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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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彫堂七楯(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3168.JPG←長館の横堀
 彫堂七楯(彫堂七館)は、歴史不詳の城である。古くは「七館八沢」と呼ばれていた。『余目記録』によれば、南北朝期の観応の擾乱の際、奥州管領として派遣されていた吉良貞家(足利直義方)・畠山国氏(足利尊氏方)の両者が中央の情勢に連動して争った時、長世保に拠った畠山氏に対して、吉良方に付いた大崎氏が色麻川(現・鳴瀬川)を隔てた鉢森に陣取り遠矢の合戦をしたと言う。この鉢森が現在の鉢谷森と考えられている。(但しこの伝承には少々疑問がある。大崎氏の初代斯波家兼は、直義方であった兄高経と袂を分かち、終始尊氏方として活躍した武将なので、直義方の吉良氏に付いたとは考えにくい。)いずれにしてもこの地は大崎領の東端に当たり、鳴瀬川対岸に進出した葛西・伊達氏に対する最前線であった。ちなみに葛西・伊達両氏は、北畠顕家の奥州府を支えた東北南朝方の主柱とも言うべき武将であったので、その観点からすれば北朝対南朝の図式でも捉えられる城である。一方、江戸時代にまとめられた『仙台領内古城書上』には彫堂城の記載が見え、伝承では蜂谷筑前守という武士が居城したとされている。現地解説板では、彫堂城は彫堂七館の一郭蜂谷森の別名であろうとし、蜂谷筑前守は大崎氏に関連した武将かもしれないと推測している。彫堂七楯は、歴史不詳ながら、大崎氏によって築城された可能性が高いと推測されている。

 彫堂七楯は、出来川北岸の東西に連なる比高15~30m程の丘陵上に築かれている。西から順に、山前楯・長楯・大楯・小楯・陣楯・狼之介楯・彫堂楯(蜂谷森)・笹楯の八楯から成るとされる。八楯なのに何故七楯と呼ぶようになったのかは不明。全長で東西800m程にも及ぶ広い城域から成るが、基本的には単純な縄張りで技巧性には乏しい。小楯・陣楯・狼之介楯・彫堂楯の4つは公園化されており、このうち小楯・彫堂楯には北側半周を取り囲むように空堀が穿たれている。それ以外は単に頂部の平場の周囲に腰曲輪などが築かれているに過ぎない。また陣楯・狼之介楯の間には堀切があったとされるが、公園化による改変のためか、わからなくなってしまっている。大楯は民家と畑になっており、外から見るしかできない。長楯は、最も広い楯で、主郭の全周を横堀で囲んでおり、更に周りに腰曲輪を築いているようだが、未整備の山林となっている。残りの山前楯・笹楯はいずれも民家裏の山林で、進入は憚られ、未踏査である。遺構を確認した限りでは、腰曲輪と空堀だけで横矢もなく非常に単純な縄張りで、まるでチャシの様である。南北朝期の城として見ても、少々見劣りする城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.539531/141.053274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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西館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2957.JPG←本丸切岸と水堀
 西館は、鶴頭城とも言い、また江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、不動堂要害と呼ばれた城である。元々は葛西氏の家臣有壁摂津守の城であったと言われ、葛西氏と大崎氏の抗争の場となった。また天文年間(1532~55年)には伊達天文の乱の余波で大崎小僧丸(義宣)が西館に立て籠もって養父大崎義直と争うなど、大崎氏の内訌の舞台ともなったと伝えられ、この時期には大崎氏の支城であったと言う。有壁氏は、金成町の有壁館を本拠とする豪族で、おそらくは大崎氏に備えるために葛西氏が有壁氏をこの地に置いて守らせたものが、その後の変遷で大崎氏の支配下に入ったと思われる。いずれにしても、葛西領・大崎領との接壌地帯にあった城館であった。1588年には、伊達氏の家臣で千石城主遠藤高康の攻撃を受けた。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易されると、その後の葛西大崎一揆を経て伊達氏領となり、1611年に後藤信康がこの地を拝領し、1620年に信康の子近元が西館に居城を移し、以後幕末まで後藤氏の居館として存続した。

 西館は、鳴瀬川北岸の小丘陵に築かれている。台形状の小丘陵に本丸を置き、その外周に水堀を廻らし、更に外側の低台地に二ノ丸を廻らした梯郭式の縄張りとなっている。本丸は現在、鶴頭公園となっており、かなり改変を受けているもののわずかに土塁や腰曲輪などが残っている。北側には堀底道のような歩道があるが、これも遺構であろうか?一方、水堀は南東部分のみが護岸工事をされた形で残っている。二ノ丸は、市街化で大きく改変されているが、辛うじて周囲よりわずかな高台になっていて、地勢を残している。感じとしては、佐沼城のミニチュア版と言った雰囲気である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528268/141.078465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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涌谷城(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2919.JPG←北尾根の堀切
 涌谷城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、涌谷要害と呼ばれ、涌谷伊達氏(亘理氏)の居城である。元々は、奥州探題として勢威を誇った足利一門の大崎氏の庶流涌谷氏の居城であった。涌谷氏は、大崎氏初代家兼の3男彦五郎が百々城を居城として百々美濃守を名乗り、その2男が涌谷美濃守と称して涌谷氏の祖となったとも、或いは大崎氏5代満持の弟高詮が百々氏の祖となり、その2男直信が涌谷氏の祖となったとも言われる。いずれにしても大崎氏の一門として続いたが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、宗家大崎氏と共に滅亡した。その後、葛西大崎一揆を経て、伊達氏領となり、1591年に伊達氏重臣の亘理重宗に涌谷城が与えられた。重宗は最初、百々城に入り、翌年涌谷城に入城した。以後、涌谷城は近世城郭へと改修された。1604年に重宗は、隠居領として高清水城を与えられて移り、その子定宗が涌谷城主となり、1606年に伊達姓を与えられて、伊達一門・涌谷伊達氏となった。涌谷伊達氏は新田開発に努め、4代安芸宗重の時には石高2万2千石余に達したが、隣接する登米伊達氏との間で境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 涌谷城は、江合川西岸の南北に細長い丘陵上に築かれている。丘陵上は、2段の平場に分かれ、上段曲輪に涌谷神社が建ち、下段曲輪は公園化されているので、かなり改変を受けている。上段曲輪は近世には使用されていなかったようであるが、中世の主郭である。下段曲輪が近世の本丸で、南北に長い平場で伊達氏の居館が建っていた。中世ではニノ郭であった。その南端に、資料館となっている模擬天守と、現存遺構である太鼓堂という隅櫓が建っている。太鼓堂の周りの石垣も遺構であるそうだ。丘陵西側斜面に段が見られるが、これも往時の腰曲輪・犬走りの遺構であるらしい。この他、涌谷神社の北側に台地基部を分断する堀切が一部残存している。近世には、城下南側の平地に一之曲輪、東側に二之曲輪があり、水堀で囲まれていたが、現在は市街化で湮滅している。亘理要害同様、城の雰囲気は残しつつもかなり改変されてしまっているのは惜しいところである。
石垣と太鼓堂→IMG_2893.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.546496/141.130350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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日向楯(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2874.JPG←周囲の帯曲輪
 日向楯(日向館)は、歴史不詳の城である。現地標柱などによれば、古く天平勝宝年間(749~757年)に黄金奉行として入来した第獄日向守の居館であったと伝えられている。事実かどうかは確証がないが、日向楯やその近辺の「城山裏土塁」など古代(8世紀~12世紀末)の役所や公的施設があった可能性が高い遺構が確認されており、律令国家の北辺に位置する小田郡の重要地点として、天平産金に大きな役割を果たしていた可能性が推測されている。そうなると、東大寺の大仏造営と密接に関係していた遺跡ということになろう。

