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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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渕牛楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4052.JPG←主郭北西端の円弧状の横堀
 渕牛楯は、往古は華山城と称し、また『日本城郭大系』では花山館と記載され、俘囚長・厨川次郎安倍貞任の拠った城と言われている。築城はその父安倍頼時によると伝えられ、頼時・貞任父子は鬼切部の戦いで渕牛楯を基地として善戦したと言う。前九年の役で、貞任は猿飛を岩石・丸太で堰き止め、水を湛えて守りを固めていた。1062年夏、源頼義・義家の軍勢2700余騎は裏手の軍沢より渕牛楯を包囲した。貞任軍はよく戦ったが利あらず、貞任は一部の手兵と共に脱出して衣川に退いたが、城兵は全員討死にして落城したと言う。落城後は源氏の家臣佐藤左衛門公清の居城となり、1398年まで佐藤氏が代々支配した。その後、葛西氏、大崎氏に属し、伊達政宗の時に廃城となったと言う。

 渕牛楯は、人造湖である花山湖に突き出た標高250mの丘陵上に築かれている。城跡へは北東麓からのルートや吊橋を渡る南麓からのルート等、複数の登道が整備されている。近いのは北東ルートだが、湖上に浮かぶ山容を写すには南麓からの方が良い。結構急峻な登道を登って尾根に取り付き、北東へと辿って行くと、四阿の建つ小ピークに達する。ここが物見台だったらしく、北側に数段の段曲輪が築かれている。主郭はここから真北に尾根の鞍部を越えた先にある。この尾根の両側には帯曲輪が築かれている。西側には帯曲輪の下に二重横堀が穿たれている。一方、東側のすり鉢状の谷戸にも、円弧を描くように二重横堀が穿たれている。この東西の二重横堀は、いずれも主郭外周の横堀に繋がっている。主郭はハート形をした広い曲輪で、外周に横堀が穿たれている。この横堀は一部は腰曲輪状になっている他、北西から西面にかけては円弧を描いた二重横堀となっている。物見台と繋がる尾根と主郭との間は、浅い堀切で区画され、中央に土橋が掛かっている。土橋の西側の堀切はそのまま竪堀となって腰曲輪に落ちているが、どうも竪堀状の虎口であったらしい。更にその下方にも位置をずらして竪堀虎口が二重横堀に作られており、横堀と連携させた変則的な枡形虎口を形成していた様である。二重横堀と桝形虎口と言えば、出羽置賜地区には数多い、伊達氏系山城の特徴であることから、渕牛楯も元々の創築は別として、最終段階の改修は伊達氏によって行われたと推測するのが妥当と思われる。ほぼ単郭の城であるが伊達氏系城郭の特徴が垣間見れて面白い。
主郭~物見台間の堀切・土橋→IMG_4111.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.783829/140.861775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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赤松楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3909.JPG←主郭の北東隅櫓台
 赤松楯は、『安永風土記』によれば楯主は初め奥州藤原氏の家臣佐藤継信(源義経の家臣として有名)で、後に狩野式部少輔が楯主になったと伝えられている。また赤松楯東麓には吉祥寺があるが、その西側に数段の整地面があり、同じく風土記によれば佐藤継信在城の時に、吉祥寺・中世寺・光隆寺という3つの寺院が造営されていたと言う(赤松館関連寺院跡)。佐藤継信は伝説としても、3つの寺を造営するほどの勢力を有した土豪の拠った城であったのだろう。これらを記した城址標柱が吉祥寺門前に建っている。

 赤松楯は、一迫川北岸の標高125m、比高65mの丘陵上に築かれている。特に明確な道はないが南麓の熊野神社の裏から尾根沿いに登ることができる。この尾根沿いに腰曲輪状の平場が上まで伸びており、これが大手道らしい。この大手道の左側沿いに竪土塁が延々と築かれている。この竪土塁は大手道を登ってくる敵を迎撃する役目を持っており、所々に小郭があって物見台となっている。竪土塁は主郭前面の腰曲輪に繋がっている。城の主要部は3つの曲輪で構成されており、南から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭となっていたと考えられる。主郭は横長の方形に近い曲輪であるが、四隅が外側に張り出して横矢掛かりを意識した形状であり、防御も最も厳重で、前述の前面腰曲輪の他に南東側にも土塁を備えた腰曲輪を築いている。大手道はこの南東腰曲輪の下を通っている。主郭周囲はしっかりとした切岸で囲まれ、北東には大きな隅櫓台が築かれている。この隅櫓台近くに虎口が開かれている。主郭背後は箱堀状の幅広の堀切となっており、実質的に腰曲輪を兼ねていたらしい。この堀切の南東端は竪堀状の虎口となっていて、前述の大手道はここに繋がっている。堀切の北にニノ郭があり、横長の長方形の曲輪となっている。北東辺に土塁が築かれ、主郭同様にこの面に虎口が築かれている。ニノ郭背後も堀切が穿たれ、三ノ郭に至る。三ノ郭は不思議な構造で、山形の湯田川館群(藤沢楯石堂山楯)の様な櫛歯状空堀が平場の両側に穿たれている。しかしここの櫛歯状空堀はどうも材木伐採によるものらしく思われる。三ノ郭背後にも土塁と浅い堀切があって城域が終わっている。赤松楯は中々の規模を持った城で、土豪勢力の主城として機能したことが伺われる。
ニノ郭の堀切と虎口→IMG_3919.JPG
IMG_3924.JPG←三ノ郭内の謎の櫛歯状空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.767285,140.913262&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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鹿鼻楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3802.JPG←曲輪間を分割する堀切
 鹿鼻楯は、長崎城とも言い、長崎四郎隆実の城と言われている。隆実の事績はよくわからないが、ネットで調べたところ奥州藤原氏4代泰衡の家臣であったらしい。尚、『日本城郭大系』宮城編の巻末「その他の城郭一覧」を見ると、この地方には長崎四郎隆実の伝承のある城館が多数あるので、長崎四郎隆実の城という伝承は俄には信じ難い。
 鹿鼻楯は、長崎川南岸にそびえる比高50m程の丘陵先端に築かれている。丘陵上に高圧鉄塔が建っているため、鉄塔保守道を辿って登ることができる。山麓標柱にある通り、大きな城ではあるが、技巧性はなく、ただやたらと広い曲輪で構成されている様である。歩いてみた限り、どうやら3つの広大な曲輪を浅い堀切で分割した縄張りだった様で、更にこれらの主要な曲輪の周りに一段低い腰曲輪を築いて外周を防御している。とにかくただだだっ広いだけの城で、どこまでが城域かも判然としない。面白みに欠け、藪の中を当てもなく彷徨うだけのような感じで、あまり満足感の得られる城ではなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.740427,140.925665&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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町田楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3742.JPG←主郭外周の横堀
 町田楯は、歴史不詳の城である。城の近くの道路に往古の「奥州上街道」であったことを示す表示があることから、街道を押さえる要害として機能したことが考えられる。
 町田楯は、芋埣川北側に横たわる比高40m程の丘陵の小ピークに築かれている。ほぼ単郭の小規模な城で、主郭の東側から北側にかけて横堀で防御し、西側の尾根筋には三重堀切を穿っている。主郭南東部に虎口があるが、虎口の隣に横堀に繋がる虎口が開かれており、囮虎口の様にも見受けられる。また、前述の三重堀切から落ちる竪堀の下端は腰曲輪に接続しており、この腰曲輪は延々と南斜面に伸びている。小規模ではあるが、細かい技巧性を持った城で、なかなか面白い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.77125,140.961499&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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真坂楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3651.JPG←主郭西側の堀切
 真坂楯は、大崎氏の家臣狩野氏(一迫氏)の居城と言われている。豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が没落し、1591年に伊達領となると、伊達氏譜代の重臣冨塚宗綱が真坂楯主となった。以後、1717年に冨塚重標が領地を没収されるまで、約130年に渡って冨塚氏歴代の居城となった。冨塚氏の後、1718年に仙台伊達家の重臣白河宗広が真坂楯主となった。宗広は、奥州の白河結城氏の後裔で、その母が伊達騒動の際に幼君亀千代(後の綱村)を守りぬいた功で、「御一門」格に列せられ数々の恩遇を受けた。以後白河氏が歴代の楯主となって幕末まで存続した。

