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古城めぐり(長野) ブログトップ
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覆盆子城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6132.JPG←二ノ郭と主郭堀切
 覆盆子(いちご)城は、召田城とも呼ばれ、この地の豪族会田氏の最期の地となった城である。会田氏は海野氏の一族で、峻険な虚空蔵山に虚空蔵山城・中ノ陣城等の城砦群(会田城)を築いて本拠としていた。1553年に武田信玄が小笠原長時を駆逐して北筑地方に侵攻すると、会田氏は武田氏に降ってその配下となった。そして会田小次郎が領主の時、一族の岩下監物(召田監物とも言われる)が覆盆子城を築いて城主となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、信濃府中を制圧した小笠原貞慶がこの地に侵攻し、かつて父の小笠原長時に反旗を翻し、甲斐武田氏に鞍替えした諸豪を相次いで討伐し、会田氏もその標的となった。会田氏は、本城の会田城を捨て、覆盆子城に立て籠もって最後まで抵抗した。これは小県方面への連絡路と退路を確保するためと推測されている。当主会田小次郎広忠が幼少だったため、家老の堀内越前守が戦ったが、間もなく越前守は討死して城は攻め落とされた。広忠は逃れて青木村の十観山で自害し、会田氏は滅亡した。会田氏最後の「一期の城」ということで、いつしか覆盆子城と呼ばれるようになった。

 覆盆子城は、標高892m、比高200m程の山上に築かれている。明確な道はなく、北西の尾根に適当に取り付いて直答した。削平の甘い主郭を中心に北東・北西に数段の腰曲輪、主郭背後には浅い堀切を介して二ノ郭があるが、いずれの曲輪も普請はわずかで、ニノ郭などほとんどまともに削平されていない。その背後の曲輪も同様である。一方、大手筋と思われる北西の尾根にもそれと言われなければ分からない程度の浅い堀切が2条穿たれている。いかにも急造の城と言う感じで、普請は不完全・不徹底で、会田氏滅亡の城という歴史がなければ、ほとんど顧みられることはないだろう。尚、この地域の目の前には、本城のあった虚空蔵山がその威容を見せている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.345100/138.017528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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掻揚城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6044.JPG←主郭土壇付近の石垣
 掻揚城は、保福寺城とも言い、1502年に信濃守護小笠原長棟が築いて、小笠原信益斎を置いて守らせたと伝えられている。その後、1513年には小沢縫殿助が在番し、小笠原氏の直轄の城として度々城将が変わったらしい。後に苅谷原城主太田弥助の持ち城となって在番を置いたが、1553年に武田信玄によって北筑地方一円が支配されるようになると、その役目を終えた様である。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に織田信長も本能寺で横死すると、小笠原貞慶が信濃府中を制圧し、1590年にかつての在番の後裔小沢縫殿介に山麓の屋敷を与えて住まわせたと言う。

 掻揚城は、標高900m、比高100m程の山稜先端に築かれている。登り道は無いので、北東の斜面から適当に直登するほかはない。登っていくと斜面上に段々に築かれた帯曲輪群が現れる。主郭の前衛となる曲輪群で、数えたところ17段確認できた。多数の帯曲輪群が築かれるのは、苅谷原城や青柳城と同じである。尾根上の先端部に主郭を置き、堀切を挟んで南に二ノ郭を置いた小規模な城砦である。主郭後部には土壇があり、その周りや主郭の外周に石垣が僅かに残っている。往時は全周を石垣で防御していたようだが、現在はかなり崩れてしまっている。主郭は綺麗に削平されているが、二ノ郭は自然地形に近い。二ノ郭背後にも堀切があり、更に背後の尾根の先にもう1本堀切が穿たれて城域が終わっている。堀切はいずれも小規模だが、東斜面に長大な竪堀となって落ちており、特に主郭背後・二ノ郭背後の2本は、山麓まで至っている。また竪堀脇にも帯曲輪が多数築かれている。小城砦ながらも、長い竪堀や石垣は見応えがある。
山腹を貫通する長い竪堀→IMG_6087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.310353/138.028364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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荒神尾城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5879.JPG←Ⅳ郭から見た主郭までの曲輪群
 荒神尾城は、歴史不詳の城である。一説には、1553年に武田勢が攻め落とした苅谷原城とは、この城のことではないかとも言われている。

 荒神尾城は、苅谷原城の東南東1.4kmの位置にある標高950mのピーク上に築かれている。東の谷戸を登る車道脇に案内表示と登り道が整備されているので、迷うことなく登ることができる。山頂の主郭から東のやや広い尾根上に4段の曲輪を設けているのが基本構造である。主郭自体の広さは苅谷原城と大差ないが、周囲の切岸にわずかに石垣が残存している。また前述の4段の曲輪は、きれいに削平されたある程度の広さを持った曲輪になっており、特にⅢ郭は背後に堀切を設けた、前面防衛の櫓台となっている。一方、主郭から伸びる北東尾根と南尾根にも堀切や小郭が設けられている。この二つの尾根筋は非常な細尾根で、小郭があることはあるがほとんど物見程度のレベルで多数の兵を籠めることはできない。堀切もほとんどは小規模のものだが、南尾根の1本だけは比較的大きい。また北西尾根の城域先端近くには四重堀切が穿たれ、更にその下方に続く尾根にも堀切が穿たれており、この尾根筋からの接近を警戒していることがわかる。城域の広さは苅谷原城には及ばないが、曲輪などの普請のレベルは苅谷原城よりしっかりしている。とは言うものの、基本的な城の規模・築城技術は苅谷原城と同等程度で、これが筑北の土豪の築城規模ということかと推測させられる。
北西尾根の四重堀切→IMG_5945.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.309385/137.995877/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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苅谷原城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5739.JPG←南東尾根の堀切と曲輪群
 苅谷原城は、鷹巣根城とも呼ばれ、海野氏の一族苅谷原五郎が築いた城と伝えられる。苅谷原氏が数代で断絶すると、太田道灌の一族とも言われる太田弥助という武士の居城となったとされる。戦国中期の1550年から松本平に侵攻を開始した甲斐の武田信玄は、小笠原長時の諸城を連年攻略し、1553年には深志城を拠点に筑北まで侵攻し、3日間の攻撃で苅谷原城を攻め落とし、塔ノ原城は自落、会田虚空蔵山城を放火した。その後、苅谷原城の城割りと鍬立てを行い、家臣の今福石見守を城主とした。これにより、苅谷原城は武田軍による筑北進出の橋頭堡となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、筑北地方は小笠原貞慶と上杉景勝の間で激しい争奪の場となった。この時、苅谷原城は小笠原方によって制圧され、貞慶は一族の赤沢式部少輔を城代とした。しかし翌年、赤沢氏が塔ノ原城主海野三河守・小岩岳城主古厩因幡守らと共に謀叛を企てたことが発覚し、赤沢氏は切腹させられた。その後、苅谷原城には小笠原頼貞が入って守りを固めたことが知られる。その後の歴史は不明だが、1590年に小笠原貞慶が讃岐に移封となった頃に廃城になったと推測される。

 苅谷原城は、標高896.6mの城山に築かれている。南の尾根より登山道があるので、迷わず登ることができる。山頂の主郭を中心に、三方に伸びる尾根に堀切と尾根上の小郭群を連ねた縄張りで、あくまで詰城と言った趣の城砦である。主郭は小規模で多数の兵を籠めることはできない。また堀切もいずれも比較的小規模であるが、大手と思われる北東尾根には厳重に配置され、堀切から落ちる竪堀も長く伸びている。しかしその他の尾根の堀切はやや防備が貧弱である。この城は、斜面に多数の帯曲輪群が配置されているのが特徴的で、特に竪堀の左右に多数並んでいる。また城の中心からかなり離れた部分の尾根も、側方斜面に帯曲輪が配置されていることから、尾根上はほとんど自然地形ながらも馬場や外郭として機能していた可能性があり、それなりに広範囲に防備は固められていたことが伺われる。とは言え、全体的には少数の兵しか籠められない小城砦で、諸勢力の筑北制圧の橋頭堡となった城にしては、貧弱に感じられる。その縄張りの貧弱さ故に、武田勢が攻め落とした苅谷原城はここではなく、荒神尾城ではないかとする説も存在することを付記しておく。
竪堀沿いの帯曲輪群→IMG_5791.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.316111/137.982252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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平瀬北城(長野県安曇野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5606.JPG←上部曲輪群の横堀
 平瀬北城は、平瀬城の北の出城である。平瀬城の項に記載した通り、中央の尾根に平瀬城の本城があり、その南北に張り出した尾根に北城・南城の出城が築かれており、この左右両翼の出城によって本城の防御力を高めた、3城一体の城であったと考えられる。

