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桃生城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6210.JPG←北の外郭の土塁跡
 桃生城は、律令政府が758年に造営を開始し、760年に完成し、その後774年に海道の蝦夷による攻撃を受けた古代城柵である。発掘調査の結果、外周を築地塀などで囲み、中央やや東寄りに政庁、その西側に官衙地区が設けられていることが判明している。これらはいずれも同時期と見られる火災で消失し、その後復興されていないことから、『続日本記』に記載されている海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因と考えられている。8世紀後半の、わずか15年程の期間しか存続しなかった城柵である。

 桃生城は、標高70m程の丘陵地に築かれている。私が訪城した「丘陵地に築かれた古代城柵」としては、宮沢遺跡に続き2例目である。しかし宮沢遺跡のような本格的な堀などの防御施設はなく、外周を築地塀・土塁と櫓で防御していただけらしい。また桃生城は、古代城柵としては異例の未整備状態で、訪城した際、たまたま行き会った古代城柵巡りをしている中年のご夫婦が、「ここは最悪」と愚痴っていたほどである。普通は復元整備するか、それほどでなくとも散策路を整備して、政庁跡などを簡易的な表示で示すかするものだが、ここでは中心の政庁跡は藪で冬でも進入不能、西側官衙地区に至っては到達することすら不可能。北辺の築地塀の土塁だけは、わずかな踏み跡程度の小道が通じており、土塁の跡がわずかに示されているが、帰りに暗くなってきたら小道が見えなくなって危うく迷いそうになったぐらいである。史跡の整備状態としてはホントに最悪で、さすがにこれは行政当局でもう少し考えた方が良いのではないかと感じた。
政庁跡の現況→IMG_6203.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.533430/141.277485/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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七尾城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5955.JPG←腰曲輪上に屹立する三ノ郭
 七尾城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の最後の居城と言われている。山内首藤氏の事績については、大森城の項に記載する。山内首藤氏が最終的に七尾城に本拠を移した時期は不明であるが、永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子が石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた時には、七尾城が本拠となっていたとされる。当時の七尾城は三方を水に囲まれた要害で、葛西勢は総力を挙げて攻撃したが攻略できず、最後は兵糧攻めによって陥落し、山内首藤氏は没落した。その後、七尾城には葛西氏の一族葛西守重が入った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易されると、七尾城は廃城になった。

 七尾城は、北上川北岸に連なる丘陵群の一つ、標高80mの山上に築かれている。大きく3つの峰に曲輪群が築かれており、東の高い峰から順に主郭郡・二ノ郭群・三ノ郭群とされている。これらの曲輪群は、それぞれのピーク上に主体となる曲輪を置き、その外周に腰曲輪を数段廻らし、さらにそれぞれのピークから北西に伸びる尾根に沿って舌状曲輪を配置した構造で、一城別郭の縄張りとなっている。私は三ノ郭西側の谷戸に小道が付いていたので、そちらから南面の尾根筋まで至り、そこから西から順に城内を巡った。三ノ郭は比較的藪が少なく、山の手入れもされているので、遺構の確認がし易い。三ノ郭西側に浅い横堀を備えた腰曲輪を築き、北西尾根には二重堀切を穿ち、更に舌状曲輪を配している。舌状曲輪側方にも帯曲輪を築いている。次の二ノ郭群は、地形上の制約からか曲輪群の規模は小さい。また藪も多く、遺構が見づらい。基本的にはピーク上の二ノ郭と外周の腰曲輪、更に北西尾根に数段の段曲輪が置かれている。二ノ郭群と主郭群の間は、高低差の大きな斜面・鞍部で分断されており、二ノ郭側はこの斜面に何段もの腰曲輪群を築いている。鞍部は平場になっており、谷戸を登ってくる大手道に繋がっている。主郭は、ここから数段の腰曲輪を経由した上にあり、途中には浅い堀切と土橋もある。主郭内は僅かな段差で3段ほどに区画されている。主郭の外周も数段の腰曲輪で囲繞され、急峻な南側では幅が狭まって武者走り状になっている。主郭群も北西尾根に舌状曲輪が伸びており、先端を急峻な中規模の堀切で分断し、更にその下方にも舌状曲輪がある。主郭群と二ノ郭群の間の谷戸には、大手門の跡が残り、門跡の土塁が明瞭である。
 七尾城は、全体に旧態依然とした縄張りで、見た限りでは大森城の方が新鋭の山城である。また大森城の方が本城にふさわしい規模を誇っているので、山内首藤氏が居城を七尾城に移したというのは少々疑問に感じた。相当追いつめられたものか、或いは、大森城の方は葛西氏時代の戦国後期に大改修されたのかもしれない。
三ノ郭群の二重堀切の1本目→IMG_5977.JPG
IMG_6129.JPG←主郭群の堀切
谷戸の大手門跡→IMG_6168.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528646/141.344240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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大森城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5750.JPG←主郭北側の横堀
 大森城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の居城である。山内首藤氏は、後三年の役以来、源氏に恩顧のある家柄であったが、源頼朝が石橋山で挙兵した際、山内首藤経俊は母が頼朝の乳母であったにも関わらず平家に味方したばかりか、頼朝に対して矢を放ったため、頼朝が鎌倉を制圧すると斬首されそうになったが、老母の助命嘆願で助けられた。その後は頼朝に従って軍功を挙げ、御家人の列に連なった。奥州合戦にも従軍して、その功によって桃生24郷を拝領したのが、山内首藤氏が奥州に地歩を築く契機となった。後に山内首藤氏の嫡流は備後に移ったが、庶流が桃生郡に下向してこの地を支配した。奥州入部の時期は不明であるが、鎌倉末期から南北朝期頃に掛けては永井城を本拠に勢力を伸ばし、その後、大森城に居城を移して大勢力に成長した。大森城を本拠としたのは、南北朝期から室町中期(1350~1500年)頃と推測されている。この時期が、山内首藤氏が最も勢力を拡大した時代であったとされる。山内首藤氏の最終的な居城は、七尾城であったと言われるが、七尾城に移った時期は不明である。永正年間(1510年頃)に首藤貞通・知貞父子は、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の攻撃を受けた。葛西氏は総力を挙げて攻撃したが、大森城・七尾城は陥落せず、やむなく兵糧攻め・長囲の計をめぐらしたため、遂に落城し、山内首藤氏は没落した。その後の桃生郡は葛西領に併呑され、大森城には葛西氏の家臣男沢氏が入城したと言う。