 真坂楯は、一迫川北岸にそびえる龍雲寺背後の標高98mの山上に築かれている。真坂楯の東方900mの位置には、巨大山城 姫松楯が存在する。真坂楯は、簡素な構造の素朴な縄張りで、山頂に主郭を置き、その東斜面や北斜面に腰曲輪を数段配置している。東斜面の腰曲輪は墓地となっているので、後世の改変の可能性があるが、北斜面のものは主郭裏の二段の馬蹄段など、往時の遺構であることが明瞭である。その北西にも腰曲輪が広がり、虎口遺構も確認できる。龍雲寺からの登道が大手と思われるので、こちらは搦手であろう。この他、主郭から堀切を挟んで西側にも平場が広がっているが、一面の薮で確認は困難である。主郭に白河宗広の母(政岡)の墓があるので登るのは容易であるが、腰曲輪など周囲の遺構は藪に埋もれている。真坂楯は、その伝承からすれば戦国時代から存在した城であるが、隣に巨大城郭の姫松楯があるのになぜ築かれたのか、謎が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.749699,140.951715&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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姫松楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3320.JPG←中館背後の二重横堀
 姫松楯は、奥州藤原氏の家臣井ノ山雅楽之丞の城とも、或いは大崎氏の家臣湯山雅楽允の城とも伝えられているが詳細は不明。井ノ山雅楽之丞は、近郷の藤原氏家臣統率しており、1190年に藤原氏残党の大河兼任の乱を援けてこの楯に拠り、鎌倉方の千葉新介・足利上総前司・小山五郎などの東国御家人達を迎え撃って敗れたと言われている。しかし現在残る遺構からすれば、戦国期に改修を受けたことは疑いない。

 姫松楯は、一迫川北岸にそびえる標高90mの断崖上に築かれた城である。現在は姫松館森林公園として整備されており、非常に良質な遺構がよく確認できる。東西550m程にも及ぶ巨大な山城で、大きく3つの城域に分かれるとされる。即ち、西館・中館・東館で、それぞれ多重堀切で分断されている。西麓から伸びる山道を登って行くと最初に現れるのが西館で、頂部の曲輪に祠の祀られた櫓台が備わり、南に向かって数段の段曲輪群が連なり、背後は横堀・土塁で防御されてた、簡素な構造の曲輪群である。ここから東に行くと、三重堀切を越えて中館に至る。中館は東西二郭と間を繋ぐ馬出しで構成されている。中館は東西二郭共に、北面に二重横堀を穿って防御しているが、主郭に当たる西郭のものは特に規模が大きく、しっかり普請されたもので、主郭東西の堀切に接続している。堀切にはいずれも土橋が掛かり、虎口はいずれも土塁で防御されているが、形式は平易な坂虎口である。中館東郭には大きな櫓台が備わり、南斜面に腰曲輪群を築いている。中館から更に二重堀切を越えると東館に至る。東館は最も広い面積を持ち、内部は更に数個の曲輪に分かれている。便宜上これらを、西郭・中郭・中二郭・東郭と呼ぶことにする。西郭~中二郭は、北面に横堀を穿ち、南斜面に多数の腰曲輪群を備えている。ここの腰曲輪群は、明確な切岸で区画され、城内では最も普請がしっかりした腰曲輪群である。中郭~中二郭間は二重堀切で分断され、この二重堀切は南側で二重竪堀となって落ち、更に西側の竪堀はクランクしながら腰曲輪群外周の横堀に変化している。中二郭~東郭間は仕切り土塁で区画されている。東館では東郭だけが二重横堀で外周を囲んでおり、中二郭との間で大きな竪堀・竪土塁を南斜面に築いて分断している。これらの他、東館の腰曲輪最下段からは竪堀が何本も落ちている。

 以上が姫松楯の概要で、かなり広範囲に普請が行われ、しかも二重堀切・横堀等を多用した縄張りとなっている。中でも曲輪外周を巡る二重横堀は伊達氏系山城に見られる特徴であるが、一方で伊達氏系山城のもう一つの特徴である端正な枡形虎口はここでは見られない。全て平易な坂虎口で構成されている。城の規模から推測して地方の土豪クラスの城とは考えにくいが、どの勢力による構築であるかは不明である。姫松楯は、公園化の整備が良好で、遺構の破壊は僅かに抑えられているのが好印象である。しかし標柱や縄張りの詳細解説は無いので、キャッスラーでなければ、何がなんだかさっぱりわからないだろう。しかし宮城北部では屈指の遺構で、必見である。
中館の二重堀切→IMG_3397.JPG
IMG_3489.JPG←東館・中二郭の腰曲輪群
東館・東郭の二重横堀→IMG_3539.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.748544,140.962164&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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宮野城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3257.JPG←ニノ郭の堀切と腰曲輪櫓台
 宮野城は、現地の墓碑によれば、葛西清重の4男重信が1189年に父清重に従って奥州に下向し、1249年に栗原郡宮野郷に宮野城を築いて居城とし、宮野氏を称したと言う。しかし『米良文書』では清重4男は重村とされ、しかも重村の子友村の代でも宮野氏を称したことは記されていない。これは宮野氏が系図を作ったか、系図に混乱があるかどちらかであろう。

 宮野城は、標高65mの丘陵上に築かれた城である。現在主郭は公園化されており、山麓からの山道が整備されていて、車でも途中まで登ることができる。主郭を中心に、派生する尾根に曲輪群を配した縄張りで、主郭背後には堀切を介してニノ郭が広がっている。ニノ郭への登道は往時の虎口と思われる。ニノ郭の北東にも小堀切を介して櫓台を備えた腰曲輪が伸び、それぞれ外周には帯曲輪も伴っている。ニノ郭にはこの小堀切の上方に小さな隅櫓台も築かれている。この他の尾根上の曲輪群は未整備で藪に埋もれている。宮野城は見たところ、古い形態の城であるが、普請は明瞭であり、中世初期の城の雰囲気をよく残していると思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.753866,141.016517&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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柴田城(宮城県柴田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3201.JPG←本丸北の段曲輪
 柴田城は、藩政時代には船岡要害と呼ばれ、後に「伊達騒動」で知られる原田甲斐守宗輔の居城であったことで有名である。現在船岡城址公園となっていることから、一般には船岡城と呼ばれている。しかし私がざっと調べた限り、どうも往時にこの城が船岡城と呼ばれたことはなく、『仙台領古城書立之覚』にも柴田城とあり、藩政時代には「城」ではなく「要害」とされたことから、柴田城或いは船岡要害と呼ぶのが正しいと考えられ、ここでは『日本城郭大系』に従い、柴田城と呼称する。

 柴田城の創築は不明であるが、一説には鎌倉初期の1200年に2代将軍源頼家の命を受けた宮城四郎家業に誅滅された芝田次郎の居城であったとも言われるが明証はない。その歴史がはっきりするのは、伊達氏の所領となった天文年間(1532~55年)以降である。伊達稙宗の時に柴田氏の初代四保但馬定朝が居城四保館(後の柴田城)となった。定朝の子宗義に四保氏を柴田氏に改め、1593年に志田郡桑折に移封されてこの地を離れた。その後、慶長年間(1596~1615年)には屋代景頼が城主となった。1617年、原田宗資がこの地に移封となり、その子宗輔までこの地の領主であったが、1671年に「伊達騒動」で断絶した。この原田時代には、家中屋敷に居住していて、居館をことさら普請することはなかったとされる。1681年、柴田宗意が登米郡米谷から移封されて柴田城に戻り、1694年に船岡要害の建築許可が降り、三ノ丸に居館を造営して歴代の居城とし、幕末まで存続した。

 柴田城は、前述の通り船岡城址公園となっており、公園化でかなり改変が進んでおり、あまり城址らしい遺構を留めていない。山頂部の本丸・二ノ丸には平場が広がり、一部に土塁らしき跡も見られるがはっきりしない。周囲には腰曲輪らしい段々の平場もあるが、これも明瞭ではない。本丸の北に見られる段曲輪が、はっきりと往時の姿を留めている程度である。中腹の三ノ丸も公園化されているが、先端に腰曲輪の原形を留めるなど、こちらの方が遺構は明瞭なようだ。この他、二ノ丸下の中腹に横堀もあったようだが、日没タイムアウトで未見である。山上という地勢以外は城址の名残を感じさせるものが少なく、残念である。
本丸の土塁跡→IMG_3191.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.053464,140.755162&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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中島楯(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3123.JPG←主郭周囲の空堀状腰曲輪
 中島楯は、その歴史は明確ではないが、伝承では亘理権太夫藤原経清の居館であったと言われている。藤原経清は、後の奥州藤原氏の初代となった藤原清衡の実父で、前九年の役の際に当初は陸奥守源頼義に従って俘囚長安倍氏討伐に従軍したが、後に袂を分かって安倍氏と共に敗れ、囚われて処刑された。経清居館の伝承が事実であるならば、奥州藤原氏所縁の城館ということになる。

