So-net無料ブログ作成
検索選択
古城めぐり(茨城) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

常陸太田城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6370.JPG←主郭北西部に見られる切岸
 常陸太田城は、常陸の戦国大名佐竹氏の歴代の居城である。その創築は、平安後期の天仁年間(1108~10年)に藤原秀郷の後裔である通延が太田郷の郷司職に就き、太田大夫と称して築館したのが始まりとされる。一方、佐竹氏は、八幡太郎源義家の実弟新羅三郎義光の後裔で、甲斐武田氏とは同族に当たる。義光が常陸に地盤を築いた経緯については、武田氏館の項に記載する。義光の長男義業が、大掾氏の一族吉田清幹の娘を妻に迎えて昌義を儲け、昌義は久慈郡佐竹郷の馬坂城に本拠を置いて佐竹冠者と称し、佐竹氏の初代となった。昌義の3男隆義は、太田通延を逐って太田郷に分家していたが、昌義の長男忠義が大掾氏を継いだため、隆義が佐竹氏の惣領を継ぎ、これ以後常陸太田城が佐竹氏の本拠となった。1180年に源頼朝が平氏追討に挙兵すると、平氏との繋がりが強かった佐竹氏はこれに従わず、このため富士川の合戦で平家の追討軍を退け、坂東支配を進める頼朝の討伐を受けた。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。結局、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められたが、鎌倉時代を通して佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」(山入城の項参照)では、佐竹氏の当主義舜は、山入氏義に10年もの間、居城の常陸太田城を逐われるなど厳しい時代を過ごしたが、後に反撃に転じて常陸太田城を奪還した。この義舜の時代に、一世紀にもわたった山入氏との抗争を克服し、家臣団を再編成して軍事力を増強し、失われた所領を回復したことから、義舜は「佐竹氏中興の祖」と言われる。義舜の子義篤が当主であった1529年、義篤の弟義元は兄の重臣小貫俊通の部垂城を攻め落とし、部垂城に移って部垂氏を称した。これ以後、「部垂の乱」と称される佐竹氏の内乱となった。1540年、佐竹義篤は部垂城を攻め落として部垂義元を滅ぼし、ようやく内乱を鎮定した。義篤の子義昭の時には、宿敵江戸氏と和議を結んで、北と南へと大きく勢力を拡張し、また急速に勢力を伸ばしてきた小田原北条氏に対しては上杉謙信と手を結ぶことで対抗した。義昭の子義重は、「鬼義重」と呼ばれる勇将で、父に引き続いて勢力を四囲に伸ばし、小田氏の勢力を駆逐し、陸奥白川領や下野那須領を蚕食し、北条氏の勢力とも対峙した。しかし1582年、甲斐武田氏・織田信長の相次ぐ滅亡によって、北条氏の北関東への侵攻を阻むものはなくなり、佐竹氏も守勢に立たされることとなった。1584年、義重は豊臣秀吉と連携して、北条氏と下野沼尻の合戦で対陣した。沼尻合戦は、徳川家康と同盟していた北条氏との対峙であり、中央の小牧・長久手の戦いと連動した戦いであった。一方、義重は、2男義広を会津葦名氏に入嗣させ、伊達政宗とも対立した。1589年、摺上原の合戦で政宗が葦名氏を滅ぼすと、陸奥南部の諸大名は伊達氏に服属し、佐竹氏は南からは北条氏、北からは伊達氏に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。しかし1590年、かねて関係の深かった豊臣秀吉が北条氏を滅亡させると、一転佐竹氏は常陸一国の支配権を認められた。この時義重は、既に家督を嫡男義宣に譲っており、義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に侵攻し、水戸城を攻略して江戸氏を滅ぼした。また翌91年、義宣は「南方33館の仕置」と呼ばれる陰惨な謀略によって、常陸南部の国人領主を一気に殲滅し、常陸一国の支配権を確立し、水戸城に居城を移した。これ以後、常陸太田城は義重の隠居城となった。1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成と懇意であった義宣は曖昧な態度に終止し、戦いを傍観した。その結果、1602年に突如出羽秋田への国替えを言い渡され、佐竹氏は常陸を去った。佐竹氏の移封に伴い、常陸太田城は廃城となった。

 常陸太田城は、里川と源氏川に挟まれた比高20m程の南北に細長く伸びた段丘上に築かれている。現在は市街化が進み、遺構は完全に湮滅している。『図説 茨城の城郭』によれば、東西に分かれた主郭(西郭・東郭)、その南に二ノ郭、北に三ノ郭・北郭を並べた縄張りであったらしい。主郭西郭は現在の太田小学校に相当する。主郭東郭は住宅地になっており、かなり変わり果てており、その外形を追うことも難しい。二ノ郭・三ノ郭も同様である。北郭は太田第1高校になっている。いずれの曲輪も相当な広さがあり、さすがに佐竹氏の本拠だけのことはあり、近世城郭並みの広大な曲輪となっていた様である。僅かに三ノ郭北辺の道路が堀跡の名残を残し、また城域西側は急崖が残っており、往時の切岸であったことを伺わせる。段丘上の要害で、城の歴史を残すのは、太田小と若宮八幡宮に建っている2つの城址碑と、「中城町」の地名ぐらいであるのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.545794/140.519943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

武田氏館(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6254.JPG←想像復元された館
 武田氏館は、後に甲斐守護となり、武田信玄を輩出した甲斐武田氏の祖宗興隆の地である。平安時代末期(12世紀初め頃)、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光は後三年の役の後、常陸平氏の娘を妻としたことを足掛かりに常陸国への進出を図った。そして諸子を常陸各地に分封した。長男義業には吉田城主吉田清幹の娘を妻に迎え、久慈郡佐竹郷に置いた(佐竹氏の祖)。また3男義清は、那賀郡武田郷に土着させた。義清は、眼下に那珂川を望む台地の突端に居館を構え、武田氏を称して武田氏の始祖となった。また上野介源兼宗の娘を妻として清光を儲けた。義清・清光は、武田郷周辺の在地豪族との間で勢力を張り合っていたが、勢力拡大を焦るあまり吉田清幹・盛幹らに疎んじられ、1130年に「濫行」の罪を以って朝廷に告発された。義清・清光父子は甲斐国に配流となり、そのまま甲斐に土着して甲斐武田氏となった。

 武田氏館は、那珂川を見下ろす武田台地の突端部にあったと言われている。現在比定地付近に、往時の武士の館を模した「武田氏館」が復元整備されている。遺構は失われているが、武田氏の歴史などが簡単に展示されており、近くに来た時に寄ると良いだろう。それにしても、「濫行事件」の子細を記した文書が伝わっていないため詳細不明とされるが、「濫行」って一体何をやらかしたんだろうと、すごく気になる。尚、南に隣接する湫尾神社の参道前には、「甲斐武田氏発祥の地」の石碑が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.382199/140.517368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

武熊城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6243.JPG←武熊城の城址碑
 武熊城は、水戸城主江戸氏の支城である。最初は、延文年間(1356~61年)の頃に、大掾氏の一族石河十郎望幹が築いたと言われている。その後、江戸氏が勢力を拡大して水戸城を攻略して居城を移すと、その属城となった。1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって、同年12月に水戸城が攻略されて江戸氏が滅ぼされると、翌91年3月に義宣は常陸太田城から水戸城に居城を移し、重臣の東義久(佐竹東家)が武熊城に入った。1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、武熊城は水戸徳川家に受け継がれた。1651年に柳堤を築造して千波湖を埋立て、町づくりを行った際に、採土により城跡は消滅した。

 武熊城は、水戸城下の南東、桜川の南岸に築かれている。前述の通り、早くに採土で遺構は消滅しており、現在は水戸市竹隈市民センターの南東角に城址の石碑が建っているだけである。尚、石碑の前がゴミ捨て場になっており、ゴミネットが邪魔で良い写真が取れないのが難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.366840/140.490396/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

赤尾関城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6235.JPG←民家裏に残る土塁
 赤尾関城は、常陸の豪族江戸氏の支城である。南北朝時代に常陸南朝方の拠点であった瓜連城が幕将高師冬に攻め落とされると、南朝方だった那珂氏は一族の多くが討死し、那珂通辰の子通泰のみが逃れえた。その後、通泰は再起して鎌倉公方に従って転戦し、常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を称した。通高は、小山若犬丸が立て籠もった難台山城攻撃で討死し、その功により通高の子通景は鎌倉公方足利氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられ、河和田城を本拠とした。一方、赤尾関には通高の子金永が入部して赤尾関城を築いたと言われている。その後の歴史は不明であるが、江戸氏の支城として存続したのだろう。

