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藤沢城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6577.JPG←姿を現した空堀の横矢掛かり
 以前に当ブログにおいて速報として紹介したが、5月にたまたま通りかかったところ、藤沢城の案内板が道路脇に出ていて、城址が綺麗に整備されていた。そこで再訪録を掲載する。

【小曾戸図書之助の事績について】
 小曾戸家に残る上杉謙信からの感状を元にした話が、解説板に詳述されている。以下はその要旨である。
 島津大隅守盛忠の6代の孫小曾戸丹後守親治は、壬生氏に逐われ、曽祖父忠久の縁を頼って佐野氏に助けを求め、不摩城を預けられていた。親治の2男は梅沢隼人正を名乗り、梅沢館を築いて佐野氏の部将として活躍し、後に不摩城の出城として永野川の対岸に藤沢城を築いて、その城主となった。唐沢山城主佐野泰綱の娘は藤沢城主小曾戸摂津守行家に嫁し、兄豊綱の後を継いだ甥昌綱を後見し、その子図書之助も佐野家当主の昌綱をよく助けた。1559年、小田原の北条氏政は唐沢山城攻略を企図して侵攻した。病床の昌綱から急報を受けた図書之助は、手勢を率いて唐沢山城に入り、一切の指揮を委ねられた。決死の覚悟で防戦に努めた図書之助の働きにより持ちこたえる間に、謙信が直率する上杉勢が来援し、勝機を逸した氏政は大中寺住職の仲介で佐野氏を通じ、謙信と和睦を結ぶことになった。和議の場には、主君佐野昌綱と共に小曾戸図書之助も出席し、図書之助は氏政から全軍の前で、その武勇を大いに讃えられたという。

【遺構の現況】
 遺構は、基本的に城の周囲の空堀だけであるが、幾重にもクランクした横矢掛かりが見られ、戦国後期の築城技術が垣間見られる。遊歩道が空堀に沿って敷設されており、遺構をよく確認することができる。外周の南西部は「矢場」とされ、眼下を睥睨する物見台となっている。主郭は削平が甘く、全体に緩く傾斜している。この城では面白いことに主郭背後には堀がなく、斜面が続いているだけの様である。堀は、主郭の背後以外の3面に穿たれて防御を固めているが、埋もれているせいかかなり浅くなっている。

 この様に、埋もれていた城やその歴史が整備されて、我々の前に姿を表してくれることは嬉しい限りである。整備に尽力されている地元の方々の努力には、感謝の念を禁じ得ない。
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樋口城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6183.JPG←主郭南西部の堀と土塁跡
 樋口城は、鎌倉前期の1222年に宇都宮氏の家臣樋口主計頭が築いたと伝えられている。『姿川村史』によれば、1574年に武田勝頼の軍勢が下野に侵攻した際、逆面周防守・今泉但馬守・犬飼能登守・樋口主計頭政時・政成らが金崎ヶ原の武田勢に夜討をかけ撤退させたとされ、この際に樋口氏は更に追撃したがその後帰城しなかったため、樋口城は廃城になったとされている。この甲斐武田氏による下野侵攻の記事は『下野國誌』にもあるらしいが、武田氏の下野侵攻についてはその他の歴史には一切現れておらず、甚だ疑問である。客観的に見て、武田氏が本当に宇都宮領まで進撃していたとすれば、当然途中の足利長尾氏・佐野氏・皆川氏などと交戦して城を攻めているはずであるが、それらが一切歴史に残っていない。またこの時期は長篠合戦の前年に当たり、北条氏政との甲相同盟復活により東への懸念がなくなった勝頼の目は、専ら西の織田・徳川領に向いており、6月には遠江の要衝高天神城をも攻略している。これらのことから、1574年の武田氏の下野侵攻は、誤伝であると判断するのが妥当であろう。尚、地元の伝承では、1597年の宇都宮氏改易の際に、樋口の領主から、後に残る家臣団で樋口城の遺領を配分せよとの沙汰があったと言うことで、「7人衆」と言われた家臣団が土地を分け持って今に至っているということである。

 樋口城は、姿川沿いの氾濫原とその支流の合の田川に挟まれた低台地上に築かれた平城である。おそらく方形単郭居館であったと思われるが、現在は宅地化されており、御城・中城の地名が残っている。かつての主郭の民家の南西部に僅かに土塁と堀が残っているが、草木で覆われているので確認が難しい。また周辺を探索したところ、かつての主郭の北東角と思われる付近の民家内に祠のある土盛りが確認できたので、おそらく隅櫓か、少なくとも土塁の跡と推測される。この他は改変が激しいので確証はないが、城の東を流れる合の田川がいかにも外堀という感じで流れており、城下集落を守る外堀として機能していたことが伺われる。尚、城のある低台地の南端には星宮神社が建っているが、高台になっており(古墳跡か?)、南方への物見台として活用されたことは想像に難くない。民有地なので史跡指定が難しいのだろうが、何とか史跡として残していってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.501633/139.838490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西方城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02792.JPG←ニノ郭の虎口と土橋
(2007年2月、2010年1月訪城)
 西方城は、下野の名族宇都宮氏の庶流西方氏の歴代の居城である。西方氏は、宇都宮氏7代景綱の3男泰宗が武茂庄に入部して武茂氏を称し、武茂泰宗の子景泰が西方郷に分封されて西方氏を称した。西方城は、1293年にこの景泰が築いたと伝えられている。以後、西方氏代々の居城となり、宇都宮領西端の防衛拠点として壬生氏や皆川氏に対する境目の城となって機能した。その後の歴史は明証を欠くが、伝承では1587年、西方綱吉の時に城を落とされたと言う。この時期は小田原北条氏による下野侵攻が激しく、その脅威から宇都宮氏も平城の宇都宮城を家臣に任せ、要害性の高い山城の多気山城に居城を移したほどであったから、西方城も北条氏の後援を受けた皆川氏によって攻め落とされたのだろう。西方城の西隣りの山上には真名子城があり、1523年の河原田合戦以降、皆川氏の持ち城となっているから、皆川広照が真名子城を橋頭堡に攻略を遂げたものだろうか。

