張りである。南東尾根の段曲輪基部には堀切も穿たれている。松山城の築かれた山と北の山地とを結ぶ尾根鞍部はほとんど自然地形のままであるが、西斜面に二重竪堀が落ちている。
 縄張りとしては以上で、大した技巧性もなく大きな城でもない。しかし、北条氏は堅固な鷹留城を敢えて使わずに簡素な城砦である松山城をわざわざ新たに築いて利用したのである。宮坂氏も指摘している通り、鷹留城では街道(=軍道)から奥まっているため軍勢の集結に不便で、積極的な攻勢に出るに当たっては適さなかったことが考えられよう。この城は、戦国期の作戦面での城の使い方を考察する上で格好の材料を提供してくれている。
北斜面の腰曲輪→IMG_9043.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.388366/138.884976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

「城取り」の軍事学―築城者の視点から考える戦国の城

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/05/01
  • メディア: 単行本


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上里見城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8996.JPG←墓地裏の堀跡
 上里見城は、歴史不詳の城である。一説には里見義時の本拠の要害城であったとも言われるが、確証はない。里見義時は南北朝期の武将とされ、1349年に吾妻に進攻して吾妻太郎行盛を討ったが、1357年に新田義宗の味方をして上杉憲顕によって滅ぼされたと言われる。しかし里見義時なる武将の実在は確認されておらず、詳細は不明である。但し、里見氏の一族の者が南北朝期にこの地に拠っていたことは十分あり得る話で、上里見城も里見氏関連の城であった可能性がある。
 上里見城は、烏川南方の丘陵中腹にあり、街道を見下ろす要地にある。北方には松山城鷹留城が良く見える。城跡は墓地や畑となってかなり改変されており、あまり城跡らしさを感じられないが、墓地の北側は窪地になっており、堀跡であるらしい。そのほかは明確な遺構はなく、段々になった平場が曲輪と推測されるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.376722/138.885448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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雉郷城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8935.JPG←主郭の堀切
 雉郷城は、伝承等不明の城である。箕輪城主長野業政に属した里見河内守が築城したと言われ、里見城の詰城であったともされる。いずれにしても鷹留城防衛の重要拠点かつ最前線で、1566年の武田信玄による箕輪城攻撃の際、雉郷・里見両城は武田勢の先鋒によって真っ先に攻略されたと言われている。

 雉郷城は、烏川南方に秋間地区との間に横たわる山稜上の標高373.7mの峰に築かれている。城の北中腹まで車道が通っており、登道も付いているので簡単に登ることができる。車道の通っている北の広幅の尾根も城域で、道路の北側は最下段の曲輪で現在は堆肥置き場となり、道路の南側は3段程に分かれた梅林となっている。その上には中央に虎口を設けた小さな土塁があり、その先を登っていくと主城部に至る。基本的には東西に伸びる山稜上に曲輪を連ね、それぞれ堀切で分断した連郭式の縄張りとなっている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭…と連ね、東端は6郭となる。主郭の北側下方には7郭があり、前面に堀切が穿たれている。7郭から竪堀を挟んで東に腰曲輪が長く伸び、その東端は二ノ郭~三ノ郭間の堀切が竪堀となって腰曲輪を貫通して落ちている。その西側には竪堀道から登る桝形虎口が形成され、下段の腰曲輪に通じている。前述の堀切から落ちた竪堀が腰曲輪を貫通している部分は、雰囲気が朝日山城によく似ており、武田氏による改修の可能性も考えられる。雉郷城は、標柱や解説板など城を示すものはないが、遺構がよく残る上、城内は薮払いされてきれいに整備されている。地主さんに感謝!である。
竪堀道から登る桝形虎口→IMG_8974.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.360688/138.894439/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

図解 戦国の城がいちばんよくわかる本

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本


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里見城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8847.JPG←主郭東側の堀切
 里見城は、戦国期にこの地を領した里見氏の居城である。永禄年間(1558~70年)頃に里見河内守が箕輪城主長野業政に属して、この城を築いたらしい。河内守は、安房里見氏の一族であったとも言われるが、系譜は不明。一説には、河内守の名は宗義、その父は里見家連と言い、家連は東上州の仁田山城主であったが上杉謙信に城を攻められ討死し、子の宗義はこの地に逃れて里見城を築いたとも言われる。いずれにしても1566年、里見城は箕輪城落城に先立って武田勢の攻撃を受け、落城したとされる。
 尚、里見城の築城には別説があり、新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に分封されて里見氏を称し、里見城を築いたとも言われるが、確証はない。

