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古城めぐり(茨城) ブログトップ
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寄居城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7460.JPG←主郭の土塁と空堀
 寄居城は、水戸城主江戸氏の家臣平野氏の居城である。戦国後期に、額田城の額田小野崎氏(額田氏)に対する最前線の防衛拠点として整備されたと考えられている。1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって江戸氏が攻撃された際、寄居城は佐竹氏の第一目標として攻撃されて落城し、平野氏一族はほとんどが討死した。生き残った一族は結城氏を頼って落ち延び、佐竹氏が出羽秋田に移封となった後にこの地に戻って帰農したと言う。

 寄居城は、県道31号線と172号線の交差点の北西部に位置している平城である。多重空堀で囲まれた環郭式の城で、中心に墓地に変貌した主郭があり、主郭周囲は土塁と空堀が概ね良く残っている。主郭の南西部や取り巻く山林の外周部などにも空堀が残っている。北西に広がる外郭周囲の掘は、小さく溝レベルであるが、西側や南西の堀は中規模で土塁を伴い、一定の防御力を有している。また、県道31号線沿いの民家前にもわずかに土塁と堀があり、民家の敷地が往時は南の外郭となっていたことがわかる。横矢掛かりは、主郭の北辺中央のみに確認できる。遺構はよく残っており、特に主郭の土塁と堀はしっかりしているが、藪が多い上、堀がゴミ捨て場になっているのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.437943/140.512090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高内館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

DSC08933.JPG←主郭北側の二重空堀
 高内館は、宮田掃部助という武士の居館と言われており、別名を宮田掃部助館とも言う。宮田掃部助は、日立宮田館の館主宮田氏5代通豊の弟通宗で、掃部助と称して菅谷に入部したと言う。
 高内館は、素鵞神社の東側一帯に築かれた方形居館である。主郭は現在、民有地の畑となっている。往時は主郭の全周を土塁と堀で囲んでいたと思われるが、南西側半分は湮滅している。しかし残存している部分の土塁と空堀だけでも立派なもので、殊に北側は二重空堀となっており、見応えがある。この他にも北側に浅い堀が穿たれている他、主郭の北西角の西側にも土塁と堀が若干であるが続いており、複郭で構成された立派な城館だったと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.449094/140.509729/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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鷺内館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7376.JPG←主郭周囲の土塁と堀
 鷺内館は、加藤安房守という武士の居館と言われており、別名を加藤安房守館とも言う。加藤安房守については、1575年の佐竹氏による宍戸攻撃の際、江戸氏の配下として出陣したと伝えられているらしい。しかし宍戸氏は、一定の独立性を保ちつつも佐竹氏に服属していたはずなので、佐竹氏に攻撃された事自体が史実かどうか不明で、はっきりしたことはわからない。ご存じの方がいたらご教示を請う。
 鷺内館は、鷺内不動尊の西側に広がる林の中にある。林の中を探索すると、溝のような堀が走っている。主郭は台形状の曲輪で、堀で囲繞され、南には土橋が架かり、北辺の堀には横矢掛かりの折れが見られる。主郭の周辺にも堀が確認できるがいずれもかなり浅いものである。土塁はあるにはあるが、規模は小さく僅かである。全体に根城内館に似た印象で、あまり中世城館らしくない。『図説 茨城の城郭』によれば、那珂市の平地城館群は、近くの溜池から用水路を引いて水利権を管理した領主の城館、ということだが、根城内館と言い、主水山館と言い、この鷺内館と言い、あまりに無防備で中世の武士の居館とは考えにくい。どちらかと言うと、灌漑施設の管理事務所的な使い方をされた館だったのではないかと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.467025/140.488400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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薬山館〔旧称・主水山館〕(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7298.JPG←主郭の土塁と堀
 薬山館〔旧称・主水山館〕は、歴史不詳の城館である。隣接する根城内館と同様、数年前に新発見された城館で、溜池から水を引いて水田管理を行っていたと推測されている様だ。
 薬山館は、又三池の東側の平地に、根城内館と沼を挟んで向かい合う様に築かれている。堀で囲まれた主郭と思しき曲輪と、その周りの平地に穿たれた幾つかの堀で構成されている。根城内館よりは堀がやや大きく、明確な土塁も確認でき、よりしっかりした普請がされており、城館らしい構えを見せている。とは言え、防御性はほとんど無く、根城内館と同様、官衙遺跡の様な印象である。強いて考えれば、佐竹氏による額田城長期攻囲戦の際に、臨時の兵站基地(倉庫)として築かれた可能性もあるだろうか。川越市下広谷地区の城館群と同じ様に。或いは灌漑施設の管理事務所的な館だったものだろうか。判断に迷うところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.471839/140.476770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※Pさんから頂いた情報で、茨城大学で調査の結果、主水山館と仮称されていた館は、「薬山館」に正式名称が決定したとのことで、本項の呼称も修正しました。(2017-7-20追記)
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根城内館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7273.JPG←溝状の堀
 根城内館は、歴史不詳の城館である。数年前に新発見された城館で、溜池から水を引いて水田管理を行っていたと推測されている様だ。
 根城内館は、又三池の西側の平地に築かれている。畑の奥に八坂神社の小さな祠があり、その横に溝状の堀が走っている。基本的に館内には土塁がなく、浅い溝状の堀が方形に取り巻いているだけである。主郭と思われる曲輪の南には一応土橋らしいものが見られ、郭内への出入りに使われた痕跡は窺える。この他、又三池沿いに土塁が残っているが、これは土塁と言うより堤防と言った趣である。はたしてこれらを中世城館の遺構と言うべきなのだろうか?見た限りでは、農耕用の水路か、強いて言えば官衙遺跡の様な溝で、堀とは言い難い。

 お城評価(満点=五つ星):-(城館遺構か微妙なので、評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.472340/140.474517/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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南酒出城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7151.JPG←主郭虎口の土橋
 南酒出城は、佐竹氏の庶流南酒出氏の居城であったと言われている。鎌倉初期に、佐竹秀義の次男義茂が承久の乱での戦功により、この地を与えられて城を築き、南酒出氏を称したと言われている。後に、佐竹氏に与えられた美濃国山田郷の支配を命じられてこの地を離れた。その後、佐竹氏15代義治の孫東義賢がこの地に入り、酒出氏を称した。義忠の時に、佐竹宗家に従って出羽秋田に移り、廃城となったと言われている。しかし最近の研究では、内宿集落より低く、東に偏って築かれていることから、南酒出氏の城ではなく、額田城攻撃のために佐竹氏が築いた付城ではなかったかとの説が提示されている。

