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多賀城(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0353.JPG←政庁まで伸びる南大路の跡
 多賀城は、多賀柵とも呼ばれ、律令国家によって造営された陸奥国府である。奈良時代前半に創建され、国府であると共に鎮守府としての機能も有した古代城柵でもあった。多賀城碑の碑文と発掘調査の結果などから、4期に渡る変遷と次の歴史が明らかになっている。即ち、多賀城の創築(第1期)は、724年、按察使兼鎮守将軍の大野東人による。第2期は762年、藤原朝獦により大改修が施された。しかし780年に伊治公呰麻呂の乱で焼き討ちにあって焼失した。その後再建され(第3期)、802年、征夷大将軍坂上田村麻呂によって北方に胆沢城が新たに築かれると、鎮守府機能は多賀城から胆沢城に移された。869年の貞観大地震で多賀城は破壊を受け、城下には津波が押し寄せて1000人以上が溺死したと言う。被災後に復興されたが(第4期)、10世紀半ばには城柵としての機能を失った。
 古代城柵としての歴史はここで一旦終りを迎えるが、その後の前九年の役・後三年の役でも軍事拠点として使用された。1333年の建武の新政では、後醍醐天皇の命により北畠顕家が陸奥国司・鎮守府大将軍に任じられ、皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、父北畠親房と共に多賀城に下向して奥州府を統治した。しかし発掘調査ではこの時期の遺構は確認されておらず、南北朝期の陸奥国府の正確な所在は不明である。尚、作貫地区では中世の豪族の居館跡が検出されており、建武期の奥州府がここに置かれた可能性もあるのではないだろうか。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、南北朝の抗争が始まると、多賀城は北朝方の激しい攻勢に晒され、1337年正月、顕家は遂に多賀城を放棄して霊山に陸奥国府を移した。その後、奥州探題として入部した大崎氏が大崎地方を本拠とするようになると、多賀城は歴史から姿を消した。

 多賀城は、現在国指定の特別史跡として整備されている。砂押川と加瀬沼の間にある丘陵一帯を城域に取り込んだ広大な城柵で、外周には築地塀の跡が土塁状の高まりとなって延々と残り、北東部には東門跡、南面には南門跡が発掘復元(基壇のみ)されている。また中央には政庁跡があり、やはり基壇などが復元整備されている。そこから谷戸を挟んだ東の丘陵上(作貫地区)には古代の役所跡とともに中世の豪族居館も確認されており、広い城柵内でここだけ、土塁と空堀が残っている。江戸時代にはここに、鹽竈神社の神官の屋敷も置かれていたらしい。外郭南西部には西門もあったようだが、そこは民有地のせいか整備されていない。この他では、城内の石敷き道路や、政庁跡から南門を貫通して一直線に南に伸びる大路も復元整備されている。城内は起伏に富んだ丘陵地で、宮沢遺跡と同様な構想で作られていることがわかる。私は、古代城柵フリークではないので、あまり強い感慨は抱かなかったが、日本古代史好きの人には必見の史跡であろう。日本三古碑の一つである多賀城碑も必見。
外郭北東の隅櫓跡→IMG_8686.JPG
IMG_8734.JPG←作貫地区に残る空堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.306574/140.988386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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小曾沼城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8666.JPG←城址とされる高玉神社
 小曾沼城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。北にわずか600m程しか離れていない一名坂城と共に、一体となって機能したと見られ、その経緯は一名坂城の項に記載する。結局大河戸一族は、頽勢が濃くなると一名坂城・小曾沼城に立て籠もってこれを死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方の吉良貞家の軍勢に攻略され、大河戸氏の本拠山村城も陥落したと言う。
 小曾沼城も一名坂城と同様、その位置は明確ではないが、現在の高玉神社付近にあったのではないかと推測されている。なんでも、城名も元は「獺(カワウソ)の住む沼(獺沼)」の転訛だとのことだそうだが、往時の地形は七北田川の氾濫等で変わってしまっているらしい。『泉市史』では「高玉稲荷社が、小曾沼の城跡に営まれたものとの伝承がある」と記載しているそうだ。周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもない。推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に七北田川の渡河点を押さえる出城であったと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.317720/140.891955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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一名坂城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8662.JPG←城址推定地南の傾斜地
 一名坂城は、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏の出城である。大河戸氏は武蔵大河戸氏の後裔で、源頼朝の奥州合戦の軍功により陸奥国宮城郡山村の地を賜った。南北朝期には山村城(山邑城)を本拠とし、一名坂城・小曾沼城を出城として築いていた。室町幕府の内訌「観応の擾乱」が生起すると、それにつけ込んで各地の南朝方が一斉に反攻を開始し、大河戸氏も南朝方に付いて皇子山村宮を奉じ、北朝方の吉良貞家と交戦した。1352年、宇津峯宮を奉じた北畠顕信も、北朝方を打ち破って進軍し、国府多賀城の奪還に成功した。しかし、翌年には吉良貞家は勢力を盛り返し、多賀城を攻撃した。多賀城救援のため大河戸一族と共に出撃した山村宮は、北朝方の優勢な軍事力の前に討死し、多賀城は再び北朝方の手中に帰した。宇津峯宮・北畠顕信らは宇津峯城に逃れて抗戦を続けた。山村宮の討死後、大河戸一族は一名坂城・小曾沼城を死守したが、衆寡敵せず間もなく北朝方に攻略され、更に本拠の山村城も陥落したと言う。

