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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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矢本城(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3265.JPG←北西の腰曲輪
 矢本城は、谷本楯(谷本館)とも呼ばれ、小野城主長江勝景(月鑑斎)の弟矢本筑前守景重の居城である。勝景は深谷荘を三分して2人の弟に分知したが、元亀年間(1570~73年)に勝景と景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡したと言う。

 矢本城は、滝山公園北側の比高60m程の丘陵上に築かれている。滝山公園に通じる車道が城址西側を通っており、車道脇に城址標柱が立っている。ここから城の途中まで小道が付いている。非常に深い藪のため遺構の把握が困難であるが、丘陵頂部に主郭を置き、外周に腰曲輪を築いている様である。腰曲輪は、特に西側と北西にやや張り出しており、僅かな土塁を伴っている。主郭から北の尾根に向かって、薮の中に何段かの小さな段差が確認されるので、曲輪群が築かれているらしいが、ひどい藪で全貌が不明である。北尾根の先端には神社があり、ここもかつての城域であろうか?主郭も藪で形状が判別できないが、削平は甘いらしく、内部は凸凹している。城址標柱があるだけで、ほぼ全域未整備であり、遺構としても特筆できるものがないので、無理に訪城する必要はないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.414308/141.183393/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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小野城(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3160.JPG←桜ヶ森楯の主郭
 小野城は、桃生の豪族長江氏の居城である。長江氏は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の後裔と言われ、景政の孫長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。以後、この地は深谷長江氏の本拠となり、小野城は戦国末期までその居城となった。長江氏は室町時代前期には大崎氏に従っていたが、伊達氏の勢力が北上してくると、伊達氏に従属した。長江氏最後の当主は長江播磨守勝景(月鑑斎)で、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に入部させ矢本氏となり、末弟家景を野蒜に入部させ三分一所氏となった。元亀年間(1570~73年)には、勝景と矢本景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡した。1588年に伊達政宗が大崎氏の内紛に武力介入した大崎合戦が起こると、長江月鑑斎は泉田重光と共に出陣したが、大雪で大敗し、命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月鑑斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立した。その後、重光・月鑑斎らは志田郡の蟻ヶ袋城に幽閉され、その間に月鑑斎は最上義光からの誘降に乗り、伊達氏から離反した。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、長江月鑑斎と鶴楯城主黒川月舟斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえて秋保氏の元に預けた。月鑑斎は秋保定重の豊後館に幽閉された後、政宗の命で定重・頼重父子によってこの館で誅殺され、長江氏は滅亡した。

 小野城は、3つの城域から成る複合城郭である。本城である桜ヶ森楯(桜ヶ森館)を中心に、南に梅ヶ森楯(梅ヶ森館)、北西に松ヶ森楯(松ヶ森館)を配置している。桜ヶ森楯は比高30m程の丘陵に築かれており、大きく北郭群と南郭群に分かれているが、北郭群は時間の関係で未確認である。南郭群は多くが畑化されている他は藪で、頂部の主郭に城址標柱が建っているほか、段々の平場が確認できる。しかしこれらには、後世の耕地化による改変の可能性もあるだろう。
 梅ヶ森楯は、東西に長い丘陵上に曲輪を連ねた連郭式の城砦で、一番東の円丘に主郭、そこから西に向かって二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と並んでいる。一部がお館山公園となっているが、かなりの部分が薮で、特に三ノ郭・四ノ郭は薮で進入不能である。二ノ郭は細長い曲輪で、二ノ郭~三ノ郭間の堀切までは確認できる。三ノ郭~四ノ郭間の堀切は、確認していないが、1/25000地形図でも現れているほどなので、大きな堀切なのだろうと推測される。
 松ヶ森楯は、比高20m程の丘陵先端に築かれており、主郭は耕作放棄地、腰曲輪は薮で、これも遺構の確認が困難である。しかし何とか、土塁や主郭虎口が確認できた。
 いずれもほとんど山林の整備がされておらず、残念な状態の城である。
梅ヶ森楯の堀切→IMG_3139.JPG
IMG_3199.JPG←松ヶ森楯の腰曲輪と主郭切岸
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【桜ヶ森楯】
      http://maps.gsi.go.jp/#16/38.410710/141.152666/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
      【梅ヶ森楯】
      http://maps.gsi.go.jp/#16/38.408776/141.154125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
      【松ヶ森楯】
      http://maps.gsi.go.jp/#16/38.414274/141.148953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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三分一所楯(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3058.JPG←大手郭の土橋と堀切
 三分一所楯(三分一所館)は、浅井楯とも呼ばれ、桃生の豪族長江氏の庶流、三分一所氏の居城である。長江氏の祖長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。その子孫、小野城主長江勝景(月鑑斎)は、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に、末弟家景を野蒜に入部させ、家景は三分一所氏を称し、三分一所左衛門家景と名乗った(家景以前より、長江氏の庶家として三分一所氏があったらしいが系譜は不明)。この家景が居城としたのが三分一所楯である。月鑑斎は老練な勇将であったが、伊達政宗に背いて1591年に秋保の豊後館で誅殺された。一方。弟の家景は兄と袂を分かち、伊達氏に忠節を誓ったため、旧領の内600石を賜り、伊達氏の家臣として存続した。また家景は、馬術の相当な名人であったらしく、荒馬乗りの名手として豊臣秀吉に招かれて伏見に上り、妙技を披露して喝采を浴びたこともあったと伝えられている。その子孫からは、仙台藩で儒者として活躍した三分一所景明を輩出した。

 三分一所楯は、吉田川西岸の標高50mの丘陵上に築かれている。『宮城県遺跡地図』では丘陵先端の小さな部分のみを城域として表示しているが、実際にはその倍以上の広さがあり、中々に規模の大きな城である。西の最上部に主郭を置き、東の尾根に二ノ郭・三ノ郭を連ね、周囲に腰曲輪を廻らし、二ノ郭南に伸びる支尾根には大手郭群を築かれている。以前は東麓の公民館裏から登れたようだが、現在は斜面崩落で途絶しているので、北東の谷戸から直登した。全体に藪がひどく、遺構の確認が困難であるが、何とか東端の三ノ郭から主郭まで辿ることができた。三ノ郭と二ノ郭は段差のみで区画されているが、主郭は虎口に堀切があり、背後にも土橋の架かった堀切が穿たれている。一方、二ノ郭から南に伸びる尾根は大手であったらしく、大手郭群が築かれている。数段の平場が見られ、二ノ郭に至る部分に土橋の架かった堀切が穿たれている。確認できたのはここまでで、あまりに藪がひどくて辟易し、途中で下山したため、西側の城域がどこまで広がっているかは確認できていない。余程の好事家でなければ、訪城しない方が良いだろう。
 尚、定林寺に三分一所氏の墓があり、また城址東麓に三分一所氏の家臣浅井三郎に由来するという「しき石」が祀られている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.398636/141.143804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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反町楯(宮城県松島町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2922.JPG←垂直絶壁型の西堀切
 反町楯(反町館)は、館山楯とも呼ばれ、歴史不詳の城である。この地域は古来、竹城保と呼ばれ、鎌倉後期から室町初期までの約100年間、相馬氏の所領であったことが知られているが、反町楯との関係は不明。一方、松島有料道路(現・三陸自動車道)建設の際の部分的な発掘調査の結果では、出曲輪である西郭が15世紀後半に使用されていたことが判明している。

