So-net無料ブログ作成
検索選択
古城めぐり(宮城) ブログトップ
前の30件 | 次の30件

宮沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7081.JPG←僅かに残る本丸土塁
 宮沢城は、江戸時代には伊達21要害の一、宮沢要害と呼ばれた城である。伝説では平安時代に藤原秀郷が拠った所と言われるが、「なぜ下野本拠の豪族が奥州に?」ということで、元より信ずるに値しない。室町時代には大崎氏の支城であり、その家臣葛岡太郎左衛門が拠り、次に宮沢遠江、或いは岩崎讃岐義久が居城にしたとも伝えられるが、大崎氏支配時代の歴史は失われており、詳細は不明。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易され、その後に入部した木村氏の圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発すると、大崎方の拠点となり、岩崎讃岐父子、岩崎伯耆、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人等が宮沢城に立て籠もって、城周辺の河川や堀を堰き止めて城の周囲に水を引き入れ、伊達勢の攻撃を阻止したが、和議によって落城したと言う。一揆鎮圧後、大崎領が伊達政宗の所領となると、宮沢城には伊達氏の家臣後藤康之が一時居城とし、その後、出羽国長井庄小国城主の上郡山常為が宮沢城に移封された。元和の一国一城令で、城の名を去って宮沢要害と称した後も上郡山氏の9代140年間にわたる居城であったが、1747年に長沼致信と所替となり、幕末まで長沼氏が在城した。

 宮沢城は、小河川に挟まれた平地上に築かれた城である。現在は民家や耕地化により遺構の殆どが湮滅している。はっきりと残っているのは、八幡神社が建っている本丸土塁の残欠ぐらいで、あとは道の形にかつての堀や曲輪の形の名残を残しているに過ぎない。非常に残念な状態である。
 尚、城の西にある光岳寺には上郡山民部太夫景為(常為の養子)の墓が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.625823/140.941522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高清水城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7029.JPG←主郭南辺部の土塁
 高清水城は、江戸時代には伊達21要害の一、高清水要害と呼ばれた城である。天文年間(1532~55年)に大崎氏9代義兼の3男高清水直堅によって築かれたとされる。直堅の長男直隆は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易となると、城を召し上げられた。大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられたが、同年10月、木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、高清水城も一揆勢に攻略された。乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆が鎮圧されると大崎領は政宗に与えられ、1604年には伊達氏の重臣で涌谷城主であった亘理重宗に、高清水城が隠居領として与えられた。1606年、政宗の庶子宗根が亘理重宗の娘を娶って入嗣し、亘理家の名跡を継いで高清水城を居城とした。以後、亘理氏の歴代の居城となり、元和の一国一城令以後は、高清水要害として城の名を除いた。1757年、亘理氏は佐沼要害へ移り、替わって石母田興頼が高清水要害に入り、以後石母田氏の居城となって幕末まで存続した。

 高清水城は、透川北岸の段丘上に築かれた城である。城内は市街化が進んでいるが、部分的に遺構が残存している。主郭には現在、高清水中学が建っているが、校地は主郭の北側半分に過ぎず、主郭南半は畑となっており、南辺部には土塁が良好に残っている。また土塁の内側に水堀の沼が残存している。現地解説板の古絵図にも記載されている沼地で、往時からのものであり、湧水があるらしい。この他、二ノ郭の土塁と堀跡が断片的に残存しており、外濠公園などとなっている。遺構の改変が進んでいるものの、思ったよりも遺構が残されており、地勢も往時のままであるので、城の雰囲気はよく感じられる。
主郭南部に残る水堀の沼→IMG_7038.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.654231/141.015658/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

古川城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6981.JPG←水堀跡の水路
 古川城は、大崎氏の家臣古川氏の居城である。最初は大崎氏7代教兼の第6子(名は不明)が初めて居を構えた地と言われる。その後裔が古川氏となったとされるがその系譜は不明点が多い。いずれにしても、戦国時代には古川刑部持慧・古川弾正忠隆の居城となった。持慧は、1534年の大崎氏の内訌の際、新田安芸頼遠に与して大崎義直に対して叛乱を起こし、古川城は反義直方の拠点となった。伊達稙宗が義直を助けて大崎領に攻め込むと、伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、古川城は落城し持慧は自刃した。1586年、大崎義隆の寵童新井田刑部と伊庭野惣八郎の争いによって、大崎家中を二分する戦いに発展すると、伊達政宗は内紛平定を名目として大崎領内へ侵攻した(大崎合戦)。この時、古川城主古川忠隆は義隆方に与して師山城に籠り、伊達勢と対峙したと言う。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、大崎氏が改易されると、大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられ、古川城には清久が入城した。しかし木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆平定後、葛西・大崎領は伊達政宗に与えられ、古川城には重臣の鈴木和泉守元信を置いた。以後鈴木氏3代に渡る居城となったが、1645年、3代宗良の時に桃生郡深谷に転封になると、古川は仙台藩の直轄領となり、古川城は廃城となった。

 古川城は、古川の街の中心部にあった平城で、現在の古川第一小学校の敷地に本丸があった。また本丸の北・西・南の3面を取り囲むように二ノ丸(二ノ構)があり、その南に三ノ丸(西館)があった様だが、現在は市街化でほとんどの遺構が湮滅している。小学校の正門前に建っている解説板によれば、昔は小学校の正門脇に土塁が残っていたらしいが、それも今では失われている。小学校の東側に水路(緒絶川)が流れているが、これが城の外堀の痕跡であろう。結局これが唯一の遺構であり、あとは各所の地名に城の名残を思わせるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.577544/140.953453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

矢ノ目館(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6935.JPG←浮島のように残る主郭
 矢ノ目館は、天正年間(1573~92年)の伊達氏による伊具郡奪還戦に際し、伊達輝宗・政宗父子が本陣を置いた城館である。1576年より、伊達晴宗・輝宗父子は相馬氏に占領された伊具郡奪還に乗り出した。この時、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かっている。また1581年には、若干15歳の伊達政宗は父輝宗に従って相馬氏との合戦で初陣を果たした。その際にも、矢ノ目館に本陣を置いている。小斎城の至近にあり、度々本陣として使用されていることを考えると、伊達氏の伊具郡奪還戦において、重要な城館であったのだろう。

 矢ノ目館は、阿武隈川曲流部の東岸の平地に築かれた城館である。かつては二重の水堀で囲まれた環郭式の縄張りであったが、現在は、外郭は水田に変貌し、内郭(主郭)のみが残っている。主郭は微高地で、現在民家が建っているので無断進入はできない。外から見ると部分的にわずかに土塁が残っている様である。周囲には堀跡の水田が残っているが、昭和20年代後半の航空写真を見比べると、広く改変されてしまっているらしい。いずれにしても、河川流域の低湿地帯に築かれた要害であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.922501/140.812905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

