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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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古河岩城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3119.JPG←南東斜面の曲輪跡
 古河岩城は、歴史不詳の城である。地誌には唐沢山城の内囲いの地点として地名が出てくるとされ、その点からすれば唐沢山城防衛の為に周囲に築かれた城砦群の一つであったと思われる。
 古河岩城は、唐沢山の南西に伸びる長尾根の先端に近い、標高74m、比高40m程の小ピークに築かれている。南の谷戸を通る山道の脇から、わずかな踏み跡の道が残っている。ピーク上はほとんど自然地形で、普請の跡は見られない。しかし南東斜面には整形された平場群が見られ、その中には直角の塁線や切岸もあり明らかに人工地形である。しかし植林か畑による改変の可能性もゼロではない。佐野市史の記載では、5層の段が遺構として見られるとされているので、これらの平場群が古河岩城の遺構である様だ。いずれにしても、わずかな小城砦である。尚、地元の方によって、古河岩城跡と書かれた手書きのプレートが山中に掛かっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.333744/139.589496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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木浦原城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2935.JPG←集落最上段の民家
 木浦原城は、黄平原城とも呼ばれ、永禄年間(1558~69年)に遠藤駿河守が築城し、天正年間(1573~92年)まで存続したとされる城である。その他の歴史は不明である。尚、佐野市がまとめた城館跡一覧表という資料によれば、付近には「陣の手・血汐庫・太鼓下し・こうじょうかた(攻城方?)」などの地名が伝わっているらしい。
 木浦原城は、『栃木県の中世城館跡』によれば、秋山川上流域の木浦原集落付近にあった様である。ここには石垣で囲まれた何段かの平場に分かれた段丘上に民家群が建っている。最上段の民家部分が主郭であろうか?本当は地元の方に話を伺いたかったが、外に出ている人がいなかったので訊くこともできず、城址の正確な位置・情報は掴めないままで終わった。一応、この集落部が城域であろうと推測して、その写真と位置を掲載しておく。情報をご存じの方がいれば、ご教示を請う。

 お城評価(満点=五つ星):-(正確な所在不明のため評価なし)
 場所:【推定地】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.537192/139.515080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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藤四館(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2901.JPG←尾根鞍部の土塁
 藤四館(こうじやかた)は、平将門討伐で功を挙げた藤原秀郷が築いたとされる城である。伝承では秀郷が築いて、弟の藤四郎永郷らがここに居たとされる。しかしこの伝説は、蓬莱山城蓬山城と全く同じであり、俄には信じ難い。また藤四館とされる遺構自体も、城館遺構ではないとする説もある。

 藤四館は、標高1010mの尾根上に築かれている。この標高は、佐野市内の城館は勿論、栃木県内としても最高所の城館であろう。場所は、栃木・群馬の県境にそびえる氷室山から南に伸びる尾根の鞍部に当たる。昨年11月上旬に開通したばかりの林道作原沢入線がすぐ近くを通っており、宝生山西側の峠から尾根筋を宝生山経由で辿ることができるので、極めて高所の城であるにも関わらず、訪城は比較的容易である。ここは元々、東蓬莱山から陣地という山を経由して氷室山に至る古道が通っており、古道沿いに幾つかの小祠が祀られている。宝生山から140m程降った尾根に、遺構がある。しかしこれが謎の多い遺構で、一直線の土塁が尾根と平行に築かれているのが唯一の明確な遺構である。土塁の北寄りには虎口の様な窪みもある。機能的に何なのか謎が多いが、鞍部にあることから考えると稜線古道の関所的な機能を持ったものか、あるいは風除け土塁のようなものである可能性もある。土塁の周りは自然地形に近い平場で積極的な普請は見られないが、土塁よりも少し北に土橋状の古道が見られ、その西側の低い平場には湧水があり小さな水場となっている。城館遺構かどうかはわからないが、古くからの尾根道を使ってきた人々の営みの中で、何らかの施設が置かれてきた可能性は考えられる。それは、例えば福井県の車も通らない木の芽峠に今でも茶屋跡の民家が残っていることからも、想像できる。
土橋状の古道→IMG_2905.JPG
IMG_2885.JPG←古道脇の低平場の水場
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561652/139.476864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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蓬莱山城(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2821.JPG←蓬莱山神社の南にそびえる岩尾根
 蓬莱山城は、平将門討伐で功を挙げた藤原秀郷が築いたとされる城である。蓬莱山は紅葉の隠れた名所で、蓬莱山神社にある記念碑に刻まれている碑文によれば、940年(平将門滅亡の年)に秀郷が築城し、その弟の藤四永郷・藤五興郷・藤六友郷兄弟が居城したと伝えられ、慶長年間(1596~1615年)に徳川家によって廃城となったとされる。しかし秀郷築城伝説も、近世廃城の言い伝えも、いずれも伝説にすぎないであろう。尚、秀郷築城と弟たちの居城伝説は、実在する山城、蓬山城にも伝わっているので、蓬莱山と蓬山と名前が似ていることもあって混同されて伝わっている可能性も考えられる。

 蓬莱山城は、前述の通り紅葉の名所として知られる蓬莱山神社付近の山塊にあったと思われる。群馬との県境にも程近い最奥の地で、携帯電話の受信圏外でもある。東蓬莱山と西蓬莱山があり、蓬莱山神社に近い西蓬莱山をターゲットにして尾根の北斜面と南斜面と2ヶ所からアタックした。しかしさすがは修験道の山らしく垂直絶壁の岩場で囲まれており、ハーケン・ロープなどの本格登山装備がなければ登ることができず、登山は断念した。何より基本的に紅葉狙いで行ったので、まさか紅葉見物の人達の前で滑落するわけにも行かず、あまり無理もできなかった。どっちにしても奥多摩などに伝わる将門伝説と同様、蓬莱山城も伝説の城であり、城の実在すら疑わしいのが実情であろう。どこかに蓬莱山城は実在するのであろうか?
↓紅葉の蓬莱山神社
A1_023.JPG

