So-net無料ブログ作成

嶋間城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1597.JPG←虎口郭周囲の竪堀群
 嶋間城は、高城城の支城と言われている。城主は大槻備中守であったと伝えられるが、その事績は不明である。
 嶋間城は、高城城が築かれた高城山の南西麓の比高20m程の小丘陵に築かれている。南に主郭、北に二ノ郭があったが、二ノ郭は児童センターの建設で採土されて消滅している(全国どこの地域でも、こうした文化・教育施設等を作るために貴重な遺跡(城跡)を破壊している例が多数あるが、何とかならないのか?!)。主郭部は、北端の櫓台は消滅しているが、それ以外の部分の遺構はほぼ完存している。主郭の北面から西面にかけて横堀が穿たれているが、北面は消失しており、西面の小さな横堀が残っている。主郭の南西は塁線が内側に凹んでおり、その下方にほぼ方形の虎口郭が築かれている。この虎口郭の北側の付け根には、西に向かって竪堀状の虎口が築かれていて、下方の横堀に接続している。このことから、横堀が城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの虎口郭周囲と、その下方の斜面には数本の竪堀が穿たれている。しかし竪堀は、一部を除き非常に小さい溝状である。この他、主郭にはわずかに土塁が残り、東麓からの登り道脇にも竪堀が見られる。一部破壊されつつも残存遺構は良好だが、規模の小さな小城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.344159/135.291567/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

丸山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1481.JPG←主郭背後の堀切
 丸山城は、この地の国人領主大槻氏の支城である。栗城主の弟大槻山城守遂重が城主であったが、1571年に織田信長方の軍勢によって落城し、その後は帰農したと言う。
 丸山城は、谷戸に面した比高30m程の丘陵上に築かれている。丘陵頂部に主郭を置き、その東面から南面にかけて、数段の腰曲輪を廻らし、主郭後部を低土塁と堀切で分断しただけの簡素な構造の小城砦である。主郭の東端に坂虎口が築かれて腰曲輪へ通じている。腰曲輪は南東部で馬蹄形に広がっているが、その他の部分では帯曲輪状である。曲輪の削平や土塁・堀切の普請はしっかりしており、小さい城ながら見応えがあって興味深い。
南東に広がる腰曲輪群→IMG_1498.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.332624/135.226851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

物部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1330.JPG←主郭の大型の櫓台
 物部城は、一時期丹波守護代となって強勢を誇った上原氏の居城である。上原氏は、信濃諏訪神党の一族上原成政が1193年に物部郷の地頭として入部したことに始まるとされる。最初は高屋山に城を築いたが、後に物部城を築いて居城を移した。戦国時代初期には、上原豊前守元秀は管領細川政元の重臣として重用され、丹波守護細川氏の下で八木城主内藤氏に代わり丹波守護代となった。しかし元秀は国内で横暴な政策を強行した為、1489年、これに抵抗した丹波国人衆の位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏らが反乱を起こして位田城に立て籠もり、位田の乱が発生した。この丹波国人一揆に対して、守護方は丹波・但馬・摂津など13ヶ国の大軍を動員して攻め寄せたが、一揆勢の守りは固く、一年間にわたって抗戦を続けた。そして1490年、一旦は一揆勢は城に火を放って自落したが、翌年には一揆勢が再起して位田城など7つの城を占拠して反乱を続け、結局乱が鎮圧されたのは1492年の位田城陥落の時であった。その後も上原氏の勢威は続き、1493年、明応の政変における将軍廃立でも重要な役割を担った。これらの大功によって上原氏は増長し、被官共々驕慢な振る舞いが多く、刃傷沙汰を起こして元秀が死ぬなどして勢力を弱めた。そして1571年、上原右衛門少輔の時、黒井城主赤井直正に攻められて物部城は落城した。

