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赤穂城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6937.JPG←二ノ丸東側外周の石垣
 赤穂城は、忠臣蔵で名高い赤穂浅野家(浅野内匠頭)の居城として知られている。基本は純然たる近世城郭であるが、その前身は関ヶ原合戦の後にこの地を領有した姫路城主池田輝政が、末弟の長政を22,000石で赤穂に配し、後の赤穂城地に掻上城を築いたのが最初とされる。その後、池田輝政の家臣垂水半左衛門勝重が赤穂郡代となって役所を構え、更に池田政綱・輝興が赤穂を領した。しかし1645年3月、輝興は突如狂乱して内室と侍女2人を斬り殺して改易となった。その後には、浅野長政の孫に当たる浅野内匠頭長直が、常陸国笠間城から赤穂に53,500石で移封となった。長直は、1648年に赤穂城築城願を幕府に提出し、紆余曲折を経て、1661年に赤穂城が完成した。築城に当たっては、甲州流軍学者近藤正純が設計を行い、更に招聘された軍学者山鹿素行が途中から参画して縄張りに修正を加えた。赤穂浅野家は3代続いたが、1701年、内匠頭長矩の時に江戸城中で吉良上野介義央と刃傷事件を起こし、5代将軍徳川綱吉の命で即日切腹となり、赤穂浅野家は断絶した。同年4月に赤穂城開城となり、一旦は幕府領となったが、翌年、下野国烏山城主永井伊賀守直敬が赤穂に33,000石で入封して暫定的に統治した。1706年、森長直が赤穂に20,000石で入封し、以後森氏11代の居城として幕末まで存続した。尚、元々5万余石の浅野家時代でも分不相応に広壮な城であったが、浅野家改易以降は禄高が次第に減少した為、幕末には城下町は衰微し、城の維持修復にも事欠く有様であったと言う。

 赤穂城は、海に面した低丘陵に築かれている。本丸の周囲に二ノ丸を環郭式に廻らし、北側に三ノ丸を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は水堀で囲繞され、西国の近世城郭らしく総石垣の城となっている。観念論を主軸にした江戸期軍学者の設計らしく、本丸を始めとする各所の塁線は複雑な折れを持ち、隅櫓台は張り出され、各所で横矢掛かりを強く意識した縄張りとなっている。特に本丸は稜堡式城郭の原型とも言えるもので、しつこいくらい屈曲している塁線がいかにも理念先行の軍学者の設計らしい。本丸内には天守台もあり、築城時に天守を建てる計画もあったようだが、結局財政難で建てられずに終わっている。同様に、本丸の4つの隅櫓台も、実際に櫓が上げられたのは北東隅櫓だけで、他の3つは横矢枡形と称して石垣の基台のみであった。
 城内には近代に入ってから一時期学校が置かれるなどして城の遺構は改変されたが、現在は国指定史跡となって復元作業が進められている。本丸は大手門が復元され、御殿跡の配置がコンクリート板で地面にマーキングされている。二ノ丸は国名勝の庭園が復元途上である。三ノ丸には大石神社があり、47士が祀られて観光名所となっている。護岸工事に二ノ丸石垣が持ち出されるなど、一時期改変されたせいと思われるが、石垣は真新しいものが多く、かなり積み直しされてる感じである。大手門の枡形石垣は、明治期に破壊されたものを復元しており、一部の角部が円弧状の石垣も往時の形であるらしい。三ノ丸の石垣もほぼ全周に渡って残っている。訪城が夏場だったこともあり、石垣にかなり雑草が生えていて、石垣の損壊が危惧される状況であった。私は個人的に、純然たる戦闘用に造られた、実戦本位の中世城郭の方が好きなので、権勢誇示志向の強い近世城郭、特に机上理論のみの江戸期軍学者の手になる赤穂城は、ちょっと好みから外れていた。
天守台から見た本丸御殿跡→IMG_6866.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746047/134.388735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世水城
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坂越浦城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6682.JPG←公園となった城跡
 坂越浦城は、嘉吉の乱の後に播磨守護となった山名持豊(宗全)が築いたと言われる城である。1454年に築城工事が行われていたことが資料に残っていると言う。その後、赤松氏が再興されて播磨を再び領すると、赤松氏の庶流・龍野城主赤松村秀の支城となり、その通城(かよいじろ)となって坂越港の支配拠点となったと言う。江戸時代には、赤穂藩の御番所が置かれて坂越浦に出入りする船の監視に当たった。
 坂越浦城は、坂越浦を望む比高20m程の段丘上に築かれている。現在公園となっているが、あまりに綺麗に整備されすぎて、公園周囲も擁壁で固められ、往時の面影は微塵もない。平場があったことと、眼前に坂越浦が広がっていることがわかるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.767220/134.431844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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坂越茶臼山城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6643.JPG←城址とされる山頂
 坂越茶臼山城は、山名持豊(宗全)によって築かれたと言われる城である。1441年の嘉吉の乱で、幕府追討軍の先頭に立って赤松満祐を城山城に攻め滅ぼした持豊は、坂越茶臼山城を築き、赤松氏残党に備えてしばらく駐屯していたと言う。その後、1455年に赤松氏の残党が赤松氏再興を目指して蜂起し、播磨に討ち入ってその一軍が茶臼山城の山名勢を攻めたが、敗退したとも言われる。

