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石森楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4879.JPG←南麓に残る水堀跡
 石森楯(石森館)は、笠原城とも言い、葛西氏の一族石森氏の居城である。古くは平安末期の文治年間の始め(1185~86年)に奥州藤原氏の家臣猪塚修理が居城としたと伝えられる。その後、源頼朝の奥州合戦で藤原氏が滅ぶと、葛西氏が奥州惣奉行に任じられ、1221年にはその一族石森右近将監康次が石森楯を居城とした。以後、石森氏の歴代の居城となったが、1590年の奥州仕置によって葛西氏が没落し、その後生起した葛西大崎一揆で、石森氏は小塚氏(小塚楯主)・二ッ木氏(二ッ木楯主)らと共に一揆鎮圧に当たった伊達政宗の軍勢に抵抗したが、殲滅されて滅亡した。その後には伊達氏の家臣で千石城主であった遠藤出雲守高康が石森楯に移封された。藩政時代には「石森所」(「要害」より一段下のランク)となり、1631年に間野四郎左衛門が入部した。1639年、笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移封され、以後笠原氏の居城となった。

 石森楯は、比高15m程の独立丘陵上に築かれている。城の周囲は市街化が進み、城内の曲輪には民家が建っているなど、改変が進んでいる。また、2008年には丘陵南東部の張出し部を崩して車道を通しており、破壊が続けられている。前述の通り、ほとんど民家の敷地になっているので進入し難いが、城内に笠原家廟所が建ち、その手前に堀切らしい跡が残っている。また北西の石太神社裏の丘陵上にも堀切らしい跡が残っているが、この辺りは薮がひどく遺構の確認が難しい。この他には、南麓に水堀が残っており、こうした小規模な平山城形式の城砦で現在まで水堀が残る例は珍しい。改変が進んでいるものの、貴重な遺構を残している。
廟所近くの堀切状地形→IMG_4903.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.723655/141.212661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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二ッ木楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4851.JPG←ニノ郭側から見た主郭切岸
 二ッ木楯(二ッ木館)は、双樹館とも言い、葛西氏の家臣二ッ木三五郎堯明の居城であったと言われている。二ッ木氏は、元々小野寺氏を称していたとされ、葛西氏の一族石森将監康次が石森楯に拠るに及び、小野寺三五郎堯明が二ッ木楯に住み、ニツ木氏を称して石森楯の後衛に当ったと伝えられる。1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、二ッ木氏も石森氏・小塚氏(小塚楯主)と共に没落した。尚、『登米郡史』には、1590年に二ッ木三五郎が伊達政宗の軍に囲まれると、二ッ木氏の家臣某が主君を斬って伊達勢に降ったが、政宗はその裏切りを憎んでその家臣某を誅殺したとの伝承が残っていると言う。

 二ッ木楯は、標高36mの丘陵上に築かれている。大きく東西2郭から成り、外周に腰曲輪を廻らしている。西側が主郭で、城内最高所に位置し、周囲を3~4m程の切岸で囲まれた広い曲輪で、祠が祀られており、そこまで参道が整備されている。しかし主郭の大部分は薮に埋もれている。主郭の北側には幅広の腰曲輪が1段、南側には2段程の腰曲輪が確認できる。主郭から東の二ノ郭に向かうと、切岸を降った所が鞍部になっており、堀切としての機能を有していたとみられる。二ノ郭は鞍部より少々高い位置にあるが、面積は小さく、削平も甘い。こちらも周囲に腰曲輪を伴っている。全体に、旧態依然とした縄張りの城で、要害性も高い地形ではなく、居館としての機能を優先させた城だった様だ。一部を除き薮がひどいのも難。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729665/141.217918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小塚楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4817.JPG←主郭から見たニノ郭
 小塚楯(小塚館)は、葛西氏の家臣小塚織部則安の居城と伝えられている。小塚氏は、1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、小塚氏も石森氏(石森楯主)・二ッ木氏(二ッ木楯主)と共に没落した。その後、則安の子帯刀は伊達氏に仕えて小塚七郎と称し、平士に列したと言う。
 小塚楯は、標高27m程の独立円丘上に築かれている。頂部は平坦で、段差だけで区画された主郭・二ノ郭が東西に並び、周囲に帯曲輪が取り巻いただけの簡素な城砦である。主郭南部には神明社が建てられており、一部改変を受けているが、参道の階段があるので訪城は容易である。但し、神社境内以外の曲輪部分は薮で、しかも普請がささやかなため、削平が甘く、自然地形も多いので遺構はあまりはっきりしない。通り掛かりに寄り道する程度の城だろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.728393/141.229742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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弥勒寺楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4790.JPG←主郭に通じる土橋と堀切
 弥勒寺楯(弥勒寺館)は、歴史不詳の城である。伝承では、葛西氏の家臣鈴木正斉入道が城主であったと言われるが、確証はない。

