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古城めぐり(宮城) ブログトップ
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鶴楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3937.JPG←堀切
 鶴楯(鶴館)は、鶴子坂館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承によれば、前九年の役の際に八幡太郎源義家が館(本陣であろう)を構え、東に高くそびえる京ヶ森楯に立て籠もる安倍貞任を攻め立てたと伝えられるが、同様な話は東北の各所にあり、俄には信じ難い。

 鶴楯は、沼津貝塚の西にある標高48mの丘陵上に築かれている。遺構はささやかで、城域東部の八幡神社周辺に腰曲輪と思われる平場群が展開し、神社裏手にはわずかに土塁らしいものも見られる。そこから西へ丘陵をたどっても、自然地形がダラダラと続くだけである。一部に切岸と段差が見られるが、古い航空写真を見ると耕作地になっていた部分もあるようなので、その名残かもしれない。更に西に進むと、丘陵中央部の手前に堀切が穿たれている。堀切に沿って土塁が築かれ、丘陵頂部には主郭と思われる平場があり、僅かな段差で周囲の曲輪と区画されている様である。遺構から推測すると非常に古い形態の城と考えられ、源義家が本陣を置いたという伝承も、全く故無いことではないのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.446346/141.373401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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糠塚城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3891.JPG←土塁を伴った腰曲輪
 糠塚城は、葛西氏の家臣須藤勘解由左衛門の居城と伝えられている。須藤氏は、北上川下流域一帯を支配した山内首藤氏の一族とされるが、詳細は不明。糠塚城の歴史も不明点が多いが、唯一歴史に現れるのは、「須江山の惨劇」と呼ばれる事件においてである。1590年、小田原の役に不参しなかったため、奥州の名族葛西氏・大崎氏は豊臣秀吉の奥州仕置によって改易された。しかしその旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、葛西・大崎両氏の旧臣たちの叛乱を誘発してしまった。しかしその裏には、失地回復を目論む伊達政宗の煽動があったとされる。それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城に立て籠もった最後の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、徹底した残党狩りを行い、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山の糠塚館に呼び寄せ、残らず惨殺した。これが須江山の惨劇である。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。

 一方、糠塚城の地は、古代城柵の一つ、中山柵であったとも言われている。804年、蝦夷征討の為、武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥等の国から糒・米を陸奥国小田郡中山柵に運ばせたと『日本後記』にあり、その擬定地として糠塚城の地が有力視されている。

 糠塚城は、JR石巻線の佳景山駅のすぐ南にそびえる、標高37m、比高30m程の丘陵上に築かれている。主郭には配水場(既に廃止されている)があり、改変を受けている。配水場南側に大きな石碑と解説板が建っている。石碑は「中山柵跡」と刻まれ、文章が消えかけた解説板には、中山柵と糠塚城の両方の歴史が記載されている。明確な遺構は、付近の腰曲輪ぐらいであるが、低土塁を伴い、虎口らしい地形も確認できる。この他、南西中腹に祀られた神社の裏に、御子孫が建てた須藤勘解由左衛門の大きな墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.497081/141.239204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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塩野田楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3851.JPG←主郭裏の堀切
 塩野田楯(塩野田館)は、塩煮田城とも呼ばれる。この名は、古い頃にここで塩を作り、将士に供したところから、この名が伝わると言う。歴史も明確なことは不明であるが、城主は須藤勘解由左衛門、又は矢代斉三郎であったと伝えられている。須藤氏は、糠塚城主であったとも伝えられ、葛西氏に属していたと言われている。一方、石崎氏の系図によれば、石崎氏もまた糠塚城主であり、石崎勘解由左衛門の名が記録されていると言うが、須藤氏との関係は不明である。矢代氏については詳細不明である。

 塩野田楯は、舘の名が残る比高30m程の独立丘陵上に築かれている。頂上に八雲神社が鎮座しているので、登り道が付いている。神社が建っているのは外郭に当たり、北東に向かって土塁が伸びているが、積極的な削平は確認できず、自然地形のままらしい。一方、神社から堀切を挟んで主郭が築かれている。主郭は畑となっており、土塁は見られないが、北面から西面にかけて空堀が穿たれている。北面のものは前述の通り、外郭と分断する堀切となり、西面のものは西斜面を防御する横堀となっている。この手の小城塞には珍しい規模の空堀で、しっかりと穿たれている。西側の横堀の先端は枡形虎口が形成され、虎口北側は堀の土塁で防御、反対の南側は切岸で切り落として防御している。ここには西麓の民家裏からの小道が付いているが、状況から考えると往時の城道であったと推測される。主郭の南西にも平場が広がっており、二ノ郭と推測されるが、藪で形状の確認は困難である。遺構は以上で、小規模な城砦であり、出城としての機能に特化して構築されたと推測される。
西側の枡形虎口→IMG_3867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.474540/141.248345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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樋ノ口楯(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3806.JPG←北出曲輪の堀切
 樋ノ口楯(樋ノ口館)は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では、城の西方0.5kmの位置にある鎌倉後期の2枚の板碑に長江氏の名が刻まれていることから、小野城主長江氏との関連を推測している。

 樋ノ口楯は、清泰寺南西の比高55mの丘陵上に築かれている。清泰寺の墓地から小道が付いているので、城の近くまでは簡単に行けるが、城域は藪がひどく、遺構の確認が大変である。縄張図を見ると基本的には単郭の城のようであるが、主郭は東西に長く伸びた不定形で、北側だけ土塁を伴っている。主郭から派生する2つの北尾根には、それぞれ堀切を介して出曲輪が構築され、特に東側の出曲輪は土塁で囲まれている。その他、腰曲輪も築かれているようだが、藪がひどくはっきりとはわからない。技巧性もなく、ただ広い丘陵を主郭にしているだけの城で、軍団の駐屯基地か兵站拠点の様な使われ方をした城かもしれない。尚、南麓に太郎坊清水と言う泉があり、往時の水の手でもあったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.444128/141.181097/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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滝浜楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3708.JPG←西斜面の竪堀
 滝浜楯(滝浜館)は、若宮館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。『旭ヶ浦物語』には、平民貞綱の館で1577年に落城すると出家したとの伝承が載っているらしいが、確証はない。

 滝浜楯は、滝浜集落の北西に突き出した標高56mの岬に築かれた城である。城の南に電波塔があり、南東の畑脇から小道が付いているが、電波塔の先は藪をかき分けて進むしか無い。北に主郭、その南に一段低く二ノ郭を置き、外周に数段の腰曲輪を廻らしただけの、簡素な構造の城である。主郭・二ノ郭ともにほぼ全域が大藪に覆われており、進入は困難である。腰曲輪の方が藪が少ないので、腰曲輪を伝って外周を巡ると、主郭の付け根の東西斜面に落ちる比較的大きな竪堀が確認できる。いずれも東西の斜面に築かれた腰曲輪群を貫通して長く落ちている。また主郭北東角には隅櫓台らしい土壇が残っており、祠が祀られている。遺構はこの程度で、東西の竪堀だけが異彩を放つ城である。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_3680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.643573/141.489100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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朝日楯(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3598.JPG←主郭の大土塁
 朝日楯(朝日館)は、志津川城とも呼ばれ、葛西氏に属した本吉氏の居城である。元々は、奥州藤原氏3代秀衡が、本吉庄の荘園管理のために4男高衡を派遣し、高衡が根拠としたところとも伝えられるが確証はない。しかし高衡は、元良四郎とか本吉冠者を名乗ったとされることから、この地域に勢力を張っていたことは間違いないと推測されている。源頼朝の奥州合戦の後は、下総の名族千葉氏の流れを汲むと言われる奥州千葉氏の一族がこの地を支配し、本吉氏を称したとされる。南北朝時代以降、本吉氏は葛西氏に属した。その後、1418年、葛西9代太守満信の5男西館重信が本吉郡を与えられ、その孫本吉大膳大夫信胤の時に志津川に本拠を移し、この頃から朝日楯を居城とした。以後は葛西系本吉氏がこの地を支配したが、近隣の遠野城主馬籠氏と度々抗争を繰り広げ、1574年以降は本吉大膳大夫重継が宗家葛西氏に対して度々叛乱を起こすようになった。1586年には、重継は歌津十二人衆との間で兵乱を起し(歌津合戦)、翌年には気仙郡の浜田安房守と衝突した。主家葛西氏は、これら家臣団の統率に悩まされ続けた挙句、1590年、豊臣秀吉によって小田原不参の故を以って奥州仕置で改易された。翌年、葛西氏旧臣たちは挙兵して葛西大崎一揆を引き起こしたが鎮圧され、翌92年には重継が没して本吉氏の歴史は終わりを告げた。