 お城評価(満点=五つ星):-(未踏査のため評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.520070/139.488881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
   (場所は蓬莱山神社の位置です)
タグ:中世山城
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若宮館(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8456.JPG←主郭切岸と腰曲輪らしい畑
 若宮館は、若宮某という者の居館であったと伝えられている。それ以外の詳細は全く不明であるが、茂木城の東方1.6kmの位置にあり、茂木城下への東の入口を押さえる要地にあることから、もし中世の城館であれば茂木氏の重臣の城館であったと推測するのが妥当であろう。
 若宮館は、国道123号線西側の丘陵上に築かれている。最上部に主郭を置き、周辺に腰曲輪を幾重にも築いていた様である。丘陵は一部が宅地となっている他は主郭も腰曲輪もほとんど畑となっている。改変されている可能性があるので確実ではないが、主郭は切岸で綺麗に区画された広い平場で、北東に鬼門除けの入隅が設けられている。主郭の周辺には畑が段々に多数連なっており、切岸で区画された腰曲輪群であろうか。街道を押さえるにはもってこいの適地であることが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.534976/140.203335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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北古屋城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8424.JPG←城址の現況
 北古屋城は、歴史不詳の城である。佐竹氏の出城との伝承もあるが確証はない。位置的には茂木氏領の最東方で下野・常陸の国境に近く、佐竹氏一族の長倉氏の居城であった長倉城に程近いので、佐竹氏が出城を築いたことは十分に有り得る話である。
 北古屋城は、那珂川支流の逆川西岸の台地上に築かれている。城内は現在、一部が宅地のほかは一面の畑となっており、明確な遺構はほとんど確認できない。段々になっている畑がもしかしたら往時の腰曲輪かも、と言う程度である。城の中心と思われる部分は宅地となっている為、現況の確認もほとんどできない。段丘上にあるという地形のみが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.556473/140.237496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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茂木陣屋(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5568.JPG←陣屋跡の現況
 茂木陣屋は、肥後熊本藩細川家の分家が築いた陣屋である。茂木藩細川家の初代細川興元は、細川藤孝(幽斎)の次男で、細川忠興の弟に当たる。関ヶ原の戦いで軍功を挙げ、兄忠興に従って小倉城代となったが、後に兄と不和になり出奔した。その後、父幽斎を頼って京都に隠棲していたが、1608年に徳川家康の仲介で兄忠興と和解した。1610年に2代将軍徳川秀忠のはからいで下野国茂木地方25ヶ村・10054石を与えられ、茂木藩を立藩して陣屋を造営した。その後、大阪夏の陣に参戦し、その功により1616年、茂木1万石に常陸国谷田部6200石を加増され、合計16,200石の大名となった。1619年、興元の子で2代藩主興昌は藩庁を茂木から谷田部に移し、谷田部藩が成立した。その後は谷田部陣屋が本拠となったが、茂木陣屋はそのまま残され、茂木地域の所領を引き続き統治した。そのまま明治維新を迎え、明治4年に藩主興貫は再びこの地に藩庁を移し、茂木藩と改称した。同年、廃藩置県により茂木陣屋は廃された。

 茂木陣屋は、現在の茂木町民センターや茂木商工会がある敷地にあった。遺構は全く無く、北西の交差点脇に石碑が建っているだけである。その西に掛かる橋は、御本陣橋と呼ばれ、わずかにその名に往時の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.531390/140.186298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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矢島城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5135.JPG←主郭の現況
 矢島城は、長久年間(1040~44年)に七井刑部大夫頼治が築いたと言われる城である。頼治は、矢島郷と常陸国中郡の計48郷を領し、矢島郷に居城を築いたと『岩松家系図』に伝えられている。頼治から13代の裔、刑部大夫綱代の時、1559年に益子城主益子勝宗に攻められて落城し、綱代は多田羅館に移り、その後の矢島郷は益子氏の支配するところとなった。尚、矢島城の南にある日枝神社は、その社伝によれば1040年に七井刑部大夫頼治が再建し、後に鎌倉前期の1216年にも岩松新六郎綱持が本社を再建したと言う。

 矢島城は、小貝川東岸のなだらかな丘陵中腹に築かれている。現在は一部が民家のほかは、一面の麦畑に変貌している。戦後間もなくの航空写真を見ると、かなり耕地化による湮滅が進んでいるものの北半の遺構が残っており、北に突出した櫓台を築き、周囲を空堀で囲んで防御した単郭の城だったらしいことがわかる。また主郭内部の北東寄りにL字型の土塁が見られ、何らかの城郭構造があったらしい。これらは、畑の畦道の形にその名残を残しているだけである。残念と言う他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.500952/140.094824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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市花輪館(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5118.JPG←主郭切岸と周囲の堀跡の畑
 市花輪館は、貞治年間(1362~68年)に益子喜市郎勝直により築かれたと言われる。『益子系図』によれば、勝直は益子越前守勝政の嫡男で市花輪に住したが、益子安正が死没した時、その子十郎丸が幼かったため、勝直が入嗣して家督を継いだと言う。しかし益子氏の系図はいくつか異本があって、正確なところは不明である。また別説では、勝直の弟市花十郎直正(直政)が「市花館」を築いて居住したとも言われ、勝直が住したのは「向館」であったともされていて、はっきりしたことはわかっていない。いずれにしても、宇都宮氏麾下で勇名を馳せた紀清両党の一、益子氏一族の居館であったことはほぼ疑いのないところであろう。