 反町楯は、観光地として有名な松島の北方の、標高82mの山稜上に築かれている。遺跡調査報告書の呼称に従うと、中央郭と呼ばれる城の中心部と、そこから周囲に派生する尾根上に築かれた物見の出曲輪である西郭と東郭(『日本城郭大系』では東郭ではなく南郭と南東郭と呼称される)で構成されている。城への登り道はなく、しかも東郭方面は尾根の途中を三陸道が貫通して分断しているので、西郭のある尾根北側の谷戸の廃止された浄水施設裏から登った。尾根も城内も藪がひどく、遺構の確認が非常に大変である。まず最初に到達した西郭は、背後に浅い堀切を穿ち、数段の平場群で構成された簡素な物見の出曲輪である。ここから東に尾根を辿っていくと、小ピークの後に西堀切があり、それを越えれば中央郭群である。中央郭は、大きく2段の曲輪に分かれ、南が城内最高所の主郭(A平場)、北に一段低く二ノ郭(B平場)が切岸だけで区画されている。二ノ郭は西だけでなく北側にも堀切が穿たれている。主郭はそこそこ広い平場で、主郭の南には数段の腰曲輪が築かれ、その先に切通し状の枡形虎口が構築されている。更にその下方には南の堀切が穿たれ、南堀切の先にも前衛の腰曲輪群が築かれている。また、これら前衛郭群の南西斜面の傾斜の緩いところに横堀の防御線が構築されているが、かなり埋もれているのか非常に浅くなっている。確認した遺構は以上であるが、この城の中央郭に穿たれた三方の堀切は、いずれも岩を垂直に削り切った、上総の山城でよく見た堀切と同タイプの垂直絶壁型で、宮城の城では珍しいタイプである。しかも西堀切では、よく見ると岩に木戸跡の様な人為的な窪みがあった。これも非常に珍しい遺構である。しかしそれにしても、全域に渡って藪がひどすぎて辟易した。その為、東郭は未踏査である。相当の装備と覚悟がなければ、お勧めできない城である。
西堀切の木戸跡?の窪み→IMG_3003.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.401562/141.061127/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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豊後館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2847.JPG←川原石の石垣虎口
 豊後館は、馬場館或いは豊後楯城とも呼ばれ、秋保氏の一族秋保(馬場)摂津守定重の居館である。定重は、秋保盛房の弟盛義の孫で、祖父盛義は馬場村に居住して上館城を居城とし、一名を馬場と称し、馬場秋保氏3代定重は永禄年間(1558~69年)に新たに豊後館を構えて居城を移したと言う。定重は武勇に優れ、宗家の秋保氏と共に伊達氏に服属し、二口峠の境界警備の一翼を担った。1591年、伊達政宗から離反して捕らえられた黒川月舟斎と長江月鑑斎が、秋保氏の元に預けられ、長江月鑑斎は定重の豊後館に幽閉された後、政宗の命で定重・頼重父子によってこの館で誅殺された。1599年には、政宗の命によって改修を受けたと言う。その後、馬場秋保氏は移封となり、築館より約40年にして廃館となった。

 豊後館は、名取川とその支流の合流点に突き出した段丘先端に築かれた城館である。ほぼ単郭の小規模な城館で、背後に土塁と堀切を築いて防御し、外周に腰曲輪を廻らしただけの構造である。土塁はわずかに折れを持たせて堀底への横矢を意識した大土塁である。この館で出色なのは、南の腰曲輪に設けられた石垣の枡形虎口で、小規模ながら川原石による石垣が残っている。この虎口へは急坂になった堀底道から繋がるようになっているが、堀はこの先で更に急峻な竪堀となって降っており、攻めるに攻めにくい構造となっている。『日本城郭大系』ではこの石垣虎口を、前述の政宗の命による改修によるものと推測している。この他、主郭の南辺縁部にも低土塁が残り、やはり川原石が散在しているが、遺構かどうかは不明である。小規模城館には不釣り合いな虎口遺構と大土塁であり、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.265225/140.651586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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長館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2808.JPG←宅地脇に残る3本目の土塁
 長館は、長楯城とも呼ばれ、秋保郷の土豪秋保氏の居城である。秋保氏の事績は楯山城の項に記載する。秋保氏は、元々は楯山城を本拠としており、その北東麓の名取川対岸に、二口街道を防御する城館として長館が築かれたと言う。その後、秋保氏15代盛房の時、居城であった楯山城を大曲城主長井氏に奪われ、一時山形に逃れた後、秋保領民の協力を得て奪還を果たすと、盛房はこれを機に長館を本城としたとされる。しかしその後も、詰城の楯山城と居城の長館が一体となって機能していたと推測される。18代直盛の時に秋保氏は移封となり一時廃館となったが、天明年間(1781~89年)の23代氏盛の時に再び秋保郷に戻り、秋保家の居館として家中屋敷と合わせて整備され、幕末まで存続した。

 長館は、名取川とその支流に挟まれた半島状段丘の先端部に築かれている。先端にあった主郭の背後を含め、台地状を閉塞するように4ヶ所に土塁が築かれていたとされ、現在は宅地化が進んでいるものの土塁の一部が残存している。中でも良好なのが主郭背後のものと3本目のものである。また2本目と3本目の土塁の位置では道路が折れ曲がっており、城下街道によくある「鉤の手」か食違い虎口を形成していたことがわかる。遺構は僅かであるが、往時の佇まいは感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.250853/140.681884/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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楯山城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2764.JPG←広やかな二ノ郭と大櫓台
 楯山城は、秋保郷の土豪秋保氏の要害である。秋保氏の出自は、桓武平氏の落人で平清盛の長男小松内大臣重盛の流れを汲むとも、或いは執権北条氏の内管領長崎氏の一族であったとも言われる。いずれにしても秋保郷を支配し、鎌倉後期の5代基盛の時に、楯山城を築いて居城としたと伝えられている。その後、北東麓の名取川対岸の長楯城に居城を移すまで、楯山城は長く秋保氏の本城で、秋保5ヶ村を支配する拠点であり、長楯城に居城を移してからも、詰城の楯山城と居城の長楯城が一体となって機能していたと推測されている。そして秋保氏は、一族を郷内5ヶ村に分封しながら防衛網を構築し、戦国期に伊達氏に服属すると、出羽最上氏の二口峠を越えての侵攻に対する備えを担った。そして18代弾正忠直盛が転封となるまで秋保氏の本拠として重要な位置にあったと言う。