 平瀬北城は、大きく2つのブロックに分かれて築かれている。主城部は標高730mのピークに築かれており、一方東に上る尾根上にも曲輪群が設けられている。この城へ行くには、東の豊科カントリークラブ脇の町道からアクセスするのが、最も楽で手っ取り早い。このルートで最初に現れるのが、上方の曲輪群である。平瀬本城に繋がる南斜面に、馬場のような緩斜面の平場が数段広がり、南西部を大きな横堀で防御している。この横堀は下方で二重横堀に変化している。この上方の曲輪群から西の尾根を辿ると、堀切状の通路や多重枡形の遺構が現れる。多重枡形の下に両側を土塁で防御した曲輪が広がっている。その先はしばらく細尾根となり、小掘切が穿たれている。出城主城部は、ピーク上に主郭を置き、背後に堀切と尾根小郭の下に二ノ郭を置いている。主郭の前面にも堀切や小郭群が築かれている。
 遺構を見ると、平瀬北城の構造は2つのブロックで大きく異なっており、主城部は小規模な出城そのもの。一方で上部曲輪群は複雑な多重枡形や大きな横堀を有した、大名系城郭の造りとなっている。元々出城の小城砦があったところに、平瀬城を攻略した武田氏が平瀬本城の背後を警戒する曲輪群を拡張したもののように思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.289964/137.947812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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平瀬南城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5529.JPG←主郭東側の横堀
 平瀬南城は、平瀬城の南の出城である。平瀬城の項に記載した通り、中央の尾根に平瀬城の本城があり、その南北に張り出した尾根に北城・南城の出城が築かれており、この左右両翼の出城によって本城の防御力を高めた、3城一体の城であったと考えられる。

 平瀬南城は、標高680mの尾根上に築かれている。本城からは急峻な谷戸を挟んでおり、登り道も明確には残っていないので、尾根先端の北東筋を適当に直登する他はない。基本的には単純な連郭式の城で、西側だけを低土塁で防御した長円形の主郭を頂部に置き、そこから北に伸びる尾根上に切岸だけで区画した数個の曲輪群を配置している。先端の曲輪の北東斜面には何段かの腰曲輪が築かれている。主郭の東側は横堀で防御され、その外側に土塁と腰曲輪が築かれている。この横堀は主郭背後の堀切と繋がっており、最初は腰曲輪状であるが、先端に近づくに連れて深さを増して横堀に変化し、先端部はそのまま竪堀となって斜面を落ちている。また主郭背後の尾根には、前述の堀切に続いて4本連続する五重堀切が穿たれている。中でも2本目が規模が大きい。しかもこれらの堀切は、東斜面を長い竪堀となって降っていて、下方で集合している。また下方の竪堀同士に挟まれた部分に独立堡塁が築かれていて、谷底からの接近を阻止する防衛陣地となっている。
 城自体は小規模であるが、大規模な堀切と竪堀群を有し、横堀を備えるなど、普請は念入りに行われていることが伺われ、見応えがある。山も手入れされているので、遺構が見やすいのもありがたい。
五重堀切から落ちる竪堀群→IMG_5590.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.283184/137.948155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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西条城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5469.JPG←標柱・解説板の立つ主郭
 西条城は、青柳城の支城である。城主は、青柳氏の重臣鬼熊左衛門尉康長で、剛勇な武士であったという。康長は、天文年間(1532~55年)に小笠原氏の軍勢と立峠で戦い敗れて、自刃したと伝えられている。その後の歴史は伝わっていないが、青柳城が武田氏・織田氏の滅亡後に小笠原貞慶の支配下に入ると、西条城も小笠原氏の支配下に置かれたものと考えられる。

 西条城は、小仁熊地区の西側にそびえる標高790mの山稜上に築かれている。山稜上を縦走するハイキングコースが整備されており、長野自動車道の側道脇から登道もついているので、あまり迷わずに登ることができる。連郭式の比較的小規模な城で、頂部に四阿と解説板・標柱の建った主郭を置き、南に一段下がって二ノ郭、更に南下方に三ノ郭と前衛の腰曲輪を置いている。三ノ郭は側方に高台が置かれており、櫓台などとして機能した様である。更に南尾根の鞍部は堀切となっており、一方主郭の北尾根にも堀切が穿たれ、その先の北の物見台の北西にも3条の片堀切状の地形が確認できる。しかしいずれの堀切も規模は小さく鋭さに欠け、どれほどの防御性を発揮したのかは不明である。この他に主郭の西斜面にも腰曲輪群があるらしいが、藪が深く踏査できない。そもそもハイキングコースがあるものの、いずれの曲輪も藪だらけでほとんど未整備の状態である。竹場城より訪城も楽だし、遺構もしっかりしているが、規模・縄張り的に物足りなさは残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.403358/137.998710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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竹場城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5412.JPG←西尾根の堀切
 竹場城は、青柳城の支城と伝えられている。伝承では、青柳伊勢守頼長の築いた要害で、城主は頼長の家臣竹場源之丞定友であったという。1587年、頼長が小笠原貞慶に深志城で誘殺されると、城主不在の青柳城は小笠原氏によって攻め落とされ、竹場城も同じく落城したと伝えられている。

 竹場城は、麻績川と東条川の合流点の西にそびえる、標高734m、比高159mの山上に築かれている。中心に主郭があり、三方に派生する尾根に堀切を介して曲輪群を配した縄張りとなっている。非常に小規模、かつ普請もささやかなレベルの城で、中心となる主郭は猫の額ほどの狭小な曲輪である。各所の堀切も規模が小さい。曲輪はある程度きれいに普請されているが、いずれも規模は小さい。このような感じで、パッとしない城である。『信濃の山城と館』に、「青柳氏本拠の西口を守る重要な支城であったことが伺える」とあったので期待して行ったが、全く裏切られてしまった。なお、私は北麓から登ったが、途中の山道がわかりにくく、結局斜面直登になってしまった。キノコ山なので、秋の訪城は厳禁である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.433834/138.001435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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青柳城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5205.JPG←大きな二重堀切
 青柳城は、この地の国人領主青柳氏の居城である。青柳氏は、麻績城主麻績氏の一族と言われ、伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に居館を構え、守護小笠原氏に属していた。戦国中期に武田信玄が信濃に侵攻して小笠原長時を追い落とし、更に1553年に北信の雄村上義清をも葛尾城から逐うと、青柳清長・頼長父子は武田氏に降伏した。青柳城には信玄やその弟典厩信繁が入城して青柳城を改修し、以後青柳城は、武田氏が松本平から善光寺平へ進出する為の前衛拠点となった。一方この時、麻績城主服部(麻績)氏が義清と共に越後に逃れた為、青柳氏は麻績城を与えられて麻績氏を称した。同年9月の第1次川中島合戦では、来攻した上杉謙信が荒砥城を落とした後、青柳城を攻撃している。こうして武田氏の支配は続いたが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、青柳頼長は織田氏の支配下に入った。しかしその3ヶ月後に、本能寺で信長が横死すると、上杉景勝が北信に進出し、頼長は上杉氏に服属した。間もなく、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が府中を回復すると、筑北地域は上杉氏・小笠原氏の争奪の場となり、青柳城は麻績城と共に4回に渡って攻防が繰り返された。1587年、頼長は小笠原氏に招かれて、深志城で長子長迪と共に謀殺されると、青柳城は小笠原氏によって没収され、小笠原氏麾下の溝口貞秀が青柳城主に任じられた。その後も上杉・小笠原両勢力の境目の城として機能したが、慶長年間(1596~1615年)に廃城になったと思われる。

