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伊治城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3015.JPG←外郭の土塁と堀跡
 伊治城は、奈良時代後期に律令政府が造営した古代城柵である。『続日本紀』に767年に造営されたことが記載され、初期の造営は三旬(30日間)に満たずに完了したと伝えられている。征夷政策を積極的に進めるための拠点としての造営であった。その後も整備拡張が続けられ、優遇政策によって入植者を募って開拓を進めながら780年頃まで続けられたと見られている。780年、胆沢地方の蝦夷征討の拠点かつ蝦夷南下を阻止する拠点として、按察使の紀広純によって覚鱉城の造営が計画され、伊治城はこの新城造営の基地ともなった。しかし同年、伊治城を統治していた上治郡(此治郡の誤記との説が有力)大領の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)は、伊治城を訪れた按察使紀広純・牡鹿郡大領の道嶋大盾を怨恨によって殺害し、反乱を起こした(宝亀の乱)。反乱軍は、多賀城国府をも攻撃制圧し、略奪をほしいままにして火をかけ、律令政府を震撼させる事態となったと言う。これによって伊治城は中央の手を離れ、蝦夷の郡司の掌中に帰したが、翌年の5月頃迄には政府軍の支配下に戻ったと推測されている。その後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうが、796年頃には反乱以前の状態に復旧整備されたと考えられている。

 伊治城は、一迫川西岸の比高10m程のなだらかな丘陵地に築かれている。内郭は宅地や耕地に変貌して地上からは姿を消し、外郭の内、北辺の一部にわずかに土塁・堀跡が残っている。内郭の政庁部分は、発掘調査の結果、東西約55m、南北約60mの広さを持ち、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物群の跡が見つかっている。面白いことにこの城柵では、内郭は城域の南端近くに大きく偏して配置されている。これは北方の蝦夷からの攻撃を強く意識してのこととも考えられる。ちょうど国道4号線脇に城の解説板が建っているのが、内郭の中央付近に相当するが、解説板以外には城柵の形跡は微塵も感じられない。遺構は僅かであるが、古代史の好きな人には歴史的経緯のある城なので、お勧めかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764708/141.038404/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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刈敷館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2074.JPG←微高地の主郭塁線
 刈敷館は、刈敷氏の居館である。刈敷氏は、南北朝期に真坂楯に下向した狩野氏の一族で、嶋躰館の狩野兼親から分流してこの地に入部し、地名を取って刈敷氏を称したと言う。本家の狩野氏と共に大崎氏の家臣であったと考えられ、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、刈敷氏も滅亡した。

 刈敷館は、一迫川東岸に築かれた居館で、白山神社の南東に隣接して、方形の空き地となって残っている。周りの耕地より僅かに高くなっていて、曲輪跡であることが想像できる。往時は土塁で囲まれていたのではないかと個人的に推測しているが、昭和20年代の航空写真を見ると既に土塁の痕跡はなく、方形の空き地が主郭で、南に横長の長方形の二ノ郭があったらしい。しかし二ノ郭は水田になっていて、今ではその痕跡は見出だせない。主郭は一応公園になっているらしいのだが、若干の植え込みとベンチがあるぐらいで、公園なのかどうかも一目ではわからないぐらい中途半端である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.766900/141.046708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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佐沼城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←本丸の天守台
 佐沼城は、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった城である。城の歴史は必ずしも明確ではなく、伝説では奥州藤原氏の家臣照井太郎高直の居城であったとも言われるが、県内各地に同様の伝承があるので俄には信じ難い。南北朝時代には、鎮守府大将軍北畠顕家が摂州阿倍野で討死し、奥州軍が四散した後、奥州に戻った葛西氏が寺池城と佐沼城を築いたと言われており、葛西氏の支城として築かれた。しかし室町中期には大崎氏の支配下に入り、天文年間(1532~55年)には大崎氏の家臣石川氏が城主であったと伝えられている。この城が明確に姿を表すのは、1590年の奥州仕置以後である。即ち、小田原不参の故を以って葛西・大崎両氏が改易となり、葛西・大崎の旧領は豊臣秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられた。しかし木村氏の圧政によって岩手沢城での蜂起を皮切りに、「葛西大崎一揆」が勃発した。蜂起は燎原の火の如く瞬く間に領内全域に広がり、寺池城で父吉清と対策を協議した清久は、名生城への帰途、佐沼城で一揆勢に取り囲まれ、救援に赴いた吉清も佐沼城に包囲された。命を受けた伊達政宗により、吉清・清久父子は救出されたが、翌91年、一揆勢は佐沼城に立て籠もった。実はこの一揆は、政宗による煽動によって惹起されたものであり、それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山に呼び寄せ、残らず惨殺した(須江山の惨劇)。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。佐沼城には、出羽大橋城主湯目民部景康が移封された。景康は後に政宗の命で津田氏に改姓した。佐沼城は、藩政時代には佐沼要害と称され、津田氏は7代丹波定康の時代までこの地を領したが、1756年に改易された。津田氏の後には、高清水城より亘理伯耆倫篤が移封され、以後亘理氏の居館として幕末まで存続した。

 佐沼城は、迫川西岸の比高10m程の高台に築かれている。現在鹿ヶ城公園となっており、改変を受けているが、本丸部分はよくその形状を残している。梯郭式に近い環郭式の縄張りで、城の東側に偏した本丸を囲むように二ノ丸があり、更にその外周に三ノ丸が取り巻いていた。本丸は外周に低土塁が残り、東端に横矢張出しの大型の櫓台(おそらく天守台)を備えている。南東角にも隅櫓台が築かれている。本丸は広めで、十分な居住性があったと推察される。本丸の周りには大きな空堀が廻らされているが、残念なことにコンクリートの護岸で改変されてしまっている。しかし形は往時のままなので、城の雰囲気はよく残っている。二ノ丸・三ノ丸は市街化で改変され、二ノ丸部分がやや高くなっている以外、ほとんど形状を追うことができないが、往時は迫川周囲の沼地を水堀として取り込んだ、浮島の様な要害であったらしい。城の西側を流れる長沼川が外堀の役目をしていた様である。三ノ丸の北西端には独立性の高い丘陵地があり、西館と呼ばれている。津田家・亘理家の支配時代には各家の墓所となり、現在も両家の墓が残っている。西館は、それ自体が佐沼城西方を守る出城であり、高台上に堀切や横堀が残り、高台の北東下方にも横堀・土塁が築かれている。この下方の横堀は三ノ丸内にあることから、往時は城内通路を兼ね、土塁は城門を構成していたのだろう。
 佐沼城は、改変が進んでいるものの、街中の城にしては主要部の遺構がよく残っており、鹿ヶ城大橋の上から見た本丸の姿も、城以外の何物でもない。季節を問わず訪城出来る城である。
西館に残る横堀→IMG_1993.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.694839/141.196203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八幡館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←住宅地内に残る土盛り
 八幡館は、伝承では留守氏の祖伊沢家景の家臣、八幡兵庫の居館と伝えられている。八幡氏は代々留守氏に仕え、陸奥介を称して鎌倉幕府の御家人として宮城郡八幡庄内に地頭職を与えられていた。室町時代に入ると八幡介と称するようになったが、一説には平安後期以来の在庁官人の流れを汲む陸奥介平景衡の系統から、鎌倉前期にこの地に移住してきた保田景家の系統に取って代わられ、その際に名乗りを八幡介と称するようになったともされている。室町時代には、八幡氏は一時留守氏を凌ぐ勢力を持ち、留守氏と抗争することもあったが、戦国時代に入って伊達氏に服属した留守氏が勢力を回復すると、留守氏の家臣団に組み込まれた。戦国後期には八幡景廉と弟の下間業継が家督を巡って対立し、景廉が主君留守政景に事態収拾を訴え出ると、これを聞いた政景は激怒し、1578年、下間館を攻撃して業継を追放し、八幡氏の内訌を平定した。以後、八幡氏は安泰となり、景廉は政景に忠節を尽くすようになった。一方、追放された業継は、姉の嫁ぎ先である岩沼の泉田重光を頼って身を寄せた。このことが、大崎合戦の際に伊達勢を率いた留守政景・泉田重光2将の対立の遠因となったとも言われている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏と共に留守氏が所領替えとなると、八幡氏も留守氏に従って八幡の地を去った。