 大森城は、標高70m程の大森山という独立丘陵に築かれている。丘陵全体を城とした、規模の大きな山城で、山内首藤氏の勢威を感じさせる堂々とした造りである。中心に主郭を置き、西尾根に二ノ郭、東尾根に三ノ郭と東郭、北尾根に北郭を配している。主郭は南に内枡形の虎口を築き、虎口を守る櫓台などには石積みが散見される。主郭内は僅かな段差で東西に区画され、東部分は更に南北に区画されている。この内、北東部が一番高い位置にあり、主殿があったものと推測される。主郭外周には土塁が築かれ、主郭南辺では塁線に横矢掛かりが見られる。主郭外周は腰曲輪が築かれ、東・北・西の三面には切岸の下に横堀が穿たれて防御を固めている。この横堀は主郭東側の南端部では竪堀となって落ちている。二ノ郭周囲には幾つもの腰曲輪が築かれ、三ノ郭の先の東郭の基部には堀切が確認できる。この堀切も南端で竪堀となって落ち、竪堀の両側に腰曲輪が築かれている。以上の様に遺構はよく残っているが、城内は全体に藪が多く、歩いて回れない程ではないが遺構の確認は少々しづらい。南西麓に解説板があり、その先を直登したが、明確な道はなく、とにかく上を目指して登っていくしか無いが、主郭付近は普請の規模が大きく、見応えがある。石積みや桝形虎口などの遺構から考えると、戦国末期まで使用された大型の城だった様である。もう少し整備されていると、素晴らしいのだが。
主郭の横矢掛かりの切岸→IMG_5851.JPG
IMG_5862.JPG←櫓台を備えた主郭枡形虎口
東郭の堀切→IMG_5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.501044/141.320958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中沢楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5660.JPG←段々になった曲輪群
 中沢楯(中沢館)は、歴史不詳の城である。勢力圏から考えれば、葛西氏の支配領域であることから、葛西氏の家臣の本拠であったことは想像に難くない。現地解説板によれば、戦国末期の1588年に葛西晴信が中沢左近之丞宛に、元南曲輪内にあった中沢神明社に対する「御立願之事」という願文を送っていることから、この中沢氏であったと推測されている。

 中沢楯は、人石山の裾野が大原浜まで伸びた突端の段丘に築かれている。比較的城域の大きな城で、段々になった多数の腰曲輪群で構成されている。中央に大手の谷戸があり、その南北に張り出した丘陵部に出曲輪を配している。曲輪群には堀切はなく、主郭まで段差という程度の小さな切岸だけで区画されている。主郭は頂部の平場と考えられるが、東側はそのまま丘陵基部に続いてしまっていて、主郭の範囲があまり明確にできない。現地解説板の縄張図に記載されている背後の堀切は、主郭からかなり離れた登り斜面に穿たれているが、非常に小規模で、特に2本目はほとんどわからないレベルである。また前述の縄張図には、南曲輪周囲に空堀、南麓の腰曲輪に石塁が記載されているが、空堀は湮滅して形態を残さず、石塁は耕地化の際の土留の可能性が高く、遺構とは看做し難い。縄張りとしては、素朴な形態を残した城だったと思われる。
 尚、大手の谷戸には民家があるが、無住の様で、入口に売地の看板が立っている。周辺の浜一帯は東日本大震災の被災地で、家屋がほとんど残っていないので、ここの地主の方も移住されてしまったのかもしれない。私は南西麓の中沢神明社から登ったが、城内で人の気配を感じることはなかった。一日も早い復興を祈るばかりである。
わずかな1本目の堀切→IMG_5625.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.331069/141.477170/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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内親楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5559.JPG←東尾根から見た主郭の遠望
 内親楯(内親館)は、「うちごやたて」と読み、伊達氏の家臣宮内氏の居城である。『伊達世臣家譜』によれば、宮内氏は出羽国置賜郡長井荘宮内邑を本領とし、宮内氏を名乗る以前は遠藤氏を称していた。1490年、宮内中務盛実の時に内親楯に移り住んだと言う。その後、伊達市の内訌「天文の乱」が生起すると、宮内宗忠は白石宗綱らと共に晴宗に仕え、その論功行賞により外様より一族に列せられた。1552年、白石川対岸の宮城館へ居城を移した。宮内氏は、その後も相馬氏との抗争や大崎合戦にも従軍して軍功を挙げ、1591年に伊達政宗が岩出山城に移封となると、宮内氏は加美郡色麻に移った。

 内親楯は、白石川と松川合流点南の、標高120m、比高90mの山稜上に築かれている。丘陵先端のピークを中心にした南北に伸びる尾根と、その東に派生した尾根上に曲輪群を展開した規模の大きい城であるが、全山深い藪に覆われていて、遺構の確認は困難を極める。私は、東尾根の東端からと、北尾根の北東端と2ヶ所から登城を試みたが、いずれも深い藪に阻まれて途中で登城を断念した。辛うじて東尾根の曲輪群を途中まで探索できたが、幾つかの平場と堀切1条、それと腰曲輪から上段の曲輪に通じる虎口が確認できた程度であった。東尾根の曲輪群途中からピーク上の主郭が遠望でき、頂部が綺麗に削平されているのは見えたが、それ以上接近することはできなかった。いずれ整備されるとありがたいのだが。
曲輪群を繋ぐ虎口→IMG_5545.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆(藪で減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.039321/140.656092/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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飯詰楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5458.JPG←腰曲輪と主郭の切岸
 飯詰楯(飯詰館)は、歴史不詳の城である。標高95m、比高40m程の、白石盆地南部の浮島の様な小さな独立丘陵に築かれている。山頂に、切岸で区画された幾つかの平場を連ね、南面から東面の斜面に数段の腰曲輪を廻らしただけの小規模な砦である。西側には東北新幹線が貫通しているが、遺構自体は幸い無傷に近い。元々南西麓からの登り道があったらしく、今でも新幹線の高架脇に登り道が付け替えられている。この道を辿って登ると南面の腰曲輪群に到達する。更にここから頂部まで腰曲輪群を経由した登り道があり、山頂に至る。地形図だと、山頂に神社マークがあるが、副郭的な西の平場に石祠が立っているだけである。その東側には鞍部の平場を介して主郭と思われる方形の平場がある。その東の一段低い平場には謎の大穴が空いており、狼煙台か何かがあった可能性がある。また主郭手前には土橋と片堀切の様な地形が見られるが、薮に覆われていて判別しにくい。歩けないほどの藪ではないが、結構茨が多くて少々辟易する。ここからは、斎川沿いの谷部を通して馬牛楯を直接望むことができるので、馬牛楯主の桑折氏が白石城に備えて築いた前衛の砦か、逆に白石城側の勢力が馬牛楯に備えて築いた橋頭堡的な砦であった可能性もあるだろう。
南斜面の腰曲輪→IMG_5426.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.974989/140.616760/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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馬牛楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5399.JPG←二ノ郭虎口の土橋
 馬牛楯(馬牛館)は、萬行楯城とも言い、伊達氏の一族桑折氏の居城である。元々は、室町時代初期に刈田郡の領有を巡って伊達宗遠と亘理行胤がこの郡に侵攻し、斎川周辺で激戦を展開したと言われ、馬牛楯はこの頃伊達氏によって築かれたと推測されている。天文年間(1532~55年)には伊達氏の家臣桑折播磨守景長の居城となっており、奥州を二分した大乱「天文の乱」の際には、播磨守は伊達稙宗方に付いて、白石城を拠点とした伊達晴宗方の軍勢と、馬牛楯に立て籠もって戦ったと伝えられている。