 中島楯は、国道6号線脇にそびえる比高25m程の丘陵上に築かれている。ほぼ方形に近い円形の主郭の外周に、土塁を伴った空堀状の腰曲輪を廻らし、更に北尾根に堀切を穿っただけの簡素な構造の城館である。主郭にも僅かに土塁が残存しているが、大した防御性も感じられず、伝承通りの古い城館と言うのも頷ける。
北尾根の堀切→IMG_3135.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.948005,140.891461&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:古代山城
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坂元城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3023.JPG←主郭西側の大堀切
 坂元城は、蓑首城とも呼ばれ、亘理城主亘理美濃守重宗の家臣坂元三河守によって築かれた城である。坂元氏は愛宕山城を居城としていたが、相馬氏の攻撃で落城し、父の大膳が討死した不吉な城であったことから、1572年に新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。1589年、伊達政宗が相馬氏の駒ヶ嶺城を攻略した際、坂元三河守も亘理元宗にしたがって出陣し、討死した。1591年に亘理氏が遠田郡涌谷に移封となると、三河守の子もこれに従ってこの地を離れた。その後の坂元城主ははっきりしない部分もあるが、後藤信康・黒木守元・津田景康と変わったと考えられている。明確になるのは1616年以降で、伊達氏の一族大條長三郎宗綱が坂元城2千石を拝領してからである。坂元城は、元和の一国一城令で坂本要害と名を変え、以後、大條氏が城主を歴任し幕末まで存続した。

 坂元城は、坂本神社の建つ小丘陵に築かれている。丘陵上に本丸があり、北麓の平野部に二ノ丸、更に出曲輪状の三ノ丸があり、二ノ丸外周は堀で囲まれていた。しかし現在は宅地化でかなりの遺構が失われている。主郭内は堀切で分割されており、東側の長方形の平場と西側の細い曲輪に分かれている。西側の細い曲輪の西辺には土塁が築かれ、その裏には大堀切が穿たれている。一方、二ノ丸は坂元小学校などに変貌している。一部に僅かに土塁が残る他は改変が進み、堀は畑や宅地となっていて、往時の姿を想像するのも難しい程である。三ノ丸に至っては完全に湮滅している。結局、主郭西側の土塁と大堀切が唯一の見所で、主郭内の堀切もどのような意図で穿たれたのか意味不明である。尚、城址南の丘陵上に大條氏の墓所があることを、神社のおばさんが教えてくれたので訪問したが、この墓所も出城っぽい雰囲気であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.917744,140.89335&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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小斎城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2857.JPG←ニノ郭堀切と馬出郭
 小斎城は、金山城丸森城と並ぶ伊具三城の一つで、伊達・相馬両氏の争奪の場となった城である。『日本城郭大系』では柴小屋館、現地表記では柴小屋城と呼ばれるが、現地解説板によれば、本城である柴小屋城と、出城である西舘城の2つを合わせて、小斎城と呼んでいた様である。伊具郡が伊達・相馬両氏の係争地帯となったのは、伊達氏家中の内乱「天文の乱」に端を発する。その経緯は丸森城の項に記載する。1565年に稙宗が丸森城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた伊具郡は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、これが伊達氏と相馬氏の争いの原因となった。もともとこの地には、1515年頃より小斎邑の領主小斎山城助・長門守・平太兵衛の歴代の居城として西舘城があったらしいが、この相馬氏による伊具郡占領の際、1566年に小斎平太兵衛は相馬氏の家臣藤橋紀伊胤泰に滅ぼされ、以後相馬氏の持ち城となった。1576年になると、伊達晴宗・輝宗父子は伊具郡奪還に乗り出し、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かった。一方、相馬盛胤は伊達勢を防ぐため、佐藤宮内為信・泉大膳に命じて小斎城を改修して防衛力を強化した。この頃は、小斎城下は深田が広がっており、矢ノ目合戦は伊達方が多くの犠牲者を出して撤退したと言われている。しかし1581年に転機が訪れる。即ち、相馬氏は小斎城の城番の交代として金澤美濃を派遣したが、小斎城主佐藤為信は、父好信が相馬家中の権力争いで憤死していた為、伊達氏の誘いに乗り金澤美濃を斬って伊達氏に寝返った。これを機に伊達輝宗・政宗父子は矢ノ目に出陣して伊具郡を攻撃した。角田城から阿武隈川を渡る橋頭堡を得た伊達氏は、以後戦況を有利に展開し、1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城を相馬氏から奪還することに成功した。小斎城は、戦功のあった佐藤氏がそのまま城主として置かれ、1615年、元和の一国一城令で廃城となった。その後も佐藤氏は、旧城下に屋敷を構えてこの地の領主として幕末まで存続した。

 小斎城は、阿武隈川東岸の平野の東にそびえる、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。登道が数ヶ所整備されている。東西に伸びる尾根上に一直線状に曲輪を配し、各曲輪を堀切で分断した連郭式の大城塞となっている。各曲輪を分断する堀切は深く鋭く、非常に独立性が高い。殊にニノ郭前面にある馬出郭は、鋭くそびえた独立堡塁の形状となっており、駿河丸子城の独立堡塁によく似た印象を受ける。馬出郭の前面にも構築はやや浅いが虎口郭を備え、馬出郭と合わせて多重枡形を形成している。城の主要部である主郭・ニノ郭には広い腰曲輪群が取り巻き、物見台や土塁も築かれて防御を固めている。一方、虎口郭から西側が「西舘城」とされ、東斜面に横堀や腰曲輪を備えている。ここから南西に派生する尾根にも曲輪群や堀切が確認でき、城域であったことがわかる。主郭の東側には馬屋跡とされる曲輪があり、先端の堀切の先が三ノ郭とされている。三ノ郭の先にも物見の曲輪群があり、もう1本堀切も穿たれている。小斎城は、主要な曲輪はよく整備されているが、腰曲輪は全く未整備で、藪で覆われている。しかし伊達・相馬両軍によって攻防の的となった大城郭の名残りははっきりと見て取れる。
主郭~ニノ郭間の堀切→IMG_2895.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.920656,140.82829&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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黒森山砦(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2618.JPG←ニノ郭頂部の櫓台状の高まり
 黒森山砦は、金山城の尾根続きに築かれた城砦である。金山城の歴史を記載した現地解説板の中に、1588年に伊達氏が「相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に、新たな石塁・土塁・堀切などの防護施設を造り、一段と強固な構えに改築を行った」とあることから、この戦国末期に金山城の防衛力強化のために築かれたと推測される。

 黒森山砦は、前述の通り金山城背後に繋がる尾根上の、2つのピークにまたがって築かれている。『日本城郭大系』にも記載のない城砦だが、金山城二ノ丸には「黒森山砦」と記載された誘導標識が出ている。城域は、主城である金山城の倍近くもあり、金山城背後に控える大城塞である。基本的には、2つの尾根の曲輪群で構成された一城別郭の構成となっている。それぞれ山頂の曲輪を中心に、その外周に腰曲輪を数段連ねただけの構造で、明確な堀切はなく曲輪群のみで構成されている。特にどちらのピークが主とも言い難いが、南のピークの方が頂部の平場が広く、こちらが主郭群とも考えられる。全体に曲輪の削平は明確で、はっきりと城郭遺構と認識されるレベルの構築である。金山城解説板にある「石塁」はどこのことかはっきりしないが、北のニノ郭群の頂部の曲輪に櫓台状の高まりがあり、その周辺に石が散乱しているので、そのことを指しているのかもしれない。またニノ郭群の西の腰曲輪には物見台も築かれている。曲輪群だけで特色の少ない城砦だが、金山城の防衛のために全山城塞化していたことは見て取れる。
主郭の腰曲輪→IMG_2648.JPG
IMG_2699.JPG←ニノ郭腰曲輪の物見台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.893466,140.806253&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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金山城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2566.JPG←二ノ丸にそびえる高石垣
 金山城は、藩政時代には金山要害と呼ばれ、伊達氏の支城である。元々は、永禄年間(1558~69年)にこの地を押さえた相馬氏の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したと言われている。その後、1576年以降に伊達輝宗が伊具郡奪還に乗り出し、伊達・相馬両家の間で激しい攻防が繰り返された。1581年には伊達政宗がこの地を巡る戦いの中で初陣を飾った。1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城(小斎城・金山城・丸森城)を相馬氏から奪還することに成功した。輝宗は、おそらくこの和睦成立を見届けて、若い政宗に家督を譲った。政宗は、この戦いに最も手柄のあった家臣の中島宗求を金山城主とした。1588年には、相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に新たな石塁・土塁・堀切などの防御施設を設けて、一段と強固な構えに改修した。奥州仕置や江戸時代以降も中島氏が歴代の城主を務めた。藩政時代には一国一城令により城の名を去り、江戸幕府に備えて伊達領内に取り立てた二十一要害の一、金山要害と呼ばれたが、そのまま存続して幕末まで至った。