 楯山城は、標高334.2m、比高184mの独立峰に築かれている。主郭と二ノ郭から成る、比較的規模の小さい城で、二ノ郭の下に登り道に沿って3段の腰曲輪が築かれている。二ノ郭は、峻険な山上にしては広い曲輪で、綺麗に削平されており、いかにも居館が置かれていた雰囲気を残している。西辺に土塁が築かれ、南端の虎口横には大櫓台が築かれている。主郭は二ノ郭の北側上部にあり、中央部の高台と周囲の一段低い平場と2段に分かれている。技巧性はない素朴な縄張りであるが、秋保氏の本城として異彩を放っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.247011/140.676155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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上楯城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2584.JPG←主郭北側の二重横堀
 上楯城は、伊達氏の家臣支倉氏の居城である。支倉氏といえば、伊達政宗の命でヨーロッパに派遣された慶長遣欧使節団の支倉常長が有名であるが、上楯城は常長の祖父、支倉紀伊守常正が1545年に築いた。常正の子時正は、一族山口常成の子常長を養子に迎え、まだ7歳だった常長は上楯城で成長した。その後、時正に実子久成が生まれたため、家禄1200石を二分し、常長は600石を領した。伊達家中では中堅武将の一人であった。1613年、政宗は宣教師ソテロと共に常長らを遣欧使節としてスペイン国王・ローマ教皇の元に派遣し、常長はスペイン国王・ローマ教皇に謁見して親書を手渡し、1620年に長旅の末に無事に帰国して、政宗に復命した。しかし、常長はスペインで洗礼を受けてキリシタンとなっていたため、既に幕府の禁教令によってキリシタンを弾圧していた日本には常長が平静に暮らせる余地はなく、軟禁されたまま失意の後に1622年に死去した。

 上楯城は、支倉常長の墓所のある円福寺背後の標高260m、比高70mの館山に築かれている。南北に長い広大な主郭と、その西側にやや小ぶりの二ノ郭、主郭から南東に下って三ノ郭、そして主郭周囲の数段の腰曲輪で構成されている。主要な曲輪は全て横堀で外周を防御しており、特に主郭北側と二ノ郭西側は規模の大きな二重横堀が穿たれていて、前川本城に類似した構造となっている。殊に主郭北側の二重横堀は、途中に塁線の折れを設けて横矢を掛けている他、西端部では上下の横堀を竪堀で繋いでおり、外周の竪土塁や主郭角部が竪堀上にそびえ立っている。また横堀から落ちる竪堀が数本見られるが、これらは全て城道として機能していた様である。その例としては、三ノ郭の西端に築かれた虎口で、外に出るとすぐに竪堀に接続している。この竪堀を越えれば、外の腰曲輪にも繋がっている。この他、主郭から北東に伸びる尾根には二重堀切が穿たれて分断し、また三ノ郭南端の虎口の外にも小掘切が穿たれている。横堀が多用される一方で、虎口構造は平易で、このあたりは城主の格による技巧性の違いであろうか。城址は現在、公園となって遊歩道が設置されているので、若干の遺構の改変が見られるが、ほとんどの遺構は完存している。たかだか1200石の中堅武将でこれほどの規模の城持ちとは、中世・戦国期とは恐るべき時代である。
二ノ郭西側の内堀→IMG_2473.JPG
IMG_2688.JPG←小堀切と三ノ郭虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.173669/140.711968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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前川本城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2322.JPG←大手の多重桝形虎口
 前川本城は、中ノ内城とも呼ばれ、伊達氏の家臣砂金氏の居城である。砂金氏の祖は菅原砂金蔵人常重と言い、南北朝時代の初頭に浪人として奥州に下り、砂金邑を領するようになったと言われている。その後、文明年間(1469~86年)に伊達氏に仕え、1574年まで砂金城を居城として勢力を張っていた。1575年、砂金氏8代摂津守左衛門常久が当主の時に、前川本城を築いて移り、以後江戸時代初め頃までの居城となった。11代右衛門右兵衛実常は伊達家一族の家格に列せられ、川崎城を築いて移ったため、前川本城は廃城となった。

 前川本城は、前川と立野川の合流点に突き出した丘陵先端部に築かれた城である。戦国末期に築かれた城だけあって、規模・縄張りともに雄大である。大きく半円形をした二ノ丸の内部の北寄りに、ほぼ方形をした本丸を配置した梯郭式の縄張りであるが、本丸・二ノ丸ともに大きな土塁と空堀で囲まれている。特に二ノ丸外周を巡る空堀は、西側では豪壮な二重横堀となっており、中間土塁の西側上方部分では塹壕状の武者溜まりが形成され、二重横堀を防衛する陣地となっている。またこの城では技巧的な虎口構造も出色で、二ノ丸南西側では櫓台を兼ねた出枡形がそびえ、二重横堀を睥睨している。この出枡形に繋がる城道は竪堀状となっており、数回屈曲して出枡形に繋がっている。またこの城道と並走して、横堀から竪堀が落ちている。また本丸には南の搦手と東の大手の2ヶ所の虎口が築かれているが、大手虎口の手前には空堀を縦横に複雑に絡め、更に幾重にも屈曲する多重枡形虎口を備えた、極めて技巧的な築城技術が投入されている。しかもこの多重枡形には、僅かではあるが川原石による石垣まで残存している。本丸の虎口付近にも川原石が残っており、大手虎口は石垣が組まれていた可能性がある。二ノ丸の東側はこれらの多重枡形虎口と空堀によって、別区画として独立した曲輪となっており、三ノ丸であったと思われる。また二ノ丸内部も、仕切り土塁によって2つの広大な領域に区画されている。前述の多重桝形虎口から東麓へは数個の腰曲輪を連ね、それら曲輪群の側方には大手道も築かれている。この他、二重横堀の西側に続く台地上は家臣団居住地などの外郭であったらしく、ここにも横堀や溝状遺構、二重横堀に通じる虎口などが確認できる。以上の様に前川本城は、多重横堀と複雑精緻な虎口構造を多用した伊達氏系山城の究極形の一つであり、必見の遺構である。これほどの城があまり知られていないというのは、正直言って驚いた。
 なお城跡は、城址公園とは謳われていないが綺麗に整備されており、解説板や標柱も建っている。川崎町があまり積極的にこの公園を紹介していないのは、地権者との合意によるものなのかもしれないが、これほどの立派な遺構を知られずに終わらせてしまうのは、いかにも勿体無いと思う。
大規模な二重横堀→IMG_2116.JPG
IMG_2204.JPG←二ノ丸南西の櫓台兼用出枡形
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.171240/140.631137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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伊治城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3015.JPG←外郭の土塁と堀跡
 伊治城は、奈良時代後期に律令政府が造営した古代城柵である。『続日本紀』に767年に造営されたことが記載され、初期の造営は三旬(30日間)に満たずに完了したと伝えられている。征夷政策を積極的に進めるための拠点としての造営であった。その後も整備拡張が続けられ、優遇政策によって入植者を募って開拓を進めながら780年頃まで続けられたと見られている。780年、胆沢地方の蝦夷征討の拠点かつ蝦夷南下を阻止する拠点として、按察使の紀広純によって覚鱉城の造営が計画され、伊治城はこの新城造営の基地ともなった。しかし同年、伊治城を統治していた上治郡(此治郡の誤記との説が有力)大領の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)は、伊治城を訪れた按察使紀広純・牡鹿郡大領の道嶋大盾を怨恨によって殺害し、反乱を起こした(宝亀の乱)。反乱軍は、多賀城国府をも攻撃制圧し、略奪をほしいままにして火をかけ、律令政府を震撼させる事態となったと言う。これによって伊治城は中央の手を離れ、蝦夷の郡司の掌中に帰したが、翌年の5月頃迄には政府軍の支配下に戻ったと推測されている。その後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうが、796年頃には反乱以前の状態に復旧整備されたと考えられている。