 八幡館は、砂押川南岸の比高10mにも満たない小丘陵に築かれている。丘陵上の主郭は現在配水場となっており、周囲一帯も完全に宅地化されており、地勢以外の遺構はほとんど残っていない。僅かに主郭の南の住宅地脇に、主郭南側の曲輪の一部と思われる土盛が残っているだけである。尚、付近には「末の松山」「沖の井」など、古今和歌集にも詠まれた史跡があるが、八幡館と何らかの関係があったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.287579/141.001604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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築館城・館越城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1740.JPG←堀跡と腰曲輪群
 築館城・館越城は、2つの城から成る複合城郭と推測される。この付近には、花楯城・大楯城・小館丸館や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。
 築館城は、詳細は不明であるが、室町時代の頃に岡山城という武士の居城であったと伝えられている。岡氏は、一説には川内小屋館の館主であったとも言われ、現在の大郷町内の羽生・川内地区を領していた土豪であったと推測されている。鎌倉時代以降、この地域は菅原氏・吉良氏・大崎氏・留守氏・葛西氏等によって支配権を巡る闘いが繰り広げられた。岡氏は、これら周辺諸豪の狭間にあって、その傘下に与して支配領域を形成したが、戦国末期には黒川氏・葛西氏・留守氏らの勢力の狭間で消滅していったものと推測されている。
 館越城については築館城以上に歴史不詳であるが、築館城と隣接していることから強い関連があった城であったと思われる。現地の築館城標柱には「古城」と表記されている。

 築館城・館越城は、吉田川南岸の比高40m程の丘陵先端に築かれている。北から築館城・館越城と並び、2つの城の間は堀切で分断されている。築館城の方は現在築館公園となって整備されている。頂部に主郭を置き、東西北の3面に腰曲輪群を段状に連ねた比較的小規模で単純な縄張りの城砦である。城全体の規模と比較すれば多くの腰曲輪が綺麗に構築されており、ほとんど居住性はなかったと考えられるが、有事の際の臨時の詰城としては申し分なかったものと推測される。腰曲輪群の西側下方には堀跡らしい低地も見られる。台地基部は大堀切で分断されており、現在は小道が通っている。堀切の南には館越城があるが、山林となっており、夏場は藪で遺構の確認が困難である。そのため訪城時には、僅かに北端に祠の祀られた平場と虎口らしい形状が確認できただけであった。築館城の方は、遠目にもいかにも城だという形を現しており、近くを通った時には寄ると良いだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.432346/141.019864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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花楯城・大楯城・小館丸館(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1709.JPG←大楯城中間の堀切
 花楯城・大楯城・小館丸館は、3つの城が連郭式に配置された複合城郭である。この付近には、築館城・館越城や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。花楯城・大楯城・小館丸館は、天文年間(1532~55年)の頃に葛西氏一族の金沢長門守が城主であったと言われ、大崎氏・黒川氏に対する備えとして築かれたと言う。その他の事績は不明であるが、1590年の奥州仕置で葛西氏が没落すると、廃城になったのだろう。

 花楯城・大楯城・小館丸館は、吉田川南岸の比高30m程の丘陵先端に築かれている。北から順に花楯城・大楯城・小館丸館と並び、大楯城が本丸に当たり、それぞれの城の間は堀切で分断されている。普通に考えれば3つをまとめて一つの城として扱うべきだと思うのだが、なぜそれぞれに別の城の名が付いているのかはよくわからない。また花楯城の「花」は「端」の転訛であろう。即ち「突端の城」の意味である。2つの堀切には現在車道が通っており、改変を受けている。またそれぞれの城も、ほとんどの曲輪は畑になっているため、多少の改変を受けている可能性がある。いずれの城も堀切跡の車道脇に標柱が立っているが、花楯城の標柱が立っているところから登ったところにある頂部の大きな曲輪は、「宮城県遺跡地図」によれば花楯城ではなく、大楯城の曲輪であるらしく、それを正とすれば大楯城の主郭に当たるのだろう。即ち大楯城は車道となった堀切で南北に主郭・二ノ郭を並立させた一城別郭であったらしい。大楯城の主郭の急峻な切岸の下にある北側の曲輪群が花楯城の様である。遺構としては曲輪群や一部に土塁らしいものも民家裏に見られるが、改変された可能性もある。民家裏の畑地であるので、立ち入りには注意を要することもあって、少々消化不良気味になる城である。
大楯城の主郭→IMG_1721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.437674/141.032073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大窪城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1660.JPG←主郭切岸と横堀
 大窪城は、藩政時代に伊達家一族格に列した大松沢氏の居城である。大松沢氏は、飯田八郎左衛門吉実を祖とし、伊達郡宮沢を治めていたため後に宮沢氏を称したとされる。1495年、大松沢郷が伊達尚宗の領地となり、吉実の後裔、宮沢掃部時実を大崎・葛西両氏に対する北方の押さえとして大松沢に入部させ、大窪城を居城としたと推測される(一説には、宮沢氏の大松沢入部は伊達稙宗の時ともされる)。戦国末期、伊達政宗の時の領主は宮沢元実で、大崎合戦や摺上原の戦いで軍功を挙げ、1592年には朝鮮の役に従軍するなど、伊達軍の一翼を担って活躍した。その功により、政宗より大松沢氏を称する様命ぜられ、伊達家一族の家格を与えられた。以後、江戸時代を通して大松沢所に鎮し、幕末まで存続した。大松沢氏15代衛実は、戊辰戦争において白河口軍事総督に任じられて戦ったと言う。