 一名坂城は、その位置は明確ではないが、現在の七北田小学校付近にあったのではないかと推測されている。位置も明確ではないぐらいであり、しかも周囲一帯は完全に市街化されており遺構は望むべくもないが、推定地付近は七北田川北岸の丘陵地で、大きな傾斜地の上にあり往時は要害であったことが伺える。また推定地のすぐ西側には奥州街道が通っており、小曾沼城と共に渡河点を押さえる交通の要衝であったことも伺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.322602/140.892448/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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師山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8631.JPG←主郭北東角の隅櫓の張り出し
 師山城は、大崎氏の重臣渋谷弥三郎の居城と伝えられている。一説には、大崎氏2代直持が師山城を居城として勢力を拡大したとも言われる。1534年、大崎氏家中で「天文の内乱」が生起し、新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢氏らと共に主君大崎義直に反旗を翻すと、義直は自力で叛乱を鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を仰いだ。請いを容れて大崎領内に進軍した稙宗は、師山城を拠点として反義直勢力の拠点古川城を攻撃したと言う。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景を総大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。結局攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて大敗した。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 師山城は、城山と呼ばれる微高地にあった。周囲を小河川の流れる低湿地帯に囲まれ、そこに半島状に突き出した低台地を利用した城であったと推測され、標柱の東にある段々の高台となった畑地は主郭の遺構と思われる。昭和20年代の航空写真と見比べると、現在とほとんど地形が変化していないので、おそらく往時の形状をかなり留めていると思われる。主郭の周囲には腰曲輪の他、隅櫓の張出しまで確認できる。主郭に繋がる台地基部ももちろん城域だったと思われるが、そちらは現在は宅地化で改変され、遺構は確認できない様である。遺構として明瞭なのは主郭部だけであるが、往時の雰囲気は感じられる。
主郭南西部の湾曲する塁線→IMG_8652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.544708/140.977356/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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新沼城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8594.JPG←主郭跡とされる稲荷神社
 新沼城は、大崎氏の家臣遠藤掃部と上野甲斐の居城と伝えられている。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景を総大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、中新田城を包囲攻撃したが、守将南条下総守の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。大敗した伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月監斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立し、新沼城に孤立していた伊達勢は引き揚げを認められたと言う。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 新沼城は、東北道のすぐ西にある下沖集落に位置している。集落中央付近の畑地の中に建つ稲荷神社付近が主郭とされ、その周辺の東西120m、南北100m程の範囲に主郭が拡がっていたとされる。城内は宅地や耕地に変貌して、遺構は完全に湮滅している。主郭付近はわずかに微高地となっているが、改変が激しく輪郭もはっきりしない。辛うじて堀跡と思われる水路が残っているだけである。稲荷神社脇に城址標柱がなければ、誰もここが城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.540278/140.926867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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中新田城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8588.JPG←神社裏に僅かに残る主郭土塁
 中新田城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏の事績については名生城の項に記載する。斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)となって奥州に下向し、最初に居城としたのが中新田城とも言われている(一説には師山城が最初とも)。その後大崎氏は居城を幾度か移したと見られ、12代大崎義直と13代義隆が中新田城を居城としたとされている。しかし義隆の時に名生城に居城を移したと言われ、その後は家臣南条下総守が城代として居城したと言う。1588年に大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。南条下総守は中新田城に籠城し、留守政景を総大将とする伊達勢を迎え撃った。伊達勢は中新田城を包囲したが、南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、大崎氏は小田原不参の故を以って改易され、中新田城は廃城となった。藩政時代には2代仙台藩主伊達忠宗が領内巡察の際、城址に仮り舎を設けたことから「御仮屋」と呼ばれた。