 赤尾関城は、古矢川支流に臨む微高地に築かれている。城内はほとんど民家に変貌し、車道も東西に貫通しているため、遺構の湮滅が進んでいる。しかし道路沿い南側と民家の北側の小道沿いにわずかに土塁が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ても、今とあまり変わらないぐらい遺構が破壊されており、往時どのような縄張りだったのかもはっきりしない。どちらにしても民家裏の遺構なので、不審者と間違われないよう、訪城の際は注意が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.364922/140.372250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

飯沼城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6199.JPG←主郭の土塁
 飯沼城は、桜井尊房によって築かれたと伝えられている。城域から発掘された遺物から、城のすぐ西側に隣接する福性寺と密接な繋がりがあったと推測されている。福性寺の記録によれば、南北朝時代には南朝方に属し、また戦国時代の城主として桜園氏の名が記されていると言う。文明年間(1469~86年)には水戸城を拠点に北の佐竹氏と盟約を結んで常陸南部で大きな勢力を持った江戸氏の支配下に入った。1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって、同年12月に水戸城が攻略された際、桜園氏も滅ぼされた。

 飯沼城は、涸沼川南岸の段丘の縁に築かれている。現在は立川根小学校の南側に、主郭が公園化されて残っている。往時は南北に連なった3つの曲輪で構成され、立川根小の校庭部分も実はかつては北の曲輪であったが、現在は削られて湮滅している。また南の曲輪は墓地に変貌しており、こちらも湮滅が進んでいる。結局残っているのは主郭だけであるが、主郭は方形の曲輪で四周を土塁で囲んでおり、方形居館から発展した城であることを伺わせる。また周囲は空堀があったようだが、現在は車道などに変貌して湮滅している。主郭がよく残っているだけに、周辺遺構の湮滅が惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.289376/140.383537/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

馬坂城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4680.JPG←三ノ郭の横堀
 馬坂城は、佐竹氏の初期の居城である。元々は、秀郷流藤原氏系の天神林刑部丞正恒の居城であったと言われるが、1131年に新羅三郎源義光の孫昌義が京より常陸国佐竹郷に下向し、1133年に天神林氏から馬坂城を奪って居城とし、佐竹氏を称したと伝えられている。その後、3代隆義は居城を太田城に移し、4代秀義の子義清が稲木氏を称して馬坂城を居城とした。 以後、稲木氏の歴代の居城として続いたが、1417年、8代義信の時、山入の乱で山入氏方に付いて滅亡した。その後、佐竹氏14代佐竹義俊の子義成が天神林氏を称して馬坂城を居城としたが、義成・義益父子も山入氏義に与して「山入一揆」に加担した。氏義が太田城を奪って居城としていた時には、義益は山入氏の本拠山入城を守った。しかし、佐竹義舜の反撃で山入氏が滅亡すると、天神林氏も運命を共にした。その後の馬坂城の歴史は不明である。

 馬坂城は、標高45mの丘陵先端部に築かれている。主郭と、西城と呼ばれる二ノ郭、更にその先の三ノ郭、主郭背後(東側)の外郭から構成されている。いずれの曲輪も堀切で分断されているが、主郭は畑に変貌し、外郭は民家が建ち並んでいて改変が激しい。しかし主郭の北側や西側の藪に突入すると、そこには突然中世城郭の世界が現れる。二ノ郭には源氏塚と呼ばれる大きな物見台があるが、これは古墳であろう。また主郭や二ノ郭の周りには腰曲輪が廻らされ、派生する尾根には堀切が穿たれている。また二ノ郭背後には堀切で区画された小郭も築かれている。また先端の三ノ郭の周囲には横堀が穿たれている。二ノ郭は一部が畑になっているが、三ノ郭は完全に薮に埋もれている。全体にあまりパッとしない遺構で、比較的古い形態を残していると考えられ、戦国後期にはほとんど活用されていなかったのではないかと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.523691/140.499172/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

久米城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4552.JPG←南出曲輪の二重堀切
 久米城は、佐竹氏の本城常陸太田城の西の防衛拠点である。元々は、一説には大掾氏が鎌倉時代に館を構えたとも言われる。後に小野崎通春の子通種が築城して居城とし、久米氏を称した。しかし3代通室に嗣子なく、小貫頼重の子定春を養子に迎え、通治と称した。一方、1408年に関東管領上杉氏からの入嗣問題を発端として生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」への対処として、佐竹義治は小野崎系久米氏を部垂城へ移し、子の義武を久米城主として久米氏を名乗らせ、山入城主山入氏の侵攻に備えて防備を強化した。1478年11月、山入義知は那須氏の援軍を得て久米城を攻略し、義武や小田野義安は討死した。しかし佐竹義治は、直ちに軍を率いて久米城を奪還し、義知を敗死させた。そして義武の弟義信を久米城主として山入氏に備えさせた。義信の家系は佐竹北家として代々続き、佐竹一門の重鎮として宗家を補佐した。しかし、1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、佐竹北家も秋田に移り、久米城は廃城となった。尚、現在の秋田県知事は、この佐竹北家の末裔である。

 久米城は、山田川東岸の標高100m、比高80m程の丘陵上に築かれている。山入の乱で争奪の場となった要害だけあって、非常に広大な城域を有している。大きな谷戸を挟んで南北の尾根上に並立した曲輪群を中心部としており、それぞれ「東の城」「西の城」と呼ばれている。更に丘陵北端部に北出城、南の尾根続きの小ピークに南出城を構えている。最も防備が厳重なのは東の城で、主郭が「本城」と呼ばれていることから、ここが城の中心であったことがわかる。以前は藪だらけだったようだが、今年の5月に行った時にはきれいに整備されていた。主郭の腰曲輪に竪堀状の虎口を設け、また腰曲輪には堀切状になった城道が通り、背後の東尾根には出曲輪と城中最大の堀切が穿たれている。主郭手前には切岸だけで区画された曲輪群があって鹿島神社のある二ノ郭に繋がり、その手前も2段程の腰曲輪の先に堀切があって、更に三ノ郭に通じている。三ノ郭南斜面には多数の曲輪群が築かれている。東の城と西の城の間の谷戸は広い緩斜面で曲輪群が設けられている。西の城は東の城よりもやや古い形態で、単純な堀切で分断された主郭・二ノ郭・三ノ郭が連なり、二ノ郭・三ノ郭の北辺には土塁が築かれて、北斜面に対する防御を固めている。ここの三ノ郭も南斜面に幾重にも曲輪群を連ね、西端に二重堀切、北西尾根にも段曲輪群を連ねている。西の城の主郭にはTV中継所が建てられ、背後の堀切などにやや破壊が見られる。主郭北尾根には途中2本の堀切があって、北出城に至る。北出城は物見を主眼とした小規模な城砦であるが、堀切や竪堀で防御している。一方、東の城の南尾根には南出曲輪と、更にその先に南出城が構えられている。こちらには二重堀切が多く、より厳重な防備を施している。また南出城の南西側には横堀が穿たれ、虎口の防備を固めている。
 以上の様に久米城は、多数の曲輪群を有し二重堀切を多用している。その構築は広い範囲に及ぶが、堀切などの普請の規模自体は大して大きくない。それにしても、現在は城内全域が整備されており、遊歩道が出城まで設定され、しかも見所まで各所に示している。見学できるよう整備された城址公園は多いが、これほど全ての遺構を隈無く見逃すこと無く回れるようにルート設定し、ほぼ全域を伐採整備し、且つ見所まで示した完璧な案内板を設置した城は類例がない。城址公園の例としては屈指の出来である。
東の城東出曲輪の堀切→IMG_4430.JPG
IMG_4604.JPG←南出城の横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.549845/140.482714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

南大門城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4193.JPG←主郭周囲の横堀
 南大門城は、北大門城の出城と推測される。堀ノ内集落を挟んですぐ北には北大門城があり、機能的には両城一体となっていたと思うのだが、両城の城主が別々に伝わっており、しかも両者間で交戦もあったので、両城の関係性が非常に複雑である。南大門城は、当初は北大門城主助川氏の一族根本氏と伝えられている。佐竹氏14代義治の時に、根本氏は助川氏に敵対して攻め滅ぼされ、その後の南大門城には同じ一族の滑川氏が居住したと言われている。

