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古城めぐり(長野) ブログトップ
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女神岳城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09640.JPG←大手虎口の石垣
 女神岳城は、標高926.9m、信州100名山の一つ女神岳山頂に築かれた山城である。歴史は一切不明であり、元々鎌倉時代後半にこの地を治めた塩田北条氏の本城塩田城の支城の一つではなかったかとも推定されるが、推測の域を出ない。現状残る縄張からは、村上氏に使われたことはほぼ間違いないと思われる。

 この山へ登ったのは、女神岳という何となくロマンチックな名前に惹かれたからでもある。山頂へは、東側から登る登山道が整備されているので迷うことはまずないが、この登山道がとんでもなくキツイ。なんとひたすら斜面直登するのである。普通ないぞ、こんな直登の登山道!でも遺構を見ると疲れを忘れて感動すること必定である。

 ヒィヒィ言いながら登りきると、2つの頂上をつなぐ鞍部に到達し、そこから北へ進むと、縦長の平場があり、そこから斜面をちょっと下って行くと、見事な四重堀切にぶつかる。堀切の規模としては、三水城と同程度である。それを越えるとニノ郭、その先に一段高い本郭がある。本郭とニノ郭の周囲には至るところに石垣が良好に残っており、壮観である。一部はかなり崩落しているが、石の散乱範囲を見ると、どうやら往時は総石垣の城だったらしい。本郭の石垣は高く積まれ、ニノ郭の大手虎口には虎口の両側を防御する石垣まで明確に残っている。虎口の一段下にも石垣があるが、その先のかつての大手道は埋もれてよくわからない。また本郭の北側下方には二重堀切がある。本郭北側に二重堀切があるところと、堀切と主郭との大きな高低差は、なんとなく伊深城に似ている印象である。

 小さな城ではあるが、今まで私が見た山城の中では石垣の高さは山家城に迫り、構築範囲は桐原城に次ぐ。登城の苦労がぶっ飛ぶ素晴らしい城である。
ニノ郭から見た本郭→DSC09614.JPG
          石が散乱する
DSC09644.JPG←本郭の石垣
四重堀切の一部→DSC09601.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.9.58.8N36.20.13.5&ZM=9

岡城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09546.JPG←本丸の堀跡
 岡城は、武田信玄の重臣馬場美濃守信房の縄張によって、天文年間末に築かれたと言われる平城である。外堀の外周に武田氏流築城術の特徴である三日月堀を有した丸馬出しを持っている。室賀峠へ通じる街道を扼する位置に築かれており、海津城が築かれるまで、武田勢の川中島進出の為の重要な前進基地の一つであったと考えられる。
 岡城は、浦野川左岸の段丘上に築かれている。城跡は大半が住宅地や耕作地に変貌しているが、二ノ丸の一部が岡城公園となって整備されて残っており、その北側に残る堀跡は非常に規模が大きい。本丸跡は団地になっていて、土塁などはほとんど湮滅しているが、西側の堀跡が宅地の横に残っている。丸馬出しと三日月堀は基本的に湮滅しているが、東側の三日月掘だけは、わずかに空き地の中にその形態を止めている。
 城跡としてはやや破壊が進んでいるものの、特に二ノ丸の土塁や堀が良好に残っているのは素晴らしい。武田信玄時代の大規模な平城で、後世の改修を受けていない城は希少であり、その価値は高い。
東側の三日月掘跡→DSC09568.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.10.26.9N36.22.41.1&ZM=9

燕城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09453.JPG←二重堀切と本郭
 燕城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、煙ノ城と麓の中間地点に位置する城である。比高は200m程で、塩尻五郎左衛門の守城と伝えられている。
 この城は登るのに苦労した。まず場所が正確にわからない。虚空蔵山遊歩道の掲示板地図とネットの記載で場所が微妙に異なっている。ネットで調べると24番鉄塔の場所になるが、掲示板地図ではもう少し西の平場らしい。しかしそこへの道が無いようなので、まずは24番鉄塔を目指したが、辿り着いても城の痕跡はない。そこで、本来の候補地である場所まで、24番鉄塔から強行トラバースしたのだが、これがものすごい難路で、斜面を何度も滑落しかけながら横断しなければならなかった。ようやくのことで候補地の尾根に辿り着くと、道がある。これをちょっと下って行くと堀切があり、燕城の本郭に到達した。
 燕城は、本郭と小さなニノ郭から構成され、ニノ郭と本郭裏にはわずかながら石積みが見られる。本郭背後は二重堀切で尾根を分断している。規模からして、物見か繋ぎの城だったのだろう。しかしもっと念入りに造られた煙ノ城や物見城があるので、今一つその役割がはっきりしない。煙ノ城や物見城ができる前に機能していた古い城だったのかもしれない。
 さて、城を見終わって帰りはというと、やはり道が無い。仕方ないので斜面直降。これがまた、降りてるのか滑り落ちてるのかわからない状態になって、ようやく麓の上塩尻神社に着いた。これほど滑落・転倒した城はこれまでにない。城の上には道がはっきりあったので、上の煙ノ城から降りてくるのが正道かも知れない。
 虚空蔵山遊歩道の掲示板の地図の正確さは微妙なところである。燕城は合っていたが。この日はこの地図で見た「ユタカノ城」と言う城も目指してみたが、その場所になく断念した。荒城の位置も間違っていた。この地図、信用すると大変である。
ニノ郭の石積み→DSC09473.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.12.56.9N36.25.6.2&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362518&l=1381247

荒城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09412.JPG←堀切と本郭
 荒城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、太郎山の南に伸びる支尾根に築かれた山城である。比高は高く370m程もあり、途中の牛伏城からでも170mもある。しかし牛伏城からは道が付いているので、比較的登りやすい。
 城域に入ると、浅い堀切と段曲輪が現れるようになり、そのうちに今までより大きな高低差を持った切岸が出現するようになり本郭に到達する。本郭は小さいが土塁で防御され、後ろに櫓台を持っている。しかし本郭は全体的に物見程度の面積である。本郭の背後にはしっかり掘り込まれた城中最大の堀切があり、その後ろにも曲輪を介して2本の堀切があって城域が終わる。石は城中に転がっているが、明確な石積みは見ることができない。
 高所の城で南北に長い城であるが、普請は小さめで、ちょうど花古屋城を一回り小さくしたようなイメージである。登った苦労からすると、ちょっとがっかりする城だった。
段曲輪群と堀切→DSC09385.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.15.14.6N36.25.20.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362531&l=1381508