 西方城は、西方地区にある標高221.2m、比高140m程の城山に築かれている。東麓の長徳寺から登山道が整備されており、楽に訪城することができる。南北に伸びる尾根に沿って曲輪を連ねた連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪を廻らし、東西に派生する尾根に出丸を築いた縄張りとなっている(但し、西尾根の出丸=「西の丸」は、ゴルフ場建設で湮滅している)。西の丸以外は遺構が完存し、一部藪が酷いものの、全体によく整備されていて遺構がよく確認できる。宇都宮氏が築いた山城としては屈指の規模と技巧的縄張りで、主要な曲輪は土塁を築き、掘切で分断され、虎口には土橋を架けた櫓門を設けて備えを厳重にしている。ニノ郭南側の虎口は枡形虎口となっており、下に伸びる登城道には上の櫓台から横矢を掛けている。また北の丸の北側には馬出しを設け、東麓からの登道は竪堀状通路となり、更に途中でクランクして侵入する敵への防御性を高めている。この他にも横堀・竪堀を巧みに組み合わせて防御性を高める工夫が随所に見られる。宇都宮氏の城の中でもかなり出色の遺構であり、多気山城同様に戦国末期に強固な同盟を結んでいた佐竹氏の支援の下に改修を受けた城かもしれない。
 尚、西方城の東の丸の先の小丘には、近世初頭に二条城が築かれており、元々西方城の出丸であった可能性があることを付記しておく。
ニノ郭南側の枡形虎口→DSC02825.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.472944,139.719465&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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竜花館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0829.JPG←水田脇の城址碑
 竜花館は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の一族が築いたとされる居館である。構築年代は不明だが、金丸玄蕃頭が築いたと言われ、「竜花(りゅうげ)」は竜害=要害の転訛である。金丸氏初代資国が築いた根小屋館からわずか300m程しか離れていない。『栃木県の中世城館跡』では「不整楕円形」の塁濠を持っていたとされ、実際に古い航空写真を見ると西に向かってすぼまった形で、北東部が円弧を描いた、台形と楕円の中間のような形状の単郭居館であったらしい。しかし現在は耕地化で遺構は完全に湮滅している。水田周辺に、一部土盛りや溝状の地形が見られるが、位置的にも遺構かどうかは甚だ疑問である。唯一、「龍華城址」と刻まれた石碑だけが、歴史を明確に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.862609,140.093322&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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根小屋館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0825.JPG←北側の土塁
 根小屋館は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の居館と伝えられている。正平年間(1346~70年)に那須資藤の次男資国が金丸の地を与えられて金丸肥前守と称し、根小屋館を築いて居館とした。その後、応永年間(1394~1428年)に大関氏が根小屋館の北方に白旗城を築いて居城を移すと、金丸氏は亀山の地を与えられて要害を築き(金丸氏要害)、居城を移したと言う。
 根小屋館は、白旗城の南方650m程の至近にある平地の城館である。高度成長期の航空写真を見ると南北に長い長方形で、南北2郭で構成された複郭の方形居館であったらしい。現在は耕地化で半分以上が破壊され、南北に離れてある民家の裏に土塁の一部が残存している。特に北側の民家裏の土塁はよく残っており、見応えがある。水口館などもそうだが、大田原では平地の城館が水田の只中に一部とはいえ奇跡的に残っているのが、本当にありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.864515,140.09609&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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白旗城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0750.JPG←主郭背後の掘切
 白旗城は、那須七騎の一つ大関氏の黒羽城以前の居城である。応永年間(1394~1428年)に大関増清が築いて、山田城から移り住んだと言われている。その後、数代にわたる居城となったが、大関増次は1542年に大田原資清と争い、資清に白旗城を急襲されて攻め落とされ、増次は逃れて石井沢で自刃した。その後、山田城に居た父宗増は大田原氏と和睦し、資清の嫡男高増を跡継ぎに迎えた。高増は白旗城主となったが、1576年により堅固な城を求めて黒羽城を築いて、居城を移した。

 白旗城は、湯坂川の東岸を南北に伸びる、比高20m程の低丘陵先端部に築かれた城である。直線的に配置された曲輪を堀切で分断しており、比較的単純な縄張りとなっている。城の先端付近は薬師堂や墓地などで改変されているが、曲輪の形状をよく残しており、腰曲輪も明瞭である。薬師堂背後の高台には義経塚という塚があるらしいが、藪がひどく形状がよくわからない。この高台の裏には掘切があり、その後ろが三ノ郭となる。三ノ郭は先端部に土塁を築いた方形の曲輪で、ややはっきりしないが北西端に内枡形の虎口らしい跡が残っている。この虎口が開いているのが主郭との間の掘切である。主郭もほぼ方形の曲輪で、愛宕神社が祀られている。主郭背後には隅櫓台を備えた土塁があり、その裏にニノ郭との間の堀切が穿たれている。この掘切は、東麓まで竪堀状の城道となって降っており、その側方の腰曲輪に櫓台が築かれて、登城道を防御している。二ノ郭は白旗城で最も広い曲輪で、中央付近に浅い空堀があって南北2郭に分けられている。ニノ郭東側の塁線は大きく内側に歪んでおり、下方に湾曲した横堀があって、大きな横矢が掛かっている。ニノ郭の先端と後端には低土塁が築かれ、ニノ郭背後の掘切は相横矢が掛けられている。先端の曲輪から二ノ郭まで、腰曲輪が延々と伸びており、特に二ノ郭東側は前述の横矢掛かりや櫓台を備え、防備が最も厳重である。白旗城は、遺構はよく残っているが、全体に未整備で藪が多く、特に二ノ郭は藪が酷い。もう少し整備されていると良いのだが。
二ノ郭東側の横堀→IMG_0812.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.870798,140.096219&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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荒井館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0694.JPG←南東部の土塁
 荒井館は、荒井志摩守の居館であったとも、或いは水口館以前に大田原氏が築いた居館とも言われている。水口館の北方僅か400m弱の位置にある。東側に向けてすぼまった形の四角形の郭を持つ居館であったが、現在は耕地化で館の西半分は完全に湮滅し、南東部に土塁とその東側に低地の畑となった堀跡が残っている。また僅かではあるが北辺の土塁の東側半分も残っている。水口館は市の指定史跡となっているが、この荒井館は史跡には指定されていない。このままでは全壊の可能性もあり、何とか保存の手立てを講じてほしいものだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.886434,140.035429&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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水口館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0678.JPG←土塁
 水口館は、大田原城築城以前の大田原氏の居館である。大田原氏は武蔵七党丹党の出と言われ、1494年に康清がこの地に移り住んで大俵氏(後に大田原氏)を称し、水口館を築いて居館とした。大田原氏は那須氏に仕え、主家の分裂抗争の中で筆頭重臣にのし上がった。1518年、大田原資清は、白旗城主大関宗増・福原城福原資安との抗争に敗れ、一旦は越前の永平寺に出家隠棲した。その為水口館も一時廃館となった。暫く後、永平寺を訪れた越前の戦国大名朝倉孝景と意気投合し、その支援を得て下野に帰国した。そして朝倉氏の支援の下、1542年に大関増次を白旗城に攻め滅ぼし、還俗して再び水口館を居館とした。しかし1545年、大田原城を築いて移り、水口館は廃された。

 水口館は、水田地帯の只中に土塁と堀跡が残っている。土塁は南半分が湮滅し、北半分だけ残っているが、高さ4~5m程もあり中々規模が大きい。また北東部は鬼門除けの入り隅となっている。外周を一段低い水田が取り巻いており、堀跡であることが明瞭である。堀の外側にも僅かに土塁跡が散見される。大田原市内の居館は皆そうだが、水田地帯の中でよくこれだけの遺構が破壊されずに残ったものだと、感心せずにはおれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.883156,140.036073&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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沢村城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0586.JPG←主郭~ニノ郭掘切の横矢掛かり
 沢村城は、那須十氏の一つ沢村氏の居城である。那須氏は源平争乱の際、11人の兄弟の内、太郎光隆をはじめ上から9人は平家に味方し、十郎為隆は屋島の戦いで扇を射よとの命に従わず義経の怒りに触れ、末子の与一宗隆が扇を射て武功を挙げて那須氏の家督を継ぐことになった。そして与一の10人の兄は、那須各地に分知されて那須十氏となって宗家を支えた。沢村氏は与一の兄、七郎満隆に始まる系統である。沢村郷を与えられた満隆は、1187年に沢村城を築いたと言われている。沢村城の南方2kmの位置に九郎朝隆が築いた稗田城があり、両城呼応して塩谷氏に対する前線基地となった。室町中期には、那須本家の資重が沢村氏に入嗣して沢村城主となった。資重が善政を施して声望が上がると、これを妬んだ兄の福原城主那須資之と不和となった。1414年、資之は妻の父上杉禅秀に唆されて、資重の沢村城を攻撃した。資重は興野館に退き、後に稲積城を修築して移り、更に1418年に烏山城を築いて居城を移した(那須氏の分裂)。そこで資之は、孫の須藤五郎を沢村城に入れて沢村氏を名乗らせたと言う。その後の沢村城の歴史は不明である。