 日向楯は、比高40m程の山稜南端のピーク上に築かれており、現在は妙見社が建っている。山頂はほぼ平らに削平されており、周囲に帯曲輪が確認できる。標柱には西側に空堀跡があると書かれているが、確認できたのは帯曲輪だけで空堀は確認できなかった。いずれにしても、古代の古い施設であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.545791/141.137795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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樫崎城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2798.JPG←主郭北側の空堀と櫓台
 樫崎城は、内館城とも呼ばれ、山内首藤氏の家臣男沢内膳の居城と伝えられている。永正年間(1510年頃)に七尾城主首藤貞通・知貞父子が、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の大軍の攻撃を受けた際、樫崎城も葛西勢の猛攻により落城したと言われている。

 樫崎城は、北上川西岸の標高34.5mの丘陵上に築かれている。南西の民家敷地に登り道が確認できるが、進入できないので、北西麓の鹿嶋神社裏手から登城した。最高所の主郭を中心にY字型に曲輪を配した縄張りとなっている。西郭は畑となっているが、主郭も含めたその他の曲輪は山林や耕作放棄地となっている。西郭から山林に入っていくと、すぐに西側の堀切に行き当たる。西側に土塁を築いた一直線状の堀切である。そこから更に東に進むと主郭周囲の広い腰曲輪に至る。ここは耕作放棄地であるが、藪が少なく開けている。ここからは南東郭群が段々になっているのがよく分かる。また東郭群は山林の中に段になった曲輪群が確認できる。主郭は、切岸で囲まれた方形に近い曲輪で、北側には横堀が穿たれ、中央付近にやや張り出した櫓台が築かれ、空堀がその周りで屈曲して横矢が掛かっている。この他、前述の西堀切よりも南東側斜面に竪堀が1本落ちている。なだらかな丘陵上の城で、比較的旧態依然とした縄張りなので、大軍に攻められたらひとたまりもなかったろうと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.564853/141.290982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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沢山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2760.JPG←主郭と思われる寺崎八幡神社
 沢山城は、寺崎城とも呼ばれ、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。伝承では、元は奥州藤原氏の部将西條氏の居城であったとされる。寺崎氏は、奥州千葉氏の一族とも、或いは葛西氏の一族とも言われ、下総国葛西庄が本貫地であったが、葛西氏に従って奥州に下向し、桃生郡に沢山城を築き、代々葛西氏の重臣を務めた。戦国時代の1507年、金沢城主金沢冬胤が葛西氏に対して反乱を起こすと、寺崎下野守時胤は日形城主千葉秀胤らと共に金沢を攻めて討死した。五郎三郎重清(時継)が寺崎氏を継いだが、千葉秀胤も討死したことで峠城が空き城となり、寺崎氏は峠城を押さえて本拠を移した。一方、沢山城には一族の寺崎伊予守を残したらしい。その後の沢山城主寺崎氏の事績は不明である。

 沢山城は、標高20m程の八幡山と呼ばれる丘陵上にあり、現在は寺崎八幡神社の境内となっている。縄張図もないのでよく分からないが、神社が建っているのが主郭らしい。その南側に一段低い平場が広がっているが二ノ郭であろうか?特に堀切などの明確な城郭遺構は確認できず、どこまで城域が広がっていたかもわからないが、宮城県遺跡地図では八幡山全体が城跡であったとしている。しかし八幡神社の東側は、壊滅的な乱開発で地形が変形してしまっており、遺構は望むべくもない。以前は八幡神社の参道下に城址標柱があったようだが、それも今はなくなってしまっている。非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.569886/141.259353/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中津山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2740.JPG←宅地脇の土塁跡?
 中津山城は、江戸時代に仙台藩の内分支藩である中津山藩の陣屋が置かれた城である。正確には、元和の一国一城令で築城が制限されているので、「城」ではなく中津山「所」(「要害」より一段下のランク)である。江戸中期の1695年、仙台藩4代藩主伊達綱村は、水沢伊達家の当主であった同母弟・伊達村任を桃生郡中津山ほか3万石に分知して、新たに中津山藩の立藩を幕府に申請し、認められた。中津山藩主となった村任は、名を村和に改め、中津山城を藩庁としたが、4年後の1699年、不祥事があって改易となった。わずか1代4年の短命の藩であった。結局、村和は藩主在任中、一度も中津山城に入ること無くその座を追われたと言う。

 中津山城は、「城内」と言う地名の比高10m程のなだらかな丘陵西端に築かれている。城内は宅地化され、遺構はほとんど失われている。城域西端に白鳥神社が建っているが、往時の城鎮守の社であろうか。丘陵を東西に貫通する車道の南側の宅地に土塁らしい跡が見られ、丘陵最高所には方形に近い形の空き地があり、ここが往時の本丸であろうと思われる。この他に枡形が残っているらしいが、周りが宅地で囲まれており、よく確認することができなかった。城の期間が短かったせいか、非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.559786/141.251736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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神取山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2713.JPG←主郭跡に建つ神社
 神取山城は、豊臣秀吉の派遣した奥州仕置軍に抵抗した葛西勢の最後の抵抗拠点である。城主は、岡野伊勢長満、鈴木山城守ら葛西氏の家臣と言われている。葛西晴信は、1590年の小田原の役に不参したため、秀吉の奥州仕置によって改易された。しかし葛西氏とその家臣団は各地の城に立て籠もって抵抗し、秀吉の派遣した蒲生氏郷・木村吉清らの奥州仕置軍と戦った。しかし多勢に無勢で敗れ、葛西総大将大原飛騨守胤重と精強1700騎は神取山城に立て籠もり、最後の抵抗をしたと伝えられている。

