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古城めぐり(茨城) ブログトップ
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馴馬城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8335.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の堀切
 馴馬城は、南北朝時代に南朝方の城であった。1341年に、城主は不明であるが北朝方の攻撃を受けたことが伝わっており、また1344年にも南朝方の武将春日顕国が立て籠もり、宍戸朝里ら常陸北朝方の軍勢に攻略されている。顕国は北朝方に捕らえられ、斬首されたと言う。
 馴馬城は、龍ケ崎市歴史民俗資料館付近の比高10m程の丘陵上に築かれている。東から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の城で、北側は谷戸を空堀と為し、土橋を架けて北の台地と連絡していたと考えられている。歴史民俗資料館が建っているのが主郭であるが、大部分が土取りで消滅してしまっている。二ノ郭は遺構が明瞭ではないが、三ノ郭との間に堀切が残り、堀切沿いに櫓台状の土壇(塚?)がある。三ノ郭は山林化していて、やはり遺構は明確ではない。南北朝期の城とは言え、常陸南朝方が最後まで拠った城なので、もう少ししっかりした普請がされていても良さそうだが、後世の改変が多いのか、明確な遺構は堀切と土橋程度なのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.916112/140.175912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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貝原塚城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8251.JPG←空堀と隅櫓台
 貝原塚城は、歴史不詳の城である。城主について、『日本城郭大系』では小田氏直とし、近世に書かれた『土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書』(『諸岡文書』)では江戸崎土岐氏の一族で龍ヶ崎城主であった土岐左兵衛尉胤倫の家臣師岡長門であったとしており、どちらが正しいかは不明である。