 朝日楯は、水尻川西岸の比高65m程の丘陵上に築かれている。東麓と西麓の2ヶ所に登り道があるが、東麓の方は東日本大震災の津波被害を受けたため、登り口が少々わかりにくい。あまり技巧性のない縄張りで、広大な頂部の平場を仕切り土塁で二分し、東が主郭、西が二ノ郭であったと思われる。私は西麓から登ったが、腰曲輪を見ながら登ると二ノ郭の虎口があり、虎口土塁の一部に石垣が残っている。土塁の北側に櫓台があり、祠が祀られている。二ノ郭は耕作放棄地で藪が繁茂しており、確認が難しい。僅かに仕切り土塁らしいものが見られ、『日本城郭大系』で記載される東西に平場を二分する土塁とはこれのことと思われるが、藪がひどくはっきりしない。主郭の中も大土塁で仕切られており、この大土塁脇に神社が建っている。主郭の東面や南面には綺麗に削平された腰曲輪が2段程付随し、二ノ郭の周りにも腰曲輪が数段築かれている。城の遺構はよく残っており、特に東部の遺構は藪が少なく確認しやすい。
 尚、南三陸町の町役場のあった志津川は、殊の外津波被害が甚大で、気仙沼など周辺地域と比べると、明らかに復興が遅れている。城の麓も被災したままで、以前にあったらしい解説板は流されて、今は見られない。1日も早い復興を祈念せずにはおれない。
ニノ郭虎口の石垣→IMG_3527.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.677520/141.430285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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遠野楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3451.JPG←円弧状のニノ郭堀切
 遠野楯(遠野館)は、馬籠遠野城とも言い、奥州千葉氏の庶流馬籠氏の居城である。下総の豪族千葉氏は、源頼朝の奥州合戦による軍功で奥州に多くの所領を賜った。そして1230年、下総千葉氏3代、千葉介胤正の末子胤親が桃生郡深谷に入部した。その子胤次が後を継ぎ、胤次の後は、弟胤氏の二男忠次(宮内少輔を称す)を養嗣子とした。1289年、その子忠広が本吉郡馬籠村に移り、馬籠氏を称した。忠広の嫡子広行が、遠野楯を築いて居城としたと言われ、以後、馬籠氏歴代の居城となった。南北朝期の1336年、3代周防守行胤は葛西高清に攻められ、妹婿の赤岩城主熊谷直光の援軍を得て戦ったが、葛西軍の猛攻の前に当主行胤をはじめ、一族は殆ど討死したが、辛うじて城は守り切った(馬籠合戦)。しかし勢力を弱めた馬籠氏は、行胤の子胤宣が葛西氏に降伏し、以後葛西氏の家臣となった。戦国時代に入ると馬籠氏は志津川城主本吉氏と度々抗争を繰り広げ、1586年の歌津合戦にも一族の歌津城主歌津馬籠氏と共に参戦した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、馬籠氏も没落した。

 遠野楯は、比高40m程の南北に長い丘陵上に築かれた城である。北側に馬籠川が流れており、それを渡渉しやすい部分から渡ると、北東尾根から大手の小道が伸びている。これを登っていくと、主郭前面の独立堡塁に至る。これは実質的な馬出しで、主郭とは堀切で分断され、中央の土橋で連結されている。主郭は僅かな段差で内部が数段に分かれ、中央の上段平場に主殿があったものだろう。上段平場南側は明確な切岸で区画され、その南の平場はやや窪んだ横掘状になっている。更にその南に段差だけで区画された二ノ郭がある。ニノ郭の南に、中央に土橋が架かった堀切、その南に三ノ郭があり、三ノ郭の南にも堀切が穿たれている。これら2本の堀切は、いずれも西側が円弧状になった長いもので、特に三ノ郭堀切は西端部に腰曲輪同士を連絡する土橋が架かり、その先は短い横掘となって終わっている。この他、側方に腰曲輪があり、三ノ郭東側の腰曲輪には堀切(堀底道)に繋がる枡形虎口が形成されている。
 遠野楯は、基本的には連郭式の単純な縄張りであるが、円弧状の長い堀切が特徴的である。藪も比較的少なく、歩きやすいのも助かる。尚、北麓の国道近くに解説板が建っているが縄張図はかなり不正確で、『日本城郭大系』に記載されている縄張図の方が概ね正しい。
三ノ郭の堀切→IMG_3484.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.771183/141.438653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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歌津城(宮城県南三陸町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3323.JPG←主郭手前の堀切
 歌津城は、臥牛ヶ館とも言い、葛西氏の家臣で遠野城主馬籠氏の一族、馬籠四郎兵衛重胤の居城と言われている。重胤は馬籠大和守重吉の長子であったが、1564年に葛西氏に叛して討伐された。その後、弟の重長が馬籠氏の当主となっていることから、重胤は罪を得て歌津村に所替えされたと推測されている様だ。その後1586年、かねてより不和であった志津川城主本吉大膳と、清水浜館主の後継者問題を契機として争い、本吉方の大将黒崎兵部を討ち取ったと言う。その後、歌津馬籠氏は本家を凌ぐ勢力を持つようになったが、奥州仕置で没落し、伊達家に迎えられて伊達藩士となった。

 歌津城は、伊里前湾の南に突き出した、館崎と呼ばれる岬状の丘陵に築かれている。この丘陵は、南北2つのピークから成り、広い北のピークが主郭、小規模な南のピークが物見を兼ねた二ノ郭となっている。主郭は広い削平地で、土壇に祠が祀られており、外周を腰曲輪で囲み、主郭の南側の大手虎口には大土塁と堀切が築かれている。主郭から二ノ郭に至る鞍部は緩斜面となっており、曲輪群が広がっているが、一部が畑になっている以外は藪が繁茂していて形状は判別できない。ここから尾根状の小道を南に登っていくと二ノ郭に至る。二ノ郭は背後と西辺に低土塁を築いた比較的小規模な曲輪で、ここから岬の突端まで行くと、眼下には大海原が広がっている。また二ノ郭の北側背面下方には三ノ郭と思われる広い腰曲輪も付随している。
 歌津城周辺は、東日本大震災の津波で大きな損害を受け、防波堤工事など今でも続いている。城のすぐ東下の入江にも、大きな防潮堤が新設されている。以前は城址入口に解説板があったらしいが、津波で流され現在は失われている。このささやかな訪城記が、わずかでも三陸被災地の復興の一助になればと、願うばかりである。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_3299.JPG
IMG_3346.JPG←二ノ郭背後の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.709223/141.536543/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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矢本城(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3265.JPG←北西の腰曲輪
 矢本城は、谷本楯(谷本館)とも呼ばれ、小野城主長江勝景(月鑑斎)の弟矢本筑前守景重の居城である。勝景は深谷荘を三分して2人の弟に分知したが、元亀年間(1570~73年)に勝景と景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡したと言う。

 矢本城は、滝山公園北側の比高60m程の丘陵上に築かれている。滝山公園に通じる車道が城址西側を通っており、車道脇に城址標柱が立っている。ここから城の途中まで小道が付いている。非常に深い藪のため遺構の把握が困難であるが、丘陵頂部に主郭を置き、外周に腰曲輪を築いている様である。腰曲輪は、特に西側と北西にやや張り出しており、僅かな土塁を伴っている。主郭から北の尾根に向かって、薮の中に何段かの小さな段差が確認されるので、曲輪群が築かれているらしいが、ひどい藪で全貌が不明である。北尾根の先端には神社があり、ここもかつての城域であろうか?主郭も藪で形状が判別できないが、削平は甘いらしく、内部は凸凹している。城址標柱があるだけで、ほぼ全域未整備であり、遺構としても特筆できるものがないので、無理に訪城する必要はないだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.414308/141.183393/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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小野城(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3160.JPG←桜ヶ森楯の主郭
 小野城は、桃生の豪族長江氏の居城である。長江氏は、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の後裔と言われ、景政の孫長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。以後、この地は深谷長江氏の本拠となり、小野城は戦国末期までその居城となった。長江氏は室町時代前期には大崎氏に従っていたが、伊達氏の勢力が北上してくると、伊達氏に従属した。長江氏最後の当主は長江播磨守勝景(月鑑斎)で、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に入部させ矢本氏となり、末弟家景を野蒜に入部させ三分一所氏となった。元亀年間(1570~73年)には、勝景と矢本景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡した。1588年に伊達政宗が大崎氏の内紛に武力介入した大崎合戦が起こると、長江月鑑斎は泉田重光と共に出陣したが、大雪で大敗し、命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月鑑斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立した。その後、重光・月鑑斎らは志田郡の蟻ヶ袋城に幽閉され、その間に月鑑斎は最上義光からの誘降に乗り、伊達氏から離反した。1591年、葛西大崎一揆平定の後、伊達政宗は居城を岩出山城に移され、配下の諸将の祝賀を受けたが、長江月鑑斎と鶴楯城主黒川月舟斎の2名は現れず、その離反に怒った政宗は両名を捕らえて秋保氏の元に預けた。月鑑斎は秋保定重の豊後館に幽閉された後、政宗の命で定重・頼重父子によってこの館で誅殺され、長江氏は滅亡した。

 小野城は、3つの城域から成る複合城郭である。本城である桜ヶ森楯(桜ヶ森館)を中心に、南に梅ヶ森楯(梅ヶ森館)、北西に松ヶ森楯(松ヶ森館)を配置している。桜ヶ森楯は比高30m程の丘陵に築かれており、大きく北郭群と南郭群に分かれているが、北郭群は時間の関係で未確認である。南郭群は多くが畑化されている他は藪で、頂部の主郭に城址標柱が建っているほか、段々の平場が確認できる。しかしこれらには、後世の耕地化による改変の可能性もあるだろう。
 梅ヶ森楯は、東西に長い丘陵上に曲輪を連ねた連郭式の城砦で、一番東の円丘に主郭、そこから西に向かって二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭と並んでいる。一部がお館山公園となっているが、かなりの部分が薮で、特に三ノ郭・四ノ郭は薮で進入不能である。二ノ郭は細長い曲輪で、二ノ郭~三ノ郭間の堀切までは確認できる。三ノ郭~四ノ郭間の堀切は、確認していないが、1/25000地形図でも現れているほどなので、大きな堀切なのだろうと推測される。
 松ヶ森楯は、比高20m程の丘陵先端に築かれており、主郭は耕作放棄地、腰曲輪は薮で、これも遺構の確認が困難である。しかし何とか、土塁や主郭虎口が確認できた。
 いずれもほとんど山林の整備がされておらず、残念な状態の城である。
梅ヶ森楯の堀切→IMG_3139.JPG
IMG_3199.JPG←松ヶ森楯の腰曲輪と主郭切岸
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【桜ヶ森楯】
      http://maps.gsi.go.jp/#16/38.410710/141.152666/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
      【梅ヶ森楯】
      http://maps.gsi.go.jp/#16/38.408776/141.154125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
      【松ヶ森楯】
      http://maps.gsi.go.jp/#16/38.414274/141.148953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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三分一所楯(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3058.JPG←大手郭の土橋と堀切
 三分一所楯(三分一所館)は、浅井楯とも呼ばれ、桃生の豪族長江氏の庶流、三分一所氏の居城である。長江氏の祖長江太郎義景は、源頼朝の奥州合戦の軍功により、桃生郡深谷荘を賜った。その子孫、小野城主長江勝景(月鑑斎)は、深谷荘を三分して次弟景重を矢本に、末弟家景を野蒜に入部させ、家景は三分一所氏を称し、三分一所左衛門家景と名乗った(家景以前より、長江氏の庶家として三分一所氏があったらしいが系譜は不明)。この家景が居城としたのが三分一所楯である。月鑑斎は老練な勇将であったが、伊達政宗に背いて1591年に秋保の豊後館で誅殺された。一方。弟の家景は兄と袂を分かち、伊達氏に忠節を誓ったため、旧領の内600石を賜り、伊達氏の家臣として存続した。また家景は、馬術の相当な名人であったらしく、荒馬乗りの名手として豊臣秀吉に招かれて伏見に上り、妙技を披露して喝采を浴びたこともあったと伝えられている。その子孫からは、仙台藩で儒者として活躍した三分一所景明を輩出した。

 三分一所楯は、吉田川西岸の標高50mの丘陵上に築かれている。『宮城県遺跡地図』では丘陵先端の小さな部分のみを城域として表示しているが、実際にはその倍以上の広さがあり、中々に規模の大きな城である。西の最上部に主郭を置き、東の尾根に二ノ郭・三ノ郭を連ね、周囲に腰曲輪を廻らし、二ノ郭南に伸びる支尾根には大手郭群を築かれている。以前は東麓の公民館裏から登れたようだが、現在は斜面崩落で途絶しているので、北東の谷戸から直登した。全体に藪がひどく、遺構の確認が困難であるが、何とか東端の三ノ郭から主郭まで辿ることができた。三ノ郭と二ノ郭は段差のみで区画されているが、主郭は虎口に堀切があり、背後にも土橋の架かった堀切が穿たれている。一方、二ノ郭から南に伸びる尾根は大手であったらしく、大手郭群が築かれている。数段の平場が見られ、二ノ郭に至る部分に土橋の架かった堀切が穿たれている。確認できたのはここまでで、あまりに藪がひどくて辟易し、途中で下山したため、西側の城域がどこまで広がっているかは確認できていない。余程の好事家でなければ、訪城しない方が良いだろう。
 尚、定林寺に三分一所氏の墓があり、また城址東麓に三分一所氏の家臣浅井三郎に由来するという「しき石」が祀られている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.398636/141.143804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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反町楯(宮城県松島町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2922.JPG←垂直絶壁型の西堀切
 反町楯(反町館)は、館山楯とも呼ばれ、歴史不詳の城である。この地域は古来、竹城保と呼ばれ、鎌倉後期から室町初期までの約100年間、相馬氏の所領であったことが知られているが、反町楯との関係は不明。一方、松島有料道路(現・三陸自動車道)建設の際の部分的な発掘調査の結果では、出曲輪である西郭が15世紀後半に使用されていたことが判明している。