牛伏城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09367.JPG←本郭背後の土塁
 牛伏城は、牛頸城とも言い、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つである。南西下方には虚空蔵沢を挟んで矢島城があり、牛伏城の尾根の上部には荒城があるので、物見または繋ぎの城として機能していたと考えられる。
 牛伏城には、山裾の虚空蔵堂から登るが、明確な道はなく、石がゴロゴロした斜面を直登するしかないので、結構辛い。この斜面を登っていくと、上田城の石切り場といわれる跡に到達し、そこから更にちょっと登ると牛伏城に達する。比高は200m程であるが、単郭の小さな城である。周囲には土塁もほとんどなく、ただの平場があるだけであるが、背後には土塁と堀切があって尾根筋を分断している。この堀切には土橋が架かっており、ここから荒城への道が通じている。
 この城を見る為だけに登るのは辛いので、荒城とセットで見た方が苦労が報われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.15.9.5N36.25.3.9&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362515&l=1381459

矢島城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09327.JPG←本郭背後の横堀
 矢島城は、北林城とも言う。1335年に矢島氏が諏訪より北林郷に引移り、北林城を居城とする北林氏を川中島方面に追放し、以後当地方を支配したと伝わっている。
 矢島城は、太郎山城塞群としてはやや異質な城である。比高も低く、山城という選地ではない。どちらかといえば丘城に近いだろう。比高はわずかに30~40m程であるが、東を虚空蔵沢に刻まれた谷で防御された要害の地である。現在本郭とその南の副郭は共に耕作地と化しているが、その背後の土塁と横堀がよく残っている。横堀は、東に下る手前で2本に分岐していて、二重竪堀となって下っている。但し、現在見る限りでは城の規模は小さく、在地小領主の城にしてもちょっと、と思うのが正直なところである。
 耕地化しているが、主郭背後の横掘・土塁が見事に残る小さな城跡である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.14.55.9N36.24.54.6&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362506&l=1381445
タグ:中世平山城

花古屋城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC09250.JPG←本郭虎口の石垣
 花古屋城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、太郎山山頂から南東に伸びる尾根の先端に築かれている。城名は端(はな)の小屋から来ていると言う。
 本郭の比高は150m程で、太郎山城塞群の中では低い部類に入る。しかも登山道がきちんと整備されているのがうれしい。そのため大した苦労もせずに城域に到達することができる。尾根の東に登り口があるが、登り口の目の前にぽっかりと口をあけた大きな溝が、実は花古屋城の巨大な竪堀なのである。ジグザクに登山道を登るが、この道は花古屋城の2本の竪堀の間に作られた道になっている。
 花古屋城は、太郎山城塞群の中では飯綱城に次ぐほど全長は長い。しかし飯綱城に較べれば普請はやや小規模で、本郭・ニノ郭辺りの切岸の高低差が大きいほかは、段々の段曲輪がひたすら続くだけの単純な縄張である。段曲輪群の中に堀切もあることはあるが、埋もれているのかかなり浅くなっている。一方で、本郭背後に掘られた堀切から伸びる竪堀は、前述した通り山腹を突っ切る長いもので、規模も大きい。また本郭背後の西側には二重竪堀も造られている。本郭は非常に小さく、物見程度の役目しか果たさなかったことが推定され、この本郭は面白いことに真ん中がえぐられた様に掘り込まれて周囲を土塁で防御されている。本郭・ニノ郭周囲には石垣が散見され、土塁の補強をしていたことが見て取れる。特に本郭は、往時は全周石垣だったものと考えられる。
 全体の普請の規模や築城構想からすると、やはり飯綱城が太郎山城塞群の中核であったと思われるが、それなりの兵を詰めることのできる花古屋城も、太郎山系の東を押さえる重要な城として、砥石城などと連携していたと考えられる。
山腹を縦貫する竪堀→DSC09213.JPG
DSC09315.JPG本郭背後西側の二重竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.15.53.3N36.25.6.8&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362519&l=1381540

飯綱城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC06121.JPG←ド迫力の物見台絶壁と大堀切
 飯綱城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、虚空蔵山城のある虚空蔵山の南に伸びる支尾根の一つで、持越城のある尾根の一つ東側の飯綱山に築かれている。
 本郭の標高は757mで、麓からの比高は320m程にもなるが、途中まで車道(未舗装路)が整備されている。しかし車道の奥の「飯綱山」の標識のあるところからの登山道はすぐに消えてしまうので、あとは比高100m程を斜面直登するしかないので、ちょっと辛い。右側の尾根の上に到達すれば、あとは尾根筋に沿って南に向かえば、間もなく2本の堀切が見えてきて城域に到達する。
 飯綱城は、太郎山城塞群の中ではもっとも大規模な普請がされた城で、南北に曲輪が長く連なり、全長300mほどにもなるであろうか。最高所に数段に分かれた本郭・ニノ郭・三ノ郭を置き、これらの曲輪には建物の礎石や井戸跡が残る。これらの曲輪の規模は、太郎山城塞群の中ではもっとも広大で、かなりの兵数を置くことができたと考えられる。その先を南に下っていくと、高さ10mもある巨大な岩の垂直絶壁が立ちふさがる大堀切に至る。この絶壁はド迫力で、体に震えがくるほどの緊張感がある。大堀切は中央に土塁状の突出部があり、二重堀切の形状となっている。岩の壁の上は平坦な小平場になっていて、城の中枢部を防衛する物見台だったと思われる。ここは南の大手筋を睥睨できる絶好の陣場であり、眼下には上田城を望むこともできる。物見台周囲には小規模ながら石積みがあり、曲輪周囲の急斜面の崩落を防いでいる。日本城郭大系にも記されているが、この城の大きな特徴は、大堀切を境に南斜面に十数段にも及ぶ数の段曲輪が築かれ、それらの要所を4~5本の堀切で分断して南の大手筋の守りをほぼ完璧に固めていることである。段曲輪の一部はそこそこの広さを持ち、四ノ郭とも言うべきものもある。
 これらの普請の規模から考えて、飯綱城は太郎山城塞群の中で中核的役割を持った重要な城だという事がよくわかる。太郎山系東端の砥石城と並ぶ重要な戦略拠点だったのだろう。
大堀切は二重堀切の形状→DSC06125.JPG
DSC06144.JPG←物見台周囲の石積み
物見台南に展開する段曲輪群→DSC06151.JPG
        要所に堀切を伴う

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.13.51.8N36.25.13.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362527&l=1381342

