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兵糧楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8386.JPG←二重横堀と竪堀の防御構造
 兵糧楯は、歴史不詳の城である。一説には、横尾兵衛という武士が城主であったとも言われることから、兵衛館とも呼ばれる。また別説では、志津摩信濃守(志津戸信濃守?)の居城であったともされる。一方、古代アイヌの「チャシ」ではなかったかとの説もあるほか、南東1.6kmにある西小屋館と関連する城砦との説も提示されている。いずれにしても、多くの謎に包まれた城砦である。

 兵糧楯は、標高228.5m、比高130m程の山稜上のピークに築かれている。山麓からの距離は長いが、幸い車道が城近くまで整備されており、至る所に案内板も出ているのであまり迷うことなく到達できる。非常に特異な形態の城で、北東面と南西面に二重の横堀を穿って防御した縄張りとなっているが、横堀は全周を囲繞しているわけではなく、北西と南東では切れてしまっており、中途半端な防御構造となっている。その一方で、南東には馬出し的な独立小郭が構築され、下方への防衛拠点となっていた様である。また東端部でも横堀沿いに馬出し的な小郭があるが、南東のものほど独立性が高くない。また東端付近は二重横堀に加えて2本の竪堀も穿たれ、これらの組み合わせにより巧妙な防御構造が構築されている。一方、城の中心となる主郭は、曲輪内がやや傾斜した削平の甘い平場で、外周に数段の帯曲輪を廻らしている。西側にも搦手と思われる虎口が築かれ、横堀と帯曲輪の段を貫通して主郭に通じている。全体としては卵型をした単郭の城砦であるが、全体として円形の構造など、確かにチャシっぽい印象を受ける。現地解説板にもある通り、古代の祭祀の場所が中世に地方豪族の合戦の砦に転用されて来たものの様に感じられる。夏場でも公園として綺麗に整備されており、特異な遺構と相俟って非常に興味深い。
南東の独立小郭→IMG_8361.JPG
IMG_8390.JPG←北東辺の二重横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.137223/140.677807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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勝岡城(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8326.JPG←切岸と大手道跡の車道
 勝岡城は、後に平沢要害とも称され、伊達21要害の一である。伝承では、1402年に国分河内入道が伊達氏よりこの地を賜ったものとされている。また一説には、1591年頃に越後上杉氏の部将甘糟備後守が築城した城とも伝えられるが明確ではない。城の歴史がはっきりするのは、この地が伊達領に復してからで、慶長年間(1596~1615年)末に、伊達家の着座衆の一家、高野家15代光兼が百貫文で平沢を賜り、家中70余を引き連れて伊具郡丸森郷よりこの地に移住し、平沢要害を整備したと言う。その後高野家は9代200余年にわたってこの地を領し、幕末まで存続した。

 勝岡城は、平沢地区の比高20m程の丘陵上に築かれている。往時は、本丸と二ノ丸を土塁で囲み、南方には広く堀を巡らし、家中足軽等の屋敷を区別した約100戸の城下町を形成していたらしい。しかし城地が良質珪藻土の産地だったことから、明治末期から採掘されてしまい、平沢要害を含む丘陵部が根こそぎ破壊されてしまっている。現在は残った丘陵上に公民館が建ち、城跡の石碑と解説板が建っているが、前述の通り地形は大きく変えられてしまっているらしい。従って、車道沿いに見られる切岸地形も、どこまで往時の形状を残しているかは不明である。しかし南の屈曲する車道は、往時の大手道の形状をそのまま残しているようで、それから考えれば東側の斜面は切岸がそのまま残っている可能性がある。一方、広場になった丘陵西側の低地は、珪藻土採掘で削平された跡である。以上の様に、かなり城の遺構は失われており、現状では城の形状を把握するのも困難な残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127062/140.681155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西小屋館(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8296.JPG←土塁と堀跡
 西小屋館は、江戸時代の文献によれば、志津戸信濃守の家臣村上左近という武士の居館と伝えられている。真偽不明であるが、いずれにしてもその遺構から考えれば、中世の国人領主の居館であったと考えられている。また北西1.6kmの丘陵上により要害性の高い兵糧楯(館)があり、それとの関連も指摘されている。