 沢村城は、箒川南岸にそびえる比高50m程の丘陵上に築かれている。北側は箒川に臨む断崖となっており、防御の主体は南の斜面に対して構築されている。那須氏の城に多い、直線連郭式を基本形とした縄張りで、西から順に北三ノ郭・主郭・ニノ郭・三ノ郭・南中郭がそれぞれ掘切で隔てられて構築され、本丸外周には更に北ニノ郭が取り巻いている。更に主郭から二ノ郭までの南側には掘切と繋がる形で横堀が廻らされ、更に南側下方の斜面にも横堀による外郭線が構築されている。これらの掘切・横堀のラインは、要所で屈曲し、上方の櫓台から横矢を掛ける技巧的構造があちこちで見られる。こうした特徴からすると、戦国後期まで使用されたと思われる。主郭には大型の櫓台が築かれており、小型の天守程度の規模の建物があったと考えられる。主郭には2つの虎口があり、東虎口からニノ郭間の連絡は、どうも木橋であったらしい。一方、南虎口には土橋が築かれている。この他、ニノ郭北側の断崖沿いには、外に張出した物見台がある。これは自然地形をそのまま利用したものだろう。沢村城は、非常に良好に遺構が残っており見応えがあるが、主郭・北ニノ郭以外は藪が多く、特にニノ郭・三ノ郭は密生していてほとんどまともに遺構の確認をすることができない。折角の遺構であり、石碑なども立てられているので、城址公園として整備してくれるといいのだが。
北ニノ郭~北三ノ郭掘切の横矢→IMG_0531.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.819558,139.968309&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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御古屋敷(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0467.JPG←屋敷跡付近の現況
 御古屋敷は、那須氏の庶流福原氏が築いた居館である。福原資孝は、1563年、同じ那須一族の佐久山氏を攻めて佐久山城から逐い落とし、佐久山城は廃城となった。1590年、福原資孝の子資保は、大田原氏・大関氏等と共に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され、新たに佐久山四ツ谷に御古屋敷を築いて、片府田城から居城を移した。福原氏は江戸時代に入っても交代寄合旗本として存続し、1702年に古の佐久山城二ノ郭に陣屋を築いて移り住み、幕末まで続いた。
 御古屋敷は、佐久山川南岸の段丘上に築かれた居館である。佐久山城より東に800m程離れた位置にあるが、現在は推定地とされる場所は民家脇の畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。『那須の戦国時代』には、西側の土塁の一部とされる残存遺構の写真が載っているが、畑中の畦がそれであろうか?この推定地より150m程西側には、台地の縁を流れる水路があり、こちらの方が往時の堀跡らしい雰囲気を湛えているが、遺構かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.807429,140.015109&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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武茂城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSC02658.JPG←ニノ郭から横堀への横矢掛かり
(2007年1月訪城)
 武茂城は、下野の名族宇都宮氏の庶流武茂氏の歴代の居城である。武茂氏は、正応永仁の頃(1288~99年)に宇都宮氏7代景綱の3男泰宗が武茂庄10余郷に分封されて武茂氏を称したことに始まり、武茂城もこの時築かれたと言われている。武茂氏は、庶家の多い宇都宮一門でも有力な支族で、6代持綱は1407年、宇都宮宗家に世子がなかったため、宗家を継いで宇都宮氏13代当主となり、このため武茂氏は一時断絶した。後1506年に持綱の曽孫正綱が武茂氏を再興し、その正綱も16代当主として宇都宮宗家を継いだので、正綱の3男兼綱が武茂氏を継いだ。戦国後期に入ると勢力を拡張した佐竹氏の下野進出によって、武茂氏はその麾下に入り、那須・佐竹の抗争では武茂氏は重要な役割を果たした。1599年に武茂豊綱は那須資晴との内通を疑われ、常陸大賀村に移され、武茂城には佐竹氏の家臣太田五郎左衛門が入城した。関ヶ原合戦後の1602年、佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、武茂・太田両氏も秋田に移り、武茂城は廃城となった。

 武茂城は、武茂氏の菩提寺である乾徳寺を挟んで、その西と東に張り出した丘陵上に築かれている。西側が本城で、東側が東城と呼ばれる出城となっている。谷戸を挟んで並ぶ2つの城砦が一つの城として機能する点で、松野北城松野南城とよく似ている。武茂城の本城は、山頂の主郭までの斜面上に曲輪を段々に築いた梯郭式の縄張りを基本形としている。最上部に櫓台を有した主郭を置き、その南に切岸のみで区画されてニノ郭が配され、掘切を介して三ノ郭が南に広がっている。三ノ郭の前面にも3段程の腰曲輪があり、神社などが建てられている。主郭~三ノ郭の側方にも腰曲輪が廻らされ、特に主郭とニノ郭の東側では横堀となって主郭背後の堀切に接続し、ニノ郭塁線上から横堀に対して横矢が掛けられている。主郭背後も中規模の掘切が穿たれ、西側は竪堀となって下り、腰曲輪に接続している。主郭の後ろにも北郭が築かれ、ここにも背後に掘切が穿たれて城域が終わっている。一方、東城は突入を試みたものの倒竹地獄と夕闇で断念した。武茂城は、中世城郭の特徴をよく残しており、登道が整備されているので訪城も楽である。
主郭背後の堀切→DSC02666.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.741412,140.170333&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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塚田館(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9464.JPG←館跡の石碑の建つ氷川神社
 塚田館は、下野の名族小山氏の庶流、塚田氏の居館である。小山氏4代長村の3男宗光がこの地に分封されて、塚崎と田間を領して塚田氏を称したと言われている。南北朝時代の1340年、小山氏政は北朝方につき、南朝方となった当主朝氏と対立して、塚田氏の塚田館に入ったと考えられている。戦国時代に入ると、10代塚田義智は天文年間(1532~55年)の初めに宗家小山高朝の居城祇園城内に一郭を築いて与えられ(塚田郭)、移り住んだ。戦国後期になると、小田原北条氏の勢威が下野南部まで及ぶようになり、祇園城も度々攻撃を受けるようになった。1576年頃、11代塚田伊豆守は祗園城を離れ、寒川城に入った。小田原の役で北条方に付いた小山氏が滅亡すると、塚田氏は帰農したと言う。

 塚田館は、現在の氷川神社付近にあった。『栃木県の中世城館跡』によれば、氷川神社の東北に隣接して土塁と空堀で囲まれた約80m四方の単郭方形居館があった様だが、明治時代の開墾で遺構は湮滅してしまった。それでも、昭和中期までは神社北側に僅かに土塁と空堀が残存していたらしいが、それも今では失われてしまっている。小山市が建てた立派な石碑のみが、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.266802,139.811196&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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友沼城(栃木県野木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9462.JPG←城址とされる忠魂碑付近
 友沼城は、逆川城とも言い、歴史不詳の城である。中世から戦国期の城館と推定されている。「逆川」の名の由来として、「昔、小山小四郎何某が、家臣の止めるのを聞かずに出陣し、逆川まで来たところ、ようやくここで家臣が追いつき、再び〔出陣を〕止められた。小四郎は怒って、扇子で家臣の顔面を打つと、はずみで扇子が川中へ落ちた。扇子は西の方へ流れていった。〔多くの川が東流しているのに、西流したことから〕それで逆さ川というようになった。」(〔 〕内は管理者補足)ということなので、近くの法音寺城と同じく小山氏の支城であったものと思われる。特に「小四郎」という通称は小山氏嫡流のものなので、時の小山氏の当主が家臣の諌めを聞かずに出陣し、手勢を率いて友沼城付近まで進出したということなのだろう。