 弥勒寺楯は、弥勒寺が建っている丘陵東端の、比高20m程の段丘上に築かれている。南北2郭から成る簡素な城砦で、主要部は公園化されている。南麓から階段を登ると二ノ郭周囲の腰曲輪に至る。その上に、高さ3m程の切岸で囲まれた二ノ郭が聳えている。二ノ郭は南北に長く、西辺に土塁らしい土盛があるが、公園化による改変の可能性もあり、遺構かどうか確証はない。二ノ郭の北に幅広の土橋が架かった堀切が穿たれ、その北が方形の主郭である。主郭は小規模な曲輪で、居住性はほとんど無い。主郭の背後にも土塁と堀切が築かれて、丘陵基部を分断している。その先は弥勒寺の墓地に変貌している。主郭の西側は、ニノ郭西側の腰曲輪がそのまま繋がっている。主郭の東斜面にも腰曲輪が2段ほどある様だが、薮がひどかったので踏査はしていない。小規模だが、比較的普請がしっかりされた城である。尚、ここの城址標柱も印字がほとんど消えているので、何とかしてほしいところである。
腰曲輪上にそびえるニノ郭→IMG_4770.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.731489/141.259332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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湖水城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4752.JPG←城跡の台地
 湖水城は、西郡城とも呼ばれ、葛西氏の家臣西郡氏の居城である。戦国末期の城主は西郡新左衛門とされ、1590年の奥州仕置の際、葛西氏の将として700騎の総大将として現在の桃生郡河南町須江に出陣し、翌91年深谷の役で伊達軍と戦い討死したと言う。一方、西郡城主として千葉左馬助胤元の名も伝わっており、城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 湖水城は、機織沼の西側にある比高5m程の島状台地に築かれている。平坦な頂部に長円形の主郭を置き、周囲に一段低く腰曲輪を廻らしていたようである。適当に取り付きやすそうな部分から台地に這い上がってみたが、全域藪が酷すぎてまともに写真が取れない状況で、遺構の確認もできないのが残念である。城址南側の民家近くに城址標柱が残っているが、字が判別不能なほど消えてしまっている。かなり残念な状況である。
 尚、機織沼の北東の丘の上に西郡新左衛門夫妻の石碑と祠が建っている。

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.733046/141.280317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鱒渕城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4718.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 鱒渕城は、葛西氏の家臣及川紀伊の居城であったと伝えられている。また別説では、鱒渕城主として岩渕氏の名が伝わっている。城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 鱒渕城は、二股川支流の小河川南岸に南から突き出た、比高30m程の細長い丘陵上に築かれた城である。小規模な城砦で、南北2郭と腰曲輪から構成された連郭式の縄張りとなっている。南北2郭の内、北側が主郭で、主郭内は何段かの段差に分かれ、北端が一番高く、神社が建てられている(但し参道は途絶)。主郭後部に1段の段曲輪があり、その先に土橋の架かった堀切を介して二ノ郭が続いている。二ノ郭南部は途中から採土で消滅してしまっている。主郭の東西斜面には綺麗に削平された腰曲輪が1段取り巻いており、西の腰曲輪先端には、竪堀状の虎口が築かれている。しかしその先は斜面が崩落してしまったのか、城道を追うことができない。全体に小規模で、技巧性もなく、あくまで有事の際の詰城と、南東の館ノ下集落(往時の根古屋であろう)を防衛する障壁としての位置付けだった様である。尚、主郭の後部に高圧鉄塔があり、そこへの保守道が西麓から伸びているので、それを使って訪城できる。
土橋の架かった堀切→IMG_4675.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.748394/141.328189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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狼河原城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4520.JPG←主郭前面の堀切
 狼河原城は、別名を鳩岡城、畑沢城とも言い、葛西氏の家臣亀卦川氏の一族、米谷修理の居城である。米谷亀卦川氏の事績については、米谷城の項に記載する。南北朝時代の1369年に、亀卦川(米谷)政明の子信明が登米郡狼河原に分封され、狼河原米谷氏の祖となった。その後、狼河原城を居城として、米谷氏の勢力の一翼を担い、この地に勢力を張ったと思われる。戦国末期には、米谷常秀の弟常忠が狼河原(米谷)氏を継承した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると、領内で葛西氏家臣団による反抗が起き、奥州仕置軍との間で激しい戦いが行われたと言われ、その中に兄の米谷常秀と共に狼河原常忠の名が見られると言う。(一説には、この時の狼河原城主として千葉修理亮胤則と言う名が伝わるが、狼河原氏との関係は不明。また戦国後期の1564年には葛西民部少輔が城主であったとも伝えられ、狼河原城主については不明点が多い。)その翌年、葛西大崎一揆が起きたが、伊達政宗の軍勢によって殲滅され、狼河原氏は滅亡したと思われる。

