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古城めぐり(茨城) ブログトップ
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助川海防城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9125.JPG←物見番所跡
 助川海防城は、水戸徳川藩が江戸時代後期に築いた海防を目的とする城である。徳川幕府は長らく鎖国政策を採ってきたが、1790年代よりロシア船を始めとする外国船が度々日本近海に現れ、その一部は日本に通商を求めるようになっていた。強硬な攘夷論者であった水戸藩9代藩主徳川斉昭は、天下に率先して海防の重要性を強調し、1836年、家老山野辺義観(出羽の驍将最上義光の4男山野辺義忠の裔孫)を海防惣司という新設の役職に任じて、太平洋を一望できる助川村の高台に海防を目的とする城を築いて居住させ、異国船の侵入に備えさせた。築城に当たっては、新規築城は幕府から禁止されていたため、佐竹氏時代に新城七郎という武士(小野崎氏の庶流介川氏の一族か?)が築いていた蓼沼館を修築して海防惣司の屋敷にするという名目で、許可を受けたと言われる。以後、山野辺氏が歴代の城主を務めた。1864年9月、水戸藩で発生した天狗党の乱の時、城主山野辺義芸は天狗党側と見做されて幕府軍に攻撃され、助川海防城は落城・焼失した。

 助川海防城は、日立の海岸線から約2.2km離れた、標高110m程の丘陵上に築かれている。海防、即ち沿海警備を目的とする城である為、普通に思い浮かぶ城郭とは大いに趣を異にしている。本丸から南東斜面に段々に曲輪群を連ねただけの構造で、一般の近世城郭とはおよそ程遠い。本丸や二ノ丸は現在城跡公園となっているが、曲輪群と切岸のほかは遺構はかなり少ない。本丸には土塁が散在している。本丸正面に内枡形状の空間があるが、公園化による改変の様に見受けられる。というのも、全然違う場所に正門礎石が残っているからである。これらの他、公園内各所に標柱などが建っている。この様に往時の面影を朧気ながら伝えるのは公園部分のみで、公園以外の部分は市街化が激しく、旧状を推し量りにくい。助川海防城は、遠見番所を備えたことからも物見による警備を主目的とした城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/140.639462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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茅根城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9070.JPG←南側の腰曲輪状の畑
 茅根城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城である。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して茅根氏の祖となり、茅根城を居城とした。後に茅根氏は大橋城に居城を移したらしいので、この頃に茅根城は廃城となったのだろう。

 茅根城は、里川東岸の河岸段丘に築かれた城である。段丘上は大きく2つの区域に分かれ、旧佐都小学校があった根古屋部とその上の高台の主城部である。いずれもほとんど耕地化しており(一部は耕作放棄地)、遺構はほとんど残っていない。主城部は、よく城巡りの参考にさせてもらっているHP「北緯36度付近の中世城郭」では現在畑中に残るクランクした畑道を空堀跡とし、それを境に東西に2つの曲輪を並べた城であったと推測しているが、現状からでは実際にどのような城だったのかはなんとも言えない。既に戦後の航空写真でも一面の畑となっており、空堀の痕跡は見出だせない。ただ台地南側に何段かの腰曲輪跡らしい畑があり、南と南西に虎口跡らしい地形が残っている。また北側にはわずかであるが土塁の残欠が見られ、その脇に古道が通っていることから虎口跡であったと想定されている様だ。おそらく鎌倉時代に築かれた居館機能を主とした素朴な構造の城館が、茅根氏の移住に伴ってそのまま打ち捨てられたと考えられ、元々あまり城郭らしい遺構を残していなかったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.578635/140.543375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小堤館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8971.JPG←鱗勝院に残る土塁
 小堤館は、額田城の出城と考えられている。現在鱗勝院と言う寺が建っているが、鎌倉前期に額田城を築いた額田蔵人大夫義直がこの鱗勝院を中興開基しており、その際に有事の際の出城として機能するよう構築したものと推測される。一説には、額田氏が額田城を築く前に一時期居館を置いていたとも言われるが、定かではない。
 小堤館は、額田城の南西に位置し、三角形状に張り出した台地上に築かれている。現在は前述の通り鱗勝院の境内となっている。構造としては非常に簡素で、寺の西側に一直線状に土塁を築き、現在は道路となって湮滅しているが土塁の外側に空堀を穿って防御していた様である。土塁は特に南側でよく残っている。この他、南西の段丘辺縁部などにも土塁や堀、虎口らしい地形が見られるが、実際にそこまで城域が広がっていたかは不明である。尚、鱗勝院の境内墓地には額田佐竹氏の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.485478/140.516253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平戸館(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8958.JPG←吉田神社西側の堀・土塁跡
 平戸館は、大掾氏の一族、平戸氏の居館である。応永年間(1394~1427年)に、平戸甚五郎久幹が居城したと伝えられている。1426年、大掾満幹が府中に赴いて留守の間に、河和田城主江戸通房は大掾氏の居城である水戸城を奪取した頃には大掾氏一族の勢力は漸減し、平戸館もこの頃に廃城になったものと推測されている。
 平戸館は、涸沼川西岸の平地に築かれた平城である。南北2郭から成る小規模な城館で、南が主郭、北が二ノ郭と推測される。主郭は全周を掘で囲まれた正方形の曲輪であったが、民家と畑に変貌しており、堀は西側に僅かな溝状地形となって残っているのみである。二ノ郭には吉田神社が鎮座し、西側に僅かに堀跡と土塁跡が残っている。いずれにしても非常に小規模な城館で、その規模から考えると、平戸甚五郎が居住した応永年間の頃には大掾氏の勢力はかなり衰退していたことが窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.324435/140.559211/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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沖宿堀ノ内館(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8918.JPG←堀跡の蓮根畑
 沖宿堀ノ内館は、歴史不詳の城館である。一説には、小田治朝の居館であったとも言うが定かではない。しかし近くの海蔵寺は治朝が開基で治朝の墓も残っていることから、治朝に所縁深い城館であったことは想像に難くなく、或いは治朝の隠棲地であったかもしれない(治朝は、小山義政の乱で敗死した小山義政の子若犬丸を庇護したことから、鎌倉公方足利氏満の討伐を受けている)。
 沖宿堀ノ内館は、霞ヶ浦北岸の平地に築かれている。南北に長い縦長の単郭方形居館であったと考えられる。館跡は現在畑となり、周囲の堀跡は東側以外の3面は残っているが、蓮根畑に変貌しており、夏だと蓮の葉が生い茂っていて蓮の葉のベルトにしか見えない。主郭は周囲よりわずかに高い微高地となっているが、土塁は確認できない。いずれにしても小規模な居館であった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.070981/140.255692/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高井城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8889.JPG←八坂神社北側の丘陵斜面
 高井城は、歴史不詳の城である。時代は不明であるが、『日本城郭大系』では諸岡盛綱の居城であったと記載されている。また1341年に鎌倉府の執事高師冬が北畠親房を擁した小田治久の小田城を攻撃した際、高井城も攻撃を受けたとされる。その他については不明である。