 反町楯は、観光地として有名な松島の北方の、標高82mの山稜上に築かれている。遺跡調査報告書の呼称に従うと、中央郭と呼ばれる城の中心部と、そこから周囲に派生する尾根上に築かれた物見の出曲輪である西郭と東郭(『日本城郭大系』では東郭ではなく南郭と南東郭と呼称される)で構成されている。城への登り道はなく、しかも東郭方面は尾根の途中を三陸道が貫通して分断しているので、西郭のある尾根北側の谷戸の廃止された浄水施設裏から登った。尾根も城内も藪がひどく、遺構の確認が非常に大変である。まず最初に到達した西郭は、背後に浅い堀切を穿ち、数段の平場群で構成された簡素な物見の出曲輪である。ここから東に尾根を辿っていくと、小ピークの後に西堀切があり、それを越えれば中央郭群である。中央郭は、大きく2段の曲輪に分かれ、南が城内最高所の主郭(A平場)、北に一段低く二ノ郭(B平場)が切岸だけで区画されている。二ノ郭は西だけでなく北側にも堀切が穿たれている。主郭はそこそこ広い平場で、主郭の南には数段の腰曲輪が築かれ、その先に切通し状の枡形虎口が構築されている。更にその下方には南の堀切が穿たれ、南堀切の先にも前衛の腰曲輪群が築かれている。また、これら前衛郭群の南西斜面の傾斜の緩いところに横堀の防御線が構築されているが、かなり埋もれているのか非常に浅くなっている。確認した遺構は以上であるが、この城の中央郭に穿たれた三方の堀切は、いずれも岩を垂直に削り切った、上総の山城でよく見た堀切と同タイプの垂直絶壁型で、宮城の城では珍しいタイプである。しかも西堀切では、よく見ると岩に木戸跡の様な人為的な窪みがあった。これも非常に珍しい遺構である。しかしそれにしても、全域に渡って藪がひどすぎて辟易した。その為、東郭は未踏査である。相当の装備と覚悟がなければ、お勧めできない城である。
西堀切の木戸跡?の窪み→IMG_3003.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.401562/141.061127/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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豊後館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2847.JPG←川原石の石垣虎口
 豊後館は、馬場館或いは豊後楯城とも呼ばれ、秋保氏の一族秋保(馬場)摂津守定重の居館である。定重は、秋保盛房の弟盛義の孫で、祖父盛義は馬場村に居住して上館城を居城とし、一名を馬場と称し、馬場秋保氏3代定重は永禄年間(1558~69年)に新たに豊後館を構えて居城を移したと言う。定重は武勇に優れ、宗家の秋保氏と共に伊達氏に服属し、二口峠の境界警備の一翼を担った。1591年、伊達政宗から離反して捕らえられた黒川月舟斎と長江月鑑斎が、秋保氏の元に預けられ、長江月鑑斎は定重の豊後館に幽閉された後、政宗の命で定重・頼重父子によってこの館で誅殺された。1599年には、政宗の命によって改修を受けたと言う。その後、馬場秋保氏は移封となり、築館より約40年にして廃館となった。

 豊後館は、名取川とその支流の合流点に突き出した段丘先端に築かれた城館である。ほぼ単郭の小規模な城館で、背後に土塁と堀切を築いて防御し、外周に腰曲輪を廻らしただけの構造である。土塁はわずかに折れを持たせて堀底への横矢を意識した大土塁である。この館で出色なのは、南の腰曲輪に設けられた石垣の枡形虎口で、小規模ながら川原石による石垣が残っている。この虎口へは急坂になった堀底道から繋がるようになっているが、堀はこの先で更に急峻な竪堀となって降っており、攻めるに攻めにくい構造となっている。『日本城郭大系』ではこの石垣虎口を、前述の政宗の命による改修によるものと推測している。この他、主郭の南辺縁部にも低土塁が残り、やはり川原石が散在しているが、遺構かどうかは不明である。小規模城館には不釣り合いな虎口遺構と大土塁であり、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.265225/140.651586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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長館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2808.JPG←宅地脇に残る3本目の土塁
 長館は、長楯城とも呼ばれ、秋保郷の土豪秋保氏の居城である。秋保氏の事績は楯山城の項に記載する。秋保氏は、元々は楯山城を本拠としており、その北東麓の名取川対岸に、二口街道を防御する城館として長館が築かれたと言う。その後、秋保氏15代盛房の時、居城であった楯山城を大曲城主長井氏に奪われ、一時山形に逃れた後、秋保領民の協力を得て奪還を果たすと、盛房はこれを機に長館を本城としたとされる。しかしその後も、詰城の楯山城と居城の長館が一体となって機能していたと推測される。18代直盛の時に秋保氏は移封となり一時廃館となったが、天明年間(1781~89年)の23代氏盛の時に再び秋保郷に戻り、秋保家の居館として家中屋敷と合わせて整備され、幕末まで存続した。

 長館は、名取川とその支流に挟まれた半島状段丘の先端部に築かれている。先端にあった主郭の背後を含め、台地状を閉塞するように4ヶ所に土塁が築かれていたとされ、現在は宅地化が進んでいるものの土塁の一部が残存している。中でも良好なのが主郭背後のものと3本目のものである。また2本目と3本目の土塁の位置では道路が折れ曲がっており、城下街道によくある「鉤の手」か食違い虎口を形成していたことがわかる。遺構は僅かであるが、往時の佇まいは感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.250853/140.681884/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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楯山城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2764.JPG←広やかな二ノ郭と大櫓台
 楯山城は、秋保郷の土豪秋保氏の要害である。秋保氏の出自は、桓武平氏の落人で平清盛の長男小松内大臣重盛の流れを汲むとも、或いは執権北条氏の内管領長崎氏の一族であったとも言われる。いずれにしても秋保郷を支配し、鎌倉後期の5代基盛の時に、楯山城を築いて居城としたと伝えられている。その後、北東麓の名取川対岸の長楯城に居城を移すまで、楯山城は長く秋保氏の本城で、秋保5ヶ村を支配する拠点であり、長楯城に居城を移してからも、詰城の楯山城と居城の長楯城が一体となって機能していたと推測されている。そして秋保氏は、一族を郷内5ヶ村に分封しながら防衛網を構築し、戦国期に伊達氏に服属すると、出羽最上氏の二口峠を越えての侵攻に対する備えを担った。そして18代弾正忠直盛が転封となるまで秋保氏の本拠として重要な位置にあったと言う。

 楯山城は、標高334.2m、比高184mの独立峰に築かれている。主郭と二ノ郭から成る、比較的規模の小さい城で、二ノ郭の下に登り道に沿って3段の腰曲輪が築かれている。二ノ郭は、峻険な山上にしては広い曲輪で、綺麗に削平されており、いかにも居館が置かれていた雰囲気を残している。西辺に土塁が築かれ、南端の虎口横には大櫓台が築かれている。主郭は二ノ郭の北側上部にあり、中央部の高台と周囲の一段低い平場と2段に分かれている。技巧性はない素朴な縄張りであるが、秋保氏の本城として異彩を放っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.247011/140.676155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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上楯城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2584.JPG←主郭北側の二重横堀
 上楯城は、伊達氏の家臣支倉氏の居城である。支倉氏といえば、伊達政宗の命でヨーロッパに派遣された慶長遣欧使節団の支倉常長が有名であるが、上楯城は常長の祖父、支倉紀伊守常正が1545年に築いた。常正の子時正は、一族山口常成の子常長を養子に迎え、まだ7歳だった常長は上楯城で成長した。その後、時正に実子久成が生まれたため、家禄1200石を二分し、常長は600石を領した。伊達家中では中堅武将の一人であった。1613年、政宗は宣教師ソテロと共に常長らを遣欧使節としてスペイン国王・ローマ教皇の元に派遣し、常長はスペイン国王・ローマ教皇に謁見して親書を手渡し、1620年に長旅の末に無事に帰国して、政宗に復命した。しかし、常長はスペインで洗礼を受けてキリシタンとなっていたため、既に幕府の禁教令によってキリシタンを弾圧していた日本には常長が平静に暮らせる余地はなく、軟禁されたまま失意の後に1622年に死去した。