 青柳城は、標高904.9m、比高255mの山上に築かれている。城の背後の尾根の付け根まで車道が延びており、また城址公園として整備されているので、訪城は容易である。尾根の先端に主郭を置き、土塁や切岸で区画された二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を連ね、堀切を介して五ノ郭、更に数本の堀切を穿って背後の尾根を遮断し、最後に大きな二重堀切を穿って、城域を分断した連郭式を基本とした縄張りとなっている。三ノ郭は、ちょうど尾根上の曲輪の鞍部に当たり、大手道がここに至っていることから、虎口郭の機能を持たせていた様である。五ノ郭や主郭には石垣が残っており、特に主郭周囲に集中し、高石垣も残っている。現地解説板によればこの高石垣は、武田氏時代のものではなく、戦国最末期の小笠原貞慶時代の構築と見られている。この他、主郭の北尾根と北西尾根に小掘切があり、小郭が置かれている。また城の主要部の南西斜面には帯曲輪群が延々と連なっており、大手道を防御している。また山麓の清長寺は、青柳氏の平時の居館である。
 青柳城は、石垣や大堀切があるものの基本的にはシンプルな縄張りの山城である。遠目にも主郭に立つ松の古木が目立つ城なので、もう8年も前から行こう行こうと思っていた念願の城だったが、期待が大きすぎたのか、少々物足りなく感じられた。
主郭周囲の石垣→IMG_5317.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.431089/138.033407/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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矢倉城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5144.JPG←主郭~二ノ郭間の切岸
 矢倉城は、歴史不詳の城である。一説には、麻績城主服部伊賀守の次男大倉佐渡守が築いたとも伝えられるが、定かではない。麻績川を挟んで麻績古城に相対する位置にあり、また青柳城の方が直線距離で1.7km程と近く、しかも背後の丘陵が繋がっているので、青柳城の支城であった可能性も大いに考えられる。
 矢倉城は、室沢ダムのすぐ西側にそびえる標高728.7mの山稜上に築かれている。長野自動車道下のガードを抜けると、すぐに標柱があり登道が付いているので簡単に登ることができる。城の中心は2段に分かれた平場で、上段が主郭、手前の一段低いのが二ノ郭とされる。主郭は背後に円丘状の櫓台を備え、虚空蔵菩薩が祀られ、三角点が置かれている。主郭と二ノ郭は東半分は切岸のみで区画されるが、西半分は堀切となっている。中央は虎口で、単純な坂虎口となっている。この他、ニノ郭前面の北斜面に数段の腰曲輪群が築かれ、一方、主郭背後の南尾根には3本の堀切が見られる。堀切は、1本目だけがしっかり穿たれているが、他の2本は自然地形にちょっと手を加えた程度のささやかなものである。矢倉城は、小規模かつ普請も不徹底で、堀切は小さく曲輪の削平も全体的に甘い。物見を主眼とした小城砦だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.444416/138.042698/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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安坂城(長野県筑北村) [古城めぐり(長野)]

IMG_5015.JPG←竪堀沿いの登り石垣
 安坂城は、麻績城の支城とされる城である。明確な歴史は必ずしも明確ではないが、麻績長親の次男安坂長国が築いて、以後安坂氏歴代の居城となったが、安坂筑後守の時に武田信玄に攻められて落城。筑後守は、信濃守護小笠原長時に従って中塔城に籠もり、1555年に長時と共に越後の上杉謙信を頼って落ち延びたと言われる。その後、武田氏の部将安藤加賀守が城主となったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長もわずか3ヶ月後に本能寺で横死すると、信濃遺領を巡って小笠原貞慶が奪還に動き、1584年に安坂城は貞慶によって攻め落とされた様である。その後ははっきりしないが、筑北において上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦が続いていることから、使用され続けたものと推測されている。

 安坂城は、標高851m、比高200m程の山上に築かれている。東麓の安坂神社裏から登山道が伸びており、迷うことなく登ることができる。但し、長野に多いキノコ山なので、無用なトラブルを避けるため秋の訪城は避けた方が良い。尾根筋を登っていくと、途中に鳥居の先に大手の曲輪がある。桝形状になっているが、らんまるさんが指摘している通り古墳を切り崩した跡らしく、石室をそのまま枡形に改変している様である。その上に小さな段曲輪と細尾根上の5郭がある。更に登っていくと、岩盤を削って堀切を穿つと共に、岩盤を障壁にした遺構が現れる。ここからが主城部で、山頂の主郭から北東に二ノ郭・三ノ郭を連ね、南東斜面に腰曲輪(4郭)を築いた連郭式の縄張りとなっている。この主城部には石垣が多用されており、特に南面の切岸に集中して築かれている。二ノ郭には南東に枡形虎口が築かれ、虎口付近も石垣で固められている。二ノ郭から主郭に入る枡形虎口も石列で区画されている。ここのちょうど門に当たる位置に建っている石の上面には溝が切ってあり、おそらく「かんぬき」の様なものがあったらしく、極めて珍しい遺構である。主郭背後には低土塁が築かれ、その裏には大きな堀切が穿たれている。ここからは竪堀が長く落ちているが、南東斜面では竪堀沿いに登り石垣まで残っている。これらの石垣群は、おそらく武田氏支配時代の構築であろう。また背後の尾根には更に4つの堀切がほぼ連続して穿たれ、主郭背後のものと合わせて五重堀切となっているが、後の4つは規模が小さい。この他、北西尾根にも幾つかの小郭群と堀切が構築されている。安坂城は、重厚な石垣が多数あり、虎口も総石垣となっていたらしく、小規模な城であるが長野の山城の素晴らしさを堪能できる。本城の麻績古城より、断然オススメである。
主郭門石の溝切り遺構→IMG_5064.JPG
IMG_5030.JPG←主郭・二ノ郭周囲の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.444813/138.061903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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麻績城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4904.JPG←主郭背後の堀切
 麻績城は、この地の豪族服部氏が築いた城である。戦国時代の領主は服部清信で、山麓の古屋敷に居館を構え、その西側に麻績古城(虚空蔵山城)を構え、その守備を補強するために麻績城を築いたと推測されている。1553年、甲斐の武田信玄は苅谷原城、会田氏の虚空蔵山城(中ノ陣城)を破って筑摩北部地方に侵攻し、青柳城の青柳清長を降し、敵対する葛尾城主村上義清に属していた服部清正(清信の子)を麻績より追い払い、その後の麻績には青柳氏を入れて麻績氏を称させた。清正は、塩田城に立て籠もった村上氏の元に奔ったが、塩田城が落城すると村上氏と共に上杉謙信を頼って越後に逃れた。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長も本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃は小田原北条氏・三河徳川氏・越後上杉氏による争奪の場となり(天正壬午の乱)、筑北地方は上杉景勝の領有となって、景勝は旧領主の服部清正を麻績城に復帰させた。しかし信濃府中を奪還した小笠原貞慶が筑北に勢力を伸ばすと、上杉・小笠原両氏の争奪の地となり、服部氏は上杉氏に背いて小笠原氏に内応した。これを知った景勝は麻績城を攻め落として、清正を捕らえて処刑した。その後も抗争は続き、結局小笠原氏の支配下となった。

