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遠山城(茨城県牛久市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8044.JPG←北端の空堀
 遠山城は、歴史不詳の城である。一説には、関東管領山内上杉氏の家臣長尾憲景が、室町初期にこの地を与えられて遠山城を築いたとも言われるが、明証はない。
 遠山城は、牛久城から小河川を挟んだ東側の台地上に築かれている。南北2つの城域から成っており、南側の段丘先端部が主郭、北側の台地基部が外郭であったと推測される。主郭は現在畑になっており、平場がある以外は明確な遺構は確認できない。主郭と外郭の間は谷戸状の窪地で、車道が東西に貫通し、民家が立ち並んでいるが、往時は主郭と外郭を区画する堀切の役目を果たしていただろうことは想像に難くない。外郭は、民家や空き地となっており、北端部に鹿島神社が鎮座し、その北側に土塁と堀切が確認できる。堀切の東端は竪堀となって落ちている。結局、明確な城郭遺構としてはこの土塁と堀切だけで、それ以外は宅地化・耕地化による改変が進んでおり、不明瞭である。いずれにしても、古い形態の小規模な城砦であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.951912/140.139756/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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将門関連史跡 その4 [その他の史跡巡り]

 以前に茨城県内の県西地域の将門関連史跡について紹介したが、守谷・取手市域にも将門伝説が色濃く残っている。これは勿論、平将門の裔を自称した守谷城を本拠とした下総相馬氏の影響によると思われる。

<平将門・七騎石塔>(茨城県守谷市)
IMG_7986.JPG
 守谷の海禅寺には、平将門と7人の武者(七騎武者)のものとされる8基の石塔が残っている。1664年に守谷城主堀田正俊が寄進した『海禅寺縁起』によれば、海禅寺は931年に平将門が創建したと伝えられ、将門の母や弟将頼が寺に住んでいたと言う伝説も残っているらしい。将門には7人の影武者伝説があり、現在残る石塔は、937年に将門が京から帰国する途中、平良兼・貞盛軍に待ち伏せされ、将門の身代わりとなって討死した7人の影武者の供養塔と言われている。しかし江戸時代に建てられたものと言われ、あくまで伝説の域を出ない。しかし将門の影武者の墓というのは全国的にも珍しいらしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930005/139.986634/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<桔梗塚>(茨城県取手市)
IMG_7991.JPG
 桔梗塚は、将門の愛妾であった桔梗御前が亡くなった場所とされる。桔梗御前については諸説あるが、よく知られているのは、将門と7人の影武者のどれが本物かを見分ける方法を、桔梗が敵に教えてしまったために将門が討死したというものである。ここの桔梗塚に伝わる伝説では、将門が討たれたと聞いてここまで逃げて来た桔梗御前が、敵の追手に捕まりここで殺されたとされ、その恨みによってこの地の桔梗は花が咲かないと言う。元よりこれも伝説の域を出ない。
 場所は、国道294号線の脇で、交通量の多い幹線道路脇にこの様な史跡がぽつんと残っているというのは、何とも不思議なものである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925661/140.022640/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<朝日御殿跡>(茨城県取手市)
IMG_8000.JPG←大日山古墳に建つ岡神社
 朝日御殿は、将門の愛妾桔梗御前の御殿跡と言われている。岡台地の東端には平場が広がり、中央の一段高い土壇の上に岡神社が鎮座している。この土壇は大日山古墳で、県の指定史跡となっている。頂部からやや降ったところにも平場が広がっているが、御殿があったということ自体が伝説に彩られているので、遺構かどうかを詮索するのも野暮というものであろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.925400/140.050814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<伝平国香供養塔>(茨城県龍ケ崎市)
IMG_8054.JPG
 地元では古くから、将門の伯父平国香の供養塔と伝えられている。その形態から鎌倉後期から室町前期にかけて造られたものと推測されている。かなり大型の宝篋印塔であると同時に、全体が太い寸胴で、笠の部分に反りが見受けられるなど,一般的な宝篋印塔と比べて珍しい形状をしている。この地域は、平安後期~南北朝期にかけて「相馬御厨」と呼ばれる荘園に属しており、下総相馬氏が支配していた。そのような背景から、相馬氏一族に連なる有力な在地領主が創建に関わっていた可能性が指摘されている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.921925/140.139627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※過去の将門関係史跡巡りはこちらこちらこちら
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小張城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7942.JPG←北側から見た城址推定地遠望
 小張城は、天正年間(1573~1592)に牛久城主岡見氏の家臣只越山城守善久により築城されたと伝えられる。この頃は下妻城主多賀谷重経による岡見氏攻撃が激しく、岡見氏は小田原北条氏に支援を求め、牛久番と呼ばれる北条麾下の北総諸将による輪番での守備を行っていたほどであるので、小張城の築城も牛久城防衛の一環であったろう。そして、東南東1kmの位置にある板橋城と共に岡見領西辺の防備に当たっていたと思われる。しかしその甲斐虚しく、1586年に小張城は多賀谷氏に攻め落とされ、只越氏は討死したと言う。その後、平手伊賀守、安岡豊前守などが城主となった。関ヶ原合戦後の1603年には、遠江久野城主松下石見守重綱が咎により小張城に移封となった。重綱は、鉄砲を扱う火薬師であったとも言われ、小張松下流綱火(国重要無形民俗文化財)を考案している。1623年に松下氏は下野烏山城に加増転封となり、小張城は廃城となった。