 神取山城は、旧北上川と江合川の合流点東側の標高57mの独立丘陵に築かれている。現地解説板によれば、山頂に主郭、南西の尾根に二ノ郭があったとされる。しかし主郭は浄水場が造られて破壊を受け、残りの部分は本鹿島神社となっている。平場以外に明確な遺構は見られない。また二ノ郭とされる場所も自然地形で、やはり明確な遺構はない。解説板にも『日本城郭大系』にも空堀があると記載されているが、どれがそうなのかよくわからなかった。結局、明確な城址遺構は確認できず、葛西勢は最後に悪あがきで山に立て籠っただけだったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.530568/141.231265/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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釣ノ尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2593.JPG←主郭の天守台
 釣ノ尾城は、山内首藤氏の支城である。城主は、七尾城主首藤義通の弟山内左馬之介であったと伝えられる。山内首藤氏が葛西氏に滅ぼされると、山内氏は葛西氏に仕えたと言う。葛西大崎一揆の後、この地が仙台伊達藩領となり、更に天下の治世が徳川幕府のものになると、野望を捨てきれない伊達政宗は、幕府軍と戦って敗れた伊達藩の最後の決戦場として、この釣ノ尾城を想定していたとも伝わっている。

 釣ノ尾城は、北上川南岸の標高76mの八幡山に築かれている。北側斜面の中央に僅かな小道が付いており、そこを登っていくと前面の帯曲輪群に至る。この城は山頂の北側に広い二ノ郭を置き、背後に幅広の浅い堀切に幅広の土橋が架かって、南側に主郭が置かれている。二ノ郭の前面には前述の通り5~6段の帯曲輪群が築かれているが、斜面の形状が中央が内側に凹んだ形状になっているため、中央部は数段のみ、張り出した両翼は更に数段の帯曲輪が築かれた構造となっている。主郭は円形の平場で、中央には天守台が築かれ、部分的に石積みが見られる。主郭周囲と背後の尾根にも帯曲輪群が築かれ、その下方の南尾根には2条の小堀切が穿たれている。この城には、大きな大手道が作られており、二ノ郭背後の帯曲輪から北西の斜面に向かって降っている。大手道の下方には側方に竪堀を穿った防御構造がある。その下は、麓の神社裏に当たるが。斜面が削れており、大手道は消滅している。
 釣ノ尾城は、比較的小規模で簡素な縄張りの城であるが、普請はしっかりしている。特に広い大手道や石積みの天守台など、この規模の城には不釣り合いな、戦国末期から近世頃の新しい構造が見られる。政宗が最後の決戦場と想定していたとの伝承は本当だったのかもしれない。
天守台の石積み→IMG_2604.JPG
IMG_2645.JPG←主郭背後の尾根の曲輪群と堀切
大手道→IMG_2682.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.534680/141.388915/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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吉岡城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2517.JPG←南東の隅櫓台
 吉岡城は、伊達政宗の3男河内守宗清が築いた近世城郭である。宗清は1613年に下草古城に入部して二重の堀を持った平城として整備したが、下草古城は川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、1616年に新たに吉岡城を築いて居城を移した。一般的に「吉岡城」と呼称されるが、実際には元和の一国一城令により、「城」ではなく「所」(「要害」より一段下のランク)であった。宗清が1634年に35歳の若さで病没すると、吉岡伊達氏は無嗣断絶となり、1662年には奥山氏が入り、1757年には仙台藩の要職の地位にあった但木土佐顕行が東磐井郡からこの地に転封された。以後、但木氏の居城として幕末まで存続した。

 吉岡城は、善川と吉田川に挟まれた台地上に築かれた平城である。市街化で遺構の湮滅が進み、往時の縄張りを明確に把握するのは困難だが、南の隅櫓台が2ヶ所残存している。その内の西側の隅櫓台は城内大堤公園に隣接し、公園西側にはこの櫓台に繋がった土塁が残っている。公園に模擬櫓台があるので、ここが城跡だと勘違いしてしまうが、実際には公園の東側の畑・民家が城跡である。公園は、かつての庭園であったらしい。本丸は隅櫓台のある平場よりもう少し北にあったらしく、保健福祉総合センター敷地の南入口付近に城址標柱が建っている。大和町の中心に位置する街中の平城のため、壊滅的な状況だが、隅櫓台がしっかり残っているだけでも良しとすべきか。
 尚、伊達宗清とその養母であった飯坂の局の墓が天皇寺に残っている。縦長でスリムな、珍しい形の五輪塔である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.446338/140.879617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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蟻ヶ袋城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2483.JPG←民家脇に残る土塁
 蟻ヶ袋城は、大崎氏の家臣熊谷玄番の居城と伝えられている。歴史の詳細は不明であるが、1588年の大崎合戦の後始末でその名が現れる。即ち、折からの大雪で大敗した伊達勢の将、泉田重光・長江月鑑斎は、和睦の条件として大崎氏の人質となり、この城に幽閉された。その経緯と後日譚は、小野城の項に記載する。一方、蟻ヶ袋城主の熊谷氏は、葛西大崎一揆の際に討死したという。

 蟻ヶ袋城は、鳴瀬川南岸の平地に築かれている。現在は宅地となっているが、宅地の周囲に大土塁が残り、宅地の前は一段低く堀跡と考えられる。場所は間違いないのだが、土塁の隣家の住民に訊いてみたが城があったことをご存じなかった。周囲を歩いてみたが、土塁は残っているもののだいぶ改変を受けているようだった。以前は土塁上に標柱があったようだが、朽ち果てたのか見当たらなかった。戦国末期の歴史に現れる城なのに、少々残念な状態である。城址が民家だから仕方ないところだが。
堀跡らしい窪地→IMG_2485.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.522006/140.921137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御所楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2223.JPG←4郭外側の横堀
 御所楯(御所館)は、大崎氏の庶流黒川氏の初期の居城である。黒川氏の事績は、鶴巣楯の項に記載する。

 御所楯は、比高50m程の馬蹄型の山稜に築かれている。西側外郭部を東北自動車道が貫通しており、一部破壊を受けているが、幸い城の主要部は無傷である。鶴巣楯と同様、多数の曲輪群から成る城で、『図説 中世城郭事典』所収の縄張図によると、主要な曲輪だけで23郭まで記載されている(この内、17~23郭は高速道路で消滅している)。南に開いた馬蹄形山稜の北の頂点に主郭を置き、そこから東尾根と西尾根に曲輪を直線的に連ねているのが基本構造である。2郭には石神神社が鎮座している。主要な曲輪間は基本的に切岸や土塁で区切られ、堀切の数は多くない。堀切は尾根の末端付近の曲輪部分に穿たれている。また馬蹄形に連なった主郭~4郭の外側には、切岸の下に延々と横堀が穿たれ、更に外側に腰曲輪が廻らされている。ここには上方の5郭の張り出した塁線上から横矢が掛けられている。土塁は尾根上の曲輪群の要所に築かれ、例えば主郭の背後や主郭の虎口などは土塁が明確で、16郭では後述する櫓台に繋がる大土塁となっている。西尾根の14郭へは堀切に湾曲した土橋が架かって連結されている。14,16郭には大型の隅櫓台が備わり、特に16郭のものは下段の15郭からだと高さ7m程もある。この他、東尾根の末端近くにある10郭の虎口土塁には石積みが見られ、鶴巣楯移城後の戦国期にも有力支城として存続した可能性が高いと考えられる。主要な曲輪の周りや先端には、多数の腰曲輪群も見られる。
 城へは石神神社への参道で行くことができ、横堀外の腰曲輪には山道が通じている。城内は一部藪が酷いが、ゴーグル着用などすれば歩けない程のレベルではない。御所楯は、城域は広いが鶴巣楯と比べると縄張りの技巧性は乏しく、戦国初期までの古い形態を残していると考えられる。