 中新田城は、加美町市街北東の国道347号線と457号線が接続する交差点を中心とする一帯にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、方形の主郭とその周りの堀跡が確認でき、更に外郭東側の外堀跡も明瞭であるが、現在はほとんど完全に湮滅している。残っているのは、多川稲荷神社の裏の主郭南東角の土塁と北側の外堀跡の水路ぐらいである。つい数年前まで主郭堀跡も低い畑になっていたようだが、それも現在では宅地となってしまっている。ほとんど城跡らしさを残さず、壊滅してしまっているのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.573703/140.859854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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狼塚城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8543.JPG←西辺部の土塁と堀跡
 狼塚城は、上狼塚館とも呼ばれ、大崎氏四家老の一人里見紀伊守隆成の居城である。紀伊守の名は大崎合戦でも現れており、斜陽の大崎氏を支えた武将の一人であった様である。
 狼塚城は、慈恩院の北側に築かれている。低地帯に浮かぶ微高地にあり、城内は宅地化が進んでいるが、城の西辺部は最もよく遺構を残しており、林の縁に土塁と堀跡が確認できる。どこかに城址標柱もあるらしいのだが、発見できなかった。尚、慈恩院には里見紀伊守の墓が建っているが、本当の墓は本堂の須弥壇の下にあると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/140.869639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茂ヶ崎城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8493.JPG←竪堀と推測される地形
 茂ヶ崎城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の居城と伝えられている。粟野氏は、元々越前を本拠としていたが、1342年に粟野藤三郎駿河守重直が軍功によって、足利尊氏から名取郡2千余貫を賜り、翌年茂ヶ崎城を築いて居を構えたとされる。その後6代国定は、文明年間(1469~86年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入った。粟野氏は北目城や沖野城を支城に持ち、一説には戦国後期には粟野氏の本城は北目城に移っていたとも言われる。伊達政宗時代の当主は大膳太夫重国で、伊達氏の重臣として活躍したが、1591年に政宗に抗したらしく、城を逐われ、重国は失意のうちに1623年に死去したと伝わっている。江戸時代には、城跡に仙台藩主4代伊達綱村によって大年寺が建立され、また無尽燈廟・宝華林廟の2つの墓所が造営されたため、多くの改変を受けた。

 茂ヶ崎城は、標高120m程の大年寺山に築かれている。前述の通り江戸時代に大きな改変を受けたため、どのような縄張りの城だったかはあまりわかっていない。東麓から大年寺の参道が伸びているが、途中に千人溜と呼ばれる平場がある。また参道から脇に伸びる小道を南に進むと、山腹を貫通する竪堀状の地形が見られるが、山上の堀状地形から伸びていることから推測して、遺構ではないかと推察される。遺跡調査報告書によれば、主郭は仙台放送のアンテナの建つ丘陵最高所にあったと推測され、その前後に空堀が残っているらしいが、未確認である。その他は丘陵上の改変が激しく、遺構は失われている。少々山容が大き過ぎ、前述の通り丘陵最高所が主郭であったとすると、かなり大型の山城ということになってしまい、粟野氏の勢力から考えるとやや疑問に思う。もう少し小型の城であったと推測するのが普通と思うが、現況と合わず謎が多い城である。
 尚、伊達氏の墓所の内、無尽燈廟は公開されているが、宝華林廟は未公開となっており、塀越しに僅かに望むことしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.237371/140.873029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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富沢館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8475.JPG←主郭の堀と土塁(ブルーシート部)
 富沢館は、この地の土豪山岸氏の居館であったと推測されている。史書には、天文年間(1532~54)に山岸肥前宗成が富沢邑に居住していたとされ、戦国時代に山岸氏の支配する村であったことが伝えられている。江戸時代には、入生田氏が富沢館に在郷屋敷を構えた。入生田氏の祖は清康で、その子元康は1636年に伊達政宗に殉死した。その後も、仙台藩士入生田氏の居館として続いた。

 富沢館は、環郭式の平城形式の居館である。新笊川をそのまま外堀に取り入れて、その南岸に築かれている。土塁と堀で囲まれた主郭の周囲に、外郭をぐるりと廻らしていた。ここ2~3年で、区画整理事業のために発掘調査が実施され、外郭は既に整地の重機類によって蹂躙されている。主郭は、半年前には辛うじて西側土塁と堀が、ブルーシートを掛けられたまま残っていたが、現在はどうなってしまったかわからない。既に全面的に破壊されているかもしれない。いずれにしても昭和20年代後半の航空写真ではきれいに残っていた環郭式の平城は、今や開発で風前の灯である。何とか保護の手立てを講じられなかったのかと悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.214632/140.861464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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川崎城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8457.JPG←二ノ丸の土塁と堀切跡の林道
 川崎城は、前川城とも呼ばれ、また藩政時代には川崎要害と呼称され、伊達21要害の一である。この地を領していた中ノ内城(前川本城)主砂金実常が、新たな拠点として1608~10年にかけて築城した。実常は大阪夏の陣に従軍して25貫加増され、伊達家一族の家格に列せられた。以後、砂金氏4代約90年に渡る居城となったが、砂金重常が1702年に病没すると、無嗣断絶となった。同年、宮床伊達氏の当主伊達村興が川崎要害に入り、20年間居住したが、1722年に再び宮床に戻った。同年、伊達綱宗の孫村詮が2000石で川崎要害を与えられて城主となり、伊達一門に列して川崎伊達家を創始した。そのまま川崎伊達家の居城として幕末まで存続した。

