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古城めぐり(長野) ブログトップ
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内堀館(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04319.JPG←北側の水堀と土塁
 内堀館は、歴史不詳の城館である。上今井集落の南部、千曲川西岸の扇状地の端に位置しており、民家の周囲に土塁と水堀がよく残っている。江戸時代後期には、飯山藩の本陣として利用されたこともあって、遺構がよく保存されてきたものであるらしい。館の南側は土塁も堀も残っていないが、これは後世湮滅したものであろう。西側の土塁中央部に大手虎口があり、往時の雰囲気を残す長屋門が構えられている。中世の土豪の館の雰囲気をよく残した遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749940/138.318955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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手子塚城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04256.JPG←主郭北方の堀切
 手子塚城は、戦国時代に長沼郷と千曲川支流の鳥居川流域を支配した島津氏が築いた城と言われている。島津氏は、長沼に館を構え、詰城として大倉城を築いていたが、手子塚城は大倉城の出城と考えられている。千曲川西岸の独立小丘に築かれた平山城で、対岸の立ヶ花城と共に千曲川の渡し場を押さえ、対岸の高梨氏に備える防御拠点であったと推測されている。
 手子塚城は、比高20m程の小丘に築かれており、主郭には諏訪神社が祀られている。一部改変を受けているものの、主要部の遺構はよく残っており、主郭周囲に梯郭式に腰曲輪を幾重にも巡らした構造で、腰曲輪には土塁と浅い堀切が築かれている。北には更に数段の段曲輪を構えているが、畑に変貌した舌状に伸びた平場が広がっており、どこまでが城域なのか、改変ではっきりしない。いずれにしても交通の要衝を押さえる比較的小規模な城砦だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.726038/138.306284/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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長沼城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04172.JPG←南馬出の土塁跡
 長沼城は、甲斐武田氏が千曲川西岸に築いた平城である。その起源は、一説には在地豪族の島津氏が築いた館とも言われる。戦国時代の1557年、北へ北へと信濃攻略を推し進める武田信玄の葛山城攻略によって、島津月下斎は長沼城を捨て、北の大倉城に撤退した。1564年に12年間にわたって行われた川中島合戦が終焉を迎えると、川中島より更に北の飯山・野尻方面へ侵攻した武田氏は、長沼城に城下町を建設し、1568年には重臣の馬場美濃守信房に城を再建させて、海津城とともに川中島地方を支配する重要拠点とした。1582年に武田氏が滅亡すると、上杉景勝と織田信長の家臣森勝蔵との間で長沼城争奪戦が行われ、結局織田方の有に帰したものの、間もなく信長が本能寺で横死し、上杉氏が川中島を制圧して島津忠直を長沼城将に任じた。1598年、上杉氏が会津に移封となると、島津氏も会津に移り、長沼城は豊臣秀吉の直轄領となった後、徳川家康の子松平忠輝の領するところとなり、1616年には佐久間勝之が長沼藩を立藩した。しかし1688年に4代勝茲の時に改易され、そのまま廃城となった。

 長沼城は、千曲川西岸の自然堤防上の微高地を利用して築かれた平城だったと思われるが、千曲川の氾濫で東側は流失し、更に現在は堤防構築や耕地化によって、遺構はほとんど湮滅している。本丸周囲に二ノ丸・三ノ丸を巡らした梯郭式の縄張りで、二ノ丸には南・北・西の三方に丸馬出と三日月堀を構えていたとされている。現在残っているのは、南馬出の土塁の一部と、北三日月堀の一部、二ノ丸外周の中堀の一部ぐらいである。しかし広大な果樹園と化した城址には、各所に案内板が多数設置されている。また外郭(三ノ丸)の外堀も水路となって残っているなど、ある程度往時の城の縄張りを想像することもでき、遺構は少ないが歩いて回ると中々楽しめる。
二ノ丸中堀跡→DSC04192.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.684734/138.274151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中俣城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04167.JPG←本丸周囲の堀跡らしき道路
 中俣城は、1424年に井上氏が築いた平城と言われている。それ以前にも、木曽義仲が挙兵した寿永の頃に前身となる城が築かれたと言う。また別説では、応永年間(1394~1428年)に中俣刑部が居住していたと言い、「大塔物語」では1400年の大塔合戦の際に中俣氏が信濃守護小笠原長秀を討つため、井上左馬介光頼に従って出陣したと伝えられている。
 中俣城は、かつては本丸・二ノ丸・三ノ丸から成る平城であったとされるが、現在市街化のため、遺構は完全に湮滅している。しかし本丸と思われる場所の周囲には回字状に道路が巡っており、堀跡ではないかと推測される。本丸の南東とされる場所には累代城主の守護神という城山稲荷大明神が祀られている。城跡付近には北八幡川が流れているが、城の外堀として機能していたのだろう。城山稲荷には城址標柱と解説板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.658246/138.255676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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駒沢城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04154.JPG←城址付近の現況