 馬牛楯は、奥州街道(現・国道4号線)の西に隣接し、馬牛沼の北西に位置する標高190m、比高80m程の独立丘陵全体を城域にした、かなり大型の城である。東麓の孫太郎茶屋から登り道が付いており、地主さんにお断りすれば訪城は容易である。孫太郎茶屋入口にある現地解説板に縄張図が記載されており、それによると北から順に三ノ郭群・二ノ郭群・主郭群・南館と連郭式に並べ、更に主郭東側に東出郭を配置した構成となっている。いずれの曲輪群も広く、内部は何段かの平場に区画され、曲輪群の間は堀切は少なく、切岸だけで分けられている。堀切は、主郭と南館の間にだけ穿たれている。虎口は平易なものが多いが、二ノ郭虎口だけは土橋が構築されている。この他、三ノ郭の西側には大きな土壇状の曲輪があり、また二ノ郭外周などに腰曲輪群が構築されている。東出郭には塁線の折れを伴った土塁が築かれている他、主郭にも土塁が築かれ、西側の腰曲輪にまで土塁が伸びている。全体にあまり技巧性は感じられず、戦国前期の縄張りをそのまま残している様である。
 尚、2015年秋には標柱しかなかったが、2016年12月に訪城した時には前述の現地解説板が新設されていた。縄張図まで掲示されているので、ありがたい限りである。
東出郭前面の切岸→IMG_5214.JPG
IMG_5341.JPG←南館の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.951829/140.606825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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霜降館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4928.JPG←水堀と土塁跡
 霜降館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣金堂駿河守の居館と伝えられている。現在の今道集落の中にあり、東辺部に水堀と土塁が、また西辺部にも土塁らしい跡が残っている。前述の伝承がもし事実とすれば、平安時代から残る古い城館であることになり、遺構はわずかながら極めて貴重なものであろう。尚、この城館は、たまたま帰り際に標柱を見つけて立ち寄った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.725195/141.203563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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石森楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4879.JPG←南麓に残る水堀跡
 石森楯(石森館)は、笠原城とも言い、葛西氏の一族石森氏の居城である。古くは平安末期の文治年間の始め(1185~86年)に奥州藤原氏の家臣猪塚修理が居城としたと伝えられる。その後、源頼朝の奥州合戦で藤原氏が滅ぶと、葛西氏が奥州惣奉行に任じられ、1221年にはその一族石森右近将監康次が石森楯を居城とした。以後、石森氏の歴代の居城となったが、1590年の奥州仕置によって葛西氏が没落し、その後生起した葛西大崎一揆で、石森氏は小塚氏(小塚楯主)・二ッ木氏(二ッ木楯主)らと共に一揆鎮圧に当たった伊達政宗の軍勢に抵抗したが、殲滅されて滅亡した。その後には伊達氏の家臣で千石城主であった遠藤出雲守高康が石森楯に移封された。藩政時代には「石森所」(「要害」より一段下のランク)となり、1631年に間野四郎左衛門が入部した。1639年、笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移封され、以後笠原氏の居城となった。

 石森楯は、比高15m程の独立丘陵上に築かれている。城の周囲は市街化が進み、城内の曲輪には民家が建っているなど、改変が進んでいる。また、2008年には丘陵南東部の張出し部を崩して車道を通しており、破壊が続けられている。前述の通り、ほとんど民家の敷地になっているので進入し難いが、城内に笠原家廟所が建ち、その手前に堀切らしい跡が残っている。また北西の石太神社裏の丘陵上にも堀切らしい跡が残っているが、この辺りは薮がひどく遺構の確認が難しい。この他には、南麓に水堀が残っており、こうした小規模な平山城形式の城砦で現在まで水堀が残る例は珍しい。改変が進んでいるものの、貴重な遺構を残している。
廟所近くの堀切状地形→IMG_4903.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.723655/141.212661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

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二ッ木楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4851.JPG←ニノ郭側から見た主郭切岸
 二ッ木楯(二ッ木館)は、双樹館とも言い、葛西氏の家臣二ッ木三五郎堯明の居城であったと言われている。二ッ木氏は、元々小野寺氏を称していたとされ、葛西氏の一族石森将監康次が石森楯に拠るに及び、小野寺三五郎堯明が二ッ木楯に住み、ニツ木氏を称して石森楯の後衛に当ったと伝えられる。1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、二ッ木氏も石森氏・小塚氏(小塚楯主)と共に没落した。尚、『登米郡史』には、1590年に二ッ木三五郎が伊達政宗の軍に囲まれると、二ッ木氏の家臣某が主君を斬って伊達勢に降ったが、政宗はその裏切りを憎んでその家臣某を誅殺したとの伝承が残っていると言う。

 二ッ木楯は、標高36mの丘陵上に築かれている。大きく東西2郭から成り、外周に腰曲輪を廻らしている。西側が主郭で、城内最高所に位置し、周囲を3~4m程の切岸で囲まれた広い曲輪で、祠が祀られており、そこまで参道が整備されている。しかし主郭の大部分は薮に埋もれている。主郭の北側には幅広の腰曲輪が1段、南側には2段程の腰曲輪が確認できる。主郭から東の二ノ郭に向かうと、切岸を降った所が鞍部になっており、堀切としての機能を有していたとみられる。二ノ郭は鞍部より少々高い位置にあるが、面積は小さく、削平も甘い。こちらも周囲に腰曲輪を伴っている。全体に、旧態依然とした縄張りの城で、要害性も高い地形ではなく、居館としての機能を優先させた城だった様だ。一部を除き薮がひどいのも難。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729665/141.217918/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小塚楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4817.JPG←主郭から見たニノ郭
 小塚楯(小塚館)は、葛西氏の家臣小塚織部則安の居城と伝えられている。小塚氏は、1590年の奥州仕置で葛西氏が改易になると、小塚氏も石森氏(石森楯主)・二ッ木氏(二ッ木楯主)と共に没落した。その後、則安の子帯刀は伊達氏に仕えて小塚七郎と称し、平士に列したと言う。
 小塚楯は、標高27m程の独立円丘上に築かれている。頂部は平坦で、段差だけで区画された主郭・二ノ郭が東西に並び、周囲に帯曲輪が取り巻いただけの簡素な城砦である。主郭南部には神明社が建てられており、一部改変を受けているが、参道の階段があるので訪城は容易である。但し、神社境内以外の曲輪部分は薮で、しかも普請がささやかなため、削平が甘く、自然地形も多いので遺構はあまりはっきりしない。通り掛かりに寄り道する程度の城だろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.728393/141.229742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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弥勒寺楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4790.JPG←主郭に通じる土橋と堀切
 弥勒寺楯(弥勒寺館)は、歴史不詳の城である。伝承では、葛西氏の家臣鈴木正斉入道が城主であったと言われるが、確証はない。