 南大門城は、北大門城の南に突き出た標高120mの丘陵先端部に築かれている。ほぼ単郭の小規模な城砦で、主郭周囲は南東面以外を横堀で囲んでいる。しかしこの横堀も規模は小さい。主郭周囲の土塁もささやかなものである。背後の尾根には横堀がそのまま堀切となって分断し、土橋が架かっている。主郭の周りの緩斜面は外郭として利用されたと思われるが、あまり明確に普請されていない。北大門城と比べると大した遺構でない上、藪も多く、見所は少ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.582314/140.512905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北大門城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4001.JPG←大手虎口脇の櫓台
 北大門城は、金砂山城の戦いで山入氏義を撃退した佐竹義舜が常陸太田城の奪還の前に一時居城した城である。本来は小野崎氏の庶流助川氏の歴代の居城であった。助川氏は、小野崎通綱の子通定に始まり、いつの頃からか大門城を築いて歴代の居城とした。また助川氏から、根本氏・滑川氏を分出し、伝承では助川氏が拠る北大門城に対して、すぐ南の南大門城に根本氏が居城したと言われ、少々関係がややこしい。佐竹氏の内訌、山入の乱では、助川通高・滑川式部少輔・根本石見守忠行らははじめ山入氏方に付いていたが、通高は佐竹義治方に鞍替えし、根本石見守らを攻めて、根本氏は討死にして滅亡した。その後、南大門城には滑川氏が居住したと言われている。また文明年間(1469~86年)に4年間、佐竹義治を大門城に庇護したとも伝えられている。その後、1490年には佐竹義舜は、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は大門城に移り、助川右衛門尉通繁の助けを受けて2年の間に勢力を盛り返し、1504年に常陸太田城の奪還に成功し、遂に山入氏を滅ぼして100年に渡る内訌に終止符を打った。通繁の子の出羽守通厚も義舜を補佐して功があり、通厚の四世の孫周防守通高まで大門城に居城したが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、大門城も廃城となったらしい。

 北大門城は、国見山から西に伸びた支尾根の先端部、標高160m、比高70mに築かれている。前述の通り堀ノ内集落を挟んですぐ南には南大門城があり、機能的には両城一体となっていたと思うのだが、両城の城主が別々に伝わっており、しかも両者間で交戦もあったので、両城の関係性が非常に複雑である。古文書では単に「大門城」と記されているようだが、現地で城の規模や構造を見ると、北大門城のことを指していることは容易に想像がつく。城へは堀ノ内集落奥の民家の近くから登ることができる。民家の方に入山のお断りを入れると、例によって「杉山で何もないよ」と強調されたが、過去の経験からすると「何もない」と言われたところに限ってしっかりした遺構があったりするので、期待して登ったら、やっぱりしっかりとした良質な遺構があった。最頂部の主郭の前面に当たる西斜面に多数の曲輪群を築いた梯郭式の縄張りで、荒蒔城の縄張りによく似ている。主郭は三角形状の曲輪で背後に土塁を築いている。前面の曲輪群は切岸でしっかり区画された上に左右で幾つもの段に分かれ、虎口郭を備えたり、竪堀状の大手道、その側方に櫓台を設けるなど、なかなかしっかりとした普請がされている。曲輪間の動線構造も比較的わかりやすい。この城で出色なのは主郭背後の遺構で、主郭背後には比較的規模の大きな堀切が穿たれて尾根筋を遮断し土橋を架けている。その先の細尾根上も曲輪に整形されているが、北側斜面に帯曲輪を設けており、前述の堀切から落ちる竪堀はこの帯曲輪に繋がっていて、城道を兼ねた竪堀であったことがわかる。しかもこの竪堀状の城道の上方右側には横堀状の堡塁が構築されており、主郭への虎口を防衛する塹壕的な防衛陣地となっている。また前述の細尾根上の曲輪の先はやはり堀切で分断されているが、この堀切も前述の帯曲輪に繋がっている。山中は整備されているので、藪が少なく遺構の確認がし易い。それほど大きな城ではないが、良好な遺構と相俟って、見応えがある。
竪堀状の城道脇の横堀状堡塁→IMG_4069.JPGIMG_4104.JPG←帯曲輪に繋がる堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.585295/140.514300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

竜ヶ谷城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3828.JPG←腰曲輪前面の竪堀群
 竜ヶ谷城は、山方城を築いた山方能登守盛利が隠居城として築いたと言われている。盛利は関東管領上杉氏の一族で、その事績は山方城の項に記載する。文明年間(1469~86年)に山方城を佐竹氏の有力支族、東政義に明渡し、竜ヶ谷城に移ったとされている。

 竜ヶ谷城は、比高50m程の丘陵先端に築かれている。周囲を枇杷川とその支流に挟まれた山間地の奥に位置し、場所は非常にわかりにくい。城への道もないので、取り付きやすい斜面から適当に藪漕ぎしながら直登する他はない。大きく2つの曲輪と腰曲輪から構成された城で、主郭は背後(北側)に横堀を穿ち、また二ノ郭と接する西から南にかけても横堀で分断している。背後の横堀は比較的規模が大きく、横矢掛かりが2ヶ所にあり、二ノ郭西側外周まで掘り切っている。それに対して二ノ郭との間の堀は規模が小さいが、2ヶ所に土橋が架けられている。この城の特徴は、二ノ郭手前の腰曲輪前面に穿たれた竪堀群で、小規模で短いものが多いが、下段の帯曲輪までしっかり穿たれている。一部は城道を兼ねていたようだ。腰曲輪の西側に比較的大きな竪堀が1本あり、ちょうどその側方に小さな竪堀群が並んだ形になっている。またこの大きな竪堀は大手道であったと思われ、竪堀西側の腰曲輪への登り道となっている他、二ノ郭と竪堀東側の腰曲輪の間に穿たれた横堀と合流しており、虎口を兼ねた横堀だったようである。この他、主郭背後の尾根も曲輪と想定されているが、見た限りではあまりきちんとは削平されていない。また城の南東にも細尾根が続いているが、小さな堀切が穿たれ、幾つかの小郭らしい平場があるので、先端の物見台的な曲輪があったようだ。全体に藪が多いが、一応遺構は一通り見て回れるレベルである。また特徴的な竪堀群は規模が小さく、どれほどの防御性を発揮したかは微妙なところである。
二ノ郭外周の横堀→IMG_3943.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.622933/140.383837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山方城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3790.JPG←主郭~二ノ郭間の堀跡
 山方城は、上杉氏の一族山方氏の居城である。1407年に佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉によって、翌08年に関東管領上杉憲定の次子龍保丸(後の義憲)が入嗣して佐竹氏を継いだ。この時、その後見として上杉一族の山方能登守盛利が、美濃国山方から常陸に入国して山方城を築いて居城としたと言われている。この義憲の入嗣が、その後100年に渡って佐竹氏を動揺させ続ける「山入の乱」の原因となった。山入の乱については山入城の項に記載する。その後、文明年間(1469~86年)に佐竹氏15代義治の5男政義の居城となり、政義は有力庶子家の東氏の祖となった。しかし、ほどなくして東氏は小里に移ったとも言われる。

 山方城は、久慈川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。段丘上の崖端城と西の高館山に築かれた詰城とから成る複合城郭である。まず主城部は、主郭(御城)、二ノ郭(中城)、三ノ郭(外城)で構成された連郭式の城で、主郭には現在模擬天守状の展望台が建っている。2段の平場から成っており、高い方は畑となっている。主郭から空堀を挟んだ二ノ郭も全面畑となっていて、土塁や腰曲輪が一部に残存している。更に空堀を介して三ノ郭が続き、三ノ郭内は畑と民家に変貌している。南に降る道沿いに堀跡の畑が確認できる。ここからやや西に離れて高館山の詰城が築かれている。この山城は比較的単純な連郭式で、南北に伸びた山稜上に幾つもの曲輪を連ねている。ほとんどは切岸で区画されているだけだが、一部に堀切や土塁があるものの小規模である。山中は少々荒れていて、土橋状の地形も遺構なのか、そう見えるだけなのか、少々はっきりしない。しかし各曲輪の虎口は比較的はっきりしている。想像していたよりははっきりとした遺構が残っているが、少々面白みには欠ける。
詰城の曲輪切岸→IMG_3674.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.634075/140.393708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