 伊治城は、一迫川西岸の比高10m程のなだらかな丘陵地に築かれている。内郭は宅地や耕地に変貌して地上からは姿を消し、外郭の内、北辺の一部にわずかに土塁・堀跡が残っている。内郭の政庁部分は、発掘調査の結果、東西約55m、南北約60mの広さを持ち、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物群の跡が見つかっている。面白いことにこの城柵では、内郭は城域の南端近くに大きく偏して配置されている。これは北方の蝦夷からの攻撃を強く意識してのこととも考えられる。ちょうど国道4号線脇に城の解説板が建っているのが、内郭の中央付近に相当するが、解説板以外には城柵の形跡は微塵も感じられない。遺構は僅かであるが、古代史の好きな人には歴史的経緯のある城なので、お勧めかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764708/141.038404/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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刈敷館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2074.JPG←微高地の主郭塁線
 刈敷館は、刈敷氏の居館である。刈敷氏は、南北朝期に真坂楯に下向した狩野氏の一族で、嶋躰館の狩野兼親から分流してこの地に入部し、地名を取って刈敷氏を称したと言う。本家の狩野氏と共に大崎氏の家臣であったと考えられ、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、刈敷氏も滅亡した。

 刈敷館は、一迫川東岸に築かれた居館で、白山神社の南東に隣接して、方形の空き地となって残っている。周りの耕地より僅かに高くなっていて、曲輪跡であることが想像できる。往時は土塁で囲まれていたのではないかと個人的に推測しているが、昭和20年代の航空写真を見ると既に土塁の痕跡はなく、方形の空き地が主郭で、南に横長の長方形の二ノ郭があったらしい。しかし二ノ郭は水田になっていて、今ではその痕跡は見出だせない。主郭は一応公園になっているらしいのだが、若干の植え込みとベンチがあるぐらいで、公園なのかどうかも一目ではわからないぐらい中途半端である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.766900/141.046708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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佐沼城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←本丸の天守台
 佐沼城は、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった城である。城の歴史は必ずしも明確ではなく、伝説では奥州藤原氏の家臣照井太郎高直の居城であったとも言われるが、県内各地に同様の伝承があるので俄には信じ難い。南北朝時代には、鎮守府大将軍北畠顕家が摂州阿倍野で討死し、奥州軍が四散した後、奥州に戻った葛西氏が寺池城と佐沼城を築いたと言われており、葛西氏の支城として築かれた。しかし室町中期には大崎氏の支配下に入り、天文年間(1532~55年)には大崎氏の家臣石川氏が城主であったと伝えられている。この城が明確に姿を表すのは、1590年の奥州仕置以後である。即ち、小田原不参の故を以って葛西・大崎両氏が改易となり、葛西・大崎の旧領は豊臣秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられた。しかし木村氏の圧政によって岩手沢城での蜂起を皮切りに、「葛西大崎一揆」が勃発した。蜂起は燎原の火の如く瞬く間に領内全域に広がり、寺池城で父吉清と対策を協議した清久は、名生城への帰途、佐沼城で一揆勢に取り囲まれ、救援に赴いた吉清も佐沼城に包囲された。命を受けた伊達政宗により、吉清・清久父子は救出されたが、翌91年、一揆勢は佐沼城に立て籠もった。実はこの一揆は、政宗による煽動によって惹起されたものであり、それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山に呼び寄せ、残らず惨殺した(須江山の惨劇)。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。佐沼城には、出羽大橋城主湯目民部景康が移封された。景康は後に政宗の命で津田氏に改姓した。佐沼城は、藩政時代には佐沼要害と称され、津田氏は7代丹波定康の時代までこの地を領したが、1756年に改易された。津田氏の後には、高清水城より亘理伯耆倫篤が移封され、以後亘理氏の居館として幕末まで存続した。

 佐沼城は、迫川西岸の比高10m程の高台に築かれている。現在鹿ヶ城公園となっており、改変を受けているが、本丸部分はよくその形状を残している。梯郭式に近い環郭式の縄張りで、城の東側に偏した本丸を囲むように二ノ丸があり、更にその外周に三ノ丸が取り巻いていた。本丸は外周に低土塁が残り、東端に横矢張出しの大型の櫓台(おそらく天守台)を備えている。南東角にも隅櫓台が築かれている。本丸は広めで、十分な居住性があったと推察される。本丸の周りには大きな空堀が廻らされているが、残念なことにコンクリートの護岸で改変されてしまっている。しかし形は往時のままなので、城の雰囲気はよく残っている。二ノ丸・三ノ丸は市街化で改変され、二ノ丸部分がやや高くなっている以外、ほとんど形状を追うことができないが、往時は迫川周囲の沼地を水堀として取り込んだ、浮島の様な要害であったらしい。城の西側を流れる長沼川が外堀の役目をしていた様である。三ノ丸の北西端には独立性の高い丘陵地があり、西館と呼ばれている。津田家・亘理家の支配時代には各家の墓所となり、現在も両家の墓が残っている。西館は、それ自体が佐沼城西方を守る出城であり、高台上に堀切や横堀が残り、高台の北東下方にも横堀・土塁が築かれている。この下方の横堀は三ノ丸内にあることから、往時は城内通路を兼ね、土塁は城門を構成していたのだろう。
 佐沼城は、改変が進んでいるものの、街中の城にしては主要部の遺構がよく残っており、鹿ヶ城大橋の上から見た本丸の姿も、城以外の何物でもない。季節を問わず訪城出来る城である。
西館に残る横堀→IMG_1993.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.694839/141.196203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八幡館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←住宅地内に残る土盛り
 八幡館は、伝承では留守氏の祖伊沢家景の家臣、八幡兵庫の居館と伝えられている。八幡氏は代々留守氏に仕え、陸奥介を称して鎌倉幕府の御家人として宮城郡八幡庄内に地頭職を与えられていた。室町時代に入ると八幡介と称するようになったが、一説には平安後期以来の在庁官人の流れを汲む陸奥介平景衡の系統から、鎌倉前期にこの地に移住してきた保田景家の系統に取って代わられ、その際に名乗りを八幡介と称するようになったともされている。室町時代には、八幡氏は一時留守氏を凌ぐ勢力を持ち、留守氏と抗争することもあったが、戦国時代に入って伊達氏に服属した留守氏が勢力を回復すると、留守氏の家臣団に組み込まれた。戦国後期には八幡景廉と弟の下間業継が家督を巡って対立し、景廉が主君留守政景に事態収拾を訴え出ると、これを聞いた政景は激怒し、1578年、下間館を攻撃して業継を追放し、八幡氏の内訌を平定した。以後、八幡氏は安泰となり、景廉は政景に忠節を尽くすようになった。一方、追放された業継は、姉の嫁ぎ先である岩沼の泉田重光を頼って身を寄せた。このことが、大崎合戦の際に伊達勢を率いた留守政景・泉田重光2将の対立の遠因となったとも言われている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏と共に留守氏が所領替えとなると、八幡氏も留守氏に従って八幡の地を去った。