 貝原塚城は、小河川の流れる谷戸に突き出した比高10数m程の2つの台地先端に築かれている。2つの台地は、間を谷戸で隔てられ、西が城山、東が寄居の地名が残っていることから、
金剛院の北西背後にある二つの丘陵に築かれている。西側が本城で、東は外郭であったと考えられる。遺構もその通りとなっており、大地を東西に貫通する小道から北の山林の中に入っていくと、城山の方には規模の大きな空堀が穿たれ、幾重にも屈曲して走っているのが確認できる。空堀に沿って土塁が築かれ、要所に大きな隅櫓台が築かれている。空堀だけでなく、土塁も櫓台も規模が大きい。しかし空堀は幾重にも横矢掛かりの屈曲の先は、途中で堀が消えてしまっており、どのような縄張りであったのか、今ひとつピンとこない。『図説 茨城の城郭』では、構築途中で放棄したとの説も提示しているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、どうも後世の耕地化による湮滅の可能性も捨てきれない様である。城山の空堀で囲まれた北東の曲輪が主郭と思われるが、主郭の北東部にも大きくクランクした空堀状の虎口が築かれている。一方、東の寄居の方は一面の畑に変貌しており、西へ降る小道に沿った竪堀や、腰曲輪状の平場が見られるほかは、遺構はよくわからない。それにしても貝原塚城は、久々の倒竹地獄で遺構の踏査はかなり困難である。これほどの遺構を埋もれたままにしておくのは、勿体無い限りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(藪がひどいので減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.942158/140.203035/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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福田城(茨城県阿見町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8148.JPG←横矢の掛かる主郭空堀
 福田城は、戦国末期に江戸崎土岐氏の支城となった城である。その歴史には不明点が多いが、伝承では室町前期の城主は上杉氏の家臣であり(おそらく知久氏であろうと推測されている)、戦国期には牛久城主岡見氏の一族福田豊後が在城し、戦国末期には江戸崎土岐氏の一族土岐左兵衛尉胤倫(後の龍ヶ崎城主)が城主となったと考えられている。
 福田城は、乙戸川北岸の比高15m程の段丘上に築かれている。城内は宅地化で改変されているのでどこまでが城域か判然としないが、城域南西端に位置する主郭は遺構をよく残している。主郭内は竹林となっているが、その南外周に空堀が良く残っている。空堀は横矢のクランクを有し、外周に土塁を築いて防御している。主郭の北側には土塁が残り、土塁上には神社が祀られている。この他、主郭の南東には切岸の下に腰曲輪が広がっている。また主郭からやや東に離れた光照寺境内も城域の一部であったらしいが、明確な遺構は残っていない。いずれにしても福田城は、下小池城久野城の中間に位置し、互いに連携して江戸崎土岐氏の領国の北西辺の防備を担っていたと推測される。
主郭南東の腰曲輪→IMG_8128.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.980455/140.205503/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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島津城(茨城県阿見町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8075.JPG←主郭周囲の屈曲した空堀
 島津城は、江戸崎土岐氏の家臣宮本内膳の城と伝えられている。元々は、永正年間(1504~21年)頃に小田氏により築城されたと推測されている。その後、小田氏が衰退すると土岐氏の有に帰することとなった。そして最後の城主が、前述の宮本内膳であると言う。
 島津城は、国道125号線北側の丘陵地に築かれている。残念ながら城の東部分は耕地化などで大きく改変されているらしく、明確な遺構を残しているのは主郭だけに過ぎない。しかし主郭の周囲には大きな空堀が廻らされており、幾重かに屈曲して横矢を掛け、主郭には隅櫓を配して防御を固めている。土塁上は竹藪になっているが、堀底は地主の方が整備しているらしく、そこだけ竹が伐採されていて美しい堀の姿を現している。湮滅が進んでしまっているのは惜しいが、主郭外周の横矢の掛かった空堀だけでも見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.021787/140.259404/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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立ノ越城(茨城県阿見町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8009.JPG←主郭前面の空堀と隅櫓台
 立ノ越城は、歴史不詳の城である。伝承では、羽成監物という武士の城であったと言われるが、羽成監物がどのような武士であったのかはよくわからない。
 立ノ越城は、花室川南岸の段丘のやや奥まった部分にある比高15m程の半島状台地の上に築かれている。ほぼ単郭の城であるが、遺構はよく残っている。ほぼ長方形をした主郭は土塁で囲まれ、南西角・北西角・北東角の3ヶ所に横矢張出しの隅櫓台が築かれ、南東辺中央部にも張り出した櫓台が築かれている。また主郭の周囲には空堀が廻らされているが、腰曲輪も兼ねた空堀であった様である。北側に土橋が架かっており、北の緩斜面の外郭に通じている。前述の隅櫓台はこの土橋への横矢を強く意識したものである。この他、主郭の南西に土塁で囲まれた小さな囲郭があり、また北西斜面の下方には船着き場か井戸曲輪と思われる囲郭も確認できる。一方で、横矢掛かりは東側に多く配置されており、東側からの攻撃を強く意識していることが感じられる。比較的簡素な構造の小規模な城砦であるが、横矢掛かりが多用されていることを考えると、戦国後期の城砦であったと推測される。
北外郭に通じる土橋→IMG_8017.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.044970/140.206575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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若栗城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7930.JPG←主郭の堀切
 若栗城は、岡見氏の支城と伝えられている。岡見氏は牛久城を本拠とした国人領主で、若栗城も含めて17の城館を有していたとされる。若栗城は、岡見氏の重臣栗林義長が在城していたと言う伝承があり、義長病没後に、佐竹・多賀谷連合軍の攻撃を受けて落城したと言う。しかし、栗林義長の実在自体が一次史料で立証されていないので、かなり怪しい伝承である。
 若栗城は、谷田川東岸の比高15m程の台地の突端に築かれている。先端に主郭、その北東に二ノ郭があり、主郭と二ノ郭の間は堀切で分断されているが、堀切は西側は深いがそれ以外は浅いものである。また堀切内に櫓台があるのも、珍しい構造である。主郭の周囲には腰曲輪が取り巻き、二ノ郭外周には土塁が一部残存している。確認できた遺構は以上であるが、藪が多いせいもあって全体に遺構が今一つはっきりせず、パッとしない印象の城である。尚、近くに城の解説板が立っていたらしいが、気付かなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.017119/140.096176/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖橋城
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小野崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7911.JPG←民家周囲の北西角部の二重空堀
 小野崎城は、岡見氏の一族荒井氏の居城であったと伝えられている。戦国時代の城主荒井縫殿介照信は小田氏の家臣となり、小田氏が佐竹氏に降伏すると、荒井氏は府川城主の豊島氏に身を寄せたが、後にこの地に戻って帰農したと言われている様だ。
 小野崎城は、城主後裔の荒井氏の宅地となっている。この地は筑波の中心市街地に非常に近く、あんな開けた市街地の片隅に、よくもまぁこんなに綺麗に城郭遺構が残っているとは信じられない!というぐらい奇跡的に遺構がよく残っている。民家の周りに見事な空堀が確認できる。南側は幅広だがかなり埋まっていて、僅かな痕跡を留めるだけだが(冬場は空堀だが、夏場は水堀になっていそうである)、北から西にかけては二重の空堀が綺麗に残っている。しかし民家の敷地なので、当然中に入って見ることはできず、外周の車道から遠望することしかできない。おまけに行った日時が平日のPM4時頃で、周りじゅう住宅地である上、小学生の下校時刻にぶち当たってしまい、不審者に間違われる危険性大という、チョー危険なシチュエーションになってしまった。訪城には、細心の注意を要する城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.071354/140.108964/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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花室城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7882.JPG←主郭西側に残る空堀
 花室城は、伝承では大津長門之助という武士の城であったと伝えられている。その事績ははっきりしないが、小田氏の家臣であったらしい。1574年の土浦での合戦で佐竹氏と戦い、大津長門之助は討死し、その子大津図書は佐竹氏に降伏したと言われる。この他、1569年に佐竹義重が小田城を攻撃するに当たって、花室城の城番衆として玉造氏・手賀氏が動員されたとされ、一時期佐竹氏の支配下にあったとも考えられる。
 花室城は、比高15m程の台地上に築かれている。城内を県道24号線が貫通して破壊を受け、北半は民家が建ち並んで改変が進んでいる。しかし、一部に遺構が明瞭に残っている。南端に空堀で囲まれた主郭があり、ちょうど県道の南側の畑地に当たる。空堀はかなり埋められてしまっているが、主郭の西側部分の空堀はよくその形状を残している。また主郭の外周の一部には隅櫓台などの跡と思われる土盛が残っている。そして主郭外周と北側に広がっていたのが二ノ郭と考えられ、八坂神社の裏に空堀が残存している。明確に確認できる遺構はこの程度で、城域の北半分は前述の通り改変が進んでおり、どこまでが城域でどの様な縄張りになっていたのかは、はっきりしない。解説板もなく、惜しい城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.088748/140.134864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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金田城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7808.JPG←主郭外周の空堀
 金田城は、小田氏の支城とされている。伝説では、将門が常陸攻めの際に、ここから土浦方面を遠望しながら策を練ったところだと言われているらしいが、元より史実かどうか疑わしい。戦国初期には小田氏の家臣沼尻氏の居城となっていたことが伝わっていると言う。戦国後期の1574年には、佐竹氏による小田氏攻撃で沼尻播磨守・家忠父子が討死したとされ、小田氏が没落すると廃城になったと思われる。
 金田城は、つくば舘山城という懐石料理店の裏の丘陵上に築かれている。主郭と二ノ郭で構成された単純な城であるが、主郭は広く、かなりの居住性を有していたと思われる。主郭内部は最近整備されたらしく、藪が切り払われているので、遺構の確認がし易い。東辺以外の外周を土塁で防御しており、その外側には規模の大きな空堀を穿っている。その周囲にも高土塁が取り巻いている。空堀を挟んで主郭の北側には、後方(主郭側)に土壇を設けた二ノ郭があり、内部は2段ほどに区切られている。遺構としては以上の通りで、構造は単純で技巧性もないが、堀・土塁共に規模が大きく、見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.101146/140.132418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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藤沢城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7733.JPG←中城の土塁
 藤沢城は、小田氏の支城である。明確な築城時期は不明だが、常陸小田氏の元に配流となった後醍醐天皇の側近万里小路藤房がこの地に置かれていることから、既に小田氏の城館が構えられていたことが窺われる。即ち1331年、正中の変に続き、再び倒幕の企てが露見した後醍醐天皇は、急遽御所を抜け出して笠置山を城砦化して立て籠もった。鎌倉幕府は直ちに鎮圧の軍勢を送り、間もなく笠置山は陥落した(元弘の乱の始まり)。後醍醐天皇は捕えられて隠岐に流され、皇子や側近の公卿達も各地に遠流となった。その中で、後醍醐天皇の側近であった万里小路藤房(後三房の一人、万里小路宣房の長子)は常陸に配流となり、常陸の有力御家人小田高知(治久)に預けられ、その時高知は藤房を藤沢の地に軟禁している。時代は下って戦国後期には、佐竹氏に本拠の小田城を逐われた小田氏治が、藤沢城を拠点にして幾度か本拠奪還を試みたと言う。小田原の役の後、豊臣秀吉の裁定によって小田氏は結城氏の食客となり、藤沢城は廃城となった。