 南酒出城は、久慈川からやや離れた段丘に沢筋が入り込んだ部分の段丘先端に築かれている。南東端に主郭を置き、その西側に二ノ郭、北側に広がる台地に三ノ郭・四ノ郭が配置されていたと推測されている。しかし三ノ郭は、西辺部分以外は全面耕地化し、四ノ郭は蒼龍寺となって改変されており、遺構は湮滅している。一方で、主郭は完存し、二ノ郭も8割程度の遺構が残っている。主郭はかなり広い面積を有した曲輪で、しかも外周に土塁を築いて防御している。殊に背後に当たる西辺の土塁は高さがあり、しっかり普請されたものである。南寄りに虎口が築かれ、二ノ郭に向かって土橋が架けられている。主郭の周囲は大きな空堀が穿たれ、主郭北面には1ヶ所だけ、張出した櫓台が設けられている。空堀外周にも土塁が築かれ、東の谷戸に向かって落ちている。落ちていく途中に木戸口らしい部分や側方に平場が見られることから、下の低湿地帯に設けられた船着き場に通じる通路であった様である。二ノ郭にも空堀・土塁が築かれ、堀の規模は大きくないが西側中央付近に横矢掛かりのクランクが見られる。その西側には、三ノ郭の一部が南に伸びてきているが、ここにも空堀や土塁が残っている。この中には、曲輪内部に堀状の溝が空堀と並走しているが、どのような役割をもっていたのかは、少々わかりにくい。遺構としては以上であるが、付城と推測されるほど臨時的な城砦ではなく、本格的な普請をされた城である。一方で技巧的な部分は少ないので、戦国末期の額田城攻防戦ではなく、室町中期の額田城の長期攻防戦で構築された可能性は捨てきれないと感じた。
二ノ郭周囲の空堀→IMG_7095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.479638/140.494967/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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額田城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6897.JPG←二ノ郭の大規模な横矢掛かり
 額田城は、額田氏の歴代の居城である。額田氏には時期が異なる2流があり、最初のものをここでは前期額田氏、後のものを後期額田氏と称する。前期額田氏は佐竹氏の庶流で、鎌倉時代前期の建長年間(1249~56年)に、佐竹氏5代義重の次男義直がこの地に分封されて、額田城を築いて居城としたと伝えられている。南北朝時代には、額田義廉は佐竹宗家に属してその一翼を担い、足利方として各地を転戦したが、京都争奪戦の中で討死し、一族の昌直がその跡を継いだ。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、額田義亮は同族の山入与義を盟主として長倉氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。額田氏は終始佐竹宗家に反発し、1417年に額田城に立て籠もった。1423年、長期の攻防戦の末に佐竹義憲に攻められて落城し、前期額田氏は滅亡した。その後、山尾城主小野崎氏の一族小野崎通重が佐竹氏から額田城主に任じられ、額田氏を称した(後期額田氏)。通重には継嗣がなく、水戸城主江戸氏から通栄を養子に迎えた。1529年に部垂の乱が生起して佐竹家中が再び動揺すると、1535年、石神城主小野崎通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は石神小野崎氏の同族、額田篤通にこれを鎮圧させた。その後、1547年に額田氏・石神氏は領地争いを起こし、額田氏は石神城を攻め落とした。戦国末期になると江戸氏に内紛が起き、その対応を巡って額田照通は佐竹義宣と対立するようになった。そして1591年、義宣は照通に異心ありとして額田城を攻撃し、落城させた。照通は、かねてより誼を通じていた伊達政宗の元に逃れたが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、常陸に戻って水戸徳川氏に仕えたと言う。

 額田城は、久慈川支流の小河川の北に位置する段丘上に築かれている。県下でも屈指の規模を持つ巨大な城で、大空堀・大土塁・大型曲輪のオンパレードといった趣である。現在遺構が明確に残っている曲輪は大きく5つあり、丘陵南端に主郭、その北に横長の二ノ郭・三ノ郭、主郭西側には四ノ郭、主郭の南下方には捨曲輪と配置されている。各曲輪の間は規模の大きな堀で分断されているが、低湿地帯に面した湧水が多い土地の様で、主郭や二ノ郭周囲の堀には、水が溜まっている。このことから、城で最も大切な水の確保には事欠かない城だったことが伺え、前期額田氏の長期籠城戦が可能だったのも、そんな城の特性が寄与していたものと推察される。また各曲輪外周には土塁が築かれ、要所に横矢掛かりを設け、堀底に対して櫓台が各所に配置されている。主郭の西側は、堀の外側に大土塁が屈曲しながら南北に走り、主郭西面の防御を厳重なものにしている。この大土塁と四ノ郭の間は、自然地形を利用した大きな湿地帯の堀となっている。これらの主要部以外にも、外郭遺構が断片的に残っている。額田宿をほぼ城内に取り込んだ総構えを有していたらしく、空堀・土塁が広範囲に散在している。これらの巨大な城郭遺構は、戦国期に構築されたと考えられているので、戦国期には常陸太田城の南方を防衛する拠点城郭として、大兵力を駐屯させていたと推測される。
 段丘崖に築かれ、大空堀で曲輪群を分断した規模の大きな佐竹氏の城としては、石塚城前小屋城があるが、額田城の規模はそれらを上回る上、城内主要部ほぼ全域が公園化されて整備されているので、藪漕ぎすることなく遺構を見て回ることができる(三ノ郭北半と四ノ郭は宅地や畑になっているので、探索の際に注意が必要)。更に横矢掛かりも多用され、横矢好きにはたまらない城である。
主郭周囲の堀と土塁→IMG_7014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.488610/140.522368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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田渡城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6648.JPG←主郭横堀の横矢掛かり
 田渡城は、歴史不詳の城である。城主についても諸説あり、天文年間(1532~55年)に内桶弥太郎が築いたとも、或いは佐竹一族の佐竹義兼、額田八郎行直、佐竹東殿などとも言われ、明らかにできない。しかしいずれにしても佐竹氏の本拠常陸太田城から2.9kmしか離れておらず、佐竹氏が築いた城であることは、論を俟たないであろう。

 田渡城は、里川東岸の標高89m、比高70m程の丘陵上に築かれている。横堀を多用した要害城で、北西麓からの小道を登っていくと、幾つかの腰曲輪を経由して山腹の横堀に行き当たる。土橋が架かり、北側外周線を延々と半周する長い塹壕線である。一部に横矢掛かりも見られる。この山腹横堀の南東端は、主郭南東側の堀切から落ちる竪堀に繋がっている。また主郭堀切は主郭外周を巡る横堀と合流しており、堀のネットワークが構築されている。主郭は全周を土塁で囲み、その外周は中規模の横堀で囲繞し、北面で豪快な横矢を掛けている。虎口は3ヶ所に築かれ、大手虎口には横堀に土橋を架け、前面に馬出しを設けている。馬出し側方には主郭横堀から竪堀を落とし、馬出し周囲の横堀に通じていることから、城道を兼ねた竪堀であったことがわかる。ここへも主郭の塁線上から横矢が掛けられている。主郭の西側には横堀を挟んで二ノ郭が広がり、先端に櫓台が築かれている。更に西には物見台状の曲輪、また南西にも先端に虎口土塁を設けた曲輪を配置している。この他にも要所に竪堀を兼ねた城道があり、全体の規模はそれほど大きくはないが、かなり技巧性のある縄張りを持った山城である。