 市花輪館は、桜川西岸の比高10m程の低丘陵上に築かれている。宅地と畑に変貌しており、遺構の残存状況は良好とは言えないが、民家が建っている主郭は周囲の畑より一段高くなっており、切岸で明瞭に区画されている。主郭外周には部分的に土塁もある様だ。主郭周囲は畑が一段低くなっており、幅10m程の空堀が廻らされていたらしい。この他、北東にやや離れて土塁と堀切道があったらしいが、消滅したと言う。台地上にわずかに館の痕跡を残す城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.532286/140.102355/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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稲毛田城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5090.JPG←僅かに見られる土塁跡らしい土盛
 稲毛田城は、歴史不詳の城である。一説には、稲毛田重正や宇都宮氏の家臣綱川右近(左近丞とも)が城主であったとも、或いは古く平城天皇の御宇(9世紀初頭)に下野助・乙貫朝景(朝則?)が築いた城とも言われる。また1361年、稲毛田重一が城主の時に宇都宮氏綱に滅ぼされ、そのまま廃城となったとも伝えられるが、詳細は不明である。
 稲毛田城は、現在崇信寺の境内となっている。方形単郭居館であったらしく、昭和30年代までは南東部以外の3/4程度の範囲の土塁と空堀が残っていたようだが、その後の墓地造成などにより、遺構はほぼ完全に湮滅している。わずかに北側に土塁の残欠らしい土盛が見られる程度で、壊滅的な状況で残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.570588/140.067186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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祖母井陣屋(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5078.JPG←陣屋跡の現況
 祖母井陣屋は、大田原藩が飛地領を治めるため1602年に築いた陣屋である。1600年の関ヶ原合戦の際、大田原城主大田原晴清は徳川家康に臣従し、大田原城に詰めて会津の上杉景勝の南下を抑える功を挙げ、1602年に加増を受けて12400石を領する大名となった。芳賀郡内に多くの飛地領を有し、その統治のため同年、祖母井に代官陣屋を置いた。祖母井陣屋はそのまま幕末まで存続した。
 祖母井陣屋は、現在の芳賀東小学校の地にあった。遺構は全く無く、校地の端に小さな解説板が建っているだけである。時勢柄、校地に入れないので、解説板を遠目に望むしかできない。各地の多くの陣屋跡と同じく、往時を忍ばせるものは皆無である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.547871/140.062551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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祖母井城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5071.JPG←解説板の後ろに残る土塁
 祖母井(うばがい)城は、宇都宮氏の家臣祖母井氏の居城である。祖母井氏は、元々は下総の名族千葉氏の一族で、大須賀氏の庶流に当たる。大須賀氏の事績については松子城の項に記載する。大須賀四郎胤信の3男嗣胤は、執権北条時頼が三浦泰村を滅ぼした1247年の宝治合戦で敗北し、宇都宮氏を頼って下野国君島(現在の真岡市)に移り、君島十郎左衛門尉を名乗った。そして、嗣胤の次男貞範がこの地に移り住んで祖母井左京介を称し、祖母井氏の祖となったと言われている。以後、祖母井氏は代々宇都宮氏に忠節を尽くし、伊予守護を一族で兼帯していた宇都宮氏が、鎌倉後期になって8代貞綱の弟泰宗を初めて伊予に下向させて伊予宇都宮氏を分立した際、その家臣団の一員として祖母井一族も伊予に下向している(現在では、祖母井姓は栃木県より愛媛県の方が多いらしい)。祖母井城は、天文年間(1532~55年)に祖母井信濃守吉胤が築いたと言われ、吉胤は1558年の多功城での戦いで上杉謙信の軍勢と戦って討死した。また信濃守定久は、戦国末期の小田原北条氏による宇都宮攻撃の際、北条勢を迎え撃ち、また多気山城の守備勢の一翼を担った。信濃守高宗は豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、戦功を挙げた。1597年に宇都宮氏が改易になると、祖母井氏も没落し、祖母井城は廃城となった。

 祖母井城は、五行川東岸の低大地の西際近くに築かれていた。現在主郭跡の一部は公園となっているが、遺構は壊滅的な状況である。公園東の旅館の裏に長さ10m程の土塁が残っているのが、唯一の明確な現存遺構である。戦後間もなくの航空写真を見ると、主郭の北・西・南の三方を巡る堀跡が確認でき、主郭北辺には土塁も残っている。前述の現存遺構の土塁は、主郭南東部のものの様だ。主郭の北と南にも曲輪らしい跡が見られ、北郭の西・北外周にやはり堀跡が見られる。現状の航空写真と見比べると、この北郭の堀跡は、現在は田福院外周の水路となって往時の名残を残している様だ。北郭堀の外周にも帯曲輪があった様である。南郭は現在の芳賀町体育館のある場所で、昔は学校が建っていたらしく、戦後の写真で既に破壊を受けている。南郭の更に南にももう1郭あった可能性があるが、戦後間もなくでも耕地化による改変が進んでいて、はっきりとはわからない。いずれにしても、前述の土塁だけが明確な城の名残である。
北郭の堀跡の水路→IMG_2719.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.550362/140.059955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平石館(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5065.JPG←延生寺跡
 平石館は、宇都宮氏の家臣平石紀伊守高治の居館である。高治は祖母井城主祖母井信濃守吉胤の弟で、天正年間(1573~92年)に平石館を築いたと言う。1597年に宇都宮氏が改易になると、平石氏も没落し、平石館は廃館になったと推測される。
 平石館は、大正期の耕地整理で土塁・空堀が全壊し、遺構は完全に湮滅している。その為場所も正確にはわからないが、日枝神社の南東にあったらしい。戦後間もなくの航空写真を見ても既に場所の特定ができないほど改変されてしまっている。尚、南方には平石氏の菩提寺であった延生寺跡がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.540364/140.060320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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下之庄代官屋敷(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5063.JPG←貴重な文化財である代官屋敷
 下之庄代官屋敷は、江戸時代に交代寄合芦野家(那須七騎の一で芦野城の故地に陣屋を構えた)の飛地に置かれた陣屋である。この地の名主であった藤平(とうへい)家が郷代官を代々勤めたと言う。この郷代官藤平家は、以前に「きえ」さんから神楽ヶ岡城に頂いたコメントによると、戦国末期の「西方崩れ」で西方氏(西方城主、宇都宮氏の一族)と共に赤羽に移った神楽ヶ岡城主藤平一族の末裔であろうとのことである。

