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古城めぐり(岐阜) ブログトップ

大垣城(岐阜県大垣市) [古城めぐり(岐阜)]

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(2004年9月訪城)
 大垣城は、美濃の守護大名土岐氏の一族宮川吉左衛門尉安定により、1535年に築城されたと言われている。しかしそれ以前の応仁年間(1467~68年)から、在地領主の大垣氏が東大寺城を築いていたらしい。戦国後期の1556年には、美濃の戦国大名斎藤道三配下の美濃三人衆の一人氏家卜全が改修を加えた。1585年、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として、近世城郭に改修させた。大垣城は東海道を抑える交通の要衝であったため、1600年の関ケ原の戦いでは西軍を実質的に率いた石田三成が本拠とした。江戸時代に入ると、徳川家康は譜代大名の石川康通を城主とし、その後の変遷を経て、1635年から戸田氏が10万石の城主となって入封し、幕末まで存続した。

 大垣城は、関ヶ原合戦でも登場する重要な城で、かつては広大な水堀に囲まれた優美な城であったというが、現在はほとんど全ての水堀は埋め立てられて旧状を失い、国宝とされた天守も昭和20年に戦災で消失し、現在は戦後に復元された天守が建っている。本丸周辺の石垣は残っているが、市街化の只中にあってかつての名城の面影を失っていることでは、宇都宮城に匹敵する無残さと言える。(ちなみに近世宇都宮城の城主も同じ戸田氏。)国土変遷アーカイブにある昭和20年代の航空写真では、三ノ丸西側の水堀がかなり明瞭に残っており、今から思えば、余計にその後の乱開発が恨めしく思える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.37.8.4N35.21.31.4&ZM=9
タグ:近世平城
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向牧戸城(岐阜県高山市) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_6595.JPG←堀切とニノ郭
(2004年9月訪城)
 向牧戸城は、帰雲城主内ヶ島氏の支城である。内ヶ島上野介為氏が寛正・文明年間(1460~87年)頃に8代将軍義政の命で白川郷に入部し、最初に築いたのが向牧戸城であったと言われる。その後、為氏が帰雲城を築いて居城を移すと、その家臣川尻備中守氏信を城主として守らせたと言う。1585年、織田信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉の命により飛騨に侵攻した越前大野城主金森長近は、向牧戸城を攻撃し、大きな損害を出しつつ落城させたと言う。その後の大地震で内ヶ島氏の一族郎党が帰雲城と共に埋没すると、向牧戸城も廃城になったと思われる。
 向牧戸城は、庄川と御手洗川の合流点に突き出した断崖上に築かれた城である。現在、城址は公園として整備されているが、遺構は比較的よく残っている。頂部には小さな主郭を置き、その周囲に腰曲輪や、堀切を挟んで二ノ郭と思われる曲輪を連ねている。素朴な作りで技巧性はあまり見られなかったと記憶している。全体的にはこじんまりした城であり、砦という方が相応しいように思う。支城を有するとは言え、内ヶ島氏の勢力がそれ程大きなものでなかったことが伺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.56.52.9N36.2.46.6&ZM=9
タグ:中世崖端城
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帰雲城(岐阜県白川村) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_Scan_005.JPG←城址碑と帰雲山の崩落跡
(2004年9月訪城)
 帰雲城は、謎の一族内ヶ島氏の居城である。何故謎かといえば、内ヶ島氏は1585年の大地震で、一族郎党がその居城もろとも山体崩壊した大量の土石流に巻き込まれ、全てが闇の中に埋もれてしまったからである。内ヶ島氏は、元々足利将軍に奉仕した奉公衆であったと言われ、内ヶ島上野介為氏が寛正・文明年間(1460~87年)頃に8代将軍義政の命で白川郷に入部したとされる。為氏は、帰雲山に帰雲城を築いて歴代の居城とした。為氏以後、雅氏・氏理と3代に渡って白川郷を支配した内ヶ島氏は、一向衆などとの抗争を生き抜いて戦国大名化し、向牧戸城・萩町城などの支城を築いた。しかし1585年、織田信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉の命により、越前大野城主金森長近が飛騨に侵攻すると、内ヶ島氏理は抵抗を試みるが向牧戸城を落とされ、結局氏理は長近に降服し、辛くも本領を安堵された。氏理が居城に戻って本領安堵の祝宴を開いた11月29日の夜、北陸に大地震が起こった。帰雲山は山崩れを起こし、内ヶ島一族郎党数百人が城諸共飲み込まれ、埋没して地上から一瞬にして消え失せたと言う。

 帰雲城は、大量の土砂に埋没したとされる為、その正確な位置も判明していない。一般には帰雲山の中腹にあったと推測されている。現在はその庄川対岸の国道156号線沿いに「帰雲城埋没地」の大きな看板と、城址碑・菩薩像等が建てられている。その背後に見える帰雲山には、現在でもポッカリと大きな口を開けた崩落跡が不気味に残っている。不思議なのは、400年以上も経っているのにこの崩落跡にはほとんど草木が生えていないのである。埋蔵金伝説まで残る帰雲城は、すべてが謎に包まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.53.50.5N36.12.22.6&ZM=9
タグ:中世山城
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岐阜城(岐阜県岐阜市) [古城めぐり(岐阜)]