持越城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC06056.JPG←曲輪周囲に築かれた石垣
                                      奥にも2段の石垣がある
 持越城は北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、虚空蔵山城のある虚空蔵山頂の南に伸びる支尾根に築かれている。
 麓からの比高は240m程で、座摩神社から登山道が整備されているので比較的登りやすい。途中に高圧鉄塔があるが、それを越えて更に60m程の高さを登ると城域に到達する。
 普通の山城は尾根上に段々に曲輪を設け、要所を堀切で分断するものだが、持越城は非常に変わった縄張りになっている。尾根を登って城に近づくと、尾根上に石積みを伴った竪土塁が現れるようになる。更に登ると尾根上に平坦な地形が現れ、これがどうも持越城の前衛を為す曲輪のようである。そしてこの城は、その上に伸びる尾根上ではなく、尾根の右側(東側)に広がる平坦な緩斜面に曲輪を設けている。曲輪は2~3段に分かれているようだが、はっきりしない。ただ、本郭や各曲輪の周囲には石垣を伴った低い土塁が築かれていて、仕切り土塁のような役目を果たしている。それ以外には特に防御らしい構造は見られず、最初見た時この石垣は、近世に耕作地として作ったものかと思ったほど、城らしくない構造である。しかし曲輪はだだっ広く、太郎山城塞群を攻略するに当たって大いに参考にさせて頂いているHP「上田・小県の城」では、このような状況から備蓄基地のような場所だったのではないかと推測している。確かにそうかもしれない。この尾根上には虚空蔵山城がそびえているので、比高のあまりに高すぎる虚空蔵山城に物資を供給するための兵站拠点だったのかもしれない。
本郭と思われる広い曲輪→DSC06037.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.13.22.7N36.25.13.6&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362526&l=1381312

物見城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC05966.JPG←本郭と堀切
 物見城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、高津屋城から南に伸びる支尾根に築かれた煙ノ城のもう一つ西側の支尾根上に築かれている。高さ的には煙ノ城より100m程低い位置にある。その名の通り、物見の砦であったと考えられる。煙ノ城や和合城などと連携して、上田原から坂城に入る手前の絶対防衛線を構成していたのだろう。
 物見城の縄張りは煙ノ城と非常に似通っていて、小さい城であるにも関わらず、本郭背後に岩盤を削り抜いた五重堀切で尾根上を分断している。但し、石垣はほとんど見られず、曲輪や堀切の大きさも煙ノ城より一回り小さいので、普請の規模はやや劣る。物見以外の兵は置いていなかったと思われる。
 この城に行くには、No.26高圧鉄塔辺りから道無き斜面を降りていくしかないので、非常に骨が折れる。目印もないので、迷わないようそれなりの装備が必要な城である。夏場の訪城は無理だろう。
岩盤を削りぬいた堀切→DSC05978.JPG
DSC05683.JPG←物見城遠景

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.12.37.9N36.25.13.0&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362524&l=1381226

煙ノ城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC05886.JPG←本郭背後の四重堀切の一部
 煙ノ城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、高津屋城から南に伸びる支尾根に築かれた城である。その名の通り、狼煙による情報伝達を目的とした城であったのだろう。
 煙ノ城の更に南南東の下方には燕城があり、煙ノ城のもう一つ西側の支尾根上には物見城がある。この辺の城郭密度は非常に高く、上田原から坂城に入る手前の絶対防衛線として、重視されていたことがわかる。また相互の城が連携して、物見・情報伝達・兵の後詰などの役目を負っていたのであろう。
 煙ノ城は小さい城であるが、本郭背後に岩盤を削り抜いた規模の大きな四重堀切で尾根上を分断し、石垣で土塁側面を補強するなど、普請がかなりしっかりされている。本郭の手前にも数段の段曲輪が展開し、その手前を堀切で防御している。本郭も含めて各曲輪は小さく、多数の兵を籠めることはできない。城の敷地内には現在高圧鉄塔(No.25)が立っているため、一部改変を受けているもののほとんどは手付かずで遺構の残存状況は良好である。また鉄塔保守用の通路が確保されていて、高津屋城下のNo.26鉄塔そばからすんなりアクセスすることができるので、虚空蔵山に登った時にはぜひ立ち寄ってほしい城である。
本郭付近に見られる石垣→DSC05906.JPG
DSC05895.JPG←荒々しい豪快な堀切
ここから切り出した石が石垣に使われたのだろう

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.12.54.6N36.25.15.9&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362528&l=1381243

虚空蔵山城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC05784.JPG←虚空蔵山城の物見台(山頂)
 虚空蔵山城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の最上部にある城で、城塞群の中核をなす城であったと考えられる。城の築かれた虚空蔵山城は標高1076.9m、和合城麓の登り口からの比高なんと656.9m。これまででダントツの登城比高記録である。和合城・高津屋城鳥小屋城と、3つの城を巡りながらの登城であるが、麓からなんと2時間15分の登山。しかも鳥小屋城からソデと呼ばれる尾根の鞍部に向かって一気に40mも降り、そのあと急傾斜の尾根道をロープを伝って延々100m以上の標高差をよじ登らなくてはならない、ハンパじゃないハードな山城なのである。なまった体で登ったらとても無事では済まない城で、この冬の埼玉での山岳跋渉行軍の成果である。
 しかし山頂からの眺めは最高で、上田原全域を手に取るように見渡すことができる。この城塞群を保持していれば、確かに上田原に布陣した敵軍の動きは筒抜けで、若き武田信玄が村上義清に上田原の戦いで大敗を喫したのも無理からぬことだったろう。
 虚空蔵山城は、高津屋城や鳥小屋城と異なり、かなり本格的な普請がされた城という印象を受ける。城自体は小ぶりとは言うものの規模の比較的大きいしっかりした堀切を持ち、小屋掛け用と思われる腰曲輪を備えて兵の居住性も確保している。雪で埋もれてはっきりしないが、石積みもありそうだ。上田原の確保のために、なくてはならない重要な見張り場だったのだろう。
 それにしても、太郎山城塞群の城郭密度の濃さはどうであろう。おそらく武田軍の北信濃侵攻が本格化しだした頃に集中的に築かれたと考えられるが、村上義清がこの地を本拠葛尾城に対する絶対防衛線として、最重視していたことが伺われる。そしてそれを2度の敗戦によって知悉していた信玄は、力攻めによる正面決戦を避け、調略とひたひたと忍び寄る軍勢の圧力によって村上陣営の切り崩しを図り、義清を小県から追い落としたのである。
小屋掛け用の腰曲輪→DSC05796.JPG
DSC05760.JPG←本郭西側の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.13.29.2N36.25.37.6&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362548&l=1381317

鳥小屋城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC05758.JPG←鳥小屋城遠景
 鳥小屋城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、高津屋城と並んで、和合城と太郎山城塞群の主城、虚空蔵山城との繋ぎの城と考えられる。高津屋城の東の尾根伝いの鳥小屋山にあり、場所的には近接している。
 鳥小屋城は高津屋城より曲輪などの造作がはっきりとされていて、山城を見慣れている人ならばはっきり城とわかる構造である。削平された本郭周囲などに低いながらも土塁が築かれ、腰曲輪や段曲輪も明確に認められる。しかし堀切は作られていない。これは、西側は高津屋城が隣接していてそちらの堀切で防御が可能であり、東側はソデという鞍部に向かって急傾斜になっていて、さながら天然の堀切のような地形であるからであろう。ソデには麓から峠道が登ってきており、それを監視するように高さ20mもある垂直断崖上に物見台らしき平場が作られている。
本郭→DSC05733.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.13.9.3N36.25.34.8&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362545&l=1381257