 下之庄代官屋敷は、往時の陣屋門と母屋が残っている。周囲は水堀で囲まれているようだが、夏場だったので薮で一部しかわからなかった。陣屋門と母屋は茅葺屋根の古い建築物で、江戸前期に建てられたと言う貴重な文化財なのであるが、なぜか町の史跡には指定されていない。見たところ、茅葺屋根がだいぶ傷んでいたので、市貝町の今後の文化財保護行政に期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.530312/140.062144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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水沼城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5052.JPG←城址付近の現況
 水沼城は、宇都宮氏の家臣水沼五郎入道の居城と伝えられている。元は、天文年間(1532~55年)の頃に頼母玄蕃守と言う武士が居城としていたが、宇都宮氏によって滅ぼされ、代わって水沼氏が入城して武威を振るったと言う。1597年の宇都宮氏の改易により廃城となった。

 水沼城は、野元川という小河川の東岸の宿水沼という地にあったとされる。「宿の古城」とも呼ばれるが、遺構が完全に湮滅しているため、その正確な場所は不明である。しかしどこの水田かわからないが、水田中に「本丸」「中丸」「櫓下」という地名が残っているそうなので、戦後間もなくの航空写真をじっくり見て城の痕跡が残っていないか探してみた。すると、宿水沼集落の南の水田中に堀跡のような帯状の水田で囲まれた、ややひしゃげた方形の畑があり、ここが主郭であったものだろうか。この主郭推定地の南西角は、現在はお堂の建つ墓地となっており、周囲の水田より1m程高く、主郭の唯一の痕跡なのかもしれない。戦後の航空写真には、主郭と推測される方形の畑の南や東の水田にも堀跡らしい形が認められるので、主郭の周りに二ノ郭が広がっていたものと推測される。いずれにしても現在では完全に失われた城である。
 尚、南西の丘陵地に舟戸城があり、水沼城の有事の際の詰城だったと推測される。
主郭の唯一の名残?の墓地→IMG_2714.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.534692/140.027468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高橋城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2708.JPG←南の堀跡の畑
 高橋城は、延文年間(1356~61年)に高橋刑部左衛門尉義通が築いたと言われている。高橋氏は常陸の名族佐竹氏の出と言われ、信州7千石を領して木曽義仲に従っていたが、義仲滅亡後に関東に下向し、宇都宮氏を頼ってその家臣となったとされる。以後、高橋城を本拠として宇都宮氏の家臣として続き、16代小太郎判官越後守貞勝までの歴代の居城となった。1597年に宇都宮氏が改易になると、高橋城も廃城となった。尚、現在城跡に残る「小太郎判官の墓」は、高橋氏12代御子之介義途のものと伝えられている。

 高橋城は、五行川東岸の平地に築かれていた。現在は一面の水田に変貌し、遺構は完全に湮滅している。昭和20~30年代の航空写真を見ると、南西角に前述の「小太郎判官の墓」を置き、北・西・南を巡る堀跡のような帯状の水田の形状が確認でき、これが主郭であったろうと推測される。西と南の堀は直線状だが、北の堀は弧を描いた形状である。今は耕地整理で壊滅し、高橋小太郎の墓と南側の堀跡の畑しか残っていない。東には水路を挟んで高椅神社が建っている。
主郭南西角に残る小太郎判官の墓→IMG_5040.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.519699/140.042231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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京泉館(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2707.JPG←京泉館跡とされる民家付近現況
 京泉館は、宇都宮氏麾下で勇猛で知られた紀清両党の一、芳賀氏の初期の居館である。芳賀氏は後に御前城、更に真岡城と居城を移している。伝承では、清原真人龍口蔵人高重が、985年、花山天皇の怒りに触れてこの地に配流され、京泉館を構えたと言う。その後裔芳賀高親の時に源頼朝の奥州合戦に従軍した後、御前城を新たに築いて居城を移したと言う。