 物部城は、犀川とその支流に挟まれた比高35m程の独立丘陵に築かれている。丘陵南東端に物部神社があり、その参道から登ることができる。南東から順に五ノ郭・二ノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭と直線的に並べた連郭式を基本とし、東西の斜面に1~2段の腰曲輪を築いた縄張りとなっている。前述の物部神社があるのが五ノ郭である。そこから横堀状の通路を登っていくと、奥の右手に二ノ郭虎口があるが、反対側には動線制約の大竪堀が穿たれている。まずこの竪堀の規模が大きいのにビックリする。二ノ郭と主郭はわずかな切岸だけで区画され、主郭前面には天守台とも考えられる大型の櫓台が築かれている。主郭は丘陵中央の最高所にあり、背面にも大きな土塁を築いている。この土塁の西側側方に搦手虎口があり、北の三ノ郭に通じる城道が伸びている。また東側には斜面を迂回する武者走りも残っている。主郭と三ノ郭は大きな切岸で区画されている。西側の腰曲輪は複雑な構造で、櫓台を備えた虎口があって、下方に城道が伸びている。三ノ郭の先端にも土塁が築かれ、東斜面には畝状竪堀が穿たれている。三ノ郭と四ノ郭も大きな切岸で区画され、四ノ郭東側には櫓台が築かれている。四ノ郭の先端は数段の帯曲輪となって終わっている。これらの主要な曲輪間の動線には、西側の腰曲輪群が使われており、要所には横矢掛かりが多数散見される。四ノ郭付近だけは竹薮で踏査が大変だが、それ以外は比較的藪が少なく遺構の確認がし易い。低丘陵の単純な形の城なので、全然期待していなかったが、堀切こそ無いものの要所にかなり技巧的な遺構が確認でき、さすがは一時期強勢を誇った守護代の城だと感心させられた。
二ノ郭虎口脇の大竪堀→IMG_1309.JPG
IMG_1404.JPG←三ノ郭側方の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.357022/135.218825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

下舘城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1288.JPG←天守台跡の土壇
 下舘城は、豊臣秀吉の家臣石川備後守貞通の城である。貞通は、秀吉の毛利攻めの頃からその幕下に仕えたとされ、1591年、丹波国天田郡2千石余を加増された。しかし秀吉の死後の1600年、関ヶ原合戦において西軍に属して丹後田辺城攻撃に参加したため、戦後改易された。尚、東の丘陵上にある舘城も貞通の城と伝えられ、地元では本城の舘城に対して下舘城は出城であったと伝えられているらしい。
 下舘城は、犀川東岸の舘町地区の西端に位置している。宅地化・耕地化で遺構はほとんど湮滅しているが、わずかに天守台跡と伝承される土壇のみが残存している。またこの土壇の裏はわずかな低地になっており、堀跡であったと推測される。それら以外は、往時の姿は見る影も無いが、現状から推測すると城というほどの規模ではないので、方形の居館か陣屋であったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326934/135.213268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

甲ヶ岳城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1207.JPG←三ノ郭の土橋と堀切
 甲ヶ岳城は、鴻ヶ嶽城とも記載され、丹波守護代内藤氏が築いた城と言われている。1564年、丹波守護代の八木城主内藤備前守宗勝は、福知山盆地進出の拠点として、一族の内藤正綱に命じて甲ヶ岳城を築かせたと言う。1576年、内藤氏は高津城栗城の大槻氏を攻めたと言われ、その際に甲ヶ岳城は前進基地として大きな役割を果たしたと思われる。1579年、明智光秀が八木城を攻め落とすと、内藤正勝は再起を期して甲ヶ岳城に逃れたが、遂に討死にして甲ヶ岳城も廃城になったと言う。以上が現地解説板などに語られる一般的な伝承であるが、一方、元々この付近は高津城を本城とした大槻氏の支配領域で、安場から観音寺の間に大槻安芸守辰高が城を多数築き、大槻左京亮倫高の代に落城したとされ、甲ヶ岳城もこうした大槻氏の支城群の一つであった可能性も捨てきれない。

 甲ヶ岳城は、標高289.8mの甲ヶ岳山頂に築かれている。北東から尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭・五ノ郭とここでは呼称する。三角点があるのが四ノ郭で、ほとんどが藪に覆われ、緩斜面上に段々に平場群を築いている。南斜面には竪堀が数本穿たれている。四ノ郭からやや幅広の堀切を介して三ノ郭に至る。この堀切には北端に土橋が架かり、南端には堀内障壁がわずかに見られ、三ノ郭側には土塁が築かれている。三ノ郭と主郭の間も堀切で分断されている。主郭は、前面に虎口郭を設け、主郭に登るようになっているが、単純な坂虎口で馬出しという程の機能性はない。主郭には秋葉神社が建っている。主郭後部には低土塁が築かれ、その裏に二ノ郭がある。二ノ郭の南西角には枡形虎口があるが、藪でわかりにくい。二ノ郭の先が五ノ郭で、一面藪に覆われている。この他に、城への登り道の途中にも竪堀が穿たれており、登城道を防衛していたと考えられる。遺構は比較的よく残っているが、あまり技巧性は感じられず、特に四ノ郭や五ノ郭は辺縁部が自然地形に近くなってしまっており、普請も少々荒い感じである。その中では2本の堀切だけが異彩を放っている。
 尚、甲ヶ岳の東と北西の支尾根には茶薄山城・野山砦があり、甲ヶ岳城の出城であったと考えられている。
登山道途中の竪堀→IMG_1166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.296835/135.222559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