高津屋城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC05706.JPG←高津屋城の本郭
 高津屋城は、北信濃の戦国大名村上氏が築いた太郎山城塞群の一つで、和合城と太郎山城塞群の主城、虚空蔵山城との繋ぎの城と考えられる。和合城から尾根伝いに登っていくと、まず菖蒲平と呼ばれる広い平坦地が北側斜面に現れる。ここは馬場か何かが置かれていた可能性がある。そしてその先をずーっと登っていくと陣馬鳥越山に至り、その先の痩せ尾根上の高津屋山に築かれたのが高津屋城である。
 高津屋城は多少の平場はあるが造作が少なく、一見して城とはわからないくらいである。本郭の東側の下りの尾根上に2本の堀切があり、これが唯一城郭らしい遺構である。尚、この城の東の尾根伝いには鳥小屋城があり、南に伸びる支尾根には煙ノ城がある。
 それにしても、この城塞群に登った日はもう4月に近いというのに、朝もやの山上は北から雪が降り注ぎ、樹氷で覆われていた。このまま登るかどうか、考えてしまった。
東尾根の堀切→DSC05712.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.12.54.4N36.25.25.6&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362537&l=1381243

和合城(長野県坂城町) [古城めぐり(長野)]

DSC05615.JPG←和合城遠景、大堀切が見える
 和合城は村上氏の葛尾城の支城で、太郎山系の西の端の突端に築かれた山城である。この城の築かれた稜線は岩鼻(「端」の意味であろう)と呼ばれ、古くから埴科・小県の郡界として交通・軍事上の要地であった。麓には鼠という地名が残るが、これは「不寝見」の転訛と考えられ、昼夜を分かたず見張りをするという、この城の性格に由来すると考えられている。村上氏の本拠地坂城の最終防衛ラインであったのだろう。村上氏没落後は甲斐武田氏の家臣多田氏が守将を務めたと言う。武田氏滅亡後は、真田氏の上田城をめぐる攻防の要地として、徳川・上杉の両陣営の注視するところとなった。
 和合城は、太郎山城塞群(或いは虚空蔵山城塞群)の最西方に位置し、山稜の突端に本郭を置き、合計4つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りである。本郭の周囲は低い土塁がめぐらされ、北側は石垣で補強している。ここからの眺望は最高で、北に向かっては葛尾城や狐落城を、南に向かっては上田原を、一望の下に見渡すことができる。四ノ郭の東側は深さ6mの大堀切で尾根上を分断し、そこから伸びる竪堀は麓近くまで長く下っている。また城域からやや東に外れるが、北の斜面にも竪堀が下っていて、和合城への登山道を登っていくと出くわす事ができる。
大堀切と竪堀→DSC06010.JPG
DSC05650.JPG←本郭の石垣
本郭から望む葛尾城→DSC05659.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.12.5.8N36.25.13.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362525&l=1381154

天白城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]

DSC05567.JPG←主郭の石垣
 天白城(天白山城)は、真田氏の築いた真田城塞群の一つである。真田氏館の後背を押さえる山上に築かれており、いざという時の詰めの城の機能を持っていたと考えられる。また真田本城にも近く、真田本城を左翼から防御する機能も持っていたのだろう。城の歴史は定かではないが、真田幸隆かその長子信綱が真田の庄防衛のために築いたのだろう。
 天白城は、これまで見た真田城塞群の中では最も小さく、縄張りは根小屋城に似ている。主郭前面に6~7段の帯曲輪を設けて防御し、所々に石垣を設けて補強している。主郭は背後を土塁で固め、その向こうは岩盤を削り抜いた荒々しい堀切で防御している。堀切は、その他の真田城塞群と較べれば高低差は小さいが、これは岩盤を削らなければならなかったせいであろう。堀切は北の斜面では二重竪堀となっている。堀切の向こうは痩せ尾根上に岩塊が転がっていて、曲輪の体を為していない。ここにはほとんど兵を置く事はできなかったであろう。
 縄張りとしては今一つ面白みに欠け、しかも藪と茨がひどく主郭以外は歩けたものではない。ちょっと残念な城であった。

 それにしても、真田城塞群はどれも登城道が整備され、登り口には標識が付き、主郭には真新しい解説板を設置と、至れり尽くせりである。このように史跡整備に熱心な自治体は、素晴らしいと思う。
主郭背後の堀切→DSC05588.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.19.42.3N36.25.56.8&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362609&l=1381931

姫城(長野県坂城町) [古城めぐり(長野)]

DSC05511.JPG←本郭背後の切岸と堀切
 姫城は、村上氏の本城葛尾城の尾根伝いに築かれた出城である。五里ヶ峰より続く尾根に築かれた葛尾城の先は千曲川に落ち込む断崖へと繋がっているが、その断崖上の平坦地に築かれた出城で、千曲川流域の平野部に睨みを利かせる絶好の位置にある。
 2008年5月に葛尾城を攻略した時には麓から40分も掛けて登ってヘロヘロだったので、体力的に姫城は断念したが、その後、葛尾城背後まで車道が延びているのがわかったので、今回ズルをして訪城したのである。
 姫城は、長方形の本郭を中心に、その前後を堀切で分断して曲輪を連ねた連郭式山城である。本郭背後の大堀切は高低差6~7mもある大きなもので、出城に過ぎないとは言え、さすがに村上氏の本拠だけの事はある。ニノ郭を跨いだ後ろ側には広い平場が3段程度に分かれて展開していて、馬場だったと思われる。その西側斜面には長大な竪堀が穿たれている。竪堀を10m程下ったところに「灯火の松」というのがあり、村上義清の奥方が姫城を逃れる際、松明をこの松の木に縛り、その明かりを頼りに千曲の川辺まで降りたという伝承が残っている。
 それにしても、姫城から葛尾城まで登って戻るのだけでも傾斜がきつくて大変である。疲れる城だなぁ・・・。
長大な竪堀→DSC05540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.10.36.0N36.27.54.1&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362804&l=1381018

入山城(長野県千曲市) [古城めぐり(長野)]

DSC05316.JPG←本郭の空堀
 入山城は、村上氏の庶流寄合氏の別れ、入山氏の築いた要害と伝えられているが、詳細は不明。更埴南部の村上氏系支城群の中では最も低い、標高510m、比高110mの位置に築かれた山城である。日本城郭大系によれば、昔からこの城の北を通って四十八曲峠を越えて麻績方面に通じる古道があり、その道を扼する為に築かれたのではないかと言われている。
 入山城は、日影山の尾根が北東に延びた先端部近くの小ピークに築かれている。丘陵状の地形で比高も低いので峻険さは感じない。丘城と言った方が正確かもしれない。4つのほぼ方形の曲輪を空堀で分断した構造で、堀は深さ3m程もありそこそこの規模がある。先端から2番目の曲輪が本郭と考えられ、北側に1段の腰曲輪で防御している。4つの曲輪を順番に、ささ郭・本郭・ニノ郭・三ノ郭と仮に名付けると、ささ郭は更に2段の段曲輪で防御している。最も広い曲輪は三ノ郭で、三ノ郭の堀切の先にも平坦地が広がっている。面白いのは、この平坦地の中央の道が土橋状に盛り上がっていて、左右の平坦地を区分けしたようになっていることである。特にその先に堀切はないものの、馬場など何らかの城の機能があったのではないかと思われる。
 千曲市の史跡に指定されているが、標柱や案内標識は一切ないので、登り口に少々迷う。見性寺の裏を登っていく道があるのでそれを登っていくと、給水施設か何かの建物が建った平場に出る。そこから山の方へ藪を掻き分け入っていけば、数分で城跡に到達できる。ネット上ではほとんど無名に近い城であるが、なかなか良好に遺構が残っている。
わずかに残る石積み→DSC05362.JPG
DSC05284.JPG←入山城遠景