 金山城は、標高117m、飛行96mの独立丘陵の北峰に築かれている。城は公園化されて整備されているため、遺構がよく確認できる。山頂に本丸を置き、その外周に腰曲輪状のニノ丸を配し、周囲の支尾根に馬蹄状曲輪を築いた縄張りとなっている。馬蹄状曲輪は、いずれもニノ丸との間に堀切が穿たれているが、城内通路も兼用した堀切は比較的浅く、それほどの防御性を持っていない様に思われる。ニノ丸には、高石垣がそびえていて異彩を放っており、この城のシンボルともなっている。この石垣は、長方形の比較的小さな石を一直線の勾配で積み上げたもので、独特な石垣となっている。この他にも、三ノ丸の大手埋門跡や北出丸の埋門跡などに石垣の残欠が散在しており、近世の改修の跡を窺わせている。また、「家中」という南の出丸との間には、枡形虎口らしい跡が見られるが、それ以外の虎口は平易な造りである。あまり技巧性は感じない城であるが、中世山城の雰囲気を色濃く残した近世城郭で、高石垣など見所が多い。尚、背後に続く丘陵には黒森山砦が築かれている。
二ノ丸と堀切先の兵具蔵曲輪→IMG_2540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.897157,140.802691&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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鳥屋館(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2390.JPG←本丸の堀切
 鳥屋館は、伊達氏家臣大條薩摩守実頼が築いた近世城郭である。実頼は、1601年に丸森城主となったが、その年の内に鳥屋館を築いて居城を移した。1644年に大條氏が尾山に移封となると、山口内記・遠山勘解由を経て、佐々氏が鳥屋館に入部し、7代続いて明治維新に至った。

 鳥屋館は、阿武隈川南岸の丘陵上に築かれている。鳥屋嶺神社の東側に堀切が2本あって、台地を分断している。本丸はその東側にあり、広い平場で、南側に一段低い平場が付随している。一面の芝生となっているが、公園にでもするのであろうか?本丸の東側は急斜面となっている。前述の2本の堀切の間はおそらく二ノ丸であるが、縦長の方形の曲輪となっている。その西側が鳥屋嶺神社になるが、神社がある場所も曲輪であったと思われる。その西側も急斜面となっている。鳥屋館は、明確な遺構は2本の堀切ぐらいしか無いが、遺構があるだけマシであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.916187,140.769067&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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小堤城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2322.JPG←東側の土塁
 小堤城は、この地の豪族亘理氏の歴代の居城である。亘理氏は、下総の名族千葉氏の庶流武石氏の後裔で、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の戦功により、千葉常胤に陸奥国諸郡の地頭職が与えられ、常胤は6人の息子達にこれらを分与した。常胤の3男三郎胤盛が武石氏の始祖で、その後1302年に武石宗胤が亘理の地に下向して亘理氏の祖となった。南北朝時代には、亘理氏は陸奥国司・鎮守府大将軍として国府多賀城に下向した北畠顕家に従って南朝方として活動したが、南朝方が逼塞すると北朝方に転じた。この南北朝期の広胤の代に、亘理氏を称したとされる。小堤城がいつ築かれたかは定かではないが、この頃には亘理氏の居城となったものだろう。その後亘理氏は、周辺諸豪と抗争して勢力を競ったが、伊達氏の勢力が伸長すると、伊達氏に従属した。亘理宗隆の時、嗣子がなかった為、伊達稙宗の子綱宗を養子とし、綱宗が天文の乱で討死すると、その弟元宗を改めて養嗣子とした。こうして伊達氏の親族となって、伊達宗家を支えて度々戦功を挙げた。天正年間(1573~92年)には、元宗・重宗父子が伊達氏の命で相馬氏と度々戦ったが、この頃には居城をより要害性の高い亘理城(後の亘理要害)に移したと考えられている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は遠田郡の百々城に移り、間もなく涌谷城に移った。以後、伊達氏一門として涌谷伊達氏となって幕末まで存続した。

 小堤城は、亘理要害の南西のなだらかな丘陵地に築かれた平城である。現在は大雄寺となっており、城跡というより境内にある伊達成実を祖とする亘理伊達氏の歴代の廟所の方が有名である。寺域となって改変を受けているが南半の土塁は残っており、最大で高さ3m程ある。亘理伊達氏の廟所は、南面の土塁上に建てられている。外周には堀もあったと思われるが、現在では耕地化で湮滅している。現在の遺構から見る限り、小堤城はおそらく方形居館であったのだろう。土塁以外に城跡らしさは残っていないが、亘理伊達氏の廟所をお参りに行くだけでも十分価値がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.027997,140.845606&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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亘理城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2259.JPG←本丸切岸と内堀
 亘理城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、亘理要害と呼ばれた城である。元々はこの地の豪族亘理氏の居城で、天正年間(1573~92年)に亘理元宗・重宗が伊達氏の命で相馬氏と度々戦った頃には、小堤城から亘理城に居城を移していたと推測されている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は百々城・涌谷城へと移り、代わって亘理城には、政宗股肱の臣片倉小十郎景綱が入った。1600年の関ヶ原合戦の後、刈田郡が伊達領となると景綱は白石城に移封となり、亘理城には伊達一門の重臣伊達成実が入城した。成実は、大森城主伊達実元(稙宗の5男)の嫡子で、人取橋の合戦では寡勢の伊達勢にあって奮戦し、摺上原の戦いでも敵の側面を強襲して敵勢を突き崩す等、勇名を轟かせた。後へ退かないと言う意味の「ムカデ(或いは毛虫とも)の前立て」でも有名で、1歳違いの政宗を補佐して大功があったが、政宗の元から謎の出奔をし、関ヶ原の前哨戦である白石の役で伊達家に帰参して戦功を挙げた。亘理城に入ってからは、亘理伊達氏の祖となり、以後伊達一門でも最高の知行を有する亘理伊達氏の歴代の居城となった。元和の一国一城令で城の名は廃され、亘理要害と称されて幕末まで存続した。戊辰戦争では仙台伊達藩は奥羽列藩同盟の盟主として政府軍と戦ったが、各所の戦いで敗れ、亘理要害の御館(本丸)で伊達藩は降伏した。

 亘理要害は、比高10m程の東西に長い丘陵上に本丸(御館)を置き、その西続きに馬場、東の平地部に外堀で囲んだ二ノ丸を置いていた。現在はかなり改変が進んでしまっており、本丸は往時の雰囲気を残すが、南北にあった城門跡を車道が貫通して破壊を受けている。本丸には土塁が廻らされていたらしく、亘理神社の背後や車道の東側の段丘上(本丸の一部)に土塁が残っている。また本丸南には内堀が残り、それに沿って往時の雰囲気をよく残す切岸が見られる。その他は改変されており、二ノ丸はスーパーになり、馬場は亘理高校となっている。もっと破壊されているかと思ったが、内堀が残るなど想像していたより遺構が残っており、城の雰囲気はよく残っていると感じられた。
往時の雰囲気を残す本丸切岸→IMG_2258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.033743,140.850713&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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若林城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2239.JPG←北西角の横矢張出しの土塁
 若林城は、貞山公伊達政宗の隠居城である。この地には元々、この地を領した国分氏の城があったと言われ、城の北側では戦国時代の屋敷跡などが発掘されていることから、戦国時代の頃から政治的・経済的拠点の一つであったと推測されている。政宗は、1627年2月に幕府の許可を受けて築城を開始し、翌年11月に普請が成ったばかりの若林城に移った。若林城の周囲には一門以下の家中が屋敷を連ね、町屋敷も置かれて仙台城とは別個の城下町を形成した。晩年の政宗は1年の大半を若林城で過ごし、1636年に政宗が江戸藩邸で病没すると、若林城は政宗の遺命の通りに掘一重を残して廃され、1639年には忠宗の命で若林城内の屋形が仙台城二ノ丸に移された。明治12年に宮城集治監が建設され、現在の宮城刑務所に至っている。