 上楯城は、支倉常長の墓所のある円福寺背後の標高260m、比高70mの館山に築かれている。南北に長い広大な主郭と、その西側にやや小ぶりの二ノ郭、主郭から南東に下って三ノ郭、そして主郭周囲の数段の腰曲輪で構成されている。主要な曲輪は全て横堀で外周を防御しており、特に主郭北側と二ノ郭西側は規模の大きな二重横堀が穿たれていて、前川本城に類似した構造となっている。殊に主郭北側の二重横堀は、途中に塁線の折れを設けて横矢を掛けている他、西端部では上下の横堀を竪堀で繋いでおり、外周の竪土塁や主郭角部が竪堀上にそびえ立っている。また横堀から落ちる竪堀が数本見られるが、これらは全て城道として機能していた様である。その例としては、三ノ郭の西端に築かれた虎口で、外に出るとすぐに竪堀に接続している。この竪堀を越えれば、外の腰曲輪にも繋がっている。この他、主郭から北東に伸びる尾根には二重堀切が穿たれて分断し、また三ノ郭南端の虎口の外にも小掘切が穿たれている。横堀が多用される一方で、虎口構造は平易で、このあたりは城主の格による技巧性の違いであろうか。城址は現在、公園となって遊歩道が設置されているので、若干の遺構の改変が見られるが、ほとんどの遺構は完存している。たかだか1200石の中堅武将でこれほどの規模の城持ちとは、中世・戦国期とは恐るべき時代である。
二ノ郭西側の内堀→IMG_2473.JPG
IMG_2688.JPG←小堀切と三ノ郭虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.173669/140.711968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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前川本城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2322.JPG←大手の多重桝形虎口
 前川本城は、中ノ内城とも呼ばれ、伊達氏の家臣砂金氏の居城である。砂金氏の祖は菅原砂金蔵人常重と言い、南北朝時代の初頭に浪人として奥州に下り、砂金邑を領するようになったと言われている。その後、文明年間(1469~86年)に伊達氏に仕え、1574年まで砂金城を居城として勢力を張っていた。1575年、砂金氏8代摂津守左衛門常久が当主の時に、前川本城を築いて移り、以後江戸時代初め頃までの居城となった。11代右衛門右兵衛実常は伊達家一族の家格に列せられ、川崎城を築いて移ったため、前川本城は廃城となった。

 前川本城は、前川と立野川の合流点に突き出した丘陵先端部に築かれた城である。戦国末期に築かれた城だけあって、規模・縄張りともに雄大である。大きく半円形をした二ノ丸の内部の北寄りに、ほぼ方形をした本丸を配置した梯郭式の縄張りであるが、本丸・二ノ丸ともに大きな土塁と空堀で囲まれている。特に二ノ丸外周を巡る空堀は、西側では豪壮な二重横堀となっており、中間土塁の西側上方部分では塹壕状の武者溜まりが形成され、二重横堀を防衛する陣地となっている。またこの城では技巧的な虎口構造も出色で、二ノ丸南西側では櫓台を兼ねた出枡形がそびえ、二重横堀を睥睨している。この出枡形に繋がる城道は竪堀状となっており、数回屈曲して出枡形に繋がっている。またこの城道と並走して、横堀から竪堀が落ちている。また本丸には南の搦手と東の大手の2ヶ所の虎口が築かれているが、大手虎口の手前には空堀を縦横に複雑に絡め、更に幾重にも屈曲する多重枡形虎口を備えた、極めて技巧的な築城技術が投入されている。しかもこの多重枡形には、僅かではあるが川原石による石垣まで残存している。本丸の虎口付近にも川原石が残っており、大手虎口は石垣が組まれていた可能性がある。二ノ丸の東側はこれらの多重枡形虎口と空堀によって、別区画として独立した曲輪となっており、三ノ丸であったと思われる。また二ノ丸内部も、仕切り土塁によって2つの広大な領域に区画されている。前述の多重桝形虎口から東麓へは数個の腰曲輪を連ね、それら曲輪群の側方には大手道も築かれている。この他、二重横堀の西側に続く台地上は家臣団居住地などの外郭であったらしく、ここにも横堀や溝状遺構、二重横堀に通じる虎口などが確認できる。以上の様に前川本城は、多重横堀と複雑精緻な虎口構造を多用した伊達氏系山城の究極形の一つであり、必見の遺構である。これほどの城があまり知られていないというのは、正直言って驚いた。
 なお城跡は、城址公園とは謳われていないが綺麗に整備されており、解説板や標柱も建っている。川崎町があまり積極的にこの公園を紹介していないのは、地権者との合意によるものなのかもしれないが、これほどの立派な遺構を知られずに終わらせてしまうのは、いかにも勿体無いと思う。
大規模な二重横堀→IMG_2116.JPG
IMG_2204.JPG←二ノ丸南西の櫓台兼用出枡形
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.171240/140.631137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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伊治城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3015.JPG←外郭の土塁と堀跡
 伊治城は、奈良時代後期に律令政府が造営した古代城柵である。『続日本紀』に767年に造営されたことが記載され、初期の造営は三旬(30日間)に満たずに完了したと伝えられている。征夷政策を積極的に進めるための拠点としての造営であった。その後も整備拡張が続けられ、優遇政策によって入植者を募って開拓を進めながら780年頃まで続けられたと見られている。780年、胆沢地方の蝦夷征討の拠点かつ蝦夷南下を阻止する拠点として、按察使の紀広純によって覚鱉城の造営が計画され、伊治城はこの新城造営の基地ともなった。しかし同年、伊治城を統治していた上治郡(此治郡の誤記との説が有力)大領の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)は、伊治城を訪れた按察使紀広純・牡鹿郡大領の道嶋大盾を怨恨によって殺害し、反乱を起こした(宝亀の乱)。反乱軍は、多賀城国府をも攻撃制圧し、略奪をほしいままにして火をかけ、律令政府を震撼させる事態となったと言う。これによって伊治城は中央の手を離れ、蝦夷の郡司の掌中に帰したが、翌年の5月頃迄には政府軍の支配下に戻ったと推測されている。その後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうが、796年頃には反乱以前の状態に復旧整備されたと考えられている。

 伊治城は、一迫川西岸の比高10m程のなだらかな丘陵地に築かれている。内郭は宅地や耕地に変貌して地上からは姿を消し、外郭の内、北辺の一部にわずかに土塁・堀跡が残っている。内郭の政庁部分は、発掘調査の結果、東西約55m、南北約60mの広さを持ち、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物群の跡が見つかっている。面白いことにこの城柵では、内郭は城域の南端近くに大きく偏して配置されている。これは北方の蝦夷からの攻撃を強く意識してのこととも考えられる。ちょうど国道4号線脇に城の解説板が建っているのが、内郭の中央付近に相当するが、解説板以外には城柵の形跡は微塵も感じられない。遺構は僅かであるが、古代史の好きな人には歴史的経緯のある城なので、お勧めかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764708/141.038404/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古代城柵
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刈敷館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2074.JPG←微高地の主郭塁線
 刈敷館は、刈敷氏の居館である。刈敷氏は、南北朝期に真坂楯に下向した狩野氏の一族で、嶋躰館の狩野兼親から分流してこの地に入部し、地名を取って刈敷氏を称したと言う。本家の狩野氏と共に大崎氏の家臣であったと考えられ、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、刈敷氏も滅亡した。