 大窪城は、鶴田川北岸の比高70m程の丘陵上に築かれた城である。現在城址公園として整備されており、山上まで車で行くことができる。東西に長い不正多角形の主郭を丘陵頂部に置き、高さ7~8m程の切岸の周囲に腰曲輪を廻らした構造となっている。主郭の北辺と南辺の塁線は内側に歪んでおり横矢を意識している。南辺だけは斜面の斜度がきついため、腰曲輪が置かれていない。主郭東側には横堀を挟んで土壇を有した曲輪があり、一方主郭の西側はやや広い面積の腰曲輪で二ノ郭とされている。二ノ郭の北側にも土壇があり、北西の台地基部を分断する堀切に対する櫓台であったと思われる。二ノ郭の南西斜面には腰曲輪群が築かれ、その南北両端は両側を竪土塁で囲み防御し、腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれている。従ってこの腰曲輪群は、側方を竪土塁で、下方を横堀で囲んで防御した構造となっている。更に腰曲輪同士の横矢掛かりが多数あり、かなり厳重に防御していたことが伺われる。訪城した時は晩夏であったが、ちょうど雑草が伐採されたばかりで遺構が非常にわかりやすく、幸運だった。
南西斜面の腰曲輪群→IMG_1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.468223/140.991969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八谷楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1471.JPG←そびえ立つ主郭南端の櫓台
 八谷楯は、伝承では八谷冠者が永禄年間(1558~69年)まで居住したとも、或いは八谷越前守が天正年間(1573~92年)まで居住していたとも言われている。しかし八谷氏についての記録がなくその事績は不明である。一方、勢力圏から考えれば鶴楯城主黒川氏に属していたものと推測され、八谷楯から谷戸を挟んですぐ北の山上に黒川氏の初期の居城御所楯が築かれていることから、八谷楯は御所楯の出城だったと考えるのが自然だろう。

 八谷楯は、東北自動車道脇の比高20m程の南北に長い丘陵上に築かれている。現在は八谷館緑地公園として整備されているが、公園化に伴う破壊を受け、また北半分は東北道の建設で破壊されてしまっており、旧状はかなり変わってしまっている。細長い丘陵を利用しているため、縦に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、曲輪間は堀切で分断している。主要な曲輪は4つで、南から順に笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭と仮に呼称すると、三ノ郭は前述の通り消滅しており、残っているのはそれ以外の3つの曲輪であるが、公園化で土塁などはかなり改変されている。『日本城郭大系』の縄張図には、笹曲輪と主郭の間も堀切があった様だが、ほとんど埋まっている。その上には主郭南端の櫓台がそびえている。主郭内は数段の平場に分かれており、腰曲輪を伴っている。この城で最も明瞭な遺構は主郭北側の堀切で、改変を受けているものの横矢掛かりでクランクした堀の形状がよく分かる。二ノ郭は3段に分かれた平場で城内最大の曲輪である。主郭よりやや低い位置にあり、西側には腰曲輪を伴っている。城の大手は南にあったと推測されるが、そうなると笹曲輪から大手道を登ってすぐに主郭があることになってしまうので、もしかしたら私が二ノ郭としたのが主郭であったかもしれない。そうすると、主郭の方が二ノ郭より低くなってしまうので、判断に迷うところである。城址公園としては、非常に残念な部類に入る遺構の状況である。
主郭北側の堀切→IMG_1509.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.439842/140.914507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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桑折城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1231.JPG←東尾根曲輪群
 桑折城は、大崎氏の重臣渋谷氏の居城である。古文書には、城主として渋谷相模守の名が記されている。渋谷氏は、大崎氏の入部前から河内四頭(渋谷氏・大掾氏・泉田氏・四方田氏)と称される国人領主で、大崎氏の入部後は徐々に大崎氏の勢力に組み込まれ、大崎四家老の一に数えられる重臣となった。桑折城が歴史に大きく現れるのは、1588年の大崎合戦に於いてである。大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。この時、渋谷相模守が守る桑折城には、その甥に当たる鶴楯城主黒川月舟斎晴氏が加勢に入った。大崎勢の激しい抵抗に攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて撤退を始めると、大崎勢は各所の城から出て猛変撃に転じたことで、伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。また留守政景の軍勢は雪原に孤立して危殆に陥ったが、黒川月舟斎は政景の舅であったことから、月舟斎の温情にすがって帰陣を許され、虎口を脱して千石城に戻った。新沼城に孤立した泉田重光、長江月鑑斎らは大崎氏に捕らえられ、大崎合戦は伊達勢の大敗で幕を閉じた。その後、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易となると、桑折城も廃城となった。

 桑折城は、鳴瀬川南岸の標高55m、比高30m程の丘陵上に築かれている。城域は、本城と出城の南楯と、大きく2つの区域に分かれており、本城は丘陵北端の東西に長い尾根上に築かれている。主郭は東のピークに築かれ、西・北・東の三方の尾根に曲輪群を連ねている。メインになるのが西尾根で、主郭の西に長い二ノ郭が続き、土橋の架かった堀切を介して三ノ郭、更に前面を小掘切で防御して四ノ郭群が連なり、西端は段曲輪群で登城道を防御している。四ノ郭群の北切岸には、内枡形虎口や畝状竪堀風な地形がある。一方、北尾根も第2の二ノ郭とも呼べるような長い曲輪であるが、北端は開発で削られてしまっている。東尾根には、片堀切を介して段曲輪群が連なっている。本城から南に堀切を介して尾根伝いに進み、ピークから東に降っていくと、東端のピーク上に南楯がある。2つの曲輪だけで構成された小規模な城砦で、いかにも出城という造りである。ピーク上に主郭があり、北東に舌状の二ノ郭が長く伸びている。主郭周囲には腰曲輪と虎口もあり、西尾根は堀切で分断している。以上の遺構がほぼ完存し、しかも館山公園として整備され、晩夏でも遺構の確認が全く問題なく出来る。主郭の城址標柱に「きれいな公園、郷土の誇り」と書かれているが、このきれいに遺構が残る城址公園は、まさしく郷土で誇るべきものであろう。予想以上に素晴らしい城址公園だった。
二ノ郭手前の土橋と堀切→IMG_1204.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.524499/140.950062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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千貫森楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1129.JPG←主郭下方の横堀
 千貫森楯は、歴史不詳の城である。伝承では早川民部の城であったと言われるが、詳細は不明である。

 千貫森楯は、鳴瀬川南岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は住宅地と高速道路に挟まれて独立丘陵の様になっているが、開発されるまでは南の丘陵地帯と繋がっていた。城址は千貫森桜公園となって整備され、登り道が付いているので、夏でも訪城可能である。頂部に小さな主郭を置き、南に小郭、更に堀切・土塁を介して南の曲輪に繋がっている。また主郭の北西にも出曲輪があるようだが、南の曲輪ともども削平が甘く、どれほど曲輪として機能していたのかよくわからない。一方、主郭の南東斜面には前述の堀切から繋がる形で円弧状に横堀が穿たれている。よく見ると、横堀の起点には枡形空間があり、枡形虎口を形成していた様である。またこの枡形の下方には腰曲輪が築かれている。従ってこの横堀は、実は城内通路を兼ねた塹壕であったことがわかる。小規模な城砦で、主郭には給水設備、南曲輪には鉄塔が建っていて改変を受けているが、遺構は比較的よく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.519983/140.931094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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駒犬城(宮城県塩竈市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1063.JPG←腰曲輪状の墓地
 駒犬城は、岩切城主留守氏の支城である。古くは駒崎城とも呼ばれたらしく、南北朝期の1351年に観応の擾乱の余波で奥州管領であった吉良貞家・畠山国氏両氏が戦った際、吉良氏が「駒崎」に在陣していたことが『余目記録』の記述から知られており、『日本城郭大系』ではこの駒崎が駒犬城のことであろうと推測している。その後、留守氏の重臣佐藤氏が城主となり、城主の名として佐藤左近・佐藤信高が伝えられている。また、塩竈神社の明応六年(1497)銘の鐘に佐藤宗高の名が見られ、信高の一族と推測されている。戦国期に、伊達晴宗の3男政景が留守氏に入嗣した際には、駒犬城主佐藤太郎左衛門は村岡氏らと共に強く反発し、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。この時、駒犬城も落城し、以後廃城になったと思われる。