角田城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6825.JPG←本丸南側に残る急斜面
 角田城は、江戸時代には伊達21要害の一、角田要害と呼ばれた城である。永禄年間(1558~69年)に田手宗光によって築かれた。田手氏は、伊達氏初代朝宗の6男宗綱に始まる伊達氏の一族で、元々伊達崎城主で伊達崎氏を称していたが、後に、本家の伊達氏と姓が似ているので、混同を避ける為に田手氏に改称したと言う。角田城が築かれた頃、隣接する伊具郡が相馬氏に攻略されると、宗光は伊達氏に叛いて相馬氏と通じたため角田城を逐われた。宗光の子宗時は、父に従わず伊達氏に留まっていたので、そのまま所領の相続を認められ、角田城主となった。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。この相馬氏との戦いの中で、宗時は1582年に討死した。1591年、伊達政宗が岩出山城へ移封となると、伊達成実が二本松城から角田城に移された。しかし1595年、成実は突如伊達家から謎の出奔をし、角田城は政宗の命を受けた屋代景頼によって接収されたが、成実の家臣団は城に籠もって抵抗し、羽田右馬助ら30余名が討死した。その後しばらく城主不在となっていたが、1598年、政宗の叔父に当たる石川昭光が角田城主となった。石川氏は、元々奥州の独立した小大名であったが、伊達晴宗の4男昭光を養子に迎えていた。1590年、小田原の役に不参の故を以って豊臣秀吉の奥州仕置で改易され、伊達氏を頼ってその家臣となった。江戸時代には伊達一門筆頭となり、伊達家家臣団中において最高の家格を保った。角田城は、元和の一国一城令で角田要害となり、石川氏の居館として幕末まで存続した。

 角田城は、比高10m程の丘陵上に築かれている。現在は、城の主要部は角田高校・角田中学に変貌し、周囲の外郭も市街化されて遺構はほとんど湮滅している。しかし地勢は残っており、本丸のあった角田高校は段丘上にあり、周囲には往時の切岸を思わせる斜面で囲まれている。また城の外周を囲んでいた堀も、僅かな水路としてその痕跡を残している。昭和20年代後半の航空写真を見ると、外周の水堀がはっきりとその形を残し、南の出丸も明瞭であるので、高度成長期における城址の破壊が惜しまれる。

 尚、現在市の郷土資料館となっている旧氏家邸には、角田城の移築門が残る他、邸宅も角田城の用材で建てられたとの伝承があるとのことである。また庭にある灯籠も角田城のものとされるなど、文化財として貴重である。大正時代の古いガラスがそのまま残っているというのも非常に珍しい。入館無料なのに、貴重な解説まで聞かせていただけるので、角田城訪城の際は寄った方が良い。
外周に残る堀跡の水路→IMG_6817.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.968561/140.778186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

伊達政宗陣場(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6618.JPG←遺構の可能性がある土塁
 伊達政宗陣場は、関ヶ原合戦の前哨戦として行われた全国各地の一連の戦いの中で、いわゆる「白石城の戦い」の際に伊達政宗が本陣を置いた陣場である。豊臣秀吉の没後、天下の主導権を握った徳川家康は、家康に対抗する石田三成に同調して会津で戦備を整えていた上杉景勝を討伐するため、諸大名に命じて上杉討伐に向かった。その際に、上杉領を背後から脅かすため、岩出山城の伊達政宗に信夫口からの攻撃を命じた。政宗は上杉領刈田郡の要衝白石城攻撃の為、白石城を真南に見据える白石川北岸の段丘上に本陣を置いて、上杉氏家臣甘糟備後守清長が守る白石城を7月24日から攻撃を開始し、一昼夜で攻め落とした。

 伊達政宗陣場は、現在は福岡小学校の敷地となっている。「陣場」の地名が残っている。小学校下の南東に、戊辰戦争の奥州鎮撫軍総督府参謀であった世良修蔵の墓の入口があり、そこを登っていくと途中に「伊達政宗公陣場跡」の標柱と解説板が建っている。それによれば、西側の地続きに大土手(土塁)を築き、南の崖面に2、3段の平場(腰曲輪)を構えた陣場とされ、確かに学校敷地の西辺に土塁状のものが残っている(但し、現在のものが往時の遺構かどうかは不明)。南面の腰曲輪はよくわからなかったが、崖面を通る車道が腰曲輪だった可能性がある。一方、北側の車道の通っているところもいかにも堀切跡という趣で、往時の沢を天然の堀切としたか、或いは多少手を加えて堀切状に仕立てたものであろう。いずれにしても改変が進んでいるので、はっきりとした遺構は確認できないが、白石城を見据える絶好の陣場であったことは、現在でもよく分かる。
陣場から見た白石城→IMG_6624.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.011803/140.615366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

滝野館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4784.JPG←館の塁線跡か?
 滝野館は、仙台伊達藩の宿老遠藤家の館である。遠藤家の祖は、伊達輝宗の重臣として活躍した遠藤山城守基信で、1591年、2代宗信の時に伊達家が岩出山に移封となると、出羽米沢より栗原郡築館村佐野館に移封となり、1604年、3代玄信は川口村滝野に所替えとなり館を造営した。そのまま幕末まで存続し、11代允信の時に明治維新を迎えた。
 滝野館は、一迫川の西岸の滝野集落の北西部に位置している。現在は一面の耕地となり、遺構はほとんど湮滅しているが、集落より僅かな微高地となっており、民家裏の耕地の段差部は「御館」の塁線を残しているとも考えられる。いずれにしても、一番明瞭に残っているのは、集落内の「鉤の手」になった通りであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.773458/140.880893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

川口楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4764.JPG←北郭の大土塁
 川口楯は、狩野修理の居館と言われている。おそらく真坂楯主狩野氏の一族の拠った城であろう。
 川口楯は、南から張り出した標高120m、比高60mの山丘上に築かれた城である。山頂に長円形の主郭を置き、外周に腰曲輪を築き、主郭の四方(東西南北)に伸びる尾根には馬蹄段を配した縄張りとなっている。西郭には八雲神社が建てられていて、そこまでは登道が整備されている。丘陵基部の南郭は2段の馬蹄段となり、堀切で基部を断ち切っている。北郭は、城下に向いた前面に、幅広の大土塁が築かれている。長さもあり、形状から考えて多門櫓ぐらいはあった可能性が考えられる。もしそうだとすると、城下に向いた前面に築かれたことから考えても、城下への視覚効果を狙ったものと思われる。川口楯はこじんまりした城であるが、北側前面の大土塁は印象的である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764625/140.890206/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

陣楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4668.JPG←堀切から落ちる二重竪堀
 陣楯は、歴史不詳の城である。一説には、前九年の役の際に安部貞任が立て籠もった渕牛楯に対抗する楯であったとも言う(現地標柱の記載)。
 陣楯は、国道457号線が貫通する丘陵上にあったらしい。たまたま国道を走っていて、道端の標柱を見つけたので訪城した。笹藪がひどいので、あまりはっきりしないが、標高220mのピークから東下に張り出した尾根上に築かれた単郭の小城砦と思われる。平場の背後に掘切があり、この堀切は南側に落ちる竪堀が2本に分岐する変則的な二重堀切となっているようだ。一応、標高220mのピークにも登ってみたが、遺構らしきものは何も確認できなかった。渕牛楯に対抗する砦という伝承もむべなるかな、と言う印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.782625/140.883662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

後藤楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4578.JPG←三ノ郭に架かる土橋
 後藤楯は、駒場楯とも呼ばれる。元々は前九年の役の際に源頼義が陣所にしたとも言われ、後の天文年間(1532~55年)に大崎義隆の家臣後藤平馬之允高広の居城であったと伝えられている。

