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古城めぐり(茨城) ブログトップ
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内宿楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4764.JPG←主郭北西の櫓台の張出し
 内宿楯(内宿館)は、歴史不詳の城である。位置的には神明城木崎城の中間に位置していることから、両城を居城とした常陸武田氏の支城であったろうことは想像に難くない。しかし佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で武田氏が滅亡した後、関ヶ原合戦後の1602年に出羽国由利郡からこの地に5000石で移封となった仁賀保氏が陣屋として築いた(或いは武田氏時代の城館を改修した)のではないかとの説や、1623年に常陸府中に入部した皆川氏の一族が内宿館を居館としたとの説も提示されている。いずれにしても推測の域を出ず、今後の考究が待たれるところである。

 内宿楯は、武田川北岸の比高25m程の段丘先端に築かれている。東西に並んだ主郭・二ノ郭から成っており、主郭は自性寺の境内となり、二ノ郭は現在は墓地と空き地になっている。自性寺の周囲には最大で高さ5m程にも及ぶ大土塁が築かれ、ほぼ全周を囲繞している。その北側から東側にかけての外周には規模の大きな横堀が穿たれている。この横堀の内、北面では主郭から張り出し櫓台を両翼に設けて、相横矢を掛けている。一方、二ノ郭は以前に小学校が建てられていた為に改変を受けており、かつてはあった主郭との間の空堀は埋められてほぼ湮滅している(北側の山林脇だけ、わずかに窪んだ地形として残っている)。二ノ郭は主郭よりも数m低い位置にあり、主郭西辺の土塁が切岸の様な形で残っているだけである。二ノ郭の北端には虎口の土塁が築かれている。遺構は以上の通りで、内宿館は単純な構造の城館ながら、土塁や空堀の規模が大きく、相横矢の櫓台と相俟って中々見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.101787/140.499086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世崖端城
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小貫城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4713.JPG←主郭周囲の横堀
 小貫城は、神明城主であった常陸武田氏の支城である。1455年に武田昌信の次男信次が築いたと言われる。その他の歴史は不明である。

 小貫城は、武田川沿いの比高20m程の段丘南西端に築かれている。神明城の西北西1.5km程の位置である。現在城の主要部は一面の畑となっているが、昭和20年代の航空写真を見ると、今では失われてしまった曲輪の形が明瞭に確認できる。先端に置かれた主郭は五角形の形状をしており、北東のニノ郭との間は堀切で分断していた様である。この堀切は現在では埋められて耕地化され、湮滅している。ニノ郭と台地基部との接続部にも堀切があった可能性があるが、これも湮滅しているので実際どうだったのかはよくわからない。主郭の外周には横堀が穿たれ、主郭の西辺には土塁が築かれている。前述の横堀は中規模のものであるが、倒竹地獄になっていて踏査が困難である。横堀は北西側で二重横堀となっている。また主郭の西側には横堀の外側に堀切が穿たれ、その西に一段低く台地が伸びており、西出曲輪となっている。この他、二ノ郭の南斜面も腰曲輪となっていた可能性があるが、宅地化されて改変されてしまっており、これもよくわからない。結局、主郭周辺だけが往時の遺構を残しているが、激しい倒竹でかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.107491/140.474946/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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鳥名木楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4682.JPG←主郭先端の櫓台
 鳥名木楯(鳥名木館)は、大掾氏の一族で手賀城主手賀氏の庶流鳥名木氏の居城である。鳥名木氏は鎌倉中期にこの地に入部して以来、戦国末期までこの地を支配した。1591年、佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で鳥名木氏も滅亡した。しかしその子孫は残り、江戸時代には麻生藩新庄氏に仕えた。尚、鳥名木家に残る1297年の譲状を始めとする古文書群は、「鳥名木家文書」として県指定の文化財になっている。

 鳥名木楯は、霞ヶ浦東岸の比高30m程の台地上の、やや奥まった部分の北端に築かれている。本家の居城手賀城からは北にわずか5~600m程しか離れていない。主郭・二ノ郭の2郭から構成されており、主郭と二ノ郭の間は土塁だけで区画されている。明確な堀切はなく、二ノ郭は東側のどこまで広がっていたか不明である。主郭の先端部には土塁が築かれ、特に城址碑の建っている部分は幅広で櫓台が築かれていたと考えられる。主郭周囲の斜面には腰曲輪らしい平場も見られる。二ノ郭は一部畑のほかは薮と空き地、主郭はほとんどの部分がガサ薮で覆われており、土塁と先端櫓台以外は春先でも突入不能である。せっかく誘導標識や解説板があるのだから、もう少々行政の方で整備してくれるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.097106/140.431859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小貫楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4624.JPG←南の切通し状参道
 小貫楯(小貫館)は、西蓮寺を使用した寺院城郭であったらしい。天正年間(1573~92年)に小貫氏が城主であったと言われ、小高城の支城となっていた様である。戦国期にこの付近で唐ヶ崎合戦という戦いがあったということで、行方四頭で同族の小高氏・玉造氏による所領争いを発端として、宗家に当たる大掾氏や周辺豪族を巻き込んだ一大紛争となったと言う。その際に小貫氏が立て籠もった城砦であったのかもしれない。

