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志津城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6593.JPG←神社のある高台
 志津城は、千葉氏の一族臼井氏の居城臼井城の支城である。臼井昌胤の次男胤氏がこの地に分封されて志津氏を称し、志津城を居城とした。鎌倉後期の1314年、臼井氏10代祐胤(胤氏の兄)が25歳の若さで病没し、わずか3歳の嫡子竹若丸(興胤)が、叔父の志津胤氏の後見を受けて家督を継いだ。しかし胤氏は、竹若丸を暗殺して臼井氏惣領の座を奪おうとした。それを知った一族の岩戸胤安は、竹若丸を臼井城から脱出させて自らの居城岩戸城に匿い、更に鎌倉建長寺に竹若丸を隠した。これを知った胤氏は、岩戸城を攻めて岩戸胤安・胤親父子を滅ぼし、臼井氏を乗っ取り臼井城を居城とした。後に成長した興胤は、南北朝の騒乱の中で足利尊氏に従った軍功により臼井氏の惣領と認められ、1338年、尊氏の命で胤氏は興胤に臼井城を明け渡した。しかし内心不本意な胤氏は、興胤を侮って非礼が多く、遂に興胤は胤氏討伐を決意し、1340年に志津城を攻撃して志津氏を滅ぼした。以後、志津城は廃城となったと考えられている。

 志津城は、小河川に面した比高5m程の低台地に築かれていたと考えられている。城址周辺一帯は市街化でかなり改変されており、天御中主神社の付近だけが城址の雰囲気を残している。神社境内は、2段ほどの平場を持った小さな高台となっており、往時の城の櫓台の様な感じである。この高台の脇には水堀らしい跡も残っている。確認できるのはそのぐらいで、あとはやや起伏のある地形に住宅地が広がっているだけである。志津城は、師戸城・岩戸城と並ぶ臼井城周辺の三大支城の一であったと言われているらしいので、この周囲を城域とした広大な城であったと思われるが、戦後の航空写真を見ても既にどの様な縄張りだったのか、追うことができなくなってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.709366/140.147202/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

  • 作者: 千野原 靖方
  • 出版社/メーカー: 崙書房出版
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: 単行本


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井野城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6577.JPG←二ノ郭の桝形虎口
 井野城は、歴史不詳の城である。戦国時代のこの地域は下総の名族千葉氏の勢力下にあり、千葉氏の一族で重臣であった原氏が臼井城の支城として井野城を築いたのではないかと推測されている。

 井野城は、ユーカリが丘という住宅団地の一角にある。ユーカリが丘は、もうかれこれ40年程前、私がまだ小学生で八千代市の近くに住んでいた頃に、住宅団地と一緒にユーカリが丘線という新交通システムができたということで、友達とわざわざ京成線を乗り継いで乗りに行ったことがある、思い出の地である。まさかこんな開けてしまったところに、城址遺構が残っているとは思わなかった。周辺は市街化で往時の面影は全く残っていないが、城跡部分の丘だけが周囲から隔絶された異次元空間の様に残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、南に向かって張り出した台地先端部の小山となっていたが、周辺台地の地形はかなり変わってしまっている。そうした地形の改変を考慮した上で遺構を見る必要があるだろう。南側の谷戸は、現在宮の杜公園という調整池となっている。丘の上には八社大神という神社があり、その脇に窪地状の広い空間があり、これが主郭とされている。窪地状の曲輪という、珍しい形である。その周囲は削り残しの土塁らしく、外周には横堀が遊歩道となって残っている。また主郭の東側にニノ郭があり、前述の横堀はこの二ノ郭手前で東に折れている。この折れの部分に二ノ郭の虎口があり、一種の枡形虎口を形成していた様である。虎口脇には土塁もはっきり残っている。二ノ郭は、主郭より小さい曲輪だがなぜか主郭より一段高い位置にある。しかし周囲の土塁の防御性では主郭より劣っていることを考えると、やはり高い位置にある方が二ノ郭なのかな?という不思議な感じの縄張りである。井野城は、この様にあまり城跡らしさを感じさせない遺構であるが、おそらく陣屋的な機能が主体の城砦だったのではないかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.739084/140.148983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