 後藤楯は、比高40m程の西から東に張り出した丘陵上に築かれている。丘陵上には八幡神社が鎮座しているが、後藤楯の中心部は神社から東に2~300m離れた位置にある。かなり複雑な縄張りを有した比較的大きな城である。外郭の物見台であったと思われる神社から東に100m程降っていくと小堀切があり、ここから城域に入る。堀切沿いの土塁を迂回して進むと、尾根上に細長く何段かの平場群が続いている。その先端の尾根のくびれた部分に二重堀切が穿たれている。1本目は比較的浅いものだが、2本目は5m程の深さがあり、北側に深い竪堀となって落ちている。この先が城の中心部で、やや小さい方形の高台(ニノ郭)の先に切岸で囲まれた横長の広い主郭がある。主郭は外周に腰曲輪を伴い、北東角には小さな隅櫓台とその先の尾根に物見台の小郭があって、眼下を見張っている。一方、主郭の南東には枡形虎口が築かれ、その側方に堀切を挟んで櫓台が築かれている。主郭の東にも曲輪(三ノ郭)があり、南端に大きな櫓台が築かれ、その南側にやはり堀切を挟んで三角形の櫓台が築かれている。三ノ郭の東側は土橋の架けられた幅広な堀切(堀底は腰曲輪となっている)が穿たれ、その先も出丸的な曲輪となっているが、ここには給水施設があって改変を受けている。その先も移行がある可能性があるが、時間の制約もあって未踏査である。城内は藪が多いので確認しづらい部分も多いが、技巧的な縄張りが散見され、見所は多い。尚、八幡神社登り口に標柱が建っている。
二重堀切の一つ→IMG_4522.JPG
IMG_4558.JPG←三ノ郭の櫓台と堀切・外の櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.809266/140.938379/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

森楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4427.JPG←下段の腰曲輪
 森楯は、現地標柱によれば安藤五郎窺家の居館とされ、『森館軍記』という書物に出てくる居館と言う。また『日本城郭大系』によれば森周防、或いは森因幡守糺則の居館であったとされている。いずれにしても事績不明の城館である。
 森楯は、平野の只中にある比高20m程の独立丘陵に築かれている。たまたま通りかかって標柱を見つけて訪城した。登道を探して歩いていると、地元のおばあさんから、またそのちょっと先でおじいさんに別々に声をかけられた。城跡のことを伺うと、お二人共、異口同音に「城跡だと言われているけど何にもないよ」と力説していた。キャッスラーならよく聞く答えで、「ははん。てことは、遺構があるな」と思って、南面の鳥居のある階段を登って行くと、案の定腰曲輪らしい平場と切岸が目に飛び込んできた。
 森楯は、楕円形の丘陵頂部に、堀切で分断された主郭とニノ郭を置き、外周に2段の腰曲輪を築いて全周を囲繞している。堀切は城内通路を兼用していたようで、堀切南端から腰曲輪を西向かって歩くと、僅かに木戸口の土塁が残っている。堀切の主郭側には低土塁も築かれている。思った以上に良好な遺構に満足した反面、「家の真裏の山にこれだけしっかり遺構が残っているのに、『何もない』とはなぁ・・・」と、こうして遺構も歴史も埋もれていってしまうかと思うと、少々複雑な気分だった。
主郭・二ノ郭を分断する堀切→IMG_4445.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.811356/140.964214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

黒岩楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4375.JPG←ニノ郭の櫓台と竪土塁
 黒岩楯は、源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした奥州合戦の際に、藤原泰衡の家臣若九郎大夫が拠点としたと言われている。『吾妻鏡』には「黒岩口」と記されている。一方、鶴丸城主郭より谷戸を挟んで僅か300m程しか離れていないことから、鶴丸城の出城であったとも考えられている。

 黒岩楯は、前述の通り鶴丸城の至近に位置する標高110mの山上に築かれている。比較的小規模な城ではあるが、山頂の主郭から西側に階段状にニノ郭・三ノ郭と2段の曲輪が展開し、これら2つの曲輪の北辺は主郭から竪土塁が一直線に下っている。この土塁は曲輪間の登道も兼ねていたと思われる。一番下の三ノ郭では先端部が90度折れ曲がって5m程伸びている。更にニノ郭の竪土塁脇はニノ郭平面より一段高い方形の平場となっており、形状からして櫓台が置かれていた様だ。三ノ郭は南半分だけがL字状に張り出した形状で、西の谷戸に向かって横矢が掛けられている。一方、竪土塁は主郭の南東にも短く張り出しており、主郭南側まで伸びた腰曲輪状の二ノ郭と東側の腰曲輪を分断している。この下には虎口を兼ねた堀切があって、南出曲輪が築かれている。主郭の北側は横堀状の腰曲輪があり、北側に櫓台が築かれている。この横堀状腰曲輪の北には、小郭群を連ねた竪土塁状の曲輪群が築かれていて、最下段は物見台状の平場となっている。竪土塁状曲輪群の北(外側)に沿って通路があり、大手道だったらしい。この大手道は最上部で前述の櫓台に突き当たって、坂虎口で横堀状腰曲輪に繋がっている。黒岩楯は、小規模ながらも技巧的な縄張りが垣間見られる。縄張りを見る限り、鶴丸城との連携を意識した様子はなく、極めて独立性が高い。しかし戦国期の遺構であることは間違いないと思われ、鶴丸城と並立した期間はあったものと推測されるので、どのように連携していたのかは今後の考究に待ちたい。
主郭北側の横堀状腰曲輪と櫓台→IMG_4400.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.837652/140.989941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鶴丸城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4253.JPG←ニノ郭群東の畝状竪堀
 鶴丸城は、別名を岩ヶ崎城とも言い、葛西氏の家臣富沢氏の居城である。富沢氏は元々葛西氏の庶流であったと言われ、その祖右馬之助が南北朝時代の岩切城合戦の際に吉良貞家に味方した軍功により、三迫富沢郷を賜って鶴丸城を築いて居城とした。右馬之助は名を富沢日向道祐と改め、以後明岩・直家・直綱・直景と5代に渡り、代々日向守を名乗った。富沢氏の支配地域は大崎氏の領国と近かった為、後に大崎氏に仕えるなど、葛西氏に抗する動きを見せるようになった。特に戦国後期に入ると、4代直綱は葛西晴信に対して度々反乱を起こし、晴信はこうした富沢氏ら領内の有力国人衆の反乱鎮圧に忙殺された。天正年間(1573~92年)に入ると、伊達氏に誼を通じるなど、終始葛西氏に対する対抗姿勢を崩さなかった。しかし強勢を誇った富沢氏も、1590年、5代直景の時に豊臣秀吉の小田原征伐の不参のため、葛西氏と共に改易された。葛西大崎一揆の際には、葛西晴信の軍に付いて佐沼城に立て篭もり、伊達政宗の軍勢に攻められて討死し滅亡した。富沢氏滅亡後、鶴丸城は伊達政宗の5男宗綱、6男宗信の居館となり、茂庭周防の補佐により5万石の城下町を築こうとしたが、いずれも夭逝して成らなかった。その後、石母田・田村・古内・茂庭の各氏が入部し、最後は中村氏が170年にわたって支配して幕末まで存続した。