 友沼城は、現在は宅地化・耕地化によって遺構は完全に湮滅しており、その正確な所在地と規模も明確ではない。しかし近くの逆川排水機場に逆川に関する解説板があって、城のことが書かれている。それによれば、逆川の北側台地上にあり、現在の忠魂碑付近にあったとされているらしい。たまたま付近を探索していて、この解説板を見つけられたのは幸運だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.237662,139.728327&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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犬飼城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08468.JPG←主郭の横矢櫓台と空堀
(2007年1月、2011年12月訪城)
 犬飼城は、歴史不詳の城である。伝承では、1379年に祇園城主小山義政が築城したのが初めで、戦国後期には下野まで勢力を伸ばした小田原の北条氏政によって攻められ、小山秀綱は父政長を助けて奮戦したが敗北したとされる。その後、1573年に犬飼康吉が城主となったが、宇都宮氏に攻められて滅亡し、廃城になったと言う。しかし、少なくとも小山氏による築城というのは、勢力圏としても宇都宮氏の領域の只中であるので、誤伝であろう。それよりは岡本城との横矢掛かりや選地の類似性から考えれば、宇都宮氏による築城と考えるのが妥当であろう。1km程の距離には宇都宮氏の深津城があることから考えても、その可能性が高いだろう。また戦国末期に、北条氏直が盛んに宇都宮領に侵攻した際、犬飼城を前進基地として使用し、沼尻合戦か小田原の役の際に宇都宮勢によって攻め落とされた、と言う辺りが事実に近いのではなかろうか?あくまで想像ではあるが。城主の犬飼康吉の名も、北条氏康からの偏諱を想像させる。

 犬飼城は、姿川と武子川の合流点に向かって北から突き出した、比高10m程の根古屋台と呼ばれる台地の先端部に築かれている。山林となっているが、遺構は非常によく残っている。主郭はほぼ全周を空堀・低土塁で囲まれ、主郭の西と北に広がるニノ郭に対して、土橋の架った虎口を設け、土橋に対して右翼から横矢の櫓台を張り出させて防御を固めている。ニノ郭の外周も空堀で防御し、特に北西部分では、小型の枡形虎口と土橋で空堀を食い違いにしており、中々技巧的な造りとなっている。またニノ郭の塁線は巧みに屈曲して、厳重な横矢を掛けている。主郭の南側には空堀を挟んで前衛の三ノ郭が築かれ、その前面も土橋を架けた空堀で防御している。この城がよく見られる崖端城と異なるのは、主郭が先端に無く、主郭の前面にも空堀と曲輪が設けられていることで、これは比高が小さいことによる要害性の弱さを補う処置であったのだろう。小規模な城ではあるが、技巧的な構造は北条氏による改修の可能性を感じさせる。最近は宇都宮市などによる見学会が年1~2回の頻度で開催されており、徐々に知名度が上がりつつある貴重な遺構である。これで解説板や石碑でも建てられたら、言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.531467,139.834478&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世崖端城
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小谷城(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02259.JPG←城址碑と神明宮
(2007年1月訪城)
 小谷(こや)城は、下野の名族小山氏の支城である。元々の創築は、1120年に小谷三郎俊景によるとされる。後に小山氏の祖、小山政光がこの地を支配し、居住したと伝えられている。南北朝期には、小山氏の庶流網戸村重が小谷城主となって生井八郎を称したが、結城合戦(1440~41)に破れ、奥州に逃れた。戦国後期になると、祇園城主小山秀綱が小谷城を再興し、大橋左京亮を城代としたが、1590年の祇園城落城と共に廃城となったと言う。
 小谷城は、渡良瀬遊水地の北東にあり、旧思川の北岸の低台地上に築かれていた。古い航空写真を見ると、台地の周囲を円形に取り囲む堀が残っていたようだが、現在は耕地整理によって遺構は完全に湮滅している。わずかにかつての城内の一角に、神明宮の小さな祠が建ち、そこに『史跡 小谷城址』と刻まれた石碑が建つのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.24988,139.715002&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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大平山城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02461.JPG←曲輪側方の石垣
(2007年1月訪城)
 大平山城は、歴史不詳の城である。勢力圏としては皆川氏の領域にあり、南方は榎本城藤岡城、西方は唐沢山城を望見でき、北は皆川城と連絡することのできる高地であることから、皆川氏の支城と推測するのが自然であろう。尚、太平山神社裏の郭の北東にある大館山も城域で、皆川・北条の間で激戦が行われたと言う。また、太平山神社の南東に伸びる尾根上の平場は「謙信平」と呼ばれ、1569年に越相同盟が結ばれた後、謙信は大平山に登って兵馬の訓練を行い、この謙信平から関東平野を望見してその広さに目を見張ったと伝えられている。

 大平山城は、標高341mの大平山山頂を中心に築かれた城である。遺構としてはささやかで、富士浅間神社の鎮座する山頂に小さな主郭があり、神社裏には櫓台が築かれている。主郭周囲には腰曲輪が廻らされ、主郭から南東の太平山神社に向かって伸びる尾根上に幾つかの曲輪が築かれている。また主郭近くの西尾根も曲輪が築かれている。しかし特に掘切などで分断されておらず、普請としては平場を削平しただけのささやかなものである。一方で、南東の曲輪の側面には立派な石垣があり、往時の遺構の可能性がある。但し、小規模な城砦には似つかわしくない規模であり、富士浅間神社への参道を整備した際の後世の構築の可能性も考えられる。いずれにしても、皆川領の南方を監視する物見として機能した城砦であろう。
南東尾根の曲輪→DSC02434.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.365129,139.690282&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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光明寺城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0047.JPG←南西入隅部の土塁と空堀
 光明寺城は、細井城とも言い、下野の名族小山氏の庶流細井氏が築いた城である。1555年に細井駿河守光明が築いたと言われ、小山氏の支城であったと思われる。1560年に壬生城主壬生義雄によって攻め落とされて、そのまま廃城となったと言う。
 光明寺城は、現在光明寺の境内となっている。環郭式の平城で、土塁と空堀で囲まれた主郭の周囲にニノ郭があったらしいが、現在は主郭だけが完存し、二ノ郭は北東部分だけが残存している。主郭は高さ2m程の土塁で全周を囲まれており、鬼門に当たる北東部と裏鬼門の南西部に入り隅があって横矢が掛けられている。空堀は南東部以外が残存している。比較的小規模な城であるが、町中に近い平城でこれだけ遺構が残っているのは奇跡に近い。末永く保存していってもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.429017,139.760449&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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吹上城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9845.JPG←学校東側の堀跡
 吹上城は、下野の戦国大名皆川氏の支城である。皆川氏の一族で、皆川成勝の甥に当たる膝付宗長が築いたと伝えられ、布袋ヶ岡城と共に皆川領の北方防衛の重要な地点であったと推測されている。1609年に徳川家康の6男松平忠輝の附家老となっていた皆川広照が咎によって除封されると、吹上城も廃城になったと思われる。その後、一時期天領となって代官の陣屋が置かれたが、江戸末期の1842年に上総五井より有馬氏恕がこの地に移封となり、城跡に藩庁を置いた。

 吹上城は、山稜中腹の比高20m程の丘陵上に位置している。現在城の主要部が吹上中学校の敷地に変貌しており、その他の曲輪も車道などが貫通して遺構はかなり破壊されている。国土地理院の昭和20年代前半の航空写真で見ると、曲輪外周の堀や土塁がはっきりと残っており、東西に3つの曲輪を連ねた城だった様である。もっともこれらは有馬氏時代の遺構らしい。吹上中があるのが本丸と二ノ丸部分に相当し、その東の三ノ丸はゴルフ場への車道が貫通する他は山林となっている。残存遺構としては、わずかに学校敷地の東側に空堀らしい跡が見られるのと、前述の車道脇に北側の堀跡が見られる程度である。しかしいずれも規模が小さい上、藪がひどく判然としない。三ノ丸の東側にも外郭の様な曲輪があった可能性があり、東端に土塁らしきものも見られるが、民家の庭先のためあまりよく確認できない。学校建設で破壊された城跡の例は全国に多いが、ここもそのような城の一つで、今から思えば惜しいことである。
城址東端の土塁らしき跡→IMG_1486.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.413668,139.708607&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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神楽ヶ岡城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9705.JPG←ニノ郭から見た三ノ郭の空堀
 神楽ヶ岡城は、以前は全山もの凄いガサ薮でほとんどまともに遺構の確認ができなかった。薮で鼻血を出すハメになった、これまでで唯一の城でもあった。しかし読者の上沢さんからのご教示で藪が伐採されたとの事だったので、改めて訪城した。