 駒沢城は、この地の土豪駒沢氏の居城と言われている。駒沢氏についての事績は不明で、1534年に城主駒沢刑部は村上義国に討たれたと伝えられている。
 駒沢城は、諏訪神社付近にあったと言われているが、既に遺構は湮滅している。わずかに神社境内は微高地となっており、周囲には水路が流れているが、城の名残かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.681017/138.245183/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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若槻里城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04135.JPG←北側の堀跡の現況
 若槻里城は、詰城(若槻山城)と一体となった平城で、八幡太郎源義家の孫若槻頼隆が鎌倉時代初期にこの地に入部し、若槻氏を称して山城・平城を築いたと言われている。室町時代になると若槻氏は高梨氏に属し、1404年に信濃守護代細川慈忠の入国に高梨氏と共に抵抗し、若槻城は攻められて落城した。戦国時代に入り、善光寺平が武田信玄・上杉謙信の争奪の場となると、若槻里城は1564年に川中島の戦いが終結するまで、甲越両軍による争奪戦が繰り返された。
 若槻里城は、現在里城池と呼ばれる北側の堀跡が残る他は、宅地造成で破壊され、遺構は全て湮滅している。わずかに残った堀跡も、調整池か何かになってコンクリートの護岸で改変されていたが、訪城時は公園造成中で護岸が解体されていた。貴重な遺構なので、往時の景観を復元した城址公園として整備されてくれればと願うばかりである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.683512/138.214982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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内後館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04129.JPG←館跡の現況
 内後館は、海野氏の庶流小田切氏の上屋敷である。小田切氏は、鎌倉時代に佐久から当地に移住し、1400年の大塔合戦では大文字一揆に加わり、窪寺氏らと共に出陣して、守護小笠原長秀を信濃から駆逐している。室町時代に内後館を築いて居住したが、この他にも吉窪城・小市城・於下館・小田切館などを構えて、この地に勢力を扶植した。戦国時代に武田信玄が信濃に侵攻すると、小田切駿河守幸長は北信の名族で葛尾城主の村上義清に従って佐久や上田原合戦で武田勢に抗した。武田氏が村上氏を破り、川中島に進出すると、幸長は上杉謙信に属して抵抗し、1557年、葛山城で討死した。幸長の子民部少輔は山中に隠れ潜んだが、1575年の長篠合戦後に武田勝頼が軍勢補充の為牢人を召抱えた時に出仕し、400貫文の知行を与えられた。1582年に武田氏が滅亡すると、上杉景勝に仕え、1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵で村上義清の嫡子国清に従って渡鮮し、討死したと言う。

 内後館は、現在宅地化で遺構はほとんど湮滅している。民家の脇に解説板が建ち、その北側の空き地の辺縁部の茂みは土塁跡の様に見えるがはっきりしない。また堀跡がわずかに水路となって残っている。館跡の東にある円光寺には、小田切駿河守の墓が残る。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.610447/138.141328/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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栗田城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04092.JPG←主郭背後の切岸
 栗田城は、善光寺の別当栗田氏の居城である。栗田氏は、北信の名族村上氏の一族で、平安時代の末頃からこの地を領し、やがて戸隠・善光寺の別当として勢威を振るうようになった。栗田城は南北朝期以前には築かれていたとされ、2重の濠を巡らした巨大な平城であったとされる。1555年の第2次川中島の戦いでは、栗田寛安は武田方に付いて旭山城に籠り、横山城の上杉謙信を牽制した。この戦い後、栗田氏は甲斐に移住し、城は破却されたと言う。
 栗田城は、現在水内総社日吉大神社が鎮座している。本殿・拝殿の建っている主郭は、周囲より5m程の高台となっている。その周りはニノ郭と思われる平地であるが、境内周囲は市街化が激しく、遺構は完全に湮滅している。主郭の高台だけが城の面影を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.637777/138.194264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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横山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04041.JPG←主郭の切岸
