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二条城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9140.JPG←土塁と空堀と思われる地形
 二条城は、森戸城とも言い、歴史不詳の城である。江戸崎城の南西を守る出城であったと言われることから、江戸崎土岐氏の支城であったと思われるが、詳細は不明である。
 二条城は、小野川北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。南の国道408号線から急坂の切通しを登っていくと、奥に2件ほどの民家があり、そこが主郭である。民家の周囲に土塁や空堀らしい地形があり、付近にも塚か古墳かわからない、謎の土壇が散在している。しかし、土塁を踏むと土が柔らかいので、遺構なのかどうか迷ってしまう(遺構の土塁ならば版築で築いているので、固く締まっているはず)。また全体に藪が未整備で、かつ民家に近いせいもあって、あまり遺構をよく確認できなかった為、縄張りがよく把握できなかった。遺構の規模も小さく、結局かなり消化不良の城となってしまったのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.928832/140.274146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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最近のGoogle Map、すげぇ。 [雑感]

最近のGoogle Mapだが、急速にパワーアップしてきているのに気づいた。

というのも、他のYahooとかMapFanとかと比べると、
以前は城跡や史跡・名所などのランドマークが少なく、
城址探索・史跡巡りの準備作業で、
マイマップにこれらの位置をプロットしていくのが大変だったのだが、
最近はかなりマイナーな城址・史跡まで、
検索すると場所をピンポイントで示してくれるようになったのである。

地図をかなり拡大しないと表示されない城址・史跡も多いが、
(なぜか検索するとヒットするのに、MAP上に表示されない城址・史跡もある。
 裏データがあるのかな?)
お陰で地図をスクロールしていくと、初めて気づく史跡もある。

多分、一般人が入力したポイントのクラウドデータを元に、地図データを整備しているんだろうが、
Googleすごいなぁ・・・。
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大日山城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9044.JPG←大きな隅櫓台
 大日山城は、歴史不詳の城である。城址南を東西に走る県道5号線は古くからの街道で、登城山城・長峰城等が並んで築かれていることから、大日山城も江戸崎土岐氏の家臣の城と考えるのが自然であろう。
 大日山城は、比高20m程の段丘南東端に築かれている。ほぼ単郭の簡素な城砦であるが、主郭は広く、南西辺以外は外周に土塁を築いて防御している。北東角と北西角の2ヶ所に隅櫓台を設け、西側には台地基部と分断する広幅の堀切が穿たれている。堀切の外側にも櫓台状の土壇が張り出しており、外郭を伴っていた様である。主郭の東辺は全体として円弧状の形状をしているが、主郭塁線は実際には曲線ではなく、直線が数ヶ所で折れた多角形状をしている。また主郭の南西斜面と北東斜面には2段程の帯曲輪が築かれている。北西の隅櫓台の南側には枡形状の空間や土塁があり、更に堀切から落ちる竪堀にも繋がっている。大日山城は、遺構は完存しており、単郭の城にしては堀切や櫓台など遺構の規模が大きく見応えがあるが、全体が竹藪で覆われており、見栄えが悪いのが残念である。
台地基部の堀切→IMG_9036.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.922907/140.245392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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登城山城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8961.JPG←主郭の堀切と土橋
 登城山城は、歴史不詳の城である。近世の文書によれば、この地には江戸崎土岐氏の家臣半田九郎左衛門・北沢大倉などが住んでいたことから、戦国期には土岐氏関係者の城砦であった可能性が高いとされる。
 登城山城は、満願寺の付近一帯の比高20m程の丘陵南端に築かれている。寺の境内も城域に含まれ、城址は寺の方が綺麗に整備しているので、遺構がよく確認できる。南西端に主郭があり、堀切で台地と分断され、きれいな土橋で外郭と繋がっている。主郭の堀切沿いにはしっかりとした土塁も築かれている。主郭の虎口は、前述の土橋に通じるものの他に東側にもあって、東斜面の腰曲輪に繋がっている。また腰曲輪の南東端には、土橋で連結した物見台が突出して、下方の腰曲輪を睥睨している。また土橋脇の堀切は、主郭南側の帯曲輪に繋がっているなど、腰曲輪群の配置が巧妙である。また寺の境内にも土塁や虎口らしい地形が確認できる。小規模な城砦であるが、見応えはある。綺麗に整備してくれているお寺の方に感謝である。
土橋で繋がった物見台→IMG_8981.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.923289/140.236166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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小森城(千葉県白井市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8861.JPG←主郭北東の隅櫓台
 小森城は、歴史不詳の城である。城主については、下総の名族千葉氏の家臣であったと言う伝承があるが、真偽は定かではない。
 小森城は、下手賀沼南西の比高15m程の段丘上に築かれている。往時は、眼下まで沼地となっていた。方形の主郭とその周りのL字状の二ノ郭から成る梯郭式の縄張りとなっている。横矢掛かりはほとんど無く、直線的な土塁と堀で構成されている。主郭は全周を土塁で囲んでおり、殊に北東角には隅櫓台が築かれ、また主郭背後は比較的規模の大きな土塁となっている。二ノ郭は主郭の東と南に広がっているが、一部小屋が建っていて土塁が崩されている。また二ノ郭外周の土塁・空堀は非常に小さく、一部は不分明なほどささやかなものである。この他、主郭の北と東の斜面に帯曲輪が築かれている。城址近くまで工業団地が広がっており、ここだけ遺構が残っているというのは奇跡的であるが、遺構自体は比較的小規模である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.825242/140.070791/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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布川城(茨城県利根町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8780.JPG←主郭~馬出し間の堀切
 布川城は、古くは府川城と記載され、この地の豪族府川豊島氏の居城である。府川豊島氏の出自には諸説あり、武蔵の豪族豊島氏の一流とする説、1244年に摂津にいた豊島頼保が移ってきたとする説等があり、定かにできない。布川城の築城時期も明確ではないが、現地解説板では1519年としている。その歴史が明確になるのは、永禄年間(1558~69年)の豊島頼継が城主の時からで、頼継は関東の大勢力となった小田原北条氏に属して、この地の支配権を維持した。1590年の小田原の役の際には、当主豊島貞継は小田原城に入って宮城野口を守備した。その弟頼重は布川城を守ったが、来攻した豊臣方の重臣浅野長政に降伏した。その後頼重は、忍城攻囲戦に参加して負傷し、それが元で没した。北条氏の滅亡後、頼重の子明重が名跡を継ぎ、徳川家康に属してその旗本となった。家康から改めて武蔵国富岡郷1700石を与えられ、移り住んだ。豊島氏が移封後、松平信一が布川城に5000石で入城した。関ヶ原合戦後の1601年、信一は土浦城3万5千石に移封となり、布川城は廃城となった。