 藤沢城は、桜川の北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。かつては広い台地全体を城砦化していた様で、戦後数年後の航空写真を見るといくつかの空堀が確認できるが、現在は宅地化などでかなり湮滅が進んでいる。主郭は畑となっており、周囲にわずかに土塁が残っている。北西辺にあった空堀は、現在は湮滅している。その西には播磨郭があるが、ここも改変が進んでいる。ここには万里小路藤房の髪を切って埋めたという、髪塔塚がある。播磨郭の北側にも空堀があったが、民家があって現況を確認できない。主郭北の神宮寺のある辺りが二ノ郭とされ、若干の土塁が残っている。一方、主郭から谷戸を挟んで東には「中城」の名が残る三ノ郭があり、東側に立派な土塁と空堀跡が残っているが、植木園で進入できない。これらが城の主要部であるが、この城では台地の北側基部を分断する総構えがあったらしく、精泉寺の裏などに大土塁と空堀跡が断片的に数百mに渡って残っている。藤沢城は、残念ながら遺構がかなり断片的になってしまっている。解説板がないのも残念である。
総構えの土塁と空堀→IMG_7760.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.122710/140.154541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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金上城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7600.JPG←主郭背後の堀切
 金上城は、江戸氏の庶流金上氏の居城と推測されている。築城時期などは不明であるが、1590年に佐竹義宣が江戸氏の居城水戸城を攻略する際、江戸氏の一族金上弾正明直が武田原で佐竹勢と戦って討死し、金上城は廃城になったと伝えられている。

 金上城は、那珂川北岸の比高15m程の台地の突端に築かれている。南北2つの曲輪と腰曲輪で構成されている。北の曲輪は外城山と呼ばれる二ノ郭で、郭内には熊野神社が鎮座し、背後を土塁で防御している。南の曲輪が御城山と呼ばれる主郭で、やはり背後に大きな土塁が築かれ、二ノ郭との間は堀切で分断されている。この堀切は主郭側に向かって凹字状に屈曲しており、主郭土塁上から横矢が掛けられている。深く見応えのある堀切なのだが、藪がひどくて写真写りの悪いことこの上ない。また主郭の南辺にも低土塁が築かれている。主郭は方形でなく、南東部が舌状に突出した形状で、この突出部の付け根と前述の低土塁の接続部の、ちょうど塁線がL字に折れている部分に虎口が築かれている。この様に、角部に虎口というのは極めて珍しい構造である。主郭の東から南にかけての外周には横堀・腰曲輪が築かれており、前述の虎口はこの腰曲輪に繋がっている。横堀の南端部には物見状の小郭がある。また腰曲輪は、主郭の東側を延々と伸びて、主郭堀切下の腰曲輪に通じている。遺構としては以上で、簡素な構造の小城砦である。主郭付近が未整備で薮に埋もれているのは惜しい。
主郭周囲の横堀→IMG_7634.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.369863/140.537968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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真崎城(茨城県東海村) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7555.JPG←1郭~2郭間の土橋と堀切
 真崎城は、佐竹氏の庶流真崎氏の城であったと伝えられている。鎌倉後期の弘安年間(1278~87年)に、佐竹氏5代義重の3男義澄の子義連がこの地に分封されて城を築き、真崎氏を称したと言う。

 真崎城は、新川の河口に近い天神山という半島状台地に築かれている。天神山は、県下で一番低い山だそうで、付け根の三角点で17.1m、台地の最高所でも22mしかない。この細長い半島状台地の周囲は、現在は水田地帯となっているが、往時は真崎浦という湖沼であったらしい。この湖沼に突き出した城で、大きく4つの曲輪で構成され、それぞれ堀切で分断されている。先端から順に1郭・2郭・3郭・4郭とすると、三角点のあるのが4郭で、背後に土橋の架かった堀切で台地基部と区画されている。4郭と3郭の間の堀切には歩道が通っており、ここから3郭に登ることができる。3郭は比較的小さな曲輪だが、前後に土塁を築き、前面にも堀切を穿っている。この堀切は両端とも麓まで降っており、おそらく船着き場に繋がる通路になっていた様である。ここを監視するように、2郭後部に櫓台が築かれている。2郭は細長い曲輪で、前述の3郭との間の堀切から登る虎口が築かれている。またこの堀切に沿って、東斜面だけ竪堀が穿たれ、ここだけ二重竪堀となっている。2郭には後部のみにくの字型の土塁があり、屈曲部に前述の櫓台が築かれている。2郭と1郭の間には土橋の架かった堀切が穿たれている。1郭も細長い曲輪で、東辺の半分程だけ土塁が築かれ、先端にも監視の櫓台が築かれている。1郭内部は段差で2段に分かれ、郭内は畑になっている。尚、4つの曲輪のどれが主郭であったかは意見の別れるところで、明確にできない。真崎城は、いずれの曲輪も削平は綺麗にされているが、いかんせん城の規模が小さく居住性は殆ど無いので、有事の際の詰城と船着き場の監視の城砦として機能したと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.449439/140.590603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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寄居城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7460.JPG←主郭の土塁と空堀
 寄居城は、水戸城主江戸氏の家臣平野氏の居城である。戦国後期に、額田城の額田小野崎氏(額田氏)に対する最前線の防衛拠点として整備されたと考えられている。1590年の小田原の役の後、豊臣秀吉の権力を背景にして常陸一国の統一を推し進めた佐竹義宣によって江戸氏が攻撃された際、寄居城は佐竹氏の第一目標として攻撃されて落城し、平野氏一族はほとんどが討死した。生き残った一族は結城氏を頼って落ち延び、佐竹氏が出羽秋田に移封となった後にこの地に戻って帰農したと言う。