 尚、御所楯の西側曲輪群の南に谷戸を挟んで八谷楯があり、位置・規模・構造から考えて、八谷楯は御所楯の出城であったと考えるのが妥当であろう。
14郭の湾曲した土橋→IMG_2399.JPG
IMG_2445.JPG←16郭の大型の隅櫓台
12郭南東の堀切→IMG_2282.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.447312/140.915043/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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下草古城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2169.JPG←本丸周囲の水堀跡
 下草古城は、伊達政宗の3男宗清が1613年に入部し、1616年に吉岡城を築いて居城を移すまでの宗清の居城である。宗清は、二重の堀を持った平城として整備したが、川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、新たに吉岡城を築いたとされる。しかし、すぐ南方の山稜には黒川氏の巨城・鶴巣楯があり、下草古城は黒川氏一族か、鶴巣楯を有事の詰城とした黒川氏の平時の居館であった可能性もある。実際に過去に行われた周辺での発掘調査の結果、宗清居城以前の城下町があった可能性が指摘されている。
 下草古城は、竹林川南岸に築かれた平城である。城址は耕地化されてかなり改変されているが、方形の本丸とその周囲の水堀跡がほぼ往時の形で残っている。本丸の周囲には梯郭式に二ノ丸が築かれ、外堀の南西部が僅かにその形状を残している。二ノ丸の南側一帯に、城下町が築かれていたらしいが、現在ではその痕跡は微塵もない。低地になった本丸水堀跡だけが、城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.425227/140.903349/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鶴巣楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1961.JPG←横堀に構築された枡形虎口
 鶴巣楯(鶴巣館)は、鶴楯城とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の一族黒川氏の戦国期の居城である。1445年頃に、大崎氏の一族で最上氏の祖となった羽州探題(或いは出羽按察使とも)斯波兼頼の孫、左衛門尉氏直が黒川地方に分封されて、黒川氏を称したとされる。黒川氏は大崎氏の一族として大崎氏との強い紐帯で繋がっており、大崎領の南方を押さえる為に最初は御所楯を居城としていた。しかし戦国期に入り南の伊達氏の勢力が北上してくると、伊達一門の飯坂清宗(伊達氏9代儀山公政宗の3男)の子景氏を養子として家督を継がせ(入嗣は1519年以前とされる)、以後は大崎氏を離れて伊達氏に属した。そのため景氏は、北の大崎氏に対する備えとして新たに鶴巣楯を築いて居城を移した。以後鶴巣楯は、黒川氏4代に渡る居城となった。1588年の大崎合戦では、鶴巣楯主黒川月舟斎晴氏は突如伊達氏を裏切り、大崎方に付いて渋谷相模守が守る桑折城に入って守備に当たった。折からの大雪で留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大敗し、晴氏は娘婿の政景を温情をもってその帰陣を許した。その後、伊達氏と大崎氏の間で講話が成立したが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は改易となった。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、黒川月舟斎と小野城主長江月鑑斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえた。月舟斎の所領は没収され、鶴巣楯はこの時に廃城になったと思われる。月舟斎は、留守政景の助命嘆願によって一命を取留め、その後は政景の保護下で余生を送り、1609年に没した。黒川氏の家督は、月舟斎が大崎氏から養子に迎えていた義康が継ぎ、少禄で伊達氏に仕えた。その子季氏の時、無嗣断絶となった。

 鶴巣楯は、吉田川の広い氾濫原に面した比高55m程の丘陵突端部に築かれている。宮城県内でも有数の規模・構造を持った山城で、城域は広大である。『日本城郭大系』などの記載に従うと、主要な曲輪だけで主郭~七ノ郭まである。主郭は頂部に位置する三角形状の曲輪で、西に二ノ郭、南東の尾根続きに三ノ郭、北東に四ノ郭を配置している。二ノ郭との間は変則的な二重堀切で分断し、三ノ郭との間は単発の堀切で分断している。主郭・二ノ郭・三ノ郭の周囲には腰曲輪が築かれ、その外周に横堀を多用して防御を固めている。この横堀は枡形虎口を兼ねたクランク状の屈曲や出枡形があちこちに見られる。また各所の虎口には櫓台も見られ、厳重な防御を施している。二ノ郭には内枡形と出枡形を組み合わせた虎口があったり、三ノ郭には側方を横堀で防御したS字土橋の虎口を設けるなど、虎口構造の技巧性も高い。また三ノ郭外周には尾根筋を分断するため深さ5mの大きな横堀が穿たれている。四ノ郭~七ノ郭は北東の尾根に沿って展開しているが、基本的に切岸だけで区画されている。これらの東から北の斜面にかけては多数の腰曲輪が築かれている。
 事前に本で見ていた縄張りからは、城域は広いが曲輪群だけがあるだけであまり技巧性はなさそうだと期待していなかったが、実際にはかなり巧妙な遺構群でビックリした。特に横堀の多用や枡形虎口の構築など、伊達氏の築城技術との類似点が多く見られることから、伊達氏の技術を移入したものの様に感じられた。
 ただ、遺構としては素晴らしいが、展望台となった四ノ郭以外は未整備で山林内が荒れており、うまく写真を取るのが非常に難しい。城址公園として綺麗に整備されると、その価値が見直されると思う。
三ノ郭外周の大空堀→IMG_2037.JPG
IMG_2007.JPG←三ノ郭虎口のS字土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.417578/140.901890/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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桃生城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6210.JPG←北の外郭の土塁跡
 桃生城は、律令政府が758年に造営を開始し、760年に完成し、その後774年に海道の蝦夷による攻撃を受けた古代城柵である。発掘調査の結果、外周を築地塀などで囲み、中央やや東寄りに政庁、その西側に官衙地区が設けられていることが判明している。これらはいずれも同時期と見られる火災で消失し、その後復興されていないことから、『続日本記』に記載されている海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因と考えられている。8世紀後半の、わずか15年程の期間しか存続しなかった城柵である。

