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宮ヶ崎古館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9603.JPG←東側の土塁
 宮ヶ崎古館は、鹿島氏庶流の宮ヶ崎氏の初期の居館である。宮ヶ崎氏の事績は宮ヶ崎城の項に記載する。
 宮ヶ崎古館は、南北に長い長方形の単郭方形居館で、郭内は畑に変貌しているが、外周の土塁と空堀が、全体の約2/3程残存している。郭内への進入は憚られるが、藪に突っ込めば、北側と東側の土塁・空堀が確認できる。しかし土塁も空堀もそれほど大きなものではなく、比較的ささやかな規模の遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.262131/140.477157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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宮ヶ崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9536.JPG←主郭外周の土塁
 宮ヶ崎城は、大掾氏の庶流鹿島氏の流れを汲む宮ヶ崎氏の居城である。鎌倉前期の1220年代に鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹がこの地に分封されて宮ヶ崎氏を称した。宮ヶ崎氏初代家幹の居城は、宮ヶ崎城の南方550mの位置にある「きゅうでん堀」と呼ばれる方形館(宮ヶ崎古館)であったとされ、鎌倉末期の頃に宮ヶ崎城が築かれて居城を移したらしい。南北朝期の1338年に南朝方の柱石北畠親房が南朝勢力再建のため常陸に入ると、宮ヶ崎又太郎幹顕は北朝方として、佐竹義篤の家臣小野崎正通・二方左衛門尉や大掾氏一族の鹿島幹寛・烟田時幹らと共に神宮寺城阿波崎城攻撃に参加している。こうして南北朝期~室町初期には勢力を拡大し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持つに至り、鹿島大使役として3度、鹿島神社七月大祭の祭司を務めた。その後、1416年の上杉禅秀の乱の際、宮ヶ崎氏は禅秀方に付いて烟田氏・江戸氏らに敗れて滅亡し、宮ヶ崎城は一旦廃城となった。時代は下って戦国中期の1550年頃、江戸氏の支配時代に宮ヶ崎城は再整備されて現在の姿になったと推測されている。

 宮ヶ崎城は、涸沼南岸に突き出した比高25mの段丘先端に築かれている。北端に五角形状の主郭を置き、その南から東にかけて二ノ郭・三ノ郭を梯郭式に配置した縄張りであった。現在は城内は耕地化によって改変され、しかも県道16号線が三ノ郭を貫通しているため、かなり破壊を受けている。それでも主郭は比較的遺構がよく残り、外周の土塁や空堀がかなり残存しており、特に主郭背後は大土塁となっている。また主郭周りの空堀の北西の外側に、外周を防御する土塁が残存している。しかしいずれも未整備の薮に覆われて、踏査が大変である。二ノ郭・三ノ郭は全面的に畑に変貌している。二ノ郭・三ノ郭の間には堀がなく、段差だけで区画されていた様である。三ノ郭は郭内が何段かの平場に分かれており、東の畑の中には「宮崎氏寺跡」という標柱が立っている。三ノ郭の南東部には、自然地形の大きな谷戸があり、外堀の役目を果たしていたようで、土橋状の地形が確認できる。宮ヶ崎城は、全体に地勢はよく残っており、往時の雰囲気は比較的わかりやすいが、遺構の改変が進んでおり、残った遺構も未整備の藪に埋もれているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.267010/140.475612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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海老沢城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9471.JPG←そびえ立つ大土塁
 海老沢城は、海老沢氏の居館である。『日本城郭大系』によれば、海老沢幹家が居住していたと言う。海老沢市の事績については、天古崎城の項に記載する。