 弥勒寺楯は、弥勒寺が建っている丘陵東端の、比高20m程の段丘上に築かれている。南北2郭から成る簡素な城砦で、主要部は公園化されている。南麓から階段を登ると二ノ郭周囲の腰曲輪に至る。その上に、高さ3m程の切岸で囲まれた二ノ郭が聳えている。二ノ郭は南北に長く、西辺に土塁らしい土盛があるが、公園化による改変の可能性もあり、遺構かどうか確証はない。二ノ郭の北に幅広の土橋が架かった堀切が穿たれ、その北が方形の主郭である。主郭は小規模な曲輪で、居住性はほとんど無い。主郭の背後にも土塁と堀切が築かれて、丘陵基部を分断している。その先は弥勒寺の墓地に変貌している。主郭の西側は、ニノ郭西側の腰曲輪がそのまま繋がっている。主郭の東斜面にも腰曲輪が2段ほどある様だが、薮がひどかったので踏査はしていない。小規模だが、比較的普請がしっかりされた城である。尚、ここの城址標柱も印字がほとんど消えているので、何とかしてほしいところである。
腰曲輪上にそびえるニノ郭→IMG_4770.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.731489/141.259332/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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湖水城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4752.JPG←城跡の台地
 湖水城は、西郡城とも呼ばれ、葛西氏の家臣西郡氏の居城である。戦国末期の城主は西郡新左衛門とされ、1590年の奥州仕置の際、葛西氏の将として700騎の総大将として現在の桃生郡河南町須江に出陣し、翌91年深谷の役で伊達軍と戦い討死したと言う。一方、西郡城主として千葉左馬助胤元の名も伝わっており、城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 湖水城は、機織沼の西側にある比高5m程の島状台地に築かれている。平坦な頂部に長円形の主郭を置き、周囲に一段低く腰曲輪を廻らしていたようである。適当に取り付きやすそうな部分から台地に這い上がってみたが、全域藪が酷すぎてまともに写真が取れない状況で、遺構の確認もできないのが残念である。城址南側の民家近くに城址標柱が残っているが、字が判別不能なほど消えてしまっている。かなり残念な状況である。
 尚、機織沼の北東の丘の上に西郡新左衛門夫妻の石碑と祠が建っている。

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.733046/141.280317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鱒渕城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4718.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 鱒渕城は、葛西氏の家臣及川紀伊の居城であったと伝えられている。また別説では、鱒渕城主として岩渕氏の名が伝わっている。城主について不明点が多いのは、葛西氏時代のこの地域の多くの城と同じである。いずれにしても城主の事績は不明である一方、葛西大崎一揆で伊達勢に滅ぼされたことは論を俟たないであろう。

 鱒渕城は、二股川支流の小河川南岸に南から突き出た、比高30m程の細長い丘陵上に築かれた城である。小規模な城砦で、南北2郭と腰曲輪から構成された連郭式の縄張りとなっている。南北2郭の内、北側が主郭で、主郭内は何段かの段差に分かれ、北端が一番高く、神社が建てられている(但し参道は途絶)。主郭後部に1段の段曲輪があり、その先に土橋の架かった堀切を介して二ノ郭が続いている。二ノ郭南部は途中から採土で消滅してしまっている。主郭の東西斜面には綺麗に削平された腰曲輪が1段取り巻いており、西の腰曲輪先端には、竪堀状の虎口が築かれている。しかしその先は斜面が崩落してしまったのか、城道を追うことができない。全体に小規模で、技巧性もなく、あくまで有事の際の詰城と、南東の館ノ下集落(往時の根古屋であろう)を防衛する障壁としての位置付けだった様である。尚、主郭の後部に高圧鉄塔があり、そこへの保守道が西麓から伸びているので、それを使って訪城できる。
土橋の架かった堀切→IMG_4675.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.748394/141.328189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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狼河原城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4520.JPG←主郭前面の堀切
 狼河原城は、別名を鳩岡城、畑沢城とも言い、葛西氏の家臣亀卦川氏の一族、米谷修理の居城である。米谷亀卦川氏の事績については、米谷城の項に記載する。南北朝時代の1369年に、亀卦川(米谷)政明の子信明が登米郡狼河原に分封され、狼河原米谷氏の祖となった。その後、狼河原城を居城として、米谷氏の勢力の一翼を担い、この地に勢力を張ったと思われる。戦国末期には、米谷常秀の弟常忠が狼河原(米谷)氏を継承した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると、領内で葛西氏家臣団による反抗が起き、奥州仕置軍との間で激しい戦いが行われたと言われ、その中に兄の米谷常秀と共に狼河原常忠の名が見られると言う。(一説には、この時の狼河原城主として千葉修理亮胤則と言う名が伝わるが、狼河原氏との関係は不明。また戦国後期の1564年には葛西民部少輔が城主であったとも伝えられ、狼河原城主については不明点が多い。)その翌年、葛西大崎一揆が起きたが、伊達政宗の軍勢によって殲滅され、狼河原氏は滅亡したと思われる。