 問題は、この城を築いた意図で、佐竹氏本拠の常陸太田城に近い位置に何故このような山城を必要としたのか?ということである。戦国末期の小田原北条氏との抗争で、かなり守勢に立たされるようになってきた佐竹氏が有事に備えたものとも考えられるし、或いは山入の乱などで常陸太田城の争奪が行われたことと関連して築かれた城とも考えられ、今後の考究が待たれるところである。
山腹の長い横堀ライン→IMG_6542.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.557636/140.548890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大橋城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6473.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
 大橋城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城であったと伝えられている。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して、茅根氏の祖となった。当初は茅根城を居城としていたが、後に大橋城に居城を移したらしい。出羽秋田に移封となった佐竹氏の家臣に茅根氏がいるので、私見であるが、大橋城は戦国末期まで茅根氏の居城として続き、佐竹氏が常陸を去った時に廃城となったのだろう。

 大橋城は、茂宮川北岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南に向かって弓形になった丘陵の中央部に主郭を置き、西にニノ郭、東に三ノ郭を連ね、外周に腰曲輪を廻らしている。主郭は東・北・西の三面に土塁を築き、その外周に横堀を廻らしている。この横堀は、西と東では主郭とニノ郭・三ノ郭との間を分断する堀切となっている。主郭の南東角には隅櫓台が築かれ、主郭内部の南西寄りには櫓台を兼ねたであろう古墳が残っている。主郭南側の腰曲輪は中央部に竪堀状の虎口が築かれ、その西側は主郭からの横矢の塁線と腰曲輪南辺の土塁で囲まれた横堀状の通路が形成されている。また二ノ郭の西側には浅い堀が穿たれて、その先の平場と区画されている。三ノ郭の北側にも横堀が穿たれ、三ノ郭東側まで掘り切っている。この城へは、北西麓から城のすぐ下の墓地まで小道が付いており、その先をちょこっと直登すれば、城への到達はたやすい。しかし城内は全体に藪が多く、あまり見栄えしないのが残念である。
主郭北側の横堀→IMG_6487.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.513344/140.586591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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河合城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0685.JPG←北辺の土塁跡?
 河合城は、歴史不詳の城である。総築時期も不明であるが、応永年間(1394~1427年)には佐竹氏の譜代家臣「久慈西東之奉公衆」で、この地を発祥とする川井氏の城であったと考えられている。いずれにしても佐竹氏の勢力圏内であり、佐竹氏の支城の一つであったろう。
 河合城は、JR水郡線河合駅の付近にあった。現在城内は宅地化・耕地化され、遺構は完全に湮滅している。ちょうど駅がある位置が主郭とされる。普通なら道の形などに城の形態を残すことが多いが、この城ではそれすらほとんど明確ではなく、わずかに城の南北にある水路が堀の名残とされる。この水路に沿って土塁跡らしい土盛があるが、これすら本当に遺構かどうか明確ではない。早い時期に失われてしまった、幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.508274/140.517068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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多良崎城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0603.JPG←ニノ郭土塁と堀切
 多良崎城は、江戸氏の庶流足崎氏の居城である。元々は、鎌倉時代末期に常陸大掾吉田太郎広幹の3男、三郎里幹が多良崎氏を称し、多良崎城を築いたと言われている。しかし南北朝期に南朝側に付いたため、没落した。その後、江戸通重の次男平沢通村の裔、足立通義・通定兄弟が城主となり、足崎氏を称した。1590年、江戸氏攻略を目指す佐竹義重・義宣父子に攻められて落城し、廃城となった。

 多良崎城は、比高25m程の半島状台地に築かれている。周囲は現在は水田地帯となっているが、往時は真崎浦と呼ばれる湖が広がっていた。即ち、多良崎城は湖上に突き出した半島状台地に築かれた要害であった。遺構は完存しており、城址公園として整備されているので、夏でも訪城可能である。基本的には連郭式の城で、土塁で四周を囲んだ方形の主郭と、その前面に土塁続きの二ノ郭が、数mの段差で連なっている。主郭の西辺内側と二ノ郭内の主郭前面には浅い堀があるが、機能は良くわからない。更に二ノ郭の前面に堀切を介して三ノ郭が広がっているが、削平は甘く郭内は傾斜している。三ノ郭の北西は入江の様になっており、明らかに船溜まりになっていたことが想像される。三ノ郭の西に張り出した尾根先端は、この船溜まりと湖上を監視する物見台であったろう。三ノ郭から細尾根を北に辿ると、やや離れて平坦な平場が広がっており、北の出丸となっており、先端近くに烽火台の土壇が残っている。この他、主郭南側にも小郭と小堀切、主郭の東西に腰曲輪があり、東麓には水の手が残っている。城に続く南側の尾根筋には、2つの木戸跡の表示があるが、明確な遺構は見られない。何を以って木戸跡と特定したのか不思議に思ったが、発掘調査で確認されたものであろうか?比較的単純な構造の要害であるが、中世の湖上の城らしさをよく残しておりお勧めである。
 尚、多良崎城は、その道では有名な心霊スポットらしい。その道の人に言わせると地縛霊がウヨウヨしているらしいが、そんなこと言ってたら中世城郭巡りなんてできないよなぁ・・・。玉砕した城なんて、全国至る所にあるし。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.432211/140.572343/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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津賀城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0512.JPG←主郭虎口と蔀土塁
 津賀城は、この地の土豪津賀氏の居城であったと考えられている。津賀氏については系図不明であるが、大永年間(1521~27年)に津賀大膳、天正年間(1573~92年)に津賀大炊介が居たことが『鹿島治乱記』に記されており、津賀大膳は1524年、鹿島氏の内訌である高天原の戦いで、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪、塚原卜伝の師でもある)と戦い、これを破ったと伝えられている。

 津賀城は、北浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は城址公園として整備されており、夏でも訪城可能である。ほぼ単郭に近い小規模な城で、主郭は横方向に長い形状で、外周を土塁で囲み、南東辺の中央付近に虎口を向け、虎口を入ってすぐのところに蔀土塁を設けて視線を遮っている。また南西端には物見櫓の張り出しを設けている。主郭周囲は腰曲輪が一周し、虎口付近には空堀が穿たれ土橋が架けられている。この腰曲輪は公園化で改変を受けている可能性があり、どこまで往時の形状を残しているか不明な部分もあるが、外周には一部土塁も築かれていた様である。腰曲輪の南東の台地基部には堀切が穿たれ、その先にL字状の土塁を構築しており、馬出し的な土塁囲郭の様である。しかし不思議なのは、周囲の平場との分断はなく、意図が不明である。津賀城はその形態から見る限り、北浦の水運を監視する物見であると同時に、あくまで有事の際の詰城の位置付けだった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.037370/140.580776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鳳凰台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0457.JPG←城址の現況
 鳳凰台城は、大生城とも呼ばれ、この地の国人領主大生氏の居城と伝えられている。伝承によれば大生氏は、桓武天皇の皇子葛原親王の流れを汲む一族ということで、多くの鹿行地域の豪族と同じく、大掾氏の庶流であったと思われる。その14代の後裔大生八郎玄幹(はるもと)を祖とし、この玄幹が平安末期の1183年に鳳凰台城を築いたとされる。小田原の役の後、佐竹氏が所謂「南方三十三館の仕置」で常陸南部を制圧すると、大生氏も佐竹氏に服属した。玄幹より19代の大生弾正定守は、1614年の大坂の役に出陣する途中、駿河藤枝で流行病によって病没したと言う。

