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下舘城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1288.JPG←天守台跡の土壇
 下舘城は、豊臣秀吉の家臣石川備後守貞通の城である。貞通は、秀吉の毛利攻めの頃からその幕下に仕えたとされ、1591年、丹波国天田郡2千石余を加増された。しかし秀吉の死後の1600年、関ヶ原合戦において西軍に属して丹後田辺城攻撃に参加したため、戦後改易された。尚、東の丘陵上にある舘城も貞通の城と伝えられ、地元では本城の舘城に対して下舘城は出城であったと伝えられているらしい。
 下舘城は、犀川東岸の舘町地区の西端に位置している。宅地化・耕地化で遺構はほとんど湮滅しているが、わずかに天守台跡と伝承される土壇のみが残存している。またこの土壇の裏はわずかな低地になっており、堀跡であったと推測される。それら以外は、往時の姿は見る影も無いが、現状から推測すると城というほどの規模ではないので、方形の居館か陣屋であったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326934/135.213268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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甲ヶ岳城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1207.JPG←三ノ郭の土橋と堀切
 甲ヶ岳城は、鴻ヶ嶽城とも記載され、丹波守護代内藤氏が築いた城と言われている。1564年、丹波守護代の八木城主内藤備前守宗勝は、福知山盆地進出の拠点として、一族の内藤正綱に命じて甲ヶ岳城を築かせたと言う。1576年、内藤氏は高津城栗城の大槻氏を攻めたと言われ、その際に甲ヶ岳城は前進基地として大きな役割を果たしたと思われる。1579年、明智光秀が八木城を攻め落とすと、内藤正勝は再起を期して甲ヶ岳城に逃れたが、遂に討死にして甲ヶ岳城も廃城になったと言う。以上が現地解説板などに語られる一般的な伝承であるが、一方、元々この付近は高津城を本城とした大槻氏の支配領域で、安場から観音寺の間に大槻安芸守辰高が城を多数築き、大槻左京亮倫高の代に落城したとされ、甲ヶ岳城もこうした大槻氏の支城群の一つであった可能性も捨てきれない。

 甲ヶ岳城は、標高289.8mの甲ヶ岳山頂に築かれている。北東から尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭・五ノ郭とここでは呼称する。三角点があるのが四ノ郭で、ほとんどが藪に覆われ、緩斜面上に段々に平場群を築いている。南斜面には竪堀が数本穿たれている。四ノ郭からやや幅広の堀切を介して三ノ郭に至る。この堀切には北端に土橋が架かり、南端には堀内障壁がわずかに見られ、三ノ郭側には土塁が築かれている。三ノ郭と主郭の間も堀切で分断されている。主郭は、前面に虎口郭を設け、主郭に登るようになっているが、単純な坂虎口で馬出しという程の機能性はない。主郭には秋葉神社が建っている。主郭後部には低土塁が築かれ、その裏に二ノ郭がある。二ノ郭の南西角には枡形虎口があるが、藪でわかりにくい。二ノ郭の先が五ノ郭で、一面藪に覆われている。この他に、城への登り道の途中にも竪堀が穿たれており、登城道を防衛していたと考えられる。遺構は比較的よく残っているが、あまり技巧性は感じられず、特に四ノ郭や五ノ郭は辺縁部が自然地形に近くなってしまっており、普請も少々荒い感じである。その中では2本の堀切だけが異彩を放っている。
 尚、甲ヶ岳の東と北西の支尾根には茶薄山城・野山砦があり、甲ヶ岳城の出城であったと考えられている。
登山道途中の竪堀→IMG_1166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.296835/135.222559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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茶薄山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1136.JPG←腰曲輪に囲まれた主郭
 茶薄山城は、甲ヶ岳城の出城と考えられる。伊藤伊織が城主であったと伝えられるが、その他の歴史は不明である。
 茶薄山城は、甲ヶ岳の北東尾根先端の比高110m程のピーク上に築かれている。甲ヶ岳城への登山道が尾根に至ると、そのすぐ左手(東側)が城域である。登山道が尾根に至る部分も実は登山道自体が堀切道で、尾根上には土橋が架かっている。主郭はまるで古墳の様な高台になっており、周囲に腰曲輪を廻らしている。わずかな段差で何段かの平場に分かれ、更に東には低い位置に平場が広がっているが、この辺りは藪が酷く判然としない。この下段の平場の付け根には竪堀が穿たれているようである。茶薄山城は、出城の位置付け通り、簡素な構造の小城砦である。登山道のすぐ脇になければ、わざわざ見に行くほどの遺構ではない様に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.299444/135.229490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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石原城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1107.JPG←土塁と空堀
 石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
 石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
 尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鬼ヶ城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0950.JPG←山上の曲輪群
 鬼ヶ城は、明智光秀の丹波平定に頑強に抵抗した国人衆が立て籠もった城と伝えられている。1575年、明智光秀は織田信長の命により丹波に入ると、口丹波亀山城主内藤忠行は、光秀の入部を祝し、忠行の主従は光秀に従った。そして各地の土豪は光秀に降る者と、徹底抗戦する者とに分かれ、久下・中沢・並河・釈迦牟尼仏(にくるべ)・河田らの各氏は退いて、鬼ヶ城・高見城に拠って抵抗を続けたと言う。その後、光秀の丹波攻略に抵抗していたのは、八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏となったが、赤井直正の弟幸家は、安芸毛利氏の一族吉川元春と通じてその来援を請い、元春来援の際の本陣とするため、鬼ヶ城に砦を築いたと言う。しかし元春の来援がないまま丹波は平定され、鬼ヶ城も光秀の陥れるところとなった。『信長公記』によれば、1579年7月に明智光秀が鬼ヶ城を攻めて近在に放火し、付城を築いたとあると言う。