 神楽ヶ岡城は、なだらかな丘陵上に築かれており、大きく3つの曲輪から構成されている。南から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んでいる。三ノ郭は城の前衛を為す比較的小規模な台形の曲輪で、外周に空堀が廻らされている。ニノ郭は三ノ郭より広く、三ノ郭からは掘切で分断され、掘切と繋がった空堀が西面まで防御しているが、東側は切岸のみで処理されている。郭内は上段・下段の2つに分かれ、下段は外周に土塁を廻らし、隅櫓台のほか中央後部に大きな櫓台を設けている。この中央櫓台は、もしかしたら古墳を転用した可能性があり、城全体の防御の指揮所の様なものだったように見受けられる。下方の三ノ郭に対しては右手から横矢を掛けられるように曲輪が張り出している。主郭は城内最大の曲輪で、ニノ郭との間はやはり掘切で分断され、中央にわずかに土橋らしきわずかな畝が見られ、西側に櫓台が張り出している。掘切はそのまま東の塁線に沿って穿たれている。東の塁線は数ヶ所で折れを持ち、東端近くには虎口の土塁らしいものも確認できる。この主郭左翼の構造は、屈曲した塁線に横堀巡らしたもので、諏訪山城にも同じ構造が見られる。但し神楽ヶ岡城では、空堀はかなり浅い。また前述の掘切は西側からぐるりと円弧を描いて曲輪の北辺全体を包み込むように穿たれており、空堀外周は土塁がはっきりと構築されている。西側の空堀外周はニノ郭から主郭にかけて帯曲輪となっており、北条氏の大規模城郭によく見られる構造とよく似ている。主郭自体はだだっ広いだけの平場で、前面と西側には土塁が築かれているが、割と防御構造は厳重ではない。その為、最高所に位置するもののどちらかと言うと外郭の様な印象の曲輪で、もしかしたら中央の曲輪(ニノ郭)が主郭かもしれない。この他、主郭から南東の丘陵部にも曲輪や櫓台が設けられ、途中に掘切や腰曲輪が築かれている他、城の西側斜面にも物見台らしい土壇が2ヶ所確認できる。

 神楽ヶ岡城は、丘陵中央部に築かれた城で、遺構は明確であるが、空堀は埋もれてしまったのかかなり浅く、大した防御性を持っていない。しかし横矢掛かりの多用や空堀外周の腰曲輪の構造など、小田原北条氏の影響を感じさせる遺構も見られ、技巧性と遺構の規模の中途半端さが相容れず、どのように解釈したら良いのか、判断に迷うところである。

 尚、きえさんの情報の通り、長福寺に城主であった藤平家の墓があり、またその西側には二条城主として西方の地に入部した藤田信吉(能登守重信)の墓も建っていた。信吉は、長福寺の中興開基であるらしい。皆さんから頂いた貴重な情報も役立ち、楽しい初春の城巡りとなった。
主郭左翼前面の横堀と土塁→IMG_9716.JPG
IMG_9789.JPG←主郭背後を廻る空堀
南東丘陵部の掘切→IMG_9753.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
  ※縄張りが確認できたので、再評価しました。
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真名子城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9615.JPG←広大な大手郭
 真名子城には、もう8年も前に訪れているが、近年になって解説板が建つなど整備が進んだらしく、また南西部に見逃した遺構群があることも分かったので、久しぶりに訪城した。

 真名子城は、戦国初期の永正年間(1504~21年)に宇都宮城主宇都宮忠綱の子元綱が築いたと言われている。その後、皆川氏に対する備えとして、家臣の岡本秀卓を城代とした。1523年の河原田合戦で、激戦の末、忠綱が皆川氏に敗れると、岡本氏は皆川氏に降伏して真名子城は皆川氏の支城となった。戦国末期に皆川広照が、北関東への勢力拡張を強力に進める小田原北条氏に降ると、真名子城には別府秀賢が客将として配されたらしい。1590年の小田原の役の際には、岡本氏は皆川氏と共に北条方に付いたが、城中で病没し、家名断絶して真名子城も廃城になった。

 真名子城は、山頂の主郭を中心に環郭式に腰曲輪が取り巻き、更に四方に伸びる尾根上に腰曲輪を設け、要所を掘切で分断した、典型的な縄張りの山城である。それらの内容は、以前にも書いた通りであるが、この城の最大の遺構は、実は前回未踏査だった南西部にあった。こちらは大手に当たり、大規模な曲輪群が築かれている。尾根先端部に綺麗な三角形をした大手郭があり、その背後に比較的規模の大きなしっかりした二重掘切が穿たれている。この城の他の掘切とは全く大きさが異なっており、思いの外の規模に驚愕する。その背後にも何段も腰曲輪群が展開しており、大手道を厳重に警戒していたことがわかる。真名子城の東隣には、宇都宮氏の支城西方城があるが、面白いことに真名子城の防御構造の主体は、前述の通り西に向いている。これは、地勢の制約上、このような形となったものだろう。城の向きと、敵方の方向が一致しない縄張りの好例で、中世城郭の築城思想を考える良い材料を与えてくれている。

 尚、以前の記事では現地標柱に従って赤壁城と記載していたが、新しい現地解説板も真名子城に呼称が改められ、その名称の方が広く通用していることから、本項では真名子城に名称を改めた。
側面から見た大手の二重掘切→IMG_9641.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.473182,139.708889&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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倉ヶ崎城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02099.JPG←ニノ郭の大堀切
(2006年12月訪城)
 倉ヶ崎城は、喜連川城とも、或いは大蔵ヶ崎城とも呼ばれ、喜連川塩谷氏の居城である。喜連川塩谷氏は、川崎城を本拠とした川崎塩谷氏の傍流に当たり、1186年に塩谷五郎惟広が築いたと伝えられている。しかし惟広の頃の塩谷氏は源姓塩谷氏で、本家の塩谷氏は嗣子がなかったため宇都宮業綱の二男を養子として迎えて、塩谷朝業となり、以後宇都宮氏の支族として重臣の列に連なった。一方、喜連川塩谷氏は宇都宮氏との繋がりが薄く、その為戦国時代に入って那須氏と宇都宮氏が対立すると、喜連川塩谷氏は那須方に付いて宇都宮氏と戦った。戦国末期には、川崎城主塩谷義孝の弟孝信が喜連川塩谷氏の養子となって倉ヶ崎城主になったが、兄と対立して争った。1590年の小田原の役の際、孝信は何らかの不手際があったらしく、豊臣秀吉から譴責を受けて倉ヶ崎城を去り、倉ヶ崎城は廃城となった。

 倉ヶ崎城は、荒川とその支流内川に挟まれた比高60m程の三角形状の台地先端に築かれている。現在、お丸山公園となっており改変を受けているが、全体に遺構は良く残っている。堀切で分断された曲輪を直線的に配置した連郭式で、先端から主郭・ニノ郭・三ノ郭となっている。主郭は前面も堀切で防御し、更に台地先端に向かって段曲輪群を配置して防御を固めている。主郭背後・ニノ郭背後はそれぞれ深さ10m以上の大堀切で分断されている。これらの掘切はいずれも直線的なものだが、三ノ郭の掘切だけは2ヶ所でクランクして横矢が掛かっている。しかし三ノ郭の掘切は、埋もれてしまったのか、主郭・ニノ郭のものと比べるとかなり浅くなっている。土塁は三ノ郭背後とニノ郭の一部に見られる。この城は、南側斜面は急峻だが北側斜面は緩やかな為、北側斜面にだけ段々に腰曲輪が築かれている。倉ヶ崎城は、縄張りは単純であるが、大規模な掘切は見応えがある。もう少し曲輪内の改変が少なければ、素晴らしい城址公園だったのだが・・・。
三ノ郭の土塁→DSC02115.JPG
DSC02126.JPG←三ノ郭掘切の横矢掛かり
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.71835,140.022629&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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駒戸山城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9356.JPG←主郭の櫓台
 駒戸山城は、歴史不詳の城である。眼下に飛駒を望む位置にあり、山岳道「ひこまみち」を押さえる位置にあることから、関所的な城砦であった可能性が指摘されている。