 坂越茶臼山城は、宝珠山の西の標高160mのピーク上に築かれていたと言う。しかし現在はテレビ塔が建つ他、石仏が多数置かれており、かなり改変を受けているらしく、明確な遺構は確認できない。強いて言えば、テレビ塔や石仏が建っている部分が一段高くなっており、物見台であったものだろうか。この高台は曲輪と言う程の広さはない。物見台周囲は公園化された平場となっており、ここからは坂越浦を一望できる。城址と言うより景勝地と言う方が適している。

 尚、坂越茶臼山城の北東の尾根には太平記にその名が現れる児島高徳の義父、和田備後守範長とその一族の墓がある。熊山合戦(太平記 巻16)で重症を負った高徳が、茶臼山城中腹の妙見寺に逃れて傷を癒やしたとの伝説がある関係からなのだが、有名な児島高徳も児島・和田一族も太平記にしか記載が見られず、同時代資料に全く記載がない為、その実在が強く疑われているのが実態である。にも関わらず彼らを顕彰する平成7年に建てられた解説板では、後醍醐天皇の治世を「建武の中興」と称し、「国民の福祉を優先する後醍醐天皇の信頼を裏切った足利尊氏」と決め付けている。全く史実を無視した皇国史観という虚偽観念に毒された解説文で、こんなものを現代でも臆面もなく建てていることは、取りも直さず日本が戦前回帰主義に冒され、再び右傾化しつつある証左であり、暗澹とした気分にならざるを得ない。
 ※皇国史観について知りたい方は、拙ブログ「時代錯誤の石碑を建てた日本学協会」の項を参照下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.770516/134.429419/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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佐土構居(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6580.JPG←堀跡とされる水路
 佐土構居は、小寺氏の庶流英保氏の郎従、清水小左衛門久勝が1573年に居住したとされる居館である。久勝は妻鹿孫次郎貞祐の8世の裔孫と伝えられ、祖父吉春の時に初めて清水姓を名乗ったと言う。『御着茶臼山城地絵図』によれば、佐土構居の西側に旧印南郡・旧飾東郡の郡界があり、そこに御着城の東外堀が穿たれ、山陽道と郡界・外堀の交差部に城門があった。従って、佐土構居は御着城惣構の東に隣接して築かれた居館であったらしい。
 佐土構居は、現在の福乗寺境内付近に築かれていた。周辺はすべて宅地化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに福乗寺裏を流れる水路が堀の名残を伝えているに過ぎない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815486/134.743066/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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御着城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6570.JPG←二ノ丸外周の堀跡と切岸