 高井城は、桜川南岸の独立丘陵上に築かれた城である。元々は三角形に近い形状で、東側にやや張り出しを有した丘陵であったが、現在は中央部を南北に国道6号バイパス(土浦バイパス)が貫通し、八坂神社が建っている部分以外は丘陵が全面削平されてしまっており、往時の姿はわずかしか残っていない。戦後の航空写真を見ると、神社南のアクティオや茨城トヨペット、国道を挟んで東側のスーパー敷地が丘陵となっていた。現在は綺麗に平地になってしまっている。従って、唯一残っているのが前述の通り八坂神社の境内部分だけである。ここは主郭北西側の腰曲輪の一部のようである。八坂神社北側の斜面が、唯一往時の形状を残していると思われる。戦後の航空写真だと、神社の南東に一段高く方形に近い形の主郭があった様だが、現在は消滅している。位置的にはちょうどアクティオから国道までの部分に相当する。また東の張出し部分に舌状曲輪を何段か築いていたようにも見受けられる。結局、丘陵の大半が消滅している為、残っている遺構が断片的すぎるので、何とも評価し難いのが実情である。一応神社の裏に土塁の様なものは残るが・・・。尚、境内には宝篋印塔があるが、南北朝時代のものと推測されており、高井城陥落時の供養塔と考えられているようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.076653/140.177200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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小田城 その2(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4756.JPG←前山城から見た現在の小田城
(写真クリックで拡大)

 私が小田城を最初に訪れてから、ちょうど10年になる。この間、つくば市によって毎年毎年、継続的に発掘調査が続けられ(10年前の訪城時もあちこち発掘中でブルーシートが掛かっていた)、ここ数年はこれらの調査結果に基づいた復元整備が進められてきた。そしてようやく2016年のGWに歴史広場として開園されたので、2017年8月に近くに来たついでに再訪した。ここでは復元整備された内容を抜粋して紹介する。

<本丸の堀と大手土橋>
IMG_8733.JPG
 埋められていた堀はやや掘り下げられ、大手虎口に繋がる土橋が復元された。土橋の北半分の土台には、発掘調査結果に基づいて石積みも復元された。

<本丸外周の土塁>
IMG_8746.JPG
 本丸外周には、往時は全周に土塁が築かれていたが、廃城後に崩されて堀を埋めるのに使われてしまっていた。発掘調査の結果、平安時代以後6層の変遷が確認され、15世紀中葉以降に徐々に土塁が大型化していった様子が判明した(ちょうど関東が戦国時代に突入する画期となった享徳の乱の勃発によるものでしょうか?)。この結果に基づいて、推定される高さまで全周の土塁が復元された。

<東池跡・建物跡>
IMG_8786.JPG
 本丸内には、池を眺める庭園が築かれていることが、発掘の結果判明した。岸辺には庵のような小型建物跡も検出されており、その跡も表示されている。同様な庭園は、武蔵鉢形城・出羽舘山城・遠江鳥羽山城などにも検出されており、戦国の殺伐とした時代でも庭園を眺めて和歌を詠む様な風流は、武将必須の教養であったことが窺われる。特に小田氏は関東八屋形に列せられた名門大名であり、家臣たちとしばしば連歌の会を催したことが伝わっているので、庭園が築かれていても何ら不思議はない。尚、小石を散りばめた「州浜」まで復元されている。

<南西虎口>
IMG_8810.JPG
 以前は形が残っていなかった南西の搦手虎口が復元された。戦国末期の最終段階の普請で築かれたらしい。虎口部分には石垣が築かれていたことが判明しており、その型を取った樹脂製の石垣が、本来の石垣の上に盛土をして保護した上に設置された。

<南西馬出>
IMG_8814.JPG
 南西虎口の前面には角馬出が構築されていた。以前もその形は、なんとなく残っていたが、周囲の土塁も含めて綺麗に復元され、東隣りの曲輪に繋がる土橋も復元された。尚、南西虎口とは木橋で連結されていたことが判明しており、その通りに木橋を架けて復元されている。


 これらの他に、本丸内には建物跡が地面に表示され、通路の石敷き、大溝跡や水路跡なども復元されている。また現時点では本丸以外にも、二ノ丸の一部に当たる本丸東側の曲輪が復元されている(その一部に民家が残ったままというのがすごいが)。とりあえずここまでの整備で一区切りとして歴史公園をオープンしたが、その他の外周の曲輪についても、まだ発掘調査と整備が続けられている様である。

 また近くには案内所が解説されており、パンフレットの他、無料で詳細な情報を得ることができる。ボランティアの解説員までいらっしゃった。その方の話では、なんでも日本のX線天文学の大家であった故・小田稔氏(X線源の位置を精度良く特定できるようにした「すだれコリメーター」の発明者)は、小田氏一族の末裔であるらしい。小田稔氏の娘さんがここに来て、そう仰っていたそうだ。ビックリつながりである。

 ところで角馬出で思い出したが、小田城では障子堀も各所で検出されている。角馬出、障子堀と言えば、小田原北条氏の築城法の代名詞のような技術である。小田氏が築いたのか、それとも小田氏治が城を追われた後に入城した梶原政景が築いたのかは不明だが、小田城に北条氏の築城技術が導入されていることは注意すべきである。これについては他の城の例もあるので、機会を改めて考証してみたい。
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田土部城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8695.JPG←外郭西端部の土塁
 田土部城は、小田城主小田氏の支城である。元々は、室町初期の頃に田土辺左衛門尉忠貞と言う武士が築いたと伝えられる。戦国期には小田氏14代政治の次男信濃守政秀が田土部城に拠り、田戸部氏を称した。その後、小田氏が佐竹氏の攻勢によって衰退すると、田土部城は廃城になったと言う。