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  • 作者: 千野原 靖方
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タグ:中世平山城
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柳戸砦(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6461.JPG←東側の空堀
 柳戸砦は、歴史不詳の城砦である。この地は、鎌倉~室町前期頃には、下総相馬氏か、新田岩松氏(相馬氏2代義胤の娘土用御前の嫁ぎ先)が領したことが、『新田岩松文書』から推測されている。戦国後期には、小金城主高城氏がこの地を支配していたらしい。しかし柳戸砦との関連は不明である。
 柳戸砦は、下柳戸集落背後の丘陵地に築かれている。六所神社の東側に隣接しており、山林内に南に開いたコの字状に、浅い空堀と低い土塁が廻らされている。北側の空堀には土橋のようなものも見られるが、かなりささやかなもので、実際に遺構であるかどうかはわからない。東側の堀・土塁は、比較的しっかり普請されているものの、全体的にはかなり小規模なものなので、どこまで城砦としての防御性を有したかは疑問がある。どちらかと言うと、屋敷地の区画という意図で作ったもののように見受けられる。遺構を見る限り、意図不明の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.837307/140.063581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東葛の中世城郭―千葉県北西部の城・館・城跡

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  • 作者: 千野原 靖方
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タグ:中世平山城
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片岡館(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6404.JPG←主郭東側の空堀
 片岡館は、歴史不詳の城である。伝承では八代将監という武士の居館であったと言われているようだが、その事績は不明である。
 片岡館は、東筑波カントリークラブというゴルフ場の北側に突き出た、比高10mに満たない台地上に築かれている。現在は北端の主郭のみ残っているが、往時は南に外郭があったらしい。外郭はゴルフ場建設で失われている。主郭は、外周を土塁で囲繞しているが、一部土塁が切れている部分が散見される。土塁はほとんどが1m程の高さしかないが、背後の土塁は2m程で他より高くなっている。主郭の南には車道が通っており、明らかに外郭との間の堀切の跡であるが、幅などは改変されていると思われる。また主郭の東側と西側には、この手の小城砦にしては大きな空堀が穿たれている。最大で7m程の深さがありそうだが、藪が酷く確認が大変である。空堀の外側には土塁が廻らされている。主郭部分だけとは言え、遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多いのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.244870/140.214450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

東アジアの中世城郭: 女真の山城と平城 (城を極める)

  • 作者: 臼杵 勲
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/05/22
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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二条山楯(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6197a.JPG←主郭北側の三重横堀
                            (クリックで拡大)
 二条山楯(二条山館)は、宇治会館とも呼ばれ、路川氏の城であったと伝えられている。路川氏は、小田一門の宍戸氏の一族であったらしいが、城の歴史共々詳細は不明である。
 二条山楯は、恋瀬川東岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。北に源照寺があり、その裏の墓地脇から小道が城跡まで通じている。方形の主郭と、南の二ノ郭から構成された城で、横堀が多用されている。特に主郭の北側では、山形の松ノ木楯で見たような、見事な三重横堀が構築されている。三重横堀は東側では内堀・中堀は腰曲輪に変化している。一方で外堀は主郭全周を囲繞しており、南側に主郭虎口があって土橋が架かっている。また二ノ郭の西側にも横堀があり、主郭西側中腹の横堀に繋がっている。また二ノ郭周囲は一段低く腰曲輪が取り巻き、西斜面には竪堀と竪堀状の城道がはっきりと残っている。南にも祠に通じる竪堀状の参道があるが、遺構かどうかはわからない。二ノ郭の東斜面にも竪堀・横堀が見られる。遺構としては以上で、基本的には方形居館から発展した城と思われるが、横堀群は見応えがある。一部は藪で確認しにくい部分もあるが、藪は全体に少なめである。
主郭南側の横堀と土橋→IMG_6233.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.272433/140.202198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