 横山城は、信濃善光寺と一体となって存続した城で、川中島を権威的に扼する要地である。築城時期は定かではないが、南北朝時代には本格的な城郭として機能していた様で、1352年には信濃の南朝方であった諏訪直頼・禰津宗貞らは善光寺に在陣し、足利尊氏方の小笠原為経・高梨経頼らは善光寺横山を攻撃した。1387年には信濃守護斯波義将・義種の支配に反発した村上頼国・高梨朝高・島津忠国らの国人一揆が善光寺横山で挙兵し、守護代二宮氏との間で横山合戦が行われた。戦国時代に入り、北信に勢力を伸ばした武田信玄と上杉謙信が川中島で干戈を交える様になると、謙信は横山城を軍事拠点として活用した。

 横山城は、善光寺東側に隣接する城山に築かれた城で、長野市街を見下ろす比高40m程の段丘上に位置している。市街地にあるため、訪城する前は平城に近い城かと思っていたが、予想よりも大きな比高差を持った要害地形である。現在主郭には健御名方富命彦神社が建っているが、主郭周辺部は切岸や土塁など、城の遺構をよく残している。主郭の周りには一段低くニノ郭があり、東側には腰曲輪らしい平場が残っている。ニノ郭の南半分には公民館が建てられて破壊を受けているが、その南側斜面にも数段の腰曲輪が残っている。ニノ郭は中央部を道路が東西に貫通しており、これは堀切の跡かと思ったが、日本城郭大系などによるとどうも違うらしい。主郭の北側は介護支援センターや気象台が立ち並び、市街化が進んでいるため、どこまで城域であったのかはっきりしないとされるが、普通に考えれば長野清泉女学院の建つ丘陵部北端までが城域であったと推測される。遺構は市街化・公園化などでかなり破壊を受けているが、主郭部はよく往時の姿を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.661569/138.192108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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小田切館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03875.JPG←土塁跡
 小田切館は、内後館を上屋敷とした小田切氏一族の館と推測されている。小田切氏は、海野氏の庶流で、鎌倉時代に佐久から当地に移住した。その事績については、内後館の項に記載する。
 小田切館は、平地の小規模な館で、現在今井神社の境内となっている。境内周囲に僅かに土塁跡が残っている。尚、当地は木曾義仲の部将今井兼平の故地でもあり、その墓(供養塔)なども残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.593479/138.139890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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夏目城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03828.JPG←主郭の櫓台
 夏目城は、二ツ柳城主二柳氏の一族夏目氏の城である。夏名氏は、二柳氏初代国高の孫国平を祖とし、南北朝時代には下石川を本拠とし、詰城として夏目城を築いたらしい。しかし夏目氏は、室町時代前期には三河国六栗に移住し、戦国時代には徳川家康に仕えた。三方ヶ原の戦いで武田勢の猛追を受けた家康をかばって討死した夏目吉信は、その後裔である。近代では、文豪夏目漱石が夏目氏の後裔である。
 夏目城は、現在湯入神社の境内となっている。その地勢は丘陵中腹に位置する二ツ柳城に酷似しており、まるで双子の城の様である。城跡らしい雰囲気は二ツ柳城以上に濃厚で、湯入神社の鎮座する平場は周囲を切岸で囲まれ、いかにも城の主郭という趣である。主郭東部には櫓台があるほか、主郭西側には竪堀と虎口らしい地形も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.570803/138.114291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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二ツ柳城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03811.JPG←斜面上の竪堀状地形
 二ツ柳城は、室町中期に信濃で生起した大塔合戦で、守護小笠原勢が逃げ込んだ「大塔古要害」ではないかと推測されている城の一つである。元は、村上氏の庶流二柳氏が築いた城であったとされる。南北朝時代以来、一貫して足利方、尊氏方として活動した小笠原氏は、1399年に室町幕府より信濃守護に補任された。守護となった小笠原長秀は、守護権力を背景に有力国人衆に対して強権的な支配を推し進めた結果、1400年、信濃の有力国人衆(大文字一揆)が北信の雄村上満信を中心に反小笠原に立ち上がり、長秀と合戦となった。これが大塔合戦である。最初小笠原勢は横田城に入ったが、圧倒的な劣勢で、「大塔の古要害」に場所を移して300余人が20日間にわたって立て籠もった。しかし最後は食糧が尽きて自害したとされる。この小笠原勢が籠城した「古要害」が二ツ柳城であったというのが有力な説となっている。

 二ツ柳城は、現在二柳神社の境内となっている。篠ノ井の方田集落北方の丘陵中腹に位置し、眼下に平野を見下ろす高地である。神社周辺の地勢は城らしい雰囲気を濃厚に漂わせており、社殿の建つ高地の周囲を沢が天然の堀となって防衛線を形成している他、斜面には竪堀状地形も見られる。明確な遺構とは断定しがたいが、その地勢は城跡と考えるのに何ら不思議はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.571768/138.120643/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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横田城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03778.JPG←堀跡の水路