 八幡館は、砂押川南岸の比高10mにも満たない小丘陵に築かれている。丘陵上の主郭は現在配水場となっており、周囲一帯も完全に宅地化されており、地勢以外の遺構はほとんど残っていない。僅かに主郭の南の住宅地脇に、主郭南側の曲輪の一部と思われる土盛が残っているだけである。尚、付近には「末の松山」「沖の井」など、古今和歌集にも詠まれた史跡があるが、八幡館と何らかの関係があったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.287579/141.001604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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築館城・館越城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1740.JPG←堀跡と腰曲輪群
 築館城・館越城は、2つの城から成る複合城郭と推測される。この付近には、花楯城・大楯城・小館丸館や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。
 築館城は、詳細は不明であるが、室町時代の頃に岡山城という武士の居城であったと伝えられている。岡氏は、一説には川内小屋館の館主であったとも言われ、現在の大郷町内の羽生・川内地区を領していた土豪であったと推測されている。鎌倉時代以降、この地域は菅原氏・吉良氏・大崎氏・留守氏・葛西氏等によって支配権を巡る闘いが繰り広げられた。岡氏は、これら周辺諸豪の狭間にあって、その傘下に与して支配領域を形成したが、戦国末期には黒川氏・葛西氏・留守氏らの勢力の狭間で消滅していったものと推測されている。
 館越城については築館城以上に歴史不詳であるが、築館城と隣接していることから強い関連があった城であったと思われる。現地の築館城標柱には「古城」と表記されている。

 築館城・館越城は、吉田川南岸の比高40m程の丘陵先端に築かれている。北から築館城・館越城と並び、2つの城の間は堀切で分断されている。築館城の方は現在築館公園となって整備されている。頂部に主郭を置き、東西北の3面に腰曲輪群を段状に連ねた比較的小規模で単純な縄張りの城砦である。城全体の規模と比較すれば多くの腰曲輪が綺麗に構築されており、ほとんど居住性はなかったと考えられるが、有事の際の臨時の詰城としては申し分なかったものと推測される。腰曲輪群の西側下方には堀跡らしい低地も見られる。台地基部は大堀切で分断されており、現在は小道が通っている。堀切の南には館越城があるが、山林となっており、夏場は藪で遺構の確認が困難である。そのため訪城時には、僅かに北端に祠の祀られた平場と虎口らしい形状が確認できただけであった。築館城の方は、遠目にもいかにも城だという形を現しており、近くを通った時には寄ると良いだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.432346/141.019864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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花楯城・大楯城・小館丸館(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1709.JPG←大楯城中間の堀切
 花楯城・大楯城・小館丸館は、3つの城が連郭式に配置された複合城郭である。この付近には、築館城・館越城や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。花楯城・大楯城・小館丸館は、天文年間(1532~55年)の頃に葛西氏一族の金沢長門守が城主であったと言われ、大崎氏・黒川氏に対する備えとして築かれたと言う。その他の事績は不明であるが、1590年の奥州仕置で葛西氏が没落すると、廃城になったのだろう。

 花楯城・大楯城・小館丸館は、吉田川南岸の比高30m程の丘陵先端に築かれている。北から順に花楯城・大楯城・小館丸館と並び、大楯城が本丸に当たり、それぞれの城の間は堀切で分断されている。普通に考えれば3つをまとめて一つの城として扱うべきだと思うのだが、なぜそれぞれに別の城の名が付いているのかはよくわからない。また花楯城の「花」は「端」の転訛であろう。即ち「突端の城」の意味である。2つの堀切には現在車道が通っており、改変を受けている。またそれぞれの城も、ほとんどの曲輪は畑になっているため、多少の改変を受けている可能性がある。いずれの城も堀切跡の車道脇に標柱が立っているが、花楯城の標柱が立っているところから登ったところにある頂部の大きな曲輪は、「宮城県遺跡地図」によれば花楯城ではなく、大楯城の曲輪であるらしく、それを正とすれば大楯城の主郭に当たるのだろう。即ち大楯城は車道となった堀切で南北に主郭・二ノ郭を並立させた一城別郭であったらしい。大楯城の主郭の急峻な切岸の下にある北側の曲輪群が花楯城の様である。遺構としては曲輪群や一部に土塁らしいものも民家裏に見られるが、改変された可能性もある。民家裏の畑地であるので、立ち入りには注意を要することもあって、少々消化不良気味になる城である。
大楯城の主郭→IMG_1721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.437674/141.032073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大窪城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1660.JPG←主郭切岸と横堀
 大窪城は、藩政時代に伊達家一族格に列した大松沢氏の居城である。大松沢氏は、飯田八郎左衛門吉実を祖とし、伊達郡宮沢を治めていたため後に宮沢氏を称したとされる。1495年、大松沢郷が伊達尚宗の領地となり、吉実の後裔、宮沢掃部時実を大崎・葛西両氏に対する北方の押さえとして大松沢に入部させ、大窪城を居城としたと推測される(一説には、宮沢氏の大松沢入部は伊達稙宗の時ともされる)。戦国末期、伊達政宗の時の領主は宮沢元実で、大崎合戦や摺上原の戦いで軍功を挙げ、1592年には朝鮮の役に従軍するなど、伊達軍の一翼を担って活躍した。その功により、政宗より大松沢氏を称する様命ぜられ、伊達家一族の家格を与えられた。以後、江戸時代を通して大松沢所に鎮し、幕末まで存続した。大松沢氏15代衛実は、戊辰戦争において白河口軍事総督に任じられて戦ったと言う。

 大窪城は、鶴田川北岸の比高70m程の丘陵上に築かれた城である。現在城址公園として整備されており、山上まで車で行くことができる。東西に長い不正多角形の主郭を丘陵頂部に置き、高さ7~8m程の切岸の周囲に腰曲輪を廻らした構造となっている。主郭の北辺と南辺の塁線は内側に歪んでおり横矢を意識している。南辺だけは斜面の斜度がきついため、腰曲輪が置かれていない。主郭東側には横堀を挟んで土壇を有した曲輪があり、一方主郭の西側はやや広い面積の腰曲輪で二ノ郭とされている。二ノ郭の北側にも土壇があり、北西の台地基部を分断する堀切に対する櫓台であったと思われる。二ノ郭の南西斜面には腰曲輪群が築かれ、その南北両端は両側を竪土塁で囲み防御し、腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれている。従ってこの腰曲輪群は、側方を竪土塁で、下方を横堀で囲んで防御した構造となっている。更に腰曲輪同士の横矢掛かりが多数あり、かなり厳重に防御していたことが伺われる。訪城した時は晩夏であったが、ちょうど雑草が伐採されたばかりで遺構が非常にわかりやすく、幸運だった。
南西斜面の腰曲輪群→IMG_1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.468223/140.991969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八谷楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1471.JPG←そびえ立つ主郭南端の櫓台
 八谷楯(八谷館)は、伝承では八谷冠者が永禄年間(1558~69年)まで居住したとも、或いは八谷越前守が天正年間(1573~92年)まで居住していたとも言われている。しかし八谷氏についての記録がなくその事績は不明である。一方、勢力圏から考えれば鶴楯城主黒川氏に属していたものと推測され、八谷楯から谷戸を挟んですぐ北の山上に黒川氏の初期の居城御所楯が築かれていることから、八谷楯は御所楯の出城だったと考えるのが自然だろう。