 鶴丸城は、栗駒小学校の北にそびえる標高100m、比高70mの丘陵上に築かれた城である。広い城域を有した城で、大きく4つの曲輪群と、そこから派生する尾根状の曲輪群で構成されている。最も西の最高所に主郭があり、その東に堀切を挟んでニノ郭、更にやや離れて東に三ノ郭・四ノ郭が築かれている。いずれの曲輪にも腰曲輪が築かれている。主郭は南尾根に腰曲輪が連なり、二ノ郭・三ノ郭は北東の尾根上に腰曲輪が連なっている。薮でわかりにくいが、先端には小堀切も穿たれている。四ノ郭は上下2段の平場に分かれ、更に外周に腰曲輪が廻らされている。南には虎口が築かれ、虎口脇に竪堀が穿たれて防御を固めている。この城で特徴的なのは二ノ郭群の東斜面に大きく展開した大きな畝状竪堀である。しかし斜度の緩い斜面に穿たれており、どこまで防御性を発揮したのかはよくわからない。畝状竪堀よりも、急峻な切岸にした方が防御性が高いように思われる。鶴丸城は、全域が公園化されており、歩いて回るのには良いが、肝心の遺構は公園化による改変が多く、今一つ感心しない。姫松楯を手本にして欲しいところである。

 それにしても鶴丸城は完全な山城であり、これを元和の一国一城令以後も取り立てていた伊達政宗は、徳川幕府を舐めきってるとしか思えない。伊達氏は、この城に限らず領内各所の要害といい、一国一城令を完全に無視した態度はさすがにふてぶてしい。
主郭から見たニノ郭→IMG_4194.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.835897/140.992302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

渕牛楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4052.JPG←主郭北西端の円弧状の横堀
 渕牛楯は、往古は華山城と称し、また『日本城郭大系』では花山館と記載され、俘囚長・厨川次郎安倍貞任の拠った城と言われている。築城はその父安倍頼時によると伝えられ、頼時・貞任父子は鬼切部の戦いで渕牛楯を基地として善戦したと言う。前九年の役で、貞任は猿飛を岩石・丸太で堰き止め、水を湛えて守りを固めていた。1062年夏、源頼義・義家の軍勢2700余騎は裏手の軍沢より渕牛楯を包囲した。貞任軍はよく戦ったが利あらず、貞任は一部の手兵と共に脱出して衣川に退いたが、城兵は全員討死にして落城したと言う。落城後は源氏の家臣佐藤左衛門公清の居城となり、1398年まで佐藤氏が代々支配した。その後、葛西氏、大崎氏に属し、伊達政宗の時に廃城となったと言う。

 渕牛楯は、人造湖である花山湖に突き出た標高250mの丘陵上に築かれている。城跡へは北東麓からのルートや吊橋を渡る南麓からのルート等、複数の登道が整備されている。近いのは北東ルートだが、湖上に浮かぶ山容を写すには南麓からの方が良い。結構急峻な登道を登って尾根に取り付き、北東へと辿って行くと、四阿の建つ小ピークに達する。ここが物見台だったらしく、北側に数段の段曲輪が築かれている。主郭はここから真北に尾根の鞍部を越えた先にある。この尾根の両側には帯曲輪が築かれている。西側には帯曲輪の下に二重横堀が穿たれている。一方、東側のすり鉢状の谷戸にも、円弧を描くように二重横堀が穿たれている。この東西の二重横堀は、いずれも主郭外周の横堀に繋がっている。主郭はハート形をした広い曲輪で、外周に横堀が穿たれている。この横堀は一部は腰曲輪状になっている他、北西から西面にかけては円弧を描いた二重横堀となっている。物見台と繋がる尾根と主郭との間は、浅い堀切で区画され、中央に土橋が掛かっている。土橋の西側の堀切はそのまま竪堀となって腰曲輪に落ちているが、どうも竪堀状の虎口であったらしい。更にその下方にも位置をずらして竪堀虎口が二重横堀に作られており、横堀と連携させた変則的な枡形虎口を形成していた様である。二重横堀と桝形虎口と言えば、出羽置賜地区には数多い、伊達氏系山城の特徴であることから、渕牛楯も元々の創築は別として、最終段階の改修は伊達氏によって行われたと推測するのが妥当と思われる。ほぼ単郭の城であるが伊達氏系城郭の特徴が垣間見れて面白い。
主郭~物見台間の堀切・土橋→IMG_4111.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.783829/140.861775/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
nice!(6)  コメント(0) 

赤松楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3909.JPG←主郭の北東隅櫓台
 赤松楯は、『安永風土記』によれば楯主は初め奥州藤原氏の家臣佐藤継信(源義経の家臣として有名)で、後に狩野式部少輔が楯主になったと伝えられている。また赤松楯東麓には吉祥寺があるが、その西側に数段の整地面があり、同じく風土記によれば佐藤継信在城の時に、吉祥寺・中世寺・光隆寺という3つの寺院が造営されていたと言う(赤松館関連寺院跡)。佐藤継信は伝説としても、3つの寺を造営するほどの勢力を有した土豪の拠った城であったのだろう。これらを記した城址標柱が吉祥寺門前に建っている。

 赤松楯は、一迫川北岸の標高125m、比高65mの丘陵上に築かれている。特に明確な道はないが南麓の熊野神社の裏から尾根沿いに登ることができる。この尾根沿いに腰曲輪状の平場が上まで伸びており、これが大手道らしい。この大手道の左側沿いに竪土塁が延々と築かれている。この竪土塁は大手道を登ってくる敵を迎撃する役目を持っており、所々に小郭があって物見台となっている。竪土塁は主郭前面の腰曲輪に繋がっている。城の主要部は3つの曲輪で構成されており、南から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭となっていたと考えられる。主郭は横長の方形に近い曲輪であるが、四隅が外側に張り出して横矢掛かりを意識した形状であり、防御も最も厳重で、前述の前面腰曲輪の他に南東側にも土塁を備えた腰曲輪を築いている。大手道はこの南東腰曲輪の下を通っている。主郭周囲はしっかりとした切岸で囲まれ、北東には大きな隅櫓台が築かれている。この隅櫓台近くに虎口が開かれている。主郭背後は箱堀状の幅広の堀切となっており、実質的に腰曲輪を兼ねていたらしい。この堀切の南東端は竪堀状の虎口となっていて、前述の大手道はここに繋がっている。堀切の北にニノ郭があり、横長の長方形の曲輪となっている。北東辺に土塁が築かれ、主郭同様にこの面に虎口が築かれている。ニノ郭背後も堀切が穿たれ、三ノ郭に至る。三ノ郭は不思議な構造で、山形の湯田川館群(藤沢楯石堂山楯)の様な櫛歯状空堀が平場の両側に穿たれている。しかしここの櫛歯状空堀はどうも材木伐採によるものらしく思われる。三ノ郭背後にも土塁と浅い堀切があって城域が終わっている。赤松楯は中々の規模を持った城で、土豪勢力の主城として機能したことが伺われる。
ニノ郭の堀切と虎口→IMG_3919.JPG
IMG_3924.JPG←三ノ郭内の謎の櫛歯状空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.767285,140.913262&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鹿鼻楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3802.JPG←曲輪間を分割する堀切
 鹿鼻楯は、長崎城とも言い、長崎四郎隆実の城と言われている。隆実の事績はよくわからないが、ネットで調べたところ奥州藤原氏4代泰衡の家臣であったらしい。尚、『日本城郭大系』宮城編の巻末「その他の城郭一覧」を見ると、この地方には長崎四郎隆実の伝承のある城館が多数あるので、長崎四郎隆実の城という伝承は俄には信じ難い。
 鹿鼻楯は、長崎川南岸にそびえる比高50m程の丘陵先端に築かれている。丘陵上に高圧鉄塔が建っているため、鉄塔保守道を辿って登ることができる。山麓標柱にある通り、大きな城ではあるが、技巧性はなく、ただやたらと広い曲輪で構成されている様である。歩いてみた限り、どうやら3つの広大な曲輪を浅い堀切で分割した縄張りだった様で、更にこれらの主要な曲輪の周りに一段低い腰曲輪を築いて外周を防御している。とにかくただだだっ広いだけの城で、どこまでが城域かも判然としない。面白みに欠け、藪の中を当てもなく彷徨うだけのような感じで、あまり満足感の得られる城ではなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.740427,140.925665&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

