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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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小野御所(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2589.JPG←北郭の低土塁
 小野御所は、小野館とも呼ばれ、奥州探題大崎氏の初代斯波家兼が築いた大崎五御所の一つと言われている。しかし大崎氏は奥州仕置で改易されてしまった為、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の本拠がどこであったのか、必ずしも明確ではない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、小野御所の他にも師山城中新田城名生城などが居城であったと言われ、これらをまとめて大崎五御所などと言い伝えられているが、諸説あってはっきりしない。戦国期には名生城が本拠であったとの説が有力である。但し、戦国前期の天文年間(1532~55年)に大崎氏の内乱鎮圧に力を貸した伊達稙宗が、次男小僧丸(後の大崎義宣)を大崎高兼の養嗣子として送り込んだ時には、小僧丸と結婚した高兼の娘梅香姫は絶世の美女と言われ、母と共に小野御所に住んだと言われる。これが正しいとすれば、戦国期にも大崎氏の重要拠点の一つとして機能していたのだろう。

 小野御所は、低地帯に張り出した比高10m程の台地上に築かれている。現地標柱によれば、往時は周囲を「千枝の湖」と言う水を湛えた池沼で囲まれた屈指の要害であったらしい。梅香院の東の台地が「内館」と呼ばれる城館の中心部で、南北に曲輪があり、更に南に高台となった外郭がそびえている。仮に北から順に北郭・中央郭・外郭と呼称すると、北郭には低土塁が築かれ、更に北西側下方を腰曲輪で防御している。堀切を挟んで中央郭があるが、真ん中を道路が切り通し状に貫通している。おそらく道路南の部分まで曲輪が繋がっていたと推測される。中央郭は西側に大土塁が築かれ、中央郭の背後は台地を削り残した高さ8mもの垂直に近い切岸となっている。その上に外郭がそびえている。外郭は東西に長く伸び、内館を囲むように置かれている。外郭の外周にも低土塁が築かれ、西端には櫓台が張り出している。南面にも腰曲輪があり、現在民家がある部分も曲輪であったと思われる。民家入口には竪土塁状の土盛が見られる。即ち内館は、南は高台の外郭に囲まれ、北側は池沼で防御された要害であったと推測される。尚、内館の東西には東舘・西舘の地名が残り、外郭土塁の東端部は道路を塞ぐ様に突出しており、木戸口となっていたのかもしれない。宮城県遺跡地図を見ると西にやや離れて普月館という城館があるが、小野御所の西方を防衛する外郭として、大崎氏の家臣が居住したものであろう。
中央郭西側の大土塁→IMG_2619.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.623308/140.995166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新庄楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2362.JPG←主郭塁線の張り出し
 新庄楯(新庄館)は、歴史不詳の城である。江戸後期に編纂された『高清水拾遺志』によれば、鎌倉~南北朝期に新庄伊賀守が築城し、その後大崎詮持の子高泉出羽守持家が1356年に東館(高清水城)を築くまで居城したと言う。その後長い間城主不在であったが、天正年間(1573~92年)に高清水直堅がこの城を改修して居住したとされる。しかし『高清水拾遺志』は記述自体に錯誤が多くそのまま信ずるできないとされる。

 新庄楯は、標高49.5mの丘陵上に築かれている。この丘陵は、城のすぐ脇を東北新幹線が貫通しているので、城も一部が破壊されたと思っていたが、幸いなことに遺構の破壊はほぼ免れている。南に傾斜した斜面に東西に長い主郭群が築かれ、内部は3段に分かれている。北の平場が最も高く、土塁で西・北・東の三方を囲んでいる。北西の土塁の隅部に地形図にある三角点が設置されている。土塁の外周は空堀が穿たれているが、西面のものはかなり浅くなっている。北面のやや東寄りには土橋が架かっており、搦手虎口が築かれている。空堀の外周も土塁が築かれており、北西部に櫓台の様な土壇が見られる。主郭群の南にも更に2~3段の腰曲輪が築かれ、主郭群塁線から一部横矢が掛けられている。主郭群の東は、前述の空堀と合わせて二重堀切で分断され、その東に二ノ郭があるが、削平が甘い平場である。二ノ郭南には一部に土塁があり、南東下部には枡形虎口の様な空間がある。二ノ郭東側は切岸は明瞭だが、堀切はかなり浅く、ほとんど分断効果を持っていない。新庄楯は、一部に横矢掛かりが見られるものの、基本的には直線的な空堀・堀切で構築されており、戦国期以前の古い形態を残した城と考えられる。
主郭外周の空堀→IMG_2420.JPG
IMG_2462.JPG←主郭東側の二重堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.661219/141.020615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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藤沢楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2284.JPG←主郭切岸と空堀
 藤沢楯(藤沢館)は、小野寺氏の居城と伝えられている。奥州合戦後の1192年、小野寺左馬介信氏が源頼朝の命により奥州総奉行葛西清重の幕下として奥州に下向し、1200貫の知行を拝領して、藤沢楯を居城としたとされる。以後、小野寺氏歴代の居城となった。室町時代頃には栗原・遠田郡に1700貫の所領を持つに至り、戦国期には大崎氏に属したが、1590年に太郎左衛門信春の代で豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡したと言う。尚、小野寺氏にはいくつかの系統があるが、藤沢楯の小野寺氏は、下野国小野寺郷を本貫とする小野寺氏の一族か、或いは奥州千葉氏の庶流とされる小野寺氏の一族か、どちらかであろう。

 藤沢楯は、JR瀬峰駅西側の比高30m程の丘陵上に築かれている。北に隣接する観昌寺の墓地への参道入口脇に城址標柱が建ち、参道の途中から山林に突入すれば、すぐ城址に至る。ほぼ全周を土塁で囲み、周囲を空堀で防御した単郭の城である。主郭は方形に近い形状の曲輪で、西へ行くほど土塁と空堀の規模が大きくなっており、最大で深さ4~5m程に及ぶ。一方で東側は土塁が小さく、空堀もかなり浅くなっている。この東面に大手虎口があり、土橋が架けられている。郭内の北東部には井戸跡も残っている。また空堀の外周にも土塁が築かれており、その外側に腰曲輪らしい平場も散見される。遺構は以上の通りで、縄張りに面白みはないが、空堀・切岸の規模が大きく見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.655874/141.070654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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月輪楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2227.JPG←主郭周囲の空堀
 月輪楯(月輪館)は、伝承によれば葛西氏の支族月輪六郎・七郎(一説に五郎・六郎)兄弟の居城であったと言う。月輪氏は、迫の城主三位中将藤原師門の家臣で6万石を領し、天正年間(1573~92年)に眺望絶景・難攻不落のこの地に築城したとされる。戦国後期の迫合戦の際に、敗北した師門を庇って兄弟揃って討死したと伝えられる。しかし藤原師門と言う人物は実在が証明されておらず、迫合戦なるものも史実として確認できていないので、伝承の真偽には検討の余地が多い。但し、月輪氏という一族は実在したと思われ、月輪館の東門だったと伝えられるものが香林寺の山門として残っており、そこには月輪氏の家紋二ツ葉柏紋の彫刻が付けられている。尚、香林寺の近くにも月輪館とされる平地の城館跡があり(遺構は湮滅)、月輪楯と全く同じ伝承が伝わっていて、月輪楯とどのような関係だったのか、興味深いところである。