 京泉館は、五行川東岸の平地に築かれていた。かつては二重の堀と土塁に囲まれた平城であったらしいが、昭和初期の耕地化で遺構は完全に湮滅している。その為、現地に行っても館のあった正確な場所はわからない。昭和20年代前半の航空写真を見ても、畑のなんとなくの形状からこの辺りが主郭だったのかな?と想像する程度である。『日本城郭大系』によれば、一部の土塁が残るというが、これもよくわからない。芳賀氏草創期の城館であるが、非常に残念な状態である。
 尚、ここから真南に1.3kmの所に、芳賀氏のものと伝えられる墓石群が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.480561/140.032082/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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籠谷城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2685.JPG←一面の畑となった台地
 籠谷城は、宇都宮氏の家臣籠谷氏の居城である。天正年間(1573~92年)に籠谷伊勢守政高によって築かれたと伝えられている。政高は、無量寿寺の大檀那としてその伽藍を再建した。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際にも、宇都宮国綱・芳賀高武に籠谷氏が従っている。1597年に宇都宮氏が改易されると、籠谷城も廃城となったと思われる。
 籠谷城は、江川西岸の比高15m程の段丘先端に築かれていた。南端部は土取りで消滅しており、その他の台地上は一面の畑となっていて、遺構は完全に湮滅している。台地辺縁部には一段低く腰曲輪らしい平場も見られるが、はっきりしない。『日本城郭大系』には、北東部に堀と土塁が一部残っていると記載されているが、どこのことかわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.494044/139.977965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小家台城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09226.JPG←社殿周囲の平場
 小家台城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、後三年の役の際に、八幡太郎源義家がここに在陣し、戦勝祈願のために河井八幡宮を再建したと言う。
 小家台城は、那珂川南方の標高270mの山中にある。かなり山深い場所であるが、ここまで車道が伸びているので、簡単に訪城することができる。山頂に河井八幡宮が建っており、その周囲は平坦な平場となり、外周に土塁らしいものも見られるが遺構かどうかはわからない。また神社地以外にも、東側に一応曲輪らしい平場があり、何らかの城砦が構えられていた可能性はある。しかし普請の痕跡は不明確で、もし城があったとしても物見程度のものだったろうと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561540/140.210910/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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茂木城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09152.JPG←二ノ丸から見た堀切と本丸切岸
 茂木城は、この地の豪族茂木氏の歴代の居城である。宇都宮氏の一族で常陸の有力御家人、八田知家が軍功によって茂木保の地頭職に任命され、その後3男の知基が1192年に茂木に入部して茂木城を築き、茂木氏を称した。以後、治良まで16代の居城となった。南北朝期の5代知貞の時代に城の全容が完成したと言われ、茂木氏は一貫して北朝方として活躍した。7代知世の時が全盛期とされ、1381年の小山義政の乱でも軍功を挙げている。戦国時代になると、南から勢力を拡張してきた小田原北条氏に対抗するため、宇都宮氏と共に佐竹氏と結んだ。1585年には、北条氏の攻撃を受けて茂木城は落城したが、その後、佐竹義重によって奪回された。1590年の小田原の役で北条氏が滅亡し、豊臣秀吉から佐竹氏が常陸一国を安堵されると、茂木氏は完全にその家臣となった。1594年、茂木治良は佐竹氏の命によって常陸小川城に移り、その後は佐竹氏の家臣須田美濃守治則が茂木城主となった。1610年、細川興元(忠興の弟)が茂木に入ると、新たに平地に陣屋を構え、茂木城は廃城となった。

 茂木城は、逆川北岸にそびえる比高80m程の広い台地上に築かれている。広大な城で、中央の千人溜と呼ばれる窪地の周りに、南西に本丸、西に二ノ丸、北に三ノ丸、南東に出丸、北東に馬場を配置している。これらは、千人溜の周りをぐるりと囲むように高台上に曲輪群が連なり、しっかりした高さ5m以上の切岸でそびえている。城内の南側半分は城山公園として整備されている。本丸は北から西にかけて土塁で囲まれ、土塁上は幅が広く多門櫓などが建っていたと想像される。本丸西側には、堀切を介して馬蹄形曲輪が築かれている。二ノ丸は城主居館があったとされ、土塁のない平坦な平場で、現在は杉林となっている。三ノ丸・馬場は、未整備の藪に覆われ、進入できない。三ノ丸外周には空堀が穿たれ、空堀外周に土塁が築かれて、北の台地との間を切岸で区画している。本丸・二ノ丸・三ノ丸の間は、それぞれ幅の広い堀切で分断されている。一方、南東の出丸も、千人溜との間に堀切が穿たれているが、ここには横矢のクランクが見られる。この他、南斜面や東斜面に腰曲輪が廻らされている。以上が城の主要部であるが、城の北側の「館地区」も台地の上にあり、外郭として機能していたらしい。東側の館集落入口の小道はクランクしており、おそらく枡形虎口の跡と考えられる。外郭は広大な畑になっているので、それ以上の探索はできなかった。茂木城は、鎌倉時代から続く名族の城として、今でもその威容を誇っている。桜の咲くタイミングを見計らって行ったが、好天の中、桜吹雪を見ながらの城歩きとなり、最高の一日だった。
本丸西側の堀切と馬蹄形曲輪→DIMG_3252.JPG
DSC09044.JPG←出丸の横矢掛かりの堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.536959/140.184774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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続谷城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1732.JPG←二ノ郭跡の高台
 続谷城は、歴史不詳の城である。伝承では、永禄年間(1558~69年)か文亀年間(1501~03年)に承舎六郎という武士により築かれたと言われ、千本城の支城として機能したとされる。

 続谷城は、妙薫寺西側に隣接する高台にあったとされている。「されている」というのは、城址付近がただの高台で、背後の山上には古墳があるぐらいで明確な遺構は確認できないからである。北西に張り出した尾根にだけ、何故か掘切が見られるが、何をどう防御する為に穿ったものだかもよくわからない。とにかく高台の上は平らな平場が広がっており、これが城址ということだろうか?畑になったり、宅地がキワまで来たりと改変の可能性も考えられる。城址標識があるので間違ないはずだが、あまりに城っぽくなく、非常に消化不良に陥る城である。その後、栃木県立博物館で開催された『中世宇都宮氏』に連携した市貝町の企画展の資料を見る機会があったが、それによれば高台は北から順に三ノ郭・主郭・二ノ郭とされている様である。いずれにしても普通の城とはかなり趣を異にしている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.594848/140.123942/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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杉山城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1563.JPG←主郭周囲の空堀
 杉山城は、歴史不詳の城である。伝承では千本城の支城で、薄根家継と言う武士が築いたとされ、西の宇都宮氏に備えていたと推測されている。