 御着城は、播磨守護赤松氏の一族、小寺氏の居城である。小寺氏は伝わっている系図では、赤松氏を南北朝動乱の中で大大名にのし上げた赤松円心より4代前に分かれた一族と言われる。しかし、円心以前の赤松氏自体の系図が不明瞭であり(南北朝で彗星のように現れた楠氏・名和氏も同様)、事実かどうかは必ずしも明らかではない。ただ太平記には、元弘の乱の時から赤松氏に従った一族として、佐用氏・上月氏と共に小寺氏の名も何度も現れており、赤松氏は鎌倉時代には名もなき土豪であったとは言え、既に一族を広く蟠踞させるほどの勢力を有していたことが窺われる。小寺氏は赤松宗家の家臣として重用され、1349年に小寺頼季が、円心の次男貞範が築いた姫山城(後の姫路城)の城代となり、以後代々、姫山城主を歴任した。1441年の嘉吉の乱の際には、小寺伊賀守職治は赤松満祐に従って幕府討伐軍と戦い、城山城で討死した。赤松氏滅亡後、その遺臣達は赤松氏再興を目指して奮闘し、職治の子と推測される小寺藤兵衛(豊職か)もその主要メンバーとなって長禄の変で後南朝に奪われていた神璽を奪還し、お家再興に成功した。再興赤松氏の当主政則は、応仁の大乱の時に東軍の細川勝元に与して山名氏に奪われていた本拠の播磨を奪還し、播磨守護に返り咲いた。播磨に戻った政則は、1469年に置塩城を築いて居城とし、小寺豊職を姫路城主とした。豊職の子政隆は、同じ赤松家臣であった浦上氏の下克上で動揺する赤松氏を支え続けた。伝承では御着城はこの政隆によって、1519年に築かれたと言われている。しかし、嘉吉年間(1441~44年)には既に構居が設けられ、明応年間(1492~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭に発展していたとされ、発掘調査の結果からもそれが裏付けられている。いずれにしても、政隆以後、則職・政職と3代に渡る小寺氏の居城となった。政職の時には、赤松氏の勢力が衰退した為、黒田職隆・孝高(官兵衛)父子らの多くの有能な人材を登用し、次第に自立した大名となった。勢力の拡張に伴って御着城も整備され、戦国末期には別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称せられた。播磨に織田信長の勢力が伸びてくると、政職は黒田孝高の進言を容れて一旦は織田方に付いたが、三木城主別所長治の離反、摂津有岡城の荒木村重の反乱が相次いで起き、これに動揺した政職は織田から離反して毛利方に付いた。その後、三木城・有岡城が落城すると、政職は城を捨てて備後の鞆に逃亡し、小寺氏は没落。信長の部将羽柴秀吉の侵攻で御着城は落城した。

 御着城は、天川東岸の平地に築かれた城である。中心部に本丸・二ノ丸を東西に配置し、北と東には四重の堀、南と西には二重の堀を廻らし、更に惣構を備えた城であったと言うが、現在は城の中心部を東西に国道2号線が貫通し、市街化が進んで遺構はほとんど残っていない。本丸北半は公園と天守風の公民館となり、本丸南半は小寺氏一族を祀る小寺大明神が鎮座している。また二ノ丸は御着城跡公園というグラウンドに変貌している。遺構として残っているのは、公民館北側に移築保存された天川橋の下の堀跡の窪地と、二ノ丸外周の堀と切岸(土塁)だけである。播磨三大城と称せられた面影は全く残っていない。それにしても、御着城の周辺には城を築くに適した丘陵・山稜がいくつもあるのに、わざわざ平地に城を築いたことは、小寺氏の先進性を窺わせるものであろう。
 尚、本丸跡の公園西側に黒田家の廟所が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818533/134.740705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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朝日山古戦場〔赤松塚〕(兵庫県姫路市) [その他の史跡巡り]