 麻績城は、麻績宿北方にそびえる標高943mの山稜上に築かれている。登山ルートは2つあるようだが、北西麓の搦手ルートが登頂比高も低く、早く登ることができる。直線上に配置された大きく4つの曲輪から成る連郭式の縄張りで、それぞれの曲輪を堀切で分断している。しかし三ノ郭も四ノ郭も、細尾根上の狭小な曲輪に過ぎない。二ノ郭に至ってようやく多少の広さを持つ。主郭は城内最大の面積を持つが、せいぜい小屋掛けが数棟あった程度の広さである。主郭の前面・側方には腰曲輪・帯曲輪が数段廻らされ、一部には小竪堀が落ちている。堀切については、主郭背後のものはしっかり普請されているが、それ以外のものは整形があまりしっかりしておらず、特に四ノ郭手前のものはわずかな窪地のようにしか見えない。しかしそれでも、全体としてははっきり城跡と分かる程度に普請はしっかりしている。一部の城郭関連サイトで「遺構にがっかり」と記載されていたのであまり期待していなかったが、これだけしっかりしていれば私的には十分である。これで不満足なようだと、秩父の小さな山城などとても行けないだろう。天険の浦山城など、比高400mも登ってささやかな遺構だけである。
 尚、この麻績城を新城とし、麻績古城を古い形態の城のように『日本城郭大系』では記載しているが、遺構を見ると戦国後期に主城であったのは麻績古城の方であるのは明らかである。あくまで麻績城は、天険に頼った最後の逃げ込み城の位置付けだったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.467767/138.044350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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麻績古城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4792.JPG←主郭背後の大堀切
 麻績古城は、虚空蔵山城とも呼ばれ、この地の地頭服部氏の居城であったと言われている。『市河文書』によれば、南北朝期の1335年に生起した中先代の乱が足利尊氏によって鎮圧された後、翌年2月に府中の在庁官人の深志介知光が、北条泰家(時興とも。最後の得宗北条高時の弟)に味方して挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗、村上信貞らと麻績十日市場・麻績御厨で戦っているが、この時拠点としたのがこの城のことであろうと推測されている様である(『日本城郭大系』)。ちなみにこの時期は、既に第1回目の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州へ落ち延びる時に当たり、国内の政治情勢が極めて複雑・流動的であったことを物語る。その後の城の歴史ははっきりしないが、戦国期には武田氏・小笠原氏・上杉氏の争奪の場となっているが、それが麻績城のことなのか、麻績古城のことなのか、はっきりしない。

 麻績古城は、法善寺背後の標高780m、比高145mのピーク上に築かれている。背後の山稜には麻績城がそびえている。基本的には主郭・二ノ郭2つの曲輪で構成されており、主郭の南東・南西と二ノ郭の東に伸びる支尾根に段曲輪群を築いた、比較的簡素な構造となっている。特筆すべきは石垣と堀切で、まず主郭の虎口付近と南西の切岸に小規模だが石垣が築かれている。腰曲輪の一部にも石が散乱しているので、もっと石垣は多かったのだろう。堀切は、長野の山城らしく規模が大きいもので、主郭背後のものは特に切岸が高くそびえており、雄大である。二ノ郭背後には変則的な二重堀切があり、中間土塁は東側にだけ築かれている。その下方は平場となっている。この他、二ノ郭側方には帯曲輪が築かれ、主郭堀切の堀底と繋がっている。主郭には比較的規模の大きな土塁が背面に築かれている。決して規模の大きな城ではないが、大堀切や石垣などを考えると武田氏あたりによる戦国期の改修が推測されることから、新城とされる麻績城よりもこの麻績古城の方が戦国期には本城として使用されたことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.463643/138.044565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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大倉城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3594.JPG←五重堀切の一部
 大倉城は、織田軍による善光寺一揆弾圧の舞台となった城である。元々は鎌倉時代の寛元年間(1243~46年)に小笠原信濃守長清が築城し、その9男長澄がこの地に分封されて大倉氏を称したと伝えられるが詳細は不明。確実なのは戦国時代からで、1513年頃には築城されていたらしい。上杉・武田両軍が争った川中島合戦の頃には、長沼島津氏の持ち城で、島津氏は長沼館(後の長沼城)を本拠とし、詰城の大倉城、大倉城の出城として手子塚城を領有して千曲川西岸一帯を支配していたと考えられている。1557年に葛山城が武田勢に攻め落とされると、上杉方の島津月下斎(貞忠)らは大倉城に撤退した。その後、善光寺平が武田氏の支配下となり、長沼城を奪われると、逐われた島津氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、大倉城は一旦廃城となった。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡すると、川中島4郡は海津城に入った森長可の支配下となったが、その翌月にはその支配に反対する土豪・地侍層が、上杉景勝と手を結んだ芋川親正を大将として善光寺一揆を組織して蜂起し、飯山城を占拠し、長沼城を攻撃した。しかし間もなく織田勢が反撃に転じて飯山・長沼両城を確保すると、親正ら兵8000は大倉古城を再築して立て籠もった。長可の軍勢は大倉城を攻撃し、激戦の末に短時日で落城させた。この時、城兵はもちろん、女子供まで撫で斬りにし、更に逃亡した百姓は人質を取って還住させ、労働力の確保を図ったと『信長公記』に記載されている。

 大倉城は、鳥居川北岸にそびえる標高450m、比高95mの丘陵先端部に築かれている。連郭式を基本とした、比較的シンプルな縄張りの城で、山頂の主郭とその北側に土塁状の土橋で接続された井戸曲輪を有し、主郭前面には堀切を挟んで二ノ郭・三ノ郭を連ねている。二ノ郭は4段程に分かれ、最上段は物見台であったと考えられる。2段目には石積みも見られる。主郭や二ノ郭の側方部も石垣があるようだが、藪ではっきりしない。三ノ郭の前面も堀切を挟んで小郭があり、その前にも堀切が穿たれている。その先は採土によって失われているが、以前は段曲輪群があったらしい。この城の見所は、前述の井戸曲輪の西尾根に穿たれた五重堀切で、殊に1本目と5本目は圧巻の巨大堀切となっている。5本目の堀切は長い竪堀となって落ちており、見応えがある。更に西の尾根を辿ると、細尾根の曲輪の先にやはり大堀切が穿たれて背後を分断している。大倉城は、石積みは少ないが、尾根筋の分断を強く意識しており、臨戦的な縄張りである。
三ノ郭から見た曲輪群→IMG_3522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733657/138.282831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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髻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3352.JPG←腰曲輪に残る石垣
 髻山城は、戦国時代に上杉甲越両軍の抗争の場となった善光寺平の北端の要害である。上杉謙信による築城と伝えられ、城の東側には中世の主要道路(神代坂)が通っており、野尻城・飯山城から横山城への進軍ルートを結ぶ中継点であった。1561年の第4次川中島合戦では、上杉方の武将宇佐美定行が立て籠もって武田勢と戦ったとも伝えられているが、定行自体の実在が疑わしいので(一般的には、宇佐美定満をモデルにした架空の武将とされる)何とも言い難いが、上杉勢が後方支援部隊或いは予備兵力を控えとして置いていたぐらいはあったであろう。第4次川中島合戦の後は、武田氏が善光寺平をほぼ手中に収め、髻山城も武田方の持ち城となったらしい。これは1564年9月、謙信の重臣直江実綱が堀江宗親・岩船長忠両氏に宛てた書状の中に「敵もとどり山へ小旗4・5本にて、毎日武具致すよし候」とあり、武田方の利用が確認されている事による。長沼城が築城されて以降、髻山城は特に重視されたものと考えられ、1582年の武田氏滅亡後に川中島4郡を支配した上杉景勝にも利用されたと推測されている。