茶薄山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1136.JPG←腰曲輪に囲まれた主郭
 茶薄山城は、甲ヶ岳城の出城と考えられる。伊藤伊織が城主であったと伝えられるが、その他の歴史は不明である。
 茶薄山城は、甲ヶ岳の北東尾根先端の比高110m程のピーク上に築かれている。甲ヶ岳城への登山道が尾根に至ると、そのすぐ左手(東側)が城域である。登山道が尾根に至る部分も実は登山道自体が堀切道で、尾根上には土橋が架かっている。主郭はまるで古墳の様な高台になっており、周囲に腰曲輪を廻らしている。わずかな段差で何段かの平場に分かれ、更に東には低い位置に平場が広がっているが、この辺りは藪が酷く判然としない。この下段の平場の付け根には竪堀が穿たれているようである。茶薄山城は、出城の位置付け通り、簡素な構造の小城砦である。登山道のすぐ脇になければ、わざわざ見に行くほどの遺構ではない様に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.299444/135.229490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

石原城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1107.JPG←土塁と空堀
 石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
 石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
 尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鬼ヶ城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0950.JPG←山上の曲輪群
 鬼ヶ城は、明智光秀の丹波平定に頑強に抵抗した国人衆が立て籠もった城と伝えられている。1575年、明智光秀は織田信長の命により丹波に入ると、口丹波亀山城主内藤忠行は、光秀の入部を祝し、忠行の主従は光秀に従った。そして各地の土豪は光秀に降る者と、徹底抗戦する者とに分かれ、久下・中沢・並河・釈迦牟尼仏(にくるべ)・河田らの各氏は退いて、鬼ヶ城・高見城に拠って抵抗を続けたと言う。その後、光秀の丹波攻略に抵抗していたのは、八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏となったが、赤井直正の弟幸家は、安芸毛利氏の一族吉川元春と通じてその来援を請い、元春来援の際の本陣とするため、鬼ヶ城に砦を築いたと言う。しかし元春の来援がないまま丹波は平定され、鬼ヶ城も光秀の陥れるところとなった。『信長公記』によれば、1579年7月に明智光秀が鬼ヶ城を攻めて近在に放火し、付城を築いたとあると言う。

 鬼ヶ城は、標高544mの峻険な山上に築かれている。東麓の観音寺から登山道が整備されている。登頂比高は340mもあるので登るのは一苦労だが、山頂からは360度の大パノラマで、疲れは吹き飛んでしまう。遺構も見事で、峻険な山城なので小さい城だと思っていたが、普請はかなり大規模である。『図解 近畿の城郭Ⅰ』所収の縄張図は、なぜか大手の曲輪群や北東尾根の曲輪群が抜けてしまっているが、実際はそれらも遺構であることは明白で、従って実際の城域はもっと広いのである。登山道を登り南尾根に至ると、その北側に平場群と明確な虎口が見られ、ここから城域に入る。この大手郭の坂虎口は両側に櫓台を設けており、黒井城東出丸の虎口に酷似している。この大手郭の東にも段曲輪が3段ほど築かれている。更に登ると側方に石垣の残った虎口を設けた曲輪に至る。この上に城の中心部がある。頂部に主郭があり、南東斜面に沿って3段の腰曲輪が設けられ、ここにも石垣の跡が見られる。この腰曲輪から西に向かって武者走りが伸び、南西の腰曲輪を経由して、北尾根の曲輪群に繋がっている。北尾根曲輪群は南北に長い曲輪を連ねており、山上の主郭部が狭く居住性がないのに対して、そこそこの広さがあり、城兵の居住区になっていたと考えられる。この他にも前述の通り、主郭の北東尾根に連なる曲輪群があり、この東郭群は全部で9段もの馬蹄段が築かれている。鬼ヶ城は、福知山市街全域を一望できる要地にあり、しかも予想以上に規模の大きな遺構群で、赤井氏が光秀に抵抗するために構築したという伝承も十分説得力がある。山上の眺望も素晴らしく、苦労して登る価値は十分ある。
大手郭の虎口→IMG_0901.JPG
IMG_1057.JPG←東郭群の馬蹄段
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341481/135.142307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中村城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0797.JPG←南郭周囲の横堀
 中村城は、この地の土豪塩見氏の居城と言われている。中村城主塩見氏については2説あり、横山城主塩見頼氏の子であるとも、或いは播磨守護赤松満祐の後裔で、嘉吉の乱で満祐滅亡後に遺児若松丸(満義)が何鹿郡沢之庄に落ち延び、その子義近が一尾城主大槻佐渡守の女を娶って中村に移住し、塩見に改めたとも言う。