山入城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1429.JPG←櫓台を備えた主郭
 山入城は、佐竹氏の有力支族山入氏の居城である。元々は、南北朝時代に西野民部大夫温通が初めて築いたと言われる。その後、南北朝の抗争の中で、佐竹貞義は終始一貫して足利方に従って常陸南朝勢力討伐に軍功を挙げて常陸守護となり、その7男師義は直接足方尊氏の軍勢に従って九州落ちにまで従い、筑前多々良浜の合戦、摂津湊川の合戦等に功を挙げた。また師義は、足利家の内訌、観応の擾乱でも尊氏に従い、尊氏から常陸国山入を所領として与えられて山入氏を称し、山入城を修築して本拠とした。(個人的な推測だが、師義の「師」の字は将軍執事であった高師直の偏諱ではないだろうか。もしそうだとすれば、師義は師直率いる幕府直轄軍に属していたことになろう。また師義は『源威集』の作者ではないかとの説もある。)師義は、観応の擾乱の中で摂津で討死したとされるが、異説もある。師義が死ぬと、その子与義が跡を継ぎ、室町将軍直轄の「京都扶持衆」に列し、鎌倉公方に属する常陸守護の佐竹宗家に比肩する、半ば独立する勢力を有した。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、山入与義は同族の長倉氏・額田氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。その後、一旦鎮圧されたが、上杉氏から入嗣した佐竹義憲に対し、山入氏らは事々に反発し、1416年に上杉禅秀の乱が発生すると、山入一揆は禅秀方に味方した。しかし翌年乱は鎮圧され、18年には山入与義が拠る山入城は義憲の軍に攻め落とされ、与義は降伏した。乱はこうして鎮圧されたものの、鎌倉公方の独走に危惧を抱く室町幕府は、山入氏を常陸守護に任じ、佐竹義憲がこれに抗議して、佐竹氏と山入氏とが半国守護として並び立つこととなった。幕府の後援を背景に山入氏は佐竹宗家に対抗しうる勢力を有し、山入の乱は100年にも渡って続くこととなった。1477年、勢力を盛り返した山入義知は、佐竹義武(佐竹氏14代義治の子)が守る久米城を攻め落とした。しかし佐竹義治は直ちに軍を率いて久米城を奪還し、義知を敗死させた。義知の討死後、その弟義真は山入氏の領土を固めると共に佐竹宗家との対立を継続し、1490年、義真の子義藤・孫の氏義父子は、義治が死去して佐竹氏当主を継いだばかりの義舜を攻めて、佐竹宗家の本拠である常陸太田城を占拠して居城を移し、山入城には馬坂城主天神林義益を置いて守らせた。義舜は外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。氏義は山入城に撤退して抵抗を続けたが、1506年に山入城は落城し、氏義は子の義盛と共に捕らえられ、下野国茂木で殺害された。こうして、佐竹氏を動揺させ続けた山入の乱はようやく収束した。

 山入城は、山田川西岸にそびえる標高185.3m、比高145mの要害山に築かれている。南東から山道が整備されており、城内まで車で突入できるので登城は楽である。純然たる連郭式山城の縄張りで、山頂に大きな櫓台を備えた主郭を置き、南西に伸びる尾根に二ノ郭以下の主要な曲輪群を連ねている。途中、『図説 茨城の城郭』の縄張図で言うⅣ郭の前後のみ、堀切で分断されているが、それ以外は切岸のみで区画されている。曲輪の削平はいずれもしっかりしている。Ⅳ郭の南東斜面にも平場群(Ⅴ郭群)が残っており、現地に設置された城の想像図では、前述の主郭を「詰の城」、Ⅴ郭群を「本城」としている。Ⅴ郭群も遺構がよく残っており、切岸で区画された曲輪が明瞭で、曲輪同士を繋ぐ城道もはっきりしている。これら以外に、Ⅱ郭の南西尾根にも小掘切を穿った段曲輪群、また主郭背後の北の細尾根にも3条の堀切と若干の平場がある。
 山入城にはもう一つ、主城から東に伸びる支尾根に東曲輪群があり、主城とは切り離された独立性の高い出城として機能していたと思われる。東曲輪群は、Ⅳ郭から東曲輪群先端近くにある日吉神社への山道がそのまま遺構群巡りをする道になっており、尾根上に多数の平場や数本の堀切、土壇などが確認できる。
 山入城は城域が広く、さすがは佐竹一族で強勢を誇った山入氏の本拠であるが、その割には城自体は普通の出来である。技巧性のあまり高くない普請から考えると、戦国初期に山入氏が滅亡してからは、ほとんど顧みられることがなかったことが想像される。尚、城内は一応公園として整備されているが、Ⅱ郭など冬でも草茫々の部分も多い。
東曲輪群の堀切→IMG_1565.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.599732/140.478637/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金砂山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1370.JPG←本殿の建つ岩山
 金砂山城は、佐竹氏の居城常陸太田城の詰城に相当するような城であった。1180年、坂東の武士団を傘下に収めた源頼朝は鎌倉を制圧したが、常陸の佐竹氏は頼朝に帰順せず抵抗していた。富士川の合戦で平家の追討軍を退けた頼朝は、上総介広常らの意見を容れ、同年11月4日、佐竹氏を討伐した。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。頼朝は数千の大軍で攻撃したが、金砂山城の天険に苦戦し、上総介広常の策により秀義の叔父佐竹蔵人義季を内応させ、搦手に当たる諸沢口から密かに攻城軍を案内させた。不意を突かれて金砂山城は落城し、秀義は花園山に逃れた。頼朝は、佐竹氏の所領を没収して部下の論功行賞に充てたが、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められた。しかし鎌倉時代を通して、佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」では、佐竹氏の当主義舜は1490年、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。こうして3度に渡って危急存亡の縁に立たされた佐竹氏を救った金砂山は、佐竹氏開運の山として崇敬された。

 金砂山城は、西金砂神社の境内がそのまま城となっている。神社登り口の前にある方形の高台(現在は畑地)が館跡とされ、その東側にそびえる山は物見台であったらしいが、明確に削平された様子がなく、遺構かどうかよくわからない。また神社の本殿のある山もほとんど自然地形の岩山で、断崖に囲まれた地形そのままで遺構は不明瞭である。参道脇に物見台跡らしい地形が散見される程度である。残念ながら城郭遺構としては見るべきものは少ないが、佐竹氏開運の神社ということでお参りするつもりで行くのが良いかもしれない。
館跡とされる高台→IMG_1387.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.657196/140.451086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

武生城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1265.JPG←主郭
 武生(たきゅう)城は、南北朝時代に佐竹氏が拠った山城である。元々は鎌倉時代に国井経義という武士による築城とされるが、詳細は不明。南北朝時代になると、北朝方の佐竹貞義は、南朝方と戦い敗れて、貞義は金砂山城に籠もり、子の義篤らは武生城に立て籠もったと言われている(この時の合戦を常陸甕の原合戦としているものがあるが、実在自体が不明の合戦であることを付記しておく)。1336年、楠木正成の一族で代官として常陸に下向した楠木正家は、瓜連城に入って常陸南朝勢力を糾合すると、佐竹義篤は武生城から出撃して南下し、瓜連城を攻撃したと言う。

 武生城は、竜神湖の北側にそびえる標高340m、比高220mの山上に築かれている。東南東の尾根筋に登り道が付いており、迷うことなく登ることができる。山頂に主郭を置き、北斜面に腰曲輪、また主郭の北西に二ノ郭・三ノ郭を腰曲輪状に並べており、いずれの曲輪も切岸だけで区画されている。あまり遺構に期待はしていなかったが、主郭の削平は明瞭で、腰曲輪もはっきりしている。主郭後部は細尾根状となり、そこから北側に二ノ郭・三ノ郭が僅かな段差で広がっている。三ノ郭の北には細尾根が伸び、先端に物見台がある。一方、主郭の手前に当たる東側にも四ノ郭があり、わずかな堀切が見られ、南東の尾根端部にやはり物見台の岩場があり、眼下に竜神大吊橋を望むことができる。これらの他にも登り道の途中に幾つかの腰曲輪が見られ、城域はかなり広かった可能性が考えられる。城の形態としては、いかにも高所の要害性だけを頼りとした南北朝時代の山城という趣で、古い形態を留めている。尚、しばらく茨城や千葉の段丘上の城が多かったため、久しぶりの比高200m級山城はすごく疲れて、少々足に来た。
四ノ郭の堀切→IMG_1257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.687366/140.464175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