※東北地方や茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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湯崎城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6102.JPG←空堀と北出曲輪
 湯崎城は、宍戸城主宍戸氏の支城である。南北朝期の1344年に、宍戸安芸守朝里 (朝重)によって築かれたと言われるが、別説では鎌倉初期の1203年に築かれたともされる。どちらが正かは不明であるが、いずれにしも宍戸城防衛のために築かれた城だということは共通している。1481年、水戸城主江戸通長は、涸沼川南岸の小幡地方への進出を企て、小幡氏を攻撃した。小幡城の小幡氏は、宍戸氏・笠間氏・大掾氏らに援軍を要請し、同年5月5日、小幡・宍戸・笠間等の連合軍は江戸軍と、小鶴原で激突した。この時、連合軍三千余騎は、湯崎城に集結したと言う。この小鶴原合戦で、小幡・宍戸等の連合軍は江戸氏の攻撃を凌ぎきり、江戸勢は水戸城に退却した。戦国後期になると佐竹氏の勢力が伸長し、宍戸氏は一定の独立性を保ちつつ佐竹氏に従った。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪を武力で制圧する一方、佐竹氏に従っていた宍戸氏ら諸豪は佐竹氏の家臣と見做され、その後の佐竹氏領内の領地替えで、宍戸氏は海老ヶ島城に移された。1602年に、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、湯崎城は廃城となった。

 湯崎城は、涸沼川北岸の比高15m程の段丘辺縁部に築かれている。市道から東に小道を入って行くと城の入口に至る。往時の大手虎口であったと思われ、土橋が架かり、その両側には土塁と空堀が築かれている。ここは主郭の北辺部に当たる。この虎口の東側にやや離れて、土塁囲郭の北出曲輪が築かれている。虎口防衛の堡塁であったのだろう。土塁で囲まれた小さな曲輪なので、窪地の様に見える。統治拠点の政庁的城だったらしく、主郭は極めて広く、東に伸びている。現在は主郭の東半分は果樹園と民家になっており、遺構の湮滅が進んでいて、明確な城域は確定できないが、おそらく東の市道までが城域だったのだろう。基本的にはただだだっ広い主郭だけの単郭の城で、その西面と南面に一段低く帯曲輪を延々と廻らしている。主郭側に低土塁も散見される。数年前までは比較的よく整備されていたようだが、現在はかなり放置されていて薮が多く、虎口近くにある城址碑も藪に埋もれていて、最初どこにあるかわからなかったほどである。藪が酷い上、遺構面でも特筆すべき物が少なく、少々物足りない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.303825/140.323477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0



改訂版 図説 茨城の城郭

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  • 作者: 茨城城郭研究会
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竹原城(茨城県小美玉市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6072.JPG←外郭の堀切
 竹原城は、府中城主大掾氏の支城である。大掾貞国の弟義国が、1559年に竹原城を築いて居城とし、竹原氏を称した。1590年、豊臣秀吉から常陸一国を安堵された佐竹義宣は、豊臣政権の権威を背景に常陸南部諸豪の制圧に乗り出し、同年12月に佐竹勢によって府中城は攻略され、大掾清幹は自刃して平安以来の名族大掾氏は滅亡した。この時、義国も討死にし、竹原城も廃されたと言う。

 竹原城は、園部川東岸に張り出したD字型をした低段丘に築かれている。この低段丘の中心に7~8m程の切岸で囲まれた主郭がある。主郭内は竹林となっているが進入できないほどではない。主郭北辺には祠が祀られた櫓台が築かれている。主郭の中央部はやや盛り上がっており、主殿が建っていたと推測される。この他、主郭外周には土塁が散見される。主郭の南東から城道が伸びており、下の腰曲輪に通じている。一方、主郭の北東には外郭が広がり、台地基部を分断する堀切と土塁が残っている。遺構としては以上で、居館機能を主体とした簡素な城砦である。
主郭の櫓台→IMG_6057.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.203049/140.315087/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1