 刈敷館は、一迫川東岸に築かれた居館で、白山神社の南東に隣接して、方形の空き地となって残っている。周りの耕地より僅かに高くなっていて、曲輪跡であることが想像できる。往時は土塁で囲まれていたのではないかと個人的に推測しているが、昭和20年代の航空写真を見ると既に土塁の痕跡はなく、方形の空き地が主郭で、南に横長の長方形の二ノ郭があったらしい。しかし二ノ郭は水田になっていて、今ではその痕跡は見出だせない。主郭は一応公園になっているらしいのだが、若干の植え込みとベンチがあるぐらいで、公園なのかどうかも一目ではわからないぐらい中途半端である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.766900/141.046708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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佐沼城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←本丸の天守台
 佐沼城は、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった城である。城の歴史は必ずしも明確ではなく、伝説では奥州藤原氏の家臣照井太郎高直の居城であったとも言われるが、県内各地に同様の伝承があるので俄には信じ難い。南北朝時代には、鎮守府大将軍北畠顕家が摂州阿倍野で討死し、奥州軍が四散した後、奥州に戻った葛西氏が寺池城と佐沼城を築いたと言われており、葛西氏の支城として築かれた。しかし室町中期には大崎氏の支配下に入り、天文年間(1532~55年)には大崎氏の家臣石川氏が城主であったと伝えられている。この城が明確に姿を表すのは、1590年の奥州仕置以後である。即ち、小田原不参の故を以って葛西・大崎両氏が改易となり、葛西・大崎の旧領は豊臣秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられた。しかし木村氏の圧政によって岩手沢城での蜂起を皮切りに、「葛西大崎一揆」が勃発した。蜂起は燎原の火の如く瞬く間に領内全域に広がり、寺池城で父吉清と対策を協議した清久は、名生城への帰途、佐沼城で一揆勢に取り囲まれ、救援に赴いた吉清も佐沼城に包囲された。命を受けた伊達政宗により、吉清・清久父子は救出されたが、翌91年、一揆勢は佐沼城に立て籠もった。実はこの一揆は、政宗による煽動によって惹起されたものであり、それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山に呼び寄せ、残らず惨殺した(須江山の惨劇)。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。佐沼城には、出羽大橋城主湯目民部景康が移封された。景康は後に政宗の命で津田氏に改姓した。佐沼城は、藩政時代には佐沼要害と称され、津田氏は7代丹波定康の時代までこの地を領したが、1756年に改易された。津田氏の後には、高清水城より亘理伯耆倫篤が移封され、以後亘理氏の居館として幕末まで存続した。

 佐沼城は、迫川西岸の比高10m程の高台に築かれている。現在鹿ヶ城公園となっており、改変を受けているが、本丸部分はよくその形状を残している。梯郭式に近い環郭式の縄張りで、城の東側に偏した本丸を囲むように二ノ丸があり、更にその外周に三ノ丸が取り巻いていた。本丸は外周に低土塁が残り、東端に横矢張出しの大型の櫓台(おそらく天守台)を備えている。南東角にも隅櫓台が築かれている。本丸は広めで、十分な居住性があったと推察される。本丸の周りには大きな空堀が廻らされているが、残念なことにコンクリートの護岸で改変されてしまっている。しかし形は往時のままなので、城の雰囲気はよく残っている。二ノ丸・三ノ丸は市街化で改変され、二ノ丸部分がやや高くなっている以外、ほとんど形状を追うことができないが、往時は迫川周囲の沼地を水堀として取り込んだ、浮島の様な要害であったらしい。城の西側を流れる長沼川が外堀の役目をしていた様である。三ノ丸の北西端には独立性の高い丘陵地があり、西館と呼ばれている。津田家・亘理家の支配時代には各家の墓所となり、現在も両家の墓が残っている。西館は、それ自体が佐沼城西方を守る出城であり、高台上に堀切や横堀が残り、高台の北東下方にも横堀・土塁が築かれている。この下方の横堀は三ノ丸内にあることから、往時は城内通路を兼ね、土塁は城門を構成していたのだろう。
 佐沼城は、改変が進んでいるものの、街中の城にしては主要部の遺構がよく残っており、鹿ヶ城大橋の上から見た本丸の姿も、城以外の何物でもない。季節を問わず訪城出来る城である。
西館に残る横堀→IMG_1993.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.694839/141.196203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八幡館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←住宅地内に残る土盛り
 八幡館は、伝承では留守氏の祖伊沢家景の家臣、八幡兵庫の居館と伝えられている。八幡氏は代々留守氏に仕え、陸奥介を称して鎌倉幕府の御家人として宮城郡八幡庄内に地頭職を与えられていた。室町時代に入ると八幡介と称するようになったが、一説には平安後期以来の在庁官人の流れを汲む陸奥介平景衡の系統から、鎌倉前期にこの地に移住してきた保田景家の系統に取って代わられ、その際に名乗りを八幡介と称するようになったともされている。室町時代には、八幡氏は一時留守氏を凌ぐ勢力を持ち、留守氏と抗争することもあったが、戦国時代に入って伊達氏に服属した留守氏が勢力を回復すると、留守氏の家臣団に組み込まれた。戦国後期には八幡景廉と弟の下間業継が家督を巡って対立し、景廉が主君留守政景に事態収拾を訴え出ると、これを聞いた政景は激怒し、1578年、下間館を攻撃して業継を追放し、八幡氏の内訌を平定した。以後、八幡氏は安泰となり、景廉は政景に忠節を尽くすようになった。一方、追放された業継は、姉の嫁ぎ先である岩沼の泉田重光を頼って身を寄せた。このことが、大崎合戦の際に伊達勢を率いた留守政景・泉田重光2将の対立の遠因となったとも言われている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏と共に留守氏が所領替えとなると、八幡氏も留守氏に従って八幡の地を去った。

 八幡館は、砂押川南岸の比高10mにも満たない小丘陵に築かれている。丘陵上の主郭は現在配水場となっており、周囲一帯も完全に宅地化されており、地勢以外の遺構はほとんど残っていない。僅かに主郭の南の住宅地脇に、主郭南側の曲輪の一部と思われる土盛が残っているだけである。尚、付近には「末の松山」「沖の井」など、古今和歌集にも詠まれた史跡があるが、八幡館と何らかの関係があったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.287579/141.001604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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築館城・館越城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1740.JPG←堀跡と腰曲輪群
 築館城・館越城は、2つの城から成る複合城郭と推測される。この付近には、花楯城・大楯城・小館丸館や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。
 築館城は、詳細は不明であるが、室町時代の頃に岡山城という武士の居城であったと伝えられている。岡氏は、一説には川内小屋館の館主であったとも言われ、現在の大郷町内の羽生・川内地区を領していた土豪であったと推測されている。鎌倉時代以降、この地域は菅原氏・吉良氏・大崎氏・留守氏・葛西氏等によって支配権を巡る闘いが繰り広げられた。岡氏は、これら周辺諸豪の狭間にあって、その傘下に与して支配領域を形成したが、戦国末期には黒川氏・葛西氏・留守氏らの勢力の狭間で消滅していったものと推測されている。
 館越城については築館城以上に歴史不詳であるが、築館城と隣接していることから強い関連があった城であったと思われる。現地の築館城標柱には「古城」と表記されている。