 田土部城は、桜川東岸の田土部集落に築かれていた。集落全体がほぼ城域に一致すると言うことであるが、宅地化で遺構はほとんど湮滅している。集落中心の東将寺付近に主郭があり、その北側に堀跡の様な溝状地形が見られる。またそこから小道を挟んで西側にも堀跡らしい溝が残っているが、夏場だったので草木が生い茂っていて形状を把握することはできなかった。これは大手虎口脇の堀であったらしい。その脇のブロック塀の中に土塁が残っていた様だが、ガサ藪で訪城時は気付かなかった。集落外周部には外堀の名残の水路が廻っており、郭内は周りよりもわずかな微高地となっているのがわかる。そして外郭西端部にも僅かであるが土塁が残っている。しかし城址標柱も解説板もなく、城の歴史は完全に埋もれてしまっている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.127277/140.131302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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笠松城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8640.JPG←城址碑と主郭
 笠松城は、元は佐谷城と呼ばれ、大掾氏の庶流佐谷氏の居城である。鎌倉中期の正元年間(1259~60年)に大掾(馬場)資幹の孫左衛門尉実幹が佐谷郷の地頭となり、佐谷城を築いて居城としたと伝えられる。しかし佐谷氏はわずか2代で断絶し、その後は廃城となっていたらしい。時代は下って1602年、佐竹氏が秋田に移封となり、代わって秋田の本堂茂親が志筑藩の領主となると、佐谷城の故地に居城を築き、笠松城と称した。以後約40年間この地に居住したが、1645年に志筑城址に新たに陣屋を構えて移り、笠松城は廃城となった。

 笠松城は、天の川とその支流の雪入川に挟まれた比高15m程の舌状台地先端部に築かれている。南から民家に登る道を登るとと、民家手前の右手に解説板が建っている。その脇から東の主郭に登ることができ、入口に城址碑もあるが、明らかに民有地であるのでこの先への進入は遠慮し、遠目に眺めるだけにした。主郭は、一部が畑のほかは現在ソーラー発電所になっている。主郭北辺には高さ1mに満たない低土塁が残るようであるが、現況からするとあまり期待できなそうな感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.146738/140.221102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中根長者屋敷(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8607.JPG←横堀と土塁
 中根長者屋敷は、中根長者という富豪の屋敷跡と伝えられている。伝承では、天正年間(1573~92年)に中根与衛門という富豪がいて、佐竹氏から軍用金の徴用を受けた時、元々小田氏の庇護を受けてきたことから、敵である佐竹氏の要請を拒絶した為、亡ぼされたと言う。
 中根長者屋敷は、現在の往西寺にあったとされる。中根川と飯田川に挟まれた台地上にあり、境内南側は急峻な斜面で囲まれている。境内の西面から南面にかけて、小規模ではあるが横堀と土塁が残存している。また南側には竪堀状地形と腰曲輪の様な畑地もある。中世の小豪族は半農半武士の開発領主であるので、そうした小豪族の城館として機能したのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.167892/140.244834/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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浮島城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8116.JPG←台地上の堀状地形
 浮島城は、物部信太連の後裔、浮島太郎安広の居城であったと言われる。元々の創築は、天慶の乱の際に平将門に属した興世王によると言われるが、元より伝説に過ぎない。浮島氏の居城として戦国末期まで続いたが、元亀・天正年間(1570~1592)に浮島弾正が佐竹氏に攻め滅ぼされ、廃城になったと伝えられている。尚、城址にある姫宮神社は、里の口伝によれば元亀・天正の戦乱に敗れた浮島弾正の愛娘・小百合姫が湖に身を投げ、その霊を慰めるべく祀ったものと言われている。

 浮島城は、霞ヶ浦南岸の比高15m程の台地上にあったとされている。台地上は一面の畑で、明確な遺構は見られない。台地西端に前述の姫宮神社があり、その辺りが主郭部であったと推測される。台地上には堀切の跡の様な窪地が見られるが、遺構であるかどうかは不明である。その窪地地形の南斜面には祠の祀られた小平場があり、いかにも腰曲輪風であるが、果たしてどうであろうか。歴史ともども謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.972771/140.423577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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古渡城(茨城県稲敷市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8095.JPG←本丸北西隅の土塁跡、周囲は堀跡
 古渡城は、織田信長の重臣として知られた丹羽氏の江戸時代の居城であった。元々は、徳川家康の家臣山岡景友が築いた。山岡氏は、元は近江守護六角氏の家臣で、その後将軍足利義昭、織田信長、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は徳川家康に属した。1600年、関ヶ原合戦での戦功により常陸国古渡1万石の大名に封じられ、古渡城を築いて居城とした。1603年、丹羽長重が新たに古渡1万石に入り、古渡城を居城とした。長重は丹羽長秀の嫡男で、父の死後も引き続き豊臣秀吉に従った。しかし秀吉による丹羽氏勢力削減策によって越前・若狭・加賀2郡合わせて123万石の大封を没収され、加賀松任城4万石に大減封となった。後に小田原の役の軍功により加賀小松城12万石を領した。関ヶ原合戦では、西軍に付いて前田利長と浅井畷で戦い、戦後に所領没収となった。江戸芝浜に閑居していたが、前述の通り1603年に古渡1万石の大名に返り咲いた。後に2代将軍徳川秀忠に近侍した結果、加増転封が繰り返され、陸奥棚倉5万石、陸奥白河10万石へと移った。古渡城は、丹羽氏が転封となった際に廃城となった。