 川崎城は、北川の南岸に東西に連なる、比高20m程の丘陵西端部に築かれている。かなり単純な縄張りの城で、東西2郭から成り、先端に当たる西側が本丸で城主の居館があり、東側が二ノ丸で家中屋敷を置いていた。現在本丸は公園となり、二ノ丸は川崎小学校の校地と畑に変貌しており、遺構は湮滅が進んでいる。各曲輪は以前は土塁で囲繞されており、本丸東側の土塁の内側には空堀もあったとされるが、本丸については土塁も空堀も現在では全くわからなくなってしまっている。一方、二ノ丸も改変が進んでいるものの、畑となった東半分は遺構が残存し、城域東端の堀切が林道となって残り、この林道沿いに二ノ丸東辺の土塁がよく残っている。わずかながらも遺構が残り、地勢も往時のままなので、城の雰囲気は感じられる。また城の南方の市街地を貫通する道路には、城下町特有の鉤の手も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.179320/140.645385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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兵糧楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8386.JPG←二重横堀と竪堀の防御構造
 兵糧楯は、歴史不詳の城である。一説には、横尾兵衛という武士が城主であったとも言われることから、兵衛館とも呼ばれる。また別説では、志津摩信濃守(志津戸信濃守?)の居城であったともされる。一方、古代アイヌの「チャシ」ではなかったかとの説もあるほか、南東1.6kmにある西小屋館と関連する城砦との説も提示されている。いずれにしても、多くの謎に包まれた城砦である。

 兵糧楯は、標高228.5m、比高130m程の山稜上のピークに築かれている。山麓からの距離は長いが、幸い車道が城近くまで整備されており、至る所に案内板も出ているのであまり迷うことなく到達できる。非常に特異な形態の城で、北東面と南西面に二重の横堀を穿って防御した縄張りとなっているが、横堀は全周を囲繞しているわけではなく、北西と南東では切れてしまっており、中途半端な防御構造となっている。その一方で、南東には馬出し的な独立小郭が構築され、下方への防衛拠点となっていた様である。また東端部でも横堀沿いに馬出し的な小郭があるが、南東のものほど独立性が高くない。また東端付近は二重横堀に加えて2本の竪堀も穿たれ、これらの組み合わせにより巧妙な防御構造が構築されている。一方、城の中心となる主郭は、曲輪内がやや傾斜した削平の甘い平場で、外周に数段の帯曲輪を廻らしている。西側にも搦手と思われる虎口が築かれ、横堀と帯曲輪の段を貫通して主郭に通じている。全体としては卵型をした単郭の城砦であるが、全体として円形の構造など、確かにチャシっぽい印象を受ける。現地解説板にもある通り、古代の祭祀の場所が中世に地方豪族の合戦の砦に転用されて来たものの様に感じられる。夏場でも公園として綺麗に整備されており、特異な遺構と相俟って非常に興味深い。
南東の独立小郭→IMG_8361.JPG
IMG_8390.JPG←北東辺の二重横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.137223/140.677807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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勝岡城(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8326.JPG←切岸と大手道跡の車道
 勝岡城は、後に平沢要害とも称され、伊達21要害の一である。伝承では、1402年に国分河内入道が伊達氏よりこの地を賜ったものとされている。また一説には、1591年頃に越後上杉氏の部将甘糟備後守が築城した城とも伝えられるが明確ではない。城の歴史がはっきりするのは、この地が伊達領に復してからで、慶長年間(1596~1615年)末に、伊達家の着座衆の一家、高野家15代光兼が百貫文で平沢を賜り、家中70余を引き連れて伊具郡丸森郷よりこの地に移住し、平沢要害を整備したと言う。その後高野家は9代200余年にわたってこの地を領し、幕末まで存続した。

 勝岡城は、平沢地区の比高20m程の丘陵上に築かれている。往時は、本丸と二ノ丸を土塁で囲み、南方には広く堀を巡らし、家中足軽等の屋敷を区別した約100戸の城下町を形成していたらしい。しかし城地が良質珪藻土の産地だったことから、明治末期から採掘されてしまい、平沢要害を含む丘陵部が根こそぎ破壊されてしまっている。現在は残った丘陵上に公民館が建ち、城跡の石碑と解説板が建っているが、前述の通り地形は大きく変えられてしまっているらしい。従って、車道沿いに見られる切岸地形も、どこまで往時の形状を残しているかは不明である。しかし南の屈曲する車道は、往時の大手道の形状をそのまま残しているようで、それから考えれば東側の斜面は切岸がそのまま残っている可能性がある。一方、広場になった丘陵西側の低地は、珪藻土採掘で削平された跡である。以上の様に、かなり城の遺構は失われており、現状では城の形状を把握するのも困難な残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127062/140.681155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西小屋館(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8296.JPG←土塁と堀跡
 西小屋館は、江戸時代の文献によれば、志津戸信濃守の家臣村上左近という武士の居館と伝えられている。真偽不明であるが、いずれにしてもその遺構から考えれば、中世の国人領主の居館であったと考えられている。また北西1.6kmの丘陵上により要害性の高い兵糧楯(館)があり、それとの関連も指摘されている。