 桃生城は、標高70m程の丘陵地に築かれている。私が訪城した「丘陵地に築かれた古代城柵」としては、宮沢遺跡に続き2例目である。しかし宮沢遺跡のような本格的な堀などの防御施設はなく、外周を築地塀・土塁と櫓で防御していただけらしい。また桃生城は、古代城柵としては異例の未整備状態で、訪城した際、たまたま行き会った古代城柵巡りをしている中年のご夫婦が、「ここは最悪」と愚痴っていたほどである。普通は復元整備するか、それほどでなくとも散策路を整備して、政庁跡などを簡易的な表示で示すかするものだが、ここでは中心の政庁跡は藪で冬でも進入不能、西側官衙地区に至っては到達することすら不可能。北辺の築地塀の土塁だけは、わずかな踏み跡程度の小道が通じており、土塁の跡がわずかに示されているが、帰りに暗くなってきたら小道が見えなくなって危うく迷いそうになったぐらいである。史跡の整備状態としてはホントに最悪で、さすがにこれは行政当局でもう少し考えた方が良いのではないかと感じた。
政庁跡の現況→IMG_6203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.533430/141.277485/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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七尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5955.JPG←腰曲輪上に屹立する三ノ郭
 七尾城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の最後の居城と言われている。山内首藤氏の事績については、大森城の項に記載する。山内首藤氏が最終的に七尾城に本拠を移した時期は不明であるが、永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子が石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた時には、七尾城が本拠となっていたとされる。当時の七尾城は三方を水に囲まれた要害で、葛西勢は総力を挙げて攻撃したが攻略できず、最後は兵糧攻めによって陥落し、山内首藤氏は没落した。その後、七尾城には葛西氏の一族葛西守重が入った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易されると、七尾城は廃城になった。

 七尾城は、北上川北岸に連なる丘陵群の一つ、標高80mの山上に築かれている。大きく3つの峰に曲輪群が築かれており、東の高い峰から順に主郭郡・二ノ郭群・三ノ郭群とされている。これらの曲輪群は、それぞれのピーク上に主体となる曲輪を置き、その外周に腰曲輪を数段廻らし、さらにそれぞれのピークから北西に伸びる尾根に沿って舌状曲輪を配置した構造で、一城別郭の縄張りとなっている。私は三ノ郭西側の谷戸に小道が付いていたので、そちらから南面の尾根筋まで至り、そこから西から順に城内を巡った。三ノ郭は比較的藪が少なく、山の手入れもされているので、遺構の確認がし易い。三ノ郭西側に浅い横堀を備えた腰曲輪を築き、北西尾根には二重堀切を穿ち、更に舌状曲輪を配している。舌状曲輪側方にも帯曲輪を築いている。次の二ノ郭群は、地形上の制約からか曲輪群の規模は小さい。また藪も多く、遺構が見づらい。基本的にはピーク上の二ノ郭と外周の腰曲輪、更に北西尾根に数段の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は、高低差の大きな斜面・鞍部で分断されており、二ノ郭側はこの斜面に何段もの腰曲輪群を築いている。鞍部は平場になっており、谷戸を登ってくる大手道に繋がっている。主郭は、ここから数段の腰曲輪を経由した上にあり、途中には浅い堀切と土橋もある。主郭内は僅かな段差で3段ほどに区画されている。主郭の外周も数段の腰曲輪で囲繞され、急峻な南側では幅が狭まって武者走り状になっている。主郭群も北西尾根に舌状曲輪が伸びており、先端を急峻な中規模の堀切で分断し、更にその下方にも舌状曲輪がある。主郭群と二ノ郭群の間の谷戸には、大手門の跡が残り、門跡の土塁が明瞭である。
 七尾城は、全体に旧態依然とした縄張りで、見た限りでは大森城の方が新鋭の山城である。また大森城の方が本城にふさわしい規模を誇っているので、山内首藤氏が居城を七尾城に移したというのは少々疑問に感じた。相当追いつめられたものか、或いは、大森城の方は葛西氏時代の戦国後期に大改修されたのかもしれない。
三ノ郭群の二重堀切の1本目→IMG_5977.JPG
IMG_6129.JPG←主郭群の堀切
谷戸の大手門跡→IMG_6168.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528646/141.344240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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大森城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5750.JPG←主郭北側の横堀
 大森城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の居城である。山内首藤氏は、後三年の役以来、源氏に恩顧のある家柄であったが、源頼朝が石橋山で挙兵した際、山内首藤経俊は母が頼朝の乳母であったにも関わらず平家に味方したばかりか、頼朝に対して矢を放ったため、頼朝が鎌倉を制圧すると斬首されそうになったが、老母の助命嘆願で助けられた。その後は頼朝に従って軍功を挙げ、御家人の列に連なった。奥州合戦にも従軍して、その功によって桃生24郷を拝領したのが、山内首藤氏が奥州に地歩を築く契機となった。後に山内首藤氏の嫡流は備後に移ったが、庶流が桃生郡に下向してこの地を支配した。奥州入部の時期は不明であるが、鎌倉末期から南北朝期頃に掛けては永井城を本拠に勢力を伸ばし、その後、大森城に居城を移して大勢力に成長した。大森城を本拠としたのは、南北朝期から室町中期(1350~1500年)頃と推測されている。この時期が、山内首藤氏が最も勢力を拡大した時代であったとされる。山内首藤氏の最終的な居城は、七尾城であったと言われるが、七尾城に移った時期は不明である。永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子は、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた。葛西氏は総力を挙げて攻撃したが、大森城・七尾城は陥落せず、やむなく兵糧攻め・長囲の計をめぐらしたため、遂に落城し、山内首藤氏は没落した。その後の桃生郡は葛西領に併呑され、大森城には葛西氏の家臣男沢氏が入城したと言う。

 大森城は、標高70m程の大森山という独立丘陵に築かれている。丘陵全体を城とした、規模の大きな山城で、山内首藤氏の勢威を感じさせる堂々とした造りである。中心に主郭を置き、西尾根に二ノ郭、東尾根に三ノ郭と東郭、北尾根に北郭を配している。主郭は南に内枡形の虎口を築き、虎口を守る櫓台などには石積みが散見される。主郭内は僅かな段差で東西に区画され、東部分は更に南北に区画されている。この内、北東部が一番高い位置にあり、主殿があったものと推測される。主郭外周には土塁が築かれ、主郭南辺では塁線に横矢掛かりが見られる。主郭外周は腰曲輪が築かれ、東・北・西の三面には切岸の下に横堀が穿たれて防御を固めている。この横堀は主郭東側の南端部では竪堀となって落ちている。二ノ郭周囲には幾つもの腰曲輪が築かれ、三ノ郭の先の東郭の基部には堀切が確認できる。この堀切も南端で竪堀となって落ち、竪堀の両側に腰曲輪が築かれている。以上の様に遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多く、歩いて回れない程ではないが遺構の確認は少々しづらい。南西麓に解説板があり、その先を直登したが、明確な道はなく、とにかく上を目指して登っていくしか無いが、主郭付近は普請の規模が大きく、見応えがある。石積みや桝形虎口などの遺構から考えると、戦国末期まで使用された大型の城だった様である。もう少し整備されていると、素晴らしいのだが。
主郭の横矢掛かりの切岸→IMG_5851.JPG
IMG_5862.JPG←櫓台を備えた主郭枡形虎口
東郭の堀切→IMG_5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.501044/141.320958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中沢楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5660.JPG←段々になった曲輪群
 中沢楯(中沢館)は、歴史不詳の城である。勢力圏から考えれば、葛西氏の支配領域であることから、葛西氏の家臣の本拠であったことは想像に難くない。現地解説板によれば、戦国末期の1588年に葛西晴信が中沢左近之丞宛に、元南曲輪内にあった中沢神明社に対する「御立願之事」という願文を送っていることから、この中沢氏であったと推測されている。