 横田城は、平安末期から戦国時代まで使われた、長い歴史を持つ平城である。1181年に木曽義仲は越後の城氏と戦った際に横田城を使用し、その後も横田城を北陸攻略の拠点とした。室町時代には、1400年の大塔合戦の際、信濃守護小笠原長秀は横田城に籠って、村上氏や大文字一揆ら信濃国人衆と戦ったとされる。戦国時代に入り、甲斐の武田信玄が川中島に進出すると、越後の上杉謙信との抗争の際、原大隅守を横田城に入れて守らせたと言う。
 横田城は、現在は完全に宅地化されており、遺構はほとんど湮滅している。しかしわずかに土塁が残り、その上に古殿稲荷が祀られている。この土塁は、環郭式縄張りのニノ郭の土塁に当たる様である。また宅地の中に流れる水路跡は見るからに掘跡らしい様子で、おぼろげにその縄張りを思い描くことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.574422/138.146778/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小森氏館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03747.JPG←堤防脇に残る土塁跡
 小森氏館は、伝承によれば戦国時代までこの地を領した諏訪氏の一族小森遠江守の館跡とされている。小森氏は、川中島に侵攻した武田信玄に仕え、武田氏滅亡後は川中島地方を勢力下に置いた上杉景勝に従い、景勝が豊臣秀吉の命で会津へ移封となると、小森氏も会津に移住したと言う。
 小森氏館は、千曲川の北岸に位置していたが、現在は堤防構築によって遺構の大半は湮滅している。しかし堤防の北側に小屋の建てられた土塁跡が明確に残り、その脇には堀跡と考えられる窪地も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.571079/138.162721/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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広田城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03729.JPG←東昌寺境内に残る土塁
 広田城は、元々土豪の居館であったものを、甲斐武田氏が城に築き直したものである。元の館主は、室町時代中期に広田・藤巻を領した広田氏で、その後藤巻氏が引き継いで居館としていたと考えられている。室町時代末期に藤巻氏は当地を離れて中野市桜沢へ移住し、その館跡を戦国時代中期の1552年頃に、甲斐の武田信玄が城塞化して広田城とし、千見城主大日方(おびなた)佐渡守直長にこの地を与えて守らせた。その後、直長の子山城守直家が後を継いだが、1582年に武田氏が滅ぶと、大日方氏は本領水内郡小川に戻り、広田城は廃城となった。
 広田城は、現在の東昌寺から昌龍寺にかけての一帯にあった。明確な遺構としては、東昌寺の裏の墓地に高さ2m程の土塁がわずかに残っている。東昌寺と昌龍寺周辺の回字状の道路は、堀の名残りであるらしい。尚、昌龍寺には城主であった大日方佐渡守直長の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.595047/138.171068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大堀館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC03699.JPG←学校前に建つ石碑
 大堀館は、武田信玄・勝頼二代に仕えた町田兵庫正之の居館とも、或いは村上・武田・上杉氏に仕えた綱島氏の居館とも言われている。1555年の第2次川中島合戦の際、武田勢は上杉勢と犀川を挟んで長期にわたって睨み合ったが、この時信玄の本陣となったのがこの大堀館であったと考えられている。大堀館に陣を敷いた信玄に対して、上杉謙信は横山城に本陣を据えた。この対陣は200日の長期に及び、結局駿河の今川義元の仲裁で和睦し、両軍は矛を収めた。全く不毛な戦いであった。
 大堀館は、現在は更北中学校に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。校地に変貌する近年まで、堀と土塁が残っていたらしい。わずかに学校前に建つ石碑だけが、館があったことを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.603953/138.192204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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城山城(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

DSC00857.JPG←三重堀切の一部
 城山城は、馬陰城とも言い、歴史不詳の山城である。一説には、木曽義仲挙兵の際に義仲配下の部将の一人、高井太郎が築いた城とも言われ、又別説では、大岩城を本拠とした須田氏が築いた城砦群の一つとも言われる。
 城山城は、標高650m、比高120m程の山上に築かれている。現在城山つつじ公園となっており公園化されているが、遺構はほぼそのまま残っている。山頂に主郭を置き、その前後の尾根に小郭を並べ、曲輪間を堀切で分断した典型的な連郭式山城である。主郭背後には二重堀切が穿たれ、三ノ郭背後の尾根にも三重堀切が穿たれているが、どの堀切もいずれも小さく、大した防御性は無いように感じられる。この三重堀切も竹ノ城のものと同じ形状で、高低差を持った段々状のものである。いずれにしても、遺構を見る限り戦国期に甲越両軍の主戦場近くに構えられた城とは考えにくく、鎌倉~室町期に築かれた山城の様に思われる。戦国期には、あまり機能していなかった様に感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.669856/138.362410/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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福島正則屋敷(長野県高山村) [古城めぐり(長野)]