 小貫楯は、前述の通り西蓮寺の境内となっている。この地は霞ヶ浦東岸の比高30m程の台地上にあり、周囲を低湿地帯に囲まれた要害であったのだろう。西蓮寺は782年創建と伝えられる古刹で、それを臨時的に要塞化しただけの城館であると思われるので、城郭遺構は極めて少ない。南中央の参道は切通し状の通路で、途中で屈曲しており、いかにも城郭風の造りである。またその東側には、台地より5m程低い位置に腰曲輪らしい平場が広がっている。この他では、境内奥の南側に横堀などの城郭遺構があるようだが、寺の方が作業されており、怪しまれるとまずいので、奥の遺構を確認することはできなかった。城館というより、国重文になっている仁王門や相輪橖など、古刹西蓮寺の文化財の方に目を奪われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.071840/140.439155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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人見楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4606.JPG←東側の堀切
 人見楯(人見館)は、船子城主下河辺氏の家臣人見氏の居城である。人見氏についての事績は不明であるが、武蔵七党猪俣党に属する人見氏が有名なので(太平記にもその名が現れる)、その一族が下河辺氏に従って常陸に入部したものかもしれない。
 人見楯は、霞ヶ浦東岸の比高25m程の段丘先端に築かれている。主郭と周囲の腰曲輪から成るほぼ単郭の簡素な城砦で、東側の台地基部を堀切で分断している。主郭外周には所々土塁が築かれている。東側の堀切には横矢掛かりのクランクが見られるが、堀自体に鋭さはなく切岸の角度も比較的緩く、あまり厳しい防御性を感じさせない。主郭の北西角には塁線の張り出しも見られ、西側下方の腰曲輪への横矢掛かりを意識しているのがわかる。しかし特徴的なのはその程度で、全体には大味な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.065006/140.433254/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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行方城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4497.JPG←主郭横堀の屈曲部
 行方城は、中城とも呼ばれ、大掾氏の庶流行方氏の居城である。行方氏は後に四家が分立し、行方四頭と称された。その事績は古屋城の項に記載する。行方氏の嫡流たる小高氏は小高城に本拠を移したため、行方城は一旦廃城になったと言われるが、室町中期になると、船子城主であった下河辺義親が行方城に移り、改修したと言う。1591年、所謂「南方三十三館の仕置」で下河辺氏は佐竹氏に滅ぼされ、その後佐竹氏の家臣荒張尾張守が入城したが、翌年の佐竹氏の出羽秋田移封によりこの地を去り、行方城は再び廃城となったと言う。

 行方城は、谷戸の低湿地帯に面した比高20m程の段丘先端に築かれている。先端の広大な主郭と台地基部にある二ノ郭から成る、素朴な縄張りの城である。二ノ郭は民家となり、主郭はその民家の畑となっている。民家の方が不在だったので、中に入ることができず、敷地外の外周斜面だけ確認した。主郭と二ノ郭の間には堀切があり、かなり埋まっているようだが痕跡は明確である。この堀切近くには腰曲輪を睥睨する櫓台が見られる。主郭の外周には横堀が穿たれ、特に西側斜面は二重横堀となっている。南西端部で屈曲して掘り切っており、横矢を意識していることがわかる。主郭北西端には土橋が見られるが、往時からの遺構かどうかは不明である。後世の改変の可能性もある。遺構としてはこの程度で、縄張りの技巧性はほとんど感じられない。主郭が広大なので、政庁機能を優先させた城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.052864/140.462394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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船子城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4431.JPG←2郭南東部の横堀
 船子城は、伝承によれば、永享の乱の際に鎌倉公方足利持氏に味方して敗北した関宿の城主下河辺義親が、小高氏を頼ってこの地に逃れ、船子城を築いたと言う。行方下河辺氏は、義親・その子晴親・その弟氏親と3代続いたと言われる。後に下河辺氏は行方城へ移り、船子城は小高氏の城となったとも言われるが詳細は不明である。

 船子城は、霞ヶ浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。南麓に浅間神社があり、その背後から登ることができる。比較的広い城域を有しているが、全体が藪に覆われていて、踏査がなかなか大変である。南端から順に1郭・2郭・3郭・4郭と直線的に配置し、1郭の西側に細長い西出曲輪を配置したのがこの城の基本構造である。曲輪の番号は、ここでは先端から順に番号付けしたが、実際の主郭は2郭と考えて良いと思う。城内最大の面積があり、防御構造が最も厳重だからである。1郭はそれに対する笹曲輪の役割であったろう。1郭は後部に土塁を築き、2郭との間を堀切で分断している。中心となる2郭は南面から東にかけて土塁を築き、その外周に腰曲輪を築いている。2郭腰曲輪の南東部は横堀となって防御を固めている。ここから南東尾根に土塁を伸ばし、側方に段状に曲輪を伸ばしている。2郭後部には横矢張出しの櫓台が築かれている。2郭・3郭・4郭の間はそれぞれ堀切で分断されている。この他、主要な曲輪の周囲には腰曲輪が築かれているが、藪が酷くてわかりにくい。2郭の横堀付近以外は、あまり技巧性を感じさせない縄張りの城である。
3郭後部の堀切→IMG_4366.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.048049/140.451987/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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古屋城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4257.JPG←周囲の空堀
 古屋城は、伝承では行方忠幹の居館であったと言われている。忠幹は大掾氏の庶流行方氏の初代で、大掾繁幹の子吉田清幹の次男として生まれ、行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したとされる。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。宗幹の4人の子は遺領を分与されて、小高氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏と言う、所謂「行方四頭」となった。ところで、行方氏の居城としては、古屋城から北に1.1kmの位置にある行方城が知られており、規模的に古屋城は大掾氏一族の居城としては小さすぎることから、忠幹の別宅か何かであったものであろうか。一方、古屋城の大手に当たる西側に隣接して曹源寺があり、曹源寺の開基は船子城主下川辺義親(行方下川辺氏と称される)で、その供養塔も境内に残っていることから、古屋城は下川辺氏が関連した城館であった可能性もある。

 古屋城は、谷戸に面した比高20m程の段丘突出部に築かれている。単郭の小規模な城館であるが、周囲を取り巻く土塁と空堀の規模が大きく(土塁は高さ5m程、空堀は深さ10m程もある)、長径でも100m程の曲輪の規模と比べると、異様に大規模な普請が行われている。しかし内部は民家であり、堀は藪が繁茂してよく見ることができない。残念ながら入口付近のみ確認して探索を終了した。城歩きの大家余湖さんの鳥瞰図によれば、大手虎口側方には張出し櫓台もあるようだが、藪でよくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.043001/140.464389/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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島並城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4168.JPG←主郭の横堀
 島並城は、この地の国人領主島並氏の居城である。島並氏の出自は明確ではないが、一説には大掾氏の庶流行方氏の一族とも言われている。島並氏の事績も不明点が多いが、1591年に、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将が謀殺され城が悉く制圧されると、島並城も開城し、城主島並入道幹家も死亡した。島並氏の遺臣藤崎権右衛門は、主君の菩提を弔う為に登城山是心院を城址に建立した。その後、幹家の子左衛門大夫幹国は、佐竹氏の家臣となってり水戸城に出仕していたが、行方郡の取締りとして島並に止宿し、権右衛門の誠心に感じて、島並の姓を賜ったと言う。