 狼河原城は、二股川の南岸に突き出た標高97m、比高77mの丘陵上に築かれた城である。普請がしっかりされた比較的大型の城で、本家の米谷氏が拠った米谷城よりも遥かに優れた遺構を有している。西麓の車道脇に城址標柱が建ち、そこから東に入っていった民家の脇から登り道が付いている。民家の横を通るので、立入りの許可をもらった方が良い。大きく4つの曲輪から成り、主郭を中心に、南西に二ノ郭、北西に三ノ郭、南東に四ノ郭を配置し、それぞれ腰曲輪を廻らしている。主郭と二ノ郭・三ノ郭はそれぞれ堀切で分断されているが、いずれの堀切も両側の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねている。また二ノ郭側の堀切には、主郭塁線が内側に折れて横矢が掛かると共に、どうも主郭の搦手虎口があったらしく、この主郭への登り道を隠すように二ノ郭側の土塁が配置されている。主郭は背後に土塁を築き、西辺部にも幅広の土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間の堀切手前に土塁と櫓台を築いているが、一方で前面に当たる北側は、明確な切岸などの区画や防御構造がなく、ダラダラとした緩斜面になっている。各曲輪周囲の腰曲輪は、綺麗に削平されて何段かに区画されており、特に主郭東側の腰曲輪は広幅で、主郭切岸も5m程の高さで聳えている。四ノ郭だけは主郭との間に堀切がなく、前面に数段の段曲輪を築いている。一方、二ノ郭の腰曲輪の先端(南端)も堀切となっているが、前述の西麓からの登り道はこの堀切に通じている。この堀切から南に少し行った先にも外郭があり、切岸で囲まれた三角形状の小曲輪と周囲の腰曲輪が確認できる。
 なお城内の中で、二ノ郭とその周りの腰曲輪だけが、西麓の民家の畑になっており、訪城した時作業中のお爺さんと話すことができた。主郭先端に大同桜という古木があり、時折それを見に来る人があるらしい。
主郭東側の切岸と腰曲輪→IMG_4549.JPG
IMG_4632.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.772923/141.341021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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若草山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4414.JPG←紅葉に彩られた腰曲輪
 若草山楯(若草山館)は、若宮館とも言い、歴史不詳の城である。東方700mに狼河原城があることからその出城であった可能性もあるだろう。
 若草山楯は、米川市街地北方にそびえる比高40m程の独立丘陵に築かれた城である。簡素な城砦で、山頂の主郭を中心に、その周囲に同心円状の腰曲輪が2~3段築かれているだけである。主郭には現在若宮神社が鎮座し、山全体が公園化されているが、遺構はよく残っている。北側の腰曲輪には土塁も確認できる。秋には紅葉で美しく染まる城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.773860/141.332352/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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梁川宗元屋敷(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4397.JPG←標柱の建つ屋敷地
 梁川宗元は、白石宗直の3男である。白石宗直は、元々梁川宗清の子であったが、岳父である白石宗実の養子となってその後を継ぎ、水沢城主となり、後に寺池城に転封となって登米伊達氏の初代となった。この為、宗直の3男又四郎宗元が、祖父梁川の姓を継ぎ、米谷村北方の鱒渕村・狼河原村143貫文を領し、米谷村吉田に屋敷を構えた。その後、治水・灌漑工事に力を尽くしたが、1640年に34歳の若さで没した。宗元の長男百助がまだ3歳だったため、仙台藩2代藩主伊達忠宗が宗元の妻(原田甲斐の姉)に自分の所に来るように勧めたがこれを断った。2年後に栗原郡の上遠家に後妻に入ると、これを聞いた忠宗は怒り、梁川家を断絶とし、百助はお預けの身となったと言う。

 梁川宗元屋敷は、国道346号線沿いに標柱が建っている。高荒神山南麓の谷戸部に当たり、現在民家が建っている一帯に屋敷が建っていたものだろう。宮城県遺跡地図には記載がないことから、遺跡とは認定されていない様だ。たまたま通りかかって標柱を見つけた次第である。尚、ここから北東2.4kmの位置にある頼光寺に、梁川宗元夫妻の墓がある。珍しい宝篋印塔で、「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる角の突起の部分に、○・十字・◇等のマークが刻まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.738921/141.306496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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米谷城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4339.JPG←本丸から張り出した櫓台
 米谷城は、伊達氏の重臣桑折新左衛門景頼(石母田景頼)の居城であった。元々米谷の地は、1276年に葛西清信が石巻日和山城に入部した際、その家臣亀卦川氏の一族、亀卦川胤氏が米谷に入部して居城を築いたことに始まる。亀卦川氏は、奥州千葉氏の庶流で、後には米谷を本拠とした米谷亀卦川氏と大原新山城を居城とした大原亀卦川氏の2流に分かれている。米谷亀卦川氏は米谷氏を称したともされ、米谷氏時代の居城は南の鼎楯であったとも、また大膳楯であったともされ、明確にはわからない。1590年、14代亀卦川(米谷)常親(常秀?)が当主の時、奥州仕置で葛西氏が改易され、その後の葛西大崎一揆が鎮圧されて、米谷亀卦川氏は滅亡した。この時には、既に米谷城の地に居城が移されていたとも言われている。その後、葛西・大崎氏の旧領が伊達政宗に与えられると、1594年にその重臣石母田景頼が入部した。景頼は、後に桑折氏の後見となって桑折景頼となり、婿養子の石母田大膳宗頼に家督を譲り、宗頼が米谷城主となった。その後1616年に、柴田宗朝が水沢より米谷城に移封となった。元和の一国一城令で城が廃されると、米谷城は「所」(「要害」より一段下のランク)となった。宗朝の後を継いだ柴田外記(朝意)は、寛文事件(いわゆる伊達騒動)において江戸で斬られて落命した。1681年、柴田宗意が船岡要害に移封となると、米谷所には一時日野元信が入った後、1703年に登米郡黒沼から高泉兼康が2700石で入封した。そのまま高泉氏の所領として幕末まで存続した。城内には、現在でも高泉家の居宅が建っている。

 米谷城は、大膳楯のある丘陵から一つ北側にある比高40m程の丘陵上に築かれている。前述の通り、高泉様の私有地であるので、遺構を見て回るには高泉様の許可が必要である。私が訪城した時は、たまたま高泉様のご当主がご在宅で、出掛ける間際のお忙しい中なのに、わざわざ10分程もお話を伺うことができ、ご当主がまとめた貴重な資料をいただくこともできた。

 以下は高泉様から伺った話。現在居宅が建っているのは侍詰所に当たり、本丸は上の平場である。これらの配置は、江戸時代の絵図面でほぼ確認できる。本丸の東に高台があるが、これは戦国時代に使われていたもの(中世の主郭跡)で、調査はされていないと言う。今は城の西下を車道が貫通しているが、昭和に入ってから西側を削って車道を通したもので、往時は城の防衛のため道を通さないようにしていた。また明治期に、北上川の護岸工事のために、城の石垣がだいぶ取り壊されたらしい。城の周りには、東に寺、南に神社などを配置しているが、これらは全て風水を考えてのものではないかとのこと。米谷の地名は、坂上田村麻呂がその家臣米谷氏を置いたことに始まると言い伝えられているそうだ。