IMG_3732.JPG←山上の復興天守
(2003年10月訪城)
 岐阜城は、元の名を稲葉山城と言い、美濃のマムシと恐れられた戦国大名斎藤道三の居城であり、後には織田信長が安土城を築いて移るまで、信長の居城となった。標高328.9m、比高310mの金華山上に築かれた峻険な山城で、元々は鎌倉時代に鎌倉幕府政所執事の二階堂行政が築いたと伝わっている。そのころはおそらく小規模な砦程度のものであったろう。室町時代に入り守護領国制が確立すると、稲葉山城は美濃の守護である土岐氏の守護代斎藤氏が整備した。本格的に居城として整備されたのは斎藤道三の時で、斎藤家を謀略によって乗っ取った道三は、主家土岐氏を排して美濃を押さえた。後に道三の女婿織田信長は、斎藤龍興を攻め下して稲葉山城を掌中に収めると、居城を稲葉山城に移し、城の名も岐阜城と改めた。周の文王(西伯昌)が岐山より興った故事に倣ったという有名な話である。信長以降も幾多の変遷を経て使われた城であったが、関ヶ原の戦いの後、廃城となった。

 岐阜城を訪れた頃は城巡り初心者の頃だったので、まだ山城の何たるかもわからずに見て回ったので、今から考えると、結構見落とした遺構が多かったと思われる。しかも時間節約の為、ロープウェイで登ったので、当然ながら金華山中腹の遺構群は全く見ていない状況だった為、あまり城巡りする方の参考になるような情報は、ここには記載できない。
 ただ言える事は、その勇名とは裏腹に山上の曲輪群は非常に狭く、詰城としての性格が強かったように記憶している。本郭など、ほとんど天守台で占められていたと思う。そういう意味では、斎藤氏の時代から平時の居館を麓に置いた根古屋式の山城であったのだろうと考えられる。現に、織田信長の時代には麓に居館が築かれており、現在でも発掘調査が続いている。峻険な山上に築かれた城の為、有力な戦国大名の城郭にもかかわらず、城の規模・遺構の充実度はやや見劣りする感があった。信長以降は、山上の城は権威の象徴としての意味しか持たなかったものなのであろう。また廃城となった時に、石垣も他に移されたこともあり、余計見劣りするのであろう。

 麓の信長居館跡は、石垣などが一部発掘復元されているが、2003年当時はまだささやかな規模でしかなく、まだ往時の姿が思い浮かべられるような規模の復元ではなかった。今はだいぶ復元も進んだことだろう。いずれ再訪してみたい城である。

 なお岐阜城でもらったパンフレットに、「信長の野望燃え立つ、金華山」というキャッチコピーが書かれていたが、山上にそびえる岐阜城の峻険さと、戦国の世を制覇しようとする信長の壮大な野望が重なり合った、見事なコピーだと思う。6年前に一目見ただけでいまだに岐阜城と聞いて思い出す、忘れがたい名コピーである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.47.6.0N35.25.50.7&ZM=9

郡上八幡城(岐阜県郡上市) [古城めぐり(岐阜)]


 今回は、過去に訪れた城の中から印象の強かった城の一つ、郡上八幡城を取り上げてみたいと思う。
 郡上八幡城は、郡上市八幡町を見下ろす山上に築かれた山城である。もともと長良川沿いにこの周辺一帯を支配していた東氏(関東の名門、千葉氏の庶流)に成り代わろうとした遠藤氏が、東氏の居城である東殿山城の向かいに築いた砦が出発点だったといわれる。その後、首尾よく東氏に替わった遠藤氏が居城として整備した。そして天下一統の時代に入り城主の変遷を迎えたが、城はそのまま近世城郭に変貌して生き残った。
 時間がなかったので車で山上まで上がったが、まずこの城で驚かされるのは、山上に築かれた石垣の重厚で見事なことである。それほど広い訳ではない山上のスペースに所狭しと何段にもわたって石垣が築かれており、見るものを圧倒させる。縄張りとしては、基本的に石垣での防御に特化しており、当時(2004年の夏)見た限りでは、特に堀切や竪堀、大規模な土塁などの防御施設はなかったと思う。「当時」というのは、今ほど城郭の知識がなかったのと、名古屋から金沢に戻る帰り道で寄ったため時間がなく、あまり良く見て回れなかったからである。


 天守閣が木造で作られているが、これはまったくの架空のもの。実際の八幡城には天守は築かれなかったのである。しかし昭和に入ってから木造で作られた全国で最初の城であり、この後全国で木造による天守の復興が多くなっていく走りとなった。天守閣は築かれなかったが天守台はあったようで、現在の模擬天守は、一部石の積み直しをしたものの元々の石垣を使用している。模擬とは言うものの、山上に築かれた天守は非常に趣がある。主郭周りには大した広さはなく、御殿などを立てることはできなかったようだ。そのため近世に入ってからは、山上の城とは別に山麓に本丸御殿が築かれた。現在は広場となっており、井戸跡と山内一豊夫妻の像が建っている。主郭裏の山上の駐車場の隅には「首洗い井戸」が残っており、この駐車場も曲輪の一つだったことがわかる。
 この城は現存する建物はないのが残念だが、街中には城主下御殿跡や大手門跡の表柱が建っている。
 ところでこの郡上八幡という町は、町並みの中に昔の面影を色濃く残し、非常に趣がある。以前CMでも流れていたが、宗祇水という天然の清水が街中を流れ、今でも町の人々は水を清浄度から三段に分けて、飲料用や手洗い、洗濯用などに使い分けて有効利用しているそうである。いずれ泊まりでこの町に行って、夕暮れの街中を練り歩きたいものだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.57.51.9N35.44.59.7&ZM=8


タグ:近世山城
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