IMG_6519.JPG←朝日山合戦に関連した赤松塚
 朝日山合戦は、天文年間(1532~55年)に生起した赤松氏と浦上氏の抗争である。嘉吉の乱で一旦は滅亡した赤松氏は、旧臣達の努力で再興されたが、戦国時代に入ると重臣の浦上氏が勢力を伸ばして、主家赤松氏を凌ぐようになった。1534年、赤松・浦上両氏の間で朝日山において激戦が行われた。櫛橋左京亮・上月右京亮など多くの赤松重臣が討死し、播磨島津氏も当主忠長が討死して断絶した。尚、現地の石碑によれば、朝日山での合戦は複数回あった様である。

 朝日山合戦の行われた朝日山の南西約1kmの位置の公園の一角に、赤松塚が残っている。石碑の解説文によれば、朝日山合戦で多くの赤松一族・将兵が、或いは討死し、或いは自刃し、爾来この地で鍬入れなどをすると祟りがあり、病気や災難に遭うと言い伝えられていると言う。赤松氏に所縁深い土地であることが窺える。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.811275/134.580932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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青山古戦場(兵庫県姫路市) [その他の史跡巡り]

IMG_6512.JPG←石碑と解説板
 青山古戦場は、後に智将として勇名を馳せた黒田官兵衛孝高の初陣となった戦いである。青山の戦いは、赤松宗家とその庶流龍野赤松氏の対立に端を発している。宗家の置塩城主赤松義祐と龍野城主赤松政秀の対立は、織田・別所・龍野赤松・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の争いという周辺諸豪を巻き込む騒乱に発展した。そして1569年8月、政秀は3000の兵を率いて、赤松義祐に属した御着城主小寺政職の家老黒田職隆・孝高父子の守る姫山城(後の姫路城)に向けて進撃した。孝高は、父職隆から離れて土器山に布陣し、最前線で政秀軍を迎え撃った。不意撃ち・挟み撃ちなど秘策を尽くし、悪戦苦闘の末に政秀軍を追い詰めてこの地まで撃退し、青山で最後の決戦となった。数に勝る政秀軍を撃退することに成功した孝高は、奇襲の作戦技もあって有名になったと言う。
 青山古戦場は、千石池の南東の袂に石碑と解説板が建っている。住宅地の奥の突き当りで、千石池の背後の丘陵はゴルフ場に変貌している。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.842364/134.626100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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英賀城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6511.JPG←英賀神社裏に残る土塁
 英賀城は、播磨の小大名三木氏の居城である。元々は、室町中期の永享年間(1429~41年)に赤松氏の一族赤松祐尚によって築かれたとされる。祐尚は、嘉吉の乱を起こした播磨守護赤松満祐の弟で、嘉吉の乱では兄に従って幕府追討軍に抗し、乱鎮圧後に一旦は赦免されるが、新たに播磨守護となった山名持豊(宗全)に抵抗して滅ぼされた。その後、赤松氏姻族の三木氏が英賀城に入り、以後三木氏の歴代の居城となった。三木氏は元々、伊予の豪族河野氏の一流で、3代将軍足利義満から播磨に地頭職を与えられ、三木通近が播磨恋ノ浜城に入部して、播磨三木氏の祖となった。通近の孫通重は赤松一族の別所氏から養子に入り、また赤松満祐の娘を娶るなど、三木氏は守護赤松氏の下で勢力を伸ばした。嘉吉の乱の際には、通重・通武父子は赤松方に付いて幕府追討軍と交戦し、通重は城山城で赤松一族と共に討死した。通武は恋ノ浜城に落ち延びて抵抗したが、後に新守護山名氏に帰順し、山名氏の命によって、祖父通近ら一族・家臣らと共に英賀城に居城を移した。通武は英賀城を改修して規模を拡張し、西播磨の有力領主に成長する基盤を築いた。通武の養嗣子通安は、赤松氏を再興した赤松政則に従って応仁の乱で軍功を挙げて勢力を伸ばした。通安の養嗣子通規は新たに市庭館を築いて移り住んで市庭家と呼ばれ、一族を城内に配置して「四本家(市庭家・井上家・土井家・堀内家)」と「三連家(山崎家・薮内家・町之坪家)」とし、これら七家の合議で英賀城内を運営したと伝えられている。また1513年、本願寺9世実如上人の子実円を迎えて英賀御堂本徳寺(英賀御坊)を建立し、三木氏一族はこぞって本願寺門徒となって、英賀城は益々栄えた。戦国後期になると、置塩城の赤松宗家は次第に衰退し、宍粟郡長水城の宇野氏、揖保郡龍野城・佐用郡上月城の赤松庶子家、東播磨の三木城主別所氏、中播磨の御着城主小寺氏、英賀城主三木氏らの小大名の割拠状態となった。ここで大きな転機となったのが、1577年の織田信長の部将羽柴秀吉による中国攻めである。播磨に侵攻した秀吉は、離反した別所長治の三木城を兵糧攻めの末に1580年に落城させ(所謂「三木の干殺し」)、別所氏に加勢していた三木氏の英賀城も続けて攻撃を受け、羽柴勢の大軍の前に短時日で落城した。