 杉山城は、県道163号線と176号線が分岐する交差点北側の比高40m程の丘陵地に築かれている。中心に空堀で四周を囲まれた方形の主郭があり、その北西にも外周を横堀で囲まれた二ノ郭がある。主郭には南と西に土橋の架かった虎口が築かれている。また主郭と二ノ郭の間には、特殊な形状の角馬出しがあり、独立した区画ではなく主郭空堀の外側を巡る土塁にそのまま接続している。この他、主郭の南西にも曲輪群があるが、ここにも横堀が穿たれ、一部は二重横堀に見えるが、この辺は材木伐採で荒れておりどこまで遺構か疑問である。主郭東側下方には削平された広い腰曲輪が2段あり、屋敷などがあった可能性がある。背後を切り立った土塁で囲まれており、北側土塁の更に北側には堀切が穿たれ土橋が架かっている。遺構はよく残っているので、山麓の城址標識だけでなく城址も整備されて解説板があれば、言うことなしなのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.581496/140.106518/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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千本城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1457.JPG←主郭虎口の出枡形
 千本城は、下野の名族那須氏の庶流にして、那須七騎の一に名を連ねる千本氏の歴代の居城である。千本氏の祖は、那須資隆の10男為隆で、那須与一宗隆の兄に当たる。寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際には、光隆ら9人の兄は平家方に付いたが、末弟為隆・宗隆だけは源氏に従って義経の配下として活躍した。屋島の戦いの際、弟宗隆(那須与一)が扇の的を射た故事は世に名高いが、最初に義経から弓の名手として指名されたのは兄為隆であった。為隆は戦後、武功によってこの地域を与えられ、1190年に最初の居館を所草の山口の里(草の館)に構えたと言う。3年後の1193年、九石城を築いて新たな居城としたが、茂木領に近かったことから1197年に更に新たに千本城を築いて移った。以後、千本氏歴代の居城となり、千本氏は戦国期に至るまで那須宗家を支え続けた。10代資持は、千本氏中興の城主と言われ、室町時代に那須宗家が上那須・下那須に分裂して抗争した際、烏山城主の下那須氏を支持し、那須七騎の旗頭として活躍した。1549年、五月坂で宇都宮氏を撃ち破った那須氏では惣領高資と弟資胤との間に内訌が生じ、資胤は千本氏13代資俊を頼った。資俊は、宇都宮氏重臣の芳賀高定と謀って1551年正月、高資を千本城で誘殺した。その後、資俊の嫡子資政は黒羽城主大関高増の娘を妻としたが、嫁姑の関係が悪く離縁し、これに怒った大関氏は千本氏を滅ぼしてその所領を手に入れようと謀略を巡らし、主君那須資晴に千本氏を誅伐するよう進言し、1585年、大関氏は弟の大田原綱清・福原資孝と謀って烏山大平寺において千本資俊・資政父子を誘殺した。これによって那須系千本氏は断絶し、この時千本城も落城した。千本氏の遺領は、資晴によって大関・大田原・福原の三氏と大谷津周防に分け与えられ、残りを茂木義政に与えて千本氏の名跡を継がせ、義政は千本大和守義隆と名乗って茂木系千本氏が誕生した。豊臣秀吉の時代になると、那須資晴は改易されて没落したが、那須七騎は小田原に参陣した功により所領を安堵され、1600年の徳川家康の上杉征伐の際には、義隆の子義定が黒羽城の加勢に赴き、千本氏は徳川旗本として存続した。江戸時代には一時断絶した時代もあったが、幕末まで旗本として存続した。

 千本城は、標高250mの山上に築かれている。大きく分けて主郭・二ノ郭・三ノ郭から構成され、更に腰曲輪や外郭が築かれている。主郭と二ノ郭は公園化されて整備されている。主郭には黒羽神社が置かれ、神社の周りも含めて主郭を取り巻く土塁が良く残っている。主郭内部は、神社部分とそれ以外の平場を仕切るように土塁があるが、これは遺構であろうか?主郭虎口の外には現地解説板に「土塁道」と表記される出枡形が形成されている。これを馬出しとしているHPもあるが、兵を置くような空間はなく、実態としては出枡形の虎口である。二ノ郭は、主郭の南に位置する横長の曲輪で、地元出身の方の寄付により河津桜が植えられ、4月初旬には満開であった。二ノ郭周囲にも土塁が築かれ、殊に東側の虎口部分の土塁は大きく重厚である。二ノ郭の南側には南北に長く広い三ノ郭がある。「屋敷跡」と称されているが、普通に言えば三ノ郭であろう。三ノ郭は上下2段に分かれ、内部は畑に変貌している。南側には土塁が残っている。主郭・二ノ郭・三ノ郭の外周には腰曲輪が数段築かれている。特に主郭東側の腰曲輪では、曲輪内を仕切る土塁と櫓台があり、木戸跡と考えられる。主郭の北側には堀切が穿たれている。外郭は、三ノ郭の西側に堀切を挟んで築かれ、斜面上に何段もの平場が築かれ、頂部は物見台となっている。現在も展望台として整備されており、眺望は抜群である。この他、三ノ郭の南側の給水施設がある辺りも曲輪跡だったとされるが、改変されてしまっている。千本城の遺構はこのような感じで、出枡形の虎口など戦国期の遺構も見られるが、全体としては技巧性の少ない素朴な縄張りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.577240/140.149090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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田野辺城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1338.JPG←高台となっている主郭跡
 田野辺城は、那須七騎の一、千本氏の支城である。千本氏8代美濃守資家が1505年に、益子氏の村上城に対する備えの為に千本城の出城として築き、弟の田野辺三郎資重を置いて守らせた。その後、左衛門尉資辰・将監重之と田野辺氏は3代続いたが、1585年、重之が城主の時に主家の千本資俊・資政父子は烏山で謀殺され、田野辺城は千本城と共に落城し、そのまま廃城となったと言う。

 田野辺城は、桜川西岸の段丘上に築かれた城である。慈眼寺の東側から北側一帯にかけて城域が広がっていたと考えられる。城域は、慈眼寺の境内以外はほとんど畑に改変されているが、地勢が往時の面影を残しており、何となく土塁や切岸、堀の形跡が確認できる。主郭は、畑の一番高い位置にあり、周りを切岸で囲まれた方形に近い平場である。以前は土塁が綺麗に残っていたが、耕地化でほとんど削ってしまったそうである。主郭の西側の一段低い畑が二ノ郭と推定されており、西端に僅かに土塁が残っている。二ノ郭と寺との間は高さ3m程の切岸で区画されている。この他、主郭の北側にも平場が広がっており、三ノ郭と推測されているが、何段かの平場に分かれ、しかも西側と北側に堀状の地形が残っているが、現状からでは曲輪の形状はわかりにくい。