 島並城は、霞ヶ浦東岸の比高20m程の丘陵突出部に築かれている。城の中心部は是心院背後の丘陵部にあるが、是心院が建っているのも往時の南郭であったと考えられる。最高所に主郭を置き、主郭の東西に東郭・西郭を置いている。主郭・東郭・西郭共に南北に長い曲輪で、主郭のみ背後に土塁があり、また前面に櫓台を築いている。東郭は切岸のみで区画されているが、西郭との間は横堀で分断されている。西郭の北端が櫓台状の高台になり、祠が祀られているが、往時から宗教施設があった可能性がある。西郭の西側にも2段の横堀が穿たれており、主郭のものと合わせて西側だけ三重の横堀で厳重に防御されている。西郭西脇の横堀は城内通路を兼ねていたらしく、下段の横堀に繋がる虎口が築かれている。下段の横堀の西側には腰曲輪が築かれている。城内は、南郭・西郭以外は山林となっているが、歩けないほど酷くはない。厳重な横堀群が特徴的な城である。
西郭北端の高台→IMG_4160.JPG
IMG_4157.JPG←中段横堀の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.015617/140.475826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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島崎城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3952.JPG←主郭の虎口
 島崎城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、島崎氏の居城である。鎌倉初期に行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹が島崎に分封されて島崎氏を称した。しかし島崎城の築城時期は明確ではなく、一説には応永年間(1394~1427年)、11代成幹の時に築かれたとも言われる。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。当初四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していた。しかし時代が下ると一族相争うようになり、後には島崎氏が最大の勢力となった。島崎氏は代々左衛門尉を名乗り、室町後期の13代長国は善政を敷いて、中興の英主と謳われた。戦国時代になると、島崎氏は積極的な外征を行って勢力を拡張した。14代利幹(安国)は、1522年には同族の長山城主長山幹綱を攻め滅ぼし、1523年の鹿島氏の内訌に乗じて鹿島城を攻め、1536年には同族の玉造城主玉造宗幹を攻めた。1584年には島崎義幹が麻生城主麻生之幹を攻め滅ぼすなど、4万5千石を領して、鹿島・行方両郡に割拠する国人領主(所謂「南方三十三館」)で筆頭の地位を得た。この戦国後期には、勢力を拡張する佐竹氏に従うようになり、1584年の沼尻合戦などにも佐竹氏の一翼を担って参陣した。しかし1590年の小田原の役後、佐竹氏が豊臣秀吉から常陸一国を安堵されると、翌91年に佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した島崎義幹・徳一丸父子ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。島崎城も佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以後廃城となった。

 島崎城は、常陸利根川北岸からやや離れた比高25m程の半島状台地の先端部に築かれた城である。南端に主郭を置き、その北にニノ郭・三ノ郭・Ⅳ郭・Ⅴ郭を直線的に配置し、主郭の西側に西郭を配置している。西麓から登り道が付いており、入口に石碑が立ち、主郭の神社手前に解説板が建っている。強勢を誇った豪族の城らしく、規模の大きな普請が随所に見られる。小道を登っていくと、最初に下段の腰曲輪に至り、その先を進むとその上段にある水の手曲輪に至る。ここには西郭切岸下に井戸跡が窪地として残っている。また水の手曲輪の横の主郭下には横堀が穿たれている。水の手曲輪から道を登っていくと主郭と二ノ郭の間の鞍部の曲輪に至る。構造から考えて、特殊な形の枡形虎口と考えて良い。南の主郭側には虎口が開いた大土塁がそびえており、櫓門があったのであろう。主郭の南端には御札神社があり、その裏に当たる主郭先端には低土塁が築かれている。主郭の西半分は薮で覆われているが、西端にも低土塁が築かれている。その先は西郭との間の堀切になっている。西郭は全域藪が酷く、堀切沿いに低土塁がある以外はほとんど遺構がわからない。前述の枡形虎口の北側に二ノ郭があり。土塁と坂虎口が築かれている。二ノ郭は東辺以外を土塁で囲んだ、島崎城ではやや小さい曲輪である。ここは薮が伐採されていたので、形状がわかりやすい。ニノ郭北側には三ノ郭との間を分断する深さ4m程の堀切が穿たれている。この堀切は東側で曲がっており、堀切東端にニノ郭裏から通じる土橋が架かっている。土橋はそのまま三ノ郭から伸びる一騎駆け状の土塁に直角に繋がっており、非常に珍しい構造である。三ノ郭は縦長の曲輪で、西と北を土塁で囲んでおり、特に北側の土塁は幅が広く多門櫓のようなものが築かれていた可能性がある。この北側にも深さ10mを超える円弧状の大堀切が穿たれ、東側では横堀状となって降っている。その北側に独立堡塁状の小さいⅣ郭があり、Ⅳ郭東端も横堀側方の土塁となって伸びている。Ⅳ郭北側も深さ5m程の堀切となっていて、その北に東西に長く広いⅤ郭がある。Ⅴ郭には高圧鉄塔が建っている。鉄塔付近以外は薮がひどいが、北側に低土塁が築かれているのが確認でき、その北側も深さ4m程の堀切で分断されている。この堀切だけ、わずかに横矢掛かりの張出しが塁線に見られる。以上の様に、大きな4つの堀切で分断した規模の大きな城である。薮が多く遺構が確認しづらいのが難である。
三ノ郭堀切→IMG_4042.JPG
IMG_4099.JPG←5郭堀切の横矢掛かり
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.961560/140.535178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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塚原城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3886.JPG←二ノ郭から見た主郭の虎口
 塚原城は、大掾氏の一族、鹿島氏の庶流塚原氏の居城である。かの名高い剣聖・塚原卜伝はこの塚原氏の当主で、一時期塚原城主であった。鹿島氏15代義幹の子安幹がこの地に入部して塚原氏を称し、塚原城を築いたと言う。この安幹が養子として迎えたのが卜伝で高幹を名乗った。1591年の佐竹氏による鹿島城攻撃の際には塚原一族も鹿島城に立て籠もって戦い、塚原義安は自刃し、塚原義隆は討死した(系譜には不明点が多い)。
 一方、塚原卜伝は、鹿島神社神職の卜部家吉川左京覚賢の次男で、塚原土佐守安幹の養子に迎えられ、塚原新右衛門高幹と名乗った。1532年に家督を継いで塚原城主となったが、妻の妙と若くして死別し、養子に家督を譲って自身は3度目の修行の旅に出たと言う。