 若林城は、奥州随一の大大名が築いた近世の平城らしく、大きな堀と土塁で外周を囲まれ、南東を除く3つの角部と南面中央には横矢の張出しが構えられ、隠居城とは言うものの有事の際の陣所となるべく臨戦的な構えとなっている。前述の通り現在は刑務所となっており、周囲にも刑務所関連施設が建てられている為、あまり遺構に近づくことができない。(上の写真の駐車場も刑務官の駐車場で、立入禁止!)僅かに外周の一部で堀脇に近づける箇所があり、そこから大きな堀と土塁を遠目に眺めることができるだけである。当然堀底には入れず、土塁になど登ろうものなら逮捕されることは間違いない。NHKのブラタモリで紹介された時には、枡型の大土塁と、政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰った「臥龍梅」が映されていたが、これも一般人は目にすることはできない。刑務所となったおかげで遺構は守られたが、一方でキャッスラーにとっては城内への入場はおろか、遺構を間近で見ることもできず消化不良になる城で、胸中は複雑である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.236798,140.902233&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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利府城(宮城県利府町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2192.JPG←主郭の現況
 利府城は、元の名を村岡城と言い、岩切城主留守氏の有力支族村岡氏の居城である。留守氏は室町時代には大崎・伊達両氏に挟まれて、家中は両派に分裂して抗争を繰り返した。最後は伊達派が勝利を収め、伊達氏に属してその入嗣も受け入れるようになった。しかし村岡氏は親大崎派の頭目であり、伊達晴宗の3男政景の入嗣の際は、村岡兵衛・余目伊勢・佐藤六郎佐衛門らが強く抵抗し、特に村岡兵衛の反抗が最も激しく、結局政景は1569年12月から翌年にかけて村岡城に立て籠もった村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。そして村岡氏滅亡からまもなくの元亀年間(1570~73年)に、政景は居城を岩切城から村岡城に移し、城名を利府城に改めた。留守政景は、伊達氏当主となった若き政宗を補佐し、度々の合戦で活躍し、政宗の信頼が厚かった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で政景は所領を没収されて黒川郡大谷城に移り、利府城は廃城となった。その後留守氏は、伊達氏の家臣と見做されて政宗の下で活動し、後に伊達一門に列せられて、その子孫は水沢伊達氏となって幕末まで存続した。

 利府城は、利府小学校の裏にそびえる比高70mの山稜上に築かれている。現在主要部は館山公園として整備されている。『日本城郭大系』の記述によれば、山上の3つのピークにそれぞれ、北東郭・中央郭・南西郭が設けられ、それぞれが腰曲輪群で囲繞されて独立した曲輪群として機能していたらしい。中央郭が主郭とされ、城址碑が建っている。城内は全体に公園化に伴うと思われる改変がひどく、腰曲輪以外の遺構はほとんどわからない。また主郭などは広いことは広いが削平が甘く、伊達氏の有力家臣の居城として戦国末期まで存続した城とはとても思えないレベルである。北東郭は公園外で未整備のため、未踏査であるが、中央郭(主郭)との間には堀切跡と思われる窪地が確認できる。利府城は、留守政景の居城であり期待して行ったのだが、公園化失敗の典型例で、各部の標柱もなく縄張りもはっきりしない。あまり市民の愛着を感じない、残念な城である。
北東郭との間の堀切らしい窪地→IMG_2185.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.335799,140.981069&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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石巻城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2116.JPG←城跡の現況
 石巻城は、日和山城とも呼ばれ、奥州葛西氏の嫡流石巻葛西氏の居城である。葛西氏は、豊島清光の三男清重を祖とする、下総国葛西荘を本貫とする豪族であった。清重の事績については、葛西清重館の項に記載する。清重に対する源頼朝の信頼は厚く、殊に奥州合戦での軍功を高く評価され、陸奥国御家人の惣奉行を命じられ、胆沢・磐井・牡鹿・江刺・気仙の五郡と興田・黄海の二保という広大な所領を拝領した。葛西氏の系図は、近世に没落した戦国大名に多く見られる通り不明点が多いが、一関博物館監修の『葛西氏の興亡』によれば、大略以下のようになる。奥州藤原氏滅亡以後、平泉は幕府直轄的な扱いを受けて、葛西氏が平泉に屋敷を構えて諸務を取り仕切ったが、鎌倉御家人である葛西氏は常住せず、代官が赴任していた。一方、五郡二保の広大な所領は、葛西氏惣領家が取り仕切る建前ながら、実際には一族の多くに譲与されて、分割知行されたらしく、多くの庶家に分かれて五郡二保の各所に割拠した。葛西惣領家がいつ奥州に下向したかは定かではないが、4代宗清・5代清貞の頃と考えられている。1333年、倒幕に挙兵した新田義貞の元に、多くの御家人が参陣し、葛西氏もその中にいた。倒幕に成功した後醍醐天皇が建武の新政を始めると、北畠顕家を陸奥守・鎮守府将軍として陸奥国府多賀城に下向させ、東北の武家を統括させた。この顕家の下で奥州南朝方の柱石として活躍した武将の中に、白河結城宗広・伊達行朝と並んで葛西清貞がいた。この頃、清貞は多賀城に程近い石巻に石巻城を築いて居城としたと考えられる。葛西一族も決して一枚岩ではなく、北朝方に付いた一族もあったが、葛西氏の大方は南朝として活動し、顕家が畿内で討死し、その後代わって奥州に下向した北畠顕信も北朝に敗れて北へ敗走すると、葛西氏も程なく北朝方に帰順したと考えられている。その後、室町時代を通して五郡二保には葛西氏の支配が続くが、有力家臣団の統制は盤石ではなく、家臣団が度々独自の行動を取ったり、互いに反目して合戦に及ぶことがあった。1511~12年、葛西氏12代宗清(実は伊達成宗の子)は山内首藤氏の桃生郡・登米氏の登米郡を平定し、いつの頃からか石巻城から登米寺池城に本拠を移した。石巻城はこの時に廃城となったと推測される。葛西氏はその後、15代晴胤の時に伊達氏の内乱「天文の乱」に巻き込まれ、これ以後葛西領では有力家臣の勢力増大によって内乱が頻発した。16代晴信の時には、隣接する大崎氏との戦いも激しくなり、領国経営に苦心した。1590年の小田原の役では、晴信は領内の争乱などへの対処から参陣できず、その後の豊臣秀吉による奥州仕置で改易され、所領を没収されて葛西氏は没落した。同年10月、新領主となった秀吉の家臣木村伊勢守吉清・清久父子の暴政により、葛西・大崎旧臣による葛西・大崎一揆が発生したが、翌年伊達政宗によって一揆勢は殲滅され、葛西氏再興の道は絶たれた。