 鬼ヶ城は、標高544mの峻険な山上に築かれている。東麓の観音寺から登山道が整備されている。登頂比高は340mもあるので登るのは一苦労だが、山頂からは360度の大パノラマで、疲れは吹き飛んでしまう。遺構も見事で、峻険な山城なので小さい城だと思っていたが、普請はかなり大規模である。『図解 近畿の城郭Ⅰ』所収の縄張図は、なぜか大手の曲輪群や北東尾根の曲輪群が抜けてしまっているが、実際はそれらも遺構であることは明白で、従って実際の城域はもっと広いのである。登山道を登り南尾根に至ると、その北側に平場群と明確な虎口が見られ、ここから城域に入る。この大手郭の坂虎口は両側に櫓台を設けており、黒井城東出丸の虎口に酷似している。この大手郭の東にも段曲輪が3段ほど築かれている。更に登ると側方に石垣の残った虎口を設けた曲輪に至る。この上に城の中心部がある。頂部に主郭があり、南東斜面に沿って3段の腰曲輪が設けられ、ここにも石垣の跡が見られる。この腰曲輪から西に向かって武者走りが伸び、南西の腰曲輪を経由して、北尾根の曲輪群に繋がっている。北尾根曲輪群は南北に長い曲輪を連ねており、山上の主郭部が狭く居住性がないのに対して、そこそこの広さがあり、城兵の居住区になっていたと考えられる。この他にも前述の通り、主郭の北東尾根に連なる曲輪群があり、この東郭群は全部で9段もの馬蹄段が築かれている。鬼ヶ城は、福知山市街全域を一望できる要地にあり、しかも予想以上に規模の大きな遺構群で、赤井氏が光秀に抵抗するために構築したという伝承も十分説得力がある。山上の眺望も素晴らしく、苦労して登る価値は十分ある。
大手郭の虎口→IMG_0901.JPG
IMG_1057.JPG←東郭群の馬蹄段
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341481/135.142307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中村城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0797.JPG←南郭周囲の横堀
 中村城は、この地の土豪塩見氏の居城と言われている。中村城主塩見氏については2説あり、横山城主塩見頼氏の子であるとも、或いは播磨守護赤松満祐の後裔で、嘉吉の乱で満祐滅亡後に遺児若松丸(満義)が何鹿郡沢之庄に落ち延び、その子義近が一尾城主大槻佐渡守の女を娶って中村に移住し、塩見に改めたとも言う。