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.8.48.4N36.27.32.3&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362745&l=1380839

出浦城(長野県坂城町) [古城めぐり(長野)]

DSC05203.JPG←出浦城本郭
 出浦城は、「狼煙台」とも呼ばれ、岩井堂山山頂に築かれた山城で、村上氏の本拠葛尾城を囲む支城群の一つである。村上氏の庶流出浦氏が築いたとされる。日本城郭大系によれば、山頂の狼煙台以外に本城があったようだが、山崩れによって崩壊したらしい。岩井堂山の麓は村上氏の祖、源盛清が居住した地であった。
 岩井堂山はきれいな三角形の山容をしているので、どの山かは一目瞭然でわかる。比高は400m近くある。事前調査では麓の自在神社から登山道があるとのことだったが、実際に行ってみると途中で道がわからなくなってしまったので、仕方なく斜面直登する羽目になった。この山はいわゆるキノコ山で、無断入山は罰金100万円という張り紙がされている。従って、無用なトラブルを回避するには秋の訪城は避けた方が良い。
 城跡は狼煙台という名にふさわしい小さなもので、山頂に回字状の本郭があり、周囲を土塁で囲んでいる。水便は悪かったらしく、本郭内には雨水を蓄えたと見られる井戸跡が2箇所残っている。本郭の北側に空堀・土塁を挟んで副郭があるが、これも小さなものである。本郭北西斜面には、横堀・土塁を挟んで二つの段曲輪があり、そこにも横堀や竪堀も見られる。ただこの竪堀、どう見ても登城道にしか見えない。実際、大手はこの方向と想定されるので、登城道を兼ねた竪堀だった可能性もある。
 思ったよりは充実した遺構が残っていた。
本郭下の横堀→DSC05228.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.9.25.6N36.26.59.4&ZM=9

三水城(長野県坂城町) [古城めぐり(長野)]

DSC05029.JPG←本郭背後の五重堀切
 三水城は、狐落城の尾根続きの後背にある山城である。麓からの比高は380m程にもなる。狐落城からの尾根筋に登山道が整備されているので、狐落城同様安心して登ることができる。しかし道は所々急峻で、ロープを伝わらなくては昇り降り困難な区間が狐落城以上に多い。

 登山道途中には、小堀切のほか、道をえぐる様に作られた竪堀が数本見られる。尾根筋から斜面を迂回して登ろうとする敵を防ぐためのものだろう。また城に近づくと、尾根道の左側に数段の段曲輪が現れて城の前衛を固めている。尾根道の右側斜面には長い竪堀を見ることもできる。本郭の前面には堀切があり、その更に前には大きな岩の壁が立ちはだかって敵の侵入を防いでいる。本郭は最高所に位置し、石垣も一部に見られるが、狐落城ほどの規模ではない。本郭の面積は狐落城よりやや大きいぐらいであるが、その背後の尾根には何と五重堀切(!)が構築されている。五重というのは山家城以来二度目である。大きさは山家城のようなバカでかいものではないが、深さ1.5~2m程で明確に掘られていて見事である。この五重堀切を越えた先には、くの字に曲がった曲輪があり、広さから考えてニノ郭であろう。その先の尾根道を降っていくと合計3本小堀切と尾根上の縦長の曲輪が交互にあって、三水城の城域は終わる。

 この先は高低差の少ないなだらかな尾根道で摺鉢山へと繋がっているが、摺鉢山には竹把城があったので、竹把城との連絡路があったことはほぼ間違いない。このルートを使えば、室賀峠を通らなくても最短ルートで室賀方面と本城の葛尾城との連絡ができ、村上氏にとって戦略上重要であったことが想像できる。

 一方、本郭の南東側の支尾根に向かっても2本の堀切と2つの段曲輪が交互にあって、本郭の防御を固めている。

 城の規模と縄張りの充実度から考えて、三水城が本城で狐落城は出城に過ぎなかったことがわかる。思うに、武田方の軍記に言う狐落城とは、三水城と狐落城を一体とした複合城郭の名前だったのではないか?支城のそのまた出城が落とされただけでは、村上義清が落ちざるを得ないほどのインパクトはなかったであろう。

 それにしても五重堀切とは・・・。やはり長野の山城は1級品だ。

登山道をえぐる竪堀→DSC05134.JPG
DSC05031.JPG←本郭への侵入を阻む岩の壁
本郭の石垣→DSC05052.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.10.19.5N36.25.49.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362601&l=1381011

狐落城(長野県坂城町) [古城めぐり(長野)]

DSC04962.JPG←本郭南側の石垣
 狐落城は、北信の雄村上氏の本城である葛尾城の目と鼻の先にあり、重要な支城である。砥石城を陥として上田原に重要な橋頭堡を築いた武田信玄が1553年に村上攻めをした時、村上方の武将大須賀久兵衛を調略で寝返らせ、狐落城を守っていた小島兵庫助ら三兄弟を討ち取って落城させると、村上義清は退勢挽回の無理を悟り、葛尾城を自落して落ちて行った。そして義清が落ち延びて助けを求めた先が、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)であった。このことが、前後5回にもわたる史上名高い川中島の合戦に繋がっていくのである。その意味で狐落城は歴史上、重要な画期となった城であった。

 狐落城は比高250m程の山城で、後背に三水城を控えている。狐落の名は、文字通り狐さえ転がり落ちるほどの急坂という意味で付けられたと言う。確かに楽な道ではないし、一部にはロープを伝わらなければ昇り降りも困難な急な斜面もある。しかし麓の十六夜観月堂から登山道がきれいに整備されているので、道の無い山城の攻略と較べれば、その労力と安心感たるや雲泥の差である。この登山道を登っていくと、途中に木戸口があったのではないかと思われるちょっとした平坦地や、小堀切、竪堀などが散見される。また城に近づくにつれて段曲輪らしいものも見られるようになる。そして石積みの虎口を越えて登り着いたところが、狐落城のニノ郭である。ニノ郭より一段上が本郭であるが、本郭もニノ郭も面積は小さく、兵の駐屯を目的としたものではないことがわかる。本郭とニノ郭の周囲には石垣が一部残っている。崩落している部分もあるが、かつてはほぼ全周を石垣で防御していたのではないだろうか。本郭の背後の三水城に繋がる尾根筋には二重堀切が掘られて道を分断している。そのあと痩せ尾根が10m程伸び、その後に最後の堀切があり、狐落城の城域はここで終わる。

