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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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石下城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0808.JPG←西側上段の横堀
 石下城は、関東の南北朝史に名を刻む城である。一説には、康平年間(1058~64年)に石下七郎右衛門によって築かれたと言われている。この城が明確に姿を現すのは、南北朝の抗争の中である。吉野に逃れて南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、北畠顕家、新田義貞ら南朝の柱石たる諸将が相次いで討死し、南朝勢力の再建が急務となった。ここで南朝は、1338年9月、重臣の北畠親房(顕家の父)を常陸に下し、常陸南朝方の結集を図った。神宮寺城から阿波崎城を経由して小田治久の小田城に移った親房は、ここで神皇正統記を著して立場曖昧な武士たちの説得を図ると共に、一族の春日顕国に下野まで侵攻させた。顕国は1339年、北朝方の八木岡城・益子城を攻め落とし、西明寺城を下野攻略の拠点に据えた。そして顕国は勢いに乗って、1340年8月、芳賀氏の飛山城の管理下にあった石下城を攻撃して落城させ、守備の兵は全員討死し、石下城はそのまま廃城になったと言う。翌41年8月には飛山城まで陥落させるなど、一時南朝方は猛威を奮った。しかし室町幕府が派遣した高師冬(将軍執事、高師直の従兄弟)が反撃に転じると南朝方も徐々に逼塞を余儀なくされ、1343年、常陸最後の拠点大宝両城を陥とされた親房は吉野に戻り、顕国は捕らえられて殺された。その後の歴史は不明だが、戦国期に市塙十郎政利の4男貞良が石下越後守と称して石下峠三百丁を領したとの記述が『益子系図』にあり、市塙氏が石下城を使用した可能性が指摘されている。

 石下城は、国道123号線の石下口付近に突き出た標高170m、比高70mの山上に築かれている。基本的には単郭の城で、主郭は縦長の台形状を呈し、西側斜面に二重横堀を穿っている。上段の横堀は北面では腰曲輪になり、北東角には腰曲輪に繋がる虎口郭を備えている。またこの横堀の南西端は竪堀状の城道となって落ちている。竪堀の上には雨溜まりの様な窪みも見られる。一方、主郭の南東角には段曲輪群が築かれ、東斜面にも細い帯曲輪が一段築かれている。この他、北東にやや離れた丘陵地は、自然地形の広い平場で、外周に帯曲輪らしい段が散見されることから、外郭として使われていた可能性がある。城の形態としては、南北朝期の素朴な形態を残していると思われる一方、主郭は思ったより広く、ある程度の兵数が籠もれるレベルの広さがあり、南朝方の攻撃に備えて街道筋を守備していたものと推測される。南北朝時代の歴史を伝える遺構として貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.520001/140.127718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小宅城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0653.JPG←ダイナミックな横矢掛かりの空堀
 小宅城は、『日本城郭大系』によれば、芳賀氏の家臣小宅兵部左衛門高宗によって天文年間(1532~55年)に築城されたとされている。しかし小宅氏の系図には諸説あり、益子氏3代頼宗の子高勝が小宅郷を領して小宅を名乗ったとも、或いは芳賀氏11代高俊の3男高真が小宅郷を領して1294年に小宅城を築いたともされ、明確にできない(時代の異なる2系の小宅氏が存在していた可能性もある)。また廃城は、1597年の宇都宮氏改易の時で、時の城主は小宅高良と言われるので、いずれの説にしても小宅城が宇都宮氏勢力下の城であったことは間違いないだろう。

 小宅城は、国道123号線の北側の、比高15m程の丘陵南斜面に築かれている。遺構は山林内に完存している。ほぼ単郭の小規模な城であるが、大きな横矢掛かりの櫓台と空堀を持った城である。私は西側斜面からアプローチしたが、腰曲輪状の平場が散見される斜面を登っていくと、ダイナミックに横矢が掛かった空堀が眼前に現れる。主郭の切岸は堀の向こうにそびえ立っている。空堀は、南面以外を大きくコの字に囲んでおり、北面では櫓台が張出している。空堀の南西端にも小さな横矢のクランクがあり、外側には物見台と思われる小丘がある。この小丘を古墳と解する意見もあるが、それにしてはサイズが小さすぎるので、塚だったものを物見台に転用したと推測される。この南西端の堀の屈曲部から、城内に通じる虎口が築かれている。主郭は斜面上に築かれているため、内部は大きな段差で上下2段に分かれている。高低差が大きすぎるので、1つの曲輪が2段になっていると言うよりも、上下2段の別の曲輪(主郭と副郭)と見るべきだろう。主郭内北端の張出し櫓台は文字通りそびえ立っており、その脇には謎のL字型の空堀と物見台が付随している。これは他に類例のない遺構で、どのような意図で城内への防御を固めていたのか判断しかねる。この他、東側に外郭と思われる空堀で囲まれた空間があるが、後世の改変の可能性があり、遺構かどうかは微妙である。小さいが素晴らしい遺構なので、永く後世に残してもらいたいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.510705/140.119050/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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館宮坂城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0492.JPG←Ⅲ郭外周の横堀
 館宮坂城は、館坂城とも言い、伝承では大沢和泉守が築城したと言う。伝承の真偽やその他の歴史は不明であるが、いずれにしても益子氏の重臣の城であったものだろう。尚、城の南西に鎮座している北中八幡宮の社伝では、「平安末期の治承年間(1177~80年)に益子城主益子因幡守之宗の子孫石岡三郎右衛門尉が平家征討から帰還した後、石清水八幡宮の御分霊を勧進して建立した」とされており、北中八幡宮が位置的に館宮坂城の裏鬼門に当たることから、この益子氏庶流の石岡氏の居城であったとも考えられる。