 里見城は、里見川南岸の標高180m、比高30mの丘陵先端部に築かれている。西端に主郭があり、東側に土塁と堀切を築いて台地基部を分断している。主郭内には廃屋があり、城址標柱と解説板が立っている。主郭の南辺には高さ数mの土塁が築かれ、その下には腰曲輪が築かれている。この他、主郭の東側の平場も曲輪であったと思われるが、耕地化で改変されているので、どこまでが城域だったのかはよくわからない。里見城は、主郭部の遺構はよく残っているものの、単純かつささやかなもので、小土豪の城であったと推測される。それを考えると、里見河内の出自(安房里見氏の出)というのも、少々怪しげに思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.359410/138.914695/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


房総里見氏の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ 9)

房総里見氏の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ 9)

  • 作者: 小高春雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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神戸の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8822.JPG←高台となった戸榛名神社境内
 神戸の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。戸榛名神社の社人桜沢伊賀守が守っていた。箕輪城の第2の防衛線が、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦という烏川北岸の段丘崖に沿ったラインに構築されていたとされる。1566年の武田信玄による箕輪城・鷹留城攻撃の際、桜沢氏は武田勢に降伏したが、社殿は焼き払われ砦は廃されたと言う。
 神戸の砦は、烏川北岸の標高210m、比高55mの段丘上に築かれている。戸榛名神社の社殿を中心とした平地が砦跡であったらしいが、周囲は一面の耕作放棄地で、深い薮に覆われて全く旧状がわからない。戸榛名神社のところだけ高台となっており、基本的には神社を武装化した簡素な砦であったと思われる。言われない限り、ここが砦跡とは誰もわからないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375167/138.916991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高浜の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8800.JPG←北側の堀切
 高浜の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。守将は匂坂常陸介長信と伝えられる。長野氏の防衛の最前線は、雉郷城を中核とした中核とした秋間境の山嶺に置き、第2の防衛線を烏川北岸の段丘崖に沿った、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦のラインに置かれていたとされる。1566年に始まった武田信玄の箕輪城攻撃は、前哨戦としてまず雉郷城を、次いで高浜の砦への奇襲から開始された。安中・松井田両城を攻略した信玄は、箕輪・鷹留両城間の防衛線を分断するため、那波無理之助宗安に高浜の砦への奇襲を命じた。宗安は、秋間の諸城に次いで雉郷城を突破して里見城に達し、更に烏川を渡河して不意に高浜の砦を攻撃した。時に守将匂坂長信は箕輪城にあって不在であり、小勢の砦は陥落した。宗安は砦に火を放って白岩へ進撃したが、箕輪から出撃した安藤九郎左衛門勝道と交戦し、激戦の末に勝道を討ち取ったが、続いて駆けつけた青柳金王・下田大膳らの援軍に敗れて退却した。翌日午後、武田勢の飯富・小宮山両氏の部隊が白岩に進出したことで箕輪・鷹留両城は分断され、孤立した鷹留城は落城した。この後、箕輪城を攻略し長野業盛を滅ぼした信玄は、高浜の砦に木暮但馬守を守将として配置したと言う。

 高浜の砦は、烏川北岸の標高180m、比高30mの段丘上に築かれている。西側は高浜川に削られた急崖に面しており、要害地形であることがよく分かる。砦内部は耕地と民家になっており、かなり改変されているため、内部がどの様な構造になっていたのかは現状からではわかりにくい。しかし北側の竹林の中には北辺の土塁と堀切がよく残っている。この堀切は、東半分は民家・畑となってほとんど湮滅しているが、僅かな窪地となっており、堀の名残を残している。また砦の東側を通る県道137号線は、かつての東の堀跡を通っており、道路の東側は低地となっている。以上が遺構の現状であるが、高浜の砦は要害地形とは言うものの、郭内はだだっ広い平場が広がっており、これだけ広いとある程度の兵数を籠めないと到底守りきれないだろう。箕輪・鷹留両城の間の防衛線であったと同時に、兵站拠点でもあったものだろうか。この砦の役割について少々考えさせられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.368533/138.925231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