 寄居城は、県道31号線と172号線の交差点の北西部に位置している平城である。多重空堀で囲まれた環郭式の城で、中心に墓地に変貌した主郭があり、主郭周囲は土塁と空堀が概ね良く残っている。主郭の南西部や取り巻く山林の外周部などにも空堀が残っている。北西に広がる外郭周囲の掘は、小さく溝レベルであるが、西側や南西の堀は中規模で土塁を伴い、一定の防御力を有している。また、県道31号線沿いの民家前にもわずかに土塁と堀があり、民家の敷地が往時は南の外郭となっていたことがわかる。横矢掛かりは、主郭の北辺中央のみに確認できる。遺構はよく残っており、特に主郭の土塁と堀はしっかりしているが、藪が多い上、堀がゴミ捨て場になっているのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.437943/140.512090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高内館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

DSC08933.JPG←主郭北側の二重空堀
 高内館は、宮田掃部助という武士の居館と言われており、別名を宮田掃部助館とも言う。宮田掃部助は、日立宮田館の館主宮田氏5代通豊の弟通宗で、掃部助と称して菅谷に入部したと言う。
 高内館は、素鵞神社の東側一帯に築かれた方形居館である。主郭は現在、民有地の畑となっている。往時は主郭の全周を土塁と堀で囲んでいたと思われるが、南西側半分は湮滅している。しかし残存している部分の土塁と空堀だけでも立派なもので、殊に北側は二重空堀となっており、見応えがある。この他にも北側に浅い堀が穿たれている他、主郭の北西角の西側にも土塁と堀が若干であるが続いており、複郭で構成された立派な城館だったと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.449094/140.509729/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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鷺内館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7376.JPG←主郭周囲の土塁と堀
 鷺内館は、加藤安房守という武士の居館と言われており、別名を加藤安房守館とも言う。加藤安房守については、1575年の佐竹氏による宍戸攻撃の際、江戸氏の配下として出陣したと伝えられているらしい。しかし宍戸氏は、一定の独立性を保ちつつも佐竹氏に服属していたはずなので、佐竹氏に攻撃された事自体が史実かどうか不明で、はっきりしたことはわからない。ご存じの方がいたらご教示を請う。
 鷺内館は、鷺内不動尊の西側に広がる林の中にある。林の中を探索すると、溝のような堀が走っている。主郭は台形状の曲輪で、堀で囲繞され、南には土橋が架かり、北辺の堀には横矢掛かりの折れが見られる。主郭の周辺にも堀が確認できるがいずれもかなり浅いものである。土塁はあるにはあるが、規模は小さく僅かである。全体に根城内館に似た印象で、あまり中世城館らしくない。『図説 茨城の城郭』によれば、那珂市の平地城館群は、近くの溜池から用水路を引いて水利権を管理した領主の城館、ということだが、根城内館と言い、主水山館と言い、この鷺内館と言い、あまりに無防備で中世の武士の居館とは考えにくい。どちらかと言うと、灌漑施設の管理事務所的な使い方をされた館だったのではないかと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.467025/140.488400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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薬山館〔旧称・主水山館〕(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7298.JPG←主郭の土塁と堀
 薬山館〔旧称・主水山館〕は、歴史不詳の城館である。隣接する根城内館と同様、数年前に新発見された城館で、溜池から水を引いて水田管理を行っていたと推測されている様だ。
 薬山館は、又三池の東側の平地に、根城内館と沼を挟んで向かい合う様に築かれている。堀で囲まれた主郭と思しき曲輪と、その周りの平地に穿たれた幾つかの堀で構成されている。根城内館よりは堀がやや大きく、明確な土塁も確認でき、よりしっかりした普請がされており、城館らしい構えを見せている。とは言え、防御性はほとんど無く、根城内館と同様、官衙遺跡の様な印象である。強いて考えれば、佐竹氏による額田城長期攻囲戦の際に、臨時の兵站基地(倉庫)として築かれた可能性もあるだろうか。川越市下広谷地区の城館群と同じ様に。或いは灌漑施設の管理事務所的な館だったものだろうか。判断に迷うところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.471839/140.476770/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※Pさんから頂いた情報で、茨城大学で調査の結果、主水山館と仮称されていた館は、「薬山館」に正式名称が決定したとのことで、本項の呼称も修正しました。(2017-7-20追記)
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根城内館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7273.JPG←溝状の堀
 根城内館は、歴史不詳の城館である。数年前に新発見された城館で、溜池から水を引いて水田管理を行っていたと推測されている様だ。
 根城内館は、又三池の西側の平地に築かれている。畑の奥に八坂神社の小さな祠があり、その横に溝状の堀が走っている。基本的に館内には土塁がなく、浅い溝状の堀が方形に取り巻いているだけである。主郭と思われる曲輪の南には一応土橋らしいものが見られ、郭内への出入りに使われた痕跡は窺える。この他、又三池沿いに土塁が残っているが、これは土塁と言うより堤防と言った趣である。はたしてこれらを中世城館の遺構と言うべきなのだろうか?見た限りでは、農耕用の水路か、強いて言えば官衙遺跡の様な溝で、堀とは言い難い。

 お城評価(満点=五つ星):-(城館遺構か微妙なので、評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.472340/140.474517/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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南酒出城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7151.JPG←主郭虎口の土橋
 南酒出城は、佐竹氏の庶流南酒出氏の居城であったと言われている。鎌倉初期に、佐竹秀義の次男義茂が承久の乱での戦功により、この地を与えられて城を築き、南酒出氏を称したと言われている。後に、佐竹氏に与えられた美濃国山田郷の支配を命じられてこの地を離れた。その後、佐竹氏15代義治の孫東義賢がこの地に入り、酒出氏を称した。義忠の時に、佐竹宗家に従って出羽秋田に移り、廃城となったと言われている。しかし最近の研究では、内宿集落より低く、東に偏って築かれていることから、南酒出氏の城ではなく、額田城攻撃のために佐竹氏が築いた付城ではなかったかとの説が提示されている。