羽黒山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1168.JPG←主郭背後の堀切
 羽黒山城は、小里城の詰城である。小里城南方の比高60mの丘陵上に築かれており、山頂の主郭には羽黒神社が鎮座していて、西側から登り道が整備されているので、簡単に登ることができる。神社周囲には土塁が見られるが、これは主郭塁線と関係なく構築されていることから、後世の改変であろう。主郭の北から西にかけての周囲には腰曲輪が廻らされ、南側は大手だったらしく、手前に大きな土壇が築かれて警戒の物見となっていたらしい。神社手前が2段の平場になり、更に南西尾根に沿って幾つかの平場に分かれている様で、これらはかつての腰曲輪だったのだろう。この城で最もはっきりした遺構は、主郭東側の堀切で、規模はそれほど大きくないが東出曲輪に通じる土橋が架かり、北斜面に落ちる竪堀沿いに竪土塁も構築されている。東出曲輪は自然地形に近く、どこまでが城域かは判然としない。遺構としては以上で、盾の台楯よりは大きく普請もしっかりしているが、主城である小里城共々、ささやかな規模の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749424/140.493786/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

盾の台楯(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1099.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 盾の台楯は、小里城の防衛のために築かれた詰城と考えられている。東側の山地から西に張り出した比高30m程の細長い丘陵城に築かれている。ほぼ単郭の小規模な山城で、東西に細長いほぼ長方形の主郭とその西側の一段低い腰曲輪で構成されている。その西側斜面はほとんど自然地形で、明確な普請はあまり見られない。一方、東の台地基部は主郭より一段低い平場となり、その東に板碑などが建てられた土壇があり、その背後を林道が貫通している。もしかしたら、物見台と堀切だったのかもしれない。この他、主郭の南側斜面にも幾つかの腰曲輪らしい平場が見られる。いずれにしても大した普請がされておらず、守備兵を少々籠めただけの小規模な城であったろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.757711/140.491340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小里城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1141.JPG←北面の土塁と空堀跡
 小里城は、岩城氏がこの地を占拠して支配拠点として築いた城と言われている。元々は佐竹氏の一族小田野氏がこの地を領していたが、大規模な家中の内訌「山入の乱」で佐竹氏の勢力が減退すると、白川氏の勢力が及ぶようになり、更にその後は岩城氏の勢力下に置かれたらしい。しかし家中の内訌を克服し戦国大名化に成功した佐竹氏は、義重の代に勢力を拡大して陸奥南郷(福島県南部)をも支配下に置いており、この頃には南郷に通じる街道を押さえる小里城は、佐竹氏の中継拠点として機能していたのではないかと推測されている様だ。

 小里城は、里川とその支流薄葉川の合流点東岸の台地上に築かれた城である。実質的には単郭方形居館で、耕地化された台地上に土塁と空堀が残っている。主郭はかなり小規模で、あくまで簡素な政庁機能程度しかなかったように見受けられる。『図説 茨城の城郭』では、西面の土塁基部に見られる石垣を城館の遺構としているが、他の城館で普通に見られるものとしては遺構とは考えにくく、耕地化に伴う土留の石垣と見るのが自然であるが、何か遺構とする明確な根拠があるのであろうか。この他、川沿いの周囲の台地を外郭としていたと思われるが、いずれにしてもささやかな遺構である。街道筋に築かれた同じ中継拠点としても、七ヶ宿街道に伊達氏が築いた古屋楯などと比べると規模と構造に差があり、佐竹氏時代にはあまり重視されていなかった様である。尚、小里城の南北には盾の台楯羽黒山城が並立しており、詰城となっていたと推測されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.754427/140.489366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

依上城(茨城県大子町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1049.JPG←北側腰曲輪と主郭切岸
 依上城は、佐竹氏の一族北酒出氏の庶流依上氏の居城である。建武の新政の際に、後醍醐天皇は白河結城氏の結城宗広を結城氏の惣領とし、依上保を管理させたが、南北朝の抗争期に入ると、北朝方に付いた佐竹氏の一族、北酒出義資の次男顕義がこの地に分封され、依上氏を称した。その孫義長は子がなかった為、同族の山入城主山入与義の三男宗義を養子として迎えた。宗義は、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に与した為、1422年、鎌倉公方足利持氏は、依上与義・宗義父子を滅ぼし、翌23年、依上保を白河結城氏朝に預けた。その後、依上宗義の一族が挙兵して依上城に拠ったが、1428年に鎌倉公方勢に攻められ落城した。

 依上城は、押川北岸の比高35m程の丘陵上に築かれた城である。堀切はなく、切岸だけで区画された平場群だけで構成された城で、山頂の主郭を中心に東に二ノ郭、西に三ノ郭を置き、北斜面と南斜面に腰曲輪を築いた構成となっている。特に北東に向かって広がる腰曲輪はある程度の広さを有している。切岸や主郭への動線は明確に普請されており、主郭西側には虎口小郭が築かれ、西側腰曲輪を介して三ノ郭への城道が通じている。三ノ郭にのみ、南北の辺縁部に土塁が築かれていることから、ここに居館などが置かれたものだろう。この他、北東麓の平場にクランクした土塁が残っているが、後世の耕地化によるものか遺構であるかは判然としない。あまり技巧的な縄張りではないが普請はしっかりしており、室町中期までの城らしい形態を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.783665/140.309701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長山城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0897.JPG←大堀切と二ノ郭
 長山城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、長山氏の居城である。鎌倉時代中期に、行方氏の嫡流に当たる小高城主行方(小高)幹平の次男与一郎知幹が長山に分封されて長山氏を称し、長山城を築いた。その後歴代の居城となり、7代宗幹の時には、上杉禅秀の乱で大掾満幹に従って戦功を挙げ、次第に勢力を増した。1522年、10代幹綱の時、同族の島崎城主島崎利幹(安国)に攻められ落城し、幹綱は自害した。その子政幹は佐竹義篤の下に逃れ、その保護を受けた。その後の長山城の歴史は不明である。

 長山城は、かすみの里公園の南にある比高15m程の丘陵上に築かれている。その東側には、島崎氏が長山城を攻めた際に夜間渡渉したことからその名が付いたという夜越川が流れている。東西に主郭・二ノ郭を並立し、その間を大堀切で分断した一城別郭の構造となっている。二ノ郭の西側もクランクした堀切、また主郭から北に伸びる丘陵にも堀切が穿たれている。主郭・ニノ郭共に周囲に腰曲輪を廻らしており、竪土塁上の物見台から横矢を掛けるなど、厳重な防衛線を敷いている。またこの地域の他の城と比べると、虎口への動線構造は相当厳重で、際立って技巧性の高い構造となっている。二ノ郭東の大堀切沿いに、虎口郭を張り出させ、そこから複数方向に城道を分岐させている。一方、主郭南側の虎口に繋がる城道は土塁で防御されている。この他、大堀切から東側に側方に櫓台を張り出させた囮虎口まで構築されている。北の堀切沿いに大きな内枡形の虎口も設けられ、やはり周囲を物見の土塁で囲んでいる。長山城は、規模的には比較的小規模なものであるが、かなり技巧を凝らしていることが伺われる。
櫓台を備えた囮虎口→IMG_0987.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.974325/140.513678/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
nice!(2)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

麻生藩陣屋(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0804.JPG←陣屋跡の現況
 麻生藩陣屋は、1604年に麻生に入部した新庄氏が常陸・下野3万300石を領して立藩し、新たに構えた陣屋である。初代直頼から15代直敬まで267年間、一度の移封もなく幕末まで存続した。陣屋内には、藩内子弟の教育のため藩校「精義館」が設けられたと言う。
 麻生藩陣屋は、現在麻生小学校の敷地となっている。遺構は全く残っておらず、小学校前の解説板だけが往時の歴史を伝えている。尚、小学校の東側に麻生藩家老屋敷(畑家)が移築されて残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.988823/140.485375/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

麻生城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0729.JPG←西側台地基部の横堀・竪堀
 麻生城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、麻生氏の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の次男忠幹が行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したのが行方氏の始まりである。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。1184年、宗幹の所領はその四子に分与され、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏を称した。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していたが、戦国期に入ると同族間で抗争し、島崎氏が頻りに外征を行って勢力を拡大し、小高氏を凌ぐ勢力になった。1584年、麻生氏17代之幹(常安)の時、島崎義幹に麻生城を攻略され、麻生氏は滅亡した。その後7年にわたって島崎氏が麻生城を支配したが、1591年、佐竹義宣による所謂「南方三十三館」によって、義幹は他の鹿行諸族15名と共に常陸太田城で謀殺され、滅亡した。その後、佐竹氏の家臣下河辺氏が入城したが、1602年に佐竹氏が出羽秋田へ移封となるとこの地を離れ、麻生城は廃城となった。1604年、摂津高槻から新庄直頼が3万300石でこの地に入封し、麻生城の東400mの平地に麻生陣屋を築いた。