 西小屋館は、周囲を丘陵に囲まれた小盆地の中央付近に位置する居館である。現在館跡は民家になっているが、民家の裏側に当たる西側から北側にかけて、土塁と堀跡が残っており、また南側と東側にも堀跡が一段低い水田となって残っている。平成4年に発掘調査が実施されており、五角形の土塁と堀で囲まれた城館で、更にその西側に区画溝のある外郭があって、家臣の屋敷跡と思われる建物跡も検出されている。
 尚、西小屋館のある小盆地を囲む馬蹄形の周辺丘陵には、「~屋敷」という地名があちこちに見られ、西小屋館を中心にして居館群が形成されていた可能性もある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.125881/140.689673/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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時代錯誤の石碑を建てた日本学協会 [日記]

先日、馴馬城に行ったついでに、来迎寺に行って国重文の多宝塔を見、次いで春日顕国の石碑を見学しました。平成19年に建てられた真新しい碑でしたが、その背面に刻まれた碑文が恐ろしく時代錯誤なもので、一読して呆れ果てました。その碑文は次の通りです。

「常総龍ヶ崎に古城あり 馴馬城と称す 建武中興期に忠臣春日中将顕国公が拠りて尊王の御旗を翻し大義を唱えし処なり 城兵の義憤慷慨の忠勇は凛々として正気にあり 其の顕著な戦果は建武中興に極めて貢献す 時に馴馬城外に国宝来迎院多宝塔が聳え建つ 征夷大将春日顕国公一統の忠魂者御霊碑を納める供養塔なり 嗚呼 風景に古今の変ありと雖も公の盡忠報国の英魂は永久にこの地に留まる 粛然として敬仰の心を起し公の英風を顕彰す」

戦前の皇国史観というものを知らない人も多いと思うので、注釈をつけておきます。

・「建武中興」
後醍醐天皇の始めた建武の新政を、皇国史観では「中興」と称しています。「武家の暴政から朝廷が政権を取り戻し、正しい姿に戻した」ということで「中興」と称していますが、実態とかけ離れた「虚偽観念」の産物であることは明白です。実態は、現実を無視した後醍醐の理念先行の暴政によって、庶民・武家のみならず公家からも支持を得られず、武家の大きな支持を受けた足利尊氏によって失政を覆されるに至ったもの。ですので、全然「中興」していません。それどころかたった3年で政権の座から追われ、賀名生の山奥に埋没しています。そして結局、3代将軍足利義満にその命脈を絶たれました。それ故、このブログでは一貫して「建武の新政」と称しています。

・「忠臣」
南朝方が忠臣であるとすると、その反対の北朝方は即ち「逆臣・逆賊」となります。これも虚偽観念の産物と言う以外の何物でもありません。室町幕府を開いた足利尊氏が逆賊なら、源頼朝も徳川家康も逆賊なんでしょう。南朝は、武家を虐げ、公家一統を無理に進めようとした失政を行って支持を失ったんですが、皇国史観ではそうした事実を無視しているわけです。後醍醐にとっては忠臣かもしれませんが、当時の圧政に苦しんだ武家・民衆の大多数からすれば国賊ものでしょう。

・「尊王」
南北朝時代の尊王の実態は、朝廷を尊ぶというより、後醍醐天皇への個人崇拝の傾向が強いと思います。大体、後醍醐以前に皇統は、大覚寺統と持明院統に分裂していました。この対立を利用して持明院統を担ぎ出したのが尊氏。大覚寺統の後醍醐が失政で転落した以上、持明院統に皇統が移るのは、当時としては当然の成り行き。ちなみに現在の天皇陛下は持明院統(北朝)の後裔。南朝を戴くのを「尊王」と言うなら、北朝の流れを汲む現在の天皇は認められないはずなのですが。それこそが水戸学・皇国史観の最大の矛盾点。虚偽観念により実態を無視した結果、論理破綻しているのです。戦前の日本の歴史学なんて、そんな観念論がまかり通った低レベルのものだったのです。