 南酒出城は、久慈川からやや離れた段丘に沢筋が入り込んだ部分の段丘先端に築かれている。南東端に主郭を置き、その西側に二ノ郭、北側に広がる台地に三ノ郭・四ノ郭が配置されていたと推測されている。しかし三ノ郭は、西辺部分以外は全面耕地化し、四ノ郭は蒼龍寺となって改変されており、遺構は湮滅している。一方で、主郭は完存し、二ノ郭も8割程度の遺構が残っている。主郭はかなり広い面積を有した曲輪で、しかも外周に土塁を築いて防御している。殊に背後に当たる西辺の土塁は高さがあり、しっかり普請されたものである。南寄りに虎口が築かれ、二ノ郭に向かって土橋が架けられている。主郭の周囲は大きな空堀が穿たれ、主郭北面には1ヶ所だけ、張出した櫓台が設けられている。空堀外周にも土塁が築かれ、東の谷戸に向かって落ちている。落ちていく途中に木戸口らしい部分や側方に平場が見られることから、下の低湿地帯に設けられた船着き場に通じる通路であった様である。二ノ郭にも空堀・土塁が築かれ、堀の規模は大きくないが西側中央付近に横矢掛かりのクランクが見られる。その西側には、三ノ郭の一部が南に伸びてきているが、ここにも空堀や土塁が残っている。この中には、曲輪内部に堀状の溝が空堀と並走しているが、どのような役割をもっていたのかは、少々わかりにくい。遺構としては以上であるが、付城と推測されるほど臨時的な城砦ではなく、本格的な普請をされた城である。一方で技巧的な部分は少ないので、戦国末期の額田城攻防戦ではなく、室町中期の額田城の長期攻防戦で構築された可能性は捨てきれないと感じた。
二ノ郭周囲の空堀→IMG_7095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.479638/140.494967/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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額田城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6897.JPG←二ノ郭の大規模な横矢掛かり
 額田城は、額田氏の歴代の居城である。額田氏には時期が異なる2流があり、最初のものをここでは前期額田氏、後のものを後期額田氏と称する。前期額田氏は佐竹氏の庶流で、鎌倉時代前期の建長年間(1249~56年)に、佐竹氏5代義重の次男義直がこの地に分封されて、額田城を築いて居城としたと伝えられている。南北朝時代には、額田義廉は佐竹宗家に属してその一翼を担い、足利方として各地を転戦したが、京都争奪戦の中で討死し、一族の昌直がその跡を継いだ。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、額田義亮は同族の山入与義を盟主として長倉氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。額田氏は終始佐竹宗家に反発し、1417年に額田城に立て籠もった。1423年、長期の攻防戦の末に佐竹義憲に攻められて落城し、前期額田氏は滅亡した。その後、山尾城主小野崎氏の一族小野崎通重が佐竹氏から額田城主に任じられ、額田氏を称した(後期額田氏)。通重には継嗣がなく、水戸城主江戸氏から通栄を養子に迎えた。1529年に部垂の乱が生起して佐竹家中が再び動揺すると、1535年、石神城主小野崎通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は石神小野崎氏の同族、額田篤通にこれを鎮圧させた。その後、1547年に額田氏・石神氏は領地争いを起こし、額田氏は石神城を攻め落とした。戦国末期になると江戸氏に内紛が起き、その対応を巡って額田照通は佐竹義宣と対立するようになった。そして1591年、義宣は照通に異心ありとして額田城を攻撃し、落城させた。照通は、かねてより誼を通じていた伊達政宗の元に逃れたが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、常陸に戻って水戸徳川氏に仕えたと言う。

 額田城は、久慈川支流の小河川の北に位置する段丘上に築かれている。県下でも屈指の規模を持つ巨大な城で、大空堀・大土塁・大型曲輪のオンパレードといった趣である。現在遺構が明確に残っている曲輪は大きく5つあり、丘陵南端に主郭、その北に横長の二ノ郭・三ノ郭、主郭西側には四ノ郭、主郭の南下方には捨曲輪と配置されている。各曲輪の間は規模の大きな堀で分断されているが、低湿地帯に面した湧水が多い土地の様で、主郭や二ノ郭周囲の堀には、水が溜まっている。このことから、城で最も大切な水の確保には事欠かない城だったことが伺え、前期額田氏の長期籠城戦が可能だったのも、そんな城の特性が寄与していたものと推察される。また各曲輪外周には土塁が築かれ、要所に横矢掛かりを設け、堀底に対して櫓台が各所に配置されている。主郭の西側は、堀の外側に大土塁が屈曲しながら南北に走り、主郭西面の防御を厳重なものにしている。この大土塁と四ノ郭の間は、自然地形を利用した大きな湿地帯の堀となっている。これらの主要部以外にも、外郭遺構が断片的に残っている。額田宿をほぼ城内に取り込んだ総構えを有していたらしく、空堀・土塁が広範囲に散在している。これらの巨大な城郭遺構は、戦国期に構築されたと考えられているので、戦国期には常陸太田城の南方を防衛する拠点城郭として、大兵力を駐屯させていたと推測される。
 段丘崖に築かれ、大空堀で曲輪群を分断した規模の大きな佐竹氏の城としては、石塚城前小屋城があるが、額田城の規模はそれらを上回る上、城内主要部ほぼ全域が公園化されて整備されているので、藪漕ぎすることなく遺構を見て回ることができる(三ノ郭北半と四ノ郭は宅地や畑になっているので、探索の際に注意が必要)。更に横矢掛かりも多用され、横矢好きにはたまらない城である。
主郭周囲の堀と土塁→IMG_7014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.488610/140.522368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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田渡城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6648.JPG←主郭横堀の横矢掛かり
 田渡城は、歴史不詳の城である。城主についても諸説あり、天文年間(1532~55年)に内桶弥太郎が築いたとも、或いは佐竹一族の佐竹義兼、額田八郎行直、佐竹東殿などとも言われ、明らかにできない。しかしいずれにしても佐竹氏の本拠常陸太田城から2.9kmしか離れておらず、佐竹氏が築いた城であることは、論を俟たないであろう。