 館宮坂城は、国道123号線と芳賀広域農道が交差する北中交差点の北東にある、標高122m、比高30~40m程の丘陵地に築かれている。なだらかな丘陵地全体を城域に取り込んだ広大な城であるが、藪が多いせいもあって何となく掴み所がない。よく参考にさせていただいているアオさんのHP『北緯36度線付近の中世城郭』の呼称に従うと、丘陵南西端から北東に向かって順に、Ⅲ郭・Ⅰ郭・Ⅱ郭を連ね、東に張り出したⅣ郭、更にⅠ郭の南東斜面に広がったⅤ郭で構成されている。Ⅲ郭・Ⅰ郭・Ⅱ郭の西側外周は横堀で防御しているが、この外周横堀は浅く、ほとんど腰曲輪に近い感じである。Ⅲ郭・Ⅰ郭・Ⅱ郭はそれぞれ外周横堀に接続した堀切で区画されているが、これもかなり浅く、おかげで架かっている土橋が辛うじて分かる程度になってしまっている。またⅠ郭~Ⅲ郭の外周の切岸もわずか1m程しかない。一方で、東出曲輪と言うべきⅣ郭だけは、北・東。南の三面外周に土塁と横堀がしっかりと構築されており、他の曲輪より堀幅も広く、切岸の高さもあるが、それでも高さ2m程である。その他、Ⅴ郭はダラっと広がった緩斜面の腰曲輪で、外縁部に何段かに分かれた腰曲輪群を伴っている。現在畑になっている南斜面にも段が付いているので、ここも城域であったかもしれない。いずれにしても、ダラダラとした緩斜面に築かれた取りとめのない城と言う印象で、城域は広いが普請の規模がささやかでパッとしない。そのため、どこまでが城域であったのかも、明確ではない。
 尚、館宮坂城が築かれた丘陵は、そのまま北東にやや離れた円通寺裏まで伸びている。円通寺裏の丘陵上には前方後円墳があり、周りに周濠だけでない地形も見られることから、もしかしたら古墳を物見の外郭として利用していたかもしれない。
Ⅱ郭北側の堀切と土橋→IMG_0559.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.480949/140.099802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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七井城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0448.JPG←北遺構の土塁
 七井城は、益子氏の支城である。益子氏の家臣七井勝忠が1576年に築城し、1586年に主家宇都宮氏と戦い、敗れて廃城になったと言う。

 七井城は、小貝川の支流大羽川と小宅川に挟まれた、比高10m程の低台地上に築かれている。城域は市街化が進み、多くの改変を受けているので、往時の縄張りを推測することは極めて難しい。しかし宅地の合間を縫うように北・南・西の3ヶ所、土塁と空堀が残存している。北遺構は駐車場裏に立派な土塁が20m以上、姿を表している。南遺構は、かなり浅くなっているがクランクした空堀と土塁が綺麗に整備されて残っている。西遺構は一直線状の空堀・土塁で、空堀は深さ3m・幅7m程の規模がある。台地上のやや西寄りに広い空き地があるが、ここは周囲の道路面よりやや高い位置にあるが、主郭の跡であろうか?いずれにしても、既に縄張り不明の城である。南遺構はせっかく綺麗に整備されているので、ここに城址碑や解説板があればいいのにと感じた。
南遺構の空堀・土塁→IMG_0471.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.493509/140.098472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小貫城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0389.JPG←主郭背後の土塁と堀切
 小貫城は、芳賀入道禅可の次男駿河守高家が築城したと言われている。築城年は不明とされているが、芳賀禅可は南北朝期に宇都宮氏の重臣として勇名を馳せ、将軍足利尊氏が弟直義を破った薩埵山合戦や、鎌倉公方足利基氏に抗戦した苦林野合戦で力戦している武将であるので、小貫城築城は南北朝期であろうと推測される。時代は下って1507年、小貫信高が城主の時、笠間城主笠間右京綱親に攻められ、一旦は宇都宮・芳賀両氏の救援を得て撃退したものの、後に綱親に再度攻撃を受け、信高は討死し小貫城は廃城になったと言う。

 小貫城は、逆川西岸に山稜裾野が張り出した台地上に築かれている。城域の東麓部と南側は民家や畑に変貌しているが、城の主要部は山林となっており、遺構が良く残っている。綺麗に作成され、しっかりした切岸で区画された曲輪群で構成されている。上段の主郭は、背後をクランク状の屈曲を持った土塁と中規模の堀切で防御し、前面も横矢掛かりを持った切岸で区画している。居住性のある広い曲輪であるので、城主の主殿があったと考えられる。主郭の南東部には竪堀状の窪地空間があるが、後世の改変でなく往時の遺構であるとすれば、大手の虎口跡であろうか。主郭の前面には二ノ郭があり、綺麗に整備された空地になっているが、二ノ郭の前面にも数段の腰曲輪が築かれている。一方、主郭後部には横長の三ノ郭があり、ここも背後に土塁と堀切を築いて防御しているが、横矢掛かりのない一直線状の土塁と堀切で、規模も主郭のものよりかなり小さい。この他、主郭背後の堀切の北端部には、北の沢筋(殿入沢と言うらしい)方面からの城道が通じていたらしく(往時は沢に木橋が架かっていたのだろう。現在も小橋が掛かっている)、堀切の下に内枡形の虎口が築かれている。基本的には居住性を持った居館を要害化した城で、よくその形態を残している。尚、北の民家脇から城に登るので、民家の方に立入りのお断りをする必要がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.429104/140.185032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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飯村根古屋城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0304.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
 飯村根古屋城は、益子氏の家臣飯村氏の初期の居城である。1392年に飯村備前守則宗が当主の時、新たに飯村城を築いて居城を移したと伝えられている。しかし現在見られる遺構は戦国期のものと考えられ、飯村城へ移城後も有事の際の詰城として存続していたのではないかと思われる。

 飯村根古屋城は、飯村城から真東に750m程の位置にある比高35m程の丘陵先端部に築かれている。民家の真裏の山で、入山にはこの民家の方の了解をもらう必要がある。私が訪城した時は最初留守だったが、たまたま小母さんが帰宅したので、了解をもらって登城した。登り道を登っていくと、数段の腰曲輪群を経由して主郭手前まで達する。途中、城道は土塁で側方を画し、上方には塁線と櫓台があってそこから監視されている。この櫓台は、主郭周囲に廻らされた横堀外周の土塁上にある。主郭は急峻な切岸で囲まれ、南側に横堀を穿って防御している。主郭の虎口は、ちょうど前述の櫓台から横堀を挟んだ向かいにあり、位置関係から考えて主郭虎口と櫓台は木橋で連結していた可能性がある。また主郭横堀はこの櫓台を巻くように屈曲して横矢掛かりを設けている。主郭は後部1/3を土塁で囲んでおり、特に背面は高土塁で、その背後には稜線を分断する二重堀切が穿たれている。二重堀切の北側は急な斜面だが、南側は腰曲輪が築かれており、武者溜まり的な機能を有していたように思われる。この他、主郭の西側から南側にかけて数段の腰曲輪群を築いている。藪もあまりひどくなく、遺構もよく残っているので、規模は比較的小さいが見応えのある城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.474203/140.179260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯村城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0236.JPG←唯一明確な遺構、空堀と土塁
 飯村城は、益子氏の家臣飯村氏の居城である。1392年、飯村備前守則宗が築城して根古屋城から居城を移したと言われ、戦国末期に益子氏が主家宇都宮氏に反旗を翻して攻め滅ぼされた際、飯村城は廃城になったと伝えられる。

