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大衡城(宮城県大衡村)

IMG_1356.JPG←主郭南の物見台
 大衡城は、越路館とも呼ばれ、大崎氏の一族黒川氏の庶流、大衡氏の居城である。下草鶴楯城主黒川下総守景氏の次子、大衡治部大輔宗氏が1544年に築城した。黒川氏は大崎氏の一族として大崎氏との強い紐帯で繋がっていたが、戦国期に入り南の伊達氏の勢力が北上してくると、大崎氏を離れて伊達氏に属し、その為北の大崎領に対する備えとして、黒川氏領の北方防衛の拠点として築かれたものと思われる。その後1590年、宗氏の子氏胤の時に豊臣秀吉の奥州仕置で廃城となった。

 大衡城は、善川とその支流の合流点北側にそびえる比高30m程の丘陵先端に築かれている。現在は主郭部分が城址公園として整備され、大衡城青少年交流館という建物が模擬天守風の造りで立てられるなど、一部破壊を受けている。しかし主郭内部は改変されているが、周囲は旧状を多く残している。主郭外周部はほぼ完存し、横矢掛かりの塁線の張出しや土橋で連結された南の物見台などが確認できる。殊に南斜面の腰曲輪群は見事で、最下段付近にはL字状の横堀もある。また、この腰曲輪群には一部に縦堀も見られる。南に付いている公園への登城路も、往時の大手道をそのまま残しているということで、枡形状の屈曲や登城路側方の土塁、大手門の櫓台などもよくその形状を残している。しかし、この登城道や城内見学路は全て舗装されているため、遺構は一部破壊されているのは城址公園としては好ましくない。この他、主郭の北側は、腰曲輪状の二ノ郭で一部土塁が残存しているものの、駐車場に改変されてしまっている。昭和20年代の航空写真を見ると、主郭北東に現在住宅地が広がる台地基部に三ノ郭があり、その東側に堀切を穿って防御していたらしい。改変されてしまった城址公園にしては、中世城郭としての雰囲気をよく残しているが、失われた部分については惜しいという他はない。
南腰曲輪群中の横堀→IMG_1346.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.461436/140.880260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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桑折城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1231.JPG←東尾根曲輪群
 桑折城は、大崎氏の重臣渋谷氏の居城である。古文書には、城主として渋谷相模守の名が記されている。渋谷氏は、大崎氏の入部前から河内四頭(渋谷氏・大掾氏・泉田氏・四方田氏)と称される国人領主で、大崎氏の入部後は徐々に大崎氏の勢力に組み込まれ、大崎四家老の一に数えられる重臣となった。桑折城が歴史に大きく現れるのは、1588年の大崎合戦に於いてである。大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。この時、渋谷相模守が守る桑折城には、その甥に当たる鶴楯城主黒川月舟斎晴氏が加勢に入った。大崎勢の激しい抵抗に攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて撤退を始めると、大崎勢は各所の城から出て猛変撃に転じたことで、伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。また留守政景の軍勢は雪原に孤立して危殆に陥ったが、黒川月舟斎は政景の舅であったことから、月舟斎の温情にすがって帰陣を許され、虎口を脱して千石城に戻った。新沼城に孤立した泉田重光、長江月鑑斎らは大崎氏に捕らえられ、大崎合戦は伊達勢の大敗で幕を閉じた。その後、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易となると、桑折城も廃城となった。