 田渡城は、里川東岸の標高89m、比高70m程の丘陵上に築かれている。横堀を多用した要害城で、北西麓からの小道を登っていくと、幾つかの腰曲輪を経由して山腹の横堀に行き当たる。土橋が架かり、北側外周線を延々と半周する長い塹壕線である。一部に横矢掛かりも見られる。この山腹横堀の南東端は、主郭南東側の堀切から落ちる竪堀に繋がっている。また主郭堀切は主郭外周を巡る横堀と合流しており、堀のネットワークが構築されている。主郭は全周を土塁で囲み、その外周は中規模の横堀で囲繞し、北面で豪快な横矢を掛けている。虎口は3ヶ所に築かれ、大手虎口には横堀に土橋を架け、前面に馬出しを設けている。馬出し側方には主郭横堀から竪堀を落とし、馬出し周囲の横堀に通じていることから、城道を兼ねた竪堀であったことがわかる。ここへも主郭の塁線上から横矢が掛けられている。主郭の西側には横堀を挟んで二ノ郭が広がり、先端に櫓台が築かれている。更に西には物見台状の曲輪、また南西にも先端に虎口土塁を設けた曲輪を配置している。この他にも要所に竪堀を兼ねた城道があり、全体の規模はそれほど大きくはないが、かなり技巧性のある縄張りを持った山城である。

 問題は、この城を築いた意図で、佐竹氏本拠の常陸太田城に近い位置に何故このような山城を必要としたのか?ということである。戦国末期の小田原北条氏との抗争で、かなり守勢に立たされるようになってきた佐竹氏が有事に備えたものとも考えられるし、或いは山入の乱などで常陸太田城の争奪が行われたことと関連して築かれた城とも考えられ、今後の考究が待たれるところである。
山腹の長い横堀ライン→IMG_6542.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.557636/140.548890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大橋城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6473.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
 大橋城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城であったと伝えられている。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して、茅根氏の祖となった。当初は茅根城を居城としていたが、後に大橋城に居城を移したらしい。出羽秋田に移封となった佐竹氏の家臣に茅根氏がいるので、私見であるが、大橋城は戦国末期まで茅根氏の居城として続き、佐竹氏が常陸を去った時に廃城となったのだろう。

 大橋城は、茂宮川北岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南に向かって弓形になった丘陵の中央部に主郭を置き、西にニノ郭、東に三ノ郭を連ね、外周に腰曲輪を廻らしている。主郭は東・北・西の三面に土塁を築き、その外周に横堀を廻らしている。この横堀は、西と東では主郭とニノ郭・三ノ郭との間を分断する堀切となっている。主郭の南東角には隅櫓台が築かれ、主郭内部の南西寄りには櫓台を兼ねたであろう古墳が残っている。主郭南側の腰曲輪は中央部に竪堀状の虎口が築かれ、その西側は主郭からの横矢の塁線と腰曲輪南辺の土塁で囲まれた横堀状の通路が形成されている。また二ノ郭の西側には浅い堀が穿たれて、その先の平場と区画されている。三ノ郭の北側にも横堀が穿たれ、三ノ郭東側まで掘り切っている。この城へは、北西麓から城のすぐ下の墓地まで小道が付いており、その先をちょこっと直登すれば、城への到達はたやすい。しかし城内は全体に藪が多く、あまり見栄えしないのが残念である。
主郭北側の横堀→IMG_6487.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.513344/140.586591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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河合城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0685.JPG←北辺の土塁跡?
 河合城は、歴史不詳の城である。総築時期も不明であるが、応永年間(1394~1427年)には佐竹氏の譜代家臣「久慈西東之奉公衆」で、この地を発祥とする川井氏の城であったと考えられている。いずれにしても佐竹氏の勢力圏内であり、佐竹氏の支城の一つであったろう。
 河合城は、JR水郡線河合駅の付近にあった。現在城内は宅地化・耕地化され、遺構は完全に湮滅している。ちょうど駅がある位置が主郭とされる。普通なら道の形などに城の形態を残すことが多いが、この城ではそれすらほとんど明確ではなく、わずかに城の南北にある水路が堀の名残とされる。この水路に沿って土塁跡らしい土盛があるが、これすら本当に遺構かどうか明確ではない。早い時期に失われてしまった、幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.508274/140.517068/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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多良崎城(茨城県ひたちなか市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0603.JPG←ニノ郭土塁と堀切
 多良崎城は、江戸氏の庶流足崎氏の居城である。元々は、鎌倉時代末期に常陸大掾吉田太郎広幹の3男、三郎里幹が多良崎氏を称し、多良崎城を築いたと言われている。しかし南北朝期に南朝側に付いたため、没落した。その後、江戸通重の次男平沢通村の裔、足立通義・通定兄弟が城主となり、足崎氏を称した。1590年、江戸氏攻略を目指す佐竹義重・義宣父子に攻められて落城し、廃城となった。