 麻生城は、霞ヶ浦東岸の比高20m程の丘陵上に築かれた城である。広い平坦面を持った丘陵全体を城域としており、現在は羽黒山公園となっている。その為主郭とされる平場全体に公園化による改変が見られ、どこまで往時の遺構が残っているのかわかりにくいが、主郭の周囲には腰曲輪が廻らされていた様である。この城の見所は西側の台地基部で、ここには土塁や横堀・竪堀を縦横に絡めた複雑な防御構造が見られる。主要部が規模は大きいものの簡素な構造である反面、西側部分のみ技巧を凝らした一点豪華主義の縄張りで、何とも理解が難しい城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.989796/140.480375/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小高城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0516.JPG←主郭南の横矢掛かりの堀切
 小高城は、大掾氏の庶流で行方氏の惣領、小高氏の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の次男忠幹が行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したのが行方氏の始まりである。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。1184年、宗幹の所領はその四子に分与され、長子為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に行方城から小高の地に居城を移し小高氏を称した。尚、宗幹の次男高幹は島崎に分封されて島崎氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していたが、戦国期に入ると島崎氏が頻りに外征を行って勢力を拡大し、小高氏を凌ぐ勢力になった。一方、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、小高氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。小高城もこの時攻め落とされ、小高氏は滅亡した。この後、佐竹一族の北義憲(佐竹北家)が小高城主となり、1595年には大山義則が城主となったが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、小高城は廃城となった。

 小高城は、比高20m程の丘陵先端部に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、ここでは先端から順にニノ郭、主郭、三ノ郭、四ノ郭、五ノ郭と称する。二ノ郭はマンダイ(政台?政殿?)と呼ばれ、全周を土塁で囲んだ細長い曲輪である。また外周には腰曲輪を全周に廻らし、北側には堀切兼用の城内通路を挟んで、一段高くなった前衛小郭を置いている。また西の中間部に搦手虎口があり、その脇と腰曲輪の南西端にそれぞれ動線制約の竪堀が穿たれている。二ノ郭の南に、堀切を介して主郭がある。主郭はウチミジョウ(内御城)と呼ばれ、かなりの広さを持った曲輪で、現在畑となっている。ここも南東辺以外の三方のほぼ全周を土塁で囲み、北西辺から南西編に掛けて延々と横堀を巡らすなど、最も防備が厳重である。しかも横堀外周の土塁の西端に櫓台を設け、その下方に横堀・二重堀切を穿っている。また主郭南東側も2ヶ所に横矢の張り出しを設けている。北東の横矢掛かりは主郭に土壇を設け、下方はクランクした横堀状通路となっている。南東の横矢掛かりは、三ノ郭側も横矢の張り出しを設け、双方からクランクした堀底に横矢を掛ける技巧的縄張りとなっている。南東斜面は斜度が緩く、腰曲輪群が広がっている。主郭を介して主郭の南にあるのが三ノ郭で、ナカジョウ(中城)の地名が残り、現在は畑になっている。三ノ郭と四ノ郭の間の堀切は、現在は湮滅しているが、昭和20年代の航空写真を見ると堀のラインが確認できる。曲輪の大きさと位置関係からすると、三ノ郭は馬出し機能を持った曲輪であったらしい。更に四ノ郭・五ノ郭が続き、その間の堀も北端部を除いて湮滅している。四ノ郭の北側の山林内にも遺構があり、横堀や堀切、片堀切を介して繋がった物見台などが眠っている。小高城は、全体に曲輪の規模が大きく、技巧的な縄張りも要所に見られ、この地域の中核的城郭として機能したことが伺われる。それ故、鹿行諸族を滅ぼした後、佐竹氏は一族の重臣をこの城に入れて治めさせたのだろう。
片堀切を介して繋がった物見台→IMG_0684.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.036589/140.474389/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

相賀城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0387.JPG←主郭周囲の屈曲する横堀
 相賀城は、相賀氏の居城である。現地解説板によれば、平安末期に逢賀太郎親幹が築いた城で、この頃は「逢賀城」と呼ばれていたらしい。逢賀氏の出自は手元に文献がなく不明であるが、「幹」の一字を名前に有することから、鹿行地方の諸豪と同様に大掾氏の一流であったのだろう。その後の事績は不明で、戦国期には手賀左近尉義元(相賀入道)が再建して、相賀城と呼ぶようになったと言うことから、逢賀氏は一時断絶したものらしい。一方、義元は手賀氏の一族であろうから、手賀氏の本家に当たる玉造氏による南方進出策でこの地に入部したものであろうか。その後、相賀入道の婿の彦四郎は、小高氏の軍勢と戦って討死したと言う。相賀城最後の城主手賀三郎四郎は佐竹氏に攻められ滅亡したと言われているが、『和光院過去帳』に記載された「南方三十三館の仕置」で常陸太田城に誘殺された16名の中に「アウカ殿」とあることから、当時は「相賀殿」と呼ばれており、太田城で殺された様である。誘殺の後、直ちに佐竹義宣は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした。相賀城で戦闘があったかどうかは不明であるが、いずれにしても城主なき城では佐竹氏の圧倒的な軍事力に対抗できるはずもなく、程なく制圧されたのだろう。以後、廃城となったと思われる。

 相賀城は、雁通川の北浦流入点の北に位置する比高30m程の丘陵上に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、南端から順に主郭、二ノ郭、繋ぎ小郭、三ノ郭、四ノ郭、外郭と連なっている。この中で防備が最も厳重なのが主郭で、現在八幡神社が建っているが、その後ろに土塁が築かれ、南東面には腰曲輪、それ以外の三方は横堀で防御している。横堀は中々複雑な構造で、斜面を昇り降りしながら幾重にも屈曲させ、途中には竪堀まで落としている。主郭背後は堀切を介して二ノ郭がある。二ノ郭は両サイドに腰曲輪を設け、特に南東面のものは数本の竪堀を落としている。二ノ郭背後の堀切は南東に竪堀が長く落ち、それに沿って竪土塁も築かれている。その次の繋ぎ小郭は北西面の長い土壇とその下の平場の2段に分かれているが、土壇には中間に小堀切が穿たれ、側方には竪堀が落ちている。繋ぎ小郭と三ノ郭の間も堀切で分断されている。三ノ郭は東角に土壇があり、南東斜面には塹壕状の帯曲輪が構築されている。三ノ郭と四ノ郭の間も長い堀切で分断されているが、後世の改変でだいぶ埋められてしまっている。しかし南東に落ちる竪堀は往時のままである。四ノ郭は広大な曲輪で、有事の際に城下の民衆を収容したのかもしれない。現在は全域が耕地化され、ここに解説板が建っている。更に北に外郭があるが、四ノ郭との間は自然地形がそのまま堀切的な役目を担っている。外郭も畑に変貌しているが、東面に腰曲輪らしい段や横堀状の地形が見られる。以上のように、堀切と竪堀を多用した城であるが、それほど技巧的という感じはなく、縄張り的に少々中途半端といった印象を受けた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.018507/140.535929/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

札城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0290.JPG←主郭周囲の空堀
 札城は、大掾氏の庶流で馬場氏の一族、札氏の居城である。馬場繁幹がこの地を領して札城を築き、その子幹高より札氏を称したとされる。その後の事績はあまり明確ではないが、最後の城主は札治部大輔幹繁で札・阿玉を領していた。1591年、佐竹義宣による所謂「南方三十三館の仕置」で、鹿行地域の諸豪が陰惨な謀略によって常陸太田城で誘殺された際、幹繁は危うく難を逃れ、小里村(久慈郡里美村)に逃れて蟄居し、15年後に郷里へ帰ったが病死し、札氏は滅亡した。