 古渡城は、霞ヶ浦湖畔の平地に築かれている。現在は宅地化・耕地化が進んでいるため、城の全体像はよくわからないが、本丸の部分だけが周囲より1m程高い微高地となって残っている。遺構はかなり部分的で、方形郭であった本丸の土塁の一部が残っている程度である。その周りの低地や道路は堀跡であろう。その周囲には二ノ丸などがあったのであろうが、昭和20年代の航空写真でも既に外郭の形状が追えなくなっている。解説板が建っているだけマシであろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.976886/140.352144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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長峰城(茨城県龍ケ崎市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8068.JPG←主郭から見た腰曲輪
 長峰城は、歴史不詳の城である。『土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書(諸岡文書)』によれば長峯民部という武士の名が伝わっており、この長峯氏が城主であった可能性がある。いずれにしても江戸崎土岐氏の勢力圏であり、その家臣の拠った城であったものだろう。
 長峰城は、登城山城から低地を挟んで西の段丘先端に築かれている。現在は長峰東公園となっており、公園化する際には発掘調査が行われ、堀跡などが見つかっているそうである。Y字状に分岐した段丘全体を城域にしており、東に伸びる尾根に主郭があったらしく、北面の切岸下に腰曲輪が付随している。主郭の台地基部には塚状の土壇があるが、何だったのかよくわからない。北に伸びる長い尾根も平坦であるが起伏があり、削平は甘い。結局、公園化による改変が多く、どこまでが城郭遺構であるのかはっきりしない。発掘調査で遺構を確認しているのだから、遺構を活かした城址公園にすればいいのに、なんでわざわざ遺構を破壊した公園にするのか、龍ケ崎市の対応には疑問を感じる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.920917/140.230629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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遠山城(茨城県牛久市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8044.JPG←北端の空堀
 遠山城は、歴史不詳の城である。一説には、関東管領山内上杉氏の家臣長尾憲景が、室町初期にこの地を与えられて遠山城を築いたとも言われるが、明証はない。
 遠山城は、牛久城から小河川を挟んだ東側の台地上に築かれている。南北2つの城域から成っており、南側の段丘先端部が主郭、北側の台地基部が外郭であったと推測される。主郭は現在畑になっており、平場がある以外は明確な遺構は確認できない。主郭と外郭の間は谷戸状の窪地で、車道が東西に貫通し、民家が立ち並んでいるが、往時は主郭と外郭を区画する堀切の役目を果たしていただろうことは想像に難くない。外郭は、民家や空き地となっており、北端部に鹿島神社が鎮座し、その北側に土塁と堀切が確認できる。堀切の東端は竪堀となって落ちている。結局、明確な城郭遺構としてはこの土塁と堀切だけで、それ以外は宅地化・耕地化による改変が進んでおり、不明瞭である。いずれにしても、古い形態の小規模な城砦であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.951912/140.139756/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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小張城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7942.JPG←北側から見た城址推定地遠望
 小張城は、天正年間(1573~1592)に牛久城主岡見氏の家臣只越山城守善久により築城されたと伝えられる。この頃は下妻城主多賀谷重経による岡見氏攻撃が激しく、岡見氏は小田原北条氏に支援を求め、牛久番と呼ばれる北条麾下の北総諸将による輪番での守備を行っていたほどであるので、小張城の築城も牛久城防衛の一環であったろう。そして、東南東1kmの位置にある板橋城と共に岡見領西辺の防備に当たっていたと思われる。しかしその甲斐虚しく、1586年に小張城は多賀谷氏に攻め落とされ、只越氏は討死したと言う。その後、平手伊賀守、安岡豊前守などが城主となった。関ヶ原合戦後の1603年には、遠江久野城主松下石見守重綱が咎により小張城に移封となった。重綱は、鉄砲を扱う火薬師であったとも言われ、小張松下流綱火(国重要無形民俗文化財)を考案している。1623年に松下氏は下野烏山城に加増転封となり、小張城は廃城となった。

 小張城は、小張小学校付近にあったとされているが、遺構不明のため、その具体的な位置もわかっていない。小学校が建っているのは比高10m程の段丘辺縁部であり、城を築くには確かに適地であったろうとは想像される。北側から小学校を望むと、小学校手前がやや窪んでいるので、もしかしたら堀があった跡かも知れない。いずれにしても失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.982720/140.039377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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高崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7932-001.JPG←城址遠望。住宅団地が城跡
 高崎城は、牛久城主岡見氏の支城である。『日本城郭大系』によれば、小張城主只越善久が築城したとされるが、詳細は不明。城址の北方800m程の所に岡見氏の一族岡見五郎兵衛が配送の後に自刃したと言われる場所があり、墓塔が建っていることから、岡見氏に深く関わっていた城であろうことは想像に難くない。
 高崎城は、その名も「城山」と言う地名の残る住宅団地にあった。現在は城内はほぼ全て住宅地となっており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代の航空写真を見ると、南に伸びた舌状台地の中程に南北2本の空堀で囲まれた曲輪がはっきりと確認でき、ここが主郭であったと思われる。周囲を低湿地帯で囲まれた低台地で、その輪郭は現在の住宅団地の輪郭にほぼ一致している。北に行くに従って高くなっている地勢で、北端の外郭に当たる部分は現在畑となっており、その北辺に土塁っぽいものが遠目に見えるが、畑のため進入不能で確認できなかった。尚、城域の北東部の市道脇に大手門跡の標柱が建っている。その南に土塁状の土盛が続いているが、遺構かどうかは不明である。標柱だけでなく、解説板も建ててくれるとありがたいのであるが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.990690/140.121989/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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長井戸城(茨城県境町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7846.JPG←主郭前面の空堀の横矢掛かり
 長井戸城は、天文年間(1532~55年)に小山氏に属した菅谷左京という武士の居城であったと伝えられている。菅谷氏は、1554年に祇園城主小山朝政の攻撃を受け、激戦の末に小山氏に降伏したと伝えられている。小山氏は古河公方の有力な与党であり、小山氏が長井戸城を攻撃したとされる年には、北条氏康に敵対した前古河公方足利晴氏・藤氏父子が古河城に立て籠もり、氏康の攻撃を受けて捕らえられていることから、足利晴氏の挙兵に呼応した攻撃であったものと推測される。その後の歴史は不明であるが、栗橋城水海城逆井城の中間に位置していることから、戦国末期には、北関東へ大きく勢力を伸ばして小山氏をも降した小田原北条氏の繋ぎの城として機能していたものと思われる。尚、発掘調査の結果では、12世紀~13世紀頃の鎌倉時代に築かれ、戦国時代まで在地豪族によって使われた可能性が高いことが判明したそうである。また長井戸城主であった菅谷家に伝来した「萌黄糸威伊予札二枚胴具足」が現存している。