 月輪楯は、北上川の西岸にそびえる玉山の北の尾根上の、標高100m程の高地に築かれている。二重の空堀で外周を囲まれた不定形な長円形の城砦で、まるでチャシの様である。実際、古代のチャシだったものを改修・転用した可能性も指摘されている。西側を走る車道脇に立て看板と解説板が立ち、そのすぐ奥に遺構があるのでアクセスは簡単だが、城内は酷い藪に埋もれていて、遺構の確認は容易ではない。主郭内は基本的に平坦であるが、外周部に土塁が見られ、郭内には段差もあって何らかの区画があったらしい。主郭周囲の空堀は割りと規模が大きめだが、その外側を囲む二ノ郭外周の空堀は規模が小さい。いずれにしても物凄いガサ藪で、辛うじて空堀であることが分かる程度である。市の指定史跡であり、山麓の車道入口からの誘導表示もしっかりしているのに、かなり残念な状況である。
 尚、宮城県遺跡地図では、月輪楯の位置を玉山山頂付近としているが、位置が間違っていることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.682914/141.282034/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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楼台城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2184.JPG←主郭群の段状腰曲輪群
 楼台城は、葛西氏の家臣伊藤豊後守の居城と伝えられている。伊藤氏は、永正年間(1504~21年)の葛西氏と山内首藤氏の抗争(永正合戦)の際、山内首藤方に与した為、石巻城主葛西宗清の軍勢に攻め滅ぼされたらしい。その後は、青梅尾張守が楼台城に入ったと言う。

 楼台城は、標高80m程の山に築かれている。山頂から北西に伸びる斜面上に段状に曲輪群を展開した縄張りで、北西から順に三ノ郭群・主郭群・ニノ郭群と並び、いずれも多数の腰曲輪群を伴っている。特に畑地となって開けた主郭群は、多数の段状の腰曲輪群が見事な姿を現している。城内に堀切はなく、三ノ郭と主郭群はなだらかな地形で繋がり、主郭と二ノ郭は、主郭背後が数mの切岸で区画されているほかは鞍部の曲輪で繋がっているだけである。ニノ郭群の背後にもやはり後衛の腰曲輪群があり、一部に登城道となっている土橋(土塁道)が確認できる。また三ノ郭は畑地となり、先端には土塁と虎口が確認でき、その下に数段の腰曲輪が築かれている。城内に残る道は、往時も城道として使われていたものと考えられ、明瞭に残っている。多段式の曲輪群が美しい城である。
主郭前面の段状腰曲輪群→IMG_2174.JPG
IMG_2198.JPG←三ノ郭先端の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.687453/141.301925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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柴崎城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2018.JPG←二ノ郭前面の堀切
 柴崎城は、歴史不詳の城である。一説には、文治年間(1185~89年)に葛西清重の一族葛西重成が築城したとも言われるが、定かではない。

 柴崎城は、比高15m程の独立丘陵上に築かれている。北から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んだ連郭式の縄張りで、各々堀切で分断している。主郭~二ノ郭間のものは幅は広いが鋭さのない堀切であるが、ニノ郭~三ノ郭間のものはしっかりした薬研堀で、わずかに横矢も掛けられている。三ノ郭前端にも小堀切があり、その先に物見台状の小郭がある。この小堀切の三ノ郭側に、板碑が数基建っている。三ノ郭の北西には水堀の一部も残っている。主郭北西辺には低土塁が見られ、外側には藪でわかりにくいが横堀が築かれて斜面を防御している。また主要な曲輪の東側はなだらかな地形のため、腰曲輪が数段築かれているが、畑などに変貌しているものも多く、遺構なのかどうか判断しにくい。柴崎城は、全体に薮が多く、踏査は少々大変である。二ノ郭・三ノ郭は、一時期公園化されていたため東屋が残っているが、現在は藪に埋没している。基本的には単純な縄張りであるが、遺構からすれば室町・戦国期の土豪のものと推測される。薮が多いせいもあって遺構的にはあまりパッとしない。西麓に城址立看板が立っているのが救いである。
三ノ郭北西の水堀→IMG_2008.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.650696/141.193607/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鈴鹿城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1994.JPG←台地上の主郭
 鈴鹿城は、岩切館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承では、坂上田村麻呂の御台所鈴鹿御前の居館であったと言うが、定かではない。
 鈴鹿城は、大嶽山北東の低台地に築かれている。主郭と思われる部分は、台地上の一段高い方形の区画となっているが、現在は畑となっているらしい。周囲の二ノ郭と思われる平場も畑となっている。明らかに民有地の畑のため、縁の方から遠望しただけである。台地の南麓には民家があり、その門前右手に城址標柱が建っている。この民家には長屋門が建っているが、そのさまがまるで城門の様である。南に一直線に道があり、往時の大手道かもしれないので、実際に城門が建っていたのかもしれない。それにしても坂上田村麻呂の御台所の居館とは、伝説にしてもすごい誇張である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.657734/141.188865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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松島館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1963.JPG←主郭周囲の空堀
 松島館は、歴史不詳の城館である。伝承では、前九年合戦の際に八幡太郎源義家が、八幡神社に戦勝を祈願し、陣を張った時の館跡と言われるが、定かではない。

 松島館は、松島屋敷の地名が残る低台地に築かれている。小規模な城館で、車道脇に立つ解説板の奥の山林内に、空堀と土塁が残っている。その上に主郭があり、一隅に祠がある。空堀は埋まっているのか規模は小さく、また『日本城郭大系』の図では二重空堀とされるが、下段は堀というより単なる腰曲輪で、辺縁部にわずかに低土塁が見られる程度である。尚、義家が参詣したという八幡神社が館の西北にあるが、周囲を土塁に囲まれており、ここも館の一郭だった様である。但し、地元の人の話では、この八幡神社は移築されたものらしい。いずれにしても、小規模な城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.668490/141.168373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