DSC00875.JPG←北東角に残る土塁
 福島正則は、賤ヶ岳の七本槍の一人で、加藤清正と並ぶ豊臣秀吉子飼いの武将であった。秀吉没後は、徳川家康に味方して関ヶ原で戦功を挙げ、広島城主50万石の大大名となって城下の発展に尽くしたが、1619年、城の無断修築の咎めを受け、この地に4万5千石で移封となった。これは、一般には徳川幕府による外様大名(特に豊臣恩顧の大名)に対する勢力削減(改易)政策によるものと解釈されている。そして、この地にあって、検地や農地開拓など民生に力を尽くしたが、1624年この地で没した。
 福島正則屋敷は、この地に蟄居となった正則の屋敷地で、現在は高井寺の境内となっている。遺構はほとんど残っていないが、周囲よりわずかに高い微高地で、北東角にわずかに土塁跡が残っている。尚、北西500m程の水田の真ん中には、正則が荼毘に付された場所が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.665975/138.348116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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大岩城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00719.JPG←主郭背後の大堀切
 大岩城は、信濃源氏井上氏の一族須田氏の本城である。その創築は古く、鎌倉時代の1193年頃と言われている。戦国時代には、川中島で攻防を繰り広げた甲越両軍の中にあって、背後の灰野峠を通る旧道は「謙信道」と呼ばれる川中島に通じる上杉軍の軍道で、上杉方の交通路を押さえる要衝として重視されたと考えられる。大岩城は、上杉氏時代を通してこの地の中心で在り続けたが、1598年に豊臣秀吉の命で上杉景勝が会津に移封となると、廃城になったと考えられる。
 大岩城は、明覚山から北に伸びる支尾根の上に築かれた、標高680m、比高240mの峻険な山城である。幾つか登城道がある様であるが、私は須田氏の居館跡である西麓の蓮生寺から登った。しかしあると思った城道は間もなく消えてしまい、急斜面を直登するはめになってしまった。その苦労の代わりに、この西斜面を登ると途中に数本の竪堀が斜面上に穿たれているのを見ることができる。ようやく北西の稜線に辿り着いても、細尾根の上は岩場が多く、なかなか城に辿り着かない。ようやく見えてきた小郭数段と小堀切2本を越えると、ニノ郭に到達する。ニノ郭は両サイドに帯郭を設け、南側にも1段低い腰曲輪を設けている。ニノ郭周囲には僅かに石積みも残っている。腰曲輪の先に深さ3m程の堀切があって、主郭に繋がる2段の腰曲輪がある。前衛の腰曲輪には石垣の残欠が有り、その上に主郭は、前面に土壇が築かれている。主郭背後は深さ8~10mもあるド迫力の大堀切で、その先の尾根にも小郭を挟みながら計3本の堀切が穿たれて、背後の防御を固めている。以上の様な感じで、大岩城は単純な連郭式だが城域は長大で、大規模な堀切を持った豪壮な山城であった。尚、大手道は北西尾根の先でも途絶しており、よくわからなかった。
西側斜面の竪堀→DSC00620.JPG
DSC00683.JPG←ニノ郭の石積み

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.656852/138.343395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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須田氏館(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00612.JPG←削平地と土塁らしき跡
 須田氏は、信濃源氏井上氏の庶流である。その事績は、須田城の項に記載する。須田氏館は、現在の蓮生寺の地にあったが、武田信玄の川中島侵攻によってこの一帯は焼き払われたと言う。現在境内の奥には、数段の削平地があり、一部に土塁らしき跡も残る。現地解説板に「大岩城へ通じる道に沿って、コヤバと呼ばれる平坦な場所があり、兵舎・倉庫跡と言われる」と書かれているのが、この削平地群なのであろう。背後の山には須田氏の本城である大岩城がそびえているが、往時あったと思われる居館からの城道は、現在途絶している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.658789/138.338889/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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須田城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00536.JPG←主郭・二ノ郭間の堀切
 須田城は、信濃源氏井上氏の庶流須田氏が築いた山城である。須田氏の本城は大岩城で、その西側の丘陵地に築かれた須田城は、その出城であったと考えられる。須田氏は、鎌倉時代から戦国時代まで、日滝から小山にかけての一帯を支配した豪族で、本家の井上氏とも度々争った。戦国時代に武田信玄が川中島に進出すると、帰趨を巡って須田氏は二家に分裂し、武田氏に属して高井郡に留まった須田信頼の系統と、上杉氏に付いて越後に去った須田満親の系統に分かれた。1582年、武田氏が滅亡し、上杉景勝が北信濃四郡を支配すると、信濃に留まった須田信頼の子信正は、井上氏の旧領を安堵されたが、後に景勝と対立して滅ぼされた。一方、越後に逃れた須田満親は海津城将として信濃に戻ったが、豊臣秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、須田氏は再びこの地を去り、須田城も廃城になったと考えられる。