 このあと三水城に登ってわかったが、狐落城は三水城の出城に過ぎず、三水城の前衛を固める城だったのだろう。

本郭から見た二重堀切→DSC04970.JPG
DSC04990.JPG←狐落城最後の堀切
狐落城遠景、縄張りが見える→DSC05180.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.10.31.3N36.25.58.6&ZM=9
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稲倉城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC08590.JPG←大空堀
 稲倉(しなぐら)城は信濃守護小笠原氏の一族で浅間郷の領主であった赤沢氏の本城である。赤沢氏は、1550年に武田信玄が府中に侵攻すると、小笠原氏に奪われた早落城を攻め落として武田方に付いた。その後、武田家臣団に組み込まれていたが、武田氏が滅亡し徳川家康の後援で小笠原貞慶が府中に返り咲くと、その支配下に入った。しかし翌1583年に赤沢氏は塔原氏や古厩氏との謀反が発覚して貞慶から切腹を命じられ、城もそのまま廃城となった。
 稲倉城は、稲倉集落を見下ろす比高230m程の山上に築かれている。大きく本郭、二の郭、三の郭に分かれているが、二の郭の西側斜面には段々状に4~5段の段曲輪が展開するなど、10以上の曲輪がある。林道脇から伸びる登山道を登っていくと本郭に至るが、その手前で二の郭の西に広がる段曲輪群が目に入ってきて、なかなか壮観な眺めである。これらの曲輪はそれぞれが小屋などを十分建てられるだけの広さを持っている。主郭に登りつくと、目の前には二の郭との間を分断する大きな空堀が目の前に現れて、目を見張らせるものがある。この空堀にはかなり崩れているが石積みの遺構が残っている。主郭は北に向かって4段ほどの段差に分かれていて、最高所の物見台の裏は大堀切で北に延びる尾根筋を分断している。この堀切は伊深城と同じ二重堀切となっていて、縄張りの共通性を感じさせる。二の郭は最高所を中心に複数の段曲輪群で構成され、城内でもっとも規模が大きい。そこから数本の堀切を越えて南に登っていくと三の郭に至るが、曲輪としてはかなり小さく、南の尾根筋を監視する物見台であったのだろう。その先にも何段かの小さな段曲輪が続いている。また登山道の通っている谷間には、かつての耕作地の名残であろうか、何段もの石垣が残っているが、石積みで囲まれた井戸跡が2箇所残っていて、かつての水の手曲輪だった可能性もある。
 小なりとはいえ地方領主赤沢氏の本城だけあって、居住性も有したなかなか大きな山城である。なお麓には赤沢氏居館跡と伝えられる平場が残っている。
二の郭の段曲輪群→DSC08631.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.0.18.5N36.17.31.2&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361743&l=1380002

早落城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC08658.JPG←早落城遠景
 早落城は元の名を洞城という。稲倉城主赤沢氏の持ち城であったが、信濃守護小笠原長時はこれを奪って伊深城主後庁氏に与えた。1550年に武田信玄が府中に侵攻すると、赤沢氏はいち早くこれに呼応し、真っ先にこの城を落としたため早落城の名が付いたという。赤沢氏は家臣の林氏に護らせたが、1582年に廃城となった。
 城は、山城というより平山城に近い。信州の山城としては異例なぐらい低い位置に築かれており、麓からの比高はわずか70m程しかない。縄張りも単純で、南北に直列に曲輪を連ねた連郭式で曲輪間を堀切で分断しているが、どの堀切も規模は小さくそれほどの防御性を持っているようには見えない。また城の南側は緩やかな丘陵状の斜面となっていて、なぜここに厳重な防御施設を構築しないのか、不思議なぐらいである。伊深城の眼と鼻の先にあるので、出城程度の役目しか負っていなかったのかもしれないが、これでは攻められたらひとたまりもないだろう。実際に行ってみると早落としの意味が良くわかる城である。
主郭の堀切→DSC08518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.59.19.7N36.16.28.5&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361640&l=1375907

伊深城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC08443.JPG←後背から見た二重堀切と主郭
 伊深城は、室町時代中期に井深氏によって築かれたといわれている。松本北部を守る重要拠点で、周辺にある早落城稲倉城などと連携して城塞群を構成していたようである。井深氏の後、後庁氏の領するところとなったが、稲倉城の赤沢左衛門尉に攻略された。1550年の武田氏による府中侵攻の際には、「イヌイの城」(埴原城?)の陥落に伴って、他の4城と共に自落した。その後も使われ続けたが、武田氏滅亡後、府中に復帰した小笠原貞慶に滅ぼされ廃城になったという。
 伊深城はその名もずばり伊深城山に築かれており、この山は地図帳などにも載っているので探すのには困らないだろう。麓の若宮八幡社から登山道が整備されており、主郭部もきれいに伐採されているので、非常に遺構がわかりやすい。登山道を登って城のある尾根に出ると、小さな枡形虎口がある。その先を更に20mほど登っていくと、小さな堀切を越えて腰曲輪のような第3郭に至る。その上にやや広めの第2郭、更にそこから5mほどの高低差を持って主郭がそびえている。主郭はたいした大きさではないが、周囲に石積みが所々残っており、往時は主郭全周を石積みが囲んでいたのだろう。主郭背後には高低差10数mもある巨大な切岸で堀切が掘られている。道もないので、ここを降りてまた登るのは膝が痛む足では半端じゃなく辛かった。なおこの堀切は二重堀切となっている。その先は曲輪とはいえないような痩せ尾根地形が伸びているが、そこにも規模は小さいが4~5本の堀切が掘られていて、尾根筋からの進入を防御している。一方、これとは別に主郭の南西側に20mほど下ったところに2本の横堀と、これを監視するように小さな帯郭らしき地形が残っている。この帯郭のところには低い石積みが残っており、これは往時の遺構としておきたい。
 全体の規模は決して大きくはないが、高低差の大きい縄張りでなかなか充実した城である。
主郭の石積み→DSC08402.JPG
DSC08454.JPG←主郭南西中腹にある横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.58.50.8N36.17.3.6&ZM=9