 遺構としては、近世本丸跡(中世の二ノ郭)の広い平場があり、南の切岸下に侍詰所の平場があり、高泉様の居宅が建っている。近世本丸から侍詰に向かって櫓台の張出しが見られる。また近世本丸の東側に切岸で囲まれた段丘があり、これが中世の主郭跡である。背後に当たる東側に城道が残っているが、主郭内は薮で埋もれていて進入は不可能である。この他、中世主郭の南側に竪堀状の窪地や腰曲輪と思われる段々の平場があり、居宅の東側高台の広い平場まで繋がっている。中世主郭の東側は給水施設や学校に変貌して大きく改変されているので、旧状は不明である。
 米谷城は、多種の改変を受けているが、概ねは旧状をよく残しており、中世から近世まで継続的に使われた城の名残を感じることができる。いろいろと貴重なお話や資料を提供していただけた高泉様にも、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
主郭南の腰曲輪群→IMG_4365.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.712187/141.294994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大膳楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4314.JPG←畑となった主郭
 大膳楯(大膳館)は、慶長年間(1596~1615年)に伊達氏の重臣石母田大膳宗頼の居館があったことからこの名が付いたという。(米谷城を有事の際の詰城とし、大膳楯を平時の居館としたものか?)その他の歴史は不明であるが、一説には、1276年に米谷に入部した亀卦川胤氏が最初に築いて居城としたのが、大膳楯であったとも言われているらしい。
 大膳楯は、鼎楯と尾根続きの丘陵上に、隣接して築かれている。比高50m程の丘陵頂部が主郭であったと思われるが、一面の畑に変貌しており、遺構は不明。その他には、北西に向かって段状に畑と藪が続いているだけである。標柱がなければ、誰も城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.708989/141.294823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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鼎楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4305.JPG←主郭東側の切岸
 鼎楯(鼎館)は、別名を不叶館とも言い、歴史不詳の城である。米谷城の前身となった古館と言われ、伝説では豪族が館を建てようとしても、完成間近になると何度も崩れてしまい、結局築城できなかったことから不叶館と呼ばれるようになったと言う。

 鼎楯は、北上川(往時は二股川)曲流部東岸の、秈荷神社の建つ比高50m程の丘陵上に築かれている。秈荷神社の東側の一段高い平場が主郭とされ、公園となっている。平場の東側には切岸や虎口らしい地形が見られ、遺構と推測される。また神社付近や車道脇にも平場が散見され、腰曲輪の遺構であるらしい。堀切などは見られないため、どこまでが城域なのかわかりにくいが、宮城県の遺跡地図によれば東に続く墓地や少ピークも城域とされる。しかし改変が激しく、よくわからないのが実態である。個人的には、ほぼ単郭の小規模な城砦であった様に推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.708152/141.291239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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鷲ノ巣楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4178.JPG←三ノ郭から落ちる竪土塁
 鷲ノ巣楯(鷲ノ巣館)は、歴史不詳の城である。伝承では、葛西氏の家臣平小三郎が城主であったとされる。平小三郎についての詳細は不明であるが、真野萱原にある長谷寺のお堂を中世末期に修復したのが、平小三郎らであると伝わっていると言う。

 鷲ノ巣楯は、真野川の北岸にそびえる標高71mの丘陵上に築かれている。連郭式の城で、西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ね、それぞれの間を堀切で分断している。一番広い曲輪が主郭で、半分ほどが墓地となって改変されているが、山林の中に分け入ればその他の遺構はほぼ完存している。主郭の北東部には、『日本城郭大系』で石塁とされるL字状の高まりがあり、砕石が散乱している。主郭外周には腰曲輪が築かれ、北側の腰曲輪はそのまま二ノ郭・三ノ郭の腰曲輪まで繋がっている。特に三ノ郭北側では広幅の腰曲輪となり、北辺に土塁が築かれ、更に下方に帯曲輪が築かれている。前述の堀切は、この腰曲輪に繋がっており、南北の腰曲輪を繋ぐ城内通路としても機能したと思われる。また二ノ郭、三ノ郭には土塁が備わり、三ノ郭南東角から南に大きな竪土塁が降っている。その横には大きな竪堀があり、『日本城郭大系』ではこれを通路としている。この竪堀の上方には、三ノ郭の切岸がそびえ立っており、竪堀状通路を登ってくる敵兵を迎撃する陣地であったことがわかる。三ノ郭から東に伸びる尾根上にも外郭がつながっており、堀切や切岸が数ヶ所見られ、その東の小ピークには綺麗に削平された物見曲輪があり、西端に小型の櫓台まで備わっている。
 鷲ノ巣楯は、主郭周辺のみ藪が多く遺構が確認しづらい部分もあるが、二ノ郭・三ノ郭付近は歩きやすい。三ノ郭から落ちる大きな竪土塁が特徴的な城である。
腰曲輪から見た二ノ郭・三ノ郭→IMG_4136.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.458798/141.345785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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水沼楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4025.JPG←主郭前面の虎口兼用の堀切
 水沼楯(水沼館)は、歴史不詳の城である。一説には水沼上野という武士の居城であったとも言われるが、確証はない。

 水沼楯は、上品山の支尾根が南東に張り出した、比高50m程の丘陵上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図では一つ北の丘陵地にある様に記載しているが、位置が間違っている。宮城県の遺跡地図の記載が正である。城に行くには、主郭のあるピークの北東にある谷戸に登り道が付いており、そこから到達できる。非常に綺麗に整形された城で、縦長の広やかな主郭の東西に2段ずつ腰曲輪が築かれ、主郭背後には堀切を介して小さな二ノ郭があり、更に堀切が穿たれている。主郭前面に当たる南側にも、前衛郭群が数段築かれている。この城では面白いことに、主郭の前面と主郭後部に穿たれた浅い堀切が腰曲輪への虎口を兼ねており、城内通路として使われている。前衛郭群には、堀切と独立堡塁が築かれて南の大手筋を防衛している。この他、北尾根の鞍部には湧水があり、どうも水の手曲輪であった様だ。水沼楯は、主郭内部と東側の腰曲輪は藪が多いが、それ以外は藪が少なく、遺構が綺麗に見渡せる。特に西側の腰曲輪は見通しが良く、主郭切岸など美しい姿を見せており、登城も楽でお勧めである。
腰曲輪と主郭切岸→IMG_4001.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.485744/141.373401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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鶴楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3937.JPG←堀切
 鶴楯(鶴館)は、鶴子坂館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承によれば、前九年の役の際に八幡太郎源義家が館(本陣であろう)を構え、東に高くそびえる京ヶ森楯に立て籠もる安倍貞任を攻め立てたと伝えられるが、同様な話は東北の各所にあり、俄には信じ難い。

 鶴楯は、沼津貝塚の西にある標高48mの丘陵上に築かれている。遺構はささやかで、城域東部の八幡神社周辺に腰曲輪と思われる平場群が展開し、神社裏手にはわずかに土塁らしいものも見られる。そこから西へ丘陵をたどっても、自然地形がダラダラと続くだけである。一部に切岸と段差が見られるが、古い航空写真を見ると耕作地になっていた部分もあるようなので、その名残かもしれない。更に西に進むと、丘陵中央部の手前に堀切が穿たれている。堀切に沿って土塁が築かれ、丘陵頂部には主郭と思われる平場があり、僅かな段差で周囲の曲輪と区画されている様である。遺構から推測すると非常に古い形態の城と考えられ、源義家が本陣を置いたという伝承も、全く故無いことではないのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.446346/141.373401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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糠塚城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3891.JPG←土塁を伴った腰曲輪
 糠塚城は、葛西氏の家臣須藤勘解由左衛門の居城と伝えられている。須藤氏は、北上川下流域一帯を支配した山内首藤氏の一族とされるが、詳細は不明。糠塚城の歴史も不明点が多いが、唯一歴史に現れるのは、「須江山の惨劇」と呼ばれる事件においてである。1590年、小田原の役に不参しなかったため、奥州の名族葛西氏・大崎氏は豊臣秀吉の奥州仕置によって改易された。しかしその旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、葛西・大崎両氏の旧臣たちの叛乱を誘発してしまった。しかしその裏には、失地回復を目論む伊達政宗の煽動があったとされる。それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城に立て籠もった最後の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、徹底した残党狩りを行い、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山の糠塚館に呼び寄せ、残らず惨殺した。これが須江山の惨劇である。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。