 須田城は、現在臥竜公園の一部として公園化されている。従って、遺構も公園化によって一部改変されているが、残存状況は良い方である。臥龍山の西に位置する標高471mの城山に築かれており、山頂の主郭・ニノ郭の周囲に腰曲輪などが残っている。主郭とニノ郭は堀切で分断されており、この堀切横にはニノ郭から繋がる土塁がそのまま主郭東側の帯曲輪につながっており、枡形状の空間を形成している。またこの他、北西尾根や北東尾根に出丸があったと考えられるが、須坂藩主堀氏の霊廟が建てられたり、公園化されたりで、遺構かどうか断定はできない。東端には小橋が掛かっているが、これもおそらく堀切の跡なのであろう。この他、主郭腰曲輪に石積みらしい跡も見られる。現在の姿からはわからないが、日本城郭大系によれば、北側に居館や町家を伴った近世的な構造の山城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.641573/138.313032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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竹ノ城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00461.JPG←三重堀切の一部
 竹ノ城は、信濃源氏井上氏の支城である。井上氏は、居館の南に井上城(大城・小城)を築き、更に東側を防衛する城砦として竹ノ城を築いて、これらは一体となって井上氏の所領を防衛していた。
 竹ノ城は、標高544m、比高174mの南北に伸びる尾根上に築かれた山城である。その名は、「岳(嶽)ノ城」から来ているのではないかと個人的に推測している。北麓から伸びる登山道を登って行くと、主郭手前には合計2本程の堀切と小郭群があり、その途中には岩場があって天然の阻塞となっている。主郭手前の堀切はしっかりと穿たれたもので、土橋を架けている。主郭はそれほど大きなものではなく、あくまで詰城の規模である。主郭東側には小さな段曲輪は張り出しており、物見の小郭と考えられる。主郭辺縁部には多数の石が転がっており、主郭切岸には石積みがあった様だ。主郭の背後にはニノ郭・三ノ郭が梯郭状に連なっているが、城道は2つあり、本道の他に主郭東側に隠門的な側道が続いている。その先に堀切が1本あり、更にその先の尾根の鞍部には三重堀切が穿たれて、搦手筋の防御を固めている。多重堀切はほぼ同じ高さに並行して穿たれているのが常であるが、竹ノ城の三重堀切は、高度を変えて段々状に穿たれており、しかも堀切と言うよりも円弧状に横堀の様に穿たれ、珍しい構造のものである。竹ノ城は井上城より規模が大きく、普請もしっかりされており、戦国時代にも川中島地域を扼する要害の一つとして、利用されたのではないかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.629038/138.295974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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角張屋敷(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00372.JPG←屋敷地付近の現況
 角張屋敷は、井上氏の一族角張浄阿の屋敷である。木曽義仲が京を目指して西上した時、井上氏軍団の一員として従軍し、義仲敗北の後、浄土宗の開祖法然上人の教えを受け、上人の身の回りの世話をしたと言う。
 角張屋敷は、現在宅地や畑になっており、遺構は完全に湮滅している。現地解説板では、四周に残る小堰は水堀の痕跡と言われるが、明確に遺構と判断されるレベルではない。もう少し遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.629968/138.287176/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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井上氏館(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00358.JPG←居館の入角部
 井上氏館は、信濃源氏井上氏の居館跡である。井上氏の事績については、井上城の項に記載する。井上氏館は、南に井上城、東に竹ノ城を構え、両城に挟まれた平地の入口に位置しており、西北方に展開する所領の水田地帯を掌握する要地であったとされている。現在館跡一帯は宅地や畑に変貌しているが、館跡は微高地となり、周囲には一段低い畑があって水堀跡であることが明瞭である。館は、裏鬼門に当たる西南角が入角(切欠き)となっている。
 また館から東南東700mの位置には、井上氏一族の墳墓がある。事績はほとんど伝わっていなくとも、その遺跡は大切に守られている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.632912/138.282670/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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井上城(長野県須坂市) [古城めぐり(長野)]

DSC00297.JPG←搦手道防御の竪堀
 井上城は、信濃源氏井上氏が築いた詰城である。井上氏は、清和源氏頼信の子頼季を祖とし、その子満実がこの地に入部して井上氏を称したことに始まるとされる。井上氏は、清和源氏では最も早く信濃に入国した為、信濃源氏の祖と言われ、その後井上氏からは、保科氏・米持氏・村山氏・高梨氏須田氏綿内井上氏などを輩出した。しかし井上氏自体の事績はほとんど伝わっておらず、応仁の乱前後に各地を覆った騒乱の中で、近隣土豪や同族間の争いで勢力を弱めていったと考えられている。武田信玄が川中島に進出すると、井上氏は上杉方に付いて、この地を離れたとされている。