 田野辺城では、慈眼寺ご住職と近所のお婆さんからいろいろとお話を伺うことができ、小学生向けの資料などもいただくことができた。伺ったところでは、千本氏の弟が村上城に対峙するために城を築いたと伝えられ、以前は田野辺城址から千本城が見えたが、間の木が大きくなって見えなくなってしまったそうだ。千本城から狼煙が上がり、千本城が落城した時に同時に田野辺城も落城したと伝えられているそうだ。

 尚、最後の城主田野辺重之の供養塔は宇都宮市内の浄鏡寺にあり、後日お参りした際に浄鏡寺ご住職の奥様からお話を伺うことができたので、ここに合わせて記載する。近代の田野辺家は、浄鏡寺の裏近くで医者をやっていたそうで、現在は鎌倉に移って医者をやっているらしい。しかし近年ではもうお墓参りに全く来なくなってしまい、音信不通のままで、3.11震災の時もお寺の方で倒れた墓を修復したとのことである。旧家に相応しい立派な供養塔であり、こうした文化財が忘れられていってしまうのは、非常に残念に思う。
田野辺重之供養塔→IMG_20170609_111049.jpg

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.572354/140.128255/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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村上城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1186.JPG←土塁で囲まれた主郭
 村上城は、益子氏の一族村上氏の居城である。古文書によれば、1187年に平宗清の守る村上城が落ちたとあることから、 築城時期は平安時代末頃と思われる。その後、1378年に益子正宗の次男村上新助良藤によって、現在の遺構のような城が築かれ、以後、丹波守則光・丹波守光義と3代約50年にわたり居城したと伝えられている。しかし現在残る遺構や、『水谷蟠龍記』にある1583年の高塩合戦(益子氏と山本城主高塩氏の戦い)において、村上丹波・子息弥六左衛門の名が見えることから、戦国後期まで城は存続していたと推測される。位置的には益子氏の支配領域の北端にあり、千本城主千本氏に対する備えを固めていたと考えられる。

 村上城は、標高172.1mの観音山に築かれている。西麓を流れる桜川を天然の外堀としていたと考えられる。県指定史跡であり、主郭部は公園化されて梅林となっているが、外周の曲輪は草茫々である。しかし主要部の遺構はよく確認できる。主郭を中心に、大きく三重の堀で囲んだ環郭式の城である。主郭は傾斜面に築かれた曲輪で、3段程の平場に分かれている。外周は土塁で囲まれ、北端部は三角点のある櫓台が築かれ、土塁の外側には空堀が全周している。この一ノ堀は、外側の二ノ郭側にも土塁を築いている。この外周土塁には茨が繁茂しており、非常に歩きにくい。主郭南西部は横矢の屈曲が見られ、これによって主郭南端は出枡形形状の虎口となっている。二ノ郭は、主郭の北から東面にかけて広がっており、空堀で囲まれているが、二ノ堀は雑草でわかりにくい。この二ノ堀は、西端部で直角に曲がって竪堀となって三ノ堀に落ちている。二ノ堀の外側は三ノ郭であるが、曲輪内の傾斜が大きく、外堀(三ノ堀)沿いのみ帯曲輪状の平場がある。三ノ堀は、綺麗に整備されており、全周を散策できる。三ノ堀の規模はさほど大きいものではないが、北西部に横矢張出しの櫓台が築かれて防御を固めている。
 村上城は、遺構が完存しており、非常に素晴らしい。春の主郭は、まだ梅の花が咲き残っており、美しかった。
三ノ堀→IMG_1274.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.557429/140.119028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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赤埴城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1082.JPG←主郭の土塁と土橋
 赤埴城は、益子氏の一族、赤埴氏の城と言われている。城の歴史は明確ではないが、1570年に赤埴右京之進宗勝が築城し、周防守宗重がその後を継いで居城としたとの説がある。