 札城は、北浦東側の比高15m程の丘陵上に築かれている。基本的には連郭式の縄張りで、北から順に北出曲輪(笹曲輪)、主郭、二ノ郭、三ノ郭と連なっている。北出曲輪は、左右に竪堀状虎口を築いていることから、実質的に主郭の馬出しとして機能したらしい。特に西側の竪堀状虎口には枡形も構築されている。主郭は山上の方形郭で、全面が薮だらけで進入できないが、北辺と南東角部に土塁が確認できる。主郭の西側以外の三方は空堀で囲まれ、北と南のものは各曲輪を分断する堀切を兼ねている。空堀の外側には帯曲輪が構築されて斜面からの敵の接近を防衛している。また南東部には2本の竪堀が落ちている。二ノ郭は大きな切岸で2段の平場に分かれており、下段は「エトク屋敷」と呼ばれているらしい。ここには民家がある。上段は不定形な櫓台を兼ねたと思われる高台になっている。二ノ郭~三ノ郭間も堀切で分断され、現在は小道が通っている。三ノ郭は普門寺境内となり、墓地が造成されているので改変を受けているが、ある程度旧状を残しており、北に向かって段々に高くなっており、北辺に土塁が見られる。南にも大きな土壇があり、往時の櫓台の跡のように見受けられる。札城は、明確に遺構が残っているが、解説板もなく未整備で、少々残念である。また全体に、割と平易な縄張りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.085714/140.547388/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

木崎城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0175.JPG←大空堀に張り出した櫓台
 木崎城は、常陸武田氏の居城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り、隠れ住んだことに始まる。当初は神明城を居城としていたが、1533年、武田氏8代民部大輔通信の時、新たにより要害性の高い木崎城を築いて居城を移したと言われている。戦国後期には鹿島氏、大掾氏などと抗争を繰り広げ、野友城を築くなど勢力を伸ばしたが、1591年に佐竹氏の手によって滅亡した。即ち、1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族らを陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した武田信房ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。木崎城で戦闘があったかどうかは不明であるが、いずれにしても城主なき城では佐竹氏の圧倒的な軍事力に対抗できるはずもなく、程なく制圧されたのだろう。以後、廃城となったと思われる。

木崎城は、神明城より武田川の1.7km程下流にある城で、神明城同様、北に向かって張り出した台地上に築かれている。しかし微高地程度の神明城より要害性の高い、比高20m程の独立丘陵の上に位置している。縄張りは、丘陵北端部に主郭・二ノ郭を東西に併置し、空堀を挟んで南に広大な三ノ郭、更に大空堀を穿った南に小規模なⅣ郭・Ⅴ郭等の外郭を備えている。主郭はほぼ方形の曲輪で、3つの隅櫓台を有している。また外周に横堀を巡らして防御を固め、南辺だけ土塁を築いている。主郭内には現在香取神社が建っている。二ノ郭もやや縦長の方形の曲輪で、北西側にだけ土塁が築かれ、主郭との間は浅い空堀、また北斜面には主郭北側から続く横堀が防御を固めている。二ノ郭東には広い腰曲輪が築かれ、その北端には櫓台を形篇したと思われる墓地がある。三ノ郭は畑などに変貌し、工場も建っている。三ノ郭の南側は土塁が築かれ、幅10m以上もある大空堀で断絶されている。ここにはⅣ郭に向かって土橋が架かり、両翼に横矢張り出しの櫓台が築かれている。この空堀付近は綺麗に整備されていて、櫓台の横矢掛かりがはっきりと確認できる。千葉の坂田城にもこうした櫓台があったが、薮が多くて見栄えが悪かったので、坂田城もこのぐらい綺麗に整備してくれればと思った。大空堀は、東西の端まで掘り切っており、東側は三ノ郭東の腰曲輪に繋がっている。大空堀の外にはⅣ郭・Ⅴ郭が東西に並び、Ⅳ郭は逆三角形で低土塁に囲まれた馬出し的曲輪、Ⅴ郭は南の防衛線となる東西に細長い砦的な曲輪となっている。Ⅳ郭・Ⅴ郭の周りにも横堀や腰曲輪が築かれている。傾斜の緩い南面への防衛を重視していたことが見て取れ、戦国後期の築城技術を見ることのできる良好な遺構である。
主郭外周の横堀→IMG_0106.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.098007/140.508399/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神明城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0043.JPG←主郭全景、部分的に土塁が残存
 神明城は、武田城とも呼ばれ、常陸武田氏の初期の居城である。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族で、上杉禅秀の乱の際に禅秀方に付いて敗北し、その一族の武田信久が甲斐から逃れて常陸南部に移り、隠れ住んだことに始まる。神明城は、この信久が応永年間(1394~1427年)に築いたとされる。その後の1533年、武田氏8代民部大輔通信の時、新たに木崎城を築いて居城を移したと言われている。その後の神明城の動向は不明である。

 神明城は、国道354号線の北側の半島状の微高地に築かれている。北には武田川が流れており、往時は周りを低湿地帯に囲まれた要害であったのだろう。縄張りは、昭和20年代の航空写真を見ると、微高地の上に先端(北)から主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を堀切を介して連ねた連郭式であった。現在、四ノ郭は民家や畑に変貌し、大きく改変されて湮滅している。現在国道が貫通しているのが、三ノ郭の空堀に当たる。三ノ郭は、前述の航空写真からすると、実質的に二ノ郭の馬出しとなる曲輪で、最も規模が小さい。二ノ郭は全体にクランクした形状の曲輪で、西辺と南辺に張り出しの櫓台を設けて横矢掛かりを意識している。主郭はほぼ方形の曲輪で、やはり西辺に張り出しの櫓台を設けている。また主郭・二ノ郭とも堀切はやや歪んだ形状で、横矢掛かりを意識している。主郭・二ノ郭の周りには一段低く腰曲輪が取り巻いており、主郭の北東にある神明神社付近に、土塁や堀状の溝地形が残っている。これらは北側の低地帯に対する防御であろう。この他、主郭・二ノ郭に部分的に土塁が残存しているが、耕地化による改変があるので、全周に土塁が築かれていた可能性もあろう。各曲輪を分断する堀切はものすごいガサ薮に埋もれていて、その形状を把握することができない。遺構は比較的よく残っているので、もう少し整備されればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.103139/140.490460/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中居城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0905.JPG←二ノ郭外周の横堀
 中居城は、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族、中居氏の居城である。鹿島三郎政幹の3男四郎時幹がこの地に分封されて、中居氏を称した。当初時幹は、白鳥城を築いて居城としたが、勢力の拡大に伴って手狭となり、新たに中居城を築いて居城とした。その後、中居氏歴代の居城となり、東方に西山館、南方に新館を置いて備えを固めていた。1591年、佐竹氏による所謂「南方三十三館の仕置」によって、時の当主中居秀幹は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏16名と共に常陸太田城で誘殺されて滅亡した。尚この時、敵に備えて壕掘作業をしていた領民達は、城主の死を聞くと作業を中止し、念仏を唱えて亡き領主を弔ったことから、その未完成の堀のこと念仏堀と名付けたと言う。

 中居城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれた城である。個人の持ち山であるが、登り口に解説板が建ち、中に入ることができる。訪城した際、たまたま老夫婦が竹藪を伐採中であったが、遺構の探索を快く承諾いただけた。高齢化で整備が行き届かないせいか、かなりの竹藪地獄の城であるが、遺構はよく残っている。ひしゃげた菱形状の曲輪が城の中心で内部は切岸で2段に分かれ、東の高い方が主郭、西の低い方が二ノ郭となっている。2つの曲輪とも、外周を土塁で防御し、北東端と南西端に隅櫓台を築いている。これらの曲輪の周囲には延々と横堀が巡らされ、西辺で横矢のクランクがあり、また前述の隅櫓台周りでは横堀が鋭角に曲がって、櫓台上からの射角を稼いでいる。また主郭の東や北東に外郭があったらしく、現在曲輪部分は掘削されてほとんど湮滅しているが、周囲の横堀と土塁は残っている。しかしこの辺りは特に薮が激しく、念仏堀も確認が大変である。一方、大手虎口は南側にあり、特に主郭虎口には動線制約の竪堀が穿たれ、また横堀外周の土塁に繋がる土橋が架かるなど、中々技巧的な部分もある。今後、市が整備を代行するなどして、遺構を確認しやすくしてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.083494/140.566399/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

林城[外城](茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0685.JPG←大手虎口と大堀切
 林城は、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族、林氏の居城である。鹿島三郎成幹の6男頼幹がこの地に分封されて、林六郎左衛門と称し、林氏の祖となった。戦国時代になると、林氏は勢力を拡大し、1486年に江戸氏が徳宿城を攻撃した時には、徳宿氏救援に総動員された鹿島地域の国人衆の中で、鹿行諸氏の筆頭鹿島氏に次いで林八郎・林新五郎の名があり、相応の勢力を有していたことが伺われる。戦国末期の1589年、時の城主林弾正時国は、札村の渡し場で荒原五郎左衛門と言う者に殺害されて滅亡、城は廃されたと言う。