・「嗚呼」
昭和恐慌の後、日本全体が大きく右傾化した昭和9年~13年ごろに全国に盛んに建てられた南朝顕彰の碑には必ずと言ってよいほど出てくるのが、この言葉。読む人に感動を強制しているんでしょうか。それとも単なる自己陶酔?いずれにしても「虚偽観念」が産んだ言葉の一つなんでしょうねぇ。

・「盡忠報国」
これまたよく戦前・戦中に盛んに喧伝されていましたね。皇国史観の常套句。意訳すると、要は国のためになら個人の事情や財産など差し置いて、全てを投げ出して奉公しろと。国への奉仕を強制する、個人の権利無視、基本的人権無視の思想です。アベ自民が理想としている国民の姿は、この盡忠報国に一身を捧げる愚昧な民衆です。

どうでしょう、この恐るべき時代錯誤の碑文。石田三成すら過去の事実を洗い直して再評価している、実証主義の歴史学が主柱となっているこの時代に、観念論で事実を全て捻じ曲げる皇国史観が全開の石碑とは!この石碑を建てたのが、「財団法人日本学協会 水戸支部」だそうです。調べてみたら、日本学協会の理事長、あの皇国史観の総元締めだった平泉澄の孫がやってるんですね。戦前暗黒社会の亡霊がまた見つかりました。

このドブネズミのように地下に隠れて生き延びている連中が、アベ自民を裏で操っているんです。日本会議、神社本庁、神道政治連盟などと同穴の醜い極右集団です。憲法改正を唱え、集団的自衛権の必要性を声高に行っている奴らの狙いは、日本を戦前の極右統制社会・軍事優先国家に戻すこと。そうなれば、伊勢派神道は昔の権益を取り戻すことができ、皇族から外された連中も皇族の地位に返り咲いて保護を受け、莫大な予算を取り戻すことができる。また国民の権利を制限して彼らの目指す国家主義の方針に沿って、国民を盲従させられます。アベ自民が主導するマスコミ弾圧・言論統制も、国民から正常な判断力を奪うための手段の一つです。

茨城県は、水戸学発祥の地であるためか、各地を歩いているとどうもこうした戦前回帰主義者が多いような気がします。高萩でお会いした小学校の老齢の先生も「右」でした。風光明媚な良い県だと思うんですがねぇ。
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村田城(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8182.JPG←本丸背後の横堀
 村田城は、伊達氏の家臣村田氏の居城である。伝承では、室町中期の嘉吉年間(1441~44年)に、下野の名族小山氏の一族小山九郎業朝が下野国小山郷よりこの地に移住し、村田氏を称して伊達氏の家臣となり、館を築いたとされる。6代紀伊守近重は、伊達氏の内乱「天文の乱」の時、晴宗方に付いた。近重には嗣子がなく、伊達稙宗の9男宗殖を養子として跡を継がせた。宗殖は後に仏門に入り万好斎と号したが、1591年12月に領地を没収され、桃生郡長井に移った。尚、同年9月には、ここで伊達政宗の庶子秀宗(後の宇和島城主)が生まれている。その後、村田郷は伊達家の直轄領(御蔵入地)となり、城代として家臣の後藤三郎右衛門が置かれた。その後、1605~12年は伊達一門の石川昭光が在城した。1613年、政宗の7男宗高がわずか7歳で村田城主となり、3万石を領したが、1626年に20歳の若さで天然痘で病死した。宗高の時代に一国一城令で城の名を除き、村田館となり、宗高の死後、再び伊達家直轄領を経て、1629年に奥山大学常良が館主となった。その後、度々の館主の変遷を経て、幕末まで存続した。