タグ:居館
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保呂羽楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1868.JPG←主郭西側の横堀
 保呂羽楯(保呂羽館)は、奥州の雄葛西氏の居城であったと推測されている。葛西氏の事績は石巻城の項に記載する。元は登米小野寺氏の居城で、葛西氏が本拠を保呂羽楯に移すに当たり、保呂羽楯を葛西氏に譲り渡し、小野寺氏は美濃楯に移住したものとも言われるが、明証はない。石巻城と並ぶ葛西氏の居城で、戦国時代に寺池城と呼ばれたのがこの保呂羽楯であったと考えられている。葛西氏は当初石巻城を居城としていたが、時期不明ながら、後に寺池城(保呂羽楯)に本拠を移したと言われている。しかし葛西氏の系図にはかなり混乱もあり、別説では先行して奥州に入部していた奥州葛西氏と、しばらく関東に本拠を置き、遅れて奥州に下向した関東葛西氏の系統に二分されて並立していたとも言われる。いずれにしても保呂羽楯は寺池葛西氏の本拠であったが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏は改易され、没落した。翌91年、葛西大崎一揆が起きたが、伊達勢を主力とする奥州仕置軍に鎮圧されその勢力が擦り潰されると、葛西氏再興の夢は絶たれた。葛西旧領が伊達氏の支配下に入ると、新たに寺池城が築かれ、保呂羽楯はその役目を終えたと思われる。

 保呂羽楯は、北上川西岸に広がる草飼山の北半部一帯に築かれている。標高約100mで、その城域は東西1km、南北2kmに及ぶと言われ、県内最大級の山城とされる。『日本城郭大系』に記載されている縄張図では、現在保呂羽浄水場が置かれている丘陵を示しているが、主郭はその一つ南のピークにあったと見られる。西側を通る山道の脇に城址立看板が建っており、そこから登ってしばらく行くと道は左に鋭角に曲がり、その先を行くと主郭の南西端に至る。主郭は一段高くなった曲輪で、西側に横堀を穿って防御している。主郭西辺には低土塁も築かれている。主郭北側には腰曲輪が廻らされている。主郭の東側に二ノ郭、更に東に三ノ郭と思われる平場がある。主郭は山林となっているが、二ノ郭・三ノ郭は空き地となっており各々段差だけで区切られている。その他、周囲に腰曲輪らしい平場が確認できる。城の中心部は以上の通りで、その他にも広大な丘陵上に曲輪群が展開していたと思われるが(前述の浄水場もその一郭と思われるが)、時間の関係もあってそれらは踏査していない。大族葛西氏の本拠にしては、縄張り的に目立った特徴はなく、結局家臣団の統率に苦労し続けた葛西氏としては、城の普請はこの程度のものだったのかもしれない。勿論、未踏査の部分に素晴らしい技巧的な遺構が隠れている可能性もあるが。
 尚、城の中心部から南南西にやや離れた高台に、「保呂羽城址」と刻まれた大きな石碑が建っている。
主郭北側の腰曲輪→IMG_1883.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.643473/141.277893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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赤生津楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1810.JPG←主郭背後の堀切
 赤生津楯(赤生津館)は、歴史不詳の城である。伝承では、奥州藤原氏3代秀衡の一族の居城であったが、後に葛西氏の臣族が居住したと言われている。その伝承によると、平安末期~鎌倉初期の城ということになるが、真偽は不明である。

 赤生津楯は、標高70m、比高50m程の山上に築かれている。東西に並立する大館・小館の2つの城から成り、東が大館となっている。大館の南部1/3程が採石の為に削られて焼失しているが、残りの部分が残存している。採石場跡の背後の斜面の中腹に標柱が建っているが、特に道は無いので、適当に斜面を登るしかない。大館は、現存している部分では南の主郭と北の二ノ郭から構成され、主郭な南東部に方形の一段低い区画を形成している。背後は堀切で区画して二ノ郭と分断し、小さな土橋が中央に架かっている。また西斜面には帯曲輪を築いている。二ノ郭はただの平場であるが、笹薮が酷い。これら主郭から二ノ郭を取り巻くように、西から北西尾根にかけての斜面中腹に小横堀を廻らしている。大館の遺構は以上である。
 小館であるが、小館に至る大館北西の尾根の笹薮が酷く、踏査は断念した。小館は、『日本城郭大系』の図と1970年代の航空写真を見ると、不等辺四角形に近い長円形の単郭城砦で外周に空堀を廻らしただけらしく、その形態はチャシに近い。
 赤生津楯は、その素朴で古風な形態から考えると、古い時代の城砦と考えられ、伝承の時代と遺構面ではほぼ合致しそうである。
中腹の小横堀→IMG_1820.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.620978/141.250470/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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久寿田楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1775.JPG←大手虎口の出枡形
 久寿田楯(久寿田館)は、楠田三郎元重の居城と伝えられている。その他の歴史は不明である。

 久寿田楯は、比高20m程の丘陵上に築かれている。南側に楠田神社が建っており、神社裏の薮の中にすぐ空堀がある。土塁と空堀で囲まれた単郭の城館で、南面以外は大土塁と空堀で囲まれており、特に北側の土塁は郭内からでも高さ3~4mもある大型のものである。また北辺のみ横矢掛かりの屈曲がある。これによって北東部が内側に折れた形になっており、もしかしたら鬼門除けの入隅を兼ねていたかもしれない。また北の空堀は外側にも土塁を築き、その外周土塁の東端付近に堀切(或いは切通し状の虎口)があり、その東に櫓台が築かれている。その東側は畑になっていて旧状はわからなくなっているが、おそらく城外だったろう。一方、主郭南側は低土塁だけで空堀はないが、中央付近に大手虎口が築かれている。この大手虎口は、土塁で出枡形を築き、出枡形の外にも蔀土塁を築いて、虎口の防御を固めている。また主郭の東部に井戸跡らしい水溜まりが見られる。久寿田楯は市の指定史跡であるが事前情報が全く無く、この城の前に行った同じ市指定史跡の美濃楯が不発だったので期待していなかったが、立派な遺構が残っていたのは嬉しい誤算だった。城址標柱は、前述の大手虎口の脇に朽ちて倒れていたが、辛うじて楯主の名が判別できた。それにしてもこの手の小城館で、出枡形の虎口を備える例は珍しく貴重である。
主郭東辺の土塁→IMG_1737.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.609175/141.233540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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美濃楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1690.JPG←主郭に残る土塁
 美濃楯(美濃館)は、小野寺美濃守の居城と伝えられている。一説には、この小野寺氏は登米小野寺氏と称され、保呂羽楯を居城としていたが、葛西氏が保呂羽楯に本拠を移すに当たって保呂羽楯を譲り渡し、美濃楯に移住したものとも言われる。しかし葛西氏の歴史と同様、不明点が多く確証はない。