 飯村城は、逆川曲流部に張り出した比高15m程の台地上に築かれている。この台地上は宅地化などで大きく改変されており、城郭遺構はごくごく断片的にしか残っておらず、往時の縄張りを把握することも困難である。古い航空写真と照合すると、特別養護老人ホームが現在建っている部分が城内で一番高い位置に当たり、主郭であったと思われる。以前はここには学校があった様で、おそらく主郭の形状に合わせて校地を割り振っていたらしい。この主郭の東側には一段低く大楽寺や畑・ゲートボール場のある平場があり、腰曲輪であったと推測される。そのさらに東に一段低く民家があるが、ここがニノ郭であった様である。前述のゲートボール場から民家裏に回ると、唯一の明確な遺構である空堀と土塁が確認できる。またここには4基の五輪塔が建っている。この他、主郭の西側斜面にも段々の平場が見られ、おそらく往時の腰曲輪群であったと推測される。かなり遺構が湮滅してしまっているのが残念である。
西斜面の腰曲輪らしい段→IMG_0217.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.474220/140.170612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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木幡城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0156.JPG←二ノ郭外周の空堀
 木幡城は、築城年代不明であるが、益子氏の家臣と推測される飯村内記の築城と伝えられている。戦国期には益子氏の支城であったとされ、北東1.6kmの位置には茂木氏の高岡城があり、境目の城として互いに対峙していたと推測されている。

 木幡城は、木幡集落の背後にある比高20m程の丘陵先端に築かれている。長円形に近い主郭の周囲に二ノ郭を環郭式に廻らしており、二ノ郭外周に空堀を巡らして台地基部と分断し、更に前面と右翼に腰曲輪を巡らした構造となっている。主郭と二ノ郭はいずれも藪が酷くてほとんど内部の確認ができない。そのため、主郭の北側は二ノ郭との間に空堀が穿たれているようだが、全く確認できなかった。二ノ郭外周の空堀は規模が大きい。空堀外周の土塁には、物見台と思われる小ピークが確認できる。二ノ郭の前面・右翼の腰曲輪群は、竹藪が伐採されてその姿を現しているが、重機で破壊的な伐採をしたようで、遺構の一部が破壊されてしまっている。かなり荒い整備の仕方で、城跡整備という感じではなく、今後の破壊が心配である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.499460/140.155098/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高岡城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0077.JPG←3郭のL字型の空堀
 高岡城は、茂木氏の支城である。詳細は不明であるが、一説には茂木氏の隠居城であったと言われているらしい。南西1.6kmの位置には益子氏の木幡城があり、境目の城として互いに対峙していたと推測されている。尚、『日本城郭大系』『栃木県の中世城館跡』では北高岡城と呼称されている。

 高岡城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。なだらかな丘陵地で、丘陵北西部は耕地化されているので、どこまでが城域であったのかは明確ではない。しかし畑が段々になっている部分もあり、外郭の曲輪群であった可能性はあるだろう。丘陵中央部に主郭があったと考えられ、西側には土塁を伴った腰曲輪が確認できるが、主郭内部は藪が酷く突入不能なので、主郭東辺部の遺構は未踏査である。主郭の周囲には派生する丘陵部に曲輪が置かれており、城歩きの大家余湖さんの表記に従うと、3郭(南西郭)の外周にしっかりとしたL字型の空堀と土塁、また4郭(南郭)には土橋の架かった堀切・土塁が確認できる。明確な遺構はこのぐらいである。この他、北西の日枝田ノ神神社は出城であったとも考えられ、南側に段状の堀切地形が確認できる。肝心の主郭部が踏査できないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.510843/140.166750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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城峰城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_09986.JPG←主郭北側の帯曲輪群
 城峰城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、時期不明であるが兵部卿和久某が築城したと言われ、南北朝期の1359年に結城氏と戦って敗れ廃城となったと言う。この伝承が確かだとすれば、南朝方(宮方)の城で、北朝方の下総結城氏に攻め落とされたということなのだろう。1359年といえば、将軍足利尊氏が没した翌年に当たり、2代将軍義詮が、尊氏の宥和政策から一転して南朝方に軍事攻撃を掛け始めた時であるので、そうした中央の情勢変化と連動していた戦いであった可能性もある。

 城峰城は、標高160m、比高60m程の山稜上に築かれている。南東麓の県道51号線脇は藪が伐採されて整備されているので、そこから直登するのが手っ取り早い。ここから登ると、南東の張り出した尾根の小ピークの先に僅かな浅い堀切があり、更に進むと南のピークに至る。明確な普請はされていないが、二ノ郭的な空間であったと思われる。ここから北に尾根を登っているクと、小規模な二重堀切があり、ここから主城域に入る。山頂に綺麗に削平された主郭を置き、周囲に数段の帯曲輪を廻らしただけの簡素な構造である。主郭北側には一段低い段があり、虎口郭であったと推測され、そのまま帯曲輪に接続している。帯曲輪群は北西方向に重点配置されていることから、北西の茂木城方面からの侵攻を想定して築かれたと推測される。小規模な砦だが、遺構は比較的明瞭で探索もしやすい。形態としては、伝承の通り南北朝時代の素朴な姿をそのまま留めていると思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.518190/140.210996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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平川城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6285.JPG←城跡に建つ工場
 平川城は、下野の戦国大名皆川氏の支城である。1435年に皆川氏秀が築いたと言われ、その後氏秀が父秀宗の跡を継いで皆川城主となると、次男成明を平川城主とした。氏秀の子宗成が皆川氏の当主であった1523年、宇都宮城主宇都宮忠綱は、鹿沼西部の加園城の渡辺氏・上南摩城の南摩氏を併呑し、その余勢をかって皆川領に大挙侵攻して、河原田合戦が生起した。皆川勢は必死の防戦に努め、当主宗成や平川城主の弟成明以下一族家臣の多数を失いつつ、辛くも宇都宮勢を撃退することに成功した。城主を失った平川城は、以後廃城になったと言う。
 平川城は、東武宇都宮線野州平川駅の北に位置する工場の敷地内にあった。現在はGKNドライブラインジャパンという工場であるが、昭和20年代前半の航空写真では、既に同じ規模の工場敷地に変貌してしまっている。従って、遺構は望むべくもない。工場南西の民家裏に土塁っぽいものが見られるが、遺構かどうかは全く判別不能である。尚、ここから南西にある工場敷地内の豊川稲荷神社に、城のことが記載されているらしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.404360/139.752381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大宮城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6243.JPG←南東部に残るL字型の土塁
 大宮城は、御城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承によれば、小山氏が築いた城とも、或いは大宮小太郎という武士が拠った城とも言われるが定かではない。
 大宮城は、栃木市街北東部に鎮座する大宮神社の南東一帯に築かれている。『栃木県の中世城館跡』によれば、御城と呼ばれる主郭を中心に、その南東に中城、北に北城と呼ばれる曲輪が隣接していたらしい。城域は現在では宅地化・耕地化が進んでいるため、遺構の残存状況はかなり断片的で、往時にどのような縄張りとなっていたのかはほとんど把握できない。しかしそれでも、大宮神社の南東にはL字状に空堀・土塁が残っている。またそこから更に南東の水路脇に、L字型の土塁が確認できる。いずれも、断片的とは言いながらも、想像よりも立派な規模のものである。南東のL字土塁は周りの水路が屈曲し、歩道も屈曲しているので、枡形虎口を形成していたものかもしれない。いずれにしても、歴史ともども謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.391371/139.759204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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石尊山新城東尾根遺構〔仮称〕(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5065.JPG←石尊山山頂の東にある第1堀切
 石尊山新城東尾根遺構〔仮称〕は、石尊山新城〔仮称〕から東に約900m離れた位置に存在する。石尊山の尾根上に堀切らしいものがあると言う情報は、山歩きをしている方のHPで拝見し、それを元に尾根筋を辿ってみた。その結果、合計3本の堀切と曲輪らしい平場が確認できた。石尊山の三角点(標高486.5m地点)のちょっと東の尾根上に中央に土橋を削り残した浅い堀切が2条穿たれ、その堀切付近に腰曲輪らしき平場が見られる。1条目(第1堀切)はわずかな堀切であるが土橋が明確である。2条目の堀切(第2堀切)はしっかり普請されており、土塁も伴っている。そこから更に東に進むと、その先のピーク手前のトレッキングコース北側に腰曲輪らしい平場が広がっており、一部に湧水らしいものも見られることから井戸曲輪であった可能性がある。更にピークの東にももう1条堀切(第3堀切)が穿たれている。確認できた遺構としては以上で、主峰である石尊山山頂には曲輪などの明確な遺構は確認できない。この東尾根遺構は、深高山から石尊山に至る尾根筋の連絡路を防衛する木戸遺構の様に推測される。また尾根の西端に位置する石尊山新城と関連した遺構であろうことも想像に難くない。