 駒犬城は、塩釜港の南西にある比高30m程の独立丘陵上に築かれている。眼下の塩釜市街地は多くが埋立地であり、往時は内湾に突き出た岬だったと推測され、寺ヶ崎と呼ばれたと言う。東園寺の裏山に当たり、現在城内は全て墓地に変貌している。頂部は南北に長い平場となっているが、外周には数段の腰曲輪状の平場があり、やはり墓地に変貌しているものの、往時の腰曲輪の名残と推測される。改変が激しいので、腰曲輪らしい地形しか確認できないが、墓地の入口には城址の石碑が建ち、城があったことをわずかに伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.315245/141.021731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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今泉城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0819.JPG←堀跡の道路と郭内への傾斜
 今泉城は、天正年間(1573~92年)に国分氏の家臣須田玄蕃の居城であった。築城年代は定かではなく、発掘調査では鎌倉後期から南北朝期の陶器が出土しており、その時期まで築城時期が遡るのかどうか、考究が待たれている。
 今泉城は、名取川北岸の平地に築かれた城で、現在住宅地となっている。遺構はほぼ湮滅しているが、堀跡が円弧状の道路になっており、概ねその形状を追うことができる。道路から郭内に向かって僅かに高くなっていることからも、道が堀跡であることがわかる。また堀跡と思われる水路も残っており、朧気ながら城の痕跡を追うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.210332/140.928047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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北目城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0807.JPG←城址付近の現況
 北目城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。茂ヶ崎城主粟野大膳が北目城に移り、天正年間(1573~92年)まで居城した。1600年の関ヶ原合戦の際には、南の上杉景勝と対峙するための伊達政宗の拠点とされた。後に伊達氏家臣屋代勘解由兵衛が置かれたと言う。平成4~5年の発掘調査によって、江戸時代初期の障子堀が確認されており、堀の上幅10~14m、深さ3m以上あったと言う。障子堀ということは、小田原の役の後に北条氏の築城技術が全国の城に導入された一環であろうから、小田原の役後に改修を受けたと推測される。

 北目城は、広瀬川南岸の微高地に築かれた城である。微高地の先端近くに築かれたと考えられ、「館ノ内」などの地名が残っているが、遺構は早くに失われたらしく、昭和20年代の航空写真では既に明確な遺構は確認できない。広い車道の脇に解説板があるのが、城跡を伝える唯一のものである。この解説板に「この遺跡の現状を変えようとするときは・・・」の注意書きがあるが、ここまで何もないと虚しく聞こえてしまう。勿論、前述の障子堀の様に地下には遺構が眠っているのであろうが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.223280/140.897341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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多賀城(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0353.JPG←政庁まで伸びる南大路の跡
 多賀城は、多賀柵とも呼ばれ、律令国家によって造営された陸奥国府である。奈良時代前半に創建され、国府であると共に鎮守府としての機能も有した古代城柵でもあった。多賀城碑の碑文と発掘調査の結果などから、4期に渡る変遷と次の歴史が明らかになっている。即ち、多賀城の創築(第1期)は、724年、按察使兼鎮守将軍の大野東人による。第2期は762年、藤原朝獦により大改修が施された。しかし780年に伊治公呰麻呂の乱で焼き討ちにあって焼失した。その後再建され(第3期)、802年、征夷大将軍坂上田村麻呂によって北方に胆沢城が新たに築かれると、鎮守府機能は多賀城から胆沢城に移された。869年の貞観大地震で多賀城は破壊を受け、城下には津波が押し寄せて1000人以上が溺死したと言う。被災後に復興されたが(第4期)、10世紀半ばには城柵としての機能を失った。
 古代城柵としての歴史はここで一旦終りを迎えるが、その後の前九年の役・後三年の役でも軍事拠点として使用された。1333年の建武の新政では、後醍醐天皇の命により北畠顕家が陸奥国司・鎮守府大将軍に任じられ、皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、父北畠親房と共に多賀城に下向して奥州府を統治した。しかし発掘調査ではこの時期の遺構は確認されておらず、南北朝期の陸奥国府の正確な所在は不明である。尚、作貫地区では中世の豪族の居館跡が検出されており、建武期の奥州府がここに置かれた可能性もあるのではないだろうか。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、南北朝の抗争が始まると、多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。その後、奥州探題として入部した大崎氏が大崎地方を本拠とするようになると、多賀城は歴史から姿を消した。

 多賀城は、現在国指定の特別史跡として整備されている。砂押川と加瀬沼の間にある丘陵一帯を城域に取り込んだ広大な城柵で、外周には築地塀の跡が土塁状の高まりとなって延々と残り、北東部には東門跡、南面には南門跡が発掘復元(基壇のみ)されている。また中央には政庁跡があり、やはり基壇などが復元整備されている。そこから谷戸を挟んだ東の丘陵上(作貫地区)には古代の役所跡とともに中世の豪族居館も確認されており、広い城柵内でここだけ、土塁と空堀が残っている。江戸時代にはここに、鹽竈神社の神官の屋敷も置かれていたらしい。外郭南西部には西門もあったようだが、そこは民有地のせいか整備されていない。この他では、城内の石敷き道路や、政庁跡から南門を貫通して一直線に南に伸びる大路も復元整備されている。城内は起伏に富んだ丘陵地で、宮沢遺跡と同様な構想で作られていることがわかる。私は、古代城柵フリークではないので、あまり強い感慨は抱かなかったが、日本古代史好きの人には必見の史跡であろう。日本三古碑の一つである多賀城碑も必見。
外郭北東の隅櫓跡→IMG_8686.JPG
IMG_8734.JPG←作貫地区に残る空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.306574/140.988386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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小曾沼城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8666.JPG←城址とされる高玉神社
 小曾沼城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。北にわずか600m程しか離れていない一名坂城と共に、一体となって機能したと見られ、その経緯は一名坂城の項に記載する。結局大河戸一族は、頽勢が濃くなると一名坂城・小曾沼城に立て籠もってこれを死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方の吉良貞家の軍勢に攻略され、大河戸氏の本拠山村城も陥落したと言う。
 小曾沼城も一名坂城と同様、その位置は明確ではないが、現在の高玉神社付近にあったのではないかと推測されている。なんでも、城名も元は「獺(カワウソ)の住む沼(獺沼)」の転訛だとのことだそうだが、往時の地形は七北田川の氾濫等で変わってしまっているらしい。『泉市史』では「高玉稲荷社が、小曾沼の城跡に営まれたものとの伝承がある」と記載しているそうだ。周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもない。推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に七北田川の渡河点を押さえる出城であったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.317720/140.891955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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一名坂城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8662.JPG←城址推定地南の傾斜地
 一名坂城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。大河戸氏は武蔵大河戸氏の後裔で、源頼朝の奥州合戦の軍功により陸奥国宮城郡山村の地を賜った。南北朝期には山村城(山邑城)を本拠とし、一名坂城・小曾沼城を出城として築いていた。室町幕府の内訌「観応の擾乱」が生起すると、それにつけ込んで各地の南朝方が一斉に反攻を開始し、大河戸氏も南朝方に付いて皇子山村宮を奉じ、北朝方の吉良貞家と交戦した。1352年、宇津峯宮を奉じた北畠顕信も、北朝方を打ち破って進軍し、国府多賀城の奪還に成功した。しかし、翌年には吉良貞家は勢力を盛り返し、多賀城を攻撃した。多賀城救援のため大河戸一族と共に出撃した山村宮は、北朝方の優勢な軍事力の前に討死し、多賀城は再び北朝方の手中に帰した。宇津峯宮・北畠顕信らは宇津峯城に逃れて抗戦を続けた。山村宮の討死後、大河戸一族は一名坂城・小曾沼城を死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方に攻略され、更に本拠の山村城も陥落したと言う。