 美濃楯は、比高25m程の独立丘陵上に築かれている。一応、市の指定史跡となっているのだが、城址は未整備の上、解説板はおろか標柱もない。近代には丘陵一帯は耕地化されていたが、現在はほとんどが耕作放棄地となっている。そのため耕地化による改変の可能性もある。とりあえず藪の中を丘陵頂部に登ってみたが、主郭と推測される部分に、一応土塁の囲郭があることは確認できた。しかし前述の通り耕作放棄地で、ガサ藪に覆われており、主郭内はある程度歩けるものの遺構は藪でほとんどわからず、途中で踏査断念した。


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.622436/141.281669/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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柳津館山楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1470.JPG←主郭の櫓台・土塁
 柳津館山楯(柳津館山館)は、高森館とも言う。江戸後期編纂の『柳津村風土記書上』によれば、元は黒木紀伊守という武士の城で、後に葛西氏の家臣千葉太郎左衛門の居城となったと伝えられている。しかしそれ以外の歴史は不明で、発掘調査の結果から推定されている15~16世紀の使用時期の内、黒木氏や千葉氏の城主時代がいつ頃かなど、詳細は全くわかっていない。

 柳津館山楯は、北上川と旧北上川の分流点の東岸にそびえる、標高109mの山上に築かれている。南麓の明耕院のお婆さんに伺ったところ、昔は明耕院の墓地裏から登り道が付いていて、檀家さんの案内で登ったことがあるが、今はどうなっているかわからないと言われた。しかし行ってみると登り道はほぼ残っており、入口付近に若干の薮と途中に多少の倒木がある他は、苦労なく登ることができる。この道を登っていくと、主郭背後(東側)の堀切と鞍部の曲輪群に至り城域に入る。発掘調査報告書の測量図によれば、城内は大きく5つの曲輪群で構成されている。それぞれの曲輪群の頂部に広い曲輪があるが、これら中心の曲輪はいずれも規模が大きく、それぞれ長径70~80m程の大きさがある。これらの中心の曲輪の周囲に多数の腰曲輪群が築かれて、各曲輪群を構成している。報告書測量図で平場A・B・C・D・Eとあるが、ここではそれぞれ主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭と呼称する。主郭群は、頂部の主郭を中心に同心円状に数段の腰曲輪を廻らし、更に南側に数段の腰曲輪を築いている。主郭は北辺のみ土塁を築き、土塁東端部をL字状に曲げ、櫓台を築いている。腰曲輪とは数mの切岸で区画されるが、西側だけは切岸がなく緩い斜面で腰曲輪に繋がっている。主郭内のやや南東寄りには井戸と池跡らしい水場がある。主郭の腰曲輪群には、前述の堀切沿いと北側の一部にのみ土塁が築かれている。この城では明確な土塁は少なく、主郭群にのみ存在している(近代には城址全体が耕地化されていたので、湮滅している可能性もある)。主郭群の東側は背後の鞍部に当たり、前述の通り箱堀状の堀切とその両側に多数の腰曲輪群が築かれている。ここの一角にも小さな水溜りがあり、水の手があった可能性がある。主郭群の北側には、鞍部の広い曲輪を介して二ノ郭群がある。二ノ郭群も、頂部の二ノ郭を中心にほぼ同心円状に2段ほどの腰曲輪を廻らしている。二ノ郭群の北側から北西尾根に向かって幅広の城道が残っており、五ノ郭群に通じている。五ノ郭群は、舌状曲輪を連ねたもので、その西側側方に城道が貫通している。一方、主郭群~二ノ郭群間の鞍部の曲輪からは西に向かって曲輪が広がり、そこを貫通する大手道を降っていくと、三ノ郭群に至る。三ノ郭群は頂部の三ノ郭の西斜面に、おびただしい数の腰曲輪群を構築している。三ノ郭の東側は、二ノ郭群との間に幅広の堀状曲輪を置いている。三ノ郭群から四ノ郭群までの間は、前述の多数の腰曲輪群を縫う様に、切通し状の大手道がはっきりと残っている。この切通し状の大手道は、左右に腰曲輪群を配置して防御を固め、要所で左右に屈曲して、上の腰曲輪塁線からの横矢掛かりを意識して築かれている。大手道は途中に土塁で木戸口を設けた枡形通路もあり、防御は厳重である。四ノ郭まで降った所で、大手道は西に折れ、やはり切通し状の通路となって西側に降っている。明耕院のお婆さんが、西麓のガソリンスタンドの辺に降りれると言っていたのがこの大手道のことらしい。こちらの大手道両側にも多くの腰曲輪群が築かれ、大手道も左右に屈曲しながら降りている。四ノ郭群は北西に伸びる尾根上にあり、舌状の四ノ郭の北面から西面に腰曲輪群を築いている。この他、主郭群背後の堀切の東に、南から北に向かって尾根が突き出しているが、尾根上は綺麗に削平され、道も残っているので、近世に畑となる以前にも外郭として倉庫ぐらいはあった様な感じがする。

 以上が柳津館山楯の遺構で、それぞれの曲輪の規模が大きく、想像以上に城域が広い。技巧的な部分は少なく素朴な縄張りの城だが、多数の腰曲輪群で防御した切通し状の大手道は出色である。薮も比較的少なく、歩きやすいのも助かる。城の造りと規模を見る限り、多数の兵で守ることを前提に作られた、拠点的な城だったと思われる。それにしては城の歴史が伝わっていないのが残念である。
主郭群背後の堀切→IMG_1426.JPG
IMG_1466.JPG←主郭の池跡?
屈曲する切通し状の大手道→IMG_1559.JPG
IMG_1591.JPG←大手枡形通路の木戸口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.601780/141.306581/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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永井城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1377.JPG←三ノ郭前面の小堀切
 永井城は、桃生郡に勢力を張った山内首藤氏の初期の居城である。山内首藤経俊が、源頼朝の奥州合戦での戦功により桃生24郷を拝領し、その後時代不明ながら奥州に下向して永井城を築いて居城とした。その事績は大森城の項に記載する。室町期に南方に勢力を伸ばして大森城に居城を移すと、永井城には重臣の畑崎内膳を入れて守らせた。1499年、葛西宗清の家臣門田丹波・勝田某らが主君宗清の謀殺を図ったが、陰謀が露見し、丹波らは永井城の畑崎氏を頼って逃れた。葛西氏は丹波らの引渡しを要求したが、畑崎氏がこれに応じなかった為、1511年に永井城を攻囲し、伊達植宗の支援を得て城を陥としたと言う。その後永井城は葛西氏の持ち城となった様である。