 村田城は、村田町役場と村田第一小学校の背後にある標高54m、比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は城山公園となっており、ほとんどの部分が綺麗に整備されており、夏場でも訪城可能である。但し公園化の代償として、一部改変を受けている。V字状の丘陵頂部に方形に近い形状の本丸を置き、周囲には腰曲輪、南東尾根に二ノ丸、北東尾根に三ノ丸を築いている。本丸の西端には大土塁が築かれ、背後には延々と横堀が穿たれている。この横堀は、本丸西側の腰曲輪の背後まで続き、堀切に合流して終わっている。堀切にほど近い部分には竪堀も見られる。堀切は、城の北西続きの尾根上に2本穿たれ、2本の間の曲輪には現在乾八幡神社が鎮座している。V字の尾根の間の低地には居館が置かれていたことは、容易に想像がつく。現在の町役場・小学校の位置に当たる。往時はここに大手門があったが、門だけ近くの願勝寺に移築されている。縄張りとしては大した技巧性はなく、基本的には腰曲輪群で構成された素朴な縄張りの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.118436/140.720766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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下妻城(茨城県下妻市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8076.JPG←本丸の塁線跡
 下妻城は、多賀谷城とも呼ばれ、結城四天王の一家多賀谷氏の本拠である。多賀谷氏は、武蔵多賀谷郷を本領とする多賀谷左衛門尉家政を祖とする。南北朝時代に下総結城氏に属して、その家人となった。永享の乱で足利持氏が滅ぶと、1440年、結城氏朝らはその遺児安王丸・春王丸を奉じて結城城に立て籠もって結城合戦が勃発した。幕府の大軍に攻め囲まれながらも一年余りに渡って頑強に抵抗を続けたが、遂に攻撃の前に敗れ結城城は落城した。名族結城氏は一旦滅び、多賀谷氏も一族の多くが結城合戦で討死したが、多賀谷彦次郎が氏朝の一子成朝を抱いて脱出した。後に鎌倉府が再興され、足利成氏が鎌倉公方になると、成朝を取り立てて結城氏を再興した。こうして主家再興に大功のあった多賀谷氏は、1454年には鎌倉公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を急襲して憲忠の首級をあげ(享徳の乱の勃発)、その賞として下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。また『鎌倉大草紙』によれば、憲忠の首実検の際に「憲忠は管領なので庭に置いてはいけない」として庭に畳を敷き、その上に多賀谷祥英を座らせて首実検を行ったことから、これ以後多賀谷氏が公方の元に出仕した時には、陪臣にも関わらず庭に畳を敷いて拝謁することが例になったと言う。また多賀谷の姓はこの時拝領したとも伝えられている。そして康正年間(1455~57年)に新たに下妻城を築いて居城とした。こうして勢力を伸ばした多賀谷氏は、結城氏の家臣とは言うものの半ば独立した領主として活動した。戦国時代に入り、小田原北条氏の勢力が伸びてくると、多賀谷政経は北条方に付いた主家結城氏と別行動を取り、関東に出馬した上杉謙信の陣営に加わり、北条氏に抵抗した。その後政経は、同じく北条氏に敵対した佐竹氏との同盟関係を強めて行った。政経は、岡見氏の拠る谷田部城を攻略し、南進の前線拠点としたが、岡見氏はこれに対し、牛久城を拠点に北条氏の支援を受け、多賀谷氏に対抗した。政経が死ぬと、その後を継いだ重経は、更に佐竹氏との結び付きを強め、北条方の岡見氏・江戸崎土岐氏らと激しい攻防を続けた。北条氏も、佐竹氏・多賀谷氏らの反北条勢力を制圧するため何度も常陸南部に侵攻を繰り返したが、その都度撃退された。1590年の小田原の役では、重経は結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して秀吉に拝謁し、役後、下妻6万国を安堵された。重経は、長男三経を差し置いて、佐竹義宣の弟宣家を養嗣子として迎え、下妻多賀谷氏の当主とした。一方、三経は太田城を築いて居城とし、結城晴朝の家臣となった。この結果、多賀谷氏は二系統に分裂することとなった。関ケ原合戦の際、重経は上杉景勝に通じた為、徳川家康によって改易された。戦後の論功行賞で、多賀谷三経は主君結城秀康(徳川家康の次男)に従って越前に移り、越前松平氏の重臣となった。一方、多賀谷宣家は佐竹義宣に従って出羽秋田に移り、改めて岩城氏の名跡を継いだ。重経は流亡の生活を送った挙句、井伊家に仕官した末子茂光を頼って彦根に住し、そこで生涯を終えた。1606年、徳川頼房が10万石で下妻城に封じられたが、1609年に水戸城に移った。1615年に松平忠昌が、翌年には松平定綱が下妻に封じられたが、定綱が遠江掛川城に移封になると一時幕府直轄領となった。その後1712年に井上正長が下妻に入封して陣屋を構え、幕末まで陣屋支配が続いた。