 さてここで問題になるのが、石尊山新城の築城主体は誰か?ということである。眼前に小俣城があることから、①小俣城の後方を防衛する小俣渋川氏の支城、②小俣城攻めのために小俣渋川氏の敵性勢力によって築かれた付城(向城)、の2説が考えられると思う。②の場合、小俣城では越後上杉氏の手勢(善氏ら)によって攻撃されたことが伝わっており、その合戦は2ヶ月近くに及んでいるらしいので、その時に上杉方によって築かれた可能性がある。戦国後期に小俣城主渋川義勝は、足利城主長尾政長の妹婿であり、足利長尾氏と密接に連携していたと考えられるので、東尾根遺構は小俣城を攻めた上杉勢が深高山方面からの縦走路を通った足利長尾氏による後詰を警戒して築いたものかもしれない。或いは一時期、小俣渋川氏が足利長尾氏と対立していた事もあったのであろうか。そうだとすると足利長尾氏による小俣城攻めの付城であった可能性も考えられる。
 いずれにしても、山麓から見ると石尊山新城は岩盤の絶壁上に聳えており、往時にそこに旗が林立する様はさぞかし威圧感があっただろうと想像される。
第2堀切→IMG_5072.JPG
IMG_5076.JPG←湧水のある平場
離れて存在する第3堀切→IMG_5085.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.406173/139.397900/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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石尊山新城〔仮称〕(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4966.JPG←二ノ郭の堀切
 石尊山新城〔仮称〕は、多分私が発見したことになる城である。足利市がまとめた『足利市歴史文化基本構想』の中の城館MAPに石尊山城の記載があるが、このMAPでは名草城のある山稜の少し南寄りのピーク上を石尊山城としている。しかし足利市で「石尊山」と言えば、普通は栃木百名山にも名を連ねる名峰のことであるので、MAPの記載が間違っているのだろう、この石尊山のどこかに城があるのではないか、と推測して探索した。その結果、登山道から少し逸れた、西に張り出した断崖上に城郭遺構が確認できた。ところが後日、足利市の市民資料室で遺跡地図を確認したところ、MAPは間違いではなく、名草城の南に紛れもない「石尊山城」が遺跡として記載されていることがわかった。この遺跡として認定されているのとは別の、ここでレポートする石尊山系に築かれている山城は、ネット上でもこの遺構に関する報告がないので、おそらく新発見になるのだと思う。名称が重複するので悩んだが、他に適当な名称も思い浮かばなかったので、ここでは石尊山の尾根筋西端に新発見した城を石尊山新城〔仮称〕として紹介する。

 石尊山新城は、標高約300mの断崖上に位置している。周囲を垂直絶壁で囲まれた峻険な城で、東の尾根筋以外に城に近づく方法はない。岩場を削り切った2本の堀切で区画され、先端の主郭と背後の二ノ郭、それと堀切に繋がる二ノ郭北側の帯曲輪から構成された小規模な城砦である。主郭先端は僅かに高くなっており、櫓があったらしい。二ノ郭は岩がゴロゴロしており、ほとんど居住性がない。二ノ郭北辺には帯曲輪に通じる虎口が確認できる。この城の眼前には小俣城が聳えており、小俣城と何らかの関係がある城砦であることが想定される。実は、この石尊山新城からかなり離れた石尊山東尾根上にも城郭関連遺構があり、その項の中で考究したいと思う。
主郭の堀切→IMG_4971.JPG
IMG_4978.JPG←主郭
帯曲輪から見た主郭堀切→IMG_5000.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.404308/139.387879/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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御所平城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4944.JPG←城のある台地の遠望
 御所平城は、歴史不詳の城である。足利市がまとめた『足利市歴史文化基本構想』の中の城館MAPに記載のある城で、広域MAPに大雑把にしか記載されていないので、正確な所在地は不明ながら、大まかな場所と付近の地勢から、推定地を割り出した。後日、足利市の市民資料室で遺跡地図を確認したところ、ドンピシャだったことが判明した。
 御所平城は、小俣川上流域の南岸に位置する、比高5m程の舌状台地に築かれている。台地上は一面の畑となっているので、地勢以外に遺構は確認できない(遺跡地図の解説には北側に土塁があると記載されているが、湮滅したのか確認できなかった)。背後の丘陵には瓢塚古墳があり、城の物見台として利用された可能性もあるだろう。詳細不明であるが、地勢はよく残っている城館である。
城跡の現況→IMG_4948.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.415066/139.399509/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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藤沢城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6577.JPG←姿を現した空堀の横矢掛かり
 以前に当ブログにおいて速報として紹介したが、5月にたまたま通りかかったところ、藤沢城の案内板が道路脇に出ていて、城址が綺麗に整備されていた。そこで再訪録を掲載する。