 永井城は、標高65mの永井丘陵中央部に築かれている。この丘陵は、なだらかな斜面で形成されており、あまり要害性を感じさせない。昭和47年の河北地区教育委員会(当時)発行の『ふるさとの文化財』によれば、西から順に三ノ郭・二ノ郭・主郭・第一控丸・第二控丸(八雲神社)の5郭が並んで城を構成していたと言う。しかし現地を確認すると、実際にはもっと多くの曲輪があったと考えられる。前述の5郭は、昭和30~50年代の航空写真を見るとはっきり確認できるが、現在踏査可能なのはこの中では三ノ郭だけで、その他は耕作放棄地となって踏査不能の藪で覆われている。(八雲神社には行っていないが、GoogleMapの航空写真を見ると、社殿は現在でも残っているようなので、第二控丸は踏査できるかもしれない。)三ノ郭より西側は現在でも畑となっていて、三ノ郭と二ノ郭の間は切岸で区画されている。三ノ郭の西側前面には小堀切が穿たれ、その外に櫓台が築かれている。その南西には2段の平場が広がり、西端に堀切跡がわずかに残っている。また南斜面にも腰曲輪群があった様だが、耕地化による改変の可能性もあり、はっきり遺構とは断定できない。これら城の中心部以外にも、西の三角点のある台地も出曲輪であったのではないかと考えられる。更に南西の民家裏にも台地があり、地形的にはここも出曲輪だったように感じられるが、踏査できていないので実態は不明である。いずれにしても、城内はほとんど畑と耕作放棄地で遺構の残存度は悪い。現状を見る限り、素朴な古い形態の山城であった様だ。
西端部の堀切跡→IMG_1360.JPG
IMG_1371.JPG←西の腰曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.581939/141.283107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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山家楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1322.JPG←堀切とされる主郭背後の段差
 山家楯(山家館)は、歴史不詳の城である。地元では山家(やんべ)氏の祖先の城と伝承されている様だが、山家氏の事績についても不明である。出羽最上氏好きの私など、山家氏といえば伊達政宗の母保春院(義姫)が伊達輝宗の元に輿入れした時に付き従い、最上氏から伊達氏家臣となった山家公頼の山家氏を想起するが、同族であろうか?

 山家楯(山家館)は、標高175m、比高115m程の山上に築かれている。近くで畑仕事をしていたお婆さんに話を聞いたが、「舘山」の名が残るだけあって城があったということは認知されているが、現在では登る人もいないらしい。登山道も無いらしいので、北側の取り付きやすそうな斜面から直登した。城址は藪でほとんど埋もれており、遺構もわかりにくい。『日本城郭大系』の縄張図によれば、山上の尾根に東西2つの曲輪を並べ、東郭の東や南の尾根に腰曲輪が数段置かれている様である。実際登ってみると、北側に一段低く腰曲輪を廻らした東郭が築かれている。西郭より高い位置にあるので、これが主郭であろう。その背後の堀切は、ほとんど切岸のみで、堀というほど穿たれていない様に見えた。その西には西郭(二ノ郭)があり、その背後も堀切で分断されているとされるが、実際にはやはり切岸程度の区画で、堀の形状はあまり明瞭ではない。また各々の堀切沿いに土塁が築かれているとされるが、はっきりそれとわかるのは二ノ郭背後のものだけで、それでも低い土塁にすぎない。結局のところ、小規模で普請もささやかな城砦で、室町前期以前の古い城砦であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.061388/140.647187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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宮城楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1292.JPG←主郭の土塁
 宮城楯(宮城館)は、宮ノ城とも言い、伊達氏の家臣宮内氏の居城である。宮内氏は、元は山城である内親楯を居城としていたが、1552年、宮内因幡(中務)宗忠の時、白石川対岸の宮城楯へ居城を移し、以後1591年に加美郡色麻に移封となるまでの38年間、この館を本拠とした。1570年の中野宗時・牧野久仲らが伊達輝宗の追討を受けて相馬氏を頼って逃れた際、その逃避行の経路にあった宮城館主宮内宗忠はその通過を阻止できず、輝宗から問責されたが、遠藤基信の取りなしで赦免されている。宗忠・常清父子は伊達政宗の信頼が厚く、継嗣のなかった常清に政宗の第9子宗実が入嗣していることは、宮内氏の家格の高さを示すものと言われる。

 宮城楯は、宮集落を一望するなだらかな丘陵上に築かれている。東の高台に主郭を置き、西に二ノ郭を構え、外周に堀を廻らしていたが、主郭の大半は土取で消滅した後に住宅地となり、外周の堀跡は埋められて湮滅し、二ノ郭の北西部は東北道建設で削られているなど、遺構は湮滅が進んでいる。それでも二ノ郭は耕作放棄地となりながら残存し、その東側に主郭との間の段差が明確に残っている。ここは1~2m程の段差となり、北半分には土塁が確認できる。この他、二ノ郭の南西端には物見台状の高台があるが、薮が酷く確認不能である。宮城楯は全体に藪に覆われており、辛うじて主郭土塁・切岸が確認できたものの、遺構が僅かなのは残念である。城址標柱も、南麓の民家脇に立っているのを見つけたが、全面ペンキが剥げており、全く判読できなくなっていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.045168/140.647144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小山田楯(宮城県大河原町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1267.JPG←主郭の土塁
 小山田楯(小山田館)は、天正年間(1573~92年)に伊達政宗の家臣小山田筑前頼貞の居城であった。頼貞は伊達家中でも勇将として名高く、1588年の大崎合戦の際、政宗は留守政景・泉田重光両将と共に、頼貞を侍大将として派遣した。伊達勢は中新田城を包囲したが、大崎氏の部将南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、敗走する伊達勢との間で大乱戦となり、殿を務めた頼貞は奮戦の末に討死した。討死した頼貞の墓は、現在「小山田筑前塚」として加美町指定史跡となっている。

 小山田楯は、比高15m程の丘陵先端近くに築かれている。西麓にやや離れて建っている城址標柱によれば、東西100m、南北80m程の楕円形の平場があり、当方の一隅には一辺15m程の物見台と思われる方形壇があると言う。西尾根に取次いて登ってみたが、丘陵上は全く見通しの効かないガサ薮で、辛うじて主郭塁線が確認でき、低土塁らしいものが見られた程度である。とても踏査できる薮の状態ではなく、主郭の一部を確認しただけで断念した。名高い勇将の城にしては、遺構は全く見劣りするのが残念である。土豪の単なる高台の居館という程度のものであったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.062808/140.714393/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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池田館(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1247.JPG←主郭前面の堀切
 池田館は、奥州に移住した武州目黒氏の居館である。目黒氏は武蔵七党横山党の一流で、武蔵国荏原に本拠を構えていた。その事績は目黒氏館の項に記載する。室町時代の1444年から、目黒国平がこの地に移って居住したと言われている。1467年には、その子資平が父の菩提を弔う為に国平山称念寺を建立している。奥州目黒氏のその後の事績ははっきりしないが、館跡付近には江戸期の目黒氏の墓所が残っており、近世を通してこの地で命脈を保っていた様である。