続 図説 茨城の城郭

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  • 作者: 茨城城郭研究会
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  • 発売日: 2017/07/31
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山田城の北出城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6011.JPG←主郭東側の堀切
 北出城は、山田城の尾根続きで、且つ山田城との間に谷戸を挟んだ丘陵上に築かれた出城である。山田城周辺には、この他にも山田氏の支城である小規模城館群が築かれていた。
 北出城は、ノースショアカントリークラブというゴルフ場のすぐ南に隣接する小丘上にある。西を通る県道2号線から車道が伸びているので、訪城は容易である。西から近づくと、出城本体から100m程離れた位置の道の脇に、明確な縦堀が落ちている。かなりはっきりした遺構で、竪堀だけでなく側方の竪土塁も明瞭である。出城自体は、小さな単郭の城で、東西に長い主郭があり、西と東に土塁を築き、その下に各々堀切を穿っただけの極めて簡素な構造である。西の堀切は藪が酷くて形状がわかりにくいが、東のものは深さ4m程ではっきりと形状が捉えられる。主郭内は藪が酷くて進入できない。北出城は大した遺構ではないが、形状が明瞭で行きやすい場所にあるので、山田城に行ったついでに寄るとよいだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.078422/140.525286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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山田城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5941.JPG←主郭の土橋
 山田城は、この地の土豪山田氏の居城である。山田氏の出自は不明であるが、14~ 15世紀頃に山田郷に土着した武士と推定されている。城主としては、山田太郎左衛門の名が伝わっている。山田氏の事績は不明であるが、1591年に、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将が謀殺され城が悉く制圧されると、山田城も開城して山田氏は滅亡したと推定されている。

 山田城は、北浦西岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南麓から登り道が付いており、主郭付近にある神社まで通じているので、苦労せずに登城できる。登り道は切り通し状となっていて、側方上部には腰曲輪の塁線に見下されており、往時の大手道であったと考えられる。登り切ると、主郭東側の二ノ郭に至る。二ノ郭は主郭の南面から東面にかけて広がるL字状の曲輪である。その上に主郭が数mの切岸でそびえている。主郭の南東隅には大型の櫓台があり、御嶽神社が祀られている。主郭は櫓台の北から西にかけて大きく広がっており、かなりの面積がある。櫓台周りを中心に、主郭全面積の半分ほどは藪が伐採されて開けているが、それ以外は大藪に埋もれている。主郭の西側から北側には1本目の横堀(横堀1)が延々と穿たれている。横堀の外周には土塁が延々と続き、北側まで来た所で、幅のある帯曲輪に変化している。この帯曲輪外周に2本目の横堀(横堀2)が穿たれている。この横堀2は、途中に土橋が架かり、外周土塁に竪堀状虎口が築かれ、横堀先端は北東尾根を掘り切っている。更に横堀2の北東部で3本目の横堀が派生しており、北東尾根に平行に、尾根の先端近くまで掘り切り、その先は腰曲輪となっている。この様に三重横堀で防御した、厳重な普請を施している。一方、主郭の北東角には横堀1に土橋が架かり、帯曲輪から主郭の虎口に通じている。この土橋の部分で、横堀はT字に分岐しており、南側に伸びる横堀は二ノ郭途中で堀がなくなっている。二ノ郭の北端は、横堀1で帯曲輪と分断されており、堀に沿って土塁を築いて防御している。この他、城の南西には搦手と思われる堀状通路などが見られ、また北東尾根には穴が縦に並んだ、意図不明の謎の畝堀状地形が見られる。山田城は、豪快な三重横堀が特徴的で、中々見応えがある。しかし藪のひどい部分もあり、近年部分的に整備が進められているものの、更なる整備が望まれる。
主郭の櫓台→IMG_5795.JPG
IMG_5831.JPG←横堀2

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.074832/140.526917/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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戸崎城の山崎出城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5736.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 山崎出城は、戸崎城の外郭東端に張り出した、独立性の高い出城である。戸崎城外郭からは堀切で分断されており、幅広の土橋が架かり、出城側には櫓台が築かれて虎口を防御している。出城自体は南北に2つの曲輪を連ねた比較的小規模な城で、南が主郭で方形の曲輪となり、北が二ノ郭で舌状曲輪となっている。これら2郭の間には深さ4m程のしっかりした堀切が穿たれている。この堀切の東側には坂土橋が繋がっており、東側の腰曲輪群に通じている。従ってこの堀切は、堀底道を兼ねていたことがわかる。また坂土橋の南側には横堀が穿たれている。また二ノ郭の周囲には、腰曲輪が1~2段取り巻き、東側には前述の通り坂戸橋に繋がる形で腰曲輪群が伸びている。遺構としては以上で、簡素な構造の城砦ではあるが、普請はしっかりしており、出城として有効に機能していたことが想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.075872/140.276420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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