 石巻城は、旧北上川の河口近くにそびえる比高50m程の段丘上に位置している。城域は全て改変されており、明確な遺構は確認できない。最高所の鹿島御児神社が建っているのが主郭であろうか。その南側は日和山公園となっているが、僅かに腰曲輪らしい段が見られるが、改変が進み遺構かどうかはわからない。そもそも石巻城の存在そのものが、昭和58年の発掘調査が行われるまでは伝承だけの存在で、発掘調査で初めて中世城館の跡として確認された程なので、表面上の遺構には全く期待できない。
 尚、日和山の南面の眼下は一面の津波被災地で、震災から5年近く経った今でもその爪痕が生々しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.423739,141.308255&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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梶原楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2025.JPG←主郭背後の堀切
 梶原楯は、『安永書出』によれば梶原氏の居館とされている。詳細は不明であるが、葛西氏被官の土豪の居城であったものだろう。
 梶原楯は、田の浦地区の東の入江に突き出した高台上に築かれている。旭岡八幡神社の裏手に位置しており、神社から北に進むと腰曲輪の平場が見られ、その上に方形の主郭がある。主郭の北半分は土塁で囲まれており、その裏には北に繋がる尾根を堀切で遮断している。但し、それほど鋭い堀切ではないので、分断効果は限定的である。主郭の西側には腰曲輪が何段も築かれているが、東側は急峻な地形の制約により1段しか築かれていない。海に面した高台に築かれた小規模な城館であるが、遺構は明瞭である。
 尚、この地も東日本大震災の大津波で被災しており、港などがまだ壊れたまま残っている部分もあるが、この地の人達が笑顔で力強く生きているのには心打たれた。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_2035.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.736879,141.545877&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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津谷楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←巨大な三重横堀の一つ
 津谷楯は、獅子ヶ楯(館)とも言い、津谷村の豪族米倉氏の居城と伝えられている。米倉氏の出自については諸説あり、『峰仙寺縁起』や『米倉系譜』によれば、南北朝時代に葛西氏家臣の薄衣内匠亮清村が米倉氏を名乗り、1326年に津谷村に移館し、その後、次男の米倉玄蕃持村が津谷・平磯・岩尻三村を所領して、1372年に津谷楯に居したと言う。また城主の名は米倉左近将監とも伝えられる。いずれにしても、葛西氏の家臣としてこの地に勢威を振るい、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易になると没落した。その後の「葛西大崎一揆」に加わった武将の中に「米倉右近行友」の名が見え、結局は蒲生氏郷の奥州仕置軍に敗れて滅亡したと考えられる。

 津谷楯は、舘岡と呼ばれる比高40m程のなだらかな丘陵上に築かれている。頂部の主郭は公園化されて忠魂碑が建ち、その下の一段低いニノ郭には福祉センターが建っていて、城の主要部はかなり改変を受けている。福祉センターの南側にも民家や畑の平場が見られ、腰曲輪だったものと考えられる。この城で特徴的なのは、西側斜面に穿たれた大規模な三重横堀で、最大で深さ8m程もある。北側では内側の2本が合流して1本となっており、二重堀切となって背後の丘陵基部との間を遮断している。三重横堀の南側には、大竪堀が穿たれて、横堀先端を断ち切っている。竪堀の南側にも二重横堀が穿たれ、その先にも竪堀が落ちている。2本目の竪堀の先も横堀1本が伸び、前述の腰曲輪付近まで来ているが、その先は埋められて改変されている様だ。一方、昭和20年代前半の航空写真を見ると、横堀は主郭背後を円弧を描いて東側まで伸びているらしく、東側の山林にも遺構が眠っている可能性があるが、未確認である。いずれにしても、堀の規模・構造は戦国大名の北条・武田の城並みの豪壮なもので、地方勢力の構築にしては大き過ぎる。地方豪族の権力というものを考察する上でも興味深い城である。
横堀を分断する大竪堀→IMG_1886.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.796022,141.505923&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小屋楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1856.JPG←城址の現況
 小屋楯(小屋館)は、古谷館とも記載され、赤岩城主熊谷氏の支城である。熊谷左京進信直の居城であったと言われ、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で主家葛西氏と共に没落した。
 小屋楯は、松崎地区にある標高20mの細長い丘陵先端に築かれている。現在は古谷館八幡神社が鎮座しており、八幡神社があるのが主郭とされる。主郭の前には段曲輪の跡と思われる、小さな平場があり、また主郭背後の一段低い宅地(神主さんの家?)はニノ郭跡とされる。神社敷地としてほとんど改変されており、地勢以外に残っている遺構はない。尚、この地の眼下には東日本大震災の被災地が広がっている。震災の時には、多数の氏子が津波に飲まれて命を失ったが、150余名の氏子は八幡神社に駆け上がって一命を取り留めたと、新しくされた由緒書きに記載されている。被災地の現況を目の当たりにすると、未だ震災復興の道程は長いことを思わずにはおれない。
眼下の被災地(2015年11月現在)→IMG_1855.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.872542,141.582527&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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長崎楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1817.JPG←主郭西側の堀切
 長崎楯は、赤岩城主熊谷氏の支城である。長崎楯の創築については文献がなく不詳であるが、戦国期の熊谷氏一族の内訌の中で歴史の表舞台に現れる。1533年、赤岩城主12代熊谷直景が葛西氏に背任の疑いをかけられて攻め滅ぼされると、直景の弟で長崎楯城主の直光が、葛西氏から赤岩城の領地を与えられたが、これを機に熊谷一族内部で内紛が起こった。その経緯は赤岩城の項に記載する。結局40年にも及んだこの内訌は、長崎楯の熊谷氏の滅亡で終止符が打たれた。

 長崎楯は、その名も「舘山」地区の最高所の標高64mの丘陵上に位置している。この舘山地区は殆どが住宅地に変貌しているが、かなり急峻な地形となっており、上り坂の勾配もかなりきついので、ここで生活している人の苦労は想像するに余りある。楯跡は長円形の平場となっており、畑となっている。主郭外周には腰曲輪らしい平場が、やはり畑などになって残っている。主郭の西側にも平坦な平場が数段広がっており、ここも曲輪だったのだろう。主郭の西側には土塁と明確な堀切が1本あり、ここが楯跡であることを明示している。訪城した時、最初はこの推定地が楯跡である確証がなかったが、この堀切のおかげで場所確定となった。長崎楯は、城郭遺構としてはあまり面白みはないが、陸奥熊谷氏内訌の舞台として重要である。
主郭跡→IMG_1819.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.905445,141.562228&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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中楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1755.JPG←二ノ郭と主郭
 中楯(中館)は、赤岩城主熊谷氏の支城である。築城には諸説あり、建武年間(1334~38年)に熊谷直高が居城としていたとも、1438年に磐井郡中里にいた熊谷直継が築城したとも言われている。熊谷氏一族の事績については赤岩城の項に記載する。1533年以後の熊谷氏一族の内紛では、中楯城主熊谷氏も重要な役割を演じた。1574年4月、中楯城主熊谷上総直平が挙兵して赤岩城・長崎楯月館城を攻撃した。葛西晴信は熊谷一族に命じて中館を攻撃させ、直平一族は大敗して自刃し、直平の子直勝は、気仙郡に敗走した。その後、長崎楯城主2代直正の子直房が中楯城主となった。その後は1590年に豊臣秀吉の奥州仕置で主家葛西氏が所領を没収されて没落すると、熊谷氏も同様に所領を失い、中楯は廃城となった。

 中楯は、熊谷氏本城の赤岩城から西方に直線距離でわずか650m、松川川対岸に位置する丘陵上に築かれている。西の鞍部まで車道が通っており、その脇から誘導杭に従って登ることができる。月館城と同様、大きく主郭・ニノ郭で構成され、その周辺に腰曲輪・段曲輪を廻らした構造となっている。主郭には祠があり、二ノ郭は公園化されて見晴らしが良い。特に二ノ郭では、地元の方達が熊谷直宗の750年法要のために作った紅白の旗が青空の下に翻り、あまりの整備の良さにびっくりしてしまった。しかし、主郭・ニノ郭以外の曲輪はほとんど手付かずである。ニノ郭への登り道の途中にも、腰曲輪の平場があるが耕地化されている。西の丘陵基部は赤岩城や月館城と同じく堀切があったと思われるが、林道開削で改変されている。中楯は、赤岩城・月館城と比べると、遺構の規模・構造ともに最も簡素な作りである。
ニノ郭の腰曲輪→IMG_1749.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.916247,141.543345&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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月館城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1674.JPG←北西端の円弧状の横堀
 月館城は、赤岩城主熊谷氏の支城である。築城には諸説あり、建武年間(1334~38年)に熊谷直延が居城としていたとも、1481年以降に赤岩城主11代熊谷直定の子直政が築城したとも言われている。熊谷氏一族の事績については赤岩城の項に記載する。1533年以後の熊谷氏一族の内紛では、月館城主熊谷氏も重要な役割を演じた。1578年12月に、月館城主4代熊谷掃部直澄が挙兵し、本家の赤岩城主を凌ぐ勢力を有していた長崎楯城主熊谷直良と松川で合戦して敗死させると、40年以上も続いた熊谷氏の内紛は、月館城の勝利で終止符が打たれた。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で主家葛西氏が所領を没収されて没落すると、熊谷氏も同様に所領を失い、月館城は廃城となった。