 一名坂城は、その位置は明確ではないが、現在の七北田小学校付近にあったのではないかと推測されている。位置も明確ではないぐらいであり、しかも周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもないが、推定地付近は七北田川北岸の丘陵地で、大きな傾斜地の上にあり往時は要害であったことが伺える。また推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に渡河点を押さえる交通の要衝であったことも伺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.322602/140.892448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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師山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8631.JPG←主郭北東角の隅櫓の張り出し
 師山城は、大崎氏の重臣渋谷弥三郎の居城と伝えられている。一説には、大崎氏2代直持が師山城を居城として勢力を拡大したとも言われる。1534年、大崎氏家中で「天文の内乱」が生起し、新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢氏らと共に主君大崎義直に反旗を翻すと、義直は自力で叛乱を鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を仰いだ。請いを容れて大崎領内に進軍した稙宗は、師山城を拠点として反義直勢力の拠点古川城を攻撃したと言う。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。結局攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて大敗した。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 師山城は、城山と呼ばれる微高地にあった。周囲を小河川の流れる低湿地帯に囲まれ、そこに半島状に突き出した低台地を利用した城であったと推測され、標柱の東にある段々の高台となった畑地は主郭の遺構と思われる。昭和20年代の航空写真と見比べると、現在とほとんど地形が変化していないので、おそらく往時の形状をかなり留めていると思われる。主郭の周囲には腰曲輪の他、隅櫓の張出しまで確認できる。主郭に繋がる台地基部ももちろん城域だったと思われるが、そちらは現在は宅地化で改変され、遺構は確認できない様である。遺構として明瞭なのは主郭部だけであるが、往時の雰囲気は感じられる。
主郭南西部の湾曲する塁線→IMG_8652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.544708/140.977356/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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新沼城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8594.JPG←主郭跡とされる稲荷神社
 新沼城は、大崎氏の家臣遠藤掃部と上野甲斐の居城と伝えられている。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、中新田城を包囲攻撃したが、守将南条下総守の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。大敗した伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月監斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立し、新沼城に孤立していた伊達勢は引き揚げを認められたと言う。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 新沼城は、東北道のすぐ西にある下沖集落に位置している。集落中央付近の畑地の中に建つ稲荷神社付近が主郭とされ、その周辺の東西120m、南北100m程の範囲に主郭が拡がっていたとされる。城内は宅地や耕地に変貌して、遺構は完全に湮滅している。主郭付近はわずかに微高地となっているが、改変が激しく輪郭もはっきりしない。辛うじて堀跡と思われる水路が残っているだけである。稲荷神社脇に城址標柱がなければ、誰もここが城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.540278/140.926867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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中新田城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8588.JPG←神社裏に僅かに残る主郭土塁
 中新田城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏の事績については名生城の項に記載する。斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)となって奥州に下向し、最初に居城としたのが中新田城とも言われている(一説には師山城が最初とも)。その後大崎氏は居城を幾度か移したと見られ、12代大崎義直と13代義隆が中新田城を居城としたとされている。しかし義隆の時に名生城に居城を移したと言われ、その後は家臣南条下総守が城代として居城したと言う。1588年に大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。南条下総守は中新田城に籠城し、留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢を迎え撃った。伊達勢は中新田城を包囲したが、南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、大崎氏は小田原不参の故を以って改易され、中新田城は廃城となった。藩政時代には2代仙台藩主伊達忠宗が領内巡察の際、城址に仮り舎を設けたことから「御仮屋」と呼ばれた。

 中新田城は、加美町市街北東の国道347号線と457号線が接続する交差点を中心とする一帯にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、方形の主郭とその周りの堀跡が確認でき、更に外郭東側の外堀跡も明瞭であるが、現在はほとんど完全に湮滅している。残っているのは、多川稲荷神社の裏の主郭南東角の土塁と北側の外堀跡の水路ぐらいである。つい数年前まで主郭堀跡も低い畑になっていたようだが、それも現在では宅地となってしまっている。ほとんど城跡らしさを残さず、壊滅してしまっているのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.573703/140.859854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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狼塚城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8543.JPG←西辺部の土塁と堀跡
 狼塚城は、上狼塚館とも呼ばれ、大崎氏四家老の一人里見紀伊守隆成の居城である。紀伊守の名は大崎合戦でも現れており、斜陽の大崎氏を支えた武将の一人であった様である。
 狼塚城は、慈恩院の北側に築かれている。低地帯に浮かぶ微高地にあり、城内は宅地化が進んでいるが、城の西辺部は最もよく遺構を残しており、林の縁に土塁と堀跡が確認できる。どこかに城址標柱もあるらしいのだが、発見できなかった。尚、慈恩院には里見紀伊守の墓が建っているが、本当の墓は本堂の須弥壇の下にあると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/140.869639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茂ヶ崎城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8493.JPG←竪堀と推測される地形
 茂ヶ崎城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の居城と伝えられている。粟野氏は、元々越前を本拠としていたが、1342年に粟野藤三郎駿河守重直が軍功によって、足利尊氏から名取郡2千余貫を賜り、翌年茂ヶ崎城を築いて居を構えたとされる。その後6代国定は、文明年間(1469~86年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入った。粟野氏は北目城や沖野城を支城に持ち、一説には戦国後期には粟野氏の本城は北目城に移っていたとも言われる。伊達政宗時代の当主は大膳太夫重国で、伊達氏の重臣として活躍したが、1591年に政宗に抗したらしく、城を逐われ、重国は失意のうちに1623年に死去したと伝わっている。江戸時代には、城跡に仙台藩主4代伊達綱村によって大年寺が建立され、また無尽燈廟・宝華林廟の2つの墓所が造営されたため、多くの改変を受けた。