 鳳凰台城は、北浦西岸の比高35m程の半島状台地に築かれている。城内は全面的に耕地化されており、遺構は完全に湮滅している。どのような縄張りの城だったのかも、現状からでは推測不能であるが、昭和20年代の航空写真を見ると、畑の中に堀らしい跡が何ヶ所か見受けられる。東西方向に長い曲輪を南北に連ねた、基本的には連郭式の城だったらしい。北端が主郭であったと思われるが、昔の航空写真とGooglaMapの現在の航空写真と見比べると、主郭の北西部は採土で大きく削られてしまっていることがわかる。現在は先端近くの祠の奥にある城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.996393/140.554469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖橋城
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堀之内大台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0447.JPG←校庭脇の土塁っぽい土盛
 堀之内大台城は、佐竹氏が築いた新鋭城郭である。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。その後、常陸南部の支配拠点として1594年頃から堀之内大台城の築城が開始された。1596年に完成し、重臣の小貫頼久を城代として置いた。しかし佐竹氏は、関ヶ原の戦いの際の去就から、1602年に出羽秋田に移封となり、堀之内大台城はわずか7年で廃城になった。

 堀之内大台城は、比高10m程の半島状台地に築かれていた。しかし現在は開発により、遺構は湮滅している。主郭は南端にあったが、現在は牛堀中学の校地に変貌している。地勢は残っており、外周を急峻な崖で囲まれている。校庭脇に僅かに土塁らしい土盛が見られるが遺構であろうか?主郭以外の曲輪は大半が採土で消滅してしまっている。校門前に城址碑が建っているが、その文章によれば、主郭・二ノ郭・三ノ郭と出城で構成された城で、廊下橋や三重櫓を有し、二重堀切を穿ち、曲輪外周に土塁を廻らし、更にその周囲に二重の犬走り(帯曲輪)を築いていたと言う。主郭には、枯山水庭まで造作されていたと言うことで、まさに中世城郭と近世城郭を繋ぐ位置にあった城であった様である。主郭に庭園を有した城の類例としては遠江鳥羽山城があり、これも中世と近世を繋ぐ位置にあり、庭園を持つ城は当時の流行りであったのかもしれない。尚、湮滅前に発掘調査が行われた結果に基づいて、大台城の主殿が逆井城内に復元されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.966389/140.525565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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江戸崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0380.JPG←四ノ郭北側の土塁
 江戸崎城は、常陸南部の戦国大名、江戸崎土岐氏の居城である。江戸崎土岐氏は、元は土岐原氏を称し、美濃の守護大名土岐氏の一族である。土岐光定の子蜂屋定親の子師親を土岐原氏の祖とし、師親の孫の秀成が、関東管領上杉憲方に従って関東に下向し、常陸国信太荘の代官として入部した。この土岐原秀成が江戸崎土岐氏の初代である。江戸崎城の築城は、室町前期の応永~永享の頃(1400年代)と推測されており、秀成の孫景秀によるとされている。以後、5代に渡る居城となった。景秀の子景成が1497年に嗣子なく没すると、十数年間の当主不在の後、土岐原氏は美濃守護である土岐惣領家より治頼を養子として迎えた。その後、美濃では斎藤道三が治頼の兄、土岐頼芸を追放して美濃一国を横領すると、惣領家は没落し、代わって土岐原氏が土岐氏を称するようになった。治頼の子治英の代になると、江戸崎城を中心とした地域と龍ヶ崎城を中心とした地域に分割して、土岐領を二つの行政単位で統治した。その子治綱の代になると、佐竹氏の南下に対抗するため、土岐氏は小田原北条氏の傘下に入った。1590年の小田原の役では、江戸崎・龍ヶ崎両城は、豊臣方の軍勢によって攻め落とされ、土岐氏は没落した。その後、江戸崎城には蘆名盛重(義広、佐竹義宣の実弟)が4万5千石で入部したが、1602年に佐竹氏が秋田に移封となると、盛重もこれに同行し、江戸崎城は廃城となった。

 江戸崎城は、比高20m程の南北に連なる独立丘陵上に築かれている。一番南の台形の台地に主郭があり、南東に一段低い二ノ郭が築かれている。東に向かって車道が降っているが、大手の登城道の跡と思われ、主郭側斜面に腰曲輪が築かれて防御している。また主郭の東から北にかけても腰曲輪が廻らされ、主郭にもこちら側だけ土塁が築かれており、東面と北面からの攻撃を意識していることがわかる。主郭の北には10m程低い三ノ郭があるが、江戸崎小学校のグラウンドに変貌しており、進入も憚られる。三ノ郭の北は四ノ郭で、鹿島神社が鎮座している。四ノ郭北側には大土塁が残っている。その北の車道は堀切の名残であろうか。更に瑞祥院の北東側の小丘陵も出丸で、改変を受けているものの土橋と竪堀が確認できる。市街化の波に飲まれて改変されている割には、比較的旧状を残している。
主郭東側の腰曲輪→IMG_0355.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.954283/140.319185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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吉生砦(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0289.JPG←主郭背後の横堀
 吉生砦は、小田氏の重臣小幡入道道三が築いた砦の一つである。小幡氏は、常陸の名族小田氏麾下の12人の城持ち武将の一人と言われ、小幡宿に館(堀の内館)を構え、その周辺に手葉井砦・菅間古城・諏訪山砦・古久保砦・青柳要害などの城砦を築いて防衛しており、吉生砦も永禄年間(1558~69年)にそうした城砦群の一つとして築かれたと言う。