 西小屋館は、周囲を丘陵に囲まれた小盆地の中央付近に位置する居館である。現在館跡は民家になっているが、民家の裏側に当たる西側から北側にかけて、土塁と堀跡が残っており、また南側と東側にも堀跡が一段低い水田となって残っている。平成4年に発掘調査が実施されており、五角形の土塁と堀で囲まれた城館で、更にその西側に区画溝のある外郭があって、家臣の屋敷跡と思われる建物跡も検出されている。
 尚、西小屋館のある小盆地を囲む馬蹄形の周辺丘陵には、「~屋敷」という地名があちこちに見られ、西小屋館を中心にして居館群が形成されていた可能性もある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.125881/140.689673/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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村田城(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8182.JPG←本丸背後の横堀
 村田城は、伊達氏の家臣村田氏の居城である。伝承では、室町中期の嘉吉年間(1441~44年)に、下野の名族小山氏の一族小山九郎業朝が下野国小山郷よりこの地に移住し、村田氏を称して伊達氏の家臣となり、館を築いたとされる。6代紀伊守近重は、伊達氏の内乱「天文の乱」の時、晴宗方に付いた。近重には嗣子がなく、伊達稙宗の9男宗殖を養子として跡を継がせた。宗殖は後に仏門に入り万好斎と号したが、1591年12月に領地を没収され、桃生郡長井に移った。尚、同年9月には、ここで伊達政宗の庶子秀宗(後の宇和島城主)が生まれている。その後、村田郷は伊達家の直轄領(御蔵入地)となり、城代として家臣の後藤三郎右衛門が置かれた。その後、1605~12年は伊達一門の石川昭光が在城した。1613年、政宗の7男宗高がわずか7歳で村田城主となり、3万石を領したが、1626年に20歳の若さで天然痘で病死した。宗高の時代に一国一城令で城の名を除き、村田館となり、宗高の死後、再び伊達家直轄領を経て、1629年に奥山大学常良が館主となった。その後、度々の館主の変遷を経て、幕末まで存続した。