 髻山城は、北国街道の西側にそびえる標高744.4mの山上に築かれている。城は大きく3つの区域から成っている。中心は山頂の主郭を含む主城部で、楕円形をした土塁で囲まれた主郭と東面から北面・西面にかけて廻らされた数段の腰曲輪で構成されている。主郭には東西に虎口があるが、東虎口は腰曲輪に繋がっているが、その先は藪が多く、腰曲輪の形状をはっきり捉えることができない。西虎口は石垣を備えて防御しており、大手と推測される。北に降って2段目の腰曲輪はカタクリの群生地になっており、踏み荒らさないよう注意が必要である。この腰曲輪を奥に行くと、北東角の切岸にもわずかに石垣が確認できる。一方、主郭から西に降っていくと、独立した物見台が屹立している。ここから更に降ったところに2つ目の区域の遺構が現れる。扇状に緩斜面に帯曲輪群を連ね、その外周を竪堀・横堀で防御した区画で、特に最下段の横堀はしっかりと穿たれており、下方からの敵の接近を阻止する塹壕として機能していたことがわかる。謙信が馬を隠したという言い伝えから、「馬隠し」と呼ばれているらしい。3つ目の区域は北斜面にあり、ここにも横堀・竪堀がL字状に穿たれている。ここは藪が多いので未踏査だが、明確な曲輪はあまり無い様だ。一方、主郭の東側はかなり荒れており、斜面が崩落している様である。どうも採石場の跡らしく、崩れた石がゴロゴロし、切り立った崖に阻まれている。髻山城は、大きな城でもなく、また技巧性も無い縄張りなので、あくまで中継点の砦と言った趣である。尚、この城には北東麓から登るのが正で、私は間違って崩落した東斜面からアプローチしてしまい、大変な目に遭った。
馬隠しと呼ばれる横堀→IMG_3457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.720345/138.243477/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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髻山城の小城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3289.JPG←主郭付近の竪石垣
 髻山城の小城は、髻山城の出城である。いつ築かれたかは不明であるが、髻山城が5度に渡る川中島合戦の中で、上杉・武田両軍の進出中継点となっていることから、本城と同じ頃か、或いは争奪の過程で防衛機能を強化するために追造された可能性が考えられる。
 髻山城の小城は、髻山城南東の標高640mの円丘上に築かれている。北西斜面を直登するしかないが、明確な遺構には乏しく、山頂の主郭と南の腰曲輪ぐらいしかはっきりしていない。主郭も荒れており、砕石がゴロゴロしていて、石垣が崩されたのか、森林伐採などで掘り起こされたのかもはっきりしない。竪石垣も見られるが、近世には畑になってもいたらしいので、遺構かどうか明瞭ではない。一番明確なのは前述の南斜面の腰曲輪で、上から見るとはっきり削平された曲輪となっており、明確に遺構と考えられる。登ってきた北西斜面にも小さな切岸で区画された平場が見られるが、こちらは耕地化に伴うものである可能性がある。結局、かなり消化不良気味の遺構で、砦ぐらいはあったことは間違いないが、それ以上積極的な普請もされていないように見受けられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.717782/138.246138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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若槻山城の番所(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3229.JPG←背後の尾根の四重堀切
 若槻山城の番所は、若槻山城から比高で100m程登った尾根上に築かれた物見の砦である。やや離れた2つの曲輪で構成され、手前のものが主郭らしく、外周を土塁で囲んだ狭小な曲輪で、摺鉢の様な形状になっている。背後には堀切が穿たれ、尾根を暫く進むと前面に堀切を穿ち、後部に土塁を築いた二ノ郭に至る。二ノ郭も小さい曲輪であるが、圧巻なのはその背後の尾根で、規模の大きな四重堀切が穿たれている。曲輪自体はいかにも物見の砦という規模であるが、この多重堀切は見事で、本城の若槻山城より見応えがある。2つの曲輪があるのは、手前が元々の主郭で単郭の砦であったものを、その後に上杉か武田によって背後の曲輪と堀切を拡張したものだろうか?いろいろと興味が尽きない遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.700236/138.212106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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若槻山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3250.JPG←主郭前面に連なる曲輪群
 若槻山城は、平地の平城(若槻里城)と一体となった山城(詰城)で、八幡太郎源義家の孫若槻頼隆が鎌倉時代初期にこの地に入部し、若槻氏を称して山城・平城を築いたと言われている。室町時代になると若槻氏は高梨氏に属し、1392年には若槻本庄が高梨氏一族の知行地となっており、若槻山城は高梨氏の要害になっていたと考えられる。大塔合戦の後の1404年には、信濃守護代細川慈忠の入国に高梨氏と共に抵抗し、若槻城は幕府方の市川氏幸らに攻められて落城した。戦国時代に入り、善光寺平が武田信玄・上杉謙信の抗争の場となると、若槻山城は上杉方によって整備されたと推測され、1564年に川中島の戦いが終結するまで、甲越両軍による争奪戦が繰り返された。

 若槻山城は、三登山支峰の標高675mの城の峰に築かれている。城のすぐ下まで車道が来ており、登山道も整備されているので訪城は容易である。多数の段曲輪群で構成された城で、土塁で囲まれた山頂の主郭の前面に5~6段の主要な曲輪群を配し、堀切を挟んでその前面に小規模な段曲輪群を連ねている。前述の主要な曲輪の側方には竪土塁を築いて、上下の曲輪間の導線を確保すると共に側方からの侵入に対する防御を固めている。主郭前面の虎口は2ヶ所にあり、一つは二ノ郭から虎口小郭を経由して登る東ルート、もう一つは竪土塁を伝って虎口小郭を経由する変則的な枡形虎口の南ルートである。南の虎口の脇には腰曲輪まで分断する竪堀が穿たれている。主郭の背後は二重堀切で尾根を分断しているが、2本目は浅いものである。更に後部を防衛する外郭があって、その背後も堀切で防御している。これらの背後の尾根筋に穿たれた堀切はいずれも長い竪堀となって落ちている。その他にも小規模な竪堀が数ヶ所見受けられる。遺構はよく残っており、長野の山らしくきれいに整備されているので美しい城だが、技巧性にはやや乏しい。しかし城域はそこそこの広さがあり、善光寺平争奪戦の中で重要な役割を担った城であることは伺える。
主郭背後の堀切→IMG_3154.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.697638/138.213308/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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堂沢出城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2973.JPG←主郭背後の隅櫓台
 堂沢出城は、歴史不詳の城である。平成15 年5月9日、若槻小学校6 年1 組の児童36名が若槻山城探訪の帰り道で、山道脇の小高い段丘上の遺構を偶然発見した。城の背後の山稜には若槻山城、麓の平地には若槻里城があることから、これらと密接に関連した出城であろうと推測されている。
 堂沢出城は、標高540mの山稜中腹に築かれている。単純な構造の城で、平坦な円形の主郭とその下段の舌状の二ノ郭、その前面の腰曲輪から成っている。主郭の北面・西面は土塁が築かれ、北西角は隅櫓台となっている。土塁の背後に、L字に空堀が穿たれているが、小規模なもので、大した防御性はなかったように思われる。この他、主郭の南東に二ノ郭の端部が張り出して物見台となっている。以上の様に、比較的ささやかな遺構であるが、普請の跡はしっかり残っている。それにしてもこれを発見した小学生はエライ!城郭遺構と見抜いた眼力は大したものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.694851/138.217106/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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小柴見城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2876.JPG←僅かに残る二重堀切の一部
 小柴見城は、歴史不詳の城である。城の歴史には二説あり、一つは室町時代に平芝にあった守護所の詰城であったという説、もう一つはこの地の土豪小柴見氏の城であったという説である。平芝守護所の詰城説については、旭城の項に記載する。一方、小柴見氏については、吉窪城を詰城としていた小田切氏に属していたらしく、東北信の国人衆が信濃守護小笠原氏に反抗して戦った1400年の大塔合戦では、小柴見氏は国人衆側の小田切氏の麾下で参戦していたと考えられている。時代は下って1557年、武田軍が葛山城を攻撃した時には、落合氏、小田切氏等は籠城して討死した。しかし『甲陽軍鑑』によれば、小柴見宮内は武田氏に降ったが、1562年に上杉氏に内応したため、武田氏によって成敗されたと言う。しかし小柴見城がどうなっていたかは不明である。