 池田館は、緩やかな丘陵上に築かれている。入口には「目黒区ゆかりの廟所」という標柱が建っているので、近くまで行ってしまえば場所はわかりやすい。その奥には江戸期の目黒氏の墓所があり、多数の墓石が解説板と共に建っている。墓所のすぐ東には主郭前面の堀切・土塁が築かれている。この堀切の北端には、土橋が架かって郭内に通じている。館跡は、現地解説板によれば東西約300m、南北約100mの東西に長い長方形をしており、「中央部西寄りに空堀が存在する」と記載されているので、東西2郭から成る副郭の城館で、墓所があるのが二ノ郭であるらしい。一方、東の主郭は藪化しているただの平場で、堀切沿いの前面以外に土塁などは見られない。北側には腰曲輪を伴っている。主郭後部は段差で区切られた後、畑地になっているので、どこまで城域となっていたかは不明である。墓があるという情報以外の事前情報は皆無だったので、全く期待していなかったが、墓所のすぐ隣にはっきりした空堀・土塁があって遺構が明確だったのは嬉しい誤算だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.932487/140.839813/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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冥護山楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1069.JPG←屈曲する大手道
 冥護山楯(冥護山館)は、明子山城とも記載され、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で伊達政宗が陣取りしたとされる陣城である。天文の乱で子の晴宗に敗れて丸森城に隠居していた伊達稙宗が、1565年に亡くなるとその女婿で稙宗の世話をしていた相馬氏が稙宗の隠居料であった丸森他5ヶ村(伊具郡)を占領したことが発端となり、伊達・相馬両氏はその後各3代20年に及ぶ長い抗争を行うこととなった。当初伊具郡を占拠した相馬氏は、伊具三城(小斎城金山城・丸森城)を押さえて伊具支配を固めていた。この時、冥護山楯は金山城と小斎城との中間に位置する重要な戦略陣地として相馬氏が築いたと推測されている。しかし1576年になると、伊達輝宗は矢ノ目に本陣を置いて伊具郡奪還に乗り出した。1581年には小斎城主佐藤為信が伊達氏の誘降に乗って相馬氏から離反し、続いて冥護山楯も金山城と共に伊達氏の掌中に帰した。その後、伊達成実が布陣した隣の西山楯と共に、政宗がこの冥護山楯に本陣を置いたと言われている。1584年5月、田村清顕・岩城常隆・佐竹義重らの仲介で、伊達氏の優勢下で伊達・相馬両家の和睦が成立し、伊達氏による伊具郡奪還が果たされた。この和睦によって冥護山楯・西山楯はその戦略的意義を失い、その後使用されることなく廃城となった。

 冥護山楯は、標高80m程の丘陵上に築かれた城である。多重横堀と多重枡形を多用しており、伊達氏系山城の典型的な形態を示す。南の墓地裏に最初の虎口があり、そこから先の城内通路は全て堀底道となっている。この虎口も2つの堀状通路が並んでおり、前川本城の搦手虎口(外周部南西の入口)と似ている。2つの通路の内、向かって右側は途中で分岐しており、分岐の左は大手道だが、右は南東外周の横堀に繋がってしまっている。また左側通路は横堀外周の腰曲輪に繋がっており、囮虎口を兼ねていたと思われる。大手道を進んでいくと、目の前に櫓台がそびえ、堀状通路が屈曲しながらいくつにも分岐している。二ノ郭(現地解説板では「本陣」と表記)に至る大手は、屈曲した堀底道を通過し、右に登って小溜りと呼ばれる腰曲輪を経由し、左に曲がって小さな出枡形に登り、更に右に曲がって扇枡形と言う大きな出枡形の曲輪を通り、ようやく二ノ郭前面の枡形虎口に至るという徹底した多重枡形構造で、一体何回曲がるのかと言う程手が込んだ造りとなっている。但し、この多重枡形の部分は全体に薮が多く、見栄えしないのは残念である。大手道の左側に当たる南西斜面には、3本の横堀が穿たれて厳重な防御線を築いており、最上段の横堀は主郭の西側まで続いている。横堀の途中に、竪堀状の虎口も見られる。一方、前述の大手を登った先にある二ノ郭は、南北に細長く大手虎口付近のみ土塁が築かれている。二ノ郭の北には鞍部を経由して主郭(現地解説板では「人溜り」と表記)がある。なぜ主郭を人溜りと呼ぶのかはわからないが、二ノ郭より位置的に高く、土塁も多く築かれて防御が固められていることから、これが主郭であることは間違いないだろう。ちなみに現地標柱には本丸とある。主郭も南北に細長く、外周を低土塁で囲んでいる。主郭北側に搦手虎口があり、北に2段の腰曲輪が築かれ、小堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭から二ノ郭の東側には帯曲輪が廻らされ、2ヶ所の東の支尾根尾根に堀切兼用の木戸口が設けられ、櫓台がそびえている。この他、小溜りと呼ばれる腰曲輪や、その下の大阪と呼ばれる腰曲輪には横堀が穿たれ、外周の横堀と合わせて南東斜面も3本の横堀が構築されている。城内は主郭と横堀の一部が薮が刈られて整備されているが、その他は薮となっている。