 桑折城は、鳴瀬川南岸の標高55m、比高30m程の丘陵上に築かれている。城域は、本城と出城の南楯と、大きく2つの区域に分かれており、本城は丘陵北端の東西に長い尾根上に築かれている。主郭は東のピークに築かれ、西・北・東の三方の尾根に曲輪群を連ねている。メインになるのが西尾根で、主郭の西に長い二ノ郭が続き、土橋の架かった堀切を介して三ノ郭、更に前面を小掘切で防御して四ノ郭群が連なり、西端は段曲輪群で登城道を防御している。四ノ郭群の北切岸には、内枡形虎口や畝状竪堀風な地形がある。一方、北尾根も第2の二ノ郭とも呼べるような長い曲輪であるが、北端は開発で削られてしまっている。東尾根には、片堀切を介して段曲輪群が連なっている。本城から南に堀切を介して尾根伝いに進み、ピークから東に降っていくと、東端のピーク上に南楯がある。2つの曲輪だけで構成された小規模な城砦で、いかにも出城という造りである。ピーク上に主郭があり、北東に舌状の二ノ郭が長く伸びている。主郭周囲には腰曲輪と虎口もあり、西尾根は堀切で分断している。以上の遺構がほぼ完存し、しかも館山公園として整備され、晩夏でも遺構の確認が全く問題なく出来る。主郭の城址標柱に「きれいな公園、郷土の誇り」と書かれているが、このきれいに遺構が残る城址公園は、まさしく郷土で誇るべきものであろう。予想以上に素晴らしい城址公園だった。
二ノ郭手前の土橋と堀切→IMG_1204.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.524499/140.950062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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千貫森楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1129.JPG←主郭下方の横堀
 千貫森楯は、歴史不詳の城である。伝承では早川民部の城であったと言われるが、詳細は不明である。

 千貫森楯は、鳴瀬川南岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は住宅地と高速道路に挟まれて独立丘陵の様になっているが、開発されるまでは南の丘陵地帯と繋がっていた。城址は千貫森桜公園となって整備され、登り道が付いているので、夏でも訪城可能である。頂部に小さな主郭を置き、南に小郭、更に堀切・土塁を介して南の曲輪に繋がっている。また主郭の北西にも出曲輪があるようだが、南の曲輪ともども削平が甘く、どれほど曲輪として機能していたのかよくわからない。一方、主郭の南東斜面には前述の堀切から繋がる形で円弧状に横堀が穿たれている。よく見ると、横堀の起点には枡形空間があり、枡形虎口を形成していた様である。またこの枡形の下方には腰曲輪が築かれている。従ってこの横堀は、実は城内通路を兼ねた塹壕であったことがわかる。小規模な城砦で、主郭には給水設備、南曲輪には鉄塔が建っていて改変を受けているが、遺構は比較的よく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.519983/140.931094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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駒犬城(宮城県塩竈市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1063.JPG←腰曲輪状の墓地
 駒犬城は、岩切城主留守氏の支城である。古くは駒崎城とも呼ばれたらしく、南北朝期の1351年に観応の擾乱の余波で奥州管領であった吉良貞家・畠山国氏両氏が戦った際、吉良氏が「駒崎」に在陣していたことが『余目記録』の記述から知られており、『日本城郭大系』ではこの駒崎が駒犬城のことであろうと推測している。その後、留守氏の重臣佐藤氏が城主となり、城主の名として佐藤左近・佐藤信高が伝えられている。また、塩竈神社の明応六年(1497)銘の鐘に佐藤宗高の名が見られ、信高の一族と推測されている。戦国期に、伊達晴宗の3男政景が留守氏に入嗣した際には、駒犬城主佐藤太郎左衛門は村岡氏らと共に強く反発し、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。この時、駒犬城も落城し、以後廃城になったと思われる。