 塚原城は、北浦東岸の比高30m程の段丘突出部に築かれている。字が消えかかった案内標識が県道18号線に出ており、そこから細道を北東に登って行き、台地上で西に道を進むと一面の畑が広がっており、脇に城址看板が立っている。しかしその先が非常にわかりにくい。畑の奥にある山道を行ったり来たりして、ようやく探し当てることができた。塚原城は、西に張り出した台地の北端の基部を掘り切って、北側に3段の曲輪を築いている。最上段の主郭は最も広く、東辺にのみ低土塁を築き、ここに虎口を築いている。背後を堀切で防御しているが、浅い堀切で大した防御性は感じられない。主郭の東には土塁で囲まれた半円形の二ノ郭がある。二ノ郭は主郭と段差だけで区切られ、その高低差は1.5m程にしか過ぎない。二ノ郭の下方に腰曲輪が廻らされており、竪堀らしいものが数本見られる。素朴な構造の、簡素な城砦である。
 尚、腰曲輪のはるか下には民家があり、竪堀を覗いていたら民家の小父さんに「何やってんだ?」と大声で訊かれてしまった。城跡を見てると答えたら納得してもらえたが、この城に行くときは注意しましょう。
主郭背後の堀切→IMG_3852.JPG
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.992226/140.603585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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粟生城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3817.JPG←粟生城跡に建つ平光寺
 粟生城は、大掾氏の一族、鹿島氏の庶流粟生氏の居城である。元々は、平安末期に豊浦左近少輔光実が築いたと言われ、当初は花山城と呼ばれていた。その後、鹿島宗幹の次男幹実がこの地に入部して粟生氏を称し、花山城を改修して居城とし、鹿島城南東の防備に当たった。更に粟生城の出城として、石神城(現・神栖市)に一族の石神八郎憲幹を分知して備えを強固にしていたが、1558年に粟生・石神両氏の間で争いが起き、両氏とも滅亡して粟生城は廃城になったと言う。

 粟生城は、3郭から成っていたと言い、土塁で区画されて西を御城、東を内御城、北を外城と呼んでいたと伝えられている。鹿島臨海工業地帯に程近い丘陵南端に築かれていたが、工業地帯造成のために早くに採土で破壊されていたらしい。既に戦後間もなくの航空写真を見ても、城の中心部であったと思われる丘陵上は、平らで草木のない台地になってしまっている。現在は更に採土が進んでしまっており、壊滅的な状況である。それでも以前は、西側に堀切状の切れ目(谷戸)があって、唯一明確に残る遺構であったらしいが、私が訪城した時にはここにも重機が入って破壊が始まっていた。数年後には全てなくなるだろう。ここより北の平光寺付近には土塁らしき土盛りがあり、八幡神社北の切り通し状の車道は堀切の跡であるらしい。いずれにしても寺以外ほとんど壊滅的な、残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.945736/140.655835/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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林城[中城](茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3774.JPG←外郭北端の大空堀
 林中城は、鹿島城主鹿島氏の一族林氏の居城である。すぐ南に隣接して林外城があるが、「外城」に対して「中城」と呼ばれることから、林氏の平時の居城は林中城で、有事の際の詰城として林外城を築いていたと考えられる。林氏の事績については林外城の項に記載する。

 林城は、前述の通り中城と外城の2つの城が、低地帯を挟んで向かい合う台地先端部に築かれている。中城は北側に位置し、台地南端の突出部の基部を堀切で分断して区画した、ほぼ五角形状の城である。主郭内は空き家ではあるが民有地なのでここへの不法侵入を避け、南斜面を直登して外周から遺構を確認した。主郭の外周には数m低い位置に腰曲輪が廻らされ、腰曲輪の外縁部には低土塁が築かれている。この腰曲輪の南端付近に竪堀状の虎口が付いている。腰曲輪の藪を突っ切って、東側から主郭背後に回ると堀切が穿たれているが、この堀切はそれほど大規模なものではない。一方、主郭の北側に広がる民家が立ち並ぶ台地は、明らかに往時の家臣団居住地で、いわば中城の外郭に当たる。外郭の北限には枡形跡の鉤の手道路が残り、その両側に外郭遺構が残っている。ほぼ南北に小道が台地を横断しているが、往時の堀切の跡と思われる。この堀跡道の北端脇には大空堀が現存し、その脇に櫓台が築かれている。この空堀の先は台地西側の腰曲輪に繋がっている。腰曲輪は延々と南に伸びているようだが、その先は民家裏なのであえて踏査しなかった。以上の様に、外城と比べると居住性を重視した造りのため、見劣りするのは否めないが、それでも往時の雰囲気はよく感じられる。
低土塁のある主郭腰曲輪→IMG_3682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.010089/140.612018/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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楯の宮楯(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3604.JPG←主郭背後の空堀
 楯の宮楯(楯の宮館)は、歴史不詳の城である。津賀城から南東に約1.4kmの、標高約40m、比高35m程の舌状丘陵先端部に築かれている。東西に長い長方形のプランを持った方形館を基本とし、全周を土塁で囲み、背後に当たる東側に空堀を穿ち、土橋の架かった虎口を築いている。主郭周囲には腰曲輪が廻らされている。主郭の北辺には、周囲の土塁より一段高くなった土壇があり、櫓台であったと考えられる。尾根続きの東側には、わずかな堀底道状の小道があり、堀切の様な地形も見られるが、あまりはっきりしない。大した規模の城館ではなく、風化しているのか土塁などもそれほど見応えのある大きさでもない。あまりパッとしない城館で少々期待外れだった。位置的に考えると津賀城の出城であろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.030256/140.593822/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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阿玉館(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3563.JPG←南側の虎口と土橋
 阿玉館は、中居城主中居氏の庶流阿玉氏の居館である。中居時幹の3男幹時がこの地の地頭となり、阿玉三郎と称したと言う。その他の事績は不明であるが、佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で滅ぼされたのだろう。