 以上の様に冥護山楯は、陣城にしてはかなり普請がしっかりしており、伊達家当主がこの地を拠点に本腰を入れて伊具郡奪還に望んでいたことが窺われる。
横堀と連絡・分岐する堀状通路→IMG_1229.JPG
IMG_1215.JPG←横堀
東支尾根の堀切・櫓台→IMG_1163.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.901280/140.822453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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前館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9813.JPG←館跡の段差
 前館は、室町末期の屋敷跡とされる。館主は月輪六郎七郎兄弟の妹おだまき姫と称された女人と言われている。
 前館は、旧北上川西岸の平地に築かれている。すぐ西には、月輪氏の菩提寺であり、月輪館の東門が移築されている香林寺がある。 周囲も館内も一面の水田に変貌している。館跡は周囲よりわずかに高くなった微高地となっており、現状は六角形の形をしているが、古い航空写真と見比べると形状が異なっているので、耕地整理で形状が改変されたものらしい。また『日本城郭大系』によれば、河川改修で削られてもいるらしい。主郭とされる部分の周りも周囲の水田より高くなっており、腰曲輪が取り巻いていた可能性もある。結局後世の改変が多いらしいので、どの様な構造の館だったのか、現状からではよくわからない。いずれにしても、微高地という以外に遺構と呼べるものは残っていないのが実情である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.600514/141.262014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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寺池城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9675.JPG←本丸前面の土塁らしき土盛
 寺池城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、登米要害と呼ばれ、登米伊達氏(白石氏)の居城である。しかしその創築は不明で、葛西氏時代に築かれていたとも言われるが、寺池葛西氏の本拠は南の保呂羽楯であったとする説が有力で、寺池城が実際いつ築かれたのかはよくわかっていない。葛西大崎一揆の後、その旧領が伊達氏の支配下に入ると、1604年に白石宗直が水沢から寺池城に移封となり、その居城となった。元和の一国一城令の後は城の名を去り、登米要害と称された。白石氏は後に伊達姓を賜り、以後伊達一門・登米伊達氏となった。4代宗倫の時、隣接する涌谷伊達氏との間で新田開発による境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 寺池城は、北上川西岸の南北に長い丘陵上に築かれている。その地勢と縄張りは、伊達騒動で対立した涌谷伊達氏の涌谷城と、奇妙なほど似ている。丘陵上は数段の曲輪に分かれ、北の最上段に本丸を置き、その南に二ノ丸を配置していた。本丸は現在畑と民家となっており、二ノ丸との間は切岸だけで区画されている。背後に当たる北側には谷戸を転用した堀切があり、前面には土塁跡と思われる土盛が見られる。二ノ丸は3段ほどの曲輪に分かれ、最上段には裁判所、中段に民家、下段に懐古館が建てられている。二ノ丸の南から西側にかけても平場が広がっており、現在は公園となっている。各段を分ける切岸は明瞭であるが、近代の改変が多く往時の遺構はかなり失われている。二ノ丸周囲の平場(公園)には石組みの井戸跡が残っているが、この井戸に限らず城内に何らの標柱も解説もないので、キャッスラー以外の人にはどこが城なのだか何が遺構なのだか、さっぱりわからないだろう。城のある登米町は「みやぎの明治村」として観光地になっているが、もう少し寺池城にも愛情を注いでほしいと思う。
本丸北側の堀切跡→IMG_9710.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.657105/141.282399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯塚館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9622.JPG←水堀跡
 飯塚館は、加賀野城とも言い、葛西氏の家臣飯塚氏の居館である。飯塚氏は米谷城主亀卦川千葉氏の庶流で、米谷城主6代亀卦川盛胤の弟長明の3男重明が加賀野に分封されて飯塚氏を称した。天正年間(1573~92年)には飯塚山城持親(真満)の子飯塚修理が城主であった。1591年の葛西大崎一揆の際、父山城は佐沼城の一揆勢に加わって立て籠もったが、7月4日に伊達軍の攻撃を受けて討死し、加賀野城外竹林の中に葬られたと言う。修理はこの時疾病により参陣出来ず、父の没後14日後に没した。
 飯塚館は、現在の加賀野八幡神社の地にあった。境内には特に明確な遺構は見られない。境内の周囲は民家となっている。わずかに境内の裏手に水堀跡があり、北の民家との間に堀状の窪地が見られるに過ぎない。社殿の脇に城址立看板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.696220/141.217382/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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石森古館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9609.JPG←全景
 石森古館は、葛西氏入部以前の奥州藤原氏時代の館と推測されている。城主等は伝わっておらず、古館の名は飯塚館に対してのものとされる。
 石森古館は、現在民家となっている。四周を水田に囲まれた単郭方形居館で、周囲より一段高くなっているのが明瞭にわかる。土塁などは残っていないようである。こんなところにも登米市は丁寧に城址の立看板を立てており、 歴史を後世に伝えようと言う姿勢が感じられ、素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.703170/141.218197/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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新井田城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9591.JPG←主郭腰曲輪~二ノ郭間の水堀
 新井田城は、新井田新館とも言い、千葉掃部助、後に新井田新右衛門の居城であったと言われる。城主の変遷は諸伝あって俄に判じ難いが、1223年に新田(にいだ)氏がこの地を領し、1283年以前には新田重綱が領有していた様である。これは下野小野寺城を本貫とした小野寺通綱の後裔で、重綱の父重房が、通綱が拝領した陸奥国登米郡上新田を譲られて新田太郎と称し、新田小野寺氏の祖となったとされる。その後、1289年に千葉掃部が入部して新井田城主となり、新井田村を開創し、城の鎮護のために赤城神社を建立したと言う。時代は下って天正年間(1573~92年)の頃には千葉掃部助が城主で落城の憂き目にあったと伝えられる。この千葉掃部助は、千葉信胤の孫と言われ、信胤は主家葛西晴信の偏諱を受けており、新井田氏を称した。掃部助は、新井田新左衛門(新右衛門?)とも称したらしく、奥州千葉氏の出自であるが葛西氏の一門でもあった様である。この辺は系譜が錯綜していてわかりにくいのが実情である。いずれにしても戦国末期に落城し、廃城となったことは間違いあるまい。

 新井田城は、舘集落に築かれている。北西から南東にかけて城域が広がっており、北西から主郭・二ノ郭・三ノ郭と連なり、主郭の周囲には空堀を挟んで腰曲輪がぐるりと廻らされている。現地解説板の表記では、主郭を本丸、その腰曲輪を一の構とし、以下二の構・三の構と称している。主郭と腰曲輪は大半が水田となり、二ノ郭・三ノ郭は宅地となっているが、全体に遺構は良く残っている。城の全周と各曲輪の間は、水路のような水堀で区画されており、水堀はほぼ全て残存している。大手道は城内を貫通する車道として残っており、三ノ郭の大手門と二ノ郭虎口の部分は食い違い虎口の跡が道の曲がりとなって残り、主郭腰曲輪の大手虎口も枡形跡と思われる道のクランクが確認できる。主郭は周囲を囲繞する腰曲輪まで入れるとかなりの広さがある。主郭周囲の空堀はほとんど埋まっているが、一段低い畑となってその後を明瞭に残している。この他、主郭腰曲輪から二ノ郭の北側には馬場とされる帯曲輪が水堀に挟まれて残っている。民家が林立しているのに、これ程水堀をよく残している平城も珍しい。
城の外周の水堀→IMG_9540.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.691598/141.243281/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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御館(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9498.JPG←辺縁部の土塁らしき土盛
 御館は、伊達氏の重臣大内氏の江戸中期以後の居館である。大内氏は小浜城を居城とした戦国大名で、戦国末期の当主大内定綱は、当初は伊達政宗に抗したが後に臣従し、摺上原の戦い等で軍功を挙げて重臣の列に連なった。豊臣秀吉の命で政宗が岩出山に移封となると、定綱は前沢城主に封じられた。その子重綱は、1644年に西郡(現在の錦織)に移封となり、西郡古館に居住して城下町を整備した。以後幕末まで大内氏は西郡の領主であったが、1740年に新たに御館を築いて居所を移した。そのまま幕末まで存続した。