 小張城は、小張小学校付近にあったとされているが、遺構不明のため、その具体的な位置もわかっていない。小学校が建っているのは比高10m程の段丘辺縁部であり、城を築くには確かに適地であったろうとは想像される。北側から小学校を望むと、小学校手前がやや窪んでいるので、もしかしたら堀があった跡かも知れない。いずれにしても失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.982720/140.039377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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高崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7932-001.JPG←城址遠望。住宅団地が城跡
 高崎城は、牛久城主岡見氏の支城である。『日本城郭大系』によれば、小張城主只越善久が築城したとされるが、詳細は不明。城址の北方800m程の所に岡見氏の一族岡見五郎兵衛が配送の後に自刃したと言われる場所があり、墓塔が建っていることから、岡見氏に深く関わっていた城であろうことは想像に難くない。
 高崎城は、その名も「城山」と言う地名の残る住宅団地にあった。現在は城内はほぼ全て住宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代の航空写真を見ると、南に伸びた舌状台地の中程に南北2本の空堀で囲まれた曲輪がはっきりと確認でき、ここが主郭であったと思われる。周囲を低湿地帯で囲まれた低台地で、その輪郭は現在の住宅団地の輪郭にほぼ一致している。北に行くに従って高くなっている地勢で、北端の外郭に当たる部分は現在畑となっており、その北辺に土塁っぽいものが遠目に見えるが、畑のため進入不能で確認できなかった。尚、城域の北東部の市道脇に大手門跡の標柱が建っている。その南に土塁状の土盛が続いているが、遺構かどうかは不明である。標柱だけでなく、解説板も建ててくれるとありがたいのであるが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.990690/140.121989/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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長井戸城(茨城県境町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7846.JPG←主郭前面の空堀の横矢掛かり
 長井戸城は、天文年間(1532~55年)に小山氏に属した菅谷左京という武士の居城であったと伝えられている。菅谷氏は、1554年に祇園城主小山朝政の攻撃を受け、激戦の末に小山氏に降伏したと伝えられている。小山氏は古河公方の有力な与党であり、小山氏が長井戸城を攻撃したとされる年には、北条氏康に敵対した前古河公方足利晴氏・藤氏父子が古河城に立て籠もり、氏康の攻撃を受けて捕らえられていることから、足利晴氏の挙兵に呼応した攻撃であったものと推測される。その後の歴史は不明であるが、栗橋城水海城逆井城の中間に位置していることから、戦国末期には、北関東へ大きく勢力を伸ばして小山氏をも降した小田原北条氏の繋ぎの城として機能していたものと思われる。尚、発掘調査の結果では、12世紀~13世紀頃の鎌倉時代に築かれ、戦国時代まで在地豪族によって使われた可能性が高いことが判明したそうである。また長井戸城主であった菅谷家に伝来した「萌黄糸威伊予札二枚胴具足」が現存している。