 下妻城は、一時期強勢を誇った下妻多賀谷氏の本拠であるが、多賀谷氏のこの地での足跡と同様、ほとんど完全に消え失せている。元々は低湿地帯に囲まれた浮島のような城で、天険の要害であった。戦後の航空写真を見ると、本丸やその周辺の曲輪の輪郭がはっきりと残っており、その形を近代までとどめていたが、昭和36年の都市整備事業でその姿は失われてしまった。しかし、往時の航空写真とGoogleMapの航空写真を見比べると、各曲輪の痕跡が道路等に残っているのがわかる。本丸は現在の城址公園の位置にあり、公園東側の湾曲した道路は主郭塁線の名残である。また市民文化会館の西側に残る1m程の段差や、法泉寺周囲に残る段差も周囲の曲輪の塁線の跡である。もはや城とは思えない程変わり果ててしまっているのは、街中の平城の宿命のため、やむを得ないところなのであろう。
二ノ丸の塁線跡の段差→IMG_8095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.184225/139.966185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世水城
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鷲宮砦(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8055.JPG←堀跡とされる窪地との段差
 鷲宮砦は、南北朝時代に北朝方の武将、高師冬が築いた砦と伝えられている。1338年、北畠顕家・新田義貞らの相次ぐ戦死により、吉野の後醍醐天皇は各地の南朝勢力の再建が喫緊の課題となった。そこで重臣の北畠親房を常陸に降し、坂東の地において南朝勢力の結集を図った。常陸には小田氏など南朝方に残っている武家が多く、これを頼りとしたのである。一方、足利尊氏はこうした常陸での蠢動を抑えるため、1339年、執事高師直の一族、高播磨守師冬を鎌倉府執事として関東に下向させ、師冬は南朝討伐のため関東各地を転戦した。そして南朝方の拠る駒城を攻撃するため、この鷲宮砦を築いたと言われている。1340年5月、師冬は猛攻により駒城を攻略したが、間もなく総反撃に出た南朝方によって八丁砦等の周辺城砦と共に鷲宮砦を奪還されたと伝えられている様だ。

 鷲宮砦は、現在鷲神社の境内となっている。周囲より僅かに高い微高地で、堀跡とされる窪地も見られるが、城砦らしさはあまり感じられず、本当に遺構かどうかははっきりしない。神社の解説にも一切砦のことは触れられていない。皇国史観の支配していた戦前には北朝方は賊軍とされたので顧みられることがなく、南朝方の駒城と違って何らの碑も建っていないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.183905/139.909580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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和歌城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8014.JPG←二ノ郭に残る土塁
 和歌城は、室町時代にこの地の土豪和歌氏の居城である。文明年間(1469~86年)に下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西にも及ぶと八千代地方の土豪達もその旗下に入った。永正年間(1504~21年)末に和歌十郎が小田原北条氏に通じていることが露見し、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に命じて十郎を討ったとされる。その後、和歌城の管理は赤松氏に委ねられ、徐々に城郭として整備された。この間、北条氏の北総侵攻により、焼き討ちに遭うこともあった。1589~91年には、多賀谷重経の長男三経が和歌城に仮住まいした後、太田城に移り、和歌城は改めて赤松氏に授けられた。1601年、結城氏の家督を継いでいた徳川家康の次男結城秀康が越前に移封となると、秀康の家臣となっていた多賀谷三経も家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。
 尚、この歴史の中で出て来る赤松氏は、南北朝史に名高い播磨の土豪赤松円心の後裔とされ、足利一族の内訌、観応の擾乱で直義党に属して各地を転戦した赤松佑弁が、駿河薩埵山の戦いで大敗し、この地に落ち延びてきたとされている。その一族の墓が不動院に残り、また和歌城内に佑弁の供養塔が建てられている。