 狼河原城は、二股川の南岸に突き出た標高97m、比高77mの丘陵上に築かれた城である。普請がしっかりされた比較的大型の城で、本家の米谷氏が拠った米谷城よりも遥かに優れた遺構を有している。西麓の車道脇に城址標柱が建ち、そこから東に入っていった民家の脇から登り道が付いている。民家の横を通るので、立入りの許可をもらった方が良い。大きく4つの曲輪から成り、主郭を中心に、南西に二ノ郭、北西に三ノ郭、南東に四ノ郭を配置し、それぞれ腰曲輪を廻らしている。主郭と二ノ郭・三ノ郭はそれぞれ堀切で分断されているが、いずれの堀切も両側の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねている。また二ノ郭側の堀切には、主郭塁線が内側に折れて横矢が掛かると共に、どうも主郭の搦手虎口があったらしく、この主郭への登り道を隠すように二ノ郭側の土塁が配置されている。主郭は背後に土塁を築き、西辺部にも幅広の土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間の堀切手前に土塁と櫓台を築いているが、一方で前面に当たる北側は、明確な切岸などの区画や防御構造がなく、ダラダラとした緩斜面になっている。各曲輪周囲の腰曲輪は、綺麗に削平されて何段かに区画されており、特に主郭東側の腰曲輪は広幅で、主郭切岸も5m程の高さで聳えている。四ノ郭だけは主郭との間に堀切がなく、前面に数段の段曲輪を築いている。一方、二ノ郭の腰曲輪の先端(南端)も堀切となっているが、前述の西麓からの登り道はこの堀切に通じている。この堀切から南に少し行った先にも外郭があり、切岸で囲まれた三角形状の小曲輪と周囲の腰曲輪が確認できる。
 なお城内の中で、二ノ郭とその周りの腰曲輪だけが、西麓の民家の畑になっており、訪城した時作業中のお爺さんと話すことができた。主郭先端に大同桜という古木があり、時折それを見に来る人があるらしい。
主郭東側の切岸と腰曲輪→IMG_4549.JPG
IMG_4632.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.772923/141.341021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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若草山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4414.JPG←紅葉に彩られた腰曲輪
 若草山楯(若草山館)は、若宮館とも言い、歴史不詳の城である。東方700mに狼河原城があることからその出城であった可能性もあるだろう。
 若草山楯は、米川市街地北方にそびえる比高40m程の独立丘陵に築かれた城である。簡素な城砦で、山頂の主郭を中心に、その周囲に同心円状の腰曲輪が2~3段築かれているだけである。主郭には現在若宮神社が鎮座し、山全体が公園化されているが、遺構はよく残っている。北側の腰曲輪には土塁も確認できる。秋には紅葉で美しく染まる城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.773860/141.332352/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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梁川宗元屋敷(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4397.JPG←標柱の建つ屋敷地
 梁川宗元は、白石宗直の3男である。白石宗直は、元々梁川宗清の子であったが、岳父である白石宗実の養子となってその後を継ぎ、水沢城主となり、後に寺池城に転封となって登米伊達氏の初代となった。この為、宗直の3男又四郎宗元が、祖父梁川の姓を継ぎ、米谷村北方の鱒渕村・狼河原村143貫文を領し、米谷村吉田に屋敷を構えた。その後、治水・灌漑工事に力を尽くしたが、1640年に34歳の若さで没した。宗元の長男百助がまだ3歳だったため、仙台藩2代藩主伊達忠宗が宗元の妻(原田甲斐の姉)に自分の所に来るように勧めたがこれを断った。2年後に栗原郡の上遠家に後妻に入ると、これを聞いた忠宗は怒り、梁川家を断絶とし、百助はお預けの身となったと言う。