 長井戸城は、現在長井戸香取神社の境内となっている。小河川に挟まれた舌状台地の中程に位置している。参道を歩いていくと、社殿の前面に空堀と土塁が横たわっている。空堀は浅くなってしまっているが、堀幅から考えると往時は3~4mの深さがあったものと推測される。参道東側で大きく横矢掛かりの屈曲が設けられており、いかにも北条的な造りである。社殿の建っているのが主郭で、外周の土塁は東半が残存しており、東側の空堀も明瞭に残っている。南の二ノ郭にも僅かであるが東辺の土塁・空堀が残存している。全く期待しないで行ったが、横矢の土塁・空堀が綺麗に残っており、一見の価値がある。
主郭北東部の土塁→IMG_7859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.131159/139.796090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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岸の砦(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7800.JPG←猪名野神社境内に残る土塁
 岸の砦は、有岡城の惣構を守る砦の一つである。惣構の北端の突出部に位置し、1579年の織田信長による有岡城攻めの時には、荒木村重の重臣渡辺勘大夫が守っていたと言う。
 岸の砦は、現在の猪名野神社の境内にあったと推測されている。境内外周には土塁が残り、その脇の小道は、見るからに堀跡を思わせる。わずかな遺構ではあるが、今では失われてしまった有岡城惣構の雰囲気をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.785180/135.415184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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有岡城(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7757.JPG←主郭西側の堀跡
 有岡城は、織田信長に謀反を起こした荒木村重の居城として知られ、また村重を翻意させようと説得に訪れた黒田官兵衛孝高が幽閉された城としても有名である。元の名を伊丹城と言い、この地の土豪伊丹氏が鎌倉末期頃に築いたと考えられている。『太平記』には、1362年7月、佐々木導誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に伊丹大和守の名が見える。同時代の軍忠状などには伊丹城の名が記載されており、南北朝期には伊丹城が実在していたことが判明している。
 また、1495年に成立した『新撰莵玖波集』という連歌集の中に、摂津守護細川氏の家臣伊丹兵庫(元親)の歌が4首も撰ばれていることから、伊丹氏は細川氏家中でも有力家臣で、和歌にも秀でた教養人であったらしい。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、伊丹城は度々攻防の場となり、三好長慶が畿内を制圧してからも伊丹城は度々攻撃を受けている。
 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、伊丹城主伊丹親興は直ちに信長に応じて三好氏を攻撃した。信長が摂津を制圧すると、親興は池田城主池田勝正・芥川城主和田惟政と共に「摂津三守護」となった。しかし将軍義昭と信長が不和となり、1573年に義昭が追放されて室町幕府が倒壊すると、将軍家側近となっていた伊丹氏も信長と対立した。翌74年、信長は、池田勝正の家臣として頭角を現した茨木城主荒木村重に命じて伊丹城を攻撃・落城させ、伊丹氏は滅亡した。伊丹城に入った村重は、信長より摂津一国38万石を与えられ、また城名も信長の命により有岡城と改め、摂津一国の軍事上の中心となるべく大改修を行って、惣構を有した城を完成させた。その後も信長に従って石山本願寺攻めなど各地の合戦に参加していたが、1578年10月、突然信長に反旗を翻し、有岡城に立て籠もった。驚いた信長は明智光秀らを説得に行かせたが失敗した。また羽柴秀吉の家臣黒田官兵衛も説得に赴いたがやはり失敗し、城内の土牢に幽閉されてしまった。信長は、大軍で有岡城を包囲攻撃したが、屈指の堅城であったため1年近くに及ぶ長期戦となった。しかし次第に敗色が濃厚となり、村重は有岡城を脱出して嫡男村次の居城尼崎城へ移った。その後も残った家臣たちが籠城戦を続けたが、1579年11月に有岡城は落城し、捕らえられた荒木氏一族・家臣・その家族らは悉く誅殺された。その後、池田之助(池田恒興の長男で輝政の兄)が城主となったが、1583年に美濃岐阜城に移ると、有岡城は廃城となった。

 有岡城は、猪名川西岸の伊丹段丘に築かれている。南北に長い不定形をした惣構を有した城で、惣構の北端に岸の砦、中央西端部に上臈塚砦、南端部に鵯塚砦を築いて防御を固めていたと言う。主郭は城域中央の東端に位置しているが、主郭西端部が周囲より一段高く、公園化されて残るほかは、鉄道や道路建設で破壊されている。JR伊丹駅の真ん前であるので、今となってはわずかに公園として残っているだけでも貴重であろう。昭和50年から行われた発掘調査で、主郭西側の土塁内面の石垣や石組み井戸・建物礎石などが検出され、復元保存されている。石垣には、福知山城などと同じく五輪塔の石材が転用されている。主郭跡の公園の西側には広い円弧状の窪地が残っており、これほど市街化が進んだ街中であるにも関わらず堀跡であることが明確にわかる。こんなに綺麗に堀跡が残っているとは予想外である。その他の遺構が見る影もないのは、残念だが場所的に仕方のないところであろう。とにかく幅広の主郭堀跡が立派である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.781232/135.420871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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師直塚(兵庫県伊丹市) [その他の史跡巡り]