 月館城は、赤岩城の北西800mの位置、標高70mの丘陵上に築かれている。東側に続く稜線との間は堀切で分断しており、その南の谷戸に沿って、腰曲輪らしい平場が何段か確認できる。山上の城は、大きく主郭とニノ郭の2つの平場で構成され、主郭内部もわずかな段差で2段に分かれている。主郭とニノ郭外周には腰曲輪が廻らされ、北西端は円弧状の横堀で防御している。またこの横堀から武者走りで繋がった北端部にも、堀切で分断された独立堡塁がある。主郭と二ノ郭の間にも箱堀状の浅い堀切があり、よく見ると主郭側の切岸に石積らしい跡が見られる。ニノ郭の南側には段曲輪群が数段続いている。月館城は、赤岩城と比べるとさすがに規模は小さいが、横堀を備えるなど赤岩城よりもやや進んだ築城技術を取り入れている様である。
東尾根との間の堀切→IMG_1642.JPG
IMG_1698.JPG←堀切に見られる石積みらしき跡
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.920405,141.543067&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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赤岩城(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1538.JPG←主郭と櫓台
 赤岩城は、気仙沼を本拠とした豪族、陸奥熊谷氏の居城である。熊谷氏と言えば、何と言っても一ノ谷の合戦で勇名を馳せた熊谷直実が有名だが、陸奥熊谷氏はその後裔である。即ち、源頼朝が奥州藤原氏を討ち滅ぼした奥州合戦の軍功により、直実の子直家は本良庄(南三陸地方)の地頭職を賜り、その子直宗は1223年に本吉・桃生の2郡を与えられて気仙沼に入部し、赤岩城を築いて居城とした。以後、陸奥熊谷氏宗家の歴代の居城となり、周辺各地に庶家を分封して勢力を拡大した。南北朝時代になると葛西氏の侵攻を受け、赤岩城に立て籠もってこれを度々撃退したが、勢力は漸減し、1363年、6代直政は遂に葛西氏に臣従した。以後は葛西氏の下で勢力の回復を図り、赤岩城周辺に月館城中楯長崎楯を築いて一族を分封した。1533年、赤岩城主12代熊谷直景が葛西氏に背任の疑いをかけられて攻め滅ぼされると、直景の弟で長崎楯城主の直光が、葛西氏から赤岩城の領地を与えられたが、これを機に熊谷一族内部で内紛が起こった。1574年4月、中楯城主熊谷上総直平が挙兵して赤岩城・長崎楯・月館城を攻撃した。葛西晴信は熊谷一族に命じて中館を攻撃させ、直平一族は大敗して自刃し、直平の子直勝は、気仙郡に敗走した。その後、長崎楯城主2代直正の子直房が中楯城主となった。1578年12月、今度は月館城主4代熊谷掃部直澄が挙兵し、本家の赤岩城主を凌ぐ勢力を有していた長崎楯城主熊谷直良と松川で合戦した。激戦の末に直良は討死し、40年以上も続いた熊谷氏の内紛は、月館城の勝利で終止符が打たれた。その後、1590年の小田原の役の際、主家の葛西氏が豊臣秀吉の元に参陣しなかった為、その後の奥州仕置で葛西氏は所領を没収されて没落し、熊谷氏も同様に所領を没収されて没落した。

 赤岩城は、松川川西岸の標高87m、比高67mの丘陵上に築かれた城である。城へは西麓から登道が整備されている。多数の段曲輪群で構成された大規模な城で、八幡神社が建てられた主郭を中心とした東郭群、その西側の丘陵上に展開する西郭群、更にその北側に谷戸を挟んだ尾根上に展開する北郭群に分かれている。西麓からの登道はかつての大手道と考えられ、左右を北郭群と西郭群に挟まれている。大手の谷戸にも平場群が広がっており、この辺りの構造は武蔵日尾城とよく似ている。北郭群は東郭群の北端から西に伸びる尾根上に一直線上に段曲輪を連ねている。先端の小郭は、大手道を睥睨する位置にあり、大手に進入する敵兵に対する防衛の櫓台となっていたと考えられる。北郭群と東郭群の接続点北側に搦手虎口があり、城域北端の堀切に城道が繋がっている。堀切手前にも段曲輪があって防御を固めている。東郭群は、中央の一番高い位置に主郭があり、櫓台跡と思われる高台に八幡神社がある。神社裏には塚があるので、元々宗教的な施設があったらしい。主郭の南に伸びる尾根に段曲輪が何段も続き、東郭群全体の側方にも綺麗に削平された腰曲輪が延々と伸びている。東郭群から北西に向かうと西郭群最上部の平場に至り、ここには城内で最も広い平場が広がっている。実質的な二ノ郭だったものだろう。二ノ郭は2段の平場に分かれ、背後と南端部に土塁を築いている。外周は腰曲輪を何段にも廻らし、二ノ郭から派生する西尾根と南尾根にそれぞれ段曲輪群を築いている。西尾根の曲輪群は、北郭群と大手道を挟んでいる。一方、南尾根の曲輪群は、ニノ郭先端の小堀切の先に一直線に段曲輪を連ねている。ニノ郭(西郭群)と東郭群の接続点には大手道が繋がっている。ここから大手の谷戸に降っていくと、谷戸の大手道が東郭群に突き当たる場所に、小規模な大手虎口が築かれている。

 赤岩城は、堀切は殆ど無いが、多数の段曲輪・腰曲輪が綺麗に削平され、しかもそれぞれの曲輪に至る動線もはっきりと確認でき、往時そのままの姿を留めている。しかも城域の殆どは綺麗に整備されて藪が少なく歩きやすい(一部の例外はあるが)。『日本城郭大系』や現地解説板の縄張図に記載されていない腰曲輪も多数あり、北郭群に至ってはほとんどまともに記載されていないほど、城域が広いということなのだろう。小豪族の城で大したことないだろうと高を括っていたが、見事に裏切られた。嬉しい誤算である。
大手道から見た北郭群→IMG_1485.JPG
IMG_1510.JPG←城域北端の堀切
西郭群の腰曲輪→IMG_1568.JPG
IMG_1609.JPG←西郭群の南尾根の段曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.916548,141.550791&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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大楯城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1448.JPG←段曲輪群の切岸
 大楯城は、楯山館(現地名からするとより正しくは館山楯とするのが正か?)とも呼ばれる。伝承では平安後期の奥州藤原氏全盛の頃に伊具十郎平永衡が築いたと言われ、その後八幡太郎源義家の家臣左衛門尉忠安が居城したと言う。しかし実際には、義家の方が奥州藤原氏より時代が古く、時代の錯誤があるものであろうか?戦国時代には伊達氏の一族、田手宗求や細目修理介がこの地を治めたと言う。丸森城の北西約2kmの位置にあるが、両城の関係は不明である。

 大楯城は、阿武隈川北岸にそびえる比高70m程の山上に築かれている。東麓に愛宕神社があり、その裏から登るしかないと思われるが、全く未整備で一面の薮で覆われている。それでも途中まで登っていくと、数段の段曲輪群が確認でき、数mの切岸がはっきりと築かれている。しかし訪城した時は既に日没が近く、藪もひどかったため、主郭まで行くのはやむを得ず途中で断念した。おそらく山頂に主郭を置き、段曲輪群だけで構成された城だったものと思われる。尚、山の西側は道路や施設の建設の為に大きく削られているらしく、地形図やGoogleMapの航空写真から判断すると、主郭も半分以上は消失している様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.925987,140.759883&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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丸森城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1388.JPG←腰曲輪と詰丸の切岸
 丸森城は、丸山城・丸山館とも言い、伊達氏の大規模な内乱「天文の乱」で敗れた伊達稙宗が隠居城とした城である。稙宗は、桑折西山城を拠点にして分国法「塵芥集」を制定するなど伊達氏の戦国大名化を進めたが、稙宗の急速な拡大路線に危惧を抱いていた嫡男晴宗は、弟実元の越後守護上杉氏への入嗣問題を契機として稙宗と対立し、伊達家中のみならず奥州諸豪を二分する大乱へと発展した。これが天文の乱である。稙宗方には、その長女の嫁ぎ先である相馬氏も付いていたが、乱は6年間に及ぶ抗争の結果、結局晴宗方の勝利に帰し、1548年に和睦が成立し、稙宗は相馬領に近い丸森に丸森城を築いて、隠退した。1565年に稙宗がこの城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた丸森他5ヶ村(伊具郡)は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、その後長く続く伊達氏と相馬氏の争いの大きな原因となった。1570年には、相馬氏は家臣の門間大和を丸森城主とした。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。そして伊達氏家臣の黒木宗元が丸森城主となった。その後、家老の高野壱岐親兼が城主となり、1601年には大條薩摩守実頼が城主となったが、その年の内に実頼は鳥屋館に居城を移し、丸森城は廃城となった。