 御館は、錦織集落の東に張り出した比高20m程の舌状台地先端部に築かれている。現在は錦織小学校の校地となっており、改変されている。しかしよく見ると、校庭の辺縁部に土塁状の土盛が見られ、その外側には腰曲輪状の平場も確認できるので、おそらく遺構ではないかと思われる。また校庭の南西端部は一段低くなっており、小道が通っており、城門跡か何からしい。また南西麓から登る車道はおそらく往時の大手道で、この坂道を人々は御表坂と呼び、館を御館館山と呼んだと言う。御館は、あまり遺構がはっきりしないが、往時の雰囲気は感じられる。尚、御館の南の丘陵中腹に大内家代々の御霊屋がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.729489/141.273794/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小鶴城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9435.JPG←主郭北西の堀切跡
 小鶴城は、岩切城主留守氏の重臣逸見丹波守の居城と伝えられている。逸見氏は、留守氏16代景宗(伊達尚宗の次男で稙宗の弟に当たる)が伊達氏から入嗣した際に従ってきた家臣で、留守氏の宿老的な地位にあった。また景宗の代に作られた『留守分限帳』には逸見遠江守の名が見える。伊達晴宗の3男政景の留守氏入嗣の際、二派に割れる家中にあって、逸見遠江守は政景入嗣を支持した様である。逸見氏のその後の事績はよくわからない。

 小鶴城は、低地帯に突き出た比高10m程の小丘上に築かれている。現在は城址全域が宅地化されているが、地勢は健在である。戦後の航空写真を見ると、小丘上の東西2郭から成っていた様で、西側の方が高い位置にあることから主郭で、東側が二ノ郭であったと考えられる。主郭の北西には堀切と外側の土塁が残っている。主郭・二ノ郭の周囲は現在も急斜面で囲まれており、多くの部分はコンクリート製の擁壁で覆われているが、一部は往時の切岸をそのまま残していると思われる。城の周囲には幅5m程の水堀があったと言われ、北側の堀跡は前述の古写真でも明瞭で、現在は公園となっている。小規模な城であるが、往時は低湿地帯に浮かぶ孤島の様な要害であったと思われる。これほど市街化が進んでいるのに、地勢や堀切など城の痕跡が明瞭なのは素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.279755/140.930064/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鞭楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9334.JPG←榴ヶ岡公園の中段の平場
 鞭楯(鞭館)は、源頼朝の奥州合戦の際、奥州藤原氏4代泰衡が本陣を置いた陣城である。1189年、源頼朝は、自分と対立した源義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏の討伐を開始した。泰衡は鎌倉勢を迎え撃つ為、阿津賀志山に長大な防御陣地を構築して異母兄藤原国衡を大将とする2万の軍勢を配し、刈田郡に城を築き、名取・広瀬両河に大縄を張り、自身は国分原鞭楯に本陣を置いて指揮を執った。しかし激戦の末に国衡らの諸将は討死して奥州勢は敗れ、泰衡は鞭楯から本拠地平泉へ撤退した。

 鞭楯は、現在の榴ヶ岡公園がその擬定地とされている。現在は市街化が進み、公園化で大きく改変されてしまっている。公園の南斜面には中段に平場が見られるが、腰曲輪の遺構であろうか?遺構は望むべくもないが、現在でも丘陵端部の公園となっており、南への眺望に優れた地勢であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.260634/140.896912/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=std&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:陣城
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長喜城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9282.JPG←「屋敷」北の堀跡らしい水路
 長喜城は、歴史不詳の城である。伝承では、中世の豪族である沖野氏らがこの地に館を築き、「喜びに満ちた不朽の城であるように」との願いを込めて命名したとされる。しかし沖野氏の事績についても不明であり、はっきりしたことはよくわからない。
 長喜城は、仙台市街地東端に近い沖積台地に築かれている。「いぐね」と呼ばれる屋敷林が残る景観が、古い農村の風景を残していることで知られているらしい。屋敷、御蔵堀などの地名が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、「屋敷」の部分に方形の主郭があり、その東西に2つの曲輪が、また主郭の南にも2~3つ程度の曲輪があった様である。現在は遺構の湮滅が進んでいるが、「屋敷」の西郭北側に水路の様な堀状地形が垣間見れる。また「御蔵堀」も囲郭であったらしく、堀跡らしい水路が残っている。いずれにしてもあまり遺構は明確ではなく、どのような縄張りの城館だったのかも闇の中である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.239908/140.938582/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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沖野城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9272.JPG←現存する土塁
 沖野城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。粟野氏の事績は、茂ヶ崎城の項に記載する。戦国末期の当主粟野大膳重国は、1591年に伊達政宗に抗したらしく、北目城に立て籠もって抗戦し、重国の弟も沖野城に立て籠もったという。しかし衆寡敵せず両城とも落城した。沖野城はそのまま廃城になったと思われる。
 沖野城は、陸上自衛隊霞目飛行場のすぐ南に隣接する地域に築かれていた。二重の土塁と水堀で囲まれた城だった様だが、現在は宅地化が進んで、ほとんど遺構は湮滅している。明確な遺構としては、北西部の土塁がわずかに残るだけである。その土塁も、周りを生け垣で厳重に囲まれ立入禁止と書かれた畑地の中にあるので、道端から遠望することしかできない。また南西部には円弧状の堀跡と思われる地形が水路と空き地となって残っている。遺構はその程度であるが、北門、中柵、舘など地名として残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.228784/140.919635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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四郎丸館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9268.JPG←館跡の善徳寺
 四郎丸館は、奥州藤原氏3代秀衡の家臣名取四郎の居館であったと言われている。源頼朝の奥州合戦の際に、主家藤原氏と共に滅亡した。後に曾我氏の居館となり、室町時代末期には伊達氏家臣菅井和泉守実国がこの館に入ったと言われる。
 四郎丸館は、名取川南岸の沖積地に築かれていた。現在の善徳寺境内付近にあったとされ、周囲に水濠と土塁を幾重にも取り巻いた要害であったと言う。現在は宅地化などで遺構は完全に湮滅しており、何らの痕跡も見出すことはできない。城址標柱も何もないので、ここが館跡だとは近所の人は誰も知らないのではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.189060/140.916266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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