IMG_7733.JPG
 師直塚は、足利尊氏の執事として辣腕を振るった高師直とその一族を祀ったとされる塚である。高氏は高階氏の出自で、古くは平安時代から源氏との関係を有し、鎌倉時代には代々足利氏の執事となって家政全般を取り仕切っていた。鎌倉時代の足利氏は、執権北条氏一門以外の外様では最大の勢力を有した御家人だっただけあって、諸国に膨大な所領を持っており、これらを管轄・統治するために政所・奉行所・御内侍所といった統治機構が整備されていた。あたかも小幕府とも言うべき規模で、これら全体を統括していたのが高氏であった。殊に南北朝動乱初期の激変する社会情勢と勢力図の中で、これらを破綻なく統括し続けていたことは並の能力ではなかったはずで、師直がいかに切れ者であったかが想像できる。
 尊氏が将軍となってからは、執事施行状という形式を発案して将軍権力を支えると同時に、将軍の親衛軍団長として各地の戦いで抜群の戦功を挙げた。戦場での機動性を高めるために「分捕切棄の法」を初めて採用し、北畠顕家を討死させた。四条畷の戦いでは、細川顕氏・山名時氏といった猛将を相次いで撃破した恐るべき知略をもった楠木正行をも撃ち破り、自刃に追い込んだ。『太平記』ではこの時の師直を、敵の偽装撤退を見抜いた「思慮深き老将」と評している。また、正行の奇襲に混乱に陥った自軍を押しとどめたり、師直の厚情に感激した上山左衛門という武士が、師直の身代わりとなって盾となり討死したエピソードも語られている。
 一方で師直には専横の振る舞いも多かったらしく、戦功を無視された桃井直常など、恨みを持つ武士も多かったとされる。それが遂に室町幕府を主催してきた足利直義との党派対立に発展し、観応の擾乱へと突き進むこととなった。摂津打出浜の合戦で弟直義に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦を結んだが、先年師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。『太平記』によれば、この時殺されたのは師直・師泰以下、一族家臣合わせて14人に登った。太平記の記述を読む限り、能憲は予め誰が誰を殺すか用意周到に決めており、しかも和睦して武装解除された敵将を、実際に養父殺害に関わった師直・師泰だけでなく14名も抹殺したのは、虐殺というべき所業であった(家来を含めるともっと多かったはずである)。太平記の描いた殺伐とした時代でも、この様な虐殺行為は他に例を見ない。この行為を黙認した直義は、自軍に付いた武士達からも早くに信望を失ったのだろう(生粋の直義党の武将は別として)。それが結局、打出浜合戦での大勝からわずか半年での直義の京都脱出、そして八相山合戦・薩埵山合戦での敗北へと繋がっていくことになったと個人的に推測している。
 尚、これ以後も高氏の傍系は細々と続いたが、師直時代の様に燦然と輝く事績を残す機会は、遂に再び廻ってくることはなかった。

 師直塚は、武庫川東岸の国道171号線の側道脇にある。大正4年に建てられたという立派な石碑がここに移されている。周辺は市街化が進んで往時の面影は全く見られないが、石碑だけが動乱の歴史を今に伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.774023/135.384264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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瓦林城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7724.JPG←城址とされる日野神社
 瓦林城は、南北朝時代に赤松円心の部将貴志五郎四郎義氏が守っていたことが知られる城である。即ち『貴志義氏軍忠申書』によれば、1336年4月13日に義氏は瓦林城に立て籠もっており、足利尊氏が九州で態勢を立て直して再挙東上するまでの間、白旗城に籠もった赤松勢の一翼を担って、摂津瓦林城で新田義貞率いる南朝軍の進攻を食い止めていた。5月25日の湊川の戦いでは、南朝軍は香下寺城・円生寺城から瓦林城に来攻し、これと戦ったと言う。また『太平記』には、1362年7月、佐々木導誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に河原林(瓦林)弾正左衛門の名が見える。瓦林氏の出自は不明であるが、既に瓦林付近に拠点を持っていた可能性がある。神崎川下流の北朝軍の防衛体制を見た南朝軍は、夜半密かに神崎川の上流から渡河し、小屋野(昆陽)・戸松(富松)・河原林(瓦林)に軍勢を配して、早旦に北朝軍を一斉攻撃したと言う。昆陽・富松・瓦林は後述する通り、いずれも戦国期には城が築かれた要地であり、この時既に瓦林に何らかの城砦が築かれていた可能性がある。尚、北朝軍はこの合戦で大敗し、河原林弾正左衛門も討死したと記載されている。
 時代は下って戦国前期には、瓦林正頼の持ち城となっていた様である。瓦林氏は鷹尾城から越水城に居城を移しているが、瓦林城はその支城となっていたと推測されている。1519年に阿波から細川澄元が越水城に攻め寄せてきた時には、細川高国が越水城の後詰めとして池田城を本陣とし、昆陽城・富松城と共に瓦林城に兵を入れて陣を張らせたと言われている。1570年9月、瓦林三河守が城主の時、三好氏の部将篠原長房の攻撃を受け、織田信長に味方していた三河守は、防戦虚しく城兵ら男女110余名と共に討死した。但しこの時落城した城は、瓦林城であったとも越水城であったとも言われ、詳細はわかっていない。いずれにしても、瓦林城はこの頃には機能を失ったと考えられている。