 布川城は、利根川東岸の比高10m程の台地上に築かれている。現在はかなり市街化が進んで破壊を受け、遺構はかなり断片的になっている。主郭は現在の徳満寺の位置にあり、利根町役場が建っている部分に二ノ郭があったとされる。徳満寺の裏には土塁が残り、西に堀切を穿ち土橋で連結された馬出しとされる小郭を築いている。町役場との間のL字型の車道は往時の堀跡である。主郭の北東には三ノ郭が広がり、徳満寺の北東150mの位置にある八幡宮は、三ノ郭北東端の櫓台跡であった可能性がある。昭和20年代前半の航空写真を見ると、三ノ郭の東に更に広大な外郭が広がっていたらしく、往時は一面の畑であったが、現在は住宅地や大学キャンパスに変貌している。外郭は、日本ウェルネススポーツ大学の2つのキャンパスと布川神社の部分まで広がっていたらしい。広い外郭を有した城であったことが窺われるが、改変が進んでしまっているのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.856970/140.140185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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東林寺城(茨城県牛久市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8675.JPG←二ノ郭の大堀切
 東林寺城は、牛久城主岡見氏の支城である。築城時期は明確ではないが、戦国後期の永禄年間(1558~69年)には岡見氏の有力支城として存在し、近藤治部が城主であったと伝えられる。この城については、単に牛久城の支城というだけでなく、牛久城の目と鼻の先に隣接するように規模の大きな城が築かれていることから、小田原北条氏が北総諸豪に交代で牛久城防衛のために在番させた、所謂「牛久番」との関連を指摘する説もある。この説については、東林寺城の地勢や城の形態が牛久番を務めた井田氏の居城坂田城とよく似ている事実が、より示唆的であるとされる。