 中村城は、猪崎城の北北西わずか900m程の位置にある、南北に長い丘陵上に築かれている。遺構の名称は、丹波の城歩きではよく拝見しているHP「山城賛歌」の呼称に従って記載する。城内は大きく、北郭・主郭・南郭から構成されおり、南郭には薬王寺社が祀られ、その参道から訪城できる。低丘陵で、かつ参道があるので、何の苦労もなく城に至るのはあっという間である。しかし遺構は見事で、社殿の建てられた南郭は外周を横堀で囲繞しており、南に土橋の架かった虎口が築かれている。南郭の北には堀切を挟んで主郭がある。南郭の北西角にはこの堀切に降りる虎口が付いている。主郭内は段差で2段に分かれ、南端に土塁を築いている。主郭の東側は、南郭から続く横堀を穿ち、西側には2段の腰曲輪を築いている。主郭の北側には堀切を挟んで北郭群があるが、北郭背後は大土塁となっており、主郭北側の堀切の分断効果を大きくしている。北郭群は3~4段の馬蹄段より成り、特に最上段の北郭1は広く、削平も見事である。北郭から大土塁の西側を迂回する城道が残り、腰曲輪の段を経由して主郭に登る動線も明瞭に残っている。遺構としては以上で、形態は比較的単純な直線連郭式の城であるが、普請はしっかりしていて見応えがある。
主郭~南郭間の堀切→IMG_0814.JPG
IMG_0844.JPG←北郭1と大土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.315379/135.128939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

荒河置山城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0674.JPG←大手郭側方の畝状竪堀
 荒河置山城は、歴史不詳の城である。『片山文書』によれば、南北朝期の1339年、船井郡和知の地頭片山忠親が「安良賀城」を攻め落としたとあり、この安良賀城が荒河(置山)城のことであろうと推測されている。一方、『丹波志』には城主として山吹将監・荒河伊達右衛門などの名が見えるが、詳細は不明。また現地の遺構には小規模な畝状竪堀があることから、少なくとも戦国期の城と考えられ、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死した、1565年の和久郷合戦に関係した城砦であったかもしれない。

 荒河置山城は、由良川と和久川の合流点西側の、標高102.4m、比高87m程の丘陵上に築かれている。南麓に武神社があり、そこから登っていくことができる。南尾根を進むと、段々になった曲輪群が見られ、更に登っていくと山頂の主郭群に至る。主郭群は主郭を中心に5段ほどの同心円状に段差だけで区画された平場で構成されている。主郭には方形の高台があり、天守台かそれに準ずる櫓台があったものと考えられる。大手は北東にあったと考えられ、主郭群最下段の曲輪(大手郭)には、前面に低土塁があり、下に2段程の段曲輪が構築され、その先に堀切が穿たれている。また大手郭の両側方には小規模な畝状竪堀が確認できる。一方、主郭群の北西下方には物見台があり、その下に土橋の架かった堀切が穿たれ、北西出曲輪に繋がっている。この他、南西麓の時広大明神付近も平場が見られ、城域であった可能性がある。また南東の尾根にも出曲輪があり、頂部の曲輪は横堀で防御している。しかし後で調べたら古墳だったようなので、この横堀は元々古墳の周濠であったのかもしれない。荒河置山城は、未整備の山であるが藪は酷くはなく、遺構が良く確認できる。
北西出曲輪への堀切・土橋→IMG_0708.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.316832/135.108061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
メッセージを送る