 瓦林城は、武庫川西岸の平地に築かれていたらしい。現在の日野神社の辺りにあったと言われており、神社参道に城址碑が立ち、神社の由緒書きにも瓦林城のことが記されている。しかし堀跡も残っておらず、城を思わせるものは何も残っていない。戦後間もなくの航空写真を見ても城の名残を思わせるものは確認できないので、早くに失われた城の様である。その不鮮明な歴史と共に、闇に包まれた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.749150/135.370338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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越水城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7717.JPG←城址碑・解説板
 越水城は、この地の土豪瓦林氏が戦国時代に築いた城である。元々この地では、南北朝時代の観応の擾乱で打出浜合戦が行われた際に、足利直義方の畠山国清・石堂頼房・上杉朝房らが小清水(越水)に陣所を置いたと言う(『太平記』では打出浜合戦とは言わずに小清水合戦と呼んでいる)。一方、瓦林正頼は豊嶋に館を構えていた土豪であったが、応仁の乱が始まるとより要害性の高い鷹尾城を築いて居城を移した。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、正頼は1516年に越水城を築いて居城を移し、細川高国に味方したと言う。阿波から京に上る細川澄元が越水城に攻め寄せ、高国が後詰めに出陣したが、1520年2月、正頼は澄元勢に開城して堺へ逃れた。同年10月、正頼は開城の責めを問われ、また澄元と内通したとして切腹させられた。その後、澄元の家臣三好氏が入城した。以後、越水城は三好氏の本城となり、阿波本領への中継拠点ともなった。1533年、瓦林氏は一向一揆衆と共同で三好氏を攻めて越水城を奪い返し、瓦林一族が城を守ったが、その後も攻防が繰り返され、後には畿内の覇者三好長慶の居城となった。長慶は、家臣松永久秀を京に留め、自身は越水城で指揮を執ったと言う。1566年、三好氏の家臣篠原長房が城主の時、瓦林三河守に攻められて一旦開城したが、4ヶ月後には長房が奪還し、9月には足利義親(後の足利14代将軍義栄)が一時入城した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭・信長の連合軍が摂津征伐を始めると、長房は越水城を放棄し、越水城には織田方の武将が入ったと考えられる。その後の織田勢力の伸張に伴って、越水城は戦略的価値を失い、廃城になったと思われる。

 越水城は、比高15m程の丘陵上に築かれている。現在は一面の市街地となって民家が所狭しと建てられており、城の遺構は完全に湮滅している。しかし現在でも急坂の上にあり、西国街道の要衝であったことは地勢から窺える。大社小学校の南東角に城址碑と解説板が建っており、その文面からもてっきり小学校敷地が城址だと思っていた。しかし『日本城郭大系』に記載の縄張図と戦後間もなくの航空写真とを見比べると、小学校東側の段丘辺縁部が城の中心部であったらしい。前後の航空写真には西側の土塁と堀がはっきりと確認できる(その位置は小学校敷地より東側である)。従って段丘の南東部を堀で断ち切って、主郭を置いていた様である。主郭後部に天守台が築かれ、主郭内の段差部には石積みもあったらしいが、昭和30年代には全面的に宅地化されてしまっており、今では見る影もない。往時、畿内の覇者となった三好長慶が拠っていた城とは想像できない変わり様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746682/135.337830/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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