 長井戸城は、現在長井戸香取神社の境内となっている。小河川に挟まれた舌状台地の中程に位置している。参道を歩いていくと、社殿の前面に空堀と土塁が横たわっている。空堀は浅くなってしまっているが、堀幅から考えると往時は3~4mの深さがあったものと推測される。参道東側で大きく横矢掛かりの屈曲が設けられており、いかにも北条的な造りである。社殿の建っているのが主郭で、外周の土塁は東半が残存しており、東側の空堀も明瞭に残っている。南の二ノ郭にも僅かであるが東辺の土塁・空堀が残存している。全く期待しないで行ったが、横矢の土塁・空堀が綺麗に残っており、一見の価値がある。
主郭北東部の土塁→IMG_7859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.131159/139.796090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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内宿楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4764.JPG←主郭北西の櫓台の張出し
 内宿楯(内宿館)は、歴史不詳の城である。位置的には神明城木崎城の中間に位置していることから、両城を居城とした常陸武田氏の支城であったろうことは想像に難くない。しかし佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で武田氏が滅亡した後、関ヶ原合戦後の1602年に出羽国由利郡からこの地に5000石で移封となった仁賀保氏が陣屋として築いた(或いは武田氏時代の城館を改修した)のではないかとの説や、1623年に常陸府中に入部した皆川氏の一族が内宿館を居館としたとの説も提示されている。いずれにしても推測の域を出ず、今後の考究が待たれるところである。

 内宿楯は、武田川北岸の比高25m程の段丘先端に築かれている。東西に並んだ主郭・二ノ郭から成っており、主郭は自性寺の境内となり、二ノ郭は現在は墓地と空き地になっている。自性寺の周囲には最大で高さ5m程にも及ぶ大土塁が築かれ、ほぼ全周を囲繞している。その北側から東側にかけての外周には規模の大きな横堀が穿たれている。この横堀の内、北面では主郭から張り出し櫓台を両翼に設けて、相横矢を掛けている。一方、二ノ郭は以前に小学校が建てられていた為に改変を受けており、かつてはあった主郭との間の空堀は埋められてほぼ湮滅している(北側の山林脇だけ、わずかに窪んだ地形として残っている)。二ノ郭は主郭よりも数m低い位置にあり、主郭西辺の土塁が切岸の様な形で残っているだけである。二ノ郭の北端には虎口の土塁が築かれている。遺構は以上の通りで、内宿館は単純な構造の城館ながら、土塁や空堀の規模が大きく、相横矢の櫓台と相俟って中々見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.101787/140.499086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世崖端城
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小貫城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4713.JPG←主郭周囲の横堀
 小貫城は、神明城主であった常陸武田氏の支城である。1455年に武田昌信の次男信次が築いたと言われる。その他の歴史は不明である。

 小貫城は、武田川沿いの比高20m程の段丘南西端に築かれている。神明城の西北西1.5km程の位置である。現在城の主要部は一面の畑となっているが、昭和20年代の航空写真を見ると、今では失われてしまった曲輪の形が明瞭に確認できる。先端に置かれた主郭は五角形の形状をしており、北東のニノ郭との間は堀切で分断していた様である。この堀切は現在では埋められて耕地化され、湮滅している。ニノ郭と台地基部との接続部にも堀切があった可能性があるが、これも湮滅しているので実際どうだったのかはよくわからない。主郭の外周には横堀が穿たれ、主郭の西辺には土塁が築かれている。前述の横堀は中規模のものであるが、倒竹地獄になっていて踏査が困難である。横堀は北西側で二重横堀となっている。また主郭の西側には横堀の外側に堀切が穿たれ、その西に一段低く台地が伸びており、西出曲輪となっている。この他、二ノ郭の南斜面も腰曲輪となっていた可能性があるが、宅地化されて改変されてしまっており、これもよくわからない。結局、主郭周辺だけが往時の遺構を残しているが、激しい倒竹でかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.107491/140.474946/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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鳥名木楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4682.JPG←主郭先端の櫓台
 鳥名木楯(鳥名木館)は、大掾氏の一族で手賀城主手賀氏の庶流鳥名木氏の居城である。鳥名木氏は鎌倉中期にこの地に入部して以来、戦国末期までこの地を支配した。1591年、佐竹氏による「南方三十三館の仕置」で鳥名木氏も滅亡した。しかしその子孫は残り、江戸時代には麻生藩新庄氏に仕えた。尚、鳥名木家に残る1297年の譲状を始めとする古文書群は、「鳥名木家文書」として県指定の文化財になっている。

 鳥名木楯は、霞ヶ浦東岸の比高30m程の台地上の、やや奥まった部分の北端に築かれている。本家の居城手賀城からは北にわずか5~600m程しか離れていない。主郭・二ノ郭の2郭から構成されており、主郭と二ノ郭の間は土塁だけで区画されている。明確な堀切はなく、二ノ郭は東側のどこまで広がっていたか不明である。主郭の先端部には土塁が築かれ、特に城址碑の建っている部分は幅広で櫓台が築かれていたと考えられる。主郭周囲の斜面には腰曲輪らしい平場も見られる。二ノ郭は一部畑のほかは薮と空き地、主郭はほとんどの部分がガサ薮で覆われており、土塁と先端櫓台以外は春先でも突入不能である。せっかく誘導標識や解説板があるのだから、もう少々行政の方で整備してくれるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.097106/140.431859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小貫楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4624.JPG←南の切通し状参道
 小貫楯(小貫館)は、西蓮寺を使用した寺院城郭であったらしい。天正年間(1573~92年)に小貫氏が城主であったと言われ、小高城の支城となっていた様である。戦国期にこの付近で唐ヶ崎合戦という戦いがあったということで、行方四頭で同族の小高氏・玉造氏による所領争いを発端として、宗家に当たる大掾氏や周辺豪族を巻き込んだ一大紛争となったと言う。その際に小貫氏が立て籠もった城砦であったのかもしれない。