 築館城・館越城は、吉田川南岸の比高40m程の丘陵先端に築かれている。北から築館城・館越城と並び、2つの城の間は堀切で分断されている。築館城の方は現在築館公園となって整備されている。頂部に主郭を置き、東西北の3面に腰曲輪群を段状に連ねた比較的小規模で単純な縄張りの城砦である。城全体の規模と比較すれば多くの腰曲輪が綺麗に構築されており、ほとんど居住性はなかったと考えられるが、有事の際の臨時の詰城としては申し分なかったものと推測される。腰曲輪群の西側下方には堀跡らしい低地も見られる。台地基部は大堀切で分断されており、現在は小道が通っている。堀切の南には館越城があるが、山林となっており、夏場は藪で遺構の確認が困難である。そのため訪城時には、僅かに北端に祠の祀られた平場と虎口らしい形状が確認できただけであった。築館城の方は、遠目にもいかにも城だという形を現しており、近くを通った時には寄ると良いだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.432346/141.019864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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花楯城・大楯城・小館丸館(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1709.JPG←大楯城中間の堀切
 花楯城・大楯城・小館丸館は、3つの城が連郭式に配置された複合城郭である。この付近には、築館城・館越城や石原城館群など複数の城館で構成された城が多い。花楯城・大楯城・小館丸館は、天文年間(1532~55年)の頃に葛西氏一族の金沢長門守が城主であったと言われ、大崎氏・黒川氏に対する備えとして築かれたと言う。その他の事績は不明であるが、1590年の奥州仕置で葛西氏が没落すると、廃城になったのだろう。

 花楯城・大楯城・小館丸館は、吉田川南岸の比高30m程の丘陵先端に築かれている。北から順に花楯城・大楯城・小館丸館と並び、大楯城が本丸に当たり、それぞれの城の間は堀切で分断されている。普通に考えれば3つをまとめて一つの城として扱うべきだと思うのだが、なぜそれぞれに別の城の名が付いているのかはよくわからない。また花楯城の「花」は「端」の転訛であろう。即ち「突端の城」の意味である。2つの堀切には現在車道が通っており、改変を受けている。またそれぞれの城も、ほとんどの曲輪は畑になっているため、多少の改変を受けている可能性がある。いずれの城も堀切跡の車道脇に標柱が立っているが、花楯城の標柱が立っているところから登ったところにある頂部の大きな曲輪は、「宮城県遺跡地図」によれば花楯城ではなく、大楯城の曲輪であるらしく、それを正とすれば大楯城の主郭に当たるのだろう。即ち大楯城は車道となった堀切で南北に主郭・二ノ郭を並立させた一城別郭であったらしい。大楯城の主郭の急峻な切岸の下にある北側の曲輪群が花楯城の様である。遺構としては曲輪群や一部に土塁らしいものも民家裏に見られるが、改変された可能性もある。民家裏の畑地であるので、立ち入りには注意を要することもあって、少々消化不良気味になる城である。
大楯城の主郭→IMG_1721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.437674/141.032073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大窪城(宮城県大郷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1660.JPG←主郭切岸と横堀
 大窪城は、藩政時代に伊達家一族格に列した大松沢氏の居城である。大松沢氏は、飯田八郎左衛門吉実を祖とし、伊達郡宮沢を治めていたため後に宮沢氏を称したとされる。1495年、大松沢郷が伊達尚宗の領地となり、吉実の後裔、宮沢掃部時実を大崎・葛西両氏に対する北方の押さえとして大松沢に入部させ、大窪城を居城としたと推測される(一説には、宮沢氏の大松沢入部は伊達稙宗の時ともされる)。戦国末期、伊達政宗の時の領主は宮沢元実で、大崎合戦や摺上原の戦いで軍功を挙げ、1592年には朝鮮の役に従軍するなど、伊達軍の一翼を担って活躍した。その功により、政宗より大松沢氏を称する様命ぜられ、伊達家一族の家格を与えられた。以後、江戸時代を通して大松沢所に鎮し、幕末まで存続した。大松沢氏15代衛実は、戊辰戦争において白河口軍事総督に任じられて戦ったと言う。

 大窪城は、鶴田川北岸の比高70m程の丘陵上に築かれた城である。現在城址公園として整備されており、山上まで車で行くことができる。東西に長い不正多角形の主郭を丘陵頂部に置き、高さ7~8m程の切岸の周囲に腰曲輪を廻らした構造となっている。主郭の北辺と南辺の塁線は内側に歪んでおり横矢を意識している。南辺だけは斜面の斜度がきついため、腰曲輪が置かれていない。主郭東側には横堀を挟んで土壇を有した曲輪があり、一方主郭の西側はやや広い面積の腰曲輪で二ノ郭とされている。二ノ郭の北側にも土壇があり、北西の台地基部を分断する堀切に対する櫓台であったと思われる。二ノ郭の南西斜面には腰曲輪群が築かれ、その南北両端は両側を竪土塁で囲み防御し、腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれている。従ってこの腰曲輪群は、側方を竪土塁で、下方を横堀で囲んで防御した構造となっている。更に腰曲輪同士の横矢掛かりが多数あり、かなり厳重に防御していたことが伺われる。訪城した時は晩夏であったが、ちょうど雑草が伐採されたばかりで遺構が非常にわかりやすく、幸運だった。
南西斜面の腰曲輪群→IMG_1602.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.468223/140.991969/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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八谷楯(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1471.JPG←そびえ立つ主郭南端の櫓台
 八谷楯(八谷館)は、伝承では八谷冠者が永禄年間(1558~69年)まで居住したとも、或いは八谷越前守が天正年間(1573~92年)まで居住していたとも言われている。しかし八谷氏についての記録がなくその事績は不明である。一方、勢力圏から考えれば鶴楯城主黒川氏に属していたものと推測され、八谷楯から谷戸を挟んですぐ北の山上に黒川氏の初期の居城御所楯が築かれていることから、八谷楯は御所楯の出城だったと考えるのが自然だろう。

 八谷楯は、東北自動車道脇の比高20m程の南北に長い丘陵上に築かれている。現在は八谷館緑地公園として整備されているが、公園化に伴う破壊を受け、また北半分は東北道の建設で破壊されてしまっており、旧状はかなり変わってしまっている。細長い丘陵を利用しているため、縦に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、曲輪間は堀切で分断している。主要な曲輪は4つで、南から順に笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭と仮に呼称すると、三ノ郭は前述の通り消滅しており、残っているのはそれ以外の3つの曲輪であるが、公園化で土塁などはかなり改変されている。『日本城郭大系』の縄張図には、笹曲輪と主郭の間も堀切があった様だが、ほとんど埋まっている。その上には主郭南端の櫓台がそびえている。主郭内は数段の平場に分かれており、腰曲輪を伴っている。この城で最も明瞭な遺構は主郭北側の堀切で、改変を受けているものの横矢掛かりでクランクした堀の形状がよく分かる。二ノ郭は3段に分かれた平場で城内最大の曲輪である。主郭よりやや低い位置にあり、西側には腰曲輪を伴っている。城の大手は南にあったと推測されるが、そうなると笹曲輪から大手道を登ってすぐに主郭があることになってしまうので、もしかしたら私が二ノ郭としたのが主郭であったかもしれない。そうすると、主郭の方が二ノ郭より低くなってしまうので、判断に迷うところである。城址公園としては、非常に残念な部類に入る遺構の状況である。
主郭北側の堀切→IMG_1509.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.439842/140.914507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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桑折城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1231.JPG←東尾根曲輪群
 桑折城は、大崎氏の重臣渋谷氏の居城である。古文書には、城主として渋谷相模守の名が記されている。渋谷氏は、大崎氏の入部前から河内四頭(渋谷氏・大掾氏・泉田氏・四方田氏)と称される国人領主で、大崎氏の入部後は徐々に大崎氏の勢力に組み込まれ、大崎四家老の一に数えられる重臣となった。桑折城が歴史に大きく現れるのは、1588年の大崎合戦に於いてである。大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。この時、渋谷相模守が守る桑折城には、その甥に当たる鶴楯城主黒川月舟斎晴氏が加勢に入った。大崎勢の激しい抵抗に攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて撤退を始めると、大崎勢は各所の城から出て猛変撃に転じたことで、伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。また留守政景の軍勢は雪原に孤立して危殆に陥ったが、黒川月舟斎は政景の舅であったことから、月舟斎の温情にすがって帰陣を許され、虎口を脱して千石城に戻った。新沼城に孤立した泉田重光、長江月鑑斎らは大崎氏に捕らえられ、大崎合戦は伊達勢の大敗で幕を閉じた。その後、1590年の奥州仕置で大崎氏が改易となると、桑折城も廃城となった。