町田楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3742.JPG←主郭外周の横堀
 町田楯は、歴史不詳の城である。城の近くの道路に往古の「奥州上街道」であったことを示す表示があることから、街道を押さえる要害として機能したことが考えられる。
 町田楯は、芋埣川北側に横たわる比高40m程の丘陵の小ピークに築かれている。ほぼ単郭の小規模な城で、主郭の東側から北側にかけて横堀で防御し、西側の尾根筋には三重堀切を穿っている。主郭南東部に虎口があるが、虎口の隣に横堀に繋がる虎口が開かれており、囮虎口の様にも見受けられる。また、前述の三重堀切から落ちる竪堀の下端は腰曲輪に接続しており、この腰曲輪は延々と南斜面に伸びている。小規模ではあるが、細かい技巧性を持った城で、なかなか面白い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.77125,140.961499&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

真坂楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3651.JPG←主郭西側の堀切
 真坂楯は、大崎氏の家臣狩野氏(一迫氏)の居城と言われている。豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が没落し、1591年に伊達領となると、伊達氏譜代の重臣冨塚宗綱が真坂楯主となった。以後、1717年に冨塚重標が領地を没収されるまで、約130年に渡って冨塚氏歴代の居城となった。冨塚氏の後、1718年に仙台伊達家の重臣白河宗広が真坂楯主となった。宗広は、奥州の白河結城氏の後裔で、その母が伊達騒動の際に幼君亀千代(後の綱村)を守りぬいた功で、「御一門」格に列せられ数々の恩遇を受けた。以後白河氏が歴代の楯主となって幕末まで存続した。

 真坂楯は、一迫川北岸にそびえる龍雲寺背後の標高98mの山上に築かれている。真坂楯の東方900mの位置には、巨大山城 姫松楯が存在する。真坂楯は、簡素な構造の素朴な縄張りで、山頂に主郭を置き、その東斜面や北斜面に腰曲輪を数段配置している。東斜面の腰曲輪は墓地となっているので、後世の改変の可能性があるが、北斜面のものは主郭裏の二段の馬蹄段など、往時の遺構であることが明瞭である。その北西にも腰曲輪が広がり、虎口遺構も確認できる。龍雲寺からの登道が大手と思われるので、こちらは搦手であろう。この他、主郭から堀切を挟んで西側にも平場が広がっているが、一面の薮で確認は困難である。主郭に白河宗広の母(政岡)の墓があるので登るのは容易であるが、腰曲輪など周囲の遺構は藪に埋もれている。真坂楯は、その伝承からすれば戦国時代から存在した城であるが、隣に巨大城郭の姫松楯があるのになぜ築かれたのか、謎が多い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.749699,140.951715&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

姫松楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3320.JPG←中館背後の二重横堀
 姫松楯は、奥州藤原氏の家臣井ノ山雅楽之丞の城とも、或いは大崎氏の家臣湯山雅楽允の城とも伝えられているが詳細は不明。井ノ山雅楽之丞は、近郷の藤原氏家臣統率しており、1190年に藤原氏残党の大河兼任の乱を援けてこの楯に拠り、鎌倉方の千葉新介・足利上総前司・小山五郎などの東国御家人達を迎え撃って敗れたと言われている。しかし現在残る遺構からすれば、戦国期に改修を受けたことは疑いない。

 姫松楯は、一迫川北岸にそびえる標高90mの断崖上に築かれた城である。現在は姫松館森林公園として整備されており、非常に良質な遺構がよく確認できる。東西550m程にも及ぶ巨大な山城で、大きく3つの城域に分かれるとされる。即ち、西館・中館・東館で、それぞれ多重堀切で分断されている。西麓から伸びる山道を登って行くと最初に現れるのが西館で、頂部の曲輪に祠の祀られた櫓台が備わり、南に向かって数段の段曲輪群が連なり、背後は横堀・土塁で防御されてた、簡素な構造の曲輪群である。ここから東に行くと、三重堀切を越えて中館に至る。中館は東西二郭と間を繋ぐ馬出しで構成されている。中館は東西二郭共に、北面に二重横堀を穿って防御しているが、主郭に当たる西郭のものは特に規模が大きく、しっかり普請されたもので、主郭東西の堀切に接続している。堀切にはいずれも土橋が掛かり、虎口はいずれも土塁で防御されているが、形式は平易な坂虎口である。中館東郭には大きな櫓台が備わり、南斜面に腰曲輪群を築いている。中館から更に二重堀切を越えると東館に至る。東館は最も広い面積を持ち、内部は更に数個の曲輪に分かれている。便宜上これらを、西郭・中郭・中二郭・東郭と呼ぶことにする。西郭~中二郭は、北面に横堀を穿ち、南斜面に多数の腰曲輪群を備えている。ここの腰曲輪群は、明確な切岸で区画され、城内では最も普請がしっかりした腰曲輪群である。中郭~中二郭間は二重堀切で分断され、この二重堀切は南側で二重竪堀となって落ち、更に西側の竪堀はクランクしながら腰曲輪群外周の横堀に変化している。中二郭~東郭間は仕切り土塁で区画されている。東館では東郭だけが二重横堀で外周を囲んでおり、中二郭との間で大きな竪堀・竪土塁を南斜面に築いて分断している。これらの他、東館の腰曲輪最下段からは竪堀が何本も落ちている。

 以上が姫松楯の概要で、かなり広範囲に普請が行われ、しかも二重堀切・横堀等を多用した縄張りとなっている。中でも曲輪外周を巡る二重横堀は伊達氏系山城に見られる特徴であるが、一方で伊達氏系山城のもう一つの特徴である端正な枡形虎口はここでは見られない。全て平易な坂虎口で構成されている。城の規模から推測して地方の土豪クラスの城とは考えにくいが、どの勢力による構築であるかは不明である。姫松楯は、公園化の整備が良好で、遺構の破壊は僅かに抑えられているのが好印象である。しかし標柱や縄張りの詳細解説は無いので、キャッスラーでなければ、何がなんだかさっぱりわからないだろう。しかし宮城北部では屈指の遺構で、必見である。
中館の二重堀切→IMG_3397.JPG
IMG_3489.JPG←東館・中二郭の腰曲輪群
東館・東郭の二重横堀→IMG_3539.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.748544,140.962164&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宮野城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3257.JPG←ニノ郭の堀切と腰曲輪櫓台
 宮野城は、現地の墓碑によれば、葛西清重の4男重信が1189年に父清重に従って奥州に下向し、1249年に栗原郡宮野郷に宮野城を築いて居城とし、宮野氏を称したと言う。しかし『米良文書』では清重4男は重村とされ、しかも重村の子友村の代でも宮野氏を称したことは記されていない。これは宮野氏が系図を作ったか、系図に混乱があるかどちらかであろう。