 村田城は、村田町役場と村田第一小学校の背後にある標高54m、比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は城山公園となっており、ほとんどの部分が綺麗に整備されており、夏場でも訪城可能である。但し公園化の代償として、一部改変を受けている。V字状の丘陵頂部に方形に近い形状の本丸を置き、周囲には腰曲輪、南東尾根に二ノ丸、北東尾根に三ノ丸を築いている。本丸の西端には大土塁が築かれ、背後には延々と横堀が穿たれている。この横堀は、本丸西側の腰曲輪の背後まで続き、堀切に合流して終わっている。堀切にほど近い部分には竪堀も見られる。堀切は、城の北西続きの尾根上に2本穿たれ、2本の間の曲輪には現在乾八幡神社が鎮座している。V字の尾根の間の低地には居館が置かれていたことは、容易に想像がつく。現在の町役場・小学校の位置に当たる。往時はここに大手門があったが、門だけ近くの願勝寺に移築されている。縄張りとしては大した技巧性はなく、基本的には腰曲輪群で構成された素朴な縄張りの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.118436/140.720766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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岩出山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7371.JPG←北辺の大きな横堀
 岩出山城は、伊達政宗の左遷城として知られる。元の名は岩手澤城と言い、奥州探題大崎氏の重臣氏家弾正が応永年間(1394~1427年)に築城して居城としたと言われている。氏家氏は、下野の名族宇都宮氏の庶流で、下野を本領としていた。その一族氏家重定が越中に移り、その後、南北朝初期に斯波氏の麾下で活躍し、斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)として派遣された際に、家兼に従って重定の一族氏家弾正詮継が監司として奥州に下向したと言われている。詮継の名は、確証はないが足利尊氏の嫡男で2代将軍となった義詮の偏諱であろうから、足利尊氏・義詮父子に相当近い位置にいたと思われる。いずれにしても奥州下向後に斯波氏(大崎氏)の重臣となって活躍した。ちなみに家兼の次男兼頼が羽州探題として山形に移った時も、氏家氏の一族が執事となって同行し、後の戦国後期に最上義光の側近中の側近、氏家守棟を輩出している。奥州氏家氏の当初の居城は杉ノ沢館であったと言われ、前述の通り応永年間(1394~1427年)になって岩手澤城を築いて居城を移したとされる。1534年、大崎氏家臣で泉沢城主新田安芸頼遠が大崎義直に反乱を起こすと、氏家直益は新田方に与した。義直は伊達稙宗に援軍を求め、1536年にようやく反乱軍の最後の拠点岩手澤城を落とし、乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びて、反乱を平定した。1586年、大崎義隆の寵童、新井田刑部と井場野惣八郎との争いを発端に、再び大崎氏家中の内乱が発生した。新井田刑部は義隆を拉致して名目を固め、井場野惣八郎を保護した氏家弾正吉継を討とうとした。窮した吉継は、片倉景綱を介して伊達政宗に援軍を要請し、大崎合戦と呼ばれる伊達勢による大規模な軍事介入を誘発した。伊達勢は大軍であったが、急な大雪によって大敗し、氏家氏も岩手澤城から出撃したものの伊達勢と合流できずに終わった。その後、大崎氏と伊達氏との間で和議が結ばれた。1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、氏家氏は伊達氏に仕えた。大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられ、木村氏の家臣萩田三右衛門が岩手澤城主となった。三右衛門は暴政を行い、一揆蜂起で殺害された。これが発端となって葛西大崎一揆が発生した。一揆鎮圧後、1591年に伊達政宗は米沢領を没収され、替わって大崎・葛西の旧領を与えられた。この時、奥州にいた徳川家康は、豊臣秀吉の命を受けて岩手澤城に入り、政宗のために榊原康政に縄張りさせて城を改修し、政宗は岩手澤城に居城を移した。そして城の名を岩出山城に改めた。以後、12年に渡ってここを居城としたが、実際には京に居たり、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に居たりと、実際の在城期間は通算で数ヶ月に過ぎず、政宗不在の間は屋代景頼が代官として統治した。関ヶ原合戦の後、政宗は1603年に仙台城を築いて居城を移した。その後、4男宗泰を岩出山城主とした。元和の一国一城令で城の名を去って岩出山要害と称し、そのまま岩出山伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 岩出山城は、標高107m、比高50mの城山一帯に築かれている。馬蹄形をした山稜全域を取り込んだ広い城域を有している。政宗の居城として有名なので、ほとんどの部分が城址公園として整備されている為、返って公園化による改変を受けてしまっている部分も多い。中世城郭と近世城郭の過渡期の縄張りを持つ城で、東の山稜上に長い本丸を置き、南に出丸、本丸の西側下方に二ノ丸を置いている。出丸の背後には土橋の掛かった堀切があり、大土塁と虎口が築かれて本丸に通じている。この虎口は「内門」と呼ばれ、脇に見られる石垣は遺構であるらしい。南出丸から一旦二ノ丸に降り、その南の先にも堀切を介して曲輪が2段連なっている。特に下の曲輪は土塁を伴って広い。二ノ丸は何段かに分かれた細長い曲輪であるが、公園化による改変が多く、往時の形状がわかりにくい。二ノ丸の北にも堀切を介して外郭が広がっている。外郭は城内最大の曲輪で、南端には八幡平という出丸があり、土壇に祠が祀られている。これは家康が縄張りした際に使用した器具類を埋めたものと伝えられている。外郭には北辺に延々と土塁が築かれ、その北側下方に大きな横堀が穿たれている。外周の横堀による防御構造などは、伊達氏の城らしい特徴と考えられる。また堀切を介して北にも出曲輪が確認できる。馬蹄形の山稜の内側は、現在小学校と高校が建っているが、広い内古屋で、近世の主殿が建っていたことは想像に難くない。一方、本丸の東斜面にも現在駐車場になっている曲輪が広がっている。さすがに岩出山城は、一時期とは言え近世の大大名が本拠とした城だけあって、見どころが多い。ただ欲を言えば、公園内に遺構の標柱などがなく、城の知識のない人には何が何だかさっぱりわからないだろう。もう少し丁寧な案内があればと思った。それはともかく、もう数年前から行こう行こうと思っていた念願の城に、ついに行くことができたので嬉しい限りであった。もう一度、藪のない時期に行ってみたい。
内門の大土塁と石垣→IMG_7257.JPG
IMG_7368.JPG←外郭の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.655706/140.862665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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名生城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7208.JPG←内館周囲の空堀
 名生城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏は、足利氏の庶流斯波氏の流れをくむ名門で、南北朝時代に越前守護として活躍した斯波高経の弟家兼が、奥州を押さえるために下向したことに始まる。斯波氏は、鎌倉時代には足利尾張家と称され、足利の姓を名乗り、足利一門の中でも最高の家格を持っていたが、尊氏が将軍となって室町幕府を開くと、足利の名乗りを禁じられて斯波氏を称したと考えられている。後に3代将軍足利義満が幕府の典礼を定めた際に、斯波氏は三管領家の一つと定められた。一方、家兼は、幕府草創期は若狭守護に任じられ、越前守護の兄高経と協力して新田義貞を滅ぼすなど功績を挙げたが、足利一族の内紛、観応の擾乱が生起すると足利直義方に付いた高経と袂を分かち、尊氏方として活躍した。この頃奥州には、既に奥州管領(後の奥州探題)として尊氏派の畠山国氏、直義派の吉良貞家が派遣されており、1351年、観応の擾乱の余波で岩切合戦が起こり、畠山国氏は吉良貞家に攻められて岩切城で討死した。その2年後に貞家が没すると、幕府は斯波家兼を新たに奥州管領として派遣した。しかし、畠山氏の遺児国詮が管領を主張して活動を始め、奥州総大将だった石塔義房の子義憲が鎌倉から奥州に入り、また吉良貞家の跡を継いだ吉良満家も管領を主張し、いずれも足利一族の四管領が並立するという、混沌とした状況となった。しかし斯波氏が最終的に勝利を収め、唯一の奥州探題となった。そして大崎五郡を支配して大崎氏を称し、奥州の大名・国人衆への室町将軍の命令や幕府の賦課の徴集などは全て大崎氏を通じて行われ、奥州の支配権力の頂点に位置していた。また家兼の次男斯波兼頼は羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として出羽に移って最上氏の祖となり、出羽へもその影響力を保持した。しかし大崎氏の支配力は決して盤石ではなく、依然として奥州の有力大名・国人衆は独立性を保っていた。戦国時代になると南の伊達氏が勢力を伸ばし、一方、大崎氏は一族・家臣の内紛で勢力を弱めた。1525年に伊達稙宗が陸奥守護に任じられると、奥州探題の権威は完全に失墜し、大崎氏は一地方大名と化した。戦国末期には重臣の争いが元で伊達政宗による干渉を許し(大崎合戦)、伊達勢を撃退したもののその凋落は覆うべくもなかった。結局、1590年に豊臣秀吉の奥州仕置によって、小田原不参の故を以って改易された。その後、旧臣達が葛西大崎一揆を起こしたが鎮圧され、葛西・大崎領が伊達政宗に与えられると、大崎氏再興の夢は完全に潰えた。