 赤埴城は、小河川に挟まれた低台地に築かれた平城である。耕地化などでかなり湮滅が進んでいるものの、残存している部分だけ見ても、市貝町付近の平地に築かれた平城としては屈指の規模を有している。主郭の主要部は消滅したが、前面(南側)の土塁・空堀が良好に残っている。土塁は3mほどの高さで鋭い切岸でそびえており、中央に土橋を架けた虎口が築かれている。主郭の南側はおそらくニノ郭の一部と思われるが、南東部の土塁と空堀が残存し、東側には虎口と土橋が残っている。この他、西にやや離れて南北に長い土塁の一部が確認できるが、改変されている様だ。残っているのはこれだけなので、現状からでは往時の縄張りを推測するのは難しいが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、外郭まで含めて非常によく遺構が残っていた事がわかる。主郭は北西部に出隅を持っていたようで、主郭全周を囲むように二ノ郭があったらしい。二ノ郭は現在残っている堀形状から考えても、空堀で何ブロックかに区画されていた可能性がある。二ノ郭の北辺部には横矢掛かりの折れを持った土塁と空堀が、はっきり航空写真に写っている。これらの特徴を考えると、戦国期まで使用された城だと考えられる。この他、西側に外郭があった様に見受けられるが、北辺部しか輪郭らしいものを確認できない。このような感じで、現在残る土塁や空堀の規模から考えると、往時はさぞかし壮観だったろうと惜しまれる。湮滅は正に勿体無いの一言に尽きる。
 またこれほどの遺構であるのに、解説板はおろか城址標柱さえ無いのもどうかと思う。どうも栃木県内の市・町は、他県と比べて史跡整備に消極的で、どうにかならないものかと一県民として疑問に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.514810/140.066435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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多田羅館(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1073.JPG←遠目に見た土塁と水堀
 多田羅館は、鎌倉時代に築かれたと伝えられる歴史不詳の城館である。一説には、矢島城主七井刑部大夫綱代が、1559年に益子城主益子勝宗に攻められて城を落とされ、綱代は多田羅館に移ったと言われる。
 多田羅館は、小貝川東側の低台地上に位置し、現在は宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。館跡は民家となっており、周囲の道路を一巡りしてみたが、宅地には近づけず、あまり遺構が見られなかった。唯一土塁と水堀跡が見られる南西部は、南側が広大な畑地となっており、近づく術がなく、遠目に見ただけとなった。かなり残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.515465/140.087056/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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草の館(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1056.JPG←山頂の現況
 草の館は、那須氏の一族千本十郎為隆が築いたと伝承されている。為隆は源平争乱での軍功によりこの地を与えられ、1190年に最初に築いた居館が草の館であったとされる。その後、九石城を築いて移ったとされている。
草の館は、『栃木県の中世城館跡』によれば、場所は所草地区の観音堂裏と称される山に築かれたらしいが、場所が特定できず、外にいる地元の方に行き会うこともなかったので、とりあえず221.8mの三角点のある山に登ってみた。この山は南斜面に青龍神社があり、神社社殿の隣に観音堂が付随しているので、確実ではないがここが観音堂裏と言う山ではないかと思われる。山の上は平坦な自然地形の平場が広がっており、木が伐採されてきれいになっていた。特に土塁などの城郭関連遺構は確認できなかった。場所の特定も含めて、今後の考究に待ちたい。

 お城評価(満点=五つ星):-(場所が確実ではないので評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.580126/140.166256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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九石陣屋(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1012.JPG←東側の土塁
 九石陣屋は、江戸時代に九石郷を領した旗本梶川氏の陣屋である。九石郷は、江戸時代初期には茂木細川氏の所領となったが、1698年に幕府旗本の梶川与惣兵衛頼照の領地となった。以後、幕末まで梶川家の所領で、梶川氏は当地の名主、九石家の屋敷を陣屋としていたと言う。尚、梶川頼照は、忠臣蔵の発端となった江戸城「松の廊下」での刃傷沙汰の際、たまたま吉良上野介義央と立ち話をしていて事件に出くわし、即座に浅野内匠頭長矩を取り押さえており、その際の顛末を後世に記録として残した人物である。

 九石陣屋は、現在も旧家九石家の屋敷地となっている。そのため勝手に入ることはできないので、遠目に確認しただけであるが、北の谷戸に向かって張り出した舌状台地の上にあり、東辺部に土塁が確認できる。台地上は西に向かって何段かの平場に分かれており、往時の姿を留めていると思われる。尚、南の車道脇には県の天然記念物でとちぎ名木百選に選ばれた「九石のけやき」があり、梶川氏が領地巡見の際は必ずこの樹の下で休み、まれに見る大木であると賞賛してからは、以後、この地を大木の下と称せよと命じたとのことである。

※他のHPでは「九石館」と呼称されていますが、陣屋として機能したことに鑑み、「九石陣屋」と呼称することにしました。しかし通常は名主の屋敷であったため、「九石家屋敷」とする方が良いのかもしれませんが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.565547/140.170398/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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九石城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0904.JPG←大型の枡形虎口
 九石(さざらし)城は、1193年に那須与一宗隆の兄千本十郎為隆が築城したと伝えられている。為隆は、1190年に最初の居館を所草の山口の里(草の館)に構えたと言う。3年後の1193年、九石城を築いて新たな居城としたらしいが、4年後に千本城を築いて居城を移し、その後は戦国期まで千本城の支城となった。廃城時期は不明である。

 九石城は、千本城南東2kmの山あいの丘陵先端に築かれている。大きく4つの曲輪から構成されている。東側の台地基部から畑の中を西に進むと、目の前にいかにも城、という感じの切岸が現れる。その奥は主郭の腰曲輪で、右手の切岸の奥に枡形虎口が現れる。虎口を入ったところが二ノ郭で、南北に長い曲輪で南は前述の城道を監視し、北側は竪堀状の虎口があって腰曲輪に繋がっている。腰曲輪を東に進むと堀切があり、その北側に自然地形の北出曲輪がある。一方、前述の枡形虎口を二ノ郭に入ってからすぐに左(西)に進むと、そこが主郭である。主郭は広くきれいに削平された曲輪で、虎口脇に枡形跡と思われる土塁が残り、曲輪北辺には土塁が築かれている。この土塁は西端でL字状に折れている。主郭の外には一段低く腰曲輪が取り巻いており、西側の腰曲輪では土塁が築かれて横堀状となっている。西側腰曲輪の北端は竪堀状の虎口となっている。また南端にも内枡形があって、南出曲輪に繋がっている。南出曲輪は上下2段と東側方の腰曲輪で構成されている。

 以上が九石城の遺構であるが、もう一つ北出城とも言うべき城郭遺構が存在する。北出城は、九石城本城の北東300m弱に位置にある。畑になっている頂部の広い主郭と、藪に覆われた東斜面の数段の腰曲輪群で構成されている。主郭北辺には土塁が築かれ、その北側には横堀が穿たれている。遺構としてはこの程度の、簡素な構造の出城である。

 九石城(本城)は、大型の枡形虎口を備えた近世城郭的な構造であり、豊臣秀吉の宇都宮仕置で主家那須氏が改易になった後も、大身旗本として存続した千本氏によって改修され存続していた可能性もある。
横堀状の西側腰曲輪→IMG_0973.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.564530/140.165505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
     【北出城】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.566323/140.167909/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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