 吉生砦は、比高20m程の丘陵上に築かれている。吉生小学校の南西に隣接して位置しており、小学校の校庭から散策路が伸びている。城内は整備されており、夏でも訪城できる。東西に長く伸びた城で、中央に段差があって2段の平場に分かれている。上段が主郭、下段が二ノ郭で、全体を横堀でぐるりと囲んでいる。土塁は主郭の北東辺のみに築かれている。曲輪の塁線は数ヶ所に凹凸があり、横矢掛かりを意識しているのがわかる。また横堀は、主郭の背後に当たる北東側が最も幅が広く、台地基部と分断している。この他、二ノ郭の付け根の南側に、堀底に通じる虎口が築かれている。単純な構造の砦であるが遺構は完存しており、良好な姿を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.231622/140.161943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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八代城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9223.JPG←校地に現存する土塁
 八代城は、屋代城とも記載され、屋代氏の居城であったと伝えられている。元々は、鎌倉時代に東条社氏の居館として築かれたと推測されている。東条社氏の没落後、14世紀後期頃に信濃の豪族屋代氏がこの地に入部して城を再興し、15~16世紀にかけて改修を重ねて城を拡張した様である。
 八代城は、広く平坦な台地の中程に築かれている。現在は市街化が進み、八代城跡は城ノ内中学校の校地に変貌している。後者の西側にL字状の土塁が残っているのが唯一の現存遺構である。訪城した時には残念ながら先生らしい人がおらず、敷地内に入る許可が得られなかったので、周りから遠目に土塁を眺めることしかできなかった。解説板もあったが、コンデジでは最大望遠で撮っても何が書いてあるのかわからなかった。戦後間もなくの航空写真でも、残っていた土塁は現存のものと湮滅した北側のものぐらいで、耕地化によりかなり湮滅が進んでいたようである。そういう意味では、校地内に入ったおかげでそれ以上の湮滅を免れたのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.922316/140.207283/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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龍ヶ崎城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9198.JPG←二ノ郭周囲の急斜面
 龍ヶ崎城は、江戸崎城を本拠とした江戸崎土岐氏の支城である。元々は、下河辺氏の流れを汲む龍ヶ崎氏の居城であったと伝えられている。龍ヶ崎氏滅亡の後、1567年に江戸崎城主土岐治英が改修し、翌年次男の胤倫を城主にして守らせた。1583年には佐竹氏に攻め落とされたが、間もなく土岐氏は龍ヶ崎城を奪還した。土岐氏は小田原北条氏に属したため、1590年の小田原の役の際に豊臣方の佐竹氏の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。役後、龍ヶ崎は常陸一国を安堵された佐竹氏の支配下となり、佐竹義重の次男葦名盛重(義広)が入部した。盛重は、間もなく江戸崎城に居城を移した。

 龍ヶ崎城は、比高15m程の紡錘形をした独立丘陵上に築かれている。往時は堀切で分断された東西に連なる3つの曲輪で構成され、中央が主郭、西側が二ノ郭であったが、主郭は採土で消滅し、二ノ郭と先端の笹曲輪だけが地勢を残している。しかし残った二ノ郭も龍ケ崎第2高校の校地となって大きく改変されている。曲輪の西端には鹿島神社があり、その周辺だけ辛うじて旧状を残しているようにも思われるが、明確な土塁もなくよくわからない。笹曲輪は御嶽神社があり、由緒によれば土岐氏時代に氏神として大日社が祀られていたらしい。ここも残っているのは地勢だけで、形状は大きく変えられてしまっている様だ。結局、城址の高台のみが城としての痕跡である。この地域には珍しい丸馬出しまで備えた城だったらしいが、現状が残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.908466/140.191834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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泊崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9186.JPG←船着き場への小道か?
 泊崎城は、牛久城を本拠とする岡見氏を攻撃するため、多賀谷氏が築いた城である。戦国後期になると、佐竹氏と結んだ下妻城主多賀谷政経・重経父子は小田氏・岡見氏に対する攻撃を強め、1570年には岡見氏の有力支城であった谷田部城が落城し、城主岡見頼忠は牛久城に逃れ、小田原北条氏に救いを求めた。北条氏政は、最前線に位置する牛久城を防衛するため、近隣の他国衆を交代で在番衆として送り込んだ(いわゆる牛久番)。しかし1587年には、多賀谷氏が牛久城・東林寺城の西隣に泊崎城を築城し、岡見氏の牛久・東林寺両城と足高城の間に楔を打ち込み、連携を封じることに成功した。孤立した足高城は間もなく落城し、岡見氏は更に危殆に瀕することとなった。しかし牛久城は守りきったまま、1590年の小田原の役を迎えることとなった。

 泊崎城は、牛久沼に突き出した半島状台地に築かれている。先端ではなく、台地の中ほどに主郭が築かれているのが珍しい。対岸に牛久城を望む位置にあり、主郭同士は直線距離でわずか1.6km程しか離れていない。私がよく参考としているHP「城郭図鑑」に「牛久城と目と鼻の先の距離であるこの地で城普請を行った重経の豪胆さには驚くばかりである」と記載されているが、誠にその通りである。遺構自体は高度成長期に宅地化され、今では完全に湮滅しているが、昭和20年代の航空写真には、出枡形を伴う空堀で囲まれた方形の主郭と、大きく屈曲した西側の堀切、食違い虎口を伴った直線的な東側の堀切がはっきりと写っている。遺構は期待できないが、先端の泊崎大師堂からの眺望に優れ、また住宅団地北西端には船着き場への降り口かとも思える小道が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.950948/140.116947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖橋城
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高井城(茨城県取手市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9073.JPG←主郭の虎口
 高井城は、千葉氏の庶流下総相馬氏の支城である。その創築は不明であるが、1336年、鎌倉府執事であった斯波家長により相馬親胤宛に発給された奉書に高井の地名が見えることから、既にこの時期には相馬氏の所領となっていたことが判明している。その後の歴史は必ずしも明確ではないが、相馬氏の一族が城主となって、いつの頃からか高井氏を称し、天正年間(1573~92年)まで存続した。永禄年間(1558~69年)には、高井治胤が相馬宗家の家督を継いでおり、宗家に近い家柄であったことがわかる。高井胤永の時、小田原の役で小田原北条氏が滅ぶと、その傘下に入っていた相馬氏と高井氏も没落した。しかし、胤永の3男胤正の子孫が横瀬伊勢守保広と名乗って江戸時代前まで高井城に居住したが、江戸時代に入ると広瀬氏と改めて帰農し、廃城となった様である。

 高井城は、小貝川南岸の比高15m程の河岸段丘上に築かれている。現在、城址公園として主郭を中心に整備されているので、夏でも訪城可能である。現地解説板の縄張図によれば、方形の主郭を中心に、南北に二ノ郭・三ノ郭があり、更に台地東側に外郭が広がっていたらしい。主郭は外周を土塁で囲まれ、南に堀切が穿たれ、土橋の架かった虎口が築かれ櫓台が付随している。また主郭の西側斜面に腰曲輪が築かれ、二ノ郭付近まで伸びている。この腰曲輪は、主郭から出た部分が独立した曲輪となっており、虎口郭であったと思われる。主郭と二ノ郭は、現在は土塁でしか区切られていないが、縄張図には堀があったとされている。埋められてしまったのだろうか?三ノ郭は主郭と堀切で分断され、やはり西側斜面に腰曲輪を伴っている。三ノ郭や外郭には櫓台もあったらしいが、現在は僅かな痕跡しか残っていない。本城の守谷城と比べると素朴な縄張りで、これが下総相馬氏の本来の築城レベルであったのかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930170/140.040021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖橋城
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高野城(茨城県守谷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9037.JPG←公園内に残る土塁状地形
 高野城は、今城(いまんじょ)とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝説では、938年に平将門は高野に興世王の分城を築き、「今城」(今造られた城という意味)と名付けたとされるが定かではない。一方、城の形態が極めて素朴なものであることから、戦国期以前の城と推測されている。この守谷地区では、南北朝期の1340年に守谷城主相馬忠重が南朝方に付き、城を築いて春日顕国を迎えたという記録があることから、その時の城が高野城ではないかとも考えられている様だ。