 阿玉館は、北浦東岸の台地の中程に築かれている。東京電力大洋変電所の南に隣接している。変電所建設の際に、虎口の土塁が削られたらしく、その跡が変電所敷地の南西隅にマーキングされている。阿玉館自体はよくある方形単郭居館で、全周に土塁と空堀が残り、南に土橋の架かった虎口が築かれている。東側は下草が整備されていて、遺構がよく確認できるが、変電所沿いの西側は藪が多く、空堀もかなり埋まってしまっている様だ。比較的小規模な城館だが、山林内にこれだけ綺麗に遺構が残っているのは素晴らしいことである。
東側の土塁と空堀→IMG_3566.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.102203/140.552344/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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馬場館(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3542.JPG←土塁と空堀
 馬場館は、烟田氏の家臣団の居館と言われる「烟田八館」の一つである。烟田八館は、烟田城周辺にあり、その防衛網の一翼を担っていたと考えられ、一族・重臣が配されていたと見られる。中でも馬場館は最大の規模を持ち、重要な位置付けであったことが伺われる。

 馬場館は、丘陵上に築かれた単郭方形居館で、新宮神社参道に隣接する山林がそれである。南に向けてややすぼまった台形をしており、外周には土塁と空堀がよく残っている。空堀は全周を廻っているが、土塁は西半分しか見られない。以前は畑になっていたので、元は全周にあった土塁が削られて今の形になったのだろう。西側の車道から深い堀と切岸が垣間見え、キャッスラーならパッと見で城だと気付くはずである。尚、空堀の北西部では水が染み出しており、往時は水堀であった可能性もある。虎口と土橋は、畑になっていた際の改変が多く、原形がわかりにくいが、形状からすると北西のものが往時の虎口であろう。少々藪が多いが、なかなか見事な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.154544/140.535135/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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蕨砦(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3472.JPG←主郭の土塁と空堀
 蕨砦は、歴史不詳の城砦である。位置的に野友城に近いことから、元亀年間(1570~73年)に北浦北岸の当間の津の領有を巡って木崎城主武田氏と鹿島城主鹿島氏とが争った際に、野友城の出城として武田氏によって築かれたものではないかという説が提示されている。

 蕨砦は、北浦に注ぐ巴川西岸の標高22.7m、比高15m程の丘陵上に築かれている。車道沿いに城址標柱があり、登り道が整備され、城内も薮が伐採整備されているので、遺構の確認がし易い。土塁で囲まれたほぼ方形の3つの曲輪で構成されており、南に一番大きな曲輪である主郭を置き、その北に東西に三ノ郭・二ノ郭を並べて配置している。いずれも綺麗に整形された曲輪群で、主郭には枡形虎口まで構築されている。また三ノ郭の東側切岸下には腰曲輪が築かれている。また主郭外周から二ノ郭の西側にかけては、空堀が穿たれている。蕨砦は、非常に綺麗に遺構が残っており、小規模ながら素晴らしいの一言に尽きる。地主の方の努力の賜物であろう。
尚、「砦」という名称になっているが、3郭から成る普請のしっかりした遺構は、「城」と読んで差し支えないレベルである。砦と城の名称の違いは何なのか、少々考えさせられる。
二ノ郭・主郭の仕切り土塁→IMG_3486.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.167008/140.462844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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芹沢城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3391.JPG←南東辺縁部の横堀
 芹沢城は、大掾氏の一族芹沢氏の居城である。芹沢氏は、鎌倉期まで大掾氏の宗家であった多気大掾氏の流れ汲み、八田知家の讒言によって没落した多気義幹の次男茂幹が、義幹の失脚後に宗家となった馬場資幹の後援によって復活して、後の芹沢氏の祖となった。南北朝期に茂幹の後裔平竜太が、相模国高座郡に所領を与えられ、芹沢の地に館を構えて芹沢氏を称した。元服した竜太は幹文と名を改め、以後、良幹・高幹・望幹と4代にわたって鎌倉公方に仕えた。その後、1385年に隠岐守良忠の時に常陸へ戻ったが、これは病弱であった大掾詮国を支えるためであったと推測されている。良忠は府中城に在城し、詮国の継嗣満幹を補佐し、その報賞として行方郡荒原郷の芹沢を与えられた。そして戦国前期の天文年間(1532~55年)、芹沢秀幹の時に芹沢城が築かれたと言われている(別説もあり、秀幹の2代前の俊幹が初代城主とも言われる)。その後、芹沢城を本拠として勢力を維持した。小田原の役後の1591年、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将は謀殺されたが、時の当主国幹は病気と偽って招きに応じなかったため危害を免れた。しかし、佐竹氏に滅ぼされた大掾氏系諸族の残党が同族である芹沢氏を頼り、芹沢城に集まって籠城する事態となった。義宣は芹沢氏とはかねてからの誼もあり、芹沢城への攻撃は避けたが、国幹は周囲を佐竹氏に抑えられた為、城を放棄して下総古河に移り、後に下野国喜連川の那須資家の館に身を寄せ、そこで生涯を閉じた。国幹の子通幹は縁故の秋田河内守実季を頼って出羽国に移住したが、1602年に秋田氏は国替えによって常陸国宍戸城に移封となり、通幹もこれに従って常陸に戻った。1606年、通幹は徳川家康に召されて行方郡富田の地に100石を与えられ、同年故郷の芹沢に帰住し、その子孫は水戸藩郷士となった。幕末には、新撰組の初代筆頭局長となった梟雄芹沢鴨を輩出した。