 駒戸山城は、標高540mの山稜上に築かれている。南西の車道の292m地点から山道が伸びているが、例によって途中で道が消失するので、そこから先は斜面直登となる。城域は大きく2つに分かれ、山頂の主城部と、南東尾根の出曲輪とが存在する。主城部は堀切で分断された2つの曲輪から成り、主郭は土塁で囲まれ、東側に2ヶ所の虎口を設けている。北東の虎口は前面に小郭(虎口郭)を伴い、その先は尾根道となって出曲輪に繋がっている。もう一つの南東の虎口は腰曲輪から堀切に繋がり、ニノ郭に通じているようである。二ノ郭はほとんど自然地形で、主郭との間の掘切も浅い。主郭は櫓台を設けていたらしく、形状がはっきりしないが枡形状の土塁が櫓台の手前に築かれていた様だ。しかし主郭の土塁は僅かな低いもので、周囲の切岸もほとんど加工されておらず、大きな普請はされていない。一方、南東尾根の出曲輪は、ずーっと下の尾根に掘切が2本穿たれ、2本目の上は櫓台状の土壇となっている。出曲輪は縦長で、後方に前述の土壇を築き、曲輪の前面下方には5段程の明瞭な腰曲輪群が築かれている。『栃木県の中世城館跡』によればその先にも遺構があるらしいが、日没タイムアウトで引き返した。主城部と比べると、出曲輪部の方が削平や切岸がしっかりしており、普請が徹底されている。遺構を見る限り、やはり峠道を押さえ、物見と烽火台を兼ねた城だったと思われる。
南東尾根の掘切→IMG_9402.JPG
IMG_9416.JPG←出曲輪前面の腰曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.440144,139.455943&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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城之山城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9295.JPG←腰曲輪と山頂の主郭
 城之山城は、歴史不詳の城である。勢力圏的には佐野氏の領国内であるが、須花峠を通る古道を背後から扼する位置にあることから、天正年間(1573~92年)に須花峠を越えて佐野氏を攻撃した足利長尾氏が築いた可能性も考えられる。

 城之山城は、標高400m、比高270mの小ピークに築かれた城である。小規模であるが高低差が大きな縄張りで、普請は割り合いしっかりした城である。山頂の主郭は狭小で、ほとんど居住性は無いが、後部から西辺にかけて一段やや高くなっており、土塁と櫓台が築かれていた様である。主郭から斜面を降ると東尾根から西尾根までぐるっと巡る腰曲輪が築かれている。東尾根は更にその下にも2~3段の小さな腰曲輪が点在し、土橋の架かった小堀切の先が自然地形の平場となっている。一方、西尾根にも浅い掘切の先に自然地形に近い平場が広がっている。主郭の背後尾根には、合計3本の掘切が穿たれているが、主郭から遠ざかるに従って規模は小さくなっている。城之山城は普請の規模は小さいが、三方に伸びる尾根上に遺構が点在するため、全体での城域は広目になっている。その縄張りからすれば、須花坂を押さえる物見として機能した城と思われる。

 尚、城之山城が位置する山稜は北に伸び、標高490.5mの三角点のある山の北尾根には東西に貫通する峠道があり、この峠道の西麓には「中木戸」の地名があることから、この山稜上に城郭遺構があるのではないかと個人的に推測して尾根の縦走踏査を行ったが、結局何も見出すことはできず、南端のピークに位置するこの城跡しかなかった。又、この城への訪問に当たってはHP「儀一の城館旅」を参考にした。
北尾根の2本目の掘切→IMG_9256.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.422552,139.498022&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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鳥居戸城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9207.JPG←民家裏に残る土塁
 鳥居戸城は、鎌倉末期か南北朝期に佐野氏の一族、鳥居戸次郎が築城したと伝えられる城である。その後の歴史は定かではないが、戦国後期の天正年間(1573~92年)頃まで存続していたと言われている。
 鳥居戸城は、鰻山城の西方わずか600m程の位置にある平城で、現在民家の敷地となっている。民家の裏の北側と西側に、L字状に高さ2m程のしっかりした土塁が明確に残っている。土塁の外周にはトタンの塀が建てられているので少々見えにくいが、土塁の角部が盛り上がっているので隅櫓台が築かれていた様である。周囲は水田などに変貌し、堀跡もほとんど残っておらず、あるのは土塁だけなのでよくわからないが、小規模な単郭方形居館であった様である。
 尚、当初はもっと西の位置だとばかり思っていて探しあぐねていたが、HP『城跡へ続く道』を参考にしてようやく探し当てることができた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.377629,139.555163&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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諏訪山砦(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9184.JPG←諏訪岳の山頂
 諏訪山砦は、下野の戦国大名佐野氏の居城唐沢山城の北の守りの砦である。
 標高323.7m、比高250mの諏訪岳山頂に位置している。田沼工業団地の奥から登山道が整備されており、左程苦労せずに登ることができる。きれいな山容が東北道からもよく見える山で、栃木百名山になっているだけあって、ハイカーがよく登っている山らしく、訪城した際も何人もとすれ違った。山道を登っていくと京路戸峠に至り、そこからは尾根を縦走することになる。京路戸峠には、掘切状の地形が見られるが、単なる古道の切通しの跡か、尾根道を分断する城砦遺構の跡なのか、判別できない。山頂には三角点があって僅かな平坦地があるが、明確な遺構は見られない。また北と西に延びる支尾根には平坦な自然地形があって、物見としては使われたと思われるが、やはり明確な遺構はない。単に山の上に番兵を置いて物見に当たらせたもので、城砦の普請は必要としなかったのだろう。

 尚、北西麓の中村城が諏訪山砦からよく見えるが、数年前に中村城訪れた際、「堀ノ内」と言われる民家のご老人が「唐沢山城と中村城とは旗で情報伝達を行なっていた」と仰っていたが、それはこの諏訪山砦を経由しての事だったろう。城巡りというより、ハイキングに適した山である。
京路戸峠→IMG_9199.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.374139,139.617444&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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御前城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02013.JPG←わずかに残る土塁
(2006年11月訪城)
 御前城は、馬場城とも呼ばれ、氏家氏の祖氏家公頼の頃にその居城として築かれたものと推測されている。氏家氏の事績については勝山城の項に記載する。後により要害性の高い勝山城を築いて居城を移したと考えられるが、御前城は南の大手に突き出しを造って横矢掛かりを構えるなど修築を加えつつ存続し、勝山城と同じく宇都宮氏が改易された1597年に廃城となった。