 海老沢城は、比高20m程の河岸段丘先端近くに築かれた方形居館で、谷戸を挟んだ北側には内手館が築かれている。方形居館という点では内手館と同じであるが、本城だけあって海老沢城の方が規模が大きい。柴田花木園の南西端の小道を、南西の山林の方に進んでいくと、右手の林の奥に大きな土塁が障壁のようにそびえているのに出くわす。居館としての面積は普通程度であるが、外周を取り巻く土塁は北西辺以外の3辺では高さ5m程もあり、非常に規模が大きい。土塁の外側は、北東辺以外は浅い空堀が穿たれている。また曲輪内部は、郭内の段差としては非常に大きな段差によって上下2段に分かれている。虎口は2ヶ所に築かれており、大土塁がそびえ立つ南東辺のものが大手虎口と推測される。海老沢城は、方形居館にしてはかなり大型の土塁がそびえた城館で、屈指の遺構である。ただ全体に藪が多く、見栄えが悪いのが残念である。
 尚、昭和20年代前半の航空写真を見ると城址北西に外郭があったらしく、堀らしい線が見られるが、帰ってから気付いたため未踏査である。
北西辺の土塁と空堀→IMG_9497.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.257892/140.447953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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内手館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9460.JPG←土塁
 内手館は、海老沢城主海老沢氏の支城と言われている。海老沢城から谷戸を挟んだ北側の向かいの位置にあり、比高20m程の河岸段丘先端近くに築かれた単郭方形居館である。海老沢氏の知行地を支配する拠点の一つであったと推測されるが、海老沢城に極めて近い位置にあることから、防衛拠点というより政庁機能を補完する何らかの施設があったのではないかと思われる。現在残っているのは三辺の高さ2m程の土塁と外周の空堀で、西側の土塁は湮滅しており、既に昭和20年代前半の航空写真でも湮滅しているのが確認できる。また南側には腰曲輪を伴っていたらしい。郭内は耕地化されている一方、土塁は草茫々であるが冬場ならば踏査できないほどではない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.260158/140.446665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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天古崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9410.JPG←主郭の土塁と堀切
 天古崎城は、海老沢城主海老沢氏の支城と言われている。海老沢氏の事績はあまり明確ではないが、一説には小幡城を築いた小幡氏や鳥羽田氏と同族であったとも言われる。室町・戦国期には、江戸氏の家臣となっていたことが知られている。
 天古崎城は、涸沼川北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。主郭・二ノ郭を東西に並べただけの直線連郭式の小さな城で、主郭には現在稲荷神社が鎮座している。主郭・二ノ郭はいずれも西側を土塁で防御し、堀切で分断しているが、いずれも規模が小さく、特に二ノ郭の堀は埋もれて僅かなものになってしまっている。西側土塁の中央には虎口があるが、食い違い虎口になっていた様である。この他、主郭北側の斜面に帯曲輪・横堀が築かれ、主郭北東部の櫓台が、帯曲輪に対して張出し、横矢を掛けている。遺構としては以上で、地方の小土豪が築いた簡素な城砦の趣を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.269968/140.435529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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石崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9367.JPG←主郭背後の大土塁と堀切
 石崎城は、親沢館とも呼ばれ、大掾氏の庶流で石崎保の地頭、石崎禅師房聖道の居城であったと言われている。石崎氏に関わるHPを拝見したところ、平国香の6代後に石河家幹がおり、その長子が馬場資幹、7男が聖道で石崎氏を称したらしい。一方、『日本城郭大系』では城主として石崎幹経の名を挙げている。いずれにしても最初に築城されたのは古く鎌倉時代らしいが、現在残る遺構は戦国期のものと推測され、涸沼周辺の城砦群の一つとして、存続していたものと考えられる。