 芹沢城は、梶無川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。現在、段丘上は耕地化しており、大きく立派な城址碑が建つほかは、明確な遺構は台地の南東辺縁部にしか残っていない。この辺縁部には横堀が穿たれており、特に南東角では三重堀切となって斜面を分断している。この他では、段丘上の大宮神社付近に土塁跡らしい土盛があるが、遺構かどうかは不明である。芹沢城は、近世にかなり改変されている様なので、遺構が僅かなのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.140283/140.424607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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羽生城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3287.JPG←主郭の土橋
 羽生城は、現地解説板では羽生館と称され、鹿島神宮大禰宜の中臣氏の一族の城である。南郡橘郷の支配と所領経営のために鎌倉末期頃に築かれたと言われている。橘郷は1174年に常陸国衙より鹿島神宮に寄進され、大禰宜中臣則親の勢力下に置かれた。以後、則親の子孫が代々所領を相伝し、羽生村に館を構えて本拠とし、羽生氏を称した。霞ヶ浦の水運にも影響力を持ち、羽生舟津も知行したと言う。

 羽生城は、霞ヶ浦沿いの比高10m程の台地上に築かれている。万福寺の境内も城域で、「要害」の地名があるらしい。万福寺以外の城内は未整備の藪に覆われており、遺構の見て回るのに苦労する。主郭は北西端にあり、堀切で分断され、背後のニノ郭とは土橋で連結されている。二ノ郭・三ノ郭は藪でどこまで広がっているのかわかりにくい。三ノ郭の北には横堀があって、その北は出曲輪となっている。また三ノ郭と万福寺境内の間には、谷戸の様に低くなった畑があり、往時の地形を残している様である。
 この城は、城郭遺構よりも万福寺の方が素晴らしく、仁王門や阿弥陀堂など、古風で趣がある。平清盛の長男、平重盛に縁のある寺らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.144711/140.383644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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中根城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3219.JPG←主郭堀切と土橋・虎口
 中根城は、歴史不詳の城である。『図説 茨城の城郭』によれば、一説には佐竹氏に属した中根氏の城であったとも言われるが、定かではない。

 中根城は、中丸川支流の小河川の東岸の比高20m程の段丘先端部に築かれた城である。西端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の城であるが、遺構が完存しているのは主郭のみで、二ノ郭は民家となり、三ノ郭は畑となってかなり改変されている。比高たかだか20m程なので、主郭下のとりつきやすい場所から直登すれば、城跡へはすぐである。主郭は西から南にかけて外周に帯曲輪を築き、北から東にかけては土塁を築いている。土塁の外側は空堀で台地と分断しており、特に二ノ郭側の堀切は土橋と虎口が残り、その形状がよく分かる。北側の空堀はだいぶ埋まってしまっているのか鋭さがなく、おまけに東半分は倒竹が酷く形状がほとんどわからない。主郭内はある程度藪が伐採されているので、歩きやすく、北東角には櫓台が築かれているのがわかる。大した技巧性もない城であるが、主郭部がよく残っているだけ良しとしたい。但し、幕末や戦時中に改変されているらしいので、留意する必要がある。主郭部を見た限りでは、あまり改変されているようには見受けられなかったが。
 尚、城の南西にある車道の橋の名は「館下橋」である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.377387/140.556207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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長者山城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3081.JPG←主郭空堀の屈曲部
 長者山城は、歴史不詳の城である。ここには「長者伝説」がある。昔、一盛長者という富豪が居て、後三年の役の際に10万の兵を率いて奥州に向かった源義家は、この地で長者から豪勢なもてなしを受けた。奥州平定後、再びこの地で前に劣らぬ接待を受けた義家は、このような富豪は後日の煩いになると考え、急襲して長者を滅ぼした、というものである。一盛長者は、源頼信の5男、常葉五郎義政のことであったと言う。一方、時代が下って戦国後期の天正年間(1573~92年)には、この屋敷に春秋駿河守や小曾沼権之助などと言う武士が住んでいたとも言われるが、確証はない。

 長者山城は、田野川南岸にそびえる比高30m程の河岸段丘辺縁部に築かれた城である。その選地は、前小屋城石塚城と共通しており、縄張りにも類似性が見られる。北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式で、現在は宅地化・耕地化で改変されているが、一部の遺構が良く残っている。主郭の周囲には土塁と空堀が残り、南中央には土橋が架かり、空堀は南東部では横矢掛かりのクランクを設けている。空堀の東端は、主郭・二ノ郭東側の斜面に構築された横堀に接続している。この横堀は、主郭空堀との合流点東側に竪堀状の虎口を設け、側方には櫓台を築いている。二ノ郭・三ノ郭はかなり改変され、西側半分は近年ソーラー発電所になってしまっているが、二ノ郭北辺の土塁は健在で、西側の土塁も部分的に残存している。外周の空堀は残念ながら埋められてしまっている。三ノ郭は、入口に「一盛長者伝説地」の石碑が建っている以外は湮滅が進み、二ノ郭との間の空堀も既にわからなくなっているが、南東角部から東面にかけて、車道脇に腰曲輪と横堀が残っている。この車道も往時の空堀跡であろう。前述の通り、佐竹一族の城との類似性が見られる一方、この付近は江戸氏の勢力圏であったと考えられるので、今後の考究が望まれる。
主郭東斜面の横堀→IMG_3126.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.412243/140.433555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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小館楯(茨城県大荒町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9762.JPG←主郭北西の櫓台の張出し
 小館楯は、歴史不詳の城である。位置的には大掾氏と江戸氏の勢力圏の接壌地帯に当たり、両者のいずれかによって構築されたと推測されている。南には隣接して大館楯があり、小館楯より規模が大きい城であることから、大館楯を本城とし、その出城として小館楯が築かれていたのではないかと考えられる。