 御前城は、氏家の市街地北部の今宮神社参道脇に築かれた平城である。土塁と水堀で囲まれた方形単郭居館を基本形とし、南の大手虎口に突出部を設けていたらしく、近世までその遺構を良く留めていたが、大正12年の氏家小学校の移築の際に大々的に破壊され、現在では小学校敷地の隅に、北東角の土塁約20m程を残すのみとなっている。わずかでも遺構が残ったのは唯一の救いであるが、さすがにあまりに変わり果てた姿に悲しまざるを得ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.686188&lon=139.963048&z=16&did=std&crs=1
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勝山城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01897.JPG←主郭の櫓台と空堀
(2006年11月訪城)
 勝山城は、宇都宮氏の庶流氏家氏の居城である。氏家氏は、宇都宮朝綱の子公頼を祖とする一族で、当初は御前城を居城としていたが、後に勝山城を築いて移ったものと推測されている。氏家氏の名は、『吾妻鏡』に見られ、1190年の源頼朝の上洛に際して公頼は随兵の先陣として随行している。また、1193年の鶴岡八幡宮放生会では、公頼は流鏑馬の射手を務めた。1222年の将軍御前での犬追物では、公頼の子公信が射手に選ばれた。公信の子経朝も、1251年の犬追物で射手に選ばれるなど、武門の家として著名であったことが知られている。南北朝時代の観応の擾乱では、宇都宮氏は一族を挙げて足利尊氏方に付き、薩埵山合戦の勝利に大きく貢献した。この戦功によって、宇都宮氏綱は上野・越後2ヶ国の守護となり、その重臣の飛山城主芳賀高名はその守護代となった。氏家氏一族も当主周綱、その子綱元、同族の定朝、綱経など、多くの賞勲を受けた。しかし綱元の時、氏家氏は一旦断絶となり、その後飛山城主芳賀高家の子高清が勝山城主となった。以後、勝山城は、飛山城と連携して宇都宮城の北方防備の最大拠点として重視され、対立する那須氏との攻防では、しばしば合戦の舞台となった。そのまま戦国時代を通じて城は存続したが、1597年に宇都宮国綱が豊臣秀吉によって改易されると、宇都宮氏の多くの城と同じく勝山城も廃城となった。尚、下野を本貫地とする氏家氏は、その分流が奥州と美濃で活躍し、奥州氏家氏は伊達家家臣として江戸時代を通じて存続し、また美濃氏家氏は美濃三人衆として織田信長に付いて活躍した氏家卜全を輩出した。

 勝山城は、飛山城と同じく鬼怒川東岸の段丘辺縁部に築かれた城である。ニノ郭や三ノ郭は博物館や民家・畑となって改変されているが、主郭は城址公園として整備され、またニノ郭南郭も山林となって遺構が良く残っている。主郭は斜めにひしゃげた方形の曲輪で、周囲に土塁と空堀を廻らせ、東側の主郭虎口には木橋が掛かり、左袖の横矢掛かりの櫓台がそびえている。この城では多くの崖端城と異なり、主郭の崖側にも空堀が穿たれ、その外側に帯曲輪(ニノ郭西郭)が巡らされていることである。この帯曲輪とニノ郭南郭の接続点に向けて、主郭の搦手虎口が築かれている。この他、ニノ郭南郭にも土塁と空堀が残り、主郭北側の腰曲輪(ニノ郭北郭)にも土塁と空堀が残っている。空堀はいずれも直線的な造りで、飛山城と似た築城思想となっている。尚、城跡は一旦、建物が建設されるなど破壊を受けたが、その後発掘調査を経て復元整備されたらしい。大きな城ではないが、主郭周辺は非常によく遺構が残り、城址公園としては非常に素晴らしい。
主郭の土塁→DSC01909.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.667706&lon=139.954701&z=16&did=std&crs=1
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飛山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01700.JPG←6号堀南側の櫓台の横矢
(2006年11月訪城)
 飛山城は、宇都宮氏の重臣芳賀氏が築いた城である。鎌倉時代後半に、芳賀高俊が鬼怒川の船運などの交通路を押さえる要衝に築城した。芳賀氏は当初真岡城を居城としていたが、鎌倉幕府の評定衆として勢力を強めた宇都宮氏に接近するため、より宇都宮城に近い飛山城を築いたと推測されている。南北朝時代には、芳賀氏(本姓清原氏)は宇都宮氏麾下の強力な軍事集団として勇名を馳せ、益子氏(本姓紀氏)と共に「紀清両党」と称されたことは太平記に名高い。足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かって北朝を擁立すると、時の宇都宮氏当主の公綱は南朝方として活動したが、飛山城主芳賀高名は公綱の子氏綱を擁して宇都宮城を占拠し、北朝方に付いた。北畠顕家・新田義貞が相次いで討死すると、後醍醐天皇は北畠親房を東国に派遣して南朝勢力の再建を図り、小田城に入った親房は一族で配下の部将春日顕国に軍勢を率いて下野に侵攻させた。顕国は、1339年に八木岡城と益子城を攻め落とし、上三川城箕輪城の北朝勢を追い払った。勢いに乗った南朝方は西明寺城を拠点として北朝方の飛山城に迫った。1340年、飛山城の支城石下城が落城し、翌41年、顕国は飛山城を攻略して鬼怒川を挟んで北朝方の宇都宮城と対峙した。この時、鎌倉府の足利基氏の執事の一人として京から派遣されていた高一族の高師冬は、飛山城支援のため宇都宮城に入っていたが、飛山城の落城必至と見て矛先を変え、瓜連城に移動して親房のいる小田城を背後から攻撃した。小田城は抗しきれずに降伏し、親房は関城大宝城に逃れて抗戦を続けた。しかし1343年、師冬の活躍によって関・大宝両城も陥落し、常陸の南朝勢力は壊滅、失意の親房は吉野に舞い戻った。この時顕国は北朝方に捕らえられて斬殺されたと言う。これと平行して、芳賀高名も飛山城を攻めて奪還した。

 時代は下って戦国時代になると、宇都宮氏と芳賀氏は主従とは言いかねる複雑な関係となった。1541年、宇都宮俊綱は真岡城主芳賀高経を殺害した。高経の子高照は奥州白河に逃れ、益子氏出身の芳賀高定が俊綱の支持の下、芳賀氏の当主となった。1549年、白河にいた芳賀高照は那須氏の支援を得て宇都宮氏を攻撃し、一方俊綱は那須氏を強攻して五月女坂で大敗、討死した。その勢いで高照は宇都宮城を占領し、俊綱の子広綱は芳賀高定の真岡城に逃れた。こうして真岡城の宇都宮広綱・芳賀高定と、那須氏の支援を得た宇都宮城の芳賀高照が対峙し、飛山城はその最前線に位置することとなった。しかし高照を支援していた那須高資は芳賀高定の謀略によって千本城で殺害され、後ろ盾を失った高照は孤立し、鹿沼城主壬生綱雄が北条氏康の支援の下、宇都宮城を占拠した。高照は、一転して高定を頼って真岡城に逃れたが、1555年に高定に殺害された。1557年、宇都宮広綱・芳賀高定は常陸太田城主佐竹義昭を頼り、義昭は5千の軍勢を率いて飛山城に入り、壬生綱雄を圧迫した。この頃から北関東を巡って、小田原北条氏と常陸佐竹氏の両勢力が激突することとなった。綱雄は全面対決を避けて宇都宮城を退去して鹿沼城に移り、宇都宮広綱はほぼ10年ぶりに宇都宮城に復帰した。1558年、越後の上杉謙信は北条氏討伐の為関東に侵攻、小山城主小山高朝を降し、宇都宮領の多功城を攻めた。宇都宮城の広綱と真岡城の高定は多功城を救援し、上杉勢を激戦の末撃退した。戦国末期になると、北条氏は北関東への侵攻を本格化し、下野南部も激しい攻勢に晒され、平城の宇都宮城を支えきれなくなった宇都宮氏は新たに多気山城を築いて本拠を移した。これに伴って真岡城との繋ぎ城であった飛山城の役割は低下し、1597年に宇都宮国綱が豊臣秀吉によって改易されると、飛山城も破却された。