平瀬城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC08274.JPG←登城道から見える竪堀
 平瀬城は、犀川の東岸の山地に築かれた山城である。犬甘氏の一族平瀬氏が築いたといわれている。信濃守護小笠原氏の本城林城を護る北方の要であったと思われる。1550年に武田信玄が信濃府中に侵攻した際、「イヌイの城」(埴原城?)の陥落に伴って林城を始め5つの城が相次いで自落したが、平瀬城は徹底抗戦を続けた。その年の10月に武田軍が砥石城で村上義清に大敗を喫すると、府中を追われた小笠原長時は息を吹き返し、中塔城や平瀬城などに兵を詰めて抵抗を続けた。しかし、1551年に武田信玄は平瀬城を攻めてこれを下し、城兵204人が討ち死にした。その後、平瀬城には城将として、あの猛将として有名な原美濃守虎胤を入れ、小笠原氏の残党討滅の拠点とした。信濃平定がほぼ完了すると、深志城を兵站・統治拠点とし平瀬城は廃城となった。
 平瀬城は、本城を中心として左右両翼に出城を設け、連携して防御力を高める構造となっている。今回訪れたのは本城だけである(というのも出城へは道無き斜面を直登するしかなく、膝が完治していない状態では訪城不可能だった)。本城は主郭とその前面に2つの小さな曲輪を階段状に配置し、主郭背後には大堀切をまたいで堀切・竪堀で厳重に防御された小曲輪、更に2つほどの広い曲輪が続いている。竪堀の何本かは、登城道の途中でも見れるほど長く伸びている。その先には堀状の通路らしきものが山の稜線に沿って続いているが、逃げ道であろうか。
 竪堀が多用されているほかは比較的シンプルな縄張りで、曲輪の大きさも多くの兵を込められる規模ではない。小笠原氏を追ってこの城を押さえた武田氏も、あくまで戦時下の一時的な城と割り切って使っていたのではないだろうか?そうでなければ、もっと巧妙な縄張りにして規模ももっと大きくしていた気がする。なお、主郭の半分とその前面の曲輪はきれいに伐採されていて、松本平を一望に見渡せる眺望が見事だが、主郭背後の小曲輪は11月下旬でも薮が多く、竪堀などの遺構を見るのが容易ではない。もう少し広い範囲を伐採してくれていると助かったのだが。
 そのうち機会があれば出城も周ってみたい。
主郭背後の大堀切、→DSC08291.JPG
         薮で何もわからない

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.57.1.8N36.17.0.7&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361713&l=1375652

水番城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC08207.JPG←主郭背後の石積み
 水番城は、信濃守護小笠原氏の居城林城の東にあり、林城の水源を守るために築かれた城である。林城へは、延々1.5kmに渡って山の斜面に水樋を横断させて水を供給していたという。城からだいぶ離れた水の手を守るため、わざわざ城を築いたようである。
 水番城は麓からの比高140m程で、林城(大城)とほぼ同じ高さにある。わりとこじんまりした城だが、非常に独特の縄張りを持っていて面白い。登り始めてしばらくすると、秋葉社の祀られた平場に出るが、ここは物見であったと思われる。秋葉社に登っていく道はちょうど竪堀状になっているのだが、これは往時からのものかどうかはわからない。そこから尾根に沿って緩やかな斜面が続き、小さな堀切を越えて登ると、L字状の広い曲輪に出る。曲輪とは書いたが、削平がやや甘く、土塁などの防御構造も見られないので、本当に曲輪だったのかは疑問点も残る。そこから2つの小さな堀切を越えるともう城の中枢部で、前面に2段の段曲輪を配した主郭に到達する。主郭はほぼ楕円形をした小さな平場で土塁などもなく、あまり防御性を感じさせない。この主郭の周囲には石がゴロゴロしているほか、主郭裏側には低い石積みが残っているので、往時は主郭全周を石積みが囲んでいたのではないかと想像される。(わざわざ石垣でなく「石積み」と書いたのは、あまり高く積まれていた形跡がないからである。)面白いのはここからで、主郭裏には5mほどの高低差を持って縦に細長い曲輪が続いているが、この曲輪の両側にたくさんの竪堀が連続して掘られているのである。合計10本以上はあるだろうか。おかげでこの曲輪の両側はジャバラのようにうねっている。その先にはこれまた小さいながら堀切で尾根筋を防御している。
 堀切や竪堀はいずれも小さいもので、全体に防御性はそれほど高そうには見えないので、あくまで水の手を守る見張り砦的な構想で作られた城なのではないかと想像される。
畝状竪堀で防御された曲輪→DSC08204.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.1.21.5N36.13.15.3&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361323&l=1380111

光城(長野県安曇野市) [古城めぐり(長野)]

DSC08090.JPG←主郭北側の段曲輪
 光城は、犀川右岸にある比高360mの峻険な光城山に築かれた山城である。鎌倉時代にこの地に入封した海野氏の一流、光氏によって戦国時代に築かれた。武田信玄が松本平に侵攻した際に籠城したが、1553年の刈谷城攻めの時、戦わずして落城したという。その後武田氏が滅んで、松本城に元信濃守護家の小笠原貞慶が入封すると、修復されたという。
 まともに登ったら1時間はかかりそうな高さの山で、麓から見上げただけでも大変な山だという気がするが、幸いなことに山頂近くまで車道が通っており、城跡も公園になっているのであっという間に攻略できる。(現代は楽でいい~。)規模は比較的小さめの城で、縄張りも、並みいる名山城ぞろいの松本平ではかなり平凡な部類に入る。なぜこの城に行ったかといえば、この前に登った山家城で膝を痛めてしまったからである。
 城は南北に2つの大きな曲輪が連なっていて、あとはその周囲を腰曲輪が取り巻いている程度のものである。2つの曲輪はほぼ同等な大きさで周囲を小さな土塁で防御するというほぼ同じ構造であるが曲輪の高さが若干異なり、高い北の曲輪が主郭であろう。主郭の北と東には数段の段曲輪があるが、どれも規模は小さい。主郭と副郭の間や段曲輪の先に、堀切もあるにはあるがかなり埋もれているのか規模は小さい。また主郭北東の緩斜面には何本かの竪堀が掘られているが、これもかなり埋もれているのか、縄張図がなければほとんどわからないような程度のものである。これらの竪堀は、数十m下の小さな平場で合流している。
 そんなわけで、麓から苦労しながら登ったら相当ガックリしそうな城であるが、車で簡単に行けるので付近を通ったついでに登るといいだろう。
一応、竪堀です→DSC08148.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.56.44.5N36.18.55.2&ZM=9