 茂ヶ崎城は、標高120m程の大年寺山に築かれている。前述の通り江戸時代に大きな改変を受けたため、どのような縄張りの城だったかはあまりわかっていない。東麓から大年寺の参道が伸びているが、途中に千人溜と呼ばれる平場がある。また参道から脇に伸びる小道を南に進むと、山腹を貫通する竪堀状の地形が見られるが、山上の堀状地形から伸びていることから推測して、遺構ではないかと推察される。遺跡調査報告書によれば、主郭は仙台放送のアンテナの建つ丘陵最高所にあったと推測され、その前後に空堀が残っているらしいが、未確認である。その他は丘陵上の改変が激しく、遺構は失われている。少々山容が大き過ぎ、前述の通り丘陵最高所が主郭であったとすると、かなり大型の山城ということになってしまい、粟野氏の勢力から考えるとやや疑問に思う。もう少し小型の城であったと推測するのが普通と思うが、現況と合わず謎が多い城である。
 尚、伊達氏の墓所の内、無尽燈廟は公開されているが、宝華林廟は未公開となっており、塀越しに僅かに望むことしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.237371/140.873029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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富沢館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8475.JPG←主郭の堀と土塁(ブルーシート部)
 富沢館は、この地の土豪山岸氏の居館であったと推測されている。史書には、天文年間(1532~54)に山岸肥前宗成が富沢邑に居住していたとされ、戦国時代に山岸氏の支配する村であったことが伝えられている。江戸時代には、入生田氏が富沢館に在郷屋敷を構えた。入生田氏の祖は清康で、その子元康は1636年に伊達政宗に殉死した。その後も、仙台藩士入生田氏の居館として続いた。

 富沢館は、環郭式の平城形式の居館である。新笊川をそのまま外堀に取り入れて、その南岸に築かれている。土塁と堀で囲まれた主郭の周囲に、外郭をぐるりと廻らしていた。ここ2~3年で、区画整理事業のために発掘調査が実施され、外郭は既に整地の重機類によって蹂躙されている。主郭は、半年前には辛うじて西側土塁と堀が、ブルーシートを掛けられたまま残っていたが、現在はどうなってしまったかわからない。既に全面的に破壊されているかもしれない。いずれにしても昭和20年代後半の航空写真ではきれいに残っていた環郭式の平城は、今や開発で風前の灯である。何とか保護の手立てを講じられなかったのかと悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.214632/140.861464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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川崎城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8457.JPG←二ノ丸の土塁と堀切跡の林道
 川崎城は、前川城とも呼ばれ、また藩政時代には川崎要害と呼称され、伊達21要害の一である。この地を領していた中ノ内城(前川本城)主砂金実常が、新たな拠点として1608~10年にかけて築城した。実常は大阪夏の陣に従軍して25貫加増され、伊達家一族の家格に列せられた。以後、砂金氏4代約90年に渡る居城となったが、砂金重常が1702年に病没すると、無嗣断絶となった。同年、宮床伊達氏の当主伊達村興が川崎要害に入り、20年間居住したが、1722年に再び宮床に戻った。同年、伊達綱宗の孫村詮が2000石で川崎要害を与えられて城主となり、伊達一門に列して川崎伊達家を創始した。そのまま川崎伊達家の居城として幕末まで存続した。

 川崎城は、北川の南岸に東西に連なる、比高20m程の丘陵西端部に築かれている。かなり単純な縄張りの城で、東西2郭から成り、先端に当たる西側が本丸で城主の居館があり、東側が二ノ丸で家中屋敷を置いていた。現在本丸は公園となり、二ノ丸は川崎小学校の校地と畑に変貌しており、遺構は湮滅が進んでいる。各曲輪は以前は土塁で囲繞されており、本丸東側の土塁の内側には空堀もあったとされるが、本丸については土塁も空堀も現在では全くわからなくなってしまっている。一方、二ノ丸も改変が進んでいるものの、畑となった東半分は遺構が残存し、城域東端の堀切が林道となって残り、この林道沿いに二ノ丸東辺の土塁がよく残っている。わずかながらも遺構が残り、地勢も往時のままなので、城の雰囲気は感じられる。また城の南方の市街地を貫通する道路には、城下町特有の鉤の手も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.179320/140.645385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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兵糧楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8386.JPG←二重横堀と竪堀の防御構造
 兵糧楯は、歴史不詳の城である。一説には、横尾兵衛という武士が城主であったとも言われることから、兵衛館とも呼ばれる。また別説では、志津摩信濃守(志津戸信濃守?)の居城であったともされる。一方、古代アイヌの「チャシ」ではなかったかとの説もあるほか、南東1.6kmにある西小屋館と関連する城砦との説も提示されている。いずれにしても、多くの謎に包まれた城砦である。

 兵糧楯は、標高228.5m、比高130m程の山稜上のピークに築かれている。山麓からの距離は長いが、幸い車道が城近くまで整備されており、至る所に案内板も出ているのであまり迷うことなく到達できる。非常に特異な形態の城で、北東面と南西面に二重の横堀を穿って防御した縄張りとなっているが、横堀は全周を囲繞しているわけではなく、北西と南東では切れてしまっており、中途半端な防御構造となっている。その一方で、南東には馬出し的な独立小郭が構築され、下方への防衛拠点となっていた様である。また東端部でも横堀沿いに馬出し的な小郭があるが、南東のものほど独立性が高くない。また東端付近は二重横堀に加えて2本の竪堀も穿たれ、これらの組み合わせにより巧妙な防御構造が構築されている。一方、城の中心となる主郭は、曲輪内がやや傾斜した削平の甘い平場で、外周に数段の帯曲輪を廻らしている。西側にも搦手と思われる虎口が築かれ、横堀と帯曲輪の段を貫通して主郭に通じている。全体としては卵型をした単郭の城砦であるが、全体として円形の構造など、確かにチャシっぽい印象を受ける。現地解説板にもある通り、古代の祭祀の場所が中世に地方豪族の合戦の砦に転用されて来たものの様に感じられる。夏場でも公園として綺麗に整備されており、特異な遺構と相俟って非常に興味深い。
南東の独立小郭→IMG_8361.JPG
IMG_8390.JPG←北東辺の二重横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.137223/140.677807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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勝岡城(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8326.JPG←切岸と大手道跡の車道
 勝岡城は、後に平沢要害とも称され、伊達21要害の一である。伝承では、1402年に国分河内入道が伊達氏よりこの地を賜ったものとされている。また一説には、1591年頃に越後上杉氏の部将甘糟備後守が築城した城とも伝えられるが明確ではない。城の歴史がはっきりするのは、この地が伊達領に復してからで、慶長年間(1596~1615年)末に、伊達家の着座衆の一家、高野家15代光兼が百貫文で平沢を賜り、家中70余を引き連れて伊具郡丸森郷よりこの地に移住し、平沢要害を整備したと言う。その後高野家は9代200余年にわたってこの地を領し、幕末まで存続した。

 勝岡城は、平沢地区の比高20m程の丘陵上に築かれている。往時は、本丸と二ノ丸を土塁で囲み、南方には広く堀を巡らし、家中足軽等の屋敷を区別した約100戸の城下町を形成していたらしい。しかし城地が良質珪藻土の産地だったことから、明治末期から採掘されてしまい、平沢要害を含む丘陵部が根こそぎ破壊されてしまっている。現在は残った丘陵上に公民館が建ち、城跡の石碑と解説板が建っているが、前述の通り地形は大きく変えられてしまっているらしい。従って、車道沿いに見られる切岸地形も、どこまで往時の形状を残しているかは不明である。しかし南の屈曲する車道は、往時の大手道の形状をそのまま残しているようで、それから考えれば東側の斜面は切岸がそのまま残っている可能性がある。一方、広場になった丘陵西側の低地は、珪藻土採掘で削平された跡である。以上の様に、かなり城の遺構は失われており、現状では城の形状を把握するのも困難な残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127062/140.681155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西小屋館(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8296.JPG←土塁と堀跡
 西小屋館は、江戸時代の文献によれば、志津戸信濃守の家臣村上左近という武士の居館と伝えられている。真偽不明であるが、いずれにしてもその遺構から考えれば、中世の国人領主の居館であったと考えられている。また北西1.6kmの丘陵上により要害性の高い兵糧楯(館)があり、それとの関連も指摘されている。