 和歌城は、低湿地帯に囲まれた半島状台地に築かれている。城内は耕地化されて相当に改変を受けている。現地解説板の縄張図によれば、土塁と空堀で囲まれた3つの曲輪で構成されていたらしい。それに従うと、改変されながらも主郭・二ノ郭の塁線は概ね追うことができ、二ノ郭には東西に土塁が僅かに残っているのが確認できる。薮の中にも北辺の土塁と船入場が残っているようだが、夏場だったので確認していない。城内に残る赤松佑弁供養の五輪塔が、歴史を物語っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.179696/139.905267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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水海城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8000.JPG←城址付近の現況
 水海城は、古河公方足利氏の重臣簗田氏の居城である。簗田氏の事績については関宿城の項に記載する。当初の水海城は「旧水海城」と呼ばれ、現在の利根川に接する水海南部地域にあったと推測されている。その後、簗田氏は小田原北条氏との抗争を繰り広げながら、奪われた関宿城を攻略して居城としていたが、結局1574年の第三次関宿合戦で北条氏の軍門に降り、関宿城を明け渡して旧水海城の北方に新たな水海城を築いて移住した。1590年の小田原の役の際には、浅野長吉の軍勢の前に開城降伏した。その後関東に徳川家康が入部すると、簗田氏は徳川氏に仕えたと言う。

 水海城は、現在の水海小学校から神明神社にかけての微高地に築かれていたと考えられている。遺構は完全に湮滅しており、城の名残はほとんど見ることができない。城址推定地付近が僅かに周囲より高くなっているだけである。北条氏と堂々と渡り合った簗田氏の居城にしては、悲しい現実である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.142727/139.756479/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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野木宮古戦場(栃木県野木町) [その他の史跡巡り]

IMG_7924.JPG←野木神社
 野木宮合戦は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)における北関東の大規模な戦いである。この合戦の年次については2説あり、寿永2年(1183年)説と養和元年(1181年)説がある。従来は寿永2年説が有力であったが、2015年12月に小山市であった「中世小山一族」という3回シリーズの講座では、菱沼一憲氏が養和元年説について説明をしていた。養和元年説に基づくと、野木宮の北部、下河辺荘の支配をめぐる地域対立が合戦の要因で、当時「下野の両虎」と称された藤姓足利氏と小山氏の対立(共に藤原秀郷の後裔)、更に常陸の志田義広、下総の下河辺行平らを巻き込んだ、下野・上野・下総・常陸の武士達による北関東最大規模の地域紛争であったと解される。この時、源頼朝の弟範頼が合戦に加わっているが、これは小山朝政に旗頭として擁立された可能性があるということであった(これが範頼の歴史の表舞台への実質的な登場となる)。この合戦によって、小山氏より強勢だった藤姓足利氏は没落して源姓足利氏に取って代わられ、秀郷流藤原氏の嫡流が小山氏に移るなど、中世のこの地域の勢力構造を規定することになった。また、頼朝政権が確立する前から源範頼と小山・下河辺ら北関東武士団との結びつきがあり、これが後の範頼を総大将とした西征軍を北関東武士団が支え、西海合戦での困難な持久戦を完遂させた要因になったと推測されている。

 野木宮古戦場は、現在の野木神社の周辺一帯で行われた。この地は思川東岸の河岸段丘の縁に当たり、登々呂木沢・地獄谷などの沢筋が入り込む田園地帯であったと思われる。沢筋は今も残っているが、僅かな窪地に過ぎず、「地獄谷」と呼ばれるほどの急峻さを思わせる往時の面影はかなり薄れている。住宅地の奥にある野木神社は平安時代に創建された古社で、ここだけが往時の静寂さを伝えているかの様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.215540/139.708114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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