 小柴見城は、旭山山麓の比高50m程の丘陵上に築かれている。城の主要部には夏目ヶ原浄水場が建設されており、かなり破壊を受けているが、城の南端部分だけ遺構を残している。城の主要部が失われているので、どこが主郭であったかも明確ではないが、仮に南端の曲輪が主郭であったとすると、背後に土塁を築いて防御し、その後ろに二重堀切を穿って分断していたらしい。現在この二重堀切は車道建設で破壊されているが、辛うじて1本目の堀切と中間土塁まで残存している。主郭前面には土塁らしき土盛りが確認できるが、主郭内は畑になっている為、耕地化に伴う改変の可能性もある。主郭の南側から東側にかけて、前面を防御する腰曲輪群が残っており、また前述の二重堀切の西側側方にも馬蹄段の腰曲輪が確認できる。遺構は以上の通りで、残っている遺構が僅かなのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.646764/138.174877/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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旭城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2842.JPG←竪堀となって落ちる堀切
 旭城は、大黒山城とも言い、歴史不詳の城である。旭城のある地域は平柴と呼ばれ、1387年に室町幕府から斯波義種が信濃守護に任命されると、それに反抗した村上中務大輔入道(頼国)、小笠原信濃入道(清順)、高梨薩摩守(頼高)、長沼太郎等の国人衆が、平柴にあった守護所を攻めた事が伝わっている。これは、旭山城・旭城・小柴見城といった旭山に築かれた山城のいずれかが守護所の詰城となっていて、戦場となったと推測されている。1446年には信濃守護小笠原氏の家督をめぐって内紛が起き、小笠原宗康と小笠原長持が「漆田原・大黒塚」で戦った。この「大黒塚」が旭城のことと考えられており、守護所に関連する城郭であったらしいことが推測されている。その後は不明であるが、戦国中期の甲越両軍による旭山城をめぐる戦いでは、その中腹に位置する旭城も争乱の対象となったのではないかと考えられている。

 旭城は、旭山の東斜面の中腹の標高540mの小ピーク上に築かれている。頭上には旭山城がそびえ、眼下には小柴見城がある。堀切で城域を大きく南北に二分割しており、南の最高所に主郭を置いている。主郭には左近稲荷神社が鎮座しており、南斜面に登り道が付いている。主郭の東と南に腰曲輪が築かれ、北西部には堀切に向かって枡形虎口が築かれている。ここには石積みが残っている。堀切は、東西に長い竪堀となって落ちている。堀切の北側は二ノ郭群が広がっている。二ノ郭群は幾つもの平場で構成されており、最高所は古墳をそのまま物見台として転用している。古墳の石室が地表に現れている。北斜面や東斜面に切岸で区画された曲輪を築いており、特に東斜面の下方の腰曲輪には、隅櫓台が2ヶ所に確認できる。二ノ郭群は緩斜面をそのまま利用したようなところがあるが、削平や切岸ははっきりしているので、それ相応の普請はされている。また、切岸部分に石積みが散在しており、位置的に城の構造に合致するのでおそらく遺構と思われる(近世の耕地化による土留の石積みの可能性もある)。旭城は、大きな城ではなく縄張りの技巧性も見られないが、軍団の駐屯には適した平場群が残っており、旭山城に援軍として派遣された武田軍がここに駐屯した可能性は確かに考えられる。
櫓台を備えた腰曲輪→IMG_2813.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.651825/138.170886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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旭山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2558.JPG←大竪堀と両翼の腰曲輪群
 旭山城は、善光寺平に進出した武田信玄が築いた防衛拠点の山城である。元々この地には、善光寺別当の栗田氏の詰城があったものと推測されている。1553年の第1次川中島合戦で、占領して間もない北信濃を、進撃してきた上杉謙信(当時は長尾景虎)にあっという間に侵攻された信玄(当時は晴信)は、上杉勢の南下を阻止する防衛拠点として旭山城を構築した。そして1555年、栗田氏の内部分裂を利用して栗田鶴寿を調略し、善光寺平の南半分を武田氏の勢力下に置くと共に、栗田氏を旭山城に籠城させた。そして3000と言われる増援兵を旭山城に派遣して、上杉軍の侵攻に備えさせた。この動きに対し、謙信は4月に善光寺平奪回の為に出陣し、横山城に本陣を置いた。また信玄も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。謙信は、旭山城の動きを封殺するため、旭山城の目と鼻の先にある葛山城を整備・拡大して、落合備中守一族や小田切駿河守幸長らを籠らせた。その効果は絶大で、旭山城は動きを封じられ、旭山城・葛山城の対峙が両軍の作戦計画を大いに掣肘し、両軍共に膠着状態となって、200日に渡る長期対陣となった。この間、両軍共に兵站や士気の低下に苦しみ、駿河の今川義元の仲介で和睦した。この和睦は、武田方の旭山城の破却、上杉氏を頼った北信の国人衆の本領復帰など、特に兵糧確保に苦しんだ武田方に不利なものであったが、信玄はこれを守る気はなく、翌年から水面下で上杉方の切り崩しを図った。その上で1557年2月、雪で上杉勢が出陣できない時期を見計らい、信玄は馬場美濃守信房に命じて大軍で葛山城を急襲させた。武田勢は水の手を断ち、城に火をかけて落城させた。信玄の調停違反に激怒した謙信は、雪解けを待って善光寺平に進撃し、4月25日に破却された旭山城を再興して、ここに本陣を置いた。しかし甲越両軍の直接対決は見られず、謙信は9月に陣を払って帰国した(第3次川中島合戦)。その後の旭山城についての消息は伝わっていないが、第4次川中島合戦を通して武田方が善光寺平をほぼ手中に収めると、旭山城も再び武田氏の勢力下に入った。1564年の第5次川中島合戦では、上杉方の勢力圏は大きく北に後退しており、武田勢は善光寺平最北端の髻山城付近まで進出した。上杉方は、水内・高井両郡境から旭山方面に威力偵察を行った。しかしこの頃には、戦略拠点の主役は海津城長沼城に移っており、旭山城の戦略的重要性は既に薄れていたと思われる。1582年の織田信長による武田征伐でも旭山城・葛山城共に歴史に現れず、既に廃城になっていたものと思われる。

 旭山城は、信濃善光寺の西南西にそびえる標高785m、比高415mの峻険な旭山に築かれている。麓から歩いて登ったら大変な高さであるが、幸い南の中腹まで車道が延びているので、150m程の登りで済む。山頂の、低土塁で囲まれたほぼ方形の主郭を中心に、東と北に伸びる尾根に曲輪を配し、南西の尾根にも出曲輪を配している。主要な曲輪は堀切で分断され、竪堀も効果的に配されている。中でも主郭背後の堀切は、そのまま南北の斜面に大竪堀となって落ちており、南西面ではその大竪堀の両側に腰曲輪群を何段も配置して、竪堀を登ってくる敵兵を迎撃できるようにしている。そして、主郭を始め南西側の腰曲輪群、堀切を挟んだ南曲輪には石垣が築かれており、尾根続きの南側への防御を固めている。これらの石垣群は故意に崩された形跡が明瞭で、明らかに破却の跡を残している。腰曲輪の中に石列が残っている部分もある。東の尾根へは、3本の堀切を介して二ノ郭以下の曲輪が連なっており、先端は善光寺平を一望できる物見を兼ねた曲輪となっている。南西端の出曲輪にも櫓台が築かれている。主郭周りには何段も腰曲輪が築かれているので、石垣群と相まって防備は厳重である。葛山城などと比べると普通の規模の山城で、多数の兵を置けるほどの広さはないが、厳重な防御構造を備えた遺構が堪能できる。
主郭に残る石垣→IMG_2574.JPG
IMG_2475.JPG←南曲輪の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.654270/138.163118/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茶臼山陣場(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2418.JPG←石碑と旗塚のある陣場跡
 茶臼山陣場は、第4次川中島合戦の際に、川中島に着陣した武田信玄が最初に本陣を置いた陣場である。1561年8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて川中島に出陣し、犀川と千曲川を渡って海津城を見下ろす妻女山に本陣を置いた。その急報を狼煙の伝達で受けた信玄は直ちに躑躅ヶ崎館から出陣し、途中信濃の兵も合わせて総勢1万8千の軍を率いて川中島の西方の茶臼山に本陣を構え、雨宮の渡しを中心に軍を展開し、謙信の退路を断つ態勢に出た。しかし上杉方に動きは見られず、10日以上両軍の睨み合いが続いた末、信玄は茶臼山を降りて海津城に全軍を集結させた。そこで軍議を行い、山本勘助の献策を容れて決めたのが、史上名高い啄木鳥戦法であった。これ以降の戦いの推移は川中島古戦場の項に記載する。