 高野城は、比高15m程の半島状台地の先端に築かれている。現在は台地自体の形状が大幅に改変・拡張され、一面が住宅団地に改変されてしまっており、往時の姿はほとんど失われてしまっている。住宅地内にある「うららか公園」が唯一の城の名残で、土塁と思われる地形が残っている。公園内は2段の平場に分かれているが、下段の平場はどうも採土で失われた跡らしい。住宅地の高さも採土で削られた後の高さであるらしく、公園よりも数m程低い。というのも、公園の北側は以前は谷戸になっていたが、1970年代に住宅地造成のために谷戸を埋めてしまっているのである。おそらく谷戸を埋める土を確保するため、城のあった元の台地を大々的に削ったのではないかと推測される。破壊される以前に城址を調査した結果の図によれば、台地のくびれが3ヶ所あり、そこを堀切で分断していたらしい。台地続きに当たる主郭の北東部にだけ土塁が築かれ、公園内に見られるのはその名残の様である。いずれにしても様々な伝説に彩られた謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.931438/139.992149/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖橋城
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守谷城(茨城県守谷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8932.JPG←屈曲する大規模な空堀
 守谷城は、下総相馬氏の居城である。伝説では、平将門が築いて居城としたとされるが、相馬氏による仮託であろうとされる。相馬氏は平将門の裔を自称しているが、実際には下総の名族千葉氏の庶流に当たる。千葉介常胤の2男師常を祖とし、下総国相馬御厨を相続して相馬氏を称した。師常は、源頼朝の奥州合戦での軍功により陸奥国行方郡を与えられ、これによって宗家である下総相馬氏と、庶流である奥州相馬氏に分かれて発展することとなった。現在有名なのは「相馬の野馬追」で有名な奥州相馬氏であるが、本来は下総相馬氏が宗家であった。室町時代には、下総相馬氏は守谷城を居城とし、筒戸氏などの庶流を周囲に分封して所領支配を行った。基本的には、千葉宗家の一族衆として活動していたと見られているが、1455年に勃発した享徳の大乱で鎌倉公方であった足利成氏が古河に移り、古河公方と呼ばれて周囲に奉公衆を配して勢力を固めると、相馬氏もその奉公衆となったらしい。戦国時代に入って小田原北条氏が勃興し、勢力を拡張させてくると、古河公方奉公衆筆頭の簗田氏に従って活動していた相馬治胤も、1566年に北条氏に服属した。北条氏政は、北条氏の血を引く古河公方足利義氏のために守谷城の明け渡しを要求し、8月には義氏の母芳春院(北条氏2代氏綱の娘、北条氏康の妹)が守谷城に入り、相馬氏の居城としての歴史を終えた。その後、北条氏の手によって拡張整備され、北下総の要衝にふさわしい戦国城郭となった。1590年の小田原の役では、治胤の子秀胤は小田原城に籠城し、一方の守谷城は徳川家康に攻められて落城した。北条氏が滅亡すると、相馬氏は関東に入部した徳川氏の旗本となり、守谷城は徳川氏の家臣菅沼(土岐)定正が1万石で守谷城主となった。その後、一時期を除いて菅沼氏の支配が続いたが、1628年に菅沼頼行が出羽上山城に転封となると、守谷城は廃城となった。

 守谷城は、低湿地帯に張り出した半島状の台地に築かれた城である。大きく城山地区と城内地区に分かれ、城山地区が要害としての守山城の主城部、城内地区が戦国後期に拡張された外郭である。芳春院が居たのは、この外郭の本丸(現在の守谷小学校の校地)であったと推測されている。外郭部は市街化が進み、一部の土塁を除いて遺構はほとんど湮滅しているが、主城部は城址公園として整備され、遺構がよく残っている。先端から、妙見郭・主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、それぞれ堀切で分断した縄張りとなっている。北条氏の城らしく、随所に横矢掛かりが設けられ、土塁で囲まれた枡形虎口など技巧的な縄張りである。特に素晴らしいのは二ノ郭の空堀で、深く大きな堀が屈曲している様は、まさに北条流の築城術そのものである。また、主郭の堀切は、二重堀切となり、馬出し機能を兼ねた中間の土塁にも横矢を設けている。公園として整備されているので夏でも訪城可能であるが、これらの素晴らしい遺構を堪能するには、やはり冬場が良い。また、外郭土塁も小学校脇のものしか確認していないが、その他にも数ヶ所残存している様なので、又折を見て確認してみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.949836/140.006440/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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筒戸城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8880.JPG←主郭北側の堀跡と切岸
 筒戸城は、1559年に守谷城主下総相馬氏の庶流、筒戸氏によって築かれた城である。1589年、筒戸城は、多賀谷氏とその重臣の大曽根城主白井全洞らの攻撃を受けた。時の城主は筒井衛門とも、守谷城主で相馬氏の当主であった相馬治胤が城主を兼ねていたとも言われる。1590年、小田原の役の際に再び多賀谷氏に攻められて落城し、その後廃城になったと伝えられている。