 一方、糠塚城の地は、古代城柵の一つ、中山柵であったとも言われている。804年、蝦夷征討の為、武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥等の国から糒・米を陸奥国小田郡中山柵に運ばせたと『日本後記』にあり、その擬定地として糠塚城の地が有力視されている。

 糠塚城は、JR石巻線の佳景山駅のすぐ南にそびえる、標高37m、比高30m程の丘陵上に築かれている。主郭には配水場(既に廃止されている)があり、改変を受けている。配水場南側に大きな石碑と解説板が建っている。石碑は「中山柵跡」と刻まれ、文章が消えかけた解説板には、中山柵と糠塚城の両方の歴史が記載されている。明確な遺構は、付近の腰曲輪ぐらいであるが、低土塁を伴い、虎口らしい地形も確認できる。この他、南西中腹に祀られた神社の裏に、御子孫が建てた須藤勘解由左衛門の大きな墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.497081/141.239204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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塩野田楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3851.JPG←主郭裏の堀切
 塩野田楯(塩野田館)は、塩煮田城とも呼ばれる。この名は、古い頃にここで塩を作り、将士に供したところから、この名が伝わると言う。歴史も明確なことは不明であるが、城主は須藤勘解由左衛門、又は矢代斉三郎であったと伝えられている。須藤氏は、糠塚城主であったとも伝えられ、葛西氏に属していたと言われている。一方、石崎氏の系図によれば、石崎氏もまた糠塚城主であり、石崎勘解由左衛門の名が記録されていると言うが、須藤氏との関係は不明である。矢代氏については詳細不明である。

 塩野田楯は、舘の名が残る比高30m程の独立丘陵上に築かれている。頂上に八雲神社が鎮座しているので、登り道が付いている。神社が建っているのは外郭に当たり、北東に向かって土塁が伸びているが、積極的な削平は確認できず、自然地形のままらしい。一方、神社から堀切を挟んで主郭が築かれている。主郭は畑となっており、土塁は見られないが、北面から西面にかけて空堀が穿たれている。北面のものは前述の通り、外郭と分断する堀切となり、西面のものは西斜面を防御する横堀となっている。この手の小城塞には珍しい規模の空堀で、しっかりと穿たれている。西側の横堀の先端は枡形虎口が形成され、虎口北側は堀の土塁で防御、反対の南側は切岸で切り落として防御している。ここには西麓の民家裏からの小道が付いているが、状況から考えると往時の城道であったと推測される。主郭の南西にも平場が広がっており、二ノ郭と推測されるが、藪で形状の確認は困難である。遺構は以上で、小規模な城砦であり、出城としての機能に特化して構築されたと推測される。
西側の枡形虎口→IMG_3867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.474540/141.248345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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樋ノ口楯(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3806.JPG←北出曲輪の堀切
 樋ノ口楯(樋ノ口館)は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では、城の西方0.5kmの位置にある鎌倉後期の2枚の板碑に長江氏の名が刻まれていることから、小野城主長江氏との関連を推測している。

 樋ノ口楯は、清泰寺南西の比高55mの丘陵上に築かれている。清泰寺の墓地から小道が付いているので、城の近くまでは簡単に行けるが、城域は藪がひどく、遺構の確認が大変である。縄張図を見ると基本的には単郭の城のようであるが、主郭は東西に長く伸びた不定形で、北側だけ土塁を伴っている。主郭から派生する2つの北尾根には、それぞれ堀切を介して出曲輪が構築され、特に東側の出曲輪は土塁で囲まれている。その他、腰曲輪も築かれているようだが、藪がひどくはっきりとはわからない。技巧性もなく、ただ広い丘陵を主郭にしているだけの城で、軍団の駐屯基地か兵站拠点の様な使われ方をした城かもしれない。尚、南麓に太郎坊清水と言う泉があり、往時の水の手でもあったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.444128/141.181097/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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滝浜楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3708.JPG←西斜面の竪堀
 滝浜楯(滝浜館)は、若宮館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。『旭ヶ浦物語』には、平民貞綱の館で1577年に落城すると出家したとの伝承が載っているらしいが、確証はない。

 滝浜楯は、滝浜集落の北西に突き出した標高56mの岬に築かれた城である。城の南に電波塔があり、南東の畑脇から小道が付いているが、電波塔の先は藪をかき分けて進むしか無い。北に主郭、その南に一段低く二ノ郭を置き、外周に数段の腰曲輪を廻らしただけの、簡素な構造の城である。主郭・二ノ郭ともにほぼ全域が大藪に覆われており、進入は困難である。腰曲輪の方が藪が少ないので、腰曲輪を伝って外周を巡ると、主郭の付け根の東西斜面に落ちる比較的大きな竪堀が確認できる。いずれも東西の斜面に築かれた腰曲輪群を貫通して長く落ちている。また主郭北東角には隅櫓台らしい土壇が残っており、祠が祀られている。遺構はこの程度で、東西の竪堀だけが異彩を放つ城である。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_3680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.643573/141.489100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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朝日楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3598.JPG←主郭の大土塁
 朝日楯(朝日館)は、志津川城とも呼ばれ、葛西氏に属した本吉氏の居城である。元々は、奥州藤原氏3代秀衡が、本吉庄の荘園管理のために4男高衡を派遣し、高衡が根拠としたところとも伝えられるが確証はない。しかし高衡は、元良四郎とか本吉冠者を名乗ったとされることから、この地域に勢力を張っていたことは間違いないと推測されている。源頼朝の奥州合戦の後は、下総の名族千葉氏の流れを汲むと言われる奥州千葉氏の一族がこの地を支配し、本吉氏を称したとされる。南北朝時代以降、本吉氏は葛西氏に属した。その後、1418年、葛西9代太守満信の5男西館重信が本吉郡を与えられ、その孫本吉大膳大夫信胤の時に志津川に本拠を移し、この頃から朝日楯を居城とした。以後は葛西系本吉氏がこの地を支配したが、近隣の遠野城主馬籠氏と度々抗争を繰り広げ、1574年以降は本吉大膳大夫重継が宗家葛西氏に対して度々叛乱を起こすようになった。1586年には、重継は歌津十二人衆との間で兵乱を起し(歌津合戦)、翌年には気仙郡の浜田安房守と衝突した。主家葛西氏は、これら家臣団の統率に悩まされ続けた挙句、1590年、豊臣秀吉によって小田原不参の故を以って奥州仕置で改易された。翌年、葛西氏旧臣たちは挙兵して葛西大崎一揆を引き起こしたが鎮圧され、翌92年には重継が没して本吉氏の歴史は終わりを告げた。