 英賀城は、夢前川河口近くの、水尾川との間に挟まれた平地に築かれた城である。現在は海岸線から離れているが、往時は海に面した城であったと考えられ、海上交通と山陽道の結節点となる要地であった。しかし昭和に入って、工場誘致に伴う夢前川の付け替え工事と、戦後の宅地造成によって遺構はほとんど湮滅している。明確な現存遺構は、英賀神社裏に70m程に渡って東西に伸びる土塁と、英賀薬師堂脇のわずかな土塁のみに過ぎない。しかし城内各所には、本丸跡の碑のほか「○○口之跡」と刻まれた石碑が建てられており、これらを追っていくといかに広大な城であったか、往時の城域の広さを窺い知ることができる。また本丸・二ノ丸付近の城の中枢部外周には、水路を挟んで1~2m程の高低差があり、城の名残を地形に残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.802766/134.646914/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世海城
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姫路城外郭 その2(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

 今年の夏、2年前に平成の大修理が完了した姫路城を再訪した。前回2006年に訪城した時には、時間の制約等もあって主要部分(要するに一般観光客の見学ルート)しか見て回ることができなかった。今回は、城内の可能な限りの範囲を見て回るとともに、これまでほとんど見て回ることができていなかった外郭の内、遺構が良く残っている中濠を見て回った(内京口門だけは以前に見に行っていた)。姫路ではありがたいことに、ホテルで自転車を無料貸出してくれる所があるので、広域の外郭を巡るのに非常に助かった。