 西小屋館は、周囲を丘陵に囲まれた小盆地の中央付近に位置する居館である。現在館跡は民家になっているが、民家の裏側に当たる西側から北側にかけて、土塁と堀跡が残っており、また南側と東側にも堀跡が一段低い水田となって残っている。平成4年に発掘調査が実施されており、五角形の土塁と堀で囲まれた城館で、更にその西側に区画溝のある外郭があって、家臣の屋敷跡と思われる建物跡も検出されている。
 尚、西小屋館のある小盆地を囲む馬蹄形の周辺丘陵には、「~屋敷」という地名があちこちに見られ、西小屋館を中心にして居館群が形成されていた可能性もある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.125881/140.689673/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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村田城(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8182.JPG←本丸背後の横堀
 村田城は、伊達氏の家臣村田氏の居城である。伝承では、室町中期の嘉吉年間(1441~44年)に、下野の名族小山氏の一族小山九郎業朝が下野国小山郷よりこの地に移住し、村田氏を称して伊達氏の家臣となり、館を築いたとされる。6代紀伊守近重は、伊達氏の内乱「天文の乱」の時、晴宗方に付いた。近重には嗣子がなく、伊達稙宗の9男宗殖を養子として跡を継がせた。宗殖は後に仏門に入り万好斎と号したが、1591年12月に領地を没収され、桃生郡長井に移った。尚、同年9月には、ここで伊達政宗の庶子秀宗(後の宇和島城主)が生まれている。その後、村田郷は伊達家の直轄領(御蔵入地)となり、城代として家臣の後藤三郎右衛門が置かれた。その後、1605~12年は伊達一門の石川昭光が在城した。1613年、政宗の7男宗高がわずか7歳で村田城主となり、3万石を領したが、1626年に20歳の若さで天然痘で病死した。宗高の時代に一国一城令で城の名を除き、村田館となり、宗高の死後、再び伊達家直轄領を経て、1629年に奥山大学常良が館主となった。その後、度々の館主の変遷を経て、幕末まで存続した。

 村田城は、村田町役場と村田第一小学校の背後にある標高54m、比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は城山公園となっており、ほとんどの部分が綺麗に整備されており、夏場でも訪城可能である。但し公園化の代償として、一部改変を受けている。V字状の丘陵頂部に方形に近い形状の本丸を置き、周囲には腰曲輪、南東尾根に二ノ丸、北東尾根に三ノ丸を築いている。本丸の西端には大土塁が築かれ、背後には延々と横堀が穿たれている。この横堀は、本丸西側の腰曲輪の背後まで続き、堀切に合流して終わっている。堀切にほど近い部分には竪堀も見られる。堀切は、城の北西続きの尾根上に2本穿たれ、2本の間の曲輪には現在乾八幡神社が鎮座している。V字の尾根の間の低地には居館が置かれていたことは、容易に想像がつく。現在の町役場・小学校の位置に当たる。往時はここに大手門があったが、門だけ近くの願勝寺に移築されている。縄張りとしては大した技巧性はなく、基本的には腰曲輪群で構成された素朴な縄張りの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.118436/140.720766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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岩出山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7371.JPG←北辺の大きな横堀
 岩出山城は、伊達政宗の左遷城として知られる。元の名は岩手澤城と言い、奥州探題大崎氏の重臣氏家弾正が応永年間(1394~1427年)に築城して居城としたと言われている。氏家氏は、下野の名族宇都宮氏の庶流で、下野を本領としていた。その一族氏家重定が越中に移り、その後、南北朝初期に斯波氏の麾下で活躍し、斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)として派遣された際に、家兼に従って重定の一族氏家弾正詮継が監司として奥州に下向したと言われている。詮継の名は、確証はないが足利尊氏の嫡男で2代将軍となった義詮の偏諱であろうから、足利尊氏・義詮父子に相当近い位置にいたと思われる。いずれにしても奥州下向後に斯波氏(大崎氏)の重臣となって活躍した。ちなみに家兼の次男兼頼が羽州探題として山形に移った時も、氏家氏の一族が執事となって同行し、後の戦国後期に最上義光の側近中の側近、氏家守棟を輩出している。奥州氏家氏の当初の居城は杉ノ沢館であったと言われ、前述の通り応永年間(1394~1427年)になって岩手澤城を築いて居城を移したとされる。1534年、大崎氏家臣で泉沢城主新田安芸頼遠が大崎義直に反乱を起こすと、氏家直益は新田方に与した。義直は伊達稙宗に援軍を求め、1536年にようやく反乱軍の最後の拠点岩手澤城を落とし、乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びて、反乱を平定した。1586年、大崎義隆の寵童、新井田刑部と井場野惣八郎との争いを発端に、再び大崎氏家中の内乱が発生した。新井田刑部は義隆を拉致して名目を固め、井場野惣八郎を保護した氏家弾正吉継を討とうとした。窮した吉継は、片倉景綱を介して伊達政宗に援軍を要請し、大崎合戦と呼ばれる伊達勢による大規模な軍事介入を誘発した。伊達勢は大軍であったが、急な大雪によって大敗し、氏家氏も岩手澤城から出撃したものの伊達勢と合流できずに終わった。その後、大崎氏と伊達氏との間で和議が結ばれた。1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、氏家氏は伊達氏に仕えた。大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられ、木村氏の家臣萩田三右衛門が岩手澤城主となった。三右衛門は暴政を行い、一揆蜂起で殺害された。これが発端となって葛西大崎一揆が発生した。一揆鎮圧後、1591年に伊達政宗は米沢領を没収され、替わって大崎・葛西の旧領を与えられた。この時、奥州にいた徳川家康は、豊臣秀吉の命を受けて岩手澤城に入り、政宗のために榊原康政に縄張りさせて城を改修し、政宗は岩手澤城に居城を移した。そして城の名を岩出山城に改めた。以後、12年に渡ってここを居城としたが、実際には京に居たり、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に居たりと、実際の在城期間は通算で数ヶ月に過ぎず、政宗不在の間は屋代景頼が代官として統治した。関ヶ原合戦の後、政宗は1603年に仙台城を築いて居城を移した。その後、4男宗泰を岩出山城主とした。元和の一国一城令で城の名を去って岩出山要害と称し、そのまま岩出山伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 岩出山城は、標高107m、比高50mの城山一帯に築かれている。馬蹄形をした山稜全域を取り込んだ広い城域を有している。政宗の居城として有名なので、ほとんどの部分が城址公園として整備されている為、返って公園化による改変を受けてしまっている部分も多い。中世城郭と近世城郭の過渡期の縄張りを持つ城で、東の山稜上に長い本丸を置き、南に出丸、本丸の西側下方に二ノ丸を置いている。出丸の背後には土橋の掛かった堀切があり、大土塁と虎口が築かれて本丸に通じている。この虎口は「内門」と呼ばれ、脇に見られる石垣は遺構であるらしい。南出丸から一旦二ノ丸に降り、その南の先にも堀切を介して曲輪が2段連なっている。特に下の曲輪は土塁を伴って広い。二ノ丸は何段かに分かれた細長い曲輪であるが、公園化による改変が多く、往時の形状がわかりにくい。二ノ丸の北にも堀切を介して外郭が広がっている。外郭は城内最大の曲輪で、南端には八幡平という出丸があり、土壇に祠が祀られている。これは家康が縄張りした際に使用した器具類を埋めたものと伝えられている。外郭には北辺に延々と土塁が築かれ、その北側下方に大きな横堀が穿たれている。外周の横堀による防御構造などは、伊達氏の城らしい特徴と考えられる。また堀切を介して北にも出曲輪が確認できる。馬蹄形の山稜の内側は、現在小学校と高校が建っているが、広い内古屋で、近世の主殿が建っていたことは想像に難くない。一方、本丸の東斜面にも現在駐車場になっている曲輪が広がっている。さすがに岩出山城は、一時期とは言え近世の大大名が本拠とした城だけあって、見どころが多い。ただ欲を言えば、公園内に遺構の標柱などがなく、城の知識のない人には何が何だかさっぱりわからないだろう。もう少し丁寧な案内があればと思った。それはともかく、もう数年前から行こう行こうと思っていた念願の城に、ついに行くことができたので嬉しい限りであった。もう一度、藪のない時期に行ってみたい。
内門の大土塁と石垣→IMG_7257.JPG
IMG_7368.JPG←外郭の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.655706/140.862665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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名生城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7208.JPG←内館周囲の空堀
 名生城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏は、足利氏の庶流斯波氏の流れをくむ名門で、南北朝時代に越前守護として活躍した斯波高経の弟家兼が、奥州を押さえるために下向したことに始まる。斯波氏は、鎌倉時代には足利尾張家と称され、足利の姓を名乗り、足利一門の中でも最高の家格を持っていたが、尊氏が将軍となって室町幕府を開くと、足利の名乗りを禁じられて斯波氏を称したと考えられている。後に3代将軍足利義満が幕府の典礼を定めた際に、斯波氏は三管領家の一つと定められた。一方、家兼は、幕府草創期は若狭守護に任じられ、越前守護の兄高経と協力して新田義貞を滅ぼすなど功績を挙げたが、足利一族の内紛、観応の擾乱が生起すると足利直義方に付いた高経と袂を分かち、尊氏方として活躍した。この頃奥州には、既に奥州管領(後の奥州探題)として尊氏派の畠山国氏、直義派の吉良貞家が派遣されており、1351年、観応の擾乱の余波で岩切合戦が起こり、畠山国氏は吉良貞家に攻められて岩切城で討死した。その2年後に貞家が没すると、幕府は斯波家兼を新たに奥州管領として派遣した。しかし、畠山氏の遺児国詮が管領を主張して活動を始め、奥州総大将だった石塔義房の子義憲が鎌倉から奥州に入り、また吉良貞家の跡を継いだ吉良満家も管領を主張し、いずれも足利一族の四管領が並立するという、混沌とした状況となった。しかし斯波氏が最終的に勝利を収め、唯一の奥州探題となった。そして大崎五郡を支配して大崎氏を称し、奥州の大名・国人衆への室町将軍の命令や幕府の賦課の徴集などは全て大崎氏を通じて行われ、奥州の支配権力の頂点に位置していた。また家兼の次男斯波兼頼は羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として出羽に移って最上氏の祖となり、出羽へもその影響力を保持した。しかし大崎氏の支配力は決して盤石ではなく、依然として奥州の有力大名・国人衆は独立性を保っていた。戦国時代になると南の伊達氏が勢力を伸ばし、一方、大崎氏は一族・家臣の内紛で勢力を弱めた。1525年に伊達稙宗が陸奥守護に任じられると、奥州探題の権威は完全に失墜し、大崎氏は一地方大名と化した。戦国末期には重臣の争いが元で伊達政宗による干渉を許し(大崎合戦)、伊達勢を撃退したもののその凋落は覆うべくもなかった。結局、1590年に豊臣秀吉の奥州仕置によって、小田原不参の故を以って改易された。その後、旧臣達が葛西大崎一揆を起こしたが鎮圧され、葛西・大崎領が伊達政宗に与えられると、大崎氏再興の夢は完全に潰えた。