【小曾戸図書之助の事績について】
 小曾戸家に残る上杉謙信からの感状を元にした話が、解説板に詳述されている。以下はその要旨である。
 島津大隅守盛忠の6代の孫小曾戸丹後守親治は、壬生氏に逐われ、曽祖父忠久の縁を頼って佐野氏に助けを求め、不摩城を預けられていた。親治の2男は梅沢隼人正を名乗り、梅沢館を築いて佐野氏の部将として活躍し、後に不摩城の出城として永野川の対岸に藤沢城を築いて、その城主となった。唐沢山城主佐野泰綱の娘は藤沢城主小曾戸摂津守行家に嫁し、兄豊綱の後を継いだ甥昌綱を後見し、その子図書之助も佐野家当主の昌綱をよく助けた。1559年、小田原の北条氏政は唐沢山城攻略を企図して侵攻した。病床の昌綱から急報を受けた図書之助は、手勢を率いて唐沢山城に入り、一切の指揮を委ねられた。決死の覚悟で防戦に努めた図書之助の働きにより持ちこたえる間に、謙信が直率する上杉勢が来援し、勝機を逸した氏政は大中寺住職の仲介で佐野氏を通じ、謙信と和睦を結ぶことになった。和議の場には、主君佐野昌綱と共に小曾戸図書之助も出席し、図書之助は氏政から全軍の前で、その武勇を大いに讃えられたという。

【遺構の現況】
 遺構は、基本的に城の周囲の空堀だけであるが、幾重にもクランクした横矢掛かりが見られ、戦国後期の築城技術が垣間見られる。遊歩道が空堀に沿って敷設されており、遺構をよく確認することができる。外周の南西部は「矢場」とされ、眼下を睥睨する物見台となっている。主郭は削平が甘く、全体に緩く傾斜している。この城では面白いことに主郭背後には堀がなく、斜面が続いているだけの様である。堀は、主郭の背後以外の3面に穿たれて防御を固めているが、埋もれているせいかかなり浅くなっている。

 この様に、埋もれていた城やその歴史が整備されて、我々の前に姿を表してくれることは嬉しい限りである。整備に尽力されている地元の方々の努力には、感謝の念を禁じ得ない。
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樋口城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6183.JPG←主郭南西部の堀と土塁跡
 樋口城は、鎌倉前期の1222年に宇都宮氏の家臣樋口主計頭が築いたと伝えられている。『姿川村史』によれば、1574年に武田勝頼の軍勢が下野に侵攻した際、逆面周防守・今泉但馬守・犬飼能登守・樋口主計頭政時・政成らが金崎ヶ原の武田勢に夜討をかけ撤退させたとされ、この際に樋口氏は更に追撃したがその後帰城しなかったため、樋口城は廃城になったとされている。この甲斐武田氏による下野侵攻の記事は『下野國誌』にもあるらしいが、武田氏の下野侵攻についてはその他の歴史には一切現れておらず、甚だ疑問である。客観的に見て、武田氏が本当に宇都宮領まで進撃していたとすれば、当然途中の足利長尾氏・佐野氏・皆川氏などと交戦して城を攻めているはずであるが、それらが一切歴史に残っていない。またこの時期は長篠合戦の前年に当たり、北条氏政との甲相同盟復活により東への懸念がなくなった勝頼の目は、専ら西の織田・徳川領に向いており、6月には遠江の要衝高天神城をも攻略している。これらのことから、1574年の武田氏の下野侵攻は、誤伝であると判断するのが妥当であろう。尚、地元の伝承では、1597年の宇都宮氏改易の際に、樋口の領主から、後に残る家臣団で樋口城の遺領を配分せよとの沙汰があったと言うことで、「7人衆」と言われた家臣団が土地を分け持って今に至っているということである。

 樋口城は、姿川沿いの氾濫原とその支流の合の田川に挟まれた低台地上に築かれた平城である。おそらく方形単郭居館であったと思われるが、現在は宅地化されており、御城・中城の地名が残っている。かつての主郭の民家の南西部に僅かに土塁と堀が残っているが、草木で覆われているので確認が難しい。また周辺を探索したところ、かつての主郭の北東角と思われる付近の民家内に祠のある土盛りが確認できたので、おそらく隅櫓か、少なくとも土塁の跡と推測される。この他は改変が激しいので確証はないが、城の東を流れる合の田川がいかにも外堀という感じで流れており、城下集落を守る外堀として機能していたことが伺われる。尚、城のある低台地の南端には星宮神社が建っているが、高台になっており(古墳跡か?)、南方への物見台として活用されたことは想像に難くない。民有地なので史跡指定が難しいのだろうが、何とか史跡として残していってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.501633/139.838490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西方城(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02792.JPG←ニノ郭の虎口と土橋
(2007年2月、2010年1月訪城)
 西方城は、下野の名族宇都宮氏の庶流西方氏の歴代の居城である。西方氏は、宇都宮氏7代景綱の3男泰宗が武茂庄に入部して武茂氏を称し、武茂泰宗の子景泰が西方郷に分封されて西方氏を称した。西方城は、1293年にこの景泰が築いたと伝えられている。以後、西方氏代々の居城となり、宇都宮領西端の防衛拠点として壬生氏や皆川氏に対する境目の城となって機能した。その後の歴史は明証を欠くが、伝承では1587年、西方綱吉の時に城を落とされたと言う。この時期は小田原北条氏による下野侵攻が激しく、その脅威から宇都宮氏も平城の宇都宮城を家臣に任せ、要害性の高い山城の多気山城に居城を移したほどであったから、西方城も北条氏の後援を受けた皆川氏によって攻め落とされたのだろう。西方城の西隣りの山上には真名子城があり、1523年の河原田合戦以降、皆川氏の持ち城となっているから、皆川広照が真名子城を橋頭堡に攻略を遂げたものだろうか。