 駒犬城は、塩釜港の南西にある比高30m程の独立丘陵上に築かれている。眼下の塩釜市街地は多くが埋立地であり、往時は内湾に突き出た岬だったと推測され、寺ヶ崎と呼ばれたと言う。東園寺の裏山に当たり、現在城内は全て墓地に変貌している。頂部は南北に長い平場となっているが、外周には数段の腰曲輪状の平場があり、やはり墓地に変貌しているものの、往時の腰曲輪の名残と推測される。改変が激しいので、腰曲輪らしい地形しか確認できないが、墓地の入口には城址の石碑が建ち、城があったことをわずかに伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.315245/141.021731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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今泉城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0819.JPG←堀跡の道路と郭内への傾斜
 今泉城は、天正年間(1573~92年)に国分氏の家臣須田玄蕃の居城であった。築城年代は定かではなく、発掘調査では鎌倉後期から南北朝期の陶器が出土しており、その時期まで築城時期が遡るのかどうか、考究が待たれている。
 今泉城は、名取川北岸の平地に築かれた城で、現在住宅地となっている。遺構はほぼ湮滅しているが、堀跡が円弧状の道路になっており、概ねその形状を追うことができる。道路から郭内に向かって僅かに高くなっていることからも、道が堀跡であることがわかる。また堀跡と思われる水路も残っており、朧気ながら城の痕跡を追うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.210332/140.928047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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北目城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0807.JPG←城址付近の現況
 北目城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。茂ヶ崎城主粟野大膳が北目城に移り、天正年間(1573~92年)まで居城した。1600年の関ヶ原合戦の際には、南の上杉景勝と対峙するための伊達政宗の拠点とされた。後に伊達氏家臣屋代勘解由兵衛が置かれたと言う。平成4~5年の発掘調査によって、江戸時代初期の障子堀が確認されており、堀の上幅10~14m、深さ3m以上あったと言う。障子堀ということは、小田原の役の後に北条氏の築城技術が全国の城に導入された一環であろうから、小田原の役後に改修を受けたと推測される。

 北目城は、広瀬川南岸の微高地に築かれた城である。微高地の先端近くに築かれたと考えられ、「館ノ内」などの地名が残っているが、遺構は早くに失われたらしく、昭和20年代の航空写真では既に明確な遺構は確認できない。広い車道の脇に解説板があるのが、城跡を伝える唯一のものである。この解説板に「この遺跡の現状を変えようとするときは・・・」の注意書きがあるが、ここまで何もないと虚しく聞こえてしまう。勿論、前述の障子堀の様に地下には遺構が眠っているのであろうが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.223280/140.897341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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河合城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0685.JPG←北辺の土塁跡?
 河合城は、歴史不詳の城である。総築時期も不明であるが、応永年間(1394~1427年)には佐竹氏の譜代家臣「久慈西東之奉公衆」で、この地を発祥とする川井氏の城であったと考えられている。いずれにしても佐竹氏の勢力圏内であり、佐竹氏の支城の一つであったろう。
 河合城は、JR水郡線河合駅の付近にあった。現在城内は宅地化・耕地化され、遺構は完全に湮滅している。ちょうど駅がある位置が主郭とされる。普通なら道の形などに城の形態を残すことが多いが、この城ではそれすらほとんど明確ではなく、わずかに城の南北にある水路が堀の名残とされる。この水路に沿って土塁跡らしい土盛があるが、これすら本当に遺構かどうか明確ではない。早い時期に失われてしまった、幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.508274/140.517068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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多良崎城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0603.JPG←ニノ郭土塁と堀切
 多良崎城は、江戸氏の庶流足崎氏の居城である。元々は、鎌倉時代末期に常陸大掾吉田太郎広幹の3男、三郎里幹が多良崎氏を称し、多良崎城を築いたと言われている。しかし南北朝期に南朝側に付いたため、没落した。その後、江戸通重の次男平沢通村の裔、足立通義・通定兄弟が城主となり、足崎氏を称した。1590年、江戸氏攻略を目指す佐竹義重・義宣父子に攻められて落城し、廃城となった。