 宮野城は、標高65mの丘陵上に築かれた城である。現在主郭は公園化されており、山麓からの山道が整備されていて、車でも途中まで登ることができる。主郭を中心に、派生する尾根に曲輪群を配した縄張りで、主郭背後には堀切を介してニノ郭が広がっている。ニノ郭への登道は往時の虎口と思われる。ニノ郭の北東にも小堀切を介して櫓台を備えた腰曲輪が伸び、それぞれ外周には帯曲輪も伴っている。ニノ郭にはこの小堀切の上方に小さな隅櫓台も築かれている。この他の尾根上の曲輪群は未整備で藪に埋もれている。宮野城は見たところ、古い形態の城であるが、普請は明瞭であり、中世初期の城の雰囲気をよく残していると思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.753866,141.016517&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

柴田城(宮城県柴田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3201.JPG←本丸北の段曲輪
 柴田城は、藩政時代には船岡要害と呼ばれ、後に「伊達騒動」で知られる原田甲斐守宗輔の居城であったことで有名である。現在船岡城址公園となっていることから、一般には船岡城と呼ばれている。しかし私がざっと調べた限り、どうも往時にこの城が船岡城と呼ばれたことはなく、『仙台領古城書立之覚』にも柴田城とあり、藩政時代には「城」ではなく「要害」とされたことから、柴田城或いは船岡要害と呼ぶのが正しいと考えられ、ここでは『日本城郭大系』に従い、柴田城と呼称する。

 柴田城の創築は不明であるが、一説には鎌倉初期の1200年に2代将軍源頼家の命を受けた宮城四郎家業に誅滅された芝田次郎の居城であったとも言われるが明証はない。その歴史がはっきりするのは、伊達氏の所領となった天文年間(1532~55年)以降である。伊達稙宗の時に柴田氏の初代四保但馬定朝が居城四保館(後の柴田城)となった。定朝の子宗義に四保氏を柴田氏に改め、1593年に志田郡桑折に移封されてこの地を離れた。その後、慶長年間(1596~1615年)には屋代景頼が城主となった。1617年、原田宗資がこの地に移封となり、その子宗輔までこの地の領主であったが、1671年に「伊達騒動」で断絶した。この原田時代には、家中屋敷に居住していて、居館をことさら普請することはなかったとされる。1681年、柴田宗意が登米郡米谷から移封されて柴田城に戻り、1694年に船岡要害の建築許可が降り、三ノ丸に居館を造営して歴代の居城とし、幕末まで存続した。

 柴田城は、前述の通り船岡城址公園となっており、公園化でかなり改変が進んでおり、あまり城址らしい遺構を留めていない。山頂部の本丸・二ノ丸には平場が広がり、一部に土塁らしき跡も見られるがはっきりしない。周囲には腰曲輪らしい段々の平場もあるが、これも明瞭ではない。本丸の北に見られる段曲輪が、はっきりと往時の姿を留めている程度である。中腹の三ノ丸も公園化されているが、先端に腰曲輪の原形を留めるなど、こちらの方が遺構は明瞭なようだ。この他、二ノ丸下の中腹に横堀もあったようだが、日没タイムアウトで未見である。山上という地勢以外は城址の名残を感じさせるものが少なく、残念である。
本丸の土塁跡→IMG_3191.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.053464,140.755162&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中島楯(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3123.JPG←主郭周囲の空堀状腰曲輪
 中島楯は、その歴史は明確ではないが、伝承では亘理権太夫藤原経清の居館であったと言われている。藤原経清は、後の奥州藤原氏の初代となった藤原清衡の実父で、前九年の役の際に当初は陸奥守源頼義に従って俘囚長安倍氏討伐に従軍したが、後に袂を分かって安倍氏と共に敗れ、囚われて処刑された。経清居館の伝承が事実であるならば、奥州藤原氏所縁の城館ということになる。

 中島楯は、国道6号線脇にそびえる比高25m程の丘陵上に築かれている。ほぼ方形に近い円形の主郭の外周に、土塁を伴った空堀状の腰曲輪を廻らし、更に北尾根に堀切を穿っただけの簡素な構造の城館である。主郭にも僅かに土塁が残存しているが、大した防御性も感じられず、伝承通りの古い城館と言うのも頷ける。
北尾根の堀切→IMG_3135.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.948005,140.891461&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:古代山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

坂元城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3023.JPG←主郭西側の大堀切
 坂元城は、蓑首城とも呼ばれ、亘理城主亘理美濃守重宗の家臣坂元三河守によって築かれた城である。坂元氏は愛宕山城を居城としていたが、相馬氏の攻撃で落城し、父の大膳が討死した不吉な城であったことから、1572年に新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。1589年、伊達政宗が相馬氏の駒ヶ嶺城を攻略した際、坂元三河守も亘理元宗にしたがって出陣し、討死した。1591年に亘理氏が遠田郡涌谷に移封となると、三河守の子もこれに従ってこの地を離れた。その後の坂元城主ははっきりしない部分もあるが、後藤信康・黒木守元・津田景康と変わったと考えられている。明確になるのは1616年以降で、伊達氏の一族大條長三郎宗綱が坂元城2千石を拝領してからである。坂元城は、元和の一国一城令で坂本要害と名を変え、以後、大條氏が城主を歴任し幕末まで存続した。

 坂元城は、坂本神社の建つ小丘陵に築かれている。丘陵上に本丸があり、北麓の平野部に二ノ丸、更に出曲輪状の三ノ丸があり、二ノ丸外周は堀で囲まれていた。しかし現在は宅地化でかなりの遺構が失われている。主郭内は堀切で分割されており、東側の長方形の平場と西側の細い曲輪に分かれている。西側の細い曲輪の西辺には土塁が築かれ、その裏には大堀切が穿たれている。一方、二ノ丸は坂元小学校などに変貌している。一部に僅かに土塁が残る他は改変が進み、堀は畑や宅地となっていて、往時の姿を想像するのも難しい程である。三ノ丸に至っては完全に湮滅している。結局、主郭西側の土塁と大堀切が唯一の見所で、主郭内の堀切もどのような意図で穿たれたのか意味不明である。尚、城址南の丘陵上に大條氏の墓所があることを、神社のおばさんが教えてくれたので訪問したが、この墓所も出城っぽい雰囲気であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.917744,140.89335&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小斎城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2857.JPG←ニノ郭堀切と馬出郭
 小斎城は、金山城丸森城と並ぶ伊具三城の一つで、伊達・相馬両氏の争奪の場となった城である。『日本城郭大系』では柴小屋館、現地表記では柴小屋城と呼ばれるが、現地解説板によれば、本城である柴小屋城と、出城である西舘城の2つを合わせて、小斎城と呼んでいた様である。伊具郡が伊達・相馬両氏の係争地帯となったのは、伊達氏家中の内乱「天文の乱」に端を発する。その経緯は丸森城の項に記載する。1565年に稙宗が丸森城で没すると、稙宗が隠居料としてもらっていた伊具郡は、稙宗の世話をしていた相馬氏が占領し、これが伊達氏と相馬氏の争いの原因となった。もともとこの地には、1515年頃より小斎邑の領主小斎山城助・長門守・平太兵衛の歴代の居城として西舘城があったらしいが、この相馬氏による伊具郡占領の際、1566年に小斎平太兵衛は相馬氏の家臣藤橋紀伊胤泰に滅ぼされ、以後相馬氏の持ち城となった。1576年になると、伊達晴宗・輝宗父子は伊具郡奪還に乗り出し、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かった。一方、相馬盛胤は伊達勢を防ぐため、佐藤宮内為信・泉大膳に命じて小斎城を改修して防衛力を強化した。この頃は、小斎城下は深田が広がっており、矢ノ目合戦は伊達方が多くの犠牲者を出して撤退したと言われている。しかし1581年に転機が訪れる。即ち、相馬氏は小斎城の城番の交代として金澤美濃を派遣したが、小斎城主佐藤為信は、父好信が相馬家中の権力争いで憤死していた為、伊達氏の誘いに乗り金澤美濃を斬って伊達氏に寝返った。これを機に伊達輝宗・政宗父子は矢ノ目に出陣して伊具郡を攻撃した。角田城から阿武隈川を渡る橋頭堡を得た伊達氏は、以後戦況を有利に展開し、1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城を相馬氏から奪還することに成功した。小斎城は、戦功のあった佐藤氏がそのまま城主として置かれ、1615年、元和の一国一城令で廃城となった。その後も佐藤氏は、旧城下に屋敷を構えてこの地の領主として幕末まで存続した。