 中沢楯は、人石山の裾野が大原浜まで伸びた突端の段丘に築かれている。比較的城域の大きな城で、段々になった多数の腰曲輪群で構成されている。中央に大手の谷戸があり、その南北に張り出した丘陵部に出曲輪を配している。曲輪群には堀切はなく、主郭まで段差という程度の小さな切岸だけで区画されている。主郭は頂部の平場と考えられるが、東側はそのまま丘陵基部に続いてしまっていて、主郭の範囲があまり明確にできない。現地解説板の縄張図に記載されている背後の堀切は、主郭からかなり離れた登り斜面に穿たれているが、非常に小規模で、特に2本目はほとんどわからないレベルである。また前述の縄張図には、南曲輪周囲に空堀、南麓の腰曲輪に石塁が記載されているが、空堀は湮滅して形態を残さず、石塁は耕地化の際の土留の可能性が高く、遺構とは看做し難い。縄張りとしては、素朴な形態を残した城だったと思われる。
 尚、大手の谷戸には民家があるが、無住の様で、入口に売地の看板が立っている。周辺の浜一帯は東日本大震災の被災地で、家屋がほとんど残っていないので、ここの地主の方も移住されてしまったのかもしれない。私は南西麓の中沢神明社から登ったが、城内で人の気配を感じることはなかった。一日も早い復興を祈るばかりである。
わずかな1本目の堀切→IMG_5625.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.331069/141.477170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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内親楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5559.JPG←東尾根から見た主郭の遠望
 内親楯(内親館)は、「うちごやたて」と読み、伊達氏の家臣宮内氏の居城である。『伊達世臣家譜』によれば、宮内氏は出羽国置賜郡長井荘宮内邑を本領とし、宮内氏を名乗る以前は遠藤氏を称していた。1490年、宮内中務盛実の時に内親楯に移り住んだと言う。その後、伊達市の内訌「天文の乱」が生起すると、宮内宗忠は白石宗綱らと共に晴宗に仕え、その論功行賞により外様より一族に列せられた。1552年、白石川対岸の宮城館へ居城を移した。宮内氏は、その後も相馬氏との抗争や大崎合戦にも従軍して軍功を挙げ、1591年に伊達政宗が岩出山城に移封となると、宮内氏は加美郡色麻に移った。

 内親楯は、白石川と松川合流点南の、標高120m、比高90mの山稜上に築かれている。丘陵先端のピークを中心にした南北に伸びる尾根と、その東に派生した尾根上に曲輪群を展開した規模の大きい城であるが、全山深い藪に覆われていて、遺構の確認は困難を極める。私は、東尾根の東端からと、北尾根の北東端と2ヶ所から登城を試みたが、いずれも深い藪に阻まれて途中で登城を断念した。辛うじて東尾根の曲輪群を途中まで探索できたが、幾つかの平場と堀切1条、それと腰曲輪から上段の曲輪に通じる虎口が確認できた程度であった。東尾根の曲輪群途中からピーク上の主郭が遠望でき、頂部が綺麗に削平されているのは見えたが、それ以上接近することはできなかった。いずれ整備されるとありがたいのだが。
曲輪群を繋ぐ虎口→IMG_5545.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆(藪で減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.039321/140.656092/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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飯詰楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5458.JPG←腰曲輪と主郭の切岸
 飯詰楯(飯詰館)は、歴史不詳の城である。標高95m、比高40m程の、白石盆地南部の浮島の様な小さな独立丘陵に築かれている。山頂に、切岸で区画された幾つかの平場を連ね、南面から東面の斜面に数段の腰曲輪を廻らしただけの小規模な砦である。西側には東北新幹線が貫通しているが、遺構自体は幸い無傷に近い。元々南西麓からの登り道があったらしく、今でも新幹線の高架脇に登り道が付け替えられている。この道を辿って登ると南面の腰曲輪群に到達する。更にここから頂部まで腰曲輪群を経由した登り道があり、山頂に至る。地形図だと、山頂に神社マークがあるが、副郭的な西の平場に石祠が立っているだけである。その東側には鞍部の平場を介して主郭と思われる方形の平場がある。その東の一段低い平場には謎の大穴が空いており、狼煙台か何かがあった可能性がある。また主郭手前には土橋と片堀切の様な地形が見られるが、薮に覆われていて判別しにくい。歩けないほどの藪ではないが、結構茨が多くて少々辟易する。ここからは、斎川沿いの谷部を通して馬牛楯を直接望むことができるので、馬牛楯主の桑折氏が白石城に備えて築いた前衛の砦か、逆に白石城側の勢力が馬牛楯に備えて築いた橋頭堡的な砦であった可能性もあるだろう。
南斜面の腰曲輪→IMG_5426.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.974989/140.616760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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タグ:中世山城
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馬牛楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5399.JPG←二ノ郭虎口の土橋
 馬牛楯(馬牛館)は、萬行楯城とも言い、伊達氏の一族桑折氏の居城である。元々は、室町時代初期に刈田郡の領有を巡って伊達宗遠と亘理行胤がこの郡に侵攻し、斎川周辺で激戦を展開したと言われ、馬牛楯はこの頃伊達氏によって築かれたと推測されている。天文年間(1532~55年)には伊達氏の家臣桑折播磨守景長の居城となっており、奥州を二分した大乱「天文の乱」の際には、播磨守は伊達稙宗方に付いて、白石城を拠点とした伊達晴宗方の軍勢と、馬牛楯に立て籠もって戦ったと伝えられている。