 筒戸城は、小貝川とその支流の小河川に挟まれた、比高わずか2~3m程の段丘先端に築かれた城である。周辺も城内も宅地化や市街化が進んでおり、往時の景観は失われているが、地勢は残っている。主郭は台地南東端のくちばし状に尖った部分にあり、民家となっているが、その北側の車道は往時の空堀跡で、主郭側には切岸や土塁が残っている。この空堀は、往時は主郭西側まで掘り切っていたが、西側はほとんど埋められてしまっていて、堀跡らしさは残っていない。主郭の北には二ノ郭が広がっており、現地解説板の略測図によれば二ノ郭北辺にも外堀が廻らされていたようだが、現在はほとんど湮滅してしまっている。以上のような感じで、僅かな土塁と堀跡のみを留める以外は、ほとんど城跡らしさを残さない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.965485/139.993780/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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下妻城(茨城県下妻市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8076.JPG←本丸の塁線跡
 下妻城は、多賀谷城とも呼ばれ、結城四天王の一家多賀谷氏の本拠である。多賀谷氏は、武蔵多賀谷郷を本領とする多賀谷左衛門尉家政を祖とする。南北朝時代に下総結城氏に属して、その家人となった。永享の乱で足利持氏が滅ぶと、1440年、結城氏朝らはその遺児安王丸・春王丸を奉じて結城城に立て籠もって結城合戦が勃発した。幕府の大軍に攻め囲まれながらも一年余りに渡って頑強に抵抗を続けたが、遂に攻撃の前に敗れ結城城は落城した。名族結城氏は一旦滅び、多賀谷氏も一族の多くが結城合戦で討死したが、多賀谷彦次郎が氏朝の一子成朝を抱いて脱出した。後に鎌倉府が再興され、足利成氏が鎌倉公方になると、成朝を取り立てて結城氏を再興した。こうして主家再興に大功のあった多賀谷氏は、1454年には鎌倉公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を急襲して憲忠の首級をあげ(享徳の乱の勃発)、その賞として下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。また『鎌倉大草紙』によれば、憲忠の首実検の際に「憲忠は管領なので庭に置いてはいけない」として庭に畳を敷き、その上に多賀谷祥英を座らせて首実検を行ったことから、これ以後多賀谷氏が公方の元に出仕した時には、陪臣にも関わらず庭に畳を敷いて拝謁することが例になったと言う。また多賀谷の姓はこの時拝領したとも伝えられている。そして康正年間(1455~57年)に新たに下妻城を築いて居城とした。こうして勢力を伸ばした多賀谷氏は、結城氏の家臣とは言うものの半ば独立した領主として活動した。戦国時代に入り、小田原北条氏の勢力が伸びてくると、多賀谷政経は北条方に付いた主家結城氏と別行動を取り、関東に出馬した上杉謙信の陣営に加わり、北条氏に抵抗した。その後政経は、同じく北条氏に敵対した佐竹氏との同盟関係を強めて行った。政経は、岡見氏の拠る谷田部城を攻略し、南進の前線拠点としたが、岡見氏はこれに対し、牛久城を拠点に北条氏の支援を受け、多賀谷氏に対抗した。政経が死ぬと、その後を継いだ重経は、更に佐竹氏との結び付きを強め、北条方の岡見氏・江戸崎土岐氏らと激しい攻防を続けた。北条氏も、佐竹氏・多賀谷氏らの反北条勢力を制圧するため何度も常陸南部に侵攻を繰り返したが、その都度撃退された。1590年の小田原の役では、重経は結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して秀吉に拝謁し、役後、下妻6万国を安堵された。重経は、長男三経を差し置いて、佐竹義宣の弟宣家を養嗣子として迎え、下妻多賀谷氏の当主とした。一方、三経は太田城を築いて居城とし、結城晴朝の家臣となった。この結果、多賀谷氏は二系統に分裂することとなった。関ケ原合戦の際、重経は上杉景勝に通じた為、徳川家康によって改易された。戦後の論功行賞で、多賀谷三経は主君結城秀康(徳川家康の次男)に従って越前に移り、越前松平氏の重臣となった。一方、多賀谷宣家は佐竹義宣に従って出羽秋田に移り、改めて岩城氏の名跡を継いだ。重経は流亡の生活を送った挙句、井伊家に仕官した末子茂光を頼って彦根に住し、そこで生涯を終えた。1606年、徳川頼房が10万石で下妻城に封じられたが、1609年に水戸城に移った。1615年に松平忠昌が、翌年には松平定綱が下妻に封じられたが、定綱が遠江掛川城に移封になると一時幕府直轄領となった。その後1712年に井上正長が下妻に入封して陣屋を構え、幕末まで陣屋支配が続いた。

 下妻城は、一時期強勢を誇った下妻多賀谷氏の本拠であるが、多賀谷氏のこの地での足跡と同様、ほとんど完全に消え失せている。元々は低湿地帯に囲まれた浮島のような城で、天険の要害であった。戦後の航空写真を見ると、本丸やその周辺の曲輪の輪郭がはっきりと残っており、その形を近代までとどめていたが、昭和36年の都市整備事業でその姿は失われてしまった。しかし、往時の航空写真とGoogleMapの航空写真を見比べると、各曲輪の痕跡が道路等に残っているのがわかる。本丸は現在の城址公園の位置にあり、公園東側の湾曲した道路は主郭塁線の名残である。また市民文化会館の西側に残る1m程の段差や、法泉寺周囲に残る段差も周囲の曲輪の塁線の跡である。もはや城とは思えない程変わり果ててしまっているのは、街中の平城の宿命のため、やむを得ないところなのであろう。
二ノ丸の塁線跡の段差→IMG_8095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.184225/139.966185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世水城
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鷲宮砦(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8055.JPG←堀跡とされる窪地との段差
 鷲宮砦は、南北朝時代に北朝方の武将、高師冬が築いた砦と伝えられている。1338年、北畠顕家・新田義貞らの相次ぐ戦死により、吉野の後醍醐天皇は各地の南朝勢力の再建が喫緊の課題となった。そこで重臣の北畠親房を常陸に降し、坂東の地において南朝勢力の結集を図った。常陸には小田氏など南朝方に残っている武家が多く、これを頼りとしたのである。一方、足利尊氏はこうした常陸での蠢動を抑えるため、1339年、執事高師直の一族、高播磨守師冬を鎌倉府執事として関東に下向させ、師冬は南朝討伐のため関東各地を転戦した。そして南朝方の拠る駒城を攻撃するため、この鷲宮砦を築いたと言われている。1340年5月、師冬は猛攻により駒城を攻略したが、間もなく総反撃に出た南朝方によって八丁砦等の周辺城砦と共に鷲宮砦を奪還されたと伝えられている様だ。

 鷲宮砦は、現在鷲神社の境内となっている。周囲より僅かに高い微高地で、堀跡とされる窪地も見られるが、城砦らしさはあまり感じられず、本当に遺構かどうかははっきりしない。神社の解説にも一切砦のことは触れられていない。皇国史観の支配していた戦前には北朝方は賊軍とされたので顧みられることがなく、南朝方の駒城と違って何らの碑も建っていないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.183905/139.909580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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和歌城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8014.JPG←二ノ郭に残る土塁
 和歌城は、室町時代にこの地の土豪和歌氏の居城である。文明年間(1469~86年)に下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西にも及ぶと八千代地方の土豪達もその旗下に入った。永正年間(1504~21年)末に和歌十郎が小田原北条氏に通じていることが露見し、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に命じて十郎を討ったとされる。その後、和歌城の管理は赤松氏に委ねられ、徐々に城郭として整備された。この間、北条氏の北総侵攻により、焼き討ちに遭うこともあった。1589~91年には、多賀谷重経の長男三経が和歌城に仮住まいした後、太田城に移り、和歌城は改めて赤松氏に授けられた。1601年、結城氏の家督を継いでいた徳川家康の次男結城秀康が越前に移封となると、秀康の家臣となっていた多賀谷三経も家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。
 尚、この歴史の中で出て来る赤松氏は、南北朝史に名高い播磨の土豪赤松円心の後裔とされ、足利一族の内訌、観応の擾乱で直義党に属して各地を転戦した赤松佑弁が、駿河薩埵山の戦いで大敗し、この地に落ち延びてきたとされている。その一族の墓が不動院に残り、また和歌城内に佑弁の供養塔が建てられている。