 西方城は、西方地区にある標高221.2m、比高140m程の城山に築かれている。東麓の長徳寺から登山道が整備されており、楽に訪城することができる。南北に伸びる尾根に沿って曲輪を連ねた連郭式を基本とし、周囲に腰曲輪を廻らし、東西に派生する尾根に出丸を築いた縄張りとなっている(但し、西尾根の出丸=「西の丸」は、ゴルフ場建設で湮滅している)。西の丸以外は遺構が完存し、一部藪が酷いものの、全体によく整備されていて遺構がよく確認できる。宇都宮氏が築いた山城としては屈指の規模と技巧的縄張りで、主要な曲輪は土塁を築き、掘切で分断され、虎口には土橋を架けた櫓門を設けて備えを厳重にしている。ニノ郭南側の虎口は枡形虎口となっており、下に伸びる登城道には上の櫓台から横矢を掛けている。また北の丸の北側には馬出しを設け、東麓からの登道は竪堀状通路となり、更に途中でクランクして侵入する敵への防御性を高めている。この他にも横堀・竪堀を巧みに組み合わせて防御性を高める工夫が随所に見られる。宇都宮氏の城の中でもかなり出色の遺構であり、多気山城同様に戦国末期に強固な同盟を結んでいた佐竹氏の支援の下に改修を受けた城かもしれない。
 尚、西方城の東の丸の先の小丘には、近世初頭に二条城が築かれており、元々西方城の出丸であった可能性があることを付記しておく。
ニノ郭南側の枡形虎口→DSC02825.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.472944,139.719465&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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竜花館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0829.JPG←水田脇の城址碑
 竜花館は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の一族が築いたとされる居館である。構築年代は不明だが、金丸玄蕃頭が築いたと言われ、「竜花(りゅうげ)」は竜害=要害の転訛である。金丸氏初代資国が築いた根小屋館からわずか300m程しか離れていない。『栃木県の中世城館跡』では「不整楕円形」の塁濠を持っていたとされ、実際に古い航空写真を見ると西に向かってすぼまった形で、北東部が円弧を描いた、台形と楕円の中間のような形状の単郭居館であったらしい。しかし現在は耕地化で遺構は完全に湮滅している。水田周辺に、一部土盛りや溝状の地形が見られるが、位置的にも遺構かどうかは甚だ疑問である。唯一、「龍華城址」と刻まれた石碑だけが、歴史を明確に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.862609,140.093322&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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根小屋館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0825.JPG←北側の土塁
 根小屋館は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の居館と伝えられている。正平年間(1346~70年)に那須資藤の次男資国が金丸の地を与えられて金丸肥前守と称し、根小屋館を築いて居館とした。その後、応永年間(1394~1428年)に大関氏が根小屋館の北方に白旗城を築いて居城を移すと、金丸氏は亀山の地を与えられて要害を築き(金丸氏要害)、居城を移したと言う。
 根小屋館は、白旗城の南方650m程の至近にある平地の城館である。高度成長期の航空写真を見ると南北に長い長方形で、南北2郭で構成された複郭の方形居館であったらしい。現在は耕地化で半分以上が破壊され、南北に離れてある民家の裏に土塁の一部が残存している。特に北側の民家裏の土塁はよく残っており、見応えがある。水口館などもそうだが、大田原では平地の城館が水田の只中に一部とはいえ奇跡的に残っているのが、本当にありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.864515,140.09609&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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白旗城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0750.JPG←主郭背後の掘切
 白旗城は、那須七騎の一つ大関氏の黒羽城以前の居城である。応永年間(1394~1428年)に大関増清が築いて、山田城から移り住んだと言われている。その後、数代にわたる居城となったが、大関増次は1542年に大田原資清と争い、資清に白旗城を急襲されて攻め落とされ、増次は逃れて石井沢で自刃した。その後、山田城に居た父宗増は大田原氏と和睦し、資清の嫡男高増を跡継ぎに迎えた。高増は白旗城主となったが、1576年により堅固な城を求めて黒羽城を築いて、居城を移した。

 白旗城は、湯坂川の東岸を南北に伸びる、比高20m程の低丘陵先端部に築かれた城である。直線的に配置された曲輪を堀切で分断しており、比較的単純な縄張りとなっている。城の先端付近は薬師堂や墓地などで改変されているが、曲輪の形状をよく残しており、腰曲輪も明瞭である。薬師堂背後の高台には義経塚という塚があるらしいが、藪がひどく形状がよくわからない。この高台の裏には掘切があり、その後ろが三ノ郭となる。三ノ郭は先端部に土塁を築いた方形の曲輪で、ややはっきりしないが北西端に内枡形の虎口らしい跡が残っている。この虎口が開いているのが主郭との間の掘切である。主郭もほぼ方形の曲輪で、愛宕神社が祀られている。主郭背後には隅櫓台を備えた土塁があり、その裏にニノ郭との間の堀切が穿たれている。この掘切は、東麓まで竪堀状の城道となって降っており、その側方の腰曲輪に櫓台が築かれて、登城道を防御している。二ノ郭は白旗城で最も広い曲輪で、中央付近に浅い空堀があって南北2郭に分けられている。ニノ郭東側の塁線は大きく内側に歪んでおり、下方に湾曲した横堀があって、大きな横矢が掛かっている。ニノ郭の先端と後端には低土塁が築かれ、ニノ郭背後の掘切は相横矢が掛けられている。先端の曲輪から二ノ郭まで、腰曲輪が延々と伸びており、特に二ノ郭東側は前述の横矢掛かりや櫓台を備え、防備が最も厳重である。白旗城は、遺構はよく残っているが、全体に未整備で藪が多く、特に二ノ郭は藪が酷い。もう少し整備されていると良いのだが。
二ノ郭東側の横堀→IMG_0812.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.870798,140.096219&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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荒井館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0694.JPG←南東部の土塁
 荒井館は、荒井志摩守の居館であったとも、或いは水口館以前に大田原氏が築いた居館とも言われている。水口館の北方僅か400m弱の位置にある。東側に向けてすぼまった形の四角形の郭を持つ居館であったが、現在は耕地化で館の西半分は完全に湮滅し、南東部に土塁とその東側に低地の畑となった堀跡が残っている。また僅かではあるが北辺の土塁の東側半分も残っている。水口館は市の指定史跡となっているが、この荒井館は史跡には指定されていない。このままでは全壊の可能性もあり、何とか保存の手立てを講じてほしいものだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.886434,140.035429&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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水口館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0678.JPG←土塁
 水口館は、大田原城築城以前の大田原氏の居館である。大田原氏は武蔵七党丹党の出と言われ、1494年に康清がこの地に移り住んで大俵氏(後に大田原氏)を称し、水口館を築いて居館とした。大田原氏は那須氏に仕え、主家の分裂抗争の中で筆頭重臣にのし上がった。1518年、大田原資清は、白旗城主大関宗増・福原城福原資安との抗争に敗れ、一旦は越前の永平寺に出家隠棲した。その為水口館も一時廃館となった。暫く後、永平寺を訪れた越前の戦国大名朝倉孝景と意気投合し、その支援を得て下野に帰国した。そして朝倉氏の支援の下、1542年に大関増次を白旗城に攻め滅ぼし、還俗して再び水口館を居館とした。しかし1545年、大田原城を築いて移り、水口館は廃された。