 桑折城は、鳴瀬川南岸の標高55m、比高30m程の丘陵上に築かれている。城域は、本城と出城の南楯と、大きく2つの区域に分かれており、本城は丘陵北端の東西に長い尾根上に築かれている。主郭は東のピークに築かれ、西・北・東の三方の尾根に曲輪群を連ねている。メインになるのが西尾根で、主郭の西に長い二ノ郭が続き、土橋の架かった堀切を介して三ノ郭、更に前面を小掘切で防御して四ノ郭群が連なり、西端は段曲輪群で登城道を防御している。四ノ郭群の北切岸には、内枡形虎口や畝状竪堀風な地形がある。一方、北尾根も第2の二ノ郭とも呼べるような長い曲輪であるが、北端は開発で削られてしまっている。東尾根には、片堀切を介して段曲輪群が連なっている。本城から南に堀切を介して尾根伝いに進み、ピークから東に降っていくと、東端のピーク上に南楯がある。2つの曲輪だけで構成された小規模な城砦で、いかにも出城という造りである。ピーク上に主郭があり、北東に舌状の二ノ郭が長く伸びている。主郭周囲には腰曲輪と虎口もあり、西尾根は堀切で分断している。以上の遺構がほぼ完存し、しかも館山公園として整備され、晩夏でも遺構の確認が全く問題なく出来る。主郭の城址標柱に「きれいな公園、郷土の誇り」と書かれているが、このきれいに遺構が残る城址公園は、まさしく郷土で誇るべきものであろう。予想以上に素晴らしい城址公園だった。
二ノ郭手前の土橋と堀切→IMG_1204.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.524499/140.950062/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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千貫森楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1129.JPG←主郭下方の横堀
 千貫森楯(千貫森館)は、歴史不詳の城である。伝承では早川民部の城であったと言われるが、詳細は不明である。

 千貫森楯は、鳴瀬川南岸の比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は住宅地と高速道路に挟まれて独立丘陵の様になっているが、開発されるまでは南の丘陵地帯と繋がっていた。城址は千貫森桜公園となって整備され、登り道が付いているので、夏でも訪城可能である。頂部に小さな主郭を置き、南に小郭、更に堀切・土塁を介して南の曲輪に繋がっている。また主郭の北西にも出曲輪があるようだが、南の曲輪ともども削平が甘く、どれほど曲輪として機能していたのかよくわからない。一方、主郭の南東斜面には前述の堀切から繋がる形で円弧状に横堀が穿たれている。よく見ると、横堀の起点には枡形空間があり、枡形虎口を形成していた様である。またこの枡形の下方には腰曲輪が築かれている。従ってこの横堀は、実は城内通路を兼ねた塹壕であったことがわかる。小規模な城砦で、主郭には給水設備、南曲輪には鉄塔が建っていて改変を受けているが、遺構は比較的よく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.519983/140.931094/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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駒犬城(宮城県塩竈市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1063.JPG←腰曲輪状の墓地
 駒犬城は、岩切城主留守氏の支城である。古くは駒崎城とも呼ばれたらしく、南北朝期の1351年に観応の擾乱の余波で奥州管領であった吉良貞家・畠山国氏両氏が戦った際、吉良氏が「駒崎」に在陣していたことが『余目記録』の記述から知られており、『日本城郭大系』ではこの駒崎が駒犬城のことであろうと推測している。その後、留守氏の重臣佐藤氏が城主となり、城主の名として佐藤左近・佐藤信高が伝えられている。また、塩竈神社の明応六年(1497)銘の鐘に佐藤宗高の名が見られ、信高の一族と推測されている。戦国期に、伊達晴宗の3男政景が留守氏に入嗣した際には、駒犬城主佐藤太郎左衛門は村岡氏らと共に強く反発し、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。この時、駒犬城も落城し、以後廃城になったと思われる。

 駒犬城は、塩釜港の南西にある比高30m程の独立丘陵上に築かれている。眼下の塩釜市街地は多くが埋立地であり、往時は内湾に突き出た岬だったと推測され、寺ヶ崎と呼ばれたと言う。東園寺の裏山に当たり、現在城内は全て墓地に変貌している。頂部は南北に長い平場となっているが、外周には数段の腰曲輪状の平場があり、やはり墓地に変貌しているものの、往時の腰曲輪の名残と推測される。改変が激しいので、腰曲輪らしい地形しか確認できないが、墓地の入口には城址の石碑が建ち、城があったことをわずかに伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.315245/141.021731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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今泉城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0819.JPG←堀跡の道路と郭内への傾斜
 今泉城は、天正年間(1573~92年)に国分氏の家臣須田玄蕃の居城であった。築城年代は定かではなく、発掘調査では鎌倉後期から南北朝期の陶器が出土しており、その時期まで築城時期が遡るのかどうか、考究が待たれている。
 今泉城は、名取川北岸の平地に築かれた城で、現在住宅地となっている。遺構はほぼ湮滅しているが、堀跡が円弧状の道路になっており、概ねその形状を追うことができる。道路から郭内に向かって僅かに高くなっていることからも、道が堀跡であることがわかる。また堀跡と思われる水路も残っており、朧気ながら城の痕跡を追うことができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.210332/140.928047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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北目城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0807.JPG←城址付近の現況
 北目城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の城である。茂ヶ崎城主粟野大膳が北目城に移り、天正年間(1573~92年)まで居城した。1600年の関ヶ原合戦の際には、南の上杉景勝と対峙するための伊達政宗の拠点とされた。後に伊達氏家臣屋代勘解由兵衛が置かれたと言う。平成4~5年の発掘調査によって、江戸時代初期の障子堀が確認されており、堀の上幅10~14m、深さ3m以上あったと言う。障子堀ということは、小田原の役の後に北条氏の築城技術が全国の城に導入された一環であろうから、小田原の役後に改修を受けたと推測される。

 北目城は、広瀬川南岸の微高地に築かれた城である。微高地の先端近くに築かれたと考えられ、「館ノ内」などの地名が残っているが、遺構は早くに失われたらしく、昭和20年代の航空写真では既に明確な遺構は確認できない。広い車道の脇に解説板があるのが、城跡を伝える唯一のものである。この解説板に「この遺跡の現状を変えようとするときは・・・」の注意書きがあるが、ここまで何もないと虚しく聞こえてしまう。勿論、前述の障子堀の様に地下には遺構が眠っているのであろうが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.223280/140.897341/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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