 八谷楯は、東北自動車道脇の比高20m程の南北に長い丘陵上に築かれている。現在は八谷館緑地公園として整備されているが、公園化に伴う破壊を受け、また北半分は東北道の建設で破壊されてしまっており、旧状はかなり変わってしまっている。細長い丘陵を利用しているため、縦に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、曲輪間は堀切で分断している。主要な曲輪は4つで、南から順に笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭と仮に呼称すると、三ノ郭は前述の通り消滅しており、残っているのはそれ以外の3つの曲輪であるが、公園化で土塁などはかなり改変されている。『日本城郭大系』の縄張図には、笹曲輪と主郭の間も堀切があった様だが、ほとんど埋まっている。その上には主郭南端の櫓台がそびえている。主郭内は数段の平場に分かれており、腰曲輪を伴っている。この城で最も明瞭な遺構は主郭北側の堀切で、改変を受けているものの横矢掛かりでクランクした堀の形状がよく分かる。二ノ郭は3段に分かれた平場で城内最大の曲輪である。主郭よりやや低い位置にあり、西側には腰曲輪を伴っている。城の大手は南にあったと推測されるが、そうなると笹曲輪から大手道を登ってすぐに主郭があることになってしまうので、もしかしたら私が二ノ郭としたのが主郭であったかもしれない。そうすると、主郭の方が二ノ郭より低くなってしまうので、判断に迷うところである。城址公園としては、非常に残念な部類に入る遺構の状況である。
主郭北側の堀切→IMG_1509.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.439842/140.914507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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桑折城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1231.JPG←東尾根曲輪群
 桑折城は、大崎氏の重臣渋谷氏の居城である。古文書には、城主として渋谷相模守の名が記されている。渋谷氏は、大崎氏の入部前から河内四頭(渋谷氏・大掾氏・泉田氏・四方田氏)と称される国人領主で、大崎氏の入部後は徐々に大崎氏の勢力に組み込まれ、大崎四家老の一に数えられる重臣となった。桑折城が歴史に大きく現れるのは、1588年の大崎合戦に於いてである。大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。この時、渋谷相模守が守る桑折城には、その甥に当たる鶴楯城主黒川月舟斎晴氏が加勢に入った。大崎勢の激しい抵抗に攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて撤退を始めると、大崎勢は各所の城から出て猛変撃に転じたことで、伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。また留守政景の軍勢は雪原に孤立して危殆に陥ったが、黒川月舟斎は政景の舅であったことから、月舟斎の温情にすがって帰陣を許され、虎口を脱して千石城に戻った。新沼城に孤立した泉田重光、長江月鑑斎らは大崎氏に捕らえられ、大崎合戦は伊達勢の大敗で幕を閉じた。その後、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易となると、桑折城も廃城となった。

 桑折城は、鳴瀬川南岸の標高55m、比高30m程の丘陵上に築かれている。城域は、本城と出城の南楯と、大きく2つの区域に分かれており、本城は丘陵北端の東西に長い尾根上に築かれている。主郭は東のピークに築かれ、西・北・東の三方の尾根に曲輪群を連ねている。メインになるのが西尾根で、主郭の西に長い二ノ郭が続き、土橋の架かった堀切を介して三ノ郭、更に前面を小掘切で防御して四ノ郭群が連なり、西端は段曲輪群で登城道を防御している。四ノ郭群の北切岸には、内枡形虎口や畝状竪堀風な地形がある。一方、北尾根も第2の二ノ郭とも呼べるような長い曲輪であるが、北端は開発で削られてしまっている。東尾根には、片堀切を介して段曲輪群が連なっている。本城から南に堀切を介して尾根伝いに進み、ピークから東に降っていくと、東端のピーク上に南楯がある。2つの曲輪だけで構成された小規模な城砦で、いかにも出城という造りである。ピーク上に主郭があり、北東に舌状の二ノ郭が長く伸びている。主郭周囲には腰曲輪と虎口もあり、西尾根は堀切で分断している。以上の遺構がほぼ完存し、しかも館山公園として整備され、晩夏でも遺構の確認が全く問題なく出来る。主郭の城址標柱に「きれいな公園、郷土の誇り」と書かれているが、このきれいに遺構が残る城址公園は、まさしく郷土で誇るべきものであろう。予想以上に素晴らしい城址公園だった。
二ノ郭手前の土橋と堀切→IMG_1204.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.524499/140.950062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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千貫森楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1129.JPG←主郭下方の横堀
 千貫森楯(千貫森館)は、歴史不詳の城である。伝承では早川民部の城であったと言われるが、詳細は不明である。

 千貫森楯は、鳴瀬川南岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は住宅地と高速道路に挟まれて独立丘陵の様になっているが、開発されるまでは南の丘陵地帯と繋がっていた。城址は千貫森桜公園となって整備され、登り道が付いているので、夏でも訪城可能である。頂部に小さな主郭を置き、南に小郭、更に堀切・土塁を介して南の曲輪に繋がっている。また主郭の北西にも出曲輪があるようだが、南の曲輪ともども削平が甘く、どれほど曲輪として機能していたのかよくわからない。一方、主郭の南東斜面には前述の堀切から繋がる形で円弧状に横堀が穿たれている。よく見ると、横堀の起点には枡形空間があり、枡形虎口を形成していた様である。またこの枡形の下方には腰曲輪が築かれている。従ってこの横堀は、実は城内通路を兼ねた塹壕であったことがわかる。小規模な城砦で、主郭には給水設備、南曲輪には鉄塔が建っていて改変を受けているが、遺構は比較的よく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.519983/140.931094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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駒犬城(宮城県塩竈市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1063.JPG←腰曲輪状の墓地
 駒犬城は、岩切城主留守氏の支城である。古くは駒崎城とも呼ばれたらしく、南北朝期の1351年に観応の擾乱の余波で奥州管領であった吉良貞家・畠山国氏両氏が戦った際、吉良氏が「駒崎」に在陣していたことが『余目記録』の記述から知られており、『日本城郭大系』ではこの駒崎が駒犬城のことであろうと推測している。その後、留守氏の重臣佐藤氏が城主となり、城主の名として佐藤左近・佐藤信高が伝えられている。また、塩竈神社の明応六年(1497)銘の鐘に佐藤宗高の名が見られ、信高の一族と推測されている。戦国期に、伊達晴宗の3男政景が留守氏に入嗣した際には、駒犬城主佐藤太郎左衛門は村岡氏らと共に強く反発し、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。この時、駒犬城も落城し、以後廃城になったと思われる。