 茶臼山陣場は、標高729.9mの茶臼山の、南西の小ピークに置かれたと伝えられている。往時は北峰と南峰があったが、大正時代に地滑りが発生して南峰がなくなったらしい。伝承からすると、この消失した南峰付近に本陣が置かれたのだろう。地形が変わっているので、想像だけの話になるが本陣跡の南側から西側にかけては、緩やかな斜面が広がっており、信玄直率の軍団を斜面上に広く展開させたものだろう。明確な遺構はほとんどないが、小ピークの近くには本陣跡の石碑が建ち、その脇には旗塚とされる土盛りが残っている。相当な高地で、川中島全域を一望のもとに見渡せ、正面には妻女山やその後背の川中島城砦群を遠望できる。車で登ってくるだけでも時間がかかるので、いくら眺望に優れた高地の争奪戦が重要とはいえ、わざわざ軍を率いてこんな高所まで登るのかと、圧倒される。尚、訪問したのが4月中旬で、長野の遅咲きの桜が満開で美しかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592445/138.105998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣城
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妻女山陣場(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

DSC05405.JPG←妻女山陣場の現況
(2012年4月訪問)
 妻女山陣場は、第4次川中島合戦の際に、川中島に着陣した上杉謙信が本陣を置いた陣場である。1561年8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて川中島に出陣し、犀川と千曲川を渡って海津城を見下ろす妻女山に本陣を置いた。その急報を狼煙の伝達で受けた信玄は直ちに躑躅ヶ崎館から出陣し、途中信濃の兵も合わせて総勢1万8千の軍を率いて川中島の西方の茶臼山に本陣を構え、雨宮の渡しを中心に軍を展開し、謙信の退路を断つ態勢に出た。しかし上杉方に動きは見られず、10日以上両軍の睨み合いが続いた末、信玄は茶臼山を降りて海津城に全軍を集結させた。そこで軍議を行い、山本勘助の献策を容れて決めたのが、史上名高い啄木鳥戦法であった。即ち、武田勢の別働隊に妻女山背後から奇襲攻撃を行わせ、押されて妻女山を降りた上杉勢を八幡原で待ち受ける武田勢本軍が迎え撃ち、挟み撃ちにするという作戦であったとされる。しかし奇襲の前夜、海津城から立ち上る多数の炊煙を見た謙信は、武田勢の動きを察知し、夜陰に紛れて密かに妻女山を降り、千曲川を夜間渡渉して武田勢本軍の正面に全軍を布陣した。明朝、八幡原に濃く垂れ込めていた霧が朝日と共に徐々に晴れてくると、武田勢の前には整然と並んだ上杉勢の大軍が姿を現した・・・。これ以降の戦いの推移は川中島古戦場の項に記載する。

 妻女山陣場は、天城城の北に伸びる尾根の先端部、標高411m、比高61mの妻女山にある。山上は公園になっており、車道も整備されているので簡単に訪問することができる。山の上はただの平場になっており、招魂社や石碑が建っている。北端近くに土壇があり、宮坂武男氏は『信濃の山城と館』の中で謙信の床机場ではないかと推測している。しかし現地の地勢などを見ると甲陽軍鑑の伝える合戦の有様には疑問が多く、そのまま鵜呑みにできるものではない。従って本当に謙信がここに本陣を置いたのかも、未だに実証はされていない。しかし登り道の途中には、鎗先の清水、鞍掛松、槍尻の泉など謙信にまつわる史跡も残っており、謙信の伝説が色濃く残っている場所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561531/138.171401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣城
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桝形城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2286.JPG←虎口の櫓台、左側は竪堀
 桝形城は、歴史不詳の城である。周囲の山々には旭山城葛山城大峰城若槻山城等があることから、武田・上杉両氏の川中島における攻防に関わった城と推測されている。一説には、1557年の武田勢による葛山城攻撃の際に、武田軍がこの付近に陣を張ったとも言われ、それとの関連も指摘されている。

 桝形城は、地附山北東の標高706mの小ピークに築かれた城である。すぐ南を戸隠バードラインという道路が通っているのだが、昭和60年に発生した地附山の地滑りで廃道となっており、大峰山の閉ざされたゲートから延々と歩かないと城まで到達することができない。しかし城自体はハイキングコースとして現在でも整備されている。大きな主郭と、その南の谷戸を挟んで高台となった横長の二ノ郭から成る、比較的小規模な城だが、構造はかなり複雑である。まず二ノ郭は南側を空堀で分断しているが、幾重にも塁線を折れ曲げて横矢を掛けた構造で、二ノ郭自体も南側を土塁で囲んで防衛しており、この付近では類例の少ない造りである。主郭との間の谷戸には中間に低土塁が築かれ、斜面に手を加えて堀切としているが、あまり鋭さはない。一方、主郭周囲は複雑で、谷戸から主郭に至る虎口は横堀・竪堀を複雑に組み合わせて幾重にも折れ曲げた動線とし櫓台も築いている。また西側の横堀北端をほぼ直角に曲げて竪堀で落とすなどの技法も見られる。主郭の北斜面にも腰曲輪があり、その下方にも竪堀状虎口で繋がった曲輪群が広がっている。以上の様に、桝形城は規模の小さな城であるが、かなり技巧的な築城技術が投入されていて見応えがある。
 尚、信州の城巡りには欠かせない宮坂武男氏の縄張図であるが、結構遺構の見落としが多いことに気付いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.681808/138.189425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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大峰城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2078.JPG←堀切から直角に落ちる竪堀
 大峰城は、歴史不詳の城である。伝承では大峰某の居城であったと言われるが、この大峰氏についても、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人とか、村上氏幕下の大嶺大内蔵など諸説ある。いずれにしても有力な説としては、葛山城と同じく武田方の旭山城に対する向城として上杉方が築いた山城とされ、両者による川中島合戦に際して上杉方の城砦の一つとして利用されたものと考えられている。