 馬牛楯は、奥州街道(現・国道4号線)の西に隣接し、馬牛沼の北西に位置する標高190m、比高80m程の独立丘陵全体を城域にした、かなり大型の城である。東麓の孫太郎茶屋から登り道が付いており、地主さんにお断りすれば訪城は容易である。孫太郎茶屋入口にある現地解説板に縄張図が記載されており、それによると北から順に三ノ郭群・二ノ郭群・主郭群・南館と連郭式に並べ、更に主郭東側に東出郭を配置した構成となっている。いずれの曲輪群も広く、内部は何段かの平場に区画され、曲輪群の間は堀切は少なく、切岸だけで分けられている。堀切は、主郭と南館の間にだけ穿たれている。虎口は平易なものが多いが、二ノ郭虎口だけは土橋が構築されている。この他、三ノ郭の西側には大きな土壇状の曲輪があり、また二ノ郭外周などに腰曲輪群が構築されている。東出郭には塁線の折れを伴った土塁が築かれている他、主郭にも土塁が築かれ、西側の腰曲輪にまで土塁が伸びている。全体にあまり技巧性は感じられず、戦国前期の縄張りをそのまま残している様である。
 尚、2015年秋には標柱しかなかったが、2016年12月に訪城した時には前述の現地解説板が新設されていた。縄張図まで掲示されているので、ありがたい限りである。
東出郭前面の切岸→IMG_5214.JPG
IMG_5341.JPG←南館の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.951829/140.606825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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霜降館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4928.JPG←水堀と土塁跡
 霜降館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣金堂駿河守の居館と伝えられている。現在の今道集落の中にあり、東辺部に水堀と土塁が、また西辺部にも土塁らしい跡が残っている。前述の伝承がもし事実とすれば、平安時代から残る古い城館であることになり、遺構はわずかながら極めて貴重なものであろう。尚、この城館は、たまたま帰り際に標柱を見つけて立ち寄った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.725195/141.203563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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石森楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4879.JPG←南麓に残る水堀跡
 石森楯(石森館)は、笠原城とも言い、葛西氏の一族石森氏の居城である。古くは平安末期の文治年間の始め(1185~86年)に奥州藤原氏の家臣猪塚修理が居城としたと伝えられる。その後、源頼朝の奥州合戦で藤原氏が滅ぶと、葛西氏が奥州惣奉行に任じられ、1221年にはその一族石森右近将監康次が石森楯を居城とした。以後、石森氏の歴代の居城となったが、1590年の奥州仕置によって葛西氏が没落し、その後生起した葛西大崎一揆で、石森氏は小塚氏(小塚楯主)・二ッ木氏(二ッ木楯主)らと共に一揆鎮圧に当たった伊達政宗の軍勢に抵抗したが、殲滅されて滅亡した。その後には伊達氏の家臣で千石城主であった遠藤出雲守高康が石森楯に移封された。藩政時代には「石森所」(「要害」より一段下のランク)となり、1631年に間野四郎左衛門が入部した。1639年、笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移封され、以後笠原氏の居城となった。

 石森楯は、比高15m程の独立丘陵上に築かれている。城の周囲は市街化が進み、城内の曲輪には民家が建っているなど、改変が進んでいる。また、2008年には丘陵南東部の張出し部を崩して車道を通しており、破壊が続けられている。前述の通り、ほとんど民家の敷地になっているので進入し難いが、城内に笠原家廟所が建ち、その手前に堀切らしい跡が残っている。また北西の石太神社裏の丘陵上にも堀切らしい跡が残っているが、この辺りは薮がひどく遺構の確認が難しい。この他には、南麓に水堀が残っており、こうした小規模な平山城形式の城砦で現在まで水堀が残る例は珍しい。改変が進んでいるものの、貴重な遺構を残している。
廟所近くの堀切状地形→IMG_4903.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.723655/141.212661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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二ッ木楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4851.JPG←ニノ郭側から見た主郭切岸
 二ッ木楯(二ッ木館)は、双樹館とも言い、葛西氏の家臣二ッ木三五郎堯明の居城であったと言われている。二ッ木氏は、元々小野寺氏を称していたとされ、葛西氏の一族石森将監康次が石森楯に拠るに及び、小野寺三五郎堯明が二ッ木楯に住み、ニツ木氏を称して石森楯の後衛に当ったと伝えられる。1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、二ッ木氏も石森氏・小塚氏(小塚楯主)と共に没落した。尚、『登米郡史』には、1590年に二ッ木三五郎が伊達政宗の軍に囲まれると、二ッ木氏の家臣某が主君を斬って伊達勢に降ったが、政宗はその裏切りを憎んでその家臣某を誅殺したとの伝承が残っていると言う。

 二ッ木楯は、標高36mの丘陵上に築かれている。大きく東西2郭から成り、外周に腰曲輪を廻らしている。西側が主郭で、城内最高所に位置し、周囲を3~4m程の切岸で囲まれた広い曲輪で、祠が祀られており、そこまで参道が整備されている。しかし主郭の大部分は薮に埋もれている。主郭の北側には幅広の腰曲輪が1段、南側には2段程の腰曲輪が確認できる。主郭から東の二ノ郭に向かうと、切岸を降った所が鞍部になっており、堀切としての機能を有していたとみられる。二ノ郭は鞍部より少々高い位置にあるが、面積は小さく、削平も甘い。こちらも周囲に腰曲輪を伴っている。全体に、旧態依然とした縄張りの城で、要害性も高い地形ではなく、居館としての機能を優先させた城だった様だ。一部を除き薮がひどいのも難。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729665/141.217918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小塚楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4817.JPG←主郭から見たニノ郭
 小塚楯(小塚館)は、葛西氏の家臣小塚織部則安の居城と伝えられている。小塚氏は、1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、小塚氏も石森氏(石森楯主)・二ッ木氏(二ッ木楯主)と共に没落した。その後、則安の子帯刀は伊達氏に仕えて小塚七郎と称し、平士に列したと言う。
 小塚楯は、標高27m程の独立円丘上に築かれている。頂部は平坦で、段差だけで区画された主郭・二ノ郭が東西に並び、周囲に帯曲輪が取り巻いただけの簡素な城砦である。主郭南部には神明社が建てられており、一部改変を受けているが、参道の階段があるので訪城は容易である。但し、神社境内以外の曲輪部分は薮で、しかも普請がささやかなため、削平が甘く、自然地形も多いので遺構はあまりはっきりしない。通り掛かりに寄り道する程度の城だろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.728393/141.229742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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弥勒寺楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4790.JPG←主郭に通じる土橋と堀切
 弥勒寺楯(弥勒寺館)は、歴史不詳の城である。伝承では、葛西氏の家臣鈴木正斉入道が城主であったと言われるが、確証はない。