 多良崎城は、比高25m程の半島状台地に築かれている。周囲は現在は水田地帯となっているが、往時は真崎浦と呼ばれる湖が広がっていた。即ち、多良崎城は湖上に突き出した半島状台地に築かれた要害であった。遺構は完存しており、城址公園として整備されているので、夏でも訪城可能である。基本的には連郭式の城で、土塁で四周を囲んだ方形の主郭と、その前面に土塁続きの二ノ郭が、数mの段差で連なっている。主郭の西辺内側と二ノ郭内の主郭前面には浅い堀があるが、機能は良くわからない。更に二ノ郭の前面に堀切を介して三ノ郭が広がっているが、削平は甘く郭内は傾斜している。三ノ郭の北西は入江の様になっており、明らかに船溜まりになっていたことが想像される。三ノ郭の西に張り出した尾根先端は、この船溜まりと湖上を監視する物見台であったろう。三ノ郭から細尾根を北に辿ると、やや離れて平坦な平場が広がっており、北の出丸となっており、先端近くに烽火台の土壇が残っている。この他、主郭南側にも小郭と小堀切、主郭の東西に腰曲輪があり、東麓には水の手が残っている。城に続く南側の尾根筋には、2つの木戸跡の表示があるが、明確な遺構は見られない。何を以って木戸跡と特定したのか不思議に思ったが、発掘調査で確認されたものであろうか?比較的単純な構造の要害であるが、中世の湖上の城らしさをよく残しておりお勧めである。
 尚、多良崎城は、その道では有名な心霊スポットらしい。その道の人に言わせると地縛霊がウヨウヨしているらしいが、そんなこと言ってたら中世城郭巡りなんてできないよなぁ・・・。玉砕した城なんて、全国至る所にあるし。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.432211/140.572343/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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津賀城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0512.JPG←主郭虎口と蔀土塁
 津賀城は、この地の土豪津賀氏の居城であったと考えられている。津賀氏については系図不明であるが、大永年間(1521~27年)に津賀大膳、天正年間(1573~92年)に津賀大炊介が居たことが『鹿島治乱記』に記されており、津賀大膳は1524年、鹿島氏の内訌である高天原の戦いで、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪、塚原卜伝の師でもある)と戦い、これを破ったと伝えられている。

 津賀城は、北浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は城址公園として整備されており、夏でも訪城可能である。ほぼ単郭に近い小規模な城で、主郭は横方向に長い形状で、外周を土塁で囲み、南東辺の中央付近に虎口を向け、虎口を入ってすぐのところに蔀土塁を設けて視線を遮っている。また南西端には物見櫓の張り出しを設けている。主郭周囲は腰曲輪が一周し、虎口付近には空堀が穿たれ土橋が架けられている。この腰曲輪は公園化で改変を受けている可能性があり、どこまで往時の形状を残しているか不明な部分もあるが、外周には一部土塁も築かれていた様である。腰曲輪の南東の台地基部には堀切が穿たれ、その先にL字状の土塁を構築しており、馬出し的な土塁囲郭の様である。しかし不思議なのは、周囲の平場との分断はなく、意図が不明である。津賀城はその形態から見る限り、北浦の水運を監視する物見であると同時に、あくまで有事の際の詰城の位置付けだった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.037370/140.580776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鳳凰台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0457.JPG←城址の現況
 鳳凰台城は、大生城とも呼ばれ、この地の国人領主大生氏の居城と伝えられている。伝承によれば大生氏は、桓武天皇の皇子葛原親王の流れを汲む一族ということで、多くの鹿行地域の豪族と同じく、大掾氏の庶流であったと思われる。その14代の後裔大生八郎玄幹(はるもと)を祖とし、この玄幹が平安末期の1183年に鳳凰台城を築いたとされる。小田原の役の後、佐竹氏が所謂「南方三十三館の仕置」で常陸南部を制圧すると、大生氏も佐竹氏に服属した。玄幹より19代の大生弾正定守は、1614年の大坂の役に出陣する途中、駿河藤枝で流行病によって病没したと言う。

 鳳凰台城は、北浦西岸の比高35m程の半島状台地に築かれている。城内は全面的に耕地化されており、遺構は完全に湮滅している。どのような縄張りの城だったのかも、現状からでは推測不能であるが、昭和20年代の航空写真を見ると、畑の中に堀らしい跡が何ヶ所か見受けられる。東西方向に長い曲輪を南北に連ねた、基本的には連郭式の城だったらしい。北端が主郭であったと思われるが、昔の航空写真とGooglaMapの現在の航空写真と見比べると、主郭の北西部は採土で大きく削られてしまっていることがわかる。現在は先端近くの祠の奥にある城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.996393/140.554469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖橋城
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