 石崎城は、涸沼に突き出た親沢鼻(鼻=端の意味)という岬背後の比高25mの丘陵先端に築かれている。単郭の小規模な城であるが、遺構は良く残っている。主郭は背後に大土塁を築き、背後を堀切で分断している。土塁中央部には外側に張り出した櫓台があり、堀底に対して横矢を掛けている。主郭は背後の大土塁以外も全周を低土塁で防御している。大手虎口は西端にあり、堀切脇から城道が明瞭に残っている。また搦手虎口が北東端にあり、その外側には腰曲輪が築かれている。主郭の中には大きな土壇があるが、櫓台の遺構なのか、耕地化による改変なのかよくわからない。簡素な城砦であるが、水運を監視する物見として絶好の位置にあったことが窺われる。涸沼の対岸には宮ヶ崎城が見え、江戸氏と大掾氏の接壌地帯として対峙していたものかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.279379/140.478101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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阿波崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9299.JPG←外丸の腰曲輪群
 阿波崎城は、南北朝時代の一時期、南朝方の柱石であった北畠親房が拠った城である。建武の新政が瓦解し、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、1338年に主戦力であった新田義貞、北畠顕家(親房の嫡男)を戦場で失い、勢力再建が急務となった。そこで閏7月に自らの皇子である義良親王・宗良親王・懐良親王を伊勢を経由して、それぞれ奥州・遠州・九州の各地の南朝勢力の元に派遣し、勢力挽回を企図した。この内、義良には親房とその次男顕信を付けて海路奥州に下したが、9月に途中の遠州灘で暴風に遭い、兵船は四散、義良は伊勢に吹き戻されて、翌年吉野に戻って皇太子となった(後の後村上天皇)。一方、親房は常陸に漂着し、南朝方の地頭東条氏に迎えられて神宮寺城に入り、ここを東国経営の拠点として活動を開始した。しかし間もなく、北朝方の武家である佐竹義篤(常陸守護)・大掾高幹・烟田時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、10月5日あえなく神宮寺城は落城した。逐われた親房が阿波崎城に逃れると、残存する南朝方の勢力が参集して北朝方と戦ったが、阿波崎城も程なく落城し、親房は更に小田城関城大宝城へと転戦した。しかし1343年、鎌倉府執事の高師冬の軍勢によって関・大宝両城は陥落し、常陸の南朝方は壊滅、失意の親房は吉野に舞い戻った。その後の阿波崎城の歴史は不明であるが、戦国期の改修の痕跡が残っていたとも言われる。

 阿波崎城は、霞ヶ浦南方の比高25m程の丘陵上に築かれている。かつては丘陵を広く取り込んだ城であったとされるが、城の中心部はゴルフ場造成によって破壊されてしまっており、現在残っているのは丘陵北東端部の「外丸」「八幡台」と呼ばれる部分だけである。外丸は公園化されており、主郭ではないものの大きな曲輪となっており、北東斜面に段々になった明確な腰曲輪群を構築している。この曲輪群は、中央部が谷戸状に窪んだ地形で、その脇の城道には、原初的な桝形虎口が築かれ、側方上部に櫓台を築いている。一方、八幡台は未整備で藪化しているが、中を探索すると土塁による枡形状の遺構があり、また先端に土塁を伴った曲輪も確認できる。しかし全体的には技巧性に乏しく、古い南北朝期の形態を色濃く残していると思われる。
 『日本城郭大系』の縄張図には、主郭として凸字状に土塁で囲まれた曲輪を載せているが、昭和30年代の航空写真を見ると、そうした明確な遺構は確認できない。そもそも『大系』の縄張図は地形からしても不正確なので、あまり当てにならないと言ってよい。どうも大系の茨城編は記述が全体に不正確で困る。
 いずれにしても、短時日で落城していることから、阿波崎城はそれほど大規模な城ではなかったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.950652/140.416045/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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羽賀城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9234.JPG←主郭大手の土橋
 羽賀城は、江戸崎土岐氏の重臣臼田氏の居城である。臼田氏は、信濃の名族海野氏の庶流で、1387年に臼田直連が上杉憲定から信太庄布佐郷を宛行われたことが知られているが(『臼田文書』)、入部の時期はこの時であったのか明確ではなく、羽賀城の築城時期も不明の様である。初期の居城は、丸山館であったとも言われている。その後、臼田氏は江戸崎土岐氏に従属し、江戸崎城の西の守りとして重臣臼田勘解由左衛門尉が羽賀城を守備したと考えられる。1590年の小田原の役で土岐氏が滅亡すると、臼田氏は帰農したと言う。