 林城は、中城と外城の2つの城が、低地帯を挟んで向かい合う台地先端部に築かれている。外城は南から北に突き出した比高30m程の台地先端部に築かれているが、その遺構は極めて巧妙なものである。北端の左右に主郭・二ノ郭を並立させ、規模の大きな堀切を挟んで三ノ郭が南に続き、更に四ノ郭などの外郭が続いている。主郭・二ノ郭の北斜面は、内側に窪んだ形状をしており、そこに何段かの腰曲輪が築かれ、登り道が付いている。主郭と二ノ郭は共に外周に土塁を築いて防御し、更に要所の塁線を歪ませたり、張り出した隅櫓台を築いて防御を厳重なものとしている。主郭と二ノ郭の間は土塁と空堀が断片的に残存しているが、近世の耕地化で一部が湮滅したものだろう。主郭と二ノ郭の間の南側には大手虎口があり、隅櫓で側方を守られた木戸跡が確認できる。ここから降りた大堀切にはやはり東西に横矢掛かりの櫓台張り出しが設けられている。その南の三ノ郭も土塁で防御された曲輪で、内部には枡形状の仕切り土塁などが残っている。三ノ郭も背後の堀切に対して横矢張り出しの櫓台を2ヶ所設けている。この他、四ノ郭や外郭にも堀状の溝、土塁、武者走りが残り、四ノ郭の東斜面には堀切や竪土塁、櫓台等が見られるが、この辺りは未整備の薮で覆われている。これら以外にも東西の斜面に多くの腰曲輪が見られる。林外城は、鹿行地域の諸城の中でも屈指の技巧的縄張りを有する城で、主要部の整備も行き届いており、必見である。その縄張りからは、小田原北条氏の築城技術の影響が垣間見られるのも興味深い。
三ノ郭の横矢掛かり→IMG_0861.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.007052/140.609400/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
nice!(6)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鹿島城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0453.JPG←主郭切岸と空堀
 鹿島城は、大掾氏の庶流鹿島氏の歴代の居城である。大掾繁幹の子吉田清幹の三男成幹が鹿島郷に土着して、鹿島三郎と称して鹿島氏の祖となった。成幹の子政幹は、はじめ宮本郷粟生に住んでいたが、後に鹿島神宮西方の吉岡に鹿島城を築いて本拠を移した。以後、鹿島氏歴代の居城となった。政幹は源頼朝から鹿島神宮の神領中の非違を検断する鹿島神宮総追捕使に任じられ、大掾氏の有力支族として勢力を拡大した。また鹿島氏からは、成幹の次兄忠幹に始まる行方氏と共に、鹿行地域に広く一族を分封して徳宿・烟田らの諸族を輩出し、後に「南方三十三館」と称される国人衆の多くは鹿島氏・行方氏の庶家であった。南北朝時代になると、鹿島幹寛・幹重父子は、宗家の大掾氏と共に北朝方に付き、佐竹義篤に従って北畠親房が拠る神宮寺城の攻撃に参加するなど常陸各地に転戦し、1352年には足利尊氏に従って、幹重は武蔵野合戦に参陣した。1368年、幹重は鹿島惣大行事職に補任され、以後鹿島氏当主が惣大行事職を世襲した。戦国時代に入ると、鹿島氏は家中において内訌が生じるようになった。1512年、鹿島景幹が、下総米野井城を攻めて討死すると、弟の義幹が養子として家督を相続した。義幹は、1523年に鹿島城を大改修したが、暴政を行った為重臣達は義幹を追放し、大掾高幹の弟通幹を迎えて景幹の娘を娶らせ、新たな鹿島氏当主とした。義幹は下総国の東氏を頼って逃れ、翌24年、鹿島城奪回の兵を起こし、利根川から舟によって高天原に上陸した。迎え撃った通幹勢との間で激戦となり、義幹は討死にした。その後、義幹の孫治時は佐竹氏に従い、鹿島城を回復した。治時の没後、鹿島氏は兄弟相争う内訌を3度にわたって繰り広げ、更に江戸氏や千葉氏など周辺勢力の介入を許し、鹿島氏の勢力は衰退した。1590年の小田原の役では、鹿島氏は大掾氏一族と同様に豊臣秀吉の元へ参陣しなかった為、役後その所領は佐竹氏に委ねられた。佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した鹿島清秀ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。鹿島城も、清秀の妻や重臣達が城に立て籠もり半月ほど徹底抗戦したが、佐竹勢に大砲を撃ち込まれて落城し、以後廃城となった。その後、清秀の遺児伊勢寿丸(後の幹連)は落ち延びて生き残り、徳川家康によって再興を許されて古の惣大行事職を継いだ。こうして鹿島氏は武家としてではなく、神宮に奉仕する家門として存続した。

 鹿島城は、北浦東方の比高30m程の台地辺縁部に築かれている。主郭は現在城山公園となっている。改変を受けているが、外周に土塁らしき跡が残り、主郭周囲の空堀もはっきりと残っている。主郭周囲の腰曲輪と思われる平場も確認できる。主郭の周りに広がる台地が二ノ郭に当たるが、市街化が激しく、遺構はほとんど湮滅している。僅かに外堀跡が車道などとなっているだけである。しかし主郭の広さを見るだけでも、かなり規模の大きな城であったことが推測でき、往時の鹿島氏の勢威の強さを窺うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.968264/140.622296/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

手賀城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0403.JPG←大手虎口脇の北斜面の横堀
 手賀城は、大掾氏の庶流で玉造氏の一族、手賀氏の居城である。平安末期の治承年間(1177~80年)に、行方氏の祖、行方宗幹の4男幹政がこの地に分封されて玉造氏を称し、その次男正家が手賀に分封されて手賀氏を称した。以後、その子孫は代々この地を領したが、手賀城がいつ頃築かれたかは明確ではない。時代は下って戦国中期になると、手賀与一郎景幹は玉造宗幹を援けて、小田氏治と戦った。この頃には、山入の乱・部垂の乱などの内訌を克服し、家中統一に成功した佐竹氏の勢力が常陸南部にも及ぶようになり、玉造氏・手賀氏らの国人衆も佐竹氏に従属せざるを得なくなった。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した手賀高幹ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。城主なき手賀城も落城し、以後廃城となった。

 手賀城は、比高30m程の台地先端部に築かれている。ひどい薮城で、城域の8割程がものすごい竹薮と倒竹地獄となっており、遺構の確認が容易ではない。台地先端に主郭を置き、その周囲に腰曲輪をぐるりと巡らしている。更に南西端に舌状腰曲輪を築き、北西にも小郭を置いている。腰曲輪の北斜面には何ヶ所かの折れを持った横堀が穿たれている。主郭は平坦な長方形の曲輪で、主郭の東続きに、間をややくびれた堀切状の虎口で区画した馬出郭が築かれている。馬出郭は土塁で防御し、その東側の台地基部は規模の大きな二重堀切で分断されている。そのさらに東は外郭らしいが、どこまでが城域かは判然としない。二重堀切の1本目の南側横には櫓台と竪堀を伴った木戸口が設けられ、主郭に通じる城道が小郭を経由して伸び、搦手虎口であったことがわかる。またこの堀切から竪堀が下り、途中で二重竪堀となり、その西側には南斜面の腰曲輪が確認できる。一方、1本目の堀切の北側から北斜面にかけては、この城一番の遺構が見られる。主郭腰曲輪から竪堀状の虎口が伸びていて、その東側に2段の横堀が斜面に沿って穿たれ、竪堀状虎口の西側は前述の北斜面の横堀が接続している。この下にL字状の土塁で構築された枡形虎口が伸びている。これが大手であろう。一方、先ほどの2段の横堀はL字に屈曲して、二重堀切の1本目に接続している。従って、2段の横堀の中間土塁もL字状の独立した土塁となっている。この様に手賀城は、大手虎口に対して多重横矢の塁段・横堀を設けて厳重な防御を施しており、戦国後期の改修を想起させ、中々の技巧性を持った縄張りの城である。とにかく、竹薮がひどいのだけが難である。
馬出郭の切岸と二重堀切の1本目→IMG_0343.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.091627/140.432053/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(茨城) ブログトップ
メッセージを送る