 この様に大崎氏は改易されてしまったため、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の居城についても必ずしもはっきりしていない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、名生城の他にも師山城中新田城・小野城などが居城であったと言われ、大崎五御所などという名も伝えられているが、諸説あってはっきりしないのが実情である。現地解説板によれば、葛西大崎一揆後に政宗に岩出山城を引き渡すために派遣された徳川家康が名生城に立ち寄ったとされ、その後の文献に現れなくなった事から、間もなく廃城になったと考えられている。

 名生城は、渋井川西岸の段丘上に築かれている。城内は、大館・小館・内館・北館・二ノ構・三ノ構・軍議評定所丸の7郭に区画されている。殆どの部分が耕地化で改変され、それ以外は宅地化されているなど、遺構の残存状況はかなり断片的である。それでも道路沿いに堀跡の水田が見られ、また軍議評定所丸等の土塁も一部に残存している。一番良好に残っているのは、内館周囲の空堀で、薮の中に往時そのままの姿を残している。冬場に探せば、もう少し遺構が確認できるかもしれないが、おそらくいずれも断片的であろう。歴史とともに遺構も多くが失われているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.611774/140.895710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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宮沢遺跡(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7133.JPG←中腹の土塁と堀
 宮沢遺跡は、東北自動車道建設に伴う発掘調査で新たに発見された大規模な古代城柵である。発掘遺物の分析などから奈良時代には存在していたと推測されており、律令国家が東北地方経営のため築いた城柵の一つと推定されている。しかし文献に残るどの城柵に該当するのかは明らかではなく、その歴史はほとんど謎に包まれている。起伏に富んだ丘陵地をまたいで構築され、全形はやや歪んだ長方形で、東西1400m、南北850mもの規模に及び、東日本の古代城柵としては最大規模のものである。東北地方の古代史の解明のためには欠くことのできない重要な遺跡とされている。

 宮沢遺跡は、東北自動車道が縦貫する、化女沼南西の丘陵地一帯に築かれている。特に東北道の東西の「愛宕山地区」は綺麗に発掘整備されていて、遺構をよく見ることができる。丘陵中腹に二重に土塁(築地)を築き、内側を横堀状にしており、古代でも築城技術の基本はあまり中世のものと変わらない印象を受ける。また東北道東側では、発掘された建物跡も明示されている。この遺跡は、まったく予備知識がない状態で、宮沢城まで行ったついでにたまたま寄っただけであったので、まさかここが東日本最大の古代城柵で、もっと広範囲に遺跡が残っているとは知らなかった。また古代城柵というと、志波城など平城の印象が強く、丘陵上の古代城柵に行ったのはこの時が初めてだったので、どういう構造なのかもはっきりと理解することができなかった。いずれ折を見て再訪してみたい。
建物群の跡→IMG_7146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.626493/140.947788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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