 羽賀城は、江戸崎カントリー倶楽部東側の比高20m程の丘陵先端部に築かれている。丘陵の南側一帯は、現在は小野川氾濫原の水田地帯だが、地図に「羽賀沼」の地名が残っている通り、往時は沼をいただいた一面の低湿地帯であったらしい。そして低湿地帯の際の台地に根古屋(現在の羽賀集落)があり、その背後の丘陵に羽賀城があった。城の中心部は土橋で連結された2つの曲輪で、西側が主郭、東側が二ノ郭となっている。主郭・二ノ郭の間は空堀で分断され、更にこの空堀は主郭と二ノ郭の北側も取り巻いている。二ノ郭では空堀が東側まで伸びている。主郭・二ノ郭には隅櫓台や土塁が散見される。例によって祠も祀られているが、ここでは珍しいことに主郭北東の隅櫓台の祠にダルマが置かれていた。主郭・二ノ郭とも、南側は急峻な切岸のみで防御され、その下に城主居館跡と思しき宅地があり、主郭の南西端から削り残されたような土塁がL字型に伸びて宅地の西側を囲んでいる。また二ノ郭の南東に虎口があり、土橋を介して馬出し状の小郭が置かれている。小郭の周りも空堀が穿たれ、二ノ郭東側の広い三ノ郭に土橋で連結されている。三ノ郭の外周にも浅い堀と土塁が築かれている。三ノ郭の北東に隣接して東耀寺と羽賀神社があり、この辺りも城域だったと思われるが、改変されているので確かなことはわからない。この他、主郭の北から西側下方にかけても平場が広がっており、曲輪群が展開していた様である。以上の様に羽賀城は、遺構はよく残っているが、全域未整備の竹藪となっており、歩けないほどではないが遺構が埋もれつつあるのは少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.936234/140.292985/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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二条城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9140.JPG←土塁と空堀と思われる地形
 二条城は、森戸城とも言い、歴史不詳の城である。江戸崎城の南西を守る出城であったと言われることから、江戸崎土岐氏の支城であったと思われるが、詳細は不明である。
 二条城は、小野川北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。南の国道408号線から急坂の切通しを登っていくと、奥に2件ほどの民家があり、そこが主郭である。民家の周囲に土塁や空堀らしい地形があり、付近にも塚か古墳かわからない、謎の土壇が散在している。しかし、土塁を踏むと土が柔らかいので、遺構なのかどうか迷ってしまう(遺構の土塁ならば版築で築いているので、固く締まっているはず)。また全体に藪が未整備で、かつ民家に近いせいもあって、あまり遺構をよく確認できなかった為、縄張りがよく把握できなかった。遺構の規模も小さく、結局かなり消化不良の城となってしまったのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.928832/140.274146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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最近のGoogle Map、すげぇ。 [雑感]

最近のGoogle Mapだが、急速にパワーアップしてきているのに気づいた。

というのも、他のYahooとかMapFanとかと比べると、
以前は城跡や史跡・名所などのランドマークが少なく、
城址探索・史跡巡りの準備作業で、
マイマップにこれらの位置をプロットしていくのが大変だったのだが、
最近はかなりマイナーな城址・史跡まで、
検索すると場所をピンポイントで示してくれるようになったのである。

地図をかなり拡大しないと表示されない城址・史跡も多いが、
(なぜか検索するとヒットするのに、MAP上に表示されない城址・史跡もある。
 裏データがあるのかな?)
お陰で地図をスクロールしていくと、初めて気づく史跡もある。

多分、一般人が入力したポイントのクラウドデータを元に、地図データを整備しているんだろうが、
Googleすごいなぁ・・・。
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