 小斎城は、阿武隈川東岸の平野の東にそびえる、比高50m程の丘陵上に築かれた城である。登道が数ヶ所整備されている。東西に伸びる尾根上に一直線状に曲輪を配し、各曲輪を堀切で分断した連郭式の大城塞となっている。各曲輪を分断する堀切は深く鋭く、非常に独立性が高い。殊にニノ郭前面にある馬出郭は、鋭くそびえた独立堡塁の形状となっており、駿河丸子城の独立堡塁によく似た印象を受ける。馬出郭の前面にも構築はやや浅いが虎口郭を備え、馬出郭と合わせて多重枡形を形成している。城の主要部である主郭・ニノ郭には広い腰曲輪群が取り巻き、物見台や土塁も築かれて防御を固めている。一方、虎口郭から西側が「西舘城」とされ、東斜面に横堀や腰曲輪を備えている。ここから南西に派生する尾根にも曲輪群や堀切が確認でき、城域であったことがわかる。主郭の東側には馬屋跡とされる曲輪があり、先端の堀切の先が三ノ郭とされている。三ノ郭の先にも物見の曲輪群があり、もう1本堀切も穿たれている。小斎城は、主要な曲輪はよく整備されているが、腰曲輪は全く未整備で、藪で覆われている。しかし伊達・相馬両軍によって攻防の的となった大城郭の名残りははっきりと見て取れる。
主郭~ニノ郭間の堀切→IMG_2895.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.920656,140.82829&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

黒森山砦(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2618.JPG←ニノ郭頂部の櫓台状の高まり
 黒森山砦は、金山城の尾根続きに築かれた城砦である。金山城の歴史を記載した現地解説板の中に、1588年に伊達氏が「相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に、新たな石塁・土塁・堀切などの防護施設を造り、一段と強固な構えに改築を行った」とあることから、この戦国末期に金山城の防衛力強化のために築かれたと推測される。

 黒森山砦は、前述の通り金山城背後に繋がる尾根上の、2つのピークにまたがって築かれている。『日本城郭大系』にも記載のない城砦だが、金山城二ノ丸には「黒森山砦」と記載された誘導標識が出ている。城域は、主城である金山城の倍近くもあり、金山城背後に控える大城塞である。基本的には、2つの尾根の曲輪群で構成された一城別郭の構成となっている。それぞれ山頂の曲輪を中心に、その外周に腰曲輪を数段連ねただけの構造で、明確な堀切はなく曲輪群のみで構成されている。特にどちらのピークが主とも言い難いが、南のピークの方が頂部の平場が広く、こちらが主郭群とも考えられる。全体に曲輪の削平は明確で、はっきりと城郭遺構と認識されるレベルの構築である。金山城解説板にある「石塁」はどこのことかはっきりしないが、北のニノ郭群の頂部の曲輪に櫓台状の高まりがあり、その周辺に石が散乱しているので、そのことを指しているのかもしれない。またニノ郭群の西の腰曲輪には物見台も築かれている。曲輪群だけで特色の少ない城砦だが、金山城の防衛のために全山城塞化していたことは見て取れる。
主郭の腰曲輪→IMG_2648.JPG
IMG_2699.JPG←ニノ郭腰曲輪の物見台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.893466,140.806253&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

金山城(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2566.JPG←二ノ丸にそびえる高石垣
 金山城は、藩政時代には金山要害と呼ばれ、伊達氏の支城である。元々は、永禄年間(1558~69年)にこの地を押さえた相馬氏の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したと言われている。その後、1576年以降に伊達輝宗が伊具郡奪還に乗り出し、伊達・相馬両家の間で激しい攻防が繰り返された。1581年には伊達政宗がこの地を巡る戦いの中で初陣を飾った。1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達・相馬両家の和睦が成立し、和睦の条件として、輝宗は伊具三城(小斎城・金山城・丸森城)を相馬氏から奪還することに成功した。輝宗は、おそらくこの和睦成立を見届けて、若い政宗に家督を譲った。政宗は、この戦いに最も手柄のあった家臣の中島宗求を金山城主とした。1588年には、相馬氏に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に新たな石塁・土塁・堀切などの防御施設を設けて、一段と強固な構えに改修した。奥州仕置や江戸時代以降も中島氏が歴代の城主を務めた。藩政時代には一国一城令により城の名を去り、江戸幕府に備えて伊達領内に取り立てた二十一要害の一、金山要害と呼ばれたが、そのまま存続して幕末まで至った。

 金山城は、標高117m、飛行96mの独立丘陵の北峰に築かれている。城は公園化されて整備されているため、遺構がよく確認できる。山頂に本丸を置き、その外周に腰曲輪状のニノ丸を配し、周囲の支尾根に馬蹄状曲輪を築いた縄張りとなっている。馬蹄状曲輪は、いずれもニノ丸との間に堀切が穿たれているが、城内通路も兼用した堀切は比較的浅く、それほどの防御性を持っていない様に思われる。ニノ丸には、高石垣がそびえていて異彩を放っており、この城のシンボルともなっている。この石垣は、長方形の比較的小さな石を一直線の勾配で積み上げたもので、独特な石垣となっている。この他にも、三ノ丸の大手埋門跡や北出丸の埋門跡などに石垣の残欠が散在しており、近世の改修の跡を窺わせている。また、「家中」という南の出丸との間には、枡形虎口らしい跡が見られるが、それ以外の虎口は平易な造りである。あまり技巧性は感じない城であるが、中世山城の雰囲気を色濃く残した近世城郭で、高石垣など見所が多い。尚、背後に続く丘陵には黒森山砦が築かれている。
二ノ丸と堀切先の兵具蔵曲輪→IMG_2540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.897157,140.802691&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鳥屋館(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2390.JPG←本丸の堀切
 鳥屋館は、伊達氏家臣大條薩摩守実頼が築いた近世城郭である。実頼は、1601年に丸森城主となったが、その年の内に鳥屋館を築いて居城を移した。1644年に大條氏が尾山に移封となると、山口内記・遠山勘解由を経て、佐々氏が鳥屋館に入部し、7代続いて明治維新に至った。