<総社門>
IMG_5777.JPG←雑草に覆われた石垣
 総社門は、総社の西門筋にあった枡形門であった。現在は門跡を県道518号線が貫通しており、ごく一部の石垣を残すほかは壊滅的で、残存状況は悪い。市民会館西側に雑草で覆われている直方体があるが、実は総社門の残存石垣の一つで、冬場ならば石垣面が現れるだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.832695/134.694893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<中ノ門>
IMG_5786.JPG
 中ノ門は、中曲輪正面5門の中央にあった枡形門であった。中央にあった門だけあって、他の門より格式が高かったらしく、内側の櫓門には単層の櫓が付随していた。又、外に出番所、枡形内に大番所があったと言う。ここも枡形は跡形もなく、残存状況は極めて悪い。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.833558/134.690323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<鵰門>
IMG_5807.JPG←鵰門の枡形内部
 鵰(くまたか)門は、中ノ門の西側にあった枡形門で、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。車道が通っているものの、奇跡的に枡形石垣が往時の形状を残している。でもここを通る車も自転車も、走りづらそうである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.833981/134.688456/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<埋門>
IMG_5810.JPG
 埋門は、中曲輪の西南隅櫓の傍らに設けられた枡形門である。鵰門と同様に、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。他の中濠南面の城門と異なり、ここだけ小型の出枡形形式である。尚、門の西側には二層の隅櫓が付随していた。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.834492/134.685903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<車門>
IMG_5844.JPG
 車門は、船場川沿いに設けられた二重枡形のやや複雑な形状の門である。西に向いた外門は、普通の高麗門と車道門の2つがあり、高麗門と車道門との間に内側を仕切る石垣と中間門が設けられて、二重の枡形を構成していた。ちなみに車道門という名は初めて聞くもので、どのような役割の門だったのか、よくわからない。現地解説板の図では船場川(外濠)に面した船着場の様な門だが、船からの荷物を積んだ荷車を通した門だったということだろうか。車門は石垣がよく残存し、堀も残っているので、往時の雰囲気はよく感じられる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.835690/134.685988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<市ノ橋門>
IMG_5879.JPG
 市ノ橋門は、中曲輪西側にあった門で、船場川(外濠)の外に直接通じていた。特殊な形の枡形門で、現地解説板の図によれば塁線から斜めに張り出した台形状の外枡形と、内側に引っ込んで作られた櫓門による内枡形を組み合わせた、ハイブリッド形式の様な枡形であったらしい。現在は広い車道が通っていて、北側の石垣が一部残るだけである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.837838/134.688306/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<清水門>
IMG_6379.JPG
 清水門は、船場川沿いに設けられた中曲輪西北方の枡形門で、枡形内に「鷺の清水」という井戸があったことからこの名が付いた。出枡形の城門であったが、現在出枡形は失われ、内側の櫓門部分の石垣が残存しているだけである。ここからはそびえ立つ天守がよく見える。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.841132/134.692190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<南勢隠門>
IMG_6422.JPG
 南勢隠門は、内濠・中濠の間に築かれた西側帯曲輪の中間に築かれた食違いの城門である。石垣がよく残っているが、残念ながら標柱も解説板もない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.839124/134.690366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<野里門>
IMG_6441.JPG
 野里門は、北東に設けられた城門で、野里の出入口にあたることからこの名が付いた。濠が鍵型に屈曲した部分に設けられた内枡形の城門であったが、遺構はほぼ壊滅状態である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.842188/134.698520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<久長門>
IMG_6463.JPG
 久長門は、中曲輪の東側にあった内枡形の城門で、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。石垣はかなり失われているものの、何とか枡形らしい雰囲気は残している。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.837451/134.699335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

 以上、姫路城の中濠沿いの外郭城門を巡ってみた。鵰門や埋門は街中に枡形が残っており、通学する学生が自転車で枡形や南勢隠門の食違いを普通に通り過ぎている。城門遺構がすっかり生活に溶け込んでる感じがして、すごいなと思った次第。
タグ:近世平山城
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茂木陣屋(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5568.JPG←陣屋跡の現況
 茂木陣屋は、肥後熊本藩細川家の分家が築いた陣屋である。茂木藩細川家の初代細川興元は、細川藤孝(幽斎)の次男で、細川忠興の弟に当たる。関ヶ原の戦いで軍功を挙げ、兄忠興に従って小倉城代となったが、後に兄と不和になり出奔した。その後、父幽斎を頼って京都に隠棲していたが、1608年に徳川家康の仲介で兄忠興と和解した。1610年に2代将軍徳川秀忠のはからいで下野国茂木地方25ヶ村・10054石を与えられ、茂木藩を立藩して陣屋を造営した。その後、大阪夏の陣に参戦し、その功により1616年、茂木1万石に常陸国谷田部6200石を加増され、合計16,200石の大名となった。1619年、興元の子で2代藩主興昌は藩庁を茂木から谷田部に移し、谷田部藩が成立した。その後は谷田部陣屋が本拠となったが、茂木陣屋はそのまま残され、茂木地域の所領を引き続き統治した。そのまま明治維新を迎え、明治4年に藩主興貫は再びこの地に藩庁を移し、茂木藩と改称した。同年、廃藩置県により茂木陣屋は廃された。

 茂木陣屋は、現在の茂木町民センターや茂木商工会がある敷地にあった。遺構は全く無く、北西の交差点脇に石碑が建っているだけである。その西に掛かる橋は、御本陣橋と呼ばれ、わずかにその名に往時の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.531390/140.186298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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