 小貫楯は、前述の通り西蓮寺の境内となっている。この地は霞ヶ浦東岸の比高30m程の台地上にあり、周囲を低湿地帯に囲まれた要害であったのだろう。西蓮寺は782年創建と伝えられる古刹で、それを臨時的に要塞化しただけの城館であると思われるので、城郭遺構は極めて少ない。南中央の参道は切通し状の通路で、途中で屈曲しており、いかにも城郭風の造りである。またその東側には、台地より5m程低い位置に腰曲輪らしい平場が広がっている。この他では、境内奥の南側に横堀などの城郭遺構があるようだが、寺の方が作業されており、怪しまれるとまずいので、奥の遺構を確認することはできなかった。城館というより、国重文になっている仁王門や相輪橖など、古刹西蓮寺の文化財の方に目を奪われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.071840/140.439155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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人見楯(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4606.JPG←東側の堀切
 人見楯(人見館)は、船子城主下河辺氏の家臣人見氏の居城である。人見氏についての事績は不明であるが、武蔵七党猪俣党に属する人見氏が有名なので(太平記にもその名が現れる)、その一族が下河辺氏に従って常陸に入部したものかもしれない。
 人見楯は、霞ヶ浦東岸の比高25m程の段丘先端に築かれている。主郭と周囲の腰曲輪から成るほぼ単郭の簡素な城砦で、東側の台地基部を堀切で分断している。主郭外周には所々土塁が築かれている。東側の堀切には横矢掛かりのクランクが見られるが、堀自体に鋭さはなく切岸の角度も比較的緩く、あまり厳しい防御性を感じさせない。主郭の北西角には塁線の張り出しも見られ、西側下方の腰曲輪への横矢掛かりを意識しているのがわかる。しかし特徴的なのはその程度で、全体には大味な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.065006/140.433254/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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行方城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4497.JPG←主郭横堀の屈曲部
 行方城は、中城とも呼ばれ、大掾氏の庶流行方氏の居城である。行方氏は後に四家が分立し、行方四頭と称された。その事績は古屋城の項に記載する。行方氏の嫡流たる小高氏は小高城に本拠を移したため、行方城は一旦廃城になったと言われるが、室町中期になると、船子城主であった下河辺義親が行方城に移り、改修したと言う。1591年、所謂「南方三十三館の仕置」で下河辺氏は佐竹氏に滅ぼされ、その後佐竹氏の家臣荒張尾張守が入城したが、翌年の佐竹氏の出羽秋田移封によりこの地を去り、行方城は再び廃城となったと言う。

 行方城は、谷戸の低湿地帯に面した比高20m程の段丘先端に築かれている。先端の広大な主郭と台地基部にある二ノ郭から成る、素朴な縄張りの城である。二ノ郭は民家となり、主郭はその民家の畑となっている。民家の方が不在だったので、中に入ることができず、敷地外の外周斜面だけ確認した。主郭と二ノ郭の間には堀切があり、かなり埋まっているようだが痕跡は明確である。この堀切近くには腰曲輪を睥睨する櫓台が見られる。主郭の外周には横堀が穿たれ、特に西側斜面は二重横堀となっている。南西端部で屈曲して掘り切っており、横矢を意識していることがわかる。主郭北西端には土橋が見られるが、往時からの遺構かどうかは不明である。後世の改変の可能性もある。遺構としてはこの程度で、縄張りの技巧性はほとんど感じられない。主郭が広大なので、政庁機能を優先させた城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.052864/140.462394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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船子城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4431.JPG←2郭南東部の横堀
 船子城は、伝承によれば、永享の乱の際に鎌倉公方足利持氏に味方して敗北した関宿の城主下河辺義親が、小高氏を頼ってこの地に逃れ、船子城を築いたと言う。行方下河辺氏は、義親・その子晴親・その弟氏親と3代続いたと言われる。後に下河辺氏は行方城へ移り、船子城は小高氏の城となったとも言われるが詳細は不明である。

 船子城は、霞ヶ浦東岸の比高25m程の丘陵上に築かれている。南麓に浅間神社があり、その背後から登ることができる。比較的広い城域を有しているが、全体が藪に覆われていて、踏査がなかなか大変である。南端から順に1郭・2郭・3郭・4郭と直線的に配置し、1郭の西側に細長い西出曲輪を配置したのがこの城の基本構造である。曲輪の番号は、ここでは先端から順に番号付けしたが、実際の主郭は2郭と考えて良いと思う。城内最大の面積があり、防御構造が最も厳重だからである。1郭はそれに対する笹曲輪の役割であったろう。1郭は後部に土塁を築き、2郭との間を堀切で分断している。中心となる2郭は南面から東にかけて土塁を築き、その外周に腰曲輪を築いている。2郭腰曲輪の南東部は横堀となって防御を固めている。ここから南東尾根に土塁を伸ばし、側方に段状に曲輪を伸ばしている。2郭後部には横矢張出しの櫓台が築かれている。2郭・3郭・4郭の間はそれぞれ堀切で分断されている。この他、主要な曲輪の周囲には腰曲輪が築かれているが、藪が酷くてわかりにくい。2郭の横堀付近以外は、あまり技巧性を感じさせない縄張りの城である。
3郭後部の堀切→IMG_4366.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.048049/140.451987/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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古屋城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4257.JPG←周囲の空堀
 古屋城は、伝承では行方忠幹の居館であったと言われている。忠幹は大掾氏の庶流行方氏の初代で、大掾繁幹の子吉田清幹の次男として生まれ、行方の地に入って居城を築き、行方平四郎を称したとされる。その子宗幹は、嫡男為幹と共に源氏に味方して屋島の戦いに従軍し、討死した。宗幹の4人の子は遺領を分与されて、小高氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏と言う、所謂「行方四頭」となった。ところで、行方氏の居城としては、古屋城から北に1.1kmの位置にある行方城が知られており、規模的に古屋城は大掾氏一族の居城としては小さすぎることから、忠幹の別宅か何かであったものであろうか。一方、古屋城の大手に当たる西側に隣接して曹源寺があり、曹源寺の開基は船子城主下川辺義親(行方下川辺氏と称される)で、その供養塔も境内に残っていることから、古屋城は下川辺氏が関連した城館であった可能性もある。