 多良崎城は、比高25m程の半島状台地に築かれている。周囲は現在は水田地帯となっているが、往時は真崎浦と呼ばれる湖が広がっていた。即ち、多良崎城は湖上に突き出した半島状台地に築かれた要害であった。遺構は完存しており、城址公園として整備されているので、夏でも訪城可能である。基本的には連郭式の城で、土塁で四周を囲んだ方形の主郭と、その前面に土塁続きの二ノ郭が、数mの段差で連なっている。主郭の西辺内側と二ノ郭内の主郭前面には浅い堀があるが、機能は良くわからない。更に二ノ郭の前面に堀切を介して三ノ郭が広がっているが、削平は甘く郭内は傾斜している。三ノ郭の北西は入江の様になっており、明らかに船溜まりになっていたことが想像される。三ノ郭の西に張り出した尾根先端は、この船溜まりと湖上を監視する物見台であったろう。三ノ郭から細尾根を北に辿ると、やや離れて平坦な平場が広がっており、北の出丸となっており、先端近くに烽火台の土壇が残っている。この他、主郭南側にも小郭と小堀切、主郭の東西に腰曲輪があり、東麓には水の手が残っている。城に続く南側の尾根筋には、2つの木戸跡の表示があるが、明確な遺構は見られない。何を以って木戸跡と特定したのか不思議に思ったが、発掘調査で確認されたものであろうか?比較的単純な構造の要害であるが、中世の湖上の城らしさをよく残しておりお勧めである。
 尚、多良崎城は、その道では有名な心霊スポットらしい。その道の人に言わせると地縛霊がウヨウヨしているらしいが、そんなこと言ってたら中世城郭巡りなんてできないよなぁ・・・。玉砕した城なんて、全国至る所にあるし。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.432211/140.572343/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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津賀城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0512.JPG←主郭虎口と蔀土塁
 津賀城は、この地の土豪津賀氏の居城であったと考えられている。津賀氏については系図不明であるが、大永年間(1521~27年)に津賀大膳、天正年間(1573~92年)に津賀大炊介が居たことが『鹿島治乱記』に記されており、津賀大膳は1524年、鹿島氏の内訌である高天原の戦いで、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪、塚原卜伝の師でもある)と戦い、これを破ったと伝えられている。

 津賀城は、北浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は城址公園として整備されており、夏でも訪城可能である。ほぼ単郭に近い小規模な城で、主郭は横方向に長い形状で、外周を土塁で囲み、南東辺の中央付近に虎口を向け、虎口を入ってすぐのところに蔀土塁を設けて視線を遮っている。また南西端には物見櫓の張り出しを設けている。主郭周囲は腰曲輪が一周し、虎口付近には空堀が穿たれ土橋が架けられている。この腰曲輪は公園化で改変を受けている可能性があり、どこまで往時の形状を残しているか不明な部分もあるが、外周には一部土塁も築かれていた様である。腰曲輪の南東の台地基部には堀切が穿たれ、その先にL字状の土塁を構築しており、馬出し的な土塁囲郭の様である。しかし不思議なのは、周囲の平場との分断はなく、意図が不明である。津賀城はその形態から見る限り、北浦の水運を監視する物見であると同時に、あくまで有事の際の詰城の位置付けだった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.037370/140.580776/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鳳凰台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0457.JPG←城址の現況
 鳳凰台城は、大生城とも呼ばれ、この地の国人領主大生氏の居城と伝えられている。伝承によれば大生氏は、桓武天皇の皇子葛原親王の流れを汲む一族ということで、多くの鹿行地域の豪族と同じく、大掾氏の庶流であったと思われる。その14代の後裔大生八郎玄幹(はるもと)を祖とし、この玄幹が平安末期の1183年に鳳凰台城を築いたとされる。小田原の役の後、佐竹氏が所謂「南方三十三館の仕置」で常陸南部を制圧すると、大生氏も佐竹氏に服属した。玄幹より19代の大生弾正定守は、1614年の大坂の役に出陣する途中、駿河藤枝で流行病によって病没したと言う。

 鳳凰台城は、北浦西岸の比高35m程の半島状台地に築かれている。城内は全面的に耕地化されており、遺構は完全に湮滅している。どのような縄張りの城だったのかも、現状からでは推測不能であるが、昭和20年代の航空写真を見ると、畑の中に堀らしい跡が何ヶ所か見受けられる。東西方向に長い曲輪を南北に連ねた、基本的には連郭式の城だったらしい。北端が主郭であったと思われるが、昔の航空写真とGooglaMapの現在の航空写真と見比べると、主郭の北西部は採土で大きく削られてしまっていることがわかる。現在は先端近くの祠の奥にある城址碑だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.996393/140.554469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖橋城
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堀之内大台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0447.JPG←校庭脇の土塁っぽい土盛
 堀之内大台城は、佐竹氏が築いた新鋭城郭である。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。その後、常陸南部の支配拠点として1594年頃から堀之内大台城の築城が開始された。1596年に完成し、重臣の小貫頼久を城代として置いた。しかし佐竹氏は、関ヶ原の戦いの際の去就から、1602年に出羽秋田に移封となり、堀之内大台城はわずか7年で廃城になった。

 堀之内大台城は、比高10m程の半島状台地に築かれていた。しかし現在は開発により、遺構は湮滅している。主郭は南端にあったが、現在は牛堀中学の校地に変貌している。地勢は残っており、外周を急峻な崖で囲まれている。校庭脇に僅かに土塁らしい土盛が見られるが遺構であろうか?主郭以外の曲輪は大半が採土で消滅してしまっている。校門前に城址碑が建っているが、その文章によれば、主郭・二ノ郭・三ノ郭と出城で構成された城で、廊下橋や三重櫓を有し、二重堀切を穿ち、曲輪外周に土塁を廻らし、更にその周囲に二重の犬走り(帯曲輪)を築いていたと言う。主郭には、枯山水庭まで造作されていたと言うことで、まさに中世城郭と近世城郭を繋ぐ位置にあった城であった様である。主郭に庭園を有した城の類例としては遠江鳥羽山城があり、これも中世と近世を繋ぐ位置にあり、庭園を持つ城は当時の流行りであったのかもしれない。尚、湮滅前に発掘調査が行われた結果に基づいて、大台城の主殿が逆井城内に復元されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.966389/140.525565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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江戸崎城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0380.JPG←四ノ郭北側の土塁
 江戸崎城は、常陸南部の戦国大名、江戸崎土岐氏の居城である。江戸崎土岐氏は、元は土岐原氏を称し、美濃の守護大名土岐氏の一族である。土岐光定の子蜂屋定親の子師親を土岐原氏の祖とし、師親の孫の秀成が、関東管領上杉憲方に従って関東に下向し、常陸国信太荘の代官として入部した。この土岐原秀成が江戸崎土岐氏の初代である。江戸崎城の築城は、室町前期の応永~永享の頃(1400年代)と推測されており、秀成の孫景秀によるとされている。以後、5代に渡る居城となった。景秀の子景成が1497年に嗣子なく没すると、十数年間の当主不在の後、土岐原氏は美濃守護である土岐惣領家より治頼を養子として迎えた。その後、美濃では斎藤道三が治頼の兄、土岐頼芸を追放して美濃一国を横領すると、惣領家は没落し、代わって土岐原氏が土岐氏を称するようになった。治頼の子治英の代になると、江戸崎城を中心とした地域と龍ヶ崎城を中心とした地域に分割して、土岐領を二つの行政単位で統治した。その子治綱の代になると、佐竹氏の南下に対抗するため、土岐氏は小田原北条氏の傘下に入った。1590年の小田原の役では、江戸崎・龍ヶ崎両城は、豊臣方の軍勢によって攻め落とされ、土岐氏は没落した。その後、江戸崎城には蘆名盛重(義広、佐竹義宣の実弟)が4万5千石で入部したが、1602年に佐竹氏が秋田に移封となると、盛重もこれに同行し、江戸崎城は廃城となった。