 駒犬城は、塩釜港の南西にある比高30m程の独立丘陵上に築かれている。眼下の塩釜市街地は多くが埋立地であり、往時は内湾に突き出た岬だったと推測され、寺ヶ崎と呼ばれたと言う。東園寺の裏山に当たり、現在城内は全て墓地に変貌している。頂部は南北に長い平場となっているが、外周には数段の腰曲輪状の平場があり、やはり墓地に変貌しているものの、往時の腰曲輪の名残と推測される。改変が激しいので、腰曲輪らしい地形しか確認できないが、墓地の入口には城址の石碑が建ち、城があったことをわずかに伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.315245/141.021731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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今泉城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0819.JPG←堀跡の道路と郭内への傾斜
 今泉城は、天正年間(1573~92年)に国分氏の家臣須田玄蕃の居城であった。築城年代は定かではなく、発掘調査では鎌倉後期から南北朝期の陶器が出土しており、その時期まで築城時期が遡るのかどうか、考究が待たれている。
 今泉城は、名取川北岸の平地に築かれた城で、現在住宅地となっている。遺構はほぼ湮滅しているが、堀跡が円弧状の道路になっており、概ねその形状を追うことができる。道路から郭内に向かって僅かに高くなっていることからも、道が堀跡であることがわかる。また堀跡と思われる水路も残っており、朧気ながら城の痕跡を追うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.210332/140.928047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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北目城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0807.JPG←城址付近の現況
 北目城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。茂ヶ崎城主粟野大膳が北目城に移り、天正年間(1573~92年)まで居城した。1600年の関ヶ原合戦の際には、南の上杉景勝と対峙するための伊達政宗の拠点とされた。後に伊達氏家臣屋代勘解由兵衛が置かれたと言う。平成4~5年の発掘調査によって、江戸時代初期の障子堀が確認されており、堀の上幅10~14m、深さ3m以上あったと言う。障子堀ということは、小田原の役の後に北条氏の築城技術が全国の城に導入された一環であろうから、小田原の役後に改修を受けたと推測される。

 北目城は、広瀬川南岸の微高地に築かれた城である。微高地の先端近くに築かれたと考えられ、「館ノ内」などの地名が残っているが、遺構は早くに失われたらしく、昭和20年代の航空写真では既に明確な遺構は確認できない。広い車道の脇に解説板があるのが、城跡を伝える唯一のものである。この解説板に「この遺跡の現状を変えようとするときは・・・」の注意書きがあるが、ここまで何もないと虚しく聞こえてしまう。勿論、前述の障子堀の様に地下には遺構が眠っているのであろうが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.223280/140.897341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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多賀城(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0353.JPG←政庁まで伸びる南大路の跡
 多賀城は、多賀柵とも呼ばれ、律令国家によって造営された陸奥国府である。奈良時代前半に創建され、国府であると共に鎮守府としての機能も有した古代城柵でもあった。多賀城碑の碑文と発掘調査の結果などから、4期に渡る変遷と次の歴史が明らかになっている。即ち、多賀城の創築(第1期)は、724年、按察使兼鎮守将軍の大野東人による。第2期は762年、藤原朝獦により大改修が施された。しかし780年に伊治公呰麻呂の乱で焼き討ちにあって焼失した。その後再建され(第3期)、802年、征夷大将軍坂上田村麻呂によって北方に胆沢城が新たに築かれると、鎮守府機能は多賀城から胆沢城に移された。869年の貞観大地震で多賀城は破壊を受け、城下には津波が押し寄せて1000人以上が溺死したと言う。被災後に復興されたが(第4期)、10世紀半ばには城柵としての機能を失った。
 古代城柵としての歴史はここで一旦終りを迎えるが、その後の前九年の役・後三年の役でも軍事拠点として使用された。1333年の建武の新政では、後醍醐天皇の命により北畠顕家が陸奥国司・鎮守府大将軍に任じられ、皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、父北畠親房と共に多賀城に下向して奥州府を統治した。しかし発掘調査ではこの時期の遺構は確認されておらず、南北朝期の陸奥国府の正確な所在は不明である。尚、作貫地区では中世の豪族の居館跡が検出されており、建武期の奥州府がここに置かれた可能性もあるのではないだろうか。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、南北朝の抗争が始まると、多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。その後、奥州探題として入部した大崎氏が大崎地方を本拠とするようになると、多賀城は歴史から姿を消した。

 多賀城は、現在国指定の特別史跡として整備されている。砂押川と加瀬沼の間にある丘陵一帯を城域に取り込んだ広大な城柵で、外周には築地塀の跡が土塁状の高まりとなって延々と残り、北東部には東門跡、南面には南門跡が発掘復元(基壇のみ)されている。また中央には政庁跡があり、やはり基壇などが復元整備されている。そこから谷戸を挟んだ東の丘陵上(作貫地区)には古代の役所跡とともに中世の豪族居館も確認されており、広い城柵内でここだけ、土塁と空堀が残っている。江戸時代にはここに、鹽竈神社の神官の屋敷も置かれていたらしい。外郭南西部には西門もあったようだが、そこは民有地のせいか整備されていない。この他では、城内の石敷き道路や、政庁跡から南門を貫通して一直線に南に伸びる大路も復元整備されている。城内は起伏に富んだ丘陵地で、宮沢遺跡と同様な構想で作られていることがわかる。私は、古代城柵フリークではないので、あまり強い感慨は抱かなかったが、日本古代史好きの人には必見の史跡であろう。日本三古碑の一つである多賀城碑も必見。
外郭北東の隅櫓跡→IMG_8686.JPG
IMG_8734.JPG←作貫地区に残る空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.306574/140.988386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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小曾沼城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8666.JPG←城址とされる高玉神社
 小曾沼城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。北にわずか600m程しか離れていない一名坂城と共に、一体となって機能したと見られ、その経緯は一名坂城の項に記載する。結局大河戸一族は、頽勢が濃くなると一名坂城・小曾沼城に立て籠もってこれを死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方の吉良貞家の軍勢に攻略され、大河戸氏の本拠山村城も陥落したと言う。
 小曾沼城も一名坂城と同様、その位置は明確ではないが、現在の高玉神社付近にあったのではないかと推測されている。なんでも、城名も元は「獺(カワウソ)の住む沼(獺沼)」の転訛だとのことだそうだが、往時の地形は七北田川の氾濫等で変わってしまっているらしい。『泉市史』では「高玉稲荷社が、小曾沼の城跡に営まれたものとの伝承がある」と記載しているそうだ。周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもない。推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に七北田川の渡河点を押さえる出城であったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.317720/140.891955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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一名坂城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8662.JPG←城址推定地南の傾斜地
 一名坂城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。大河戸氏は武蔵大河戸氏の後裔で、源頼朝の奥州合戦の軍功により陸奥国宮城郡山村の地を賜った。南北朝期には山村城(山邑城)を本拠とし、一名坂城・小曾沼城を出城として築いていた。室町幕府の内訌「観応の擾乱」が生起すると、それにつけ込んで各地の南朝方が一斉に反攻を開始し、大河戸氏も南朝方に付いて皇子山村宮を奉じ、北朝方の吉良貞家と交戦した。1352年、宇津峯宮を奉じた北畠顕信も、北朝方を打ち破って進軍し、国府多賀城の奪還に成功した。しかし、翌年には吉良貞家は勢力を盛り返し、多賀城を攻撃した。多賀城救援のため大河戸一族と共に出撃した山村宮は、北朝方の優勢な軍事力の前に討死し、多賀城は再び北朝方の手中に帰した。宇津峯宮・北畠顕信らは宇津峯城に逃れて抗戦を続けた。山村宮の討死後、大河戸一族は一名坂城・小曾沼城を死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方に攻略され、更に本拠の山村城も陥落したと言う。