 井上城は、標高520m、比高180m程の山上に築かれた小規模な山城で、綿内井上氏が築いた春山城と同様、大城と小城の二つから成っている。しかしその縄張りは素朴なもので、大城・小城とも主郭を中心に数段の腰曲輪を廻らしただけの簡素な造りで、大城・小城の間の尾根筋には三重堀切があるものの、いずれも規模は小さい。大城はニノ郭に土塁を巡らし、背後に2条の堀切を穿ち、北麓に伸びる搦手道には動線を制約する竪堀を備えており、一部には小規模な石積みが残り、小城よりはしっかりした普請になっている。小城は、大城の西方200mの尾根上に位置し、前衛の砦として機能したとみられる(現地解説板では「前進監視哨」と記載される)。この他、大城の背後の尾根には物見曲輪と思われる平場があり、物見曲輪にも堀切が明瞭に残っている。しかしいずれにしても、戦国時代以前の城と考えられ、本拠にしては小規模な城という印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【大城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.627970/138.280953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【小城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.627729/138.278807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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綿内井上氏館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC00212.JPG←館周囲の堀跡
 綿内井上氏は、信濃源氏井上氏の庶流で、戦国中期の甲越両軍による川中島争奪戦の中で、本家の井上氏は上杉氏を頼ってこの地を離れ、一方庶流の綿内井上氏は武田氏に従ってこの地を領し、詰城として春山城を構えていたと言う。この綿内井上氏の居館跡と言われる場所が、森区公民館の東側にある。現在畑となっているが、館内部は周囲より一段高くなっており、その北側と西側は一段低い畑となっていて、明らかに堀跡と考えられる。開墾のせいか土塁は残っておらず、かなり湮滅が進んでいるものの、堀跡がはっきりしているだけでも幸いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.622821/138.269366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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春山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC00053.JPG←大堀切から落ちる大竪堀
 春山城は、別名を城ノ峰城、綿内要害とも呼ばれ、綿内を領した綿内井上氏の築いた詰城である。井上氏は、武田信玄が川中島に侵攻すると上杉方に付いたが、信玄の謀略によって分裂したとされ、井上兵庫頭昌満は上杉方に付いてこの地を離れ、井上左衛門尉は武田方に属して綿内氏を称した。春山城はこの綿内氏の要害で、1556年に、一旦武田方に属していたが、上杉方の高梨政頼によって攻め落とされるなど、攻防戦が展開されたと言う。武田氏滅亡後の1582年に上杉景勝が川中島を支配下に置くと、綿内氏は上杉氏に従った。
 春山城は、標高635mの城ノ峰に築かれた山城で、大城と小城の2つの城から成っている。城ノ峰にあるのが大城で、小城は城ノ峰から更に20~30m高所にある。まず大城であるが、南北に長い尾根筋を利用した典型的な連郭式の山城で、要所を堀切で分断している。特に主郭前面の大堀切は規模が大きく、側方に落ちる竪堀も大きい。主郭には、北西角に櫓台が築かれ、更に背後に土塁が築かれ、東側下方には2段の腰曲輪を置いて防御を固めている。しかしそれ以外の曲輪は削平が甘く、自然地形が多い。曲輪内には巨岩がゴロゴロしており、巨岩による制約が多いヤセ尾根の城である。小城は、大城と繋がる尾根筋を堀切で分断し、小さな主郭と小堀切を介して広いニノ郭から成る、比較的小規模な城である。春山城へは、東麓の蓮台寺から登山道が伸びており、これが最短ルートとなる。途中の山腹には竪堀が1本落ちており、中腹には土塁で囲まれた様な2段の平場が確認できる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【大城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.613091/138.265289/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【小城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.609852/138.266405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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保科氏館(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC10021.JPG←館跡に建つ広徳寺