 中村城は、猪崎城の北北西わずか900m程の位置にある、南北に長い丘陵上に築かれている。遺構の名称は、丹波の城歩きではよく拝見しているHP「山城賛歌」の呼称に従って記載する。城内は大きく、北郭・主郭・南郭から構成されおり、南郭には薬王寺社が祀られ、その参道から訪城できる。低丘陵で、かつ参道があるので、何の苦労もなく城に至るのはあっという間である。しかし遺構は見事で、社殿の建てられた南郭は外周を横堀で囲繞しており、南に土橋の架かった虎口が築かれている。南郭の北には堀切を挟んで主郭がある。南郭の北西角にはこの堀切に降りる虎口が付いている。主郭内は段差で2段に分かれ、南端に土塁を築いている。主郭の東側は、南郭から続く横堀を穿ち、西側には2段の腰曲輪を築いている。主郭の北側には堀切を挟んで北郭群があるが、北郭背後は大土塁となっており、主郭北側の堀切の分断効果を大きくしている。北郭群は3~4段の馬蹄段より成り、特に最上段の北郭1は広く、削平も見事である。北郭から大土塁の西側を迂回する城道が残り、腰曲輪の段を経由して主郭に登る動線も明瞭に残っている。遺構としては以上で、形態は比較的単純な直線連郭式の城であるが、普請はしっかりしていて見応えがある。
主郭~南郭間の堀切→IMG_0814.JPG
IMG_0844.JPG←北郭1と大土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.315379/135.128939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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荒河置山城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0674.JPG←大手郭側方の畝状竪堀
 荒河置山城は、歴史不詳の城である。『片山文書』によれば、南北朝期の1339年、船井郡和知の地頭片山忠親が「安良賀城」を攻め落としたとあり、この安良賀城が荒河(置山)城のことであろうと推測されている。一方、『丹波志』には城主として山吹将監・荒河伊達右衛門などの名が見えるが、詳細は不明。また現地の遺構には小規模な畝状竪堀があることから、少なくとも戦国期の城と考えられ、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死した、1565年の和久郷合戦に関係した城砦であったかもしれない。

 荒河置山城は、由良川と和久川の合流点西側の、標高102.4m、比高87m程の丘陵上に築かれている。南麓に武神社があり、そこから登っていくことができる。南尾根を進むと、段々になった曲輪群が見られ、更に登っていくと山頂の主郭群に至る。主郭群は主郭を中心に5段ほどの同心円状に段差だけで区画された平場で構成されている。主郭には方形の高台があり、天守台かそれに準ずる櫓台があったものと考えられる。大手は北東にあったと考えられ、主郭群最下段の曲輪(大手郭)には、前面に低土塁があり、下に2段程の段曲輪が構築され、その先に堀切が穿たれている。また大手郭の両側方には小規模な畝状竪堀が確認できる。一方、主郭群の北西下方には物見台があり、その下に土橋の架かった堀切が穿たれ、北西出曲輪に繋がっている。この他、南西麓の時広大明神付近も平場が見られ、城域であった可能性がある。また南東の尾根にも出曲輪があり、頂部の曲輪は横堀で防御している。しかし後で調べたら古墳だったようなので、この横堀は元々古墳の周濠であったのかもしれない。荒河置山城は、未整備の山であるが藪は酷くはなく、遺構が良く確認できる。
北西出曲輪への堀切・土橋→IMG_0708.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.316832/135.108061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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新庄城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0554.JPG←堀切bに繋がる横堀
 新庄城は、歴史不詳の城である。横堀の発達状況から、戦国中期の内藤宗勝時代の改修が推測されている。尚、福知山市域には多数の中世城郭がひしめいているが、市街地の西方に当たる和久川流域も城郭密集地帯で、7km程の地域に新庄城を含めて大小22もの中世城郭が並び立っている。

 新庄城は、和久川西岸の標高50m、比高30m程の丘陵先端に築かれている。先端に粟島神社があり、そのすぐ裏がもう城域で、神社左手の裏から小道が付いている。『図解 近畿の城郭Ⅱ』と現地解説板で縄張図は同じだが、曲輪の呼称番号が異なる。ここでは現地解説板に従って呼称する。城域は大きく3つの区域に分かれ、一番北の先端曲輪群(Ⅲ郭~Ⅴ郭)、堀切aを介して南西曲輪群(Ⅰ郭~Ⅱ郭)、それと本城からやや離れた南出曲輪(Ⅵ郭)である。先端曲輪群は切岸だけで区画された曲輪群で、Ⅲ郭背後には大きな櫓台が築かれている。その背後は堀切で分断されている。南西曲輪群は、細長いⅡ郭とその上のⅠ郭から構成されている。Ⅱ郭の南側には小規模な横堀があり、横堀の東端は直角に曲がって竪堀となって落ちている。Ⅰ郭も背後を土塁で囲んでおり、北側に腰曲輪を置いている。Ⅰ郭背後には堀切bがあるが、直線的で単純な堀切aと異なり、北側で大きく折れて横堀となって廻り、先端で北に直角に曲がって竪堀となって降っている。その先には少々わかりにくいが二重竪堀が落ちている。要するに横矢掛かりの堀切となっているのである。南出曲輪Ⅵ郭は、背後に大土塁を築き、更に溝状の小二重堀切を穿っている。西側を小さな横堀で防御し、Ⅵ郭南端には小型の枡形虎口を築いている。遺構は以上の通りで、訪城が容易で、藪もそれほどひどくないので、中々楽しめる。
Ⅲ郭背後の櫓台→IMG_0472.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.305731/135.092139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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野田城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0444.JPG←二重堀切の内堀
 野田城は、歴史不詳の城である。背後に当たる南東の山上に狭小な白髪城があることから、砦の白髪城に対する本城であった可能性が指摘されている。