 飛山城は、鬼怒川左岸の比高25m程の段丘端に築かれた城で、この手の崖端城としてはかなり規模の大きな城である。そして、縄張りも極めて特異である。直線的な堀と土塁を主体とし、外周に幾重にも堀を巡らした梯郭式の縄張りは岡本城などと類似しているが、直線的な堀の数ヶ所に出枡形状の櫓台を張り出して局所的に横矢を掛ける構造で、近世平城ではない中世城郭では他に類例が少ない。特に最外周の6号堀には合計5ヶ所の櫓台の張出しを設けており、ひたすら一直線に伸びる長大な堀と相まって、中世城郭というより古代城柵の様な印象である。その一方で堀も土塁も中程度の規模しかなく、張り出した櫓台にどれほどの防御力があったのかはやや疑問も感じる。一方、ニノ郭(現地表記では曲輪Ⅳ)南辺は比較的大きな横矢掛かりが設けられ、堀底には畝が構築されていて、厳重な防御線を構築していたことがわかる。この他、三ノ郭(現地表記では曲輪Ⅵ)の東側の虎口には角馬出が設けられているのも特徴的である。東側や内郭の堀・土塁は復元整備されたものである為、あまりに形が整いすぎていて興を削ぐが、南側の堀と土塁は古い形状のまま残っており、見応えがある。さすがは栃木県内でも有数の国指定史跡の城だけのことはある。尚、鬼怒川の河川敷から見る段丘上の飛山城は、見るからに要塞の如くそびえる屈指の要害である。
ニノ郭の横矢掛かり→DSC01624.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.55653&lon=139.965593&z=16&did=std&crs=1
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足利氏館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01506.JPG←水堀と土塁
(2006年11月訪城)
 足利氏館は、源姓足利氏の居館である。八幡太郎源義家の孫義康が足利荘に入部して足利氏を称し、その子義兼が文治年間(1185~90年)に築いたとされる。義兼は、源頼朝の挙兵に参陣し、その後、頼朝の妻北条政子の妹時子を妻とした関係で、頼朝とは極めて近い間柄で、幕政に重きを為した。義兼は1195年に出家し、居館の一隅に持仏堂を建立した。これが後に鑁阿寺となった。なお足利氏は、源氏3代(頼朝・頼家・実朝)が滅んで後も、執権北条氏と良好な関係を保ってその政権を補佐し、代々北条一族と通婚して幕府御家人として最大の勢力を維持した。高氏(後の尊氏)の時に後醍醐天皇の綸旨を戴いて倒幕に挙兵し、その後室町幕府を開府したことは世人のよく知るところである。

 足利氏館は、現在鑁阿寺の境内となっている。よくある方形単郭居館であるが、長方形ではなくややひしゃげた四角形をしている。昨年本堂が国宝に指定された寺の周囲には土塁と水堀が残り、鎌倉期の豪族の居館の雰囲気をよく残している。なお、経堂には尊氏に始まる足利将軍歴代の木像があり、正月などの期間限定で公開されている。但し、京都の等持院にある勇名な木像とはだいぶ趣が異なり、尊氏像などは鷹揚さはどこにも感じられない、細長のしかめっ面である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index_.html?lat=36.337517&lon=139.452159&z=16&did=std&crs=1
タグ:居館
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足利城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01467.JPG←主郭背後の堀切
(2006年11月訪城)
 足利城は、両崖山城とも言い、室町後期から戦国時代にかけて足利を本拠とした足利長尾氏の居城である。元々の創築は古く、1054年に藤原秀郷の後裔足利成行が足利荘に入部して築いたと言われる。この成行の系統を、世に藤姓足利氏と言い、源姓足利氏の台頭以前はこの地に大きな勢力を有していた。藤姓足利氏は、以後成綱・家綱・俊綱・忠綱と続いたが、源平合戦の際に忠綱は平家側に付いて敗北滅亡し、足利荘は源姓足利氏の有に帰し、足利城は一旦廃城となった。
 時代は下って室町後期の1454年、鎌倉公方足利成氏が対立する関東管領上杉憲忠を誅殺し、享徳の大乱が勃発した。出陣中に鎌倉を奪われた成氏は古河に奔って古河公方となり、以後利根川を境にして古河公方勢力と上杉氏勢力が関東を二分して争った。その最中の1466年、関東管領山内上杉氏は重臣の長尾景人を足利荘の代官として入部させ、景人は勧農城を築いて居城とした。これが足利長尾氏で、勧農城は古河公方方に対する上杉方の軍事駐屯基地として機能した。景人の子景長の時、廃城となっていた足利城を新たに取り立てて、足利長尾氏の居城とした。長尾氏は山内上杉氏の重臣であった為、当初は上杉氏の居城上野平井城近くに居館を構え、足利城には城代を置いていたが、1546年の河越夜戦で小田原北条氏が山内上杉氏を駆逐して関東南半の覇権を握ると、長尾政長(後、景長に改名)は北条氏に屈して足利城に本拠を移した。1560年に越後の上杉謙信(長尾景虎)が関東に出陣すると、同族であった政長は謙信の元に参陣し、戦功によって館林城女渕城を与えられ、館林に居城を移した。1566年、北条氏の北関東への勢力伸長に伴って景長は再び北条氏に帰属した。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が崩壊すると、翌69年、景長は隣接する上野金山城主由良成繁と共に越相同盟の交渉を仲介した。同年、景長が没して、養子に迎えていた由良成繁の子顕長が家督を継ぐと、足利長尾氏と由良氏は強固に結ばれ、一体となって行動する様になった。1571年、越相同盟が破棄されると再び北関東で北条・上杉両勢力の抗争が行われるようになったが、北条氏の優勢で事態は推移し、長尾・由良両氏は反北条方との最前線に位置した。1578年に上杉謙信が急死し、御館の乱が勃発して北条氏政の弟上杉景虎が敗死すると、北関東の情勢は再び流動化し、甲越同盟の締結と甲相同盟の破棄で、武田勝頼や佐竹義重の侵攻も受けるようになった。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、わずか3ヶ月後にその信長も本能寺で横死すると、天正壬午の乱を通して北条氏は徳川家康と同盟を結び、北条氏は圧倒的な実力を以って北関東への攻略戦を開始した。しかし翌83年、由良国繁・長尾顕長兄弟が突如北条方から佐竹方に離反して北条方の小泉城を攻めた。一説には、上野の重要拠点厩橋城を攻略した北条氏直の元に由良国繁・長尾顕長兄弟が出仕した際、氏直が両者本城の借用を申し入れたところ、家臣たちが所領没収と思い込んで本城に戻って北条方から離反したとも言う。これに対応するため北条勢は金山城・館林城を攻撃した。これを契機として、翌84年、下野南部で北条軍と佐竹・宇都宮連合軍が対陣し、沼尻合戦が生起した。この合戦については、『戦国時代の終焉』(中公新書)に詳しい。3ヶ月の対陣の後、引き分けに終わったが、戦後処理の中で北条勢は金山城・館林城を攻め落として接収し、降伏した由良国繁は桐生城に、長尾顕長は足利城に移された。これより顕長は、隣接する反北条方の佐野領攻略を命じられ、1585年の須花坂合戦では唐沢山城主佐野宗綱を敗死させた。1588年8月、長尾顕長は再び北条氏と事を構え、翌89年正月に足利城攻防戦が行われ、翌月落城した。この時点で足利城は破却され、顕長は小田原に在府となった。またこの事態の余波で、由良国繁も小田原に在府となり、桐生城も破却された。1590年の小田原の役の際には、長尾顕長は小田原城に籠城して北条氏と共に滅亡した。

 足利城は、標高251m、比高211mの両崖山に築かれた山城である。「両崖」とは「要害」の転訛であろう。戦国末期まで使用された城であるが、あくまで詰城の位置付けであったらしく、山頂の狭小な主郭を中心に、三方の尾根に曲輪群を配し、要所を比較的小規模な堀切で分断しただけの旧態依然とした縄張りである。虎口にも特に技巧的な部分は見られず、小なりとは言え戦国大名の本城としては随分小振りな造りである。これは戦国末期に足利城を居城とした時には逼塞を余儀なくされており、大々的な城普請の余力がなかったからかも知れない。尚、城へはハイキングコースが整備され、主郭とその周囲の腰曲輪には神社が置かれているため、やや改変を受けている。その為、主郭背後のハイキングコース沿いに小規模な石垣が確認できるが、遺構とは俄に断じ難い。全体に受ける印象としては、どちらかと言うとハイキング気分で登った方が良い城である。
神社の置かれた主郭→DSC01456.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.353507&lon=139.447943&z=16&did=std&crs=1
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