 大峰城は、葛山城の北東にそびえる標高828mの大峰山に築かれている。主郭には模擬天守(現在は閉鎖)が建ち、車道が整備されているので、簡単に登ることができる。幸いなことに破壊は主郭のみに限定されており、その他の遺構はほぼ完存している。主要な曲輪は4つあり、尾根の南東端に主郭、その南側に一段下がって二ノ郭、主郭の北西の尾根筋にそれぞれ堀切を介して三ノ郭・四ノ郭が続いている。主郭は北と西の2面に土塁が残っているが、模擬天守建設のためどこまで遺構を残しているかは不明。特に二ノ郭からの登り道は相当改変されている様に感じられる。主郭の北側斜面には2段の腰曲輪があり、腰曲輪間の斜面にはあまりはっきりしないが竪堀群があるとされている。この腰曲輪はいずれも主郭背後の堀切に通じており、特に上段の腰曲輪では堀切に向かって虎口を設けていて、城内通路を兼ねた堀であったことがわかる。これと段をズラした形で堀切の向かいに三ノ郭北側の腰曲輪が築かれている。一方、駐車場となった二ノ郭の南側にも土塁を備えた腰曲輪があり、その下方は大きな堀切で南に降る尾根を分断している。この堀切は、西側で直角に折れ曲がって竪堀となって落ちている。堀切の前面にも幾重にも腰曲輪群が築かれている。これら以外に、大峰城には北の830mの円丘状のピークに給水施設が建った外郭があり、斜面を横に走る横堀が北西と南東に数本穿たれている。大峰城は、堀切から落ちる長い竪堀が特徴であるが、葛山城などと比べると小じんまりした印象で、後方支援的な使われ方をしたのではないかと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.675544/138.176765/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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郷路山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1999.JPG←L字状の土塁
 郷路山城は、葛山城の出城である。葛山城から南東に伸びる尾根の先の広い緩斜面(郷路山)に築かれている。はっきりした遺構としては葛山城との間を分断する尾根上の堀切と、緩斜面に築かれたL字の土塁と空堀だけである。頼朝山砦と同じくささやかな規模の遺構であるが、土塁で区画した平場があることから、物見や監視の砦というよりは兵糧などの倉が置かれたのではないだろうか。位置的に上杉謙信が本陣を置いた横山城と葛山城を結ぶ直線上に位置していることから、武田方に奪われない様に軍需物資を山上に蓄積したのではないかと、個人的に推測している。
 尚、郷路山城の名は『軍事分析 戦国の城』(学研)に記載されているので、それに依拠した。宮坂武男氏の『信濃の山城と館』では葛山城の一郭として縄張図に記載している。位置的にも葛山城からの独立性が高いことから、ここでは郷路山城として取り扱った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.667421/138.173397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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葛山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1748.JPG←主郭~二ノ郭間の二重堀切
 葛山城は、越後の上杉謙信が第2次川中島合戦の対陣の際に築いた巨大城郭である。元は葛山衆と呼ばれる在地土豪落合氏の城砦があったと考えられている。1555年、前年に甲相駿三国同盟を成立させて後顧の憂いをなくした甲斐の武田信玄(当時は晴信)は、信濃国善光寺の別当栗田氏の内部分裂を利用して栗田鶴寿を調略し、善光寺平の南半分を武田氏の勢力下に置いた。これを受けて上杉謙信(当時は長尾景虎)は4月に善光寺平奪回の為に出陣し、横山城に本陣を置いた。一方武田方は3000の増援兵と共に旭山城に立て籠もり、信玄も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。謙信は、旭山城の動きを封殺するため、旭山城の目と鼻の先にある葛山城を整備・拡大して、落合備中守一族や小田切駿河守幸長らを籠らせた。その効果は絶大で、旭山城は動きを封じられ、旭山城・葛山城の対峙が両軍の作戦計画を大いに掣肘し、両軍共に膠着状態となって、200日に渡る長期対陣となった。この間、両軍共に兵站や士気の低下に苦しみ、駿河の今川義元の仲介で和睦した。この和睦は、武田方の旭山城の破却、上杉氏を頼った北信の国人衆の本領復帰など、特に兵糧確保に苦しんだ武田方に不利なものであったが、信玄はこれを守る気はなく、翌年から水面下で上杉方の切り崩しを図った。その上で1557年2月、雪で上杉勢が出陣できない時期を見計らい、信玄は馬場美濃守信房に命じて大軍で葛山城を急襲させた。武田勢は水の手を断ち、城に火をかけて落城させた。城主落合備中守・小田切駿河守らは奮戦したが、葛山衆の城兵もろとも討死した。上杉方の島津月下斎らは大倉城に撤退した。降伏した葛山衆は、武田氏によって再編成され、長沼城の管理下に置かれた。

 葛山城は、善光寺北西の山塊にそびえる標高812m、比高412mの葛山に築かれている。両雄の激突を制した城だけあって、広大な城域を有した巨大な山城である。城域の中心に主郭を置き、その西側に二重堀切を介して二ノ郭、更に一段低く三ノ郭がある。二ノ郭は更に中間に小掘切を穿って2段に分かれ、三ノ郭も2段の平場に分かれている。二ノ郭・三ノ郭の北側斜面には帯曲輪が何段も築かれている。三ノ郭西側の尾根筋にも段曲輪群が延々と築かれており、ざっと数えたところ、少なくとも19段以上の段曲輪が確認でき、下方に1ヶ所小掘切も穿たれている。一方、主郭の北に伸びる尾根にも曲輪群が延々と連なり、途中堀切や横堀で防御されている。最北の北出曲輪は二重堀切の先にあり、三段ほどに区画された細長い曲輪で、城内で最も広い面積を有し、櫓台らしい土壇も残っている。主郭の東側の尾根は、この城の最も特徴的な空間で、二重堀切を介して東側の広い尾根を切り刻んだ畝状阻塞(連続空堀)が構築されている。笹藪でわかりにくい部分もあるが、6~7本の堀か穿たれている。類似した例は上野松井田城にも見られる。普通には、東尾根からの武田勢の接近を阻止する塹壕であったと解されているが、武田氏による破城の跡とする意見もある。その東に腰曲輪があり、北東の尾根に堀切や竪土塁などの遺構があるらしいが、藪がひどく確認できない。腰曲輪の東の尾根は山道が通っており数本の堀切や竪土塁、腰曲輪などが構築されている。この他、前述の畝状阻塞の南斜面には、多数の帯曲輪や竪堀郡が築かれていて、葛山への登り道から見ることができる。途中には竪堀と連携した木戸口もある。尚、葛山城の曲輪には東の腰曲輪を除き、全く土塁が築かれていないのも特徴的である。
 伝わっている歴史からすると、葛山城はこれらの遺構の大部分を武田勢との対陣の中で短期間に構築したものと推測され、敵前築城の勢いの凄さを思い知らされる。
東尾根の畝状阻塞→IMG_1897.JPG
IMG_1676.JPG←南斜面の竪堀群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.670966/138.166659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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頼朝山砦(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1658.JPG←腰曲輪から見た主郭
 頼朝山砦は、葛山城の出城である。歴史等は伝わっていないが、葛山城の南の支尾根の先端に位置し、目の前には武田信玄が築城した旭山城がそびえていることから、旭山城に拠る武田方の動向を監視すると同時に南を通過する間道を押さえる役目を負っていたことは疑いがない。

 頼朝山砦は、葛山城の南の支尾根の先端部、標高644.4mの頼朝山に築かれた小城砦である。頼朝山の名は、1197年に源頼朝が善光寺に参詣した際に、静松寺に田地山林を寄進したことに因むと言う。ほぼ単郭に近い小規模な砦で、ほぼ方形の主郭には八幡社が鎮座している。主郭の周りは高さ1.5m程の切岸で区画された腰曲輪が取り巻いている。葛山城に繋がる北尾根に細尾根上の曲輪が繋がり、ささやかな規模の堀切を介して北斜面上の段曲輪に至り、尾根の鞍部を堀切状に加工している。いずれにしても普請はささやかなもので、あくまで旭山城を拠点に葛山城を南方から攻撃する武田勢を監視する砦としてのみ機能したことを伺わせる。
眼前にそびえる旭山城→IMG_1655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.664667/138.167260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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高梨氏館(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

DSC04344.JPG←発掘された庭園跡
 高梨氏館は、中野小館とも言い、北信の豪族高梨氏の居館である。元々鎌倉時代には中野氏がこの地を支配していたが、南北朝時代になると信濃源氏井上氏の庶流高梨氏が北朝方として活躍し、中野氏を追い落として勢力を拡大し、その過程でこの居館と詰城の鴨ヶ嶽城を築いたと考えられている。戦国時代に武田信玄が北信に侵攻すると、高梨氏はかねてより親交の深かった上杉謙信を頼ってこの地を離れ、その麾下に属して活動し、第4次川中島の戦いでも上杉勢の先陣を務めた。その後武田氏が織田信長に滅ぼされ、信長も本能寺に倒れて豊臣秀吉の時代になると、北信4郡は上杉景勝の支配下となり、高梨頼親は再びこの地に戻ることができた。しかし1598年に秀吉の命で上杉氏が会津に移封となると、高梨氏も会津に移ってこの地を離れた。

 高梨氏館は、現在国の指定史跡となって整備されている。北信最大の方形館らしく、しっかりとした四周の土塁と空堀がほぼ完存している。虎口などには石積みも残っている。この館の大きな特徴は、庭園が発掘されていることで、発掘された池跡・井戸跡などを見ることができる。中部地方の武士団の文化レベルを知ることのできる、貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.22.46.9N36.44.29.2&ZM=9
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