 この様に大崎氏は改易されてしまったため、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の居城についても必ずしもはっきりしていない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、名生城の他にも師山城中新田城・小野城などが居城であったと言われ、大崎五御所などという名も伝えられているが、諸説あってはっきりしないのが実情である。現地解説板によれば、葛西大崎一揆後に政宗に岩出山城を引き渡すために派遣された徳川家康が名生城に立ち寄ったとされ、その後の文献に現れなくなった事から、間もなく廃城になったと考えられている。

 名生城は、渋井川西岸の段丘上に築かれている。城内は、大館・小館・内館・北館・二ノ構・三ノ構・軍議評定所丸の7郭に区画されている。殆どの部分が耕地化で改変され、それ以外は宅地化されているなど、遺構の残存状況はかなり断片的である。それでも道路沿いに堀跡の水田が見られ、また軍議評定所丸等の土塁も一部に残存している。一番良好に残っているのは、内館周囲の空堀で、薮の中に往時そのままの姿を残している。冬場に探せば、もう少し遺構が確認できるかもしれないが、おそらくいずれも断片的であろう。歴史とともに遺構も多くが失われているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.611774/140.895710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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宮沢遺跡(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7133.JPG←中腹の土塁と堀
 宮沢遺跡は、東北自動車道建設に伴う発掘調査で新たに発見された大規模な古代城柵である。発掘遺物の分析などから奈良時代には存在していたと推測されており、律令国家が東北地方経営のため築いた城柵の一つと推定されている。しかし文献に残るどの城柵に該当するのかは明らかではなく、その歴史はほとんど謎に包まれている。起伏に富んだ丘陵地をまたいで構築され、全形はやや歪んだ長方形で、東西1400m、南北850mもの規模に及び、東日本の古代城柵としては最大規模のものである。東北地方の古代史の解明のためには欠くことのできない重要な遺跡とされている。

 宮沢遺跡は、東北自動車道が縦貫する、化女沼南西の丘陵地一帯に築かれている。特に東北道の東西の「愛宕山地区」は綺麗に発掘整備されていて、遺構をよく見ることができる。丘陵中腹に二重に土塁(築地)を築き、内側を横堀状にしており、古代でも築城技術の基本はあまり中世のものと変わらない印象を受ける。また東北道東側では、発掘された建物跡も明示されている。この遺跡は、まったく予備知識がない状態で、宮沢城まで行ったついでにたまたま寄っただけであったので、まさかここが東日本最大の古代城柵で、もっと広範囲に遺跡が残っているとは知らなかった。また古代城柵というと、志波城など平城の印象が強く、丘陵上の古代城柵に行ったのはこの時が初めてだったので、どういう構造なのかもはっきりと理解することができなかった。いずれ折を見て再訪してみたい。
建物群の跡→IMG_7146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.626493/140.947788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古代城柵
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宮沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7081.JPG←僅かに残る本丸土塁
 宮沢城は、江戸時代には伊達21要害の一、宮沢要害と呼ばれた城である。伝説では平安時代に藤原秀郷が拠った所と言われるが、「なぜ下野本拠の豪族が奥州に?」ということで、元より信ずるに値しない。室町時代には大崎氏の支城であり、その家臣葛岡太郎左衛門が拠り、次に宮沢遠江、或いは岩崎讃岐義久が居城にしたとも伝えられるが、大崎氏支配時代の歴史は失われており、詳細は不明。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易され、その後に入部した木村氏の圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発すると、大崎方の拠点となり、岩崎讃岐父子、岩崎伯耆、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人等が宮沢城に立て籠もって、城周辺の河川や堀を堰き止めて城の周囲に水を引き入れ、伊達勢の攻撃を阻止したが、和議によって落城したと言う。一揆鎮圧後、大崎領が伊達政宗の所領となると、宮沢城には伊達氏の家臣後藤康之が一時居城とし、その後、出羽国長井庄小国城主の上郡山常為が宮沢城に移封された。元和の一国一城令で、城の名を去って宮沢要害と称した後も上郡山氏の9代140年間にわたる居城であったが、1747年に長沼致信と所替となり、幕末まで長沼氏が在城した。