 東林寺城は、牛久沼に流れ込む稲荷川を挟んで牛久城外郭に向き合う位置にある南北に長い舌状台地に築かれている。主郭の南側3/4と二ノ郭最南端が土取りで消滅しているが、それ以外の遺構は良く残っている。主郭は舌状台地の南西端に位置する方形郭で、前述の通り大半が消失しているものの北東角部のL字状土塁が残り、その周囲にほとんど埋もれているものの空堀跡の窪みが残っている。主郭土塁は藪でわかりにくいが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、北辺の土塁中央部が切れており、ここに虎口があったものと推測される。主郭の北から東にかけての周囲は広い二ノ郭で、ほとんどが畑、一部が民家となっている。二ノ郭の北側には三ノ郭との間を分断する大堀切があり、土橋が架かっている。この土橋の架かる虎口部分は、虎口西側の堀切がL字状に内側に食い込み、虎口東側の塁線が段違いとなって、食違い虎口を形成しており、土橋は斜めに架けられている。三ノ郭は広大な曲輪で、全域畑となっている。その様は、坂田城の外郭(四ノ郭)とよく似ている。北側にはやはり大堀切が穿たれ、ここには堀切沿いに大土塁が築かれ、堀切中央部に櫓台が張り出し、堀切が屈曲して横矢が掛けられている。三ノ郭の北に東西方向に長い四ノ郭があり、その北にも堀切が穿たれているが、この堀切は規模が小さく、東端部のみにわずかに横矢掛かりのクランクが見られる。全体に非常に良く遺構が残っているが、堀切部分の藪は未整備で遺構の見栄えが悪い。また主郭付近の遺構の湮滅も、非常に惜しまれる。
三ノ郭堀切の櫓台の張出し→IMG_8730.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.959667/140.121474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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足高城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8604.JPG←Ⅰ郭東側の横堀と物見台
 足高城は、牛久城主岡見氏の支城である。その創築は不明であるが、戦国末期の天正年間(1573~92年)、岡見治部大輔治広が牛久城主であった時に、岡見氏の一族岡見中務大輔宗治が足高城主であったと伝えられている。この頃、岡見氏の領国は下妻城主多賀谷重経の激しい攻勢に曝され、足高城も度々攻撃を受けた。1586年、多賀谷氏は岡見領へ侵攻し、小張城を陥とし、足高城に迫った。しかし必死の防戦と後詰めにより、多賀谷勢を撃退した。翌87年、多賀谷氏は牛久城・東林寺城の西隣に泊崎城を築城し、岡見氏の牛久・東林寺両城と足高城の間に楔を打ち込み、連携を封じることに成功した。多賀谷氏は泊崎城を拠点として、足高城を攻撃したが再び撃退された。更に多賀谷氏は、岡見氏家臣の月岡玄蕃の拠る板橋城を陥とし、次いで岩崎城も落城させ、三度足高城に攻め寄せた。宗治の祖父岡見入道が多賀谷方に内応した為、城内は混乱し、宗治らは牛久城へ逃走して、足高城は落城したと言う。

 足高城は、牛久沼西方の半島状台地に築かれている。城内は宅地化などでかなり改変が進んでいるため、遺構は断片的にしか残っていない。『図説 茨城の城郭』所収の縄張図の曲輪名称に従うと、先端にⅢ郭があり、現在広場となっているが、桜の木が植わっている土壇が残っている。Ⅲ郭の北がⅠ郭で、竹林になっている。北辺に土塁が残り、その北のⅡ郭との間の堀切には横矢掛かりの櫓台が張出している。Ⅰ郭の東斜面には腰曲輪が築かれ、東の八幡神社のあるⅣ郭との間を分断する堀切が腰曲輪側方の横堀を兼ねている。横堀の東側には物見台があり、谷戸を監視している。このことからⅠ郭北東の谷戸は、船着き場からの登城道になっていたことが想像される。また横堀はⅡ郭の東側まで続いており、船着き場からの登城道と合流していることから城内通路を兼ねた堀であったことがわかる。明確な遺構はこの辺までで、あとは宅地化され、1ヶ所わずかに空堀が残存しているほかは大した遺構は見られない。城址解説板もなく、あまり地元から大切にされていない城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.948377/140.095940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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三条院城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8505.JPG←主郭の土塁
 三条院城は、歴史不詳の城である。築城主体については諸説あり、岡見氏が多賀谷氏の侵攻に備えて築いた城とも、或いは多賀谷氏が岡見氏を攻撃するために築いた付城・陣城の類ではないかとも言われるが、真相は不明である。
 三条院城は、板橋城の南東850m程の丘陵上に築かれている。基本的には堀切で分断された主郭と二ノ郭から成っているが、主郭の北西端には土橋遺構があり、先端の浅間神社のある円丘に通じている。この円丘は物見台であったろう。また土橋の西側は入江のような地形で、船着き場であったと推測されている。主郭は南半分を、この手の小城砦としては規模の大きい土塁で防御しており、東側の塁線は内側に折れており、東側下方の腰曲輪に対して相横矢が掛けられている。堀切の南の二ノ郭はただの平場で、多少の起伏があり腰曲輪らしいものも見られるが、あまりはっきりしない。比較的小規模な城であるが、主郭周りの普請はしっかりしている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.973179/140.055428/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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馴馬城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8335.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 馴馬城は、南北朝時代に南朝方の城であった。1341年に、城主は不明であるが北朝方の攻撃を受けたことが伝わっており、また1344年にも南朝方の武将春日顕国が立て籠もり、宍戸朝里ら常陸北朝方の軍勢に攻略されている。顕国は北朝方に捕らえられ、斬首されたと言う。
 馴馬城は、龍ケ崎市歴史民俗資料館付近の比高10m程の丘陵上に築かれている。東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の城で、北側は谷戸を空堀と為し、土橋を架けて北の台地と連絡していたと考えられている。歴史民俗資料館が建っているのが主郭であるが、大部分が土取りで消滅してしまっている。二ノ郭は遺構が明瞭ではないが、三ノ郭との間に堀切が残り、堀切沿いに櫓台状の土壇(塚?)がある。三ノ郭は山林化していて、やはり遺構は明確ではない。南北朝期の城とは言え、常陸南朝方が最後まで拠った城なので、もう少ししっかりした普請がされていても良さそうだが、後世の改変が多いのか、明確な遺構は堀切と土橋程度なのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.916112/140.175912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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