 水口館は、水田地帯の只中に土塁と堀跡が残っている。土塁は南半分が湮滅し、北半分だけ残っているが、高さ4~5m程もあり中々規模が大きい。また北東部は鬼門除けの入り隅となっている。外周を一段低い水田が取り巻いており、堀跡であることが明瞭である。堀の外側にも僅かに土塁跡が散見される。大田原市内の居館は皆そうだが、水田地帯の中でよくこれだけの遺構が破壊されずに残ったものだと、感心せずにはおれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.883156,140.036073&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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沢村城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0586.JPG←主郭~ニノ郭掘切の横矢掛かり
 沢村城は、那須十氏の一つ沢村氏の居城である。那須氏は源平争乱の際、11人の兄弟の内、太郎光隆をはじめ上から9人は平家に味方し、十郎為隆は屋島の戦いで扇を射よとの命に従わず義経の怒りに触れ、末子の与一宗隆が扇を射て武功を挙げて那須氏の家督を継ぐことになった。そして与一の10人の兄は、那須各地に分知されて那須十氏となって宗家を支えた。沢村氏は与一の兄、七郎満隆に始まる系統である。沢村郷を与えられた満隆は、1187年に沢村城を築いたと言われている。沢村城の南方2kmの位置に九郎朝隆が築いた稗田城があり、両城呼応して塩谷氏に対する前線基地となった。室町中期には、那須本家の資重が沢村氏に入嗣して沢村城主となった。資重が善政を施して声望が上がると、これを妬んだ兄の福原城主那須資之と不和となった。1414年、資之は妻の父上杉禅秀に唆されて、資重の沢村城を攻撃した。資重は興野館に退き、後に稲積城を修築して移り、更に1418年に烏山城を築いて居城を移した(那須氏の分裂)。そこで資之は、孫の須藤五郎を沢村城に入れて沢村氏を名乗らせたと言う。その後の沢村城の歴史は不明である。

 沢村城は、箒川南岸にそびえる比高50m程の丘陵上に築かれている。北側は箒川に臨む断崖となっており、防御の主体は南の斜面に対して構築されている。那須氏の城に多い、直線連郭式を基本形とした縄張りで、西から順に北三ノ郭・主郭・ニノ郭・三ノ郭・南中郭がそれぞれ掘切で隔てられて構築され、本丸外周には更に北ニノ郭が取り巻いている。更に主郭から二ノ郭までの南側には掘切と繋がる形で横堀が廻らされ、更に南側下方の斜面にも横堀による外郭線が構築されている。これらの掘切・横堀のラインは、要所で屈曲し、上方の櫓台から横矢を掛ける技巧的構造があちこちで見られる。こうした特徴からすると、戦国後期まで使用されたと思われる。主郭には大型の櫓台が築かれており、小型の天守程度の規模の建物があったと考えられる。主郭には2つの虎口があり、東虎口からニノ郭間の連絡は、どうも木橋であったらしい。一方、南虎口には土橋が築かれている。この他、ニノ郭北側の断崖沿いには、外に張出した物見台がある。これは自然地形をそのまま利用したものだろう。沢村城は、非常に良好に遺構が残っており見応えがあるが、主郭・北ニノ郭以外は藪が多く、特にニノ郭・三ノ郭は密生していてほとんどまともに遺構の確認をすることができない。折角の遺構であり、石碑なども立てられているので、城址公園として整備してくれるといいのだが。
北ニノ郭~北三ノ郭掘切の横矢→IMG_0531.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.819558,139.968309&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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御古屋敷(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0467.JPG←屋敷跡付近の現況
 御古屋敷は、那須氏の庶流福原氏が築いた居館である。福原資孝は、1563年、同じ那須一族の佐久山氏を攻めて佐久山城から逐い落とし、佐久山城は廃城となった。1590年、福原資孝の子資保は、大田原氏・大関氏等と共に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され、新たに佐久山四ツ谷に御古屋敷を築いて、片府田城から居城を移した。福原氏は江戸時代に入っても交代寄合旗本として存続し、1702年に古の佐久山城二ノ郭に陣屋を築いて移り住み、幕末まで続いた。
 御古屋敷は、佐久山川南岸の段丘上に築かれた居館である。佐久山城より東に800m程離れた位置にあるが、現在は推定地とされる場所は民家脇の畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。『那須の戦国時代』には、西側の土塁の一部とされる残存遺構の写真が載っているが、畑中の畦がそれであろうか?この推定地より150m程西側には、台地の縁を流れる水路があり、こちらの方が往時の堀跡らしい雰囲気を湛えているが、遺構かどうかは不明である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.807429,140.015109&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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武茂城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSC02658.JPG←ニノ郭から横堀への横矢掛かり
(2007年1月訪城)
 武茂城は、下野の名族宇都宮氏の庶流武茂氏の歴代の居城である。武茂氏は、正応永仁の頃(1288~99年)に宇都宮氏7代景綱の3男泰宗が武茂庄10余郷に分封されて武茂氏を称したことに始まり、武茂城もこの時築かれたと言われている。武茂氏は、庶家の多い宇都宮一門でも有力な支族で、6代持綱は1407年、宇都宮宗家に世子がなかったため、宗家を継いで宇都宮氏13代当主となり、このため武茂氏は一時断絶した。後1506年に持綱の曽孫正綱が武茂氏を再興し、その正綱も16代当主として宇都宮宗家を継いだので、正綱の3男兼綱が武茂氏を継いだ。戦国後期に入ると勢力を拡張した佐竹氏の下野進出によって、武茂氏はその麾下に入り、那須・佐竹の抗争では武茂氏は重要な役割を果たした。1599年に武茂豊綱は那須資晴との内通を疑われ、常陸大賀村に移され、武茂城には佐竹氏の家臣太田五郎左衛門が入城した。関ヶ原合戦後の1602年、佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、武茂・太田両氏も秋田に移り、武茂城は廃城となった。