 江戸崎城は、比高20m程の南北に連なる独立丘陵上に築かれている。一番南の台形の台地に主郭があり、南東に一段低い二ノ郭が築かれている。東に向かって車道が降っているが、大手の登城道の跡と思われ、主郭側斜面に腰曲輪が築かれて防御している。また主郭の東から北にかけても腰曲輪が廻らされ、主郭にもこちら側だけ土塁が築かれており、東面と北面からの攻撃を意識していることがわかる。主郭の北には10m程低い三ノ郭があるが、江戸崎小学校のグラウンドに変貌しており、進入も憚られる。三ノ郭の北は四ノ郭で、鹿島神社が鎮座している。四ノ郭北側には大土塁が残っている。その北の車道は堀切の名残であろうか。更に瑞祥院の北東側の小丘陵も出丸で、改変を受けているものの土橋と竪堀が確認できる。市街化の波に飲まれて改変されている割には、比較的旧状を残している。
主郭東側の腰曲輪→IMG_0355.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.954283/140.319185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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吉生砦(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0289.JPG←主郭背後の横堀
 吉生砦は、小田氏の重臣小幡入道道三が築いた砦の一つである。小幡氏は、常陸の名族小田氏麾下の12人の城持ち武将の一人と言われ、小幡宿に館(堀の内館)を構え、その周辺に手葉井砦・菅間古城・諏訪山砦・古久保砦・青柳要害などの城砦を築いて防衛しており、吉生砦も永禄年間(1558~69年)にそうした城砦群の一つとして築かれたと言う。

 吉生砦は、比高20m程の丘陵上に築かれている。吉生小学校の南西に隣接して位置しており、小学校の校庭から散策路が伸びている。城内は整備されており、夏でも訪城できる。東西に長く伸びた城で、中央に段差があって2段の平場に分かれている。上段が主郭、下段が二ノ郭で、全体を横堀でぐるりと囲んでいる。土塁は主郭の北東辺のみに築かれている。曲輪の塁線は数ヶ所に凹凸があり、横矢掛かりを意識しているのがわかる。また横堀は、主郭の背後に当たる北東側が最も幅が広く、台地基部と分断している。この他、二ノ郭の付け根の南側に、堀底に通じる虎口が築かれている。単純な構造の砦であるが遺構は完存しており、良好な姿を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.231622/140.161943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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八代城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9223.JPG←校地に現存する土塁
 八代城は、屋代城とも記載され、屋代氏の居城であったと伝えられている。元々は、鎌倉時代に東条社氏の居館として築かれたと推測されている。東条社氏の没落後、14世紀後期頃に信濃の豪族屋代氏がこの地に入部して城を再興し、15~16世紀にかけて改修を重ねて城を拡張した様である。
 八代城は、広く平坦な台地の中程に築かれている。現在は市街化が進み、八代城跡は城ノ内中学校の校地に変貌している。後者の西側にL字状の土塁が残っているのが唯一の現存遺構である。訪城した時には残念ながら先生らしい人がおらず、敷地内に入る許可が得られなかったので、周りから遠目に土塁を眺めることしかできなかった。解説板もあったが、コンデジでは最大望遠で撮っても何が書いてあるのかわからなかった。戦後間もなくの航空写真でも、残っていた土塁は現存のものと湮滅した北側のものぐらいで、耕地化によりかなり湮滅が進んでいたようである。そういう意味では、校地内に入ったおかげでそれ以上の湮滅を免れたのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.922316/140.207283/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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龍ヶ崎城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9198.JPG←二ノ郭周囲の急斜面
 龍ヶ崎城は、江戸崎城を本拠とした江戸崎土岐氏の支城である。元々は、下河辺氏の流れを汲む龍ヶ崎氏の居城であったと伝えられている。龍ヶ崎氏滅亡の後、1567年に江戸崎城主土岐治英が改修し、翌年次男の胤倫を城主にして守らせた。1583年には佐竹氏に攻め落とされたが、間もなく土岐氏は龍ヶ崎城を奪還した。土岐氏は小田原北条氏に属したため、1590年の小田原の役の際に豊臣方の佐竹氏の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。役後、龍ヶ崎は常陸一国を安堵された佐竹氏の支配下となり、佐竹義重の次男葦名盛重(義広)が入部した。盛重は、間もなく江戸崎城に居城を移した。

 龍ヶ崎城は、比高15m程の紡錘形をした独立丘陵上に築かれている。往時は堀切で分断された東西に連なる3つの曲輪で構成され、中央が主郭、西側が二ノ郭であったが、主郭は採土で消滅し、二ノ郭と先端の笹曲輪だけが地勢を残している。しかし残った二ノ郭も龍ケ崎第2高校の校地となって大きく改変されている。曲輪の西端には鹿島神社があり、その周辺だけ辛うじて旧状を残しているようにも思われるが、明確な土塁もなくよくわからない。笹曲輪は御嶽神社があり、由緒によれば土岐氏時代に氏神として大日社が祀られていたらしい。ここも残っているのは地勢だけで、形状は大きく変えられてしまっている様だ。結局、城址の高台のみが城としての痕跡である。この地域には珍しい丸馬出しまで備えた城だったらしいが、現状が残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.908466/140.191834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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