  • 作者: 近藤 義雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2010/12
  • メディア: 単行本


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第六天の森の墓[伝・阿野全成墓](栃木県益子町) [その他の史跡巡り]

IMG_8756.JPG←祠と2基の五輪塔
 宇都宮氏歴代の墓所から北西に900m程の段丘先端部に、第六天の森の墓というものがある。これは、源頼朝の異母弟、阿野全成とその従者の墓と伝えられている。全成の事績については、阿野館の項に記載する。1203年、全成は2代将軍頼家の命により謀反の咎で幕府に捕らえられ、常陸国に配流となり、下野国で誅殺された。全成が殺されたのが、この第六天の森であったとの言い伝えがある。
 第六天の森は、南の車道から農地の脇の小道を通って行くことができる。小さな森の入口に「大六天の森」と書かれた看板が立ち、その奥に祠と2基の小さな五輪塔が並んでいる。地元だけに伝わるささやかな伝承であるが、頼朝死後に相次いだ権力抗争の中で、非業の死を遂げた貴種の墓としては、このように人知れず静かに祀られている方が幸せなのかもしれない。
第六天の森→IMG_8754.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.456912/140.130014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


源頼朝 (中世武士選書38)

源頼朝 (中世武士選書38)

  • 作者: 菱沼一憲
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:墓所
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尾羽氏館(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8741.JPG←地蔵院に残る土塁
 尾羽氏館は、宇都宮氏の家臣で紀清両党の一翼を担った重臣益子氏の庶流尾羽氏の居館である。宇都宮氏3代朝綱は、公田横領の罪で土佐に配流されたが、後に許された。帰国後、朝綱は家督を孫の頼綱に譲ってこの地に隠棲し、尾羽寺を建立して宇都宮家の菩提寺とし、歴代の墓所を造営した。また隣地に土佐の加茂神社を勧請し、綱神社を創建したと伝えられる。尾羽氏は、宇都宮氏墓所の管理を任された一族だったらしい。
 尾羽氏館は、位置が特定されているわけではないが、一説には現在の地蔵院に境内にあったとされる。地蔵院は周囲より5m程高くなった地勢で、北側には大土塁が残っている。裏の綱神社参道から見上げると、確かに大土塁と切岸である。尚この地には、前述の通り綱神社や宇都宮氏歴代の墓所があり、中世宇都宮氏の余映を色濃く残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.450716/140.138898/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0&d=v


中世宇都宮氏の世界: 下野・豊前・伊予の時空を翔る

中世宇都宮氏の世界: 下野・豊前・伊予の時空を翔る

  • 作者: 市村 高男
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2013/11/07
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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内出城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8529.JPG←宅地の中にわずかに残る堀跡
 内出城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では秋間地域城の核堡とし、吉良氏・飽間氏の居城であったとしている。即ち、奥州探題であった吉良治家は、鎌倉公方足利基氏に召還されて関東に入り、1356~65年頃に上野国碓氷郡飽間郷に移って、内出城に拠ったとされる。これは、飽間郷には新田義宗の挙兵に応じた南朝方の飽間三郎が勢力を持っていたため、基氏は飽間氏に対抗させるため吉良氏を内出城に入れたというものである。治家の孫の頼氏が世田谷城を築いて飽間を去るまで内出城が吉良氏の本拠で、その後は茶臼山城の飽間氏が内出城に移って居城とし、明応年間(1492~1501年)に飽間氏が讃岐国丸亀城に移ると廃城になったとされる。しかし、足利一門の中でも家格の高い吉良氏の居城としては内出城はあまりに小さすぎ、『安中市史』の伝承には無理があるように思う。又、「地域城」と言う概念にも私は懐疑的で、城砦群や支城群と何が異なるのかさっぱりわからない。

 内出城は、久保川北岸の比高30m程の段丘上に築かれている。この付近に長野新幹線の安中榛名駅ができたため、大々的に宅地造成され、城址一帯は住宅地に変貌してしまっている。従って遺構はほとんど残っていないが、地勢は往時のままで、各所の段差や腰曲輪状の平場など、城の雰囲気が良く残っている。北東部にはわずかに堀跡も残っている。また南斜面の切岸と畑になった腰曲輪も遺構の様である。ささやかではあるが城の名残が感じられるのは良かった。解説板でもあれば更に良かったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355150/138.850772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=v