 弥勒寺楯は、弥勒寺が建っている丘陵東端の、比高20m程の段丘上に築かれている。南北2郭から成る簡素な城砦で、主要部は公園化されている。南麓から階段を登ると二ノ郭周囲の腰曲輪に至る。その上に、高さ3m程の切岸で囲まれた二ノ郭が聳えている。二ノ郭は南北に長く、西辺に土塁らしい土盛があるが、公園化による改変の可能性もあり、遺構かどうか確証はない。二ノ郭の北に幅広の土橋が架かった堀切が穿たれ、その北が方形の主郭である。主郭は小規模な曲輪で、居住性はほとんど無い。主郭の背後にも土塁と堀切が築かれて、丘陵基部を分断している。その先は弥勒寺の墓地に変貌している。主郭の西側は、ニノ郭西側の腰曲輪がそのまま繋がっている。主郭の東斜面にも腰曲輪が2段ほどある様だが、薮がひどかったので踏査はしていない。小規模だが、比較的普請がしっかりされた城である。尚、ここの城址標柱も印字がほとんど消えているので、何とかしてほしいところである。
腰曲輪上にそびえるニノ郭→IMG_4770.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.731489/141.259332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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湖水城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4752.JPG←城跡の台地
 湖水城は、西郡城とも呼ばれ、葛西氏の家臣西郡氏の居城である。戦国末期の城主は西郡新左衛門とされ、1590年の奥州仕置の際、葛西氏の将として700騎の総大将として現在の桃生郡河南町須江に出陣し、翌91年深谷の役で伊達軍と戦い討死したと言う。一方、西郡城主として千葉左馬助胤元の名も伝わっており、城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 湖水城は、機織沼の西側にある比高5m程の島状台地に築かれている。平坦な頂部に長円形の主郭を置き、周囲に一段低く腰曲輪を廻らしていたようである。適当に取り付きやすそうな部分から台地に這い上がってみたが、全域藪が酷すぎてまともに写真が取れない状況で、遺構の確認もできないのが残念である。城址南側の民家近くに城址標柱が残っているが、字が判別不能なほど消えてしまっている。かなり残念な状況である。
 尚、機織沼の北東の丘の上に西郡新左衛門夫妻の石碑と祠が建っている。

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.733046/141.280317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鱒渕城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4718.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 鱒渕城は、葛西氏の家臣及川紀伊の居城であったと伝えられている。また別説では、鱒渕城主として岩渕氏の名が伝わっている。城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 鱒渕城は、二股川支流の小河川南岸に南から突き出た、比高30m程の細長い丘陵上に築かれた城である。小規模な城砦で、南北2郭と腰曲輪から構成された連郭式の縄張りとなっている。南北2郭の内、北側が主郭で、主郭内は何段かの段差に分かれ、北端が一番高く、神社が建てられている(但し参道は途絶)。主郭後部に1段の段曲輪があり、その先に土橋の架かった堀切を介して二ノ郭が続いている。二ノ郭南部は途中から採土で消滅してしまっている。主郭の東西斜面には綺麗に削平された腰曲輪が1段取り巻いており、西の腰曲輪先端には、竪堀状の虎口が築かれている。しかしその先は斜面が崩落してしまったのか、城道を追うことができない。全体に小規模で、技巧性もなく、あくまで有事の際の詰城と、南東の館ノ下集落(往時の根古屋であろう)を防衛する障壁としての位置付けだった様である。尚、主郭の後部に高圧鉄塔があり、そこへの保守道が西麓から伸びているので、それを使って訪城できる。
土橋の架かった堀切→IMG_4675.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.748394/141.328189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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狼河原城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4520.JPG←主郭前面の堀切
 狼河原城は、別名を鳩岡城、畑沢城とも言い、葛西氏の家臣亀卦川氏の一族、米谷修理の居城である。米谷亀卦川氏の事績については、米谷城の項に記載する。南北朝時代の1369年に、亀卦川(米谷)政明の子信明が登米郡狼河原に分封され、狼河原米谷氏の祖となった。その後、狼河原城を居城として、米谷氏の勢力の一翼を担い、この地に勢力を張ったと思われる。戦国末期には、米谷常秀の弟常忠が狼河原(米谷)氏を継承した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると、領内で葛西氏家臣団による反抗が起き、奥州仕置軍との間で激しい戦いが行われたと言われ、その中に兄の米谷常秀と共に狼河原常忠の名が見られると言う。(一説には、この時の狼河原城主として千葉修理亮胤則と言う名が伝わるが、狼河原氏との関係は不明。また戦国後期の1564年には葛西民部少輔が城主であったとも伝えられ、狼河原城主については不明点が多い。)その翌年、葛西大崎一揆が起きたが、伊達政宗の軍勢によって殲滅され、狼河原氏は滅亡したと思われる。

 狼河原城は、二股川の南岸に突き出た標高97m、比高77mの丘陵上に築かれた城である。普請がしっかりされた比較的大型の城で、本家の米谷氏が拠った米谷城よりも遥かに優れた遺構を有している。西麓の車道脇に城址標柱が建ち、そこから東に入っていった民家の脇から登り道が付いている。民家の横を通るので、立入りの許可をもらった方が良い。大きく4つの曲輪から成り、主郭を中心に、南西に二ノ郭、北西に三ノ郭、南東に四ノ郭を配置し、それぞれ腰曲輪を廻らしている。主郭と二ノ郭・三ノ郭はそれぞれ堀切で分断されているが、いずれの堀切も両側の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねている。また二ノ郭側の堀切には、主郭塁線が内側に折れて横矢が掛かると共に、どうも主郭の搦手虎口があったらしく、この主郭への登り道を隠すように二ノ郭側の土塁が配置されている。主郭は背後に土塁を築き、西辺部にも幅広の土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間の堀切手前に土塁と櫓台を築いているが、一方で前面に当たる北側は、明確な切岸などの区画や防御構造がなく、ダラダラとした緩斜面になっている。各曲輪周囲の腰曲輪は、綺麗に削平されて何段かに区画されており、特に主郭東側の腰曲輪は広幅で、主郭切岸も5m程の高さで聳えている。四ノ郭だけは主郭との間に堀切がなく、前面に数段の段曲輪を築いている。一方、二ノ郭の腰曲輪の先端(南端)も堀切となっているが、前述の西麓からの登り道はこの堀切に通じている。この堀切から南に少し行った先にも外郭があり、切岸で囲まれた三角形状の小曲輪と周囲の腰曲輪が確認できる。
 なお城内の中で、二ノ郭とその周りの腰曲輪だけが、西麓の民家の畑になっており、訪城した時作業中のお爺さんと話すことができた。主郭先端に大同桜という古木があり、時折それを見に来る人があるらしい。
主郭東側の切岸と腰曲輪→IMG_4549.JPG
IMG_4632.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.772923/141.341021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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若草山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4414.JPG←紅葉に彩られた腰曲輪
 若草山楯(若草山館)は、若宮館とも言い、歴史不詳の城である。東方700mに狼河原城があることからその出城であった可能性もあるだろう。
 若草山楯は、米川市街地北方にそびえる比高40m程の独立丘陵に築かれた城である。簡素な城砦で、山頂の主郭を中心に、その周囲に同心円状の腰曲輪が2~3段築かれているだけである。主郭には現在若宮神社が鎮座し、山全体が公園化されているが、遺構はよく残っている。北側の腰曲輪には土塁も確認できる。秋には紅葉で美しく染まる城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.773860/141.332352/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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