 和歌城は、低湿地帯に囲まれた半島状台地に築かれている。城内は耕地化されて相当に改変を受けている。現地解説板の縄張図によれば、土塁と空堀で囲まれた3つの曲輪で構成されていたらしい。それに従うと、改変されながらも主郭・二ノ郭の塁線は概ね追うことができ、二ノ郭には東西に土塁が僅かに残っているのが確認できる。薮の中にも北辺の土塁と船入場が残っているようだが、夏場だったので確認していない。城内に残る赤松佑弁供養の五輪塔が、歴史を物語っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.179696/139.905267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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水海城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8000.JPG←城址付近の現況
 水海城は、古河公方足利氏の重臣簗田氏の居城である。簗田氏の事績については関宿城の項に記載する。当初の水海城は「旧水海城」と呼ばれ、現在の利根川に接する水海南部地域にあったと推測されている。その後、簗田氏は小田原北条氏との抗争を繰り広げながら、奪われた関宿城を攻略して居城としていたが、結局1574年の第三次関宿合戦で北条氏の軍門に降り、関宿城を明け渡して旧水海城の北方に新たな水海城を築いて移住した。1590年の小田原の役の際には、浅野長吉の軍勢の前に開城降伏した。その後関東に徳川家康が入部すると、簗田氏は徳川氏に仕えたと言う。

 水海城は、現在の水海小学校から神明神社にかけての微高地に築かれていたと考えられている。遺構は完全に湮滅しており、城の名残はほとんど見ることができない。城址推定地付近が僅かに周囲より高くなっているだけである。北条氏と堂々と渡り合った簗田氏の居城にしては、悲しい現実である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.142727/139.756479/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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板橋城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7892.JPG←堀切跡の様に見える窪地
 板橋城は、牛久城主岡見氏の支城である。天正年間(1573~92年)後半に岡見治広が小田原北条氏に提出したとされる『岡見氏本知行等覚書』によれば、岡見氏の属城として、本拠の牛久城の他に東林寺城谷田部城足高城、板橋城があり、板橋城は岡見氏の家臣月岡上総介が城主であったと記載されている。史実不詳ながら、伝承では1587年に下妻城主多賀谷重経によって攻撃され、月岡氏は開城降伏したとされる。それ以外の歴史についても、伝承はあるが虚実不明であるため、ここには記載しない。

 板橋城は、小貝川・中通川水系の氾濫原に面した台地の縁に築かれている。板橋不動尊(不動院)から南西と西に伸びる台地を城域としていたらしく、おそらく板橋不動尊も外郭の中に取り込まれていたのだろう。城内は宅地化が進んでおり、遺構は湮滅している。僅かに土塁状の土盛りや堀状の窪地が散見されるに過ぎず、これらが遺構であるどうかもわからない。城跡より何より、板橋不動尊の伽藍が素晴らしく、そちらを主目的で行った方が良い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.979204/140.049677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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谷田部藩陣屋(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7874.JPG←貴重な遺構、陣屋玄関
 谷田部藩陣屋は、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩して築いた陣屋である。細川忠興の弟興元は、関ヶ原の戦い・大阪夏の陣に参戦し、その功により1616年、既に拝領していた下野茂木1万石に更に常陸谷田部を加増され、合計16,200石の大名となった。1619年、興元の子興昌は、藩庁を茂木から谷田部に移して、谷田部藩が成立し、陣屋を造営した。陣屋の北と東には堀を廻らし、内部には役所・藩主住居・文館・武館・馬場等があった。1844年に火災で消失し、その後再建された。幕末になると谷田部藩は財政危機に陥り、二宮尊徳の仕法により藩政改革を行った。250年9代に渡って存続し、そのまま明治維新を迎えた。

 谷田部藩陣屋は、谷田部城の北側、谷田川と西谷田川に挟まれた台地の北東角部に築かれている。現在陣屋跡の大半は谷田部小学校の校地となり、周辺も宅地化で改変されつくされているので、陣屋跡の面影は全く残っていない。しかし戦後間もなくの航空写真を見ると、明治初期に描かれた陣屋絵図の輪郭を、ほぼ追うことができる。尚、小学校の前に陣屋の玄関が移築されて残っている。小学校の中に「谷田部城址」という石碑があるらしいが、未見。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.034195/140.074632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
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谷田部城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7857.JPG←八幡宮裏にある段差
 谷田部城は、小田城主小田氏の支城である。鎌倉後期に小田氏5代宗知の子、小田宗寿が谷田部に分封され、谷田部城を築いて谷田部氏の祖となったと言う。以後谷田部氏は、小田家中において一門六家に名を連ねる重臣となった。1549年に編纂された『小田家風記』には、谷田部城主として谷田部刑部少輔の名が見える。しかしその後、同じ小田氏の重臣で牛久城主岡見氏の管理下に入った様である。1570年、岡見頼忠が城主の時、下妻城主多賀谷政経・経伯兄弟の攻撃を受けて落城し、多賀谷経伯の居城となった(この時の谷田部城主は谷田部寿教だったとの説もあるが、その後の谷田部城奪還戦は岡見氏が主導しているので、岡見氏の属城になっていた可能性が高い)。1580年、北条氏照の支援を得た頼忠は、1千騎で谷田部城を攻撃し、多賀谷経伯・経明を激戦の末、追い詰めて自刃させた。しかし谷田部城は、再び多賀谷政経の子重経に攻撃され、頼忠は流れ矢を受けて討死し、重経が谷田部城主となって、渡辺越前守・平井手伊賀守ら25人を置いて支配した。1589年には、牛久城主岡見治広が谷田部城奪還を図ったが、不成功に終わった。1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、多賀谷氏も秋田へ移った。近世には、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩し、谷田部陣屋が置かれた。

 谷田部城は、谷田川と西谷田川に挟まれた台地上に築かれていたらしい。現在は宅地化で改変されつくされ、しかも近世には城の北側に陣屋が置かれて町割りがし直されたらしく、往時からは相当な改変を受けた模様で、具体的にどこに城があったのかも明確ではない。一応、八幡宮が建っているのが往時の主郭とされている。江戸時代に描かれた古絵図が残っているが、現在の道路配置にも縄張りの名残を見ることができず、戦後の航空写真でも既に塁線がわからないので、実際にどこまでが城域だったのかも含め、不明点が多い城である。しかし遺構不明ながらも、二の丸という地名はあるし、歩いて回ると堀状地形や切岸地形があり、何となくこれが城跡かなという雰囲気は感じられる。

 尚、谷田部城は、その位置だけでなく歴史にも不明点が多く、小田氏支配時代の城主が谷田部氏だったのか、岡見氏だったのかについても、必ずしも明確ではないことを付記しておく。
二の丸地区にある堀状の畑→IMG_7860.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.031696/140.077701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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