 小館楯は、涸沼東岸の比高17mの丘陵上に築かれている。大館楯とは谷戸を挟んだ独立小丘である。単郭の城で。全周を土塁で囲んだ小さな主郭の周囲に、横堀(一部は腰曲輪)を廻らしただけの簡素な構造となっている。しかし外周横堀に対する横矢掛かりや、南麓からの登城道が繋がる竪堀状虎口に対する前面の櫓台など、防御構造は厳重である。特に北面では櫓台が両翼で張り出して相横矢を掛けている。腰曲輪の削平は綺麗にされている他、竪堀状の虎口は2ヶ所に築かれて、大手虎口には櫓台を備えるなど普請はかなりしっかりしている。また主郭土塁に切れ目があるが、下に城道がないので、堀底に対する射撃口であろうか?
 小館楯は、単郭の小規模な城砦であるが、発達した横矢掛かりを持っている。藪も少なくて遺構の確認がしやすく、小兵力で効率よく守備できるように考えられた縄張りであることがよく分かる。
主郭南東の櫓台と横堀→IMG_9808.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.271110/140.530694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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大館楯(茨城県大洗町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9731.JPG←主郭南側の横堀
 大館楯は、歴史不詳の城である。位置的には大掾氏と江戸氏の勢力圏の接壌地帯に当たり、両者のいずれかによって構築されたと推測されている。北には隣接して小館楯が築かれている。

 大館楯は、涸沼東岸の比高17mの台地上に築かれている。台地上に4つの曲輪を「田」の形に配置していたと推測され、曲輪内部は畑と藪になっている。北西の曲輪が主郭とされ、防備が最も厳重である。北辺・西辺・南辺の三方を土塁で防御し、北斜面には横矢掛かりを持った横堀、南から西にかけてもクランクした横堀を廻らしている。北東の曲輪が二ノ郭で、北面のみに土塁を築き、北斜面には主郭北側から繋がる横堀で防御し、隅櫓台が張り出して横矢を掛けている。南の三ノ郭・四ノ郭も、南辺等に土塁を築き、南斜面に横堀を穿って防御している。三ノ郭の南東には隅櫓台が張り出し、ここでも横堀に対して横矢を掛けている。また三ノ郭・四ノ郭の接続部南に、台地下からの登り道がついているが、これは往時の大手虎口だったと考えられ、側方に腰曲輪を伴い、南斜面に竪堀を落として防御している。各曲輪の辺縁部の土塁は、いずれも内側が絶壁型になっていて、おそらく畑にした際に削られたのだろう。遺構は比較的よく残っているが、斜面の遺構や主郭の空堀はガサ藪に覆われていて確認が大変である。大館楯は、小館楯と比べるとまとまった広さを有しており、それなりの兵力を駐屯させることができたと考えられる。
南斜面の竪堀→IMG_9650.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.269795/140.530200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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網掛館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9617.JPG←土塁と空堀
 網掛館は、歴史不詳の城館である。山林内に遺構が眠っており、館の輪郭は追うことができるが、全体に土塁は低く、空堀も浅くわずかであり、特に北辺はわずかな段差(空堀のみで土塁は無し?)しかない。しかし居館の面積はかなり大きく、土塁・空堀の普請の程度と比べると不釣り合いである。どのような位置付けの館であったのか、判断に迷う城館遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.263670/140.491104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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宮ヶ崎古館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9603.JPG←東側の土塁
 宮ヶ崎古館は、鹿島氏庶流の宮ヶ崎氏の初期の居館である。宮ヶ崎氏の事績は宮ヶ崎城の項に記載する。
 宮ヶ崎古館は、南北に長い長方形の単郭方形居館で、郭内は畑に変貌しているが、外周の土塁と空堀が、全体の約2/3程残存している。郭内への進入は憚られるが、藪に突っ込めば、北側と東側の土塁・空堀が確認できる。しかし土塁も空堀もそれほど大きなものではなく、比較的ささやかな規模の遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.262131/140.477157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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宮ヶ崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9536.JPG←主郭外周の土塁
 宮ヶ崎城は、大掾氏の庶流鹿島氏の流れを汲む宮ヶ崎氏の居城である。鎌倉前期の1220年代に鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹がこの地に分封されて宮ヶ崎氏を称した。宮ヶ崎氏初代家幹の居城は、宮ヶ崎城の南方550mの位置にある「きゅうでん堀」と呼ばれる方形館(宮ヶ崎古館)であったとされ、鎌倉末期の頃に宮ヶ崎城が築かれて居城を移したらしい。南北朝期の1338年に南朝方の柱石北畠親房が南朝勢力再建のため常陸に入ると、宮ヶ崎又太郎幹顕は北朝方として、佐竹義篤の家臣小野崎正通・二方左衛門尉や大掾氏一族の鹿島幹寛・烟田時幹らと共に神宮寺城阿波崎城攻撃に参加している。こうして南北朝期~室町初期には勢力を拡大し、鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持つに至り、鹿島大使役として3度、鹿島神社七月大祭の祭司を務めた。その後、1416年の上杉禅秀の乱の際、宮ヶ崎氏は禅秀方に付いて烟田氏・江戸氏らに敗れて滅亡し、宮ヶ崎城は一旦廃城となった。時代は下って戦国中期の1550年頃、江戸氏の支配時代に宮ヶ崎城は再整備されて現在の姿になったと推測されている。