 丸森城は、阿武隈川の支流、新川と内川の合流点東側に張り出した、標高70m、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。東西に主要な曲輪を連ね、その周りに腰曲輪を廻らした、連郭式のやや広めの城である。しかし隠居城であるという性格のためか、戦国中期に新たに築城されたにしては、あまり技巧的な部分はなく、また堀切もあるにはあるが鋭さがなく、あまり防御性の高くない縄張りである。現地表記で本丸とされるのは最上部の広い曲輪で、その奥には堀切を介して愛宕神社が建てられている曲輪があり、御前曲輪又は詰丸の様なものであろうか。神社近くには伊達稙宗の墓碑が建てられている。本丸東側の腰曲輪とニノ丸の間には箱堀形状の堀切がある。更に二ノ丸東側に数段の腰曲輪が続き、その東に三ノ丸があるが、三ノ丸は民家に変貌している。いずれの曲輪も土塁はなく、切岸のみで防御されている。あまり面白みのある城ではないが、天文の乱に敗れた稙宗の隠居城という歴史的な場所であり、重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.910685,140.773809&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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三沢城(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1284.JPG←主郭群外周の二重横堀
 三沢城は、南北朝時代に南朝方の北畠顕信が籠城した城と言われている。建武の新政が始まってから、奥州には陸奥国司・鎮守府大将軍として青年公卿の北畠顕家が派遣されていたが、1338年に京都奪還の為に奥州から出陣し、和泉国阿倍野で討死した。顕家の戦死後、奥州南朝勢力の再建のため、その弟顕信が派遣されて霊山城を拠点に北朝方と戦った。1352年、顕信は三沢城に暫くの間籠城して、北朝方の吉良貞経らと戦ったが敗れて城から逃れたと言う。その後の城の歴史は明確ではないが、慶長年間(1596~1615年)には三沢信濃守頼母の居城であったとされる。一方、現在残る遺構から推測すれば、後述する様に戦国後期に伊達氏による改修を受けたものと思われる。

 三沢城は、大聖寺の背後にそびえる標高130m、比高65mの丘陵上に築かれた城である。城内は大きく主郭群・ニノ郭・東出郭群・三ノ郭群に分かれる。大聖寺の墓地裏から登ると、最初に到達するのは東出郭群で、不正形な四角い曲輪の周囲を浅い横堀や腰曲輪で防御している。特に曲輪の東面は二重横堀となっていて、上段の横堀は北面の横堀と合流してY字状に竪堀となって落ちている。その先を東面下段の横堀が、尾根ごと掘り切っており、その先は東の物見台となっている。東出郭群の西側上方にはニノ郭がある。二ノ郭は東辺に低土塁を築き、西面に二重横堀を穿って防御している。しかし二ノ郭は藪がひどく、形状がわかりにくい。ニノ郭から北に二重横堀を貫通する虎口を越えて暫く行くと、三ノ郭群に至る。三ノ郭群は、楕円形の曲輪内に、同心円状に多段式の曲輪が築かれている。この曲輪も南面から西面を通り北面に至る外周を二重横堀を穿って防御している。北端には虎口が開いており、北尾根に城道があったようだ。一方、二ノ郭から南尾根を辿ると主郭群に至る。縄張図を見ると、繋ぎの部分には枡形と横堀を組み合わせた複雑な構造があるらしいが、ここも一面の薮で全く形状が把握できない。それでも主郭群には巧妙な二重枡形虎口が構えられており、上段の枡形への登城道の側方は竪堀で防御され、上段の虎口には櫓門らしい土塁が備わっているのがわかる。主郭群も三ノ郭群同様、多段式の曲輪で構成され、西側外周を規模の大きな二重横堀で防御している。この二重横堀は、途中で竪堀となってクランクしており、大きな横矢掛かりとなっている。二重横堀中間の土塁は、南端で直角に折れ曲がり、そのまま土橋となって主郭に通じている。主郭は最上部に小さな土壇があり、塚など信仰上の施設があった可能性がある。

 これらの遺構を総括すると、曲輪外周を横堀で防御する技法、同心円状の多段式曲輪の技法、巧妙な多重枡形虎口の技法、どれをとっても出羽置賜地方における伊達氏系山城と酷似した築城法であり(館山楯柳沢楯二色根楯など)、三沢城も伊達氏による改修であることは疑いを容れない。即ち三沢城は、南北朝期と言う伝承の城だが、実態は戦国後期の伊達氏構築の山城であり、眼下に白石城を遠望できる位置にあることから、白石城攻略に関連した城砦である可能性も考えられる。しかし残念なのは藪が酷いことで、藪がなければ技巧的な伊達氏の築城法をよりはっきり見ることができるのにと惜しまれる。
主郭群の枡形虎口の土塁→IMG_1299.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆(藪の分、☆一つ減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.976798,140.644333&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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湯ノ原楯(宮城県七ヶ宿町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1002.JPG←東館背後の大空堀
 湯ノ原楯は、湯原城とも言い、その創築は不明であるが、伊達氏が七ヶ宿街道を押さえるために築いた城と考えられる。南北朝期に伊達宗遠・政宗が長井攻めを行って以来、七ヶ宿街道沿いの宿場町は伊達氏への報恩の志厚く、1591年に伊達政宗(貞山公)が岩出山に移封となり、1598年に上杉景勝が会津・置賜に移封となって湯ノ原楯が上杉氏の持ち城となった後も、伊達家崇敬の念が厚かったらしい。その為、1600年の慶長出羽合戦の際には、山形城主最上義光への支援に動いた伊達勢が、留守政景を総大将に兵3000で山形城の東方に進出し、茂庭綱元率いる別働隊が七ヶ宿街道を西進すると、この地域の住民は伊達氏に味方した。その結果、綱元は9月25日に湯ノ原楯を攻略し、更に二井宿峠に近い玉ノ木原に於いて上杉勢との間で合戦となった。この頃までは、湯ノ原楯には城代が派遣されず、湯ノ原の者共に預け置かれていたとされる。後、伊達領に戻ると、伊達家宿老中野常陸介の支配下となり、その家臣横尾兵衛が寛永頃まで居城した。1644年には伊達家御一門の石川大和の知行地となり、幕末まで石川氏の重臣が配置され、藩境の警備に当たった。

 湯ノ原楯は、湯ノ原小学校とその背後の丘陵中腹に築かれている。主要な曲輪としては、最上段に上館(本丸)と東館が並立し、上館下方に二ノ丸が置かれた配置となっている。上館と東館は空堀(斜面に沿っている為、竪堀状となっている)で分断され、背後を土塁で防御し、この土塁はそのまま土橋状となって上館と東館を連結している。この土塁は東館では普通の規模だが、上館では高さ10m程にも及ぶ大土塁となっている。またその背後は、やはり深さ10m程の大規模な空堀が穿たれて、背後の丘陵と分断されている。この大空堀は途中で折れ曲がって横矢が掛けられている。上館の内部は3段程の平場に分かれ、前面に腰曲輪を築いている。東館も前面に腰曲輪があり、上館の腰曲輪と繋がっている。上館の前面には大手虎口が築かれ、その下方は土塁と切岸で囲まれた枡形となっている。更にその下方には横堀が廻らされているが、一部破壊を受けている。山裾の湯ノ原小学校が二ノ丸跡で、外周に土塁や西端に一段高い平場が残っている。全体に、現地解説板に掲載されている城絵図の縄張りはほとんど残っているようだが、未整備で全体に藪がひどい。それでも上館は昔は公園だったらしく、登道があり、遊具が草むらの中に残っている。遺構としては、前述の大土塁や大空堀など見どころが多いので、もう少し整備されればと惜しまれる。
 尚、麓の東光寺には儀山公政宗夫妻の墓があり、伊達氏と湯ノ原との深い繋がりを感じさせる。
上館背後の大土塁→IMG_1020.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.014829,140.32161&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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