 梁川宗元屋敷は、国道346号線沿いに標柱が建っている。高荒神山南麓の谷戸部に当たり、現在民家が建っている一帯に屋敷が建っていたものだろう。宮城県遺跡地図には記載がないことから、遺跡とは認定されていない様だ。たまたま通りかかって標柱を見つけた次第である。尚、ここから北東2.4kmの位置にある頼光寺に、梁川宗元夫妻の墓がある。珍しい宝篋印塔で、「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる角の突起の部分に、○・十字・◇等のマークが刻まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.738921/141.306496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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米谷城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4339.JPG←本丸から張り出した櫓台
 米谷城は、伊達氏の重臣桑折新左衛門景頼(石母田景頼)の居城であった。元々米谷の地は、1276年に葛西清信が石巻日和山城に入部した際、その家臣亀卦川氏の一族、亀卦川胤氏が米谷に入部して居城を築いたことに始まる。亀卦川氏は、奥州千葉氏の庶流で、後には米谷を本拠とした米谷亀卦川氏と大原新山城を居城とした大原亀卦川氏の2流に分かれている。米谷亀卦川氏は米谷氏を称したともされ、米谷氏時代の居城は南の鼎楯であったとも、また大膳楯であったともされ、明確にはわからない。1590年、14代亀卦川(米谷)常親(常秀?)が当主の時、奥州仕置で葛西氏が改易され、その後の葛西大崎一揆が鎮圧されて、米谷亀卦川氏は滅亡した。この時には、既に米谷城の地に居城が移されていたとも言われている。その後、葛西・大崎氏の旧領が伊達政宗に与えられると、1594年にその重臣石母田景頼が入部した。景頼は、後に桑折氏の後見となって桑折景頼となり、婿養子の石母田大膳宗頼に家督を譲り、宗頼が米谷城主となった。その後1616年に、柴田宗朝が水沢より米谷城に移封となった。元和の一国一城令で城が廃されると、米谷城は「所」(「要害」より一段下のランク)となった。宗朝の後を継いだ柴田外記(朝意)は、寛文事件(いわゆる伊達騒動)において江戸で斬られて落命した。1681年、柴田宗意が船岡要害に移封となると、米谷所には一時日野元信が入った後、1703年に登米郡黒沼から高泉兼康が2700石で入封した。そのまま高泉氏の所領として幕末まで存続した。城内には、現在でも高泉家の居宅が建っている。

 米谷城は、大膳楯のある丘陵から一つ北側にある比高40m程の丘陵上に築かれている。前述の通り、高泉様の私有地であるので、遺構を見て回るには高泉様の許可が必要である。私が訪城した時は、たまたま高泉様のご当主がご在宅で、出掛ける間際のお忙しい中なのに、わざわざ10分程もお話を伺うことができ、ご当主がまとめた貴重な資料をいただくこともできた。

 以下は高泉様から伺った話。現在居宅が建っているのは侍詰所に当たり、本丸は上の平場である。これらの配置は、江戸時代の絵図面でほぼ確認できる。本丸の東に高台があるが、これは戦国時代に使われていたもの(中世の主郭跡)で、調査はされていないと言う。今は城の西下を車道が貫通しているが、昭和に入ってから西側を削って車道を通したもので、往時は城の防衛のため道を通さないようにしていた。また明治期に、北上川の護岸工事のために、城の石垣がだいぶ取り壊されたらしい。城の周りには、東に寺、南に神社などを配置しているが、これらは全て風水を考えてのものではないかとのこと。米谷の地名は、坂上田村麻呂がその家臣米谷氏を置いたことに始まると言い伝えられているそうだ。

 遺構としては、近世本丸跡(中世の二ノ郭)の広い平場があり、南の切岸下に侍詰所の平場があり、高泉様の居宅が建っている。近世本丸から侍詰に向かって櫓台の張出しが見られる。また近世本丸の東側に切岸で囲まれた段丘があり、これが中世の主郭跡である。背後に当たる東側に城道が残っているが、主郭内は薮で埋もれていて進入は不可能である。この他、中世主郭の南側に竪堀状の窪地や腰曲輪と思われる段々の平場があり、居宅の東側高台の広い平場まで繋がっている。中世主郭の東側は給水施設や学校に変貌して大きく改変されているので、旧状は不明である。
 米谷城は、多種の改変を受けているが、概ねは旧状をよく残しており、中世から近世まで継続的に使われた城の名残を感じることができる。いろいろと貴重なお話や資料を提供していただけた高泉様にも、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
主郭南の腰曲輪群→IMG_4365.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.712187/141.294994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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