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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後閑城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8473.JPG←主郭北側の二重堀切
 後閑城は、信濃出身の依田忠政によって、嘉吉・文安年間(1441~49年)に築かれたと言われている。以後、約90年に渡って依田氏が城主であったが、1538年、孫の光慶の時に板鼻の鷹ノ巣城に移ったとされる。その後、北条政時が入城したが、1555年に丹生城主新田景純は後閑城を攻略した。1559年、景純は武田信玄に属し、翌60年に上杉謙信が関東に進出すると、甲斐に移ったと言う。翌61年、信玄は国峰城を攻略して小幡信実を国峯城に復帰させると、丹生も信実に与えたらしい。一方、景純は甲斐で亡くなったが、その子信純は信玄の西上州制圧後に後閑城を与えられて後閑氏を称した。信純には3人の男子がいたらしく、1578年に長男信重は総社に分家して石倉城主となり下野守を称した。翌年、信純が死去すると次男重政が後閑氏を継ぎ、3男信久は信玄の命で上条家を継いだ。1582年に武田氏が滅び、そのわずか3ヶ月後に織田信長の横死によって上野を支配していた滝川一益が没落すると、上野の大半は小田原北条氏の支配下に入り、信重は厩橋城主北条高広に従い、後閑重政・信久兄弟は北条氏に服属し、信久も後閑の姓に戻り、両後閑と称された。1584年、高広が北条氏直に降って大胡城に移ると、氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。1590年の小田原の役の際には、両後閑氏は小田原城に籠城し、総社の後閑又右衛門は松井田城の守将大道寺政繁の指揮下に入った。北条氏が滅亡すると、後閑氏も没落し、後閑城は廃城となった。
 尚、後閑信純・信久については、1569年の武田氏による駿河攻撃の際、信純・信久共に今川勢との戦いで討死し、信久の子真純が後閑氏を継いだと言う説もある様だ。いずれにしても後閑氏については、その出自も含めて謎が多い。

 後閑城は、後閑川の東岸に張り出した、標高277m、比高87mの山上に築かれている。城跡は大半が城址公園となっているが、適度な公園化で改変は限定的で、全体に遺構がよく残っている。山頂の主郭を中心に、西・南・南東・東・北の各尾根に曲輪群を配して防御を固めている。まず主郭の東直下には東郭が築かれ、そこから南東に大堀切を挟んで南東尾根に配された二ノ郭群がある。ニノ郭は大型の櫓台があり、ニノ郭先端には小堀切が穿たれ、更に曲輪群が数段続いている。一方、主郭の西側には大型の3段の曲輪で構成された西郭群が築かれ、更にその下方の竹薮の中にも腰曲輪群が築かれている。腰曲輪群には残念ながら、軽のバンやたくさんのタイヤが不法投棄されている。西第3郭から南尾根に向かって腰曲輪が伸び、南郭の大堀切に繋がっている。南郭も最上段の平場の他に、西から南にかけて広い平場が広がっている。主郭の北には大きな二重堀切が穿たれ、その北に北郭が築かれている。北郭の西斜面には5段程の曲輪が段々に築かれ、両側を堀切から落ちる大竪堀で分断している。また前述の二重堀切の中間土塁からは、竪堀に沿って竪土塁が落ちている。北郭の北に堀切を介して北尾根の外郭があり、先端に小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他、東郭の下方に東郭群があり、段曲輪が数段築かれている。
 以上が後閑城の縄張りで、西郭群の下段部と北尾根の外郭以外は全体的に隅々まで薮が伐採されてきれいに整備されている。城址公園と言うと得てして整備しすぎて返って遺構を損壊してしまうことが少なくないが、ここでは節度を持った公園化により、先端の段曲輪群などは薮払いされているが、歩道を無理に作っていないので遺構がよく残っている。妙義山や浅間山などの眺望も素晴らしく、良好で見やすい遺構と相まって素晴らしい城である。
3段の広大な西郭群→IMG_8508.JPG
IMG_8411.JPG←東郭群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329717/138.841760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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