 武茂城は、武茂氏の菩提寺である乾徳寺を挟んで、その西と東に張り出した丘陵上に築かれている。西側が本城で、東側が東城と呼ばれる出城となっている。谷戸を挟んで並ぶ2つの城砦が一つの城として機能する点で、松野北城松野南城とよく似ている。武茂城の本城は、山頂の主郭までの斜面上に曲輪を段々に築いた梯郭式の縄張りを基本形としている。最上部に櫓台を有した主郭を置き、その南に切岸のみで区画されてニノ郭が配され、掘切を介して三ノ郭が南に広がっている。三ノ郭の前面にも3段程の腰曲輪があり、神社などが建てられている。主郭~三ノ郭の側方にも腰曲輪が廻らされ、特に主郭とニノ郭の東側では横堀となって主郭背後の堀切に接続し、ニノ郭塁線上から横堀に対して横矢が掛けられている。主郭背後も中規模の掘切が穿たれ、西側は竪堀となって下り、腰曲輪に接続している。主郭の後ろにも北郭が築かれ、ここにも背後に掘切が穿たれて城域が終わっている。一方、東城は突入を試みたものの倒竹地獄と夕闇で断念した。武茂城は、中世城郭の特徴をよく残しており、登道が整備されているので訪城も楽である。
主郭背後の堀切→DSC02666.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.741412,140.170333&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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塚田館(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9464.JPG←館跡の石碑の建つ氷川神社
 塚田館は、下野の名族小山氏の庶流、塚田氏の居館である。小山氏4代長村の3男宗光がこの地に分封されて、塚崎と田間を領して塚田氏を称したと言われている。南北朝時代の1340年、小山氏政は北朝方につき、南朝方となった当主朝氏と対立して、塚田氏の塚田館に入ったと考えられている。戦国時代に入ると、10代塚田義智は天文年間(1532~55年)の初めに宗家小山高朝の居城祇園城内に一郭を築いて与えられ(塚田郭)、移り住んだ。戦国後期になると、小田原北条氏の勢威が下野南部まで及ぶようになり、祇園城も度々攻撃を受けるようになった。1576年頃、11代塚田伊豆守は祗園城を離れ、寒川城に入った。小田原の役で北条方に付いた小山氏が滅亡すると、塚田氏は帰農したと言う。

 塚田館は、現在の氷川神社付近にあった。『栃木県の中世城館跡』によれば、氷川神社の東北に隣接して土塁と空堀で囲まれた約80m四方の単郭方形居館があった様だが、明治時代の開墾で遺構は湮滅してしまった。それでも、昭和中期までは神社北側に僅かに土塁と空堀が残存していたらしいが、それも今では失われてしまっている。小山市が建てた立派な石碑のみが、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.266802,139.811196&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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友沼城(栃木県野木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9462.JPG←城址とされる忠魂碑付近
 友沼城は、逆川城とも言い、歴史不詳の城である。中世から戦国期の城館と推定されている。「逆川」の名の由来として、「昔、小山小四郎何某が、家臣の止めるのを聞かずに出陣し、逆川まで来たところ、ようやくここで家臣が追いつき、再び〔出陣を〕止められた。小四郎は怒って、扇子で家臣の顔面を打つと、はずみで扇子が川中へ落ちた。扇子は西の方へ流れていった。〔多くの川が東流しているのに、西流したことから〕それで逆さ川というようになった。」(〔 〕内は管理者補足)ということなので、近くの法音寺城と同じく小山氏の支城であったものと思われる。特に「小四郎」という通称は小山氏嫡流のものなので、時の小山氏の当主が家臣の諌めを聞かずに出陣し、手勢を率いて友沼城付近まで進出したということなのだろう。

 友沼城は、現在は宅地化・耕地化によって遺構は完全に湮滅しており、その正確な所在地と規模も明確ではない。しかし近くの逆川排水機場に逆川に関する解説板があって、城のことが書かれている。それによれば、逆川の北側台地上にあり、現在の忠魂碑付近にあったとされているらしい。たまたま付近を探索していて、この解説板を見つけられたのは幸運だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.237662,139.728327&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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犬飼城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08468.JPG←主郭の横矢櫓台と空堀
(2007年1月、2011年12月訪城)
 犬飼城は、歴史不詳の城である。伝承では、1379年に祇園城主小山義政が築城したのが初めで、戦国後期には下野まで勢力を伸ばした小田原の北条氏政によって攻められ、小山秀綱は父政長を助けて奮戦したが敗北したとされる。その後、1573年に犬飼康吉が城主となったが、宇都宮氏に攻められて滅亡し、廃城になったと言う。しかし、少なくとも小山氏による築城というのは、勢力圏としても宇都宮氏の領域の只中であるので、誤伝であろう。それよりは岡本城との横矢掛かりや選地の類似性から考えれば、宇都宮氏による築城と考えるのが妥当であろう。1km程の距離には宇都宮氏の深津城があることから考えても、その可能性が高いだろう。また戦国末期に、北条氏直が盛んに宇都宮領に侵攻した際、犬飼城を前進基地として使用し、沼尻合戦か小田原の役の際に宇都宮勢によって攻め落とされた、と言う辺りが事実に近いのではなかろうか?あくまで想像ではあるが。城主の犬飼康吉の名も、北条氏康からの偏諱を想像させる。

 犬飼城は、姿川と武子川の合流点に向かって北から突き出した、比高10m程の根古屋台と呼ばれる台地の先端部に築かれている。山林となっているが、遺構は非常によく残っている。主郭はほぼ全周を空堀・低土塁で囲まれ、主郭の西と北に広がるニノ郭に対して、土橋の架った虎口を設け、土橋に対して右翼から横矢の櫓台を張り出させて防御を固めている。ニノ郭の外周も空堀で防御し、特に北西部分では、小型の枡形虎口と土橋で空堀を食い違いにしており、中々技巧的な造りとなっている。またニノ郭の塁線は巧みに屈曲して、厳重な横矢を掛けている。主郭の南側には空堀を挟んで前衛の三ノ郭が築かれ、その前面も土橋を架けた空堀で防御している。この城がよく見られる崖端城と異なるのは、主郭が先端に無く、主郭の前面にも空堀と曲輪が設けられていることで、これは比高が小さいことによる要害性の弱さを補う処置であったのだろう。小規模な城ではあるが、技巧的な構造は北条氏による改修の可能性を感じさせる。最近は宇都宮市などによる見学会が年1~2回の頻度で開催されており、徐々に知名度が上がりつつある貴重な遺構である。これで解説板や石碑でも建てられたら、言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.531467,139.834478&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世崖端城
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小谷城(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSC02259.JPG←城址碑と神明宮
(2007年1月訪城)
 小谷(こや)城は、下野の名族小山氏の支城である。元々の創築は、1120年に小谷三郎俊景によるとされる。後に小山氏の祖、小山政光がこの地を支配し、居住したと伝えられている。南北朝期には、小山氏の庶流網戸村重が小谷城主となって生井八郎を称したが、結城合戦(1440~41)に破れ、奥州に逃れた。戦国後期になると、祇園城主小山秀綱が小谷城を再興し、大橋左京亮を城代としたが、1590年の祇園城落城と共に廃城となったと言う。
 小谷城は、渡良瀬遊水地の北東にあり、旧思川の北岸の低台地上に築かれていた。古い航空写真を見ると、台地の周囲を円形に取り囲む堀が残っていたようだが、現在は耕地整理によって遺構は完全に湮滅している。わずかにかつての城内の一角に、神明宮の小さな祠が建ち、そこに『史跡 小谷城址』と刻まれた石碑が建つのみである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.24988,139.715002&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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