 野田城は、由良川南岸にそびえる標高160m、比高110mの山上に築かれている。城跡は井根山公園となって改変を受けている。普通、公園化された城址は、山頂近くまで車道が伸びているものだが、ここは車道がないので山麓から歩いて登らなくてはならない。というわけで、歩道が整備されているとは言え、「公園」にしてはしっかりした登山をしなければならない。登っていくと、山の西尾根に段曲輪状の小平場が散見されるが、登り道で改変されているので遺構かどうかはっきりしない。途中、山をぐるりと巡る幅広の遊歩道を突っ切ってその先の階段を登ると、主郭に至る。山頂の主郭東端には井根山秋葉神社が建っている。主郭は幅の狭い東西に細長い曲輪であるが、これもかなり改変されている。主郭後部に一段低く二ノ郭があるが、これも公園化で改変されている。ところが二ノ郭の東尾根に、突然のように二重堀切が現れる。ここから落ちる竪堀は南に長く降っている。また主郭と二ノ郭の付け根部分から南斜面へも、竪堀が1本落ちている。明確なのはここまでで、それ以外の縄張りは不分明である。解説板はおろか、城址標柱もなく、神社の縁起解説板にも野田城のことは一言も触れられていない。非常に残念な、忘れられた城となってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.288341/135.267920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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綾部陣屋、附・綾部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0374.JPG←保育園北面の急斜面
 綾部陣屋は、江戸時代の九鬼氏の陣屋である。戦国時代、この地の本宮山には八上城主波多野秀治の部将江田兵庫頭行範が1565年頃に築いた綾部城があった(本宮山は、現在は大本教団の聖地になっており、登ることができない)。江田氏は、南北朝時代に南朝軍の総帥であった新田義貞の有力な一族で、太平記にも名高い江田兵部大輔行義の後裔とされる。1579年、織田信長は波多野氏討滅のため、明智光秀の援軍として丹羽長秀・羽柴秀長らを丹波に進撃させた。綾部城は、但馬から侵攻した羽柴秀長により落城し、行範は氷上郡に逃れ氷上郡の城で討死にしたと言う。その後は明智光秀の持ち城となり、光秀滅亡後は羽柴(豊富)秀吉の支配下となった。1515年、大坂の役の軍功により別所豊後守吉治が2万石で入部したが、1628年、遊猟が過ぎるとして改易となった。その後1633年に、九鬼水軍で名高い鳥羽藩の3男九鬼隆季が御家騒動から丹波綾部に2万石で転封となり、綾部藩を立藩して改めて綾部城の西麓に陣屋を構えた。この陣屋も1650年に火事で全焼し、幕府の許可を得て台地上に移城して再建された。そのまま幕末まで存続した。

 綾部陣屋は、この最後の台地上に築かれた陣屋で、せんだん苑南保育園から綾部幼稚園にかけての一帯にあったと言う。比高10m程の段丘となっており、市街化が進んで往時の面影はないに等しいが、北面に往時の切岸跡と思われる急斜面が確認できる。この斜面下には、用水路と若宮清水と呼ばれる井戸が残っており、往時の遺構であるかもしれない。保育園の西側の坂道は大手坂と呼ばれたが、大正6年の貞明皇后行啓の際に、御召の馬車が通行できるように切り下げ工事を行って改変してしまったということである。この道路沿いの保育園壁面に、「綾部城大手門跡」の看板が建っている。
野田城から見た綾部城(本宮山)→IMG_0402.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.295767/135.257277/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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