 古屋城は、谷戸に面した比高20m程の段丘突出部に築かれている。単郭の小規模な城館であるが、周囲を取り巻く土塁と空堀の規模が大きく(土塁は高さ5m程、空堀は深さ10m程もある)、長径でも100m程の曲輪の規模と比べると、異様に大規模な普請が行われている。しかし内部は民家であり、堀は藪が繁茂してよく見ることができない。残念ながら入口付近のみ確認して探索を終了した。城歩きの大家余湖さんの鳥瞰図によれば、大手虎口側方には張出し櫓台もあるようだが、藪でよくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.043001/140.464389/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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島並城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4168.JPG←主郭の横堀
 島並城は、この地の国人領主島並氏の居城である。島並氏の出自は明確ではないが、一説には大掾氏の庶流行方氏の一族とも言われている。島並氏の事績も不明点が多いが、1591年に、佐竹義宣による「南方三十三館の仕置」によって鹿行諸将が謀殺され城が悉く制圧されると、島並城も開城し、城主島並入道幹家も死亡した。島並氏の遺臣藤崎権右衛門は、主君の菩提を弔う為に登城山是心院を城址に建立した。その後、幹家の子左衛門大夫幹国は、佐竹氏の家臣となってり水戸城に出仕していたが、行方郡の取締りとして島並に止宿し、権右衛門の誠心に感じて、島並の姓を賜ったと言う。

 島並城は、霞ヶ浦東岸の比高20m程の丘陵突出部に築かれている。城の中心部は是心院背後の丘陵部にあるが、是心院が建っているのも往時の南郭であったと考えられる。最高所に主郭を置き、主郭の東西に東郭・西郭を置いている。主郭・東郭・西郭共に南北に長い曲輪で、主郭のみ背後に土塁があり、また前面に櫓台を築いている。東郭は切岸のみで区画されているが、西郭との間は横堀で分断されている。西郭の北端が櫓台状の高台になり、祠が祀られているが、往時から宗教施設があった可能性がある。西郭の西側にも2段の横堀が穿たれており、主郭のものと合わせて西側だけ三重の横堀で厳重に防御されている。西郭西脇の横堀は城内通路を兼ねていたらしく、下段の横堀に繋がる虎口が築かれている。下段の横堀の西側には腰曲輪が築かれている。城内は、南郭・西郭以外は山林となっているが、歩けないほど酷くはない。厳重な横堀群が特徴的な城である。
西郭北端の高台→IMG_4160.JPG
IMG_4157.JPG←中段横堀の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.015617/140.475826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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島崎城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3952.JPG←主郭の虎口
 島崎城は、大掾氏の庶流で行方氏の一族、島崎氏の居城である。鎌倉初期に行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹が島崎に分封されて島崎氏を称した。しかし島崎城の築城時期は明確ではなく、一説には応永年間(1394~1427年)、11代成幹の時に築かれたとも言われる。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、3男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、4男幹政は玉造に分封されて玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。当初四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が惣領を支援する形で結合していた。しかし時代が下ると一族相争うようになり、後には島崎氏が最大の勢力となった。島崎氏は代々左衛門尉を名乗り、室町後期の13代長国は善政を敷いて、中興の英主と謳われた。戦国時代になると、島崎氏は積極的な外征を行って勢力を拡張した。14代利幹(安国)は、1522年には同族の長山城主長山幹綱を攻め滅ぼし、1523年の鹿島氏の内訌に乗じて鹿島城を攻め、1536年には同族の玉造城主玉造宗幹を攻めた。1584年には島崎義幹が麻生城主麻生之幹を攻め滅ぼすなど、4万5千石を領して、鹿島・行方両郡に割拠する国人領主(所謂「南方三十三館」)で筆頭の地位を得た。この戦国後期には、勢力を拡張する佐竹氏に従うようになり、1584年の沼尻合戦などにも佐竹氏の一翼を担って参陣した。しかし1590年の小田原の役後、佐竹氏が豊臣秀吉から常陸一国を安堵されると、翌91年に佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した島崎義幹・徳一丸父子ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。島崎城も佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以後廃城となった。

 島崎城は、常陸利根川北岸からやや離れた比高25m程の半島状台地の先端部に築かれた城である。南端に主郭を置き、その北にニノ郭・三ノ郭・Ⅳ郭・Ⅴ郭を直線的に配置し、主郭の西側に西郭を配置している。西麓から登り道が付いており、入口に石碑が立ち、主郭の神社手前に解説板が建っている。強勢を誇った豪族の城らしく、規模の大きな普請が随所に見られる。小道を登っていくと、最初に下段の腰曲輪に至り、その先を進むとその上段にある水の手曲輪に至る。ここには西郭切岸下に井戸跡が窪地として残っている。また水の手曲輪の横の主郭下には横堀が穿たれている。水の手曲輪から道を登っていくと主郭と二ノ郭の間の鞍部の曲輪に至る。構造から考えて、特殊な形の枡形虎口と考えて良い。南の主郭側には虎口が開いた大土塁がそびえており、櫓門があったのであろう。主郭の南端には御札神社があり、その裏に当たる主郭先端には低土塁が築かれている。主郭の西半分は薮で覆われているが、西端にも低土塁が築かれている。その先は西郭との間の堀切になっている。西郭は全域藪が酷く、堀切沿いに低土塁がある以外はほとんど遺構がわからない。前述の枡形虎口の北側に二ノ郭があり。土塁と坂虎口が築かれている。二ノ郭は東辺以外を土塁で囲んだ、島崎城ではやや小さい曲輪である。ここは薮が伐採されていたので、形状がわかりやすい。ニノ郭北側には三ノ郭との間を分断する深さ4m程の堀切が穿たれている。この堀切は東側で曲がっており、堀切東端にニノ郭裏から通じる土橋が架かっている。土橋はそのまま三ノ郭から伸びる一騎駆け状の土塁に直角に繋がっており、非常に珍しい構造である。三ノ郭は縦長の曲輪で、西と北を土塁で囲んでおり、特に北側の土塁は幅が広く多門櫓のようなものが築かれていた可能性がある。この北側にも深さ10mを超える円弧状の大堀切が穿たれ、東側では横堀状となって降っている。その北側に独立堡塁状の小さいⅣ郭があり、Ⅳ郭東端も横堀側方の土塁となって伸びている。Ⅳ郭北側も深さ5m程の堀切となっていて、その北に東西に長く広いⅤ郭がある。Ⅴ郭には高圧鉄塔が建っている。鉄塔付近以外は薮がひどいが、北側に低土塁が築かれているのが確認でき、その北側も深さ4m程の堀切で分断されている。この堀切だけ、わずかに横矢掛かりの張出しが塁線に見られる。以上の様に、大きな4つの堀切で分断した規模の大きな城である。薮が多く遺構が確認しづらいのが難である。
三ノ郭堀切→IMG_4042.JPG
IMG_4099.JPG←5郭堀切の横矢掛かり
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.961560/140.535178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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塚原城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3886.JPG←二ノ郭から見た主郭の虎口
 塚原城は、大掾氏の一族、鹿島氏の庶流塚原氏の居城である。かの名高い剣聖・塚原卜伝はこの塚原氏の当主で、一時期塚原城主であった。鹿島氏15代義幹の子安幹がこの地に入部して塚原氏を称し、塚原城を築いたと言う。この安幹が養子として迎えたのが卜伝で高幹を名乗った。1591年の佐竹氏による鹿島城攻撃の際には塚原一族も鹿島城に立て籠もって戦い、塚原義安は自刃し、塚原義隆は討死した(系譜には不明点が多い)。
 一方、塚原卜伝は、鹿島神社神職の卜部家吉川左京覚賢の次男で、塚原土佐守安幹の養子に迎えられ、塚原新右衛門高幹と名乗った。1532年に家督を継いで塚原城主となったが、妻の妙と若くして死別し、養子に家督を譲って自身は3度目の修行の旅に出たと言う。