 朝日楯は、水尻川西岸の比高65m程の丘陵上に築かれている。東麓と西麓の2ヶ所に登り道があるが、東麓の方は東日本大震災の津波被害を受けたため、登り口が少々わかりにくい。あまり技巧性のない縄張りで、広大な頂部の平場を仕切り土塁で二分し、東が主郭、西が二ノ郭であったと思われる。私は西麓から登ったが、腰曲輪を見ながら登ると二ノ郭の虎口があり、虎口土塁の一部に石垣が残っている。土塁の北側に櫓台があり、祠が祀られている。二ノ郭は耕作放棄地で藪が繁茂しており、確認が難しい。僅かに仕切り土塁らしいものが見られ、『日本城郭大系』で記載される東西に平場を二分する土塁とはこれのことと思われるが、藪がひどくはっきりしない。主郭の中も大土塁で仕切られており、この大土塁脇に神社が建っている。主郭の東面や南面には綺麗に削平された腰曲輪が2段程付随し、二ノ郭の周りにも腰曲輪が数段築かれている。城の遺構はよく残っており、特に東部の遺構は藪が少なく確認しやすい。
 尚、南三陸町の町役場のあった志津川は、殊の外津波被害が甚大で、気仙沼など周辺地域と比べると、明らかに復興が遅れている。城の麓も被災したままで、以前にあったらしい解説板は流されて、今は見られない。1日も早い復興を祈念せずにはおれない。
ニノ郭虎口の石垣→IMG_3527.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.677520/141.430285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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遠野楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3451.JPG←円弧状のニノ郭堀切
 遠野楯(遠野館)は、馬籠遠野城とも言い、奥州千葉氏の庶流馬籠氏の居城である。下総の豪族千葉氏は、源頼朝の奥州合戦による軍功で奥州に多くの所領を賜った。そして1230年、下総千葉氏3代、千葉介胤正の末子胤親が桃生郡深谷に入部した。その子胤次が後を継ぎ、胤次の後は、弟胤氏の二男忠次(宮内少輔を称す)を養嗣子とした。1289年、その子忠広が本吉郡馬籠村に移り、馬籠氏を称した。忠広の嫡子広行が、遠野楯を築いて居城としたと言われ、以後、馬籠氏歴代の居城となった。南北朝期の1336年、3代周防守行胤は葛西高清に攻められ、妹婿の赤岩城主熊谷直光の援軍を得て戦ったが、葛西軍の猛攻の前に当主行胤をはじめ、一族は殆ど討死したが、辛うじて城は守り切った(馬籠合戦)。しかし勢力を弱めた馬籠氏は、行胤の子胤宣が葛西氏に降伏し、以後葛西氏の家臣となった。戦国時代に入ると馬籠氏は志津川城主本吉氏と度々抗争を繰り広げ、1586年の歌津合戦にも一族の歌津城主歌津馬籠氏と共に参戦した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、馬籠氏も没落した。

 遠野楯は、比高40m程の南北に長い丘陵上に築かれた城である。北側に馬籠川が流れており、それを渡渉しやすい部分から渡ると、北東尾根から大手の小道が伸びている。これを登っていくと、主郭前面の独立堡塁に至る。これは実質的な馬出しで、主郭とは堀切で分断され、中央の土橋で連結されている。主郭は僅かな段差で内部が数段に分かれ、中央の上段平場に主殿があったものだろう。上段平場南側は明確な切岸で区画され、その南の平場はやや窪んだ横掘状になっている。更にその南に段差だけで区画された二ノ郭がある。ニノ郭の南に、中央に土橋が架かった堀切、その南に三ノ郭があり、三ノ郭の南にも堀切が穿たれている。これら2本の堀切は、いずれも西側が円弧状になった長いもので、特に三ノ郭堀切は西端部に腰曲輪同士を連絡する土橋が架かり、その先は短い横掘となって終わっている。この他、側方に腰曲輪があり、三ノ郭東側の腰曲輪には堀切(堀底道)に繋がる枡形虎口が形成されている。
 遠野楯は、基本的には連郭式の単純な縄張りであるが、円弧状の長い堀切が特徴的である。藪も比較的少なく、歩きやすいのも助かる。尚、北麓の国道近くに解説板が建っているが縄張図はかなり不正確で、『日本城郭大系』に記載されている縄張図の方が概ね正しい。
三ノ郭の堀切→IMG_3484.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.771183/141.438653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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歌津城(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3323.JPG←主郭手前の堀切
 歌津城は、臥牛ヶ館とも言い、葛西氏の家臣で遠野城主馬籠氏の一族、馬籠四郎兵衛重胤の居城と言われている。重胤は馬籠大和守重吉の長子であったが、1564年に葛西氏に叛して討伐された。その後、弟の重長が馬籠氏の当主となっていることから、重胤は罪を得て歌津村に所替えされたと推測されている様だ。その後1586年、かねてより不和であった志津川城主本吉大膳と、清水浜館主の後継者問題を契機として争い、本吉方の大将黒崎兵部を討ち取ったと言う。その後、歌津馬籠氏は本家を凌ぐ勢力を持つようになったが、奥州仕置で没落し、伊達家に迎えられて伊達藩士となった。

 歌津城は、伊里前湾の南に突き出した、館崎と呼ばれる岬状の丘陵に築かれている。この丘陵は、南北2つのピークから成り、広い北のピークが主郭、小規模な南のピークが物見を兼ねた二ノ郭となっている。主郭は広い削平地で、土壇に祠が祀られており、外周を腰曲輪で囲み、主郭の南側の大手虎口には大土塁と堀切が築かれている。主郭から二ノ郭に至る鞍部は緩斜面となっており、曲輪群が広がっているが、一部が畑になっている以外は藪が繁茂していて形状は判別できない。ここから尾根状の小道を南に登っていくと二ノ郭に至る。二ノ郭は背後と西辺に低土塁を築いた比較的小規模な曲輪で、ここから岬の突端まで行くと、眼下には大海原が広がっている。また二ノ郭の北側背面下方には三ノ郭と思われる広い腰曲輪も付随している。
 歌津城周辺は、東日本大震災の津波で大きな損害を受け、防波堤工事など今でも続いている。城のすぐ東下の入江にも、大きな防潮堤が新設されている。以前は城址入口に解説板があったらしいが、津波で流され現在は失われている。このささやかな訪城記が、わずかでも三陸被災地の復興の一助になればと、願うばかりである。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_3299.JPG
IMG_3346.JPG←二ノ郭背後の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.709223/141.536543/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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