山家城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC07978.JPG←主郭の石垣。すばらしい!
 山家(やまべ)城は中入城とも言い、鎌倉時代末に地頭の山家氏が築いたといわれている。当初の山家氏は諏訪氏の一族であったが、文明年間に小笠原氏に叛き、攻められて滅んだ。その後、小笠原氏の一流の折野氏が播磨からこの地に移り、折野山家氏となった。1550年に武田信玄が信濃府中に侵攻した際、「イヌイの城」(埴原城?)の落城に伴ってこの城も自落し、武田氏の持ち城となった。そして府中東方の防衛の拠点として使用され続けたという。
 山家城は林城の東方、入山辺地区の薄川北岸の山に築かれた山城である。大きく二つの城域に分かれていて、石垣の残る主郭のある下側のエリアと、その奥へ登っていった先にある秋葉社の祀られた通称秋葉郭と呼ばれる曲輪を中心とした上側のエリアがある。
 まず下側のエリアであるが、登城道を登っていくと2本ほどの竪堀が見られ、その上には小笠原氏系城郭によく見られる段曲輪群がある。尾根筋の要所を堀切で防御しており、その先に主郭がある。主郭周囲には石垣が築かれているが、特に主郭南東側の石垣は素晴らしい。松本周辺の山城のどこよりも高く積まれた見事な石垣で、見る者を感動させるほどのものである。「戦国時代末期の松本平の石垣技術の到達点を示す」という現地解説板の言葉もうなずける。主郭南側の尾根にも何段かの段曲輪が築かれ、先端を堀切で遮断している。また主郭背後は、大堀切で尾根筋を分断している。
 ここまででも規模の大きい山城であるが、圧巻なのはその先である。主郭背後を秋葉郭に向かう尾根道には、幅7~8m、深さ5m以上もある巨大な堀切が連続5本も掘られている。単発もしくは二重の大堀切ぐらいならばこれまでにもお目にかかっているが、五重堀切というのは初めてである。しかもどれも規模がデカイ!この堀切は当然そのまま斜面を駆け下る竪堀となっている。
 そしてようやくそのちょっと先に、何本かの竪堀で周囲を防御した秋葉郭に到達する。秋葉郭の周囲には腰曲輪が取り巻き、秋葉郭の背後には小さい堀切を挟んで広めの第2郭が続く。その先何段かの小さめの段曲輪があり、その下には馬場ではないかというぐらいの広さを持つ第3郭がある。第3郭の先端には規模は小さいが形状がはっきりした枡形虎口があり、その先の尾根は掘切で遮断している。第2郭の北側にも広めの段曲輪群が続いている。
 以上のような感じで、ちょうど普通の規模の山城二つ分で一つの城となっている。面白いのは、下側エリアより上側の秋葉郭エリアの方が曲輪が広いのである。上と下とで縄張り構造が異なっており、その形態から秋葉郭エリアは武田氏による改修ではないかとも言われている。多分そうであろう。要害性と同時に軍事駐屯基地としての規模も兼ね備えた屈指の山城で、あの桐原城をも凌ぐ。名城の多い松本周辺でも(というより私が今まで見た中で)最高の中世山城である。
登城道から見える竪堀→DSC07940.JPG
DSC07989.JPG←主郭の石垣遠景
圧巻の五重堀切の一部→DSC08013.JPG
DSC08050.JPG←第3郭先端の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.3.23.8N36.13.13.9&ZM=9
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埴原城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC07840.JPG←第2郭に残る石垣
 埴原(はいばら)城は、信濃守護小笠原氏の居城林城を防衛する松本平城塞群の一つであり、屈指の規模を持つ山城である。1550年に武田信玄が松本平に侵攻して小笠原長時を信濃から追った際、小笠原氏の属城5城が相次いで自落する画期となった「イヌイの城」の陥落はこの城のことであるとも言われている。その位置関係や規模から推察しても、林城の南方を防御する要の城だったと考えられる。
 埴原城の主要部の縄張りは、桐原城に似ている。山麓から登る尾根上に多数の段曲輪群を展開し、要所を堀切で分断しつつ主郭に至る。主郭と第2郭の周囲には何本かの竪堀が掘られ、第2郭周囲には石垣が残っている。ただ埴原城の石垣は桐原城ほど多くは残っておらず、かなり崩れて散乱しているので、もしかしたら武田軍に攻められた時に崩されたのかもしれない。主郭背後は例によって大堀切で分断。その背後の尾根筋には堀底状の通路群が分岐したりしながら延々と続いている。この堀底状通路の機能が良くわからない。下手な堀切よりよっぽど力を入れて掘り込んであるのだが、それほど攻撃もしくは防御に威力を発したのだろうか?また延々伸びていることからして、このはるか先の山頂にあるといわれる御天城への最後の逃げ道として確保されていたものかもしれない。
 また埴原城の竪堀や堀切は、桐原城ほど巧妙に入り組んだネットワークは形成しておらず、そういう意味では縄張りとしてやや単調なイメージである。そのほかでは、主郭の南下方の曲輪に石組みの井戸跡が残っている。
 遺構は完存し規模も大きい山城だが、すばらしかった桐原城のイメージが強すぎたため、ちょっと拍子抜けした印象はぬぐえなかった。それでも十分行く価値のある山城である。
 なお、麓の蓮華寺周囲はかつての屋敷地であったという。
主郭背後の堀切、かなり深い→DSC07852.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.1.2.0N36.11.7.8&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361119&l=1380058

八間長者城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC07718.JPG←長大な竪堀
 八間長者城は、松本市と塩尻市の境近く、崖の湯温泉の裏手の山地に展開する山城である。歴史的由来は定かではないが、この地の土豪の波多氏(または波多腰氏とも)の拠った城とも言われている。しかし戦国後期には、信濃守護の小笠原氏の松本平防衛城塞群の一つになったと考えられ、武田信玄が信濃を攻略すると武田氏の持ち城になったと思われる。
 八間長者城は山城といっても山岳の峻険さを頼みとする要害というよりも、なだらかな傾斜地に広大な曲輪群を展開する軍事駐屯地という色彩が強いようだ。城域は大きく2つに大別できる。谷を挟んで上部に展開する山城部と谷の下部に展開する丘城部に別れる。中でも興味深いのは下部の丘城部の縄張りで、2つの長大な竪堀を主軸にしてその左右に曲輪を展開する構造である。小笠原氏系の城郭ではほかにあまり見られない構造だ。この曲輪群は、前述の竪堀だけでなく横堀で防御されているものもある。曲輪は広いが全体に傾斜が残っているので、あまり大きな建築物ではなく小さい建物がいくつも建っていたのではないかと考えられる。2本の竪堀は上部で合流し、合流点には物見台と思われる高台がある。また丘城部の最上部には、普通なら主郭に相当する曲輪が置かれている。
 この曲輪の裏は谷に落ち込む急斜面になっていて竪堀でも防御されているが、上部の山城部に向かって狭い土橋状の通路が尾根筋に伸びている。山城部は単純な縄張りで、裏の尾根筋を防御する小さい堀切があるほかは単に曲輪を連ねただけである。曲輪はそれほどの広さを持たないので、詰城的な機能を持っていたのではないかと考えられる。
 これら2つの構造の間の谷間には丸い窪みが残っているので、水の手があったのではないかと想定される。
 遺構はほぼ完存しており、規模も大きくアクセスもしやすいので、お勧めな城である。ただ竪堀には植林をしているようなので、10年も経てば林に埋もれてしまう可能性がある。
中腹の曲輪を防御する横堀→DSC07658.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.0.53.8N36.9.2.4&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=360913&l=1380045
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