 鳥屋館は、阿武隈川南岸の丘陵上に築かれている。鳥屋嶺神社の東側に堀切が2本あって、台地を分断している。本丸はその東側にあり、広い平場で、南側に一段低い平場が付随している。一面の芝生となっているが、公園にでもするのであろうか?本丸の東側は急斜面となっている。前述の2本の堀切の間はおそらく二ノ丸であるが、縦長の方形の曲輪となっている。その西側が鳥屋嶺神社になるが、神社がある場所も曲輪であったと思われる。その西側も急斜面となっている。鳥屋館は、明確な遺構は2本の堀切ぐらいしか無いが、遺構があるだけマシであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.916187,140.769067&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小堤城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2322.JPG←東側の土塁
 小堤城は、この地の豪族亘理氏の歴代の居城である。亘理氏は、下総の名族千葉氏の庶流武石氏の後裔で、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の戦功により、千葉常胤に陸奥国諸郡の地頭職が与えられ、常胤は6人の息子達にこれらを分与した。常胤の3男三郎胤盛が武石氏の始祖で、その後1302年に武石宗胤が亘理の地に下向して亘理氏の祖となった。南北朝時代には、亘理氏は陸奥国司・鎮守府大将軍として国府多賀城に下向した北畠顕家に従って南朝方として活動したが、南朝方が逼塞すると北朝方に転じた。この南北朝期の広胤の代に、亘理氏を称したとされる。小堤城がいつ築かれたかは定かではないが、この頃には亘理氏の居城となったものだろう。その後亘理氏は、周辺諸豪と抗争して勢力を競ったが、伊達氏の勢力が伸長すると、伊達氏に従属した。亘理宗隆の時、嗣子がなかった為、伊達稙宗の子綱宗を養子とし、綱宗が天文の乱で討死すると、その弟元宗を改めて養嗣子とした。こうして伊達氏の親族となって、伊達宗家を支えて度々戦功を挙げた。天正年間(1573~92年)には、元宗・重宗父子が伊達氏の命で相馬氏と度々戦ったが、この頃には居城をより要害性の高い亘理城(後の亘理要害)に移したと考えられている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は遠田郡の百々城に移り、間もなく涌谷城に移った。以後、伊達氏一門として涌谷伊達氏となって幕末まで存続した。

 小堤城は、亘理要害の南西のなだらかな丘陵地に築かれた平城である。現在は大雄寺となっており、城跡というより境内にある伊達成実を祖とする亘理伊達氏の歴代の廟所の方が有名である。寺域となって改変を受けているが南半の土塁は残っており、最大で高さ3m程ある。亘理伊達氏の廟所は、南面の土塁上に建てられている。外周には堀もあったと思われるが、現在では耕地化で湮滅している。現在の遺構から見る限り、小堤城はおそらく方形居館であったのだろう。土塁以外に城跡らしさは残っていないが、亘理伊達氏の廟所をお参りに行くだけでも十分価値がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.027997,140.845606&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

亘理城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2259.JPG←本丸切岸と内堀
 亘理城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、亘理要害と呼ばれた城である。元々はこの地の豪族亘理氏の居城で、天正年間(1573~92年)に亘理元宗・重宗が伊達氏の命で相馬氏と度々戦った頃には、小堤城から亘理城に居城を移していたと推測されている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は百々城・涌谷城へと移り、代わって亘理城には、政宗股肱の臣片倉小十郎景綱が入った。1600年の関ヶ原合戦の後、刈田郡が伊達領となると景綱は白石城に移封となり、亘理城には伊達一門の重臣伊達成実が入城した。成実は、大森城主伊達実元(稙宗の5男)の嫡子で、人取橋の合戦では寡勢の伊達勢にあって奮戦し、摺上原の戦いでも敵の側面を強襲して敵勢を突き崩す等、勇名を轟かせた。後へ退かないと言う意味の「ムカデ(或いは毛虫とも)の前立て」でも有名で、1歳違いの政宗を補佐して大功があったが、政宗の元から謎の出奔をし、関ヶ原の前哨戦である白石の役で伊達家に帰参して戦功を挙げた。亘理城に入ってからは、亘理伊達氏の祖となり、以後伊達一門でも最高の知行を有する亘理伊達氏の歴代の居城となった。元和の一国一城令で城の名は廃され、亘理要害と称されて幕末まで存続した。戊辰戦争では仙台伊達藩は奥羽列藩同盟の盟主として政府軍と戦ったが、各所の戦いで敗れ、亘理要害の御館(本丸)で伊達藩は降伏した。

 亘理要害は、比高10m程の東西に長い丘陵上に本丸(御館)を置き、その西続きに馬場、東の平地部に外堀で囲んだ二ノ丸を置いていた。現在はかなり改変が進んでしまっており、本丸は往時の雰囲気を残すが、南北にあった城門跡を車道が貫通して破壊を受けている。本丸には土塁が廻らされていたらしく、亘理神社の背後や車道の東側の段丘上(本丸の一部)に土塁が残っている。また本丸南には内堀が残り、それに沿って往時の雰囲気をよく残す切岸が見られる。その他は改変されており、二ノ丸はスーパーになり、馬場は亘理高校となっている。もっと破壊されているかと思ったが、内堀が残るなど想像していたより遺構が残っており、城の雰囲気はよく残っていると感じられた。
往時の雰囲気を残す本丸切岸→IMG_2258.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.033743,140.850713&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

若林城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2239.JPG←北西角の横矢張出しの土塁
 若林城は、貞山公伊達政宗の隠居城である。この地には元々、この地を領した国分氏の城があったと言われ、城の北側では戦国時代の屋敷跡などが発掘されていることから、戦国時代の頃から政治的・経済的拠点の一つであったと推測されている。政宗は、1627年2月に幕府の許可を受けて築城を開始し、翌年11月に普請が成ったばかりの若林城に移った。若林城の周囲には一門以下の家中が屋敷を連ね、町屋敷も置かれて仙台城とは別個の城下町を形成した。晩年の政宗は1年の大半を若林城で過ごし、1636年に政宗が江戸藩邸で病没すると、若林城は政宗の遺命の通りに掘一重を残して廃され、1639年には忠宗の命で若林城内の屋形が仙台城二ノ丸に移された。明治12年に宮城集治監が建設され、現在の宮城刑務所に至っている。

 若林城は、奥州随一の大大名が築いた近世の平城らしく、大きな堀と土塁で外周を囲まれ、南東を除く3つの角部と南面中央には横矢の張出しが構えられ、隠居城とは言うものの有事の際の陣所となるべく臨戦的な構えとなっている。前述の通り現在は刑務所となっており、周囲にも刑務所関連施設が建てられている為、あまり遺構に近づくことができない。(上の写真の駐車場も刑務官の駐車場で、立入禁止!)僅かに外周の一部で堀脇に近づける箇所があり、そこから大きな堀と土塁を遠目に眺めることができるだけである。当然堀底には入れず、土塁になど登ろうものなら逮捕されることは間違いない。NHKのブラタモリで紹介された時には、枡型の大土塁と、政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰った「臥龍梅」が映されていたが、これも一般人は目にすることはできない。刑務所となったおかげで遺構は守られたが、一方でキャッスラーにとっては城内への入場はおろか、遺構を間近で見ることもできず消化不良になる城で、胸中は複雑である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.236798,140.902233&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の30件 | 次の30件 古城めぐり(宮城) ブログトップ
メッセージを送る