 宮ヶ崎城は、涸沼南岸に突き出した比高25mの段丘先端に築かれている。北端に五角形状の主郭を置き、その南から東にかけて二ノ郭・三ノ郭を梯郭式に配置した縄張りであった。現在は城内は耕地化によって改変され、しかも県道16号線が三ノ郭を貫通しているため、かなり破壊を受けている。それでも主郭は比較的遺構がよく残り、外周の土塁や空堀がかなり残存しており、特に主郭背後は大土塁となっている。また主郭周りの空堀の北西の外側に、外周を防御する土塁が残存している。しかしいずれも未整備の薮に覆われて、踏査が大変である。二ノ郭・三ノ郭は全面的に畑に変貌している。二ノ郭・三ノ郭の間には堀がなく、段差だけで区画されていた様である。三ノ郭は郭内が何段かの平場に分かれており、東の畑の中には「宮崎氏寺跡」という標柱が立っている。三ノ郭の南東部には、自然地形の大きな谷戸があり、外堀の役目を果たしていたようで、土橋状の地形が確認できる。宮ヶ崎城は、全体に地勢はよく残っており、往時の雰囲気は比較的わかりやすいが、遺構の改変が進んでおり、残った遺構も未整備の藪に埋もれているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.267010/140.475612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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海老沢城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9471.JPG←そびえ立つ大土塁
 海老沢城は、海老沢氏の居館である。『日本城郭大系』によれば、海老沢幹家が居住していたと言う。海老沢市の事績については、天古崎城の項に記載する。

 海老沢城は、比高20m程の河岸段丘先端近くに築かれた方形居館で、谷戸を挟んだ北側には内手館が築かれている。方形居館という点では内手館と同じであるが、本城だけあって海老沢城の方が規模が大きい。柴田花木園の南西端の小道を、南西の山林の方に進んでいくと、右手の林の奥に大きな土塁が障壁のようにそびえているのに出くわす。居館としての面積は普通程度であるが、外周を取り巻く土塁は北西辺以外の3辺では高さ5m程もあり、非常に規模が大きい。土塁の外側は、北東辺以外は浅い空堀が穿たれている。また曲輪内部は、郭内の段差としては非常に大きな段差によって上下2段に分かれている。虎口は2ヶ所に築かれており、大土塁がそびえ立つ南東辺のものが大手虎口と推測される。海老沢城は、方形居館にしてはかなり大型の土塁がそびえた城館で、屈指の遺構である。ただ全体に藪が多く、見栄えが悪いのが残念である。
 尚、昭和20年代前半の航空写真を見ると城址北西に外郭があったらしく、堀らしい線が見られるが、帰ってから気付いたため未踏査である。
北西辺の土塁と空堀→IMG_9497.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.257892/140.447953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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内手館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9460.JPG←土塁
 内手館は、海老沢城主海老沢氏の支城と言われている。海老沢城から谷戸を挟んだ北側の向かいの位置にあり、比高20m程の河岸段丘先端近くに築かれた単郭方形居館である。海老沢氏の知行地を支配する拠点の一つであったと推測されるが、海老沢城に極めて近い位置にあることから、防衛拠点というより政庁機能を補完する何らかの施設があったのではないかと思われる。現在残っているのは三辺の高さ2m程の土塁と外周の空堀で、西側の土塁は湮滅しており、既に昭和20年代前半の航空写真でも湮滅しているのが確認できる。また南側には腰曲輪を伴っていたらしい。郭内は耕地化されている一方、土塁は草茫々であるが冬場ならば踏査できないほどではない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.260158/140.446665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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天古崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9410.JPG←主郭の土塁と堀切
 天古崎城は、海老沢城主海老沢氏の支城と言われている。海老沢氏の事績はあまり明確ではないが、一説には小幡城を築いた小幡氏や鳥羽田氏と同族であったとも言われる。室町・戦国期には、江戸氏の家臣となっていたことが知られている。
 天古崎城は、涸沼川北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。主郭・二ノ郭を東西に並べただけの直線連郭式の小さな城で、主郭には現在稲荷神社が鎮座している。主郭・二ノ郭はいずれも西側を土塁で防御し、堀切で分断しているが、いずれも規模が小さく、特に二ノ郭の堀は埋もれて僅かなものになってしまっている。西側土塁の中央には虎口があるが、食い違い虎口になっていた様である。この他、主郭北側の斜面に帯曲輪・横堀が築かれ、主郭北東部の櫓台が、帯曲輪に対して張出し、横矢を掛けている。遺構としては以上で、地方の小土豪が築いた簡素な城砦の趣を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.269968/140.435529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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石崎城(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9367.JPG←主郭背後の大土塁と堀切
 石崎城は、親沢館とも呼ばれ、大掾氏の庶流で石崎保の地頭、石崎禅師房聖道の居城であったと言われている。石崎氏に関わるHPを拝見したところ、平国香の6代後に石河家幹がおり、その長子が馬場資幹、7男が聖道で石崎氏を称したらしい。一方、『日本城郭大系』では城主として石崎幹経の名を挙げている。いずれにしても最初に築城されたのは古く鎌倉時代らしいが、現在残る遺構は戦国期のものと推測され、涸沼周辺の城砦群の一つとして、存続していたものと考えられる。

 石崎城は、涸沼に突き出た親沢鼻(鼻=端の意味)という岬背後の比高25mの丘陵先端に築かれている。単郭の小規模な城であるが、遺構は良く残っている。主郭は背後に大土塁を築き、背後を堀切で分断している。土塁中央部には外側に張り出した櫓台があり、堀底に対して横矢を掛けている。主郭は背後の大土塁以外も全周を低土塁で防御している。大手虎口は西端にあり、堀切脇から城道が明瞭に残っている。また搦手虎口が北東端にあり、その外側には腰曲輪が築かれている。主郭の中には大きな土壇があるが、櫓台の遺構なのか、耕地化による改変なのかよくわからない。簡素な城砦であるが、水運を監視する物見として絶好の位置にあったことが窺われる。涸沼の対岸には宮ヶ崎城が見え、江戸氏と大掾氏の接壌地帯として対峙していたものかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.279379/140.478101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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