 塚原城は、北浦東岸の比高30m程の段丘突出部に築かれている。字が消えかかった案内標識が県道18号線に出ており、そこから細道を北東に登って行き、台地上で西に道を進むと一面の畑が広がっており、脇に城址看板が立っている。しかしその先が非常にわかりにくい。畑の奥にある山道を行ったり来たりして、ようやく探し当てることができた。塚原城は、西に張り出した台地の北端の基部を掘り切って、北側に3段の曲輪を築いている。最上段の主郭は最も広く、東辺にのみ低土塁を築き、ここに虎口を築いている。背後を堀切で防御しているが、浅い堀切で大した防御性は感じられない。主郭の東には土塁で囲まれた半円形の二ノ郭がある。二ノ郭は主郭と段差だけで区切られ、その高低差は1.5m程にしか過ぎない。二ノ郭の下方に腰曲輪が廻らされており、竪堀らしいものが数本見られる。素朴な構造の、簡素な城砦である。
 尚、腰曲輪のはるか下には民家があり、竪堀を覗いていたら民家の小父さんに「何やってんだ?」と大声で訊かれてしまった。城跡を見てると答えたら納得してもらえたが、この城に行くときは注意しましょう。
主郭背後の堀切→IMG_3852.JPG
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.992226/140.603585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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粟生城(茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3817.JPG←粟生城跡に建つ平光寺
 粟生城は、大掾氏の一族、鹿島氏の庶流粟生氏の居城である。元々は、平安末期に豊浦左近少輔光実が築いたと言われ、当初は花山城と呼ばれていた。その後、鹿島宗幹の次男幹実がこの地に入部して粟生氏を称し、花山城を改修して居城とし、鹿島城南東の防備に当たった。更に粟生城の出城として、石神城(現・神栖市)に一族の石神八郎憲幹を分知して備えを強固にしていたが、1558年に粟生・石神両氏の間で争いが起き、両氏とも滅亡して粟生城は廃城になったと言う。

 粟生城は、3郭から成っていたと言い、土塁で区画されて西を御城、東を内御城、北を外城と呼んでいたと伝えられている。鹿島臨海工業地帯に程近い丘陵南端に築かれていたが、工業地帯造成のために早くに採土で破壊されていたらしい。既に戦後間もなくの航空写真を見ても、城の中心部であったと思われる丘陵上は、平らで草木のない台地になってしまっている。現在は更に採土が進んでしまっており、壊滅的な状況である。それでも以前は、西側に堀切状の切れ目(谷戸)があって、唯一明確に残る遺構であったらしいが、私が訪城した時にはここにも重機が入って破壊が始まっていた。数年後には全てなくなるだろう。ここより北の平光寺付近には土塁らしき土盛りがあり、八幡神社北の切り通し状の車道は堀切の跡であるらしい。いずれにしても寺以外ほとんど壊滅的な、残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.945736/140.655835/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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林城[中城](茨城県鹿嶋市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3774.JPG←外郭北端の大空堀
 林中城は、鹿島城主鹿島氏の一族林氏の居城である。すぐ南に隣接して林外城があるが、「外城」に対して「中城」と呼ばれることから、林氏の平時の居城は林中城で、有事の際の詰城として林外城を築いていたと考えられる。林氏の事績については林外城の項に記載する。

 林城は、前述の通り中城と外城の2つの城が、低地帯を挟んで向かい合う台地先端部に築かれている。中城は北側に位置し、台地南端の突出部の基部を堀切で分断して区画した、ほぼ五角形状の城である。主郭内は空き家ではあるが民有地なのでここへの不法侵入を避け、南斜面を直登して外周から遺構を確認した。主郭の外周には数m低い位置に腰曲輪が廻らされ、腰曲輪の外縁部には低土塁が築かれている。この腰曲輪の南端付近に竪堀状の虎口が付いている。腰曲輪の藪を突っ切って、東側から主郭背後に回ると堀切が穿たれているが、この堀切はそれほど大規模なものではない。一方、主郭の北側に広がる民家が立ち並ぶ台地は、明らかに往時の家臣団居住地で、いわば中城の外郭に当たる。外郭の北限には枡形跡の鉤の手道路が残り、その両側に外郭遺構が残っている。ほぼ南北に小道が台地を横断しているが、往時の堀切の跡と思われる。この堀跡道の北端脇には大空堀が現存し、その脇に櫓台が築かれている。この空堀の先は台地西側の腰曲輪に繋がっている。腰曲輪は延々と南に伸びているようだが、その先は民家裏なのであえて踏査しなかった。以上の様に、外城と比べると居住性を重視した造りのため、見劣りするのは否めないが、それでも往時の雰囲気はよく感じられる。
低土塁のある主郭腰曲輪→IMG_3682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.010089/140.612018/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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