 保科氏は、清和源氏源頼信の子井上頼季を祖とするとも、諏訪氏の庶流とも言われる一族である。後に高遠城代となって武田氏の重臣となり、「槍弾正」とも称された保科弾正忠正俊に代表される保科氏の発祥の地である。1513年、村上頼衡(村上義清の父)が高井郡に侵攻し、高梨、井上須田の諸氏を降し、保科氏嫡流はこの地を逐われた。この戦乱で保科氏館は、裏門を残して焼失したと言われている。1533年、保科氏館跡に、同じく戦乱で焼けた広徳寺が再建された。現在残る広徳寺の総門は、保科氏館の焼け残った裏門と伝えられている。一方、保科正則の弟左近将監は村上氏に降り、1548年の上田原合戦では村上義清に従って旗本大将として従軍したとされる。村上氏没落後は武田氏に従い、武田氏滅亡後は織田信長家臣の森氏、信長の横死後は川中島を支配下に置いた上杉景勝に属し、保科を領し続けたと言う。尚、後に保科氏嫡流は徳川氏に仕え、2代将軍徳川秀忠の庶子正之を養子として預けられ、保科正之は3代将軍家光に愛されて会津松平家の祖となった。

 保科氏館は、霜台城南麓の高台に位置している。前述の通り、現在は広徳寺が建っており、明確な遺構は確認できないが、保科川北岸にあって、周囲を見渡せる高台にあったことは現在でもよく分かる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.590007/138.265589/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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霜台城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC09877.JPG←主郭の石垣
 霜台城は、当地の豪族保科氏が築いた城である。保科氏の出自には諸説あり、清和源氏源頼信の子井上頼季を祖とするとも、諏訪氏の庶流とも言われる。延徳年間(1489~92年)に保科氏が、西の大室氏に備えて築城したと言われている。保科氏の嫡流は、1513年に村上氏に逐われて分領の伊那高遠へ逃れ、後に保科弾正忠正利(正俊)は、武田氏の元で高遠城将などを歴任する重臣となった。一方、保科氏の庶流は引き続き保科を領した。武田氏が川中島に進出すると武田氏に従い、武田氏滅亡後に上杉景勝が川中島を支配下に置くと、上杉氏に従ったと言う。城の歴史については、不明である。

 霜台城は、標高720m、比高310mの南西に張り出した支尾根上に築かれた山城である。保科道を押さえていた城と言われ、周囲には加増山城や和田東山城を築き、霜台城自体の登り口にも前山城とされる大手防御の砦を築いて守りを固めた拠点であった。東西に長い尾根上に、合計4本の堀切で分断した主郭・ニノ郭等の曲輪を直線的に配置している。主郭前面は緩斜面となっていて、そこには多数の帯曲輪群を設けている。主郭は2段程の平場に分かれ、周囲には石垣が多数残存している。かなり崩落が進んでいて、高いところでも1m程にしか過ぎないが、主郭全周を石垣が囲っており、上段の平場の前面には、井戸か櫓台らしい中央が凹んだ方形の石垣が残っている。主郭北辺の石垣は少ないが、これは大手のあった南側に防御を集中させていたからであろう。堀切はいずれも深さ3~4m程で、幅もあり、しっかりと穿たれたものである。主要部の曲輪はいずれも方形であるが、東端の四ノ郭だけは五角形状をしている。更に側方を守る腰曲輪には縦堀があり、登山道途中の山腹にも竪堀が3条落ちているのが確認できる。

 以上が霜台城の主城部であるが、背後の尾根上にも何かありそうな雰囲気だったので、尾根筋を高さで40m程登って行くと、物見砦の様な小さな砦が築かれていた。前面の登城道は竪堀や堀切で動線を制約している。物見砦の主郭には土壇があるが、小さいものであるので、祠か何か宗教的なもののようである。霜台城から見ると、ちょうど北東にあるので、鬼門除けの祠であったかもしれない。この砦の背後には、岩盤を穿った二重堀切があって、背後の防御を固めている。

 霜台城は保科氏の拠点らしくしっかりとした普請がされた城で、周辺城砦と連繋して守りを固めた要害である。
中腹斜面の竪堀→DSC09832.JPG
DSC09902.JPG←主郭背後の堀切
物見砦の二重堀切→DSC09965.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【霜台城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.596037/138.263615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【霜台城物見砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.597019/138.265547/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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前山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC10014.JPG←堀切
 前山城は、霜台城前衛の砦である。その城名は、現地で入手した「太郎山トレッキングコース」の案内図に拠ったが、「川田氏館発掘調査報告書」に記載の城館分布図では、霜台城のある尾根より約1km北にある尾根に「前山城」が存在するとされており、どちらが正かわからない。
 前山城は、須釜地区から霜台城に続く登り道の途中にあり、西に張り出した単郭の小規模な城砦である。主郭背後には低い土塁と浅い堀切が残っている。主郭前面には特に虎口らしい構造はなく、独立の城というより、霜台城の大手曲輪という位置付けに近い様である。前山城から更に登って行くと、霜台城の見晴台とも言われる弾正岩(その名は保科弾正忠正利に由来)がそびえている。
弾正岩の絶景→DSC09826.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.594108/138.259109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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