 一名坂城は、その位置は明確ではないが、現在の七北田小学校付近にあったのではないかと推測されている。位置も明確ではないぐらいであり、しかも周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもないが、推定地付近は七北田川北岸の丘陵地で、大きな傾斜地の上にあり往時は要害であったことが伺える。また推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に渡河点を押さえる交通の要衝であったことも伺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.322602/140.892448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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師山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8631.JPG←主郭北東角の隅櫓の張り出し
 師山城は、大崎氏の重臣渋谷弥三郎の居城と伝えられている。一説には、大崎氏2代直持が師山城を居城として勢力を拡大したとも言われる。1534年、大崎氏家中で「天文の内乱」が生起し、新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢氏らと共に主君大崎義直に反旗を翻すと、義直は自力で叛乱を鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を仰いだ。請いを容れて大崎領内に進軍した稙宗は、師山城を拠点として反義直勢力の拠点古川城を攻撃したと言う。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。結局攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて大敗した。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 師山城は、城山と呼ばれる微高地にあった。周囲を小河川の流れる低湿地帯に囲まれ、そこに半島状に突き出した低台地を利用した城であったと推測され、標柱の東にある段々の高台となった畑地は主郭の遺構と思われる。昭和20年代の航空写真と見比べると、現在とほとんど地形が変化していないので、おそらく往時の形状をかなり留めていると思われる。主郭の周囲には腰曲輪の他、隅櫓の張出しまで確認できる。主郭に繋がる台地基部ももちろん城域だったと思われるが、そちらは現在は宅地化で改変され、遺構は確認できない様である。遺構として明瞭なのは主郭部だけであるが、往時の雰囲気は感じられる。
主郭南西部の湾曲する塁線→IMG_8652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.544708/140.977356/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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新沼城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8594.JPG←主郭跡とされる稲荷神社
 新沼城は、大崎氏の家臣遠藤掃部と上野甲斐の居城と伝えられている。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、中新田城を包囲攻撃したが、守将南条下総守の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。大敗した伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月鑑斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立し、新沼城に孤立していた伊達勢は引き揚げを認められたと言う。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 新沼城は、東北道のすぐ西にある下沖集落に位置している。集落中央付近の畑地の中に建つ稲荷神社付近が主郭とされ、その周辺の東西120m、南北100m程の範囲に主郭が拡がっていたとされる。城内は宅地や耕地に変貌して、遺構は完全に湮滅している。主郭付近はわずかに微高地となっているが、改変が激しく輪郭もはっきりしない。辛うじて堀跡と思われる水路が残っているだけである。稲荷神社脇に城址標柱がなければ、誰もここが城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.540278/140.926867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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中新田城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8588.JPG←神社裏に僅かに残る主郭土塁
 中新田城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏の事績については名生城の項に記載する。斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)となって奥州に下向し、最初に居城としたのが中新田城とも言われている(一説には師山城が最初とも)。その後大崎氏は居城を幾度か移したと見られ、12代大崎義直と13代義隆が中新田城を居城としたとされている。しかし義隆の時に名生城に居城を移したと言われ、その後は家臣南条下総守が城代として居城したと言う。1588年に大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。南条下総守は中新田城に籠城し、留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢を迎え撃った。伊達勢は中新田城を包囲したが、南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、大崎氏は小田原不参の故を以って改易され、中新田城は廃城となった。藩政時代には2代仙台藩主伊達忠宗が領内巡察の際、城址に仮り舎を設けたことから「御仮屋」と呼ばれた。

 中新田城は、加美町市街北東の国道347号線と457号線が接続する交差点を中心とする一帯にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、方形の主郭とその周りの堀跡が確認でき、更に外郭東側の外堀跡も明瞭であるが、現在はほとんど完全に湮滅している。残っているのは、多川稲荷神社の裏の主郭南東角の土塁と北側の外堀跡の水路ぐらいである。つい数年前まで主郭堀跡も低い畑になっていたようだが、それも現在では宅地となってしまっている。ほとんど城跡らしさを残さず、壊滅してしまっているのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.573703/140.859854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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狼塚城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8543.JPG←西辺部の土塁と堀跡
 狼塚城は、上狼塚館とも呼ばれ、大崎氏四家老の一人里見紀伊守隆成の居城である。紀伊守の名は大崎合戦でも現れており、斜陽の大崎氏を支えた武将の一人であった様である。
 狼塚城は、慈恩院の北側に築かれている。低地帯に浮かぶ微高地にあり、城内は宅地化が進んでいるが、城の西辺部は最もよく遺構を残しており、林の縁に土塁と堀跡が確認できる。どこかに城址標柱もあるらしいのだが、発見できなかった。尚、慈恩院には里見紀伊守の墓が建っているが、本当の墓は本堂の須弥壇の下にあると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/140.869639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茂ヶ崎城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8493.JPG←竪堀と推測される地形
 茂ヶ崎城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の居城と伝えられている。粟野氏は、元々越前を本拠としていたが、1342年に粟野藤三郎駿河守重直が軍功によって、足利尊氏から名取郡2千余貫を賜り、翌年茂ヶ崎城を築いて居を構えたとされる。その後6代国定は、文明年間(1469~86年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入った。粟野氏は北目城や沖野城を支城に持ち、一説には戦国後期には粟野氏の本城は北目城に移っていたとも言われる。伊達政宗時代の当主は大膳太夫重国で、伊達氏の重臣として活躍したが、1591年に政宗に抗したらしく、城を逐われ、重国は失意のうちに1623年に死去したと伝わっている。江戸時代には、城跡に仙台藩主4代伊達綱村によって大年寺が建立され、また無尽燈廟・宝華林廟の2つの墓所が造営されたため、多くの改変を受けた。

 茂ヶ崎城は、標高120m程の大年寺山に築かれている。前述の通り江戸時代に大きな改変を受けたため、どのような縄張りの城だったかはあまりわかっていない。東麓から大年寺の参道が伸びているが、途中に千人溜と呼ばれる平場がある。また参道から脇に伸びる小道を南に進むと、山腹を貫通する竪堀状の地形が見られるが、山上の堀状地形から伸びていることから推測して、遺構ではないかと推察される。遺跡調査報告書によれば、主郭は仙台放送のアンテナの建つ丘陵最高所にあったと推測され、その前後に空堀が残っているらしいが、未確認である。その他は丘陵上の改変が激しく、遺構は失われている。少々山容が大き過ぎ、前述の通り丘陵最高所が主郭であったとすると、かなり大型の山城ということになってしまい、粟野氏の勢力から考えるとやや疑問に思う。もう少し小型の城であったと推測するのが普通と思うが、現況と合わず謎が多い城である。
 尚、伊達氏の墓所の内、無尽燈廟は公開されているが、宝華林廟は未公開となっており、塀越しに僅かに望むことしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.237371/140.873029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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