 宮沢城は、小河川に挟まれた平地上に築かれた城である。現在は民家や耕地化により遺構の殆どが湮滅している。はっきりと残っているのは、八幡神社が建っている本丸土塁の残欠ぐらいで、あとは道の形にかつての堀や曲輪の形の名残を残しているに過ぎない。非常に残念な状態である。
 尚、城の西にある光岳寺には上郡山民部太夫景為(常為の養子)の墓が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.625823/140.941522/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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高清水城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7029.JPG←主郭南辺部の土塁
 高清水城は、江戸時代には伊達21要害の一、高清水要害と呼ばれた城である。天文年間(1532~55年)に大崎氏9代義兼の3男高清水直堅によって築かれたとされる。直堅の長男直隆は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易となると、城を召し上げられた。大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられたが、同年10月、木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、高清水城も一揆勢に攻略された。乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆が鎮圧されると大崎領は政宗に与えられ、1604年には伊達氏の重臣で涌谷城主であった亘理重宗に、高清水城が隠居領として与えられた。1606年、政宗の庶子宗根が亘理重宗の娘を娶って入嗣し、亘理家の名跡を継いで高清水城を居城とした。以後、亘理氏の歴代の居城となり、元和の一国一城令以後は、高清水要害として城の名を除いた。1757年、亘理氏は佐沼要害へ移り、替わって石母田興頼が高清水要害に入り、以後石母田氏の居城となって幕末まで存続した。

 高清水城は、透川北岸の段丘上に築かれた城である。城内は市街化が進んでいるが、部分的に遺構が残存している。主郭には現在、高清水中学が建っているが、校地は主郭の北側半分に過ぎず、主郭南半は畑となっており、南辺部には土塁が良好に残っている。また土塁の内側に水堀の沼が残存している。現地解説板の古絵図にも記載されている沼地で、往時からのものであり、湧水があるらしい。この他、二ノ郭の土塁と堀跡が断片的に残存しており、外濠公園などとなっている。遺構の改変が進んでいるものの、思ったよりも遺構が残されており、地勢も往時のままであるので、城の雰囲気はよく感じられる。
主郭南部に残る水堀の沼→IMG_7038.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.654231/141.015658/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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古川城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6981.JPG←水堀跡の水路
 古川城は、大崎氏の家臣古川氏の居城である。最初は大崎氏7代教兼の第6子(名は不明)が初めて居を構えた地と言われる。その後裔が古川氏となったとされるがその系譜は不明点が多い。いずれにしても、戦国時代には古川刑部持慧・古川弾正忠隆の居城となった。持慧は、1534年の大崎氏の内訌の際、新田安芸頼遠に与して大崎義直に対して叛乱を起こし、古川城は反義直方の拠点となった。伊達稙宗が義直を助けて大崎領に攻め込むと、伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、古川城は落城し持慧は自刃した。1586年、大崎義隆の寵童新井田刑部と伊庭野惣八郎の争いによって、大崎家中を二分する戦いに発展すると、伊達政宗は内紛平定を名目として大崎領内へ侵攻した(大崎合戦)。この時、古川城主古川忠隆は義隆方に与して師山城に籠り、伊達勢と対峙したと言う。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、大崎氏が改易されると、大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられ、古川城には清久が入城した。しかし木村氏による圧政によって「葛西大崎一揆」が勃発し、乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆平定後、葛西・大崎領は伊達政宗に与えられ、古川城には重臣の鈴木和泉守元信を置いた。以後鈴木氏3代に渡る居城となったが、1645年、3代宗良の時に桃生郡深谷に転封になると、古川は仙台藩の直轄領となり、古川城は廃城となった。

 古川城は、古川の街の中心部にあった平城で、現在の古川第一小学校の敷地に本丸があった。また本丸の北・西・南の3面を取り囲むように二ノ丸(二ノ構)があり、その南に三ノ丸(西館)があった様だが、現在は市街化でほとんどの遺構が湮滅している。小学校の正門前に建っている解説板によれば、昔は小学校の正門脇に土塁が残っていたらしいが、それも今では失われている。小学校の東側に水路(緒絶川)が流れているが、これが城の外堀の痕跡であろう。結局これが唯一の遺構であり、あとは各所の地名に城の名残を思わせるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.577544/140.953453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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矢ノ目館(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6935.JPG←浮島のように残る主郭
 矢ノ目館は、天正年間(1573~92年)の伊達氏による伊具郡奪還戦に際し、伊達輝宗・政宗父子が本陣を置いた城館である。1576年より、伊達晴宗・輝宗父子は相馬氏に占領された伊具郡奪還に乗り出した。この時、矢ノ目に本陣を置いて小斎城攻略に取り掛かっている。また1581年には、若干15歳の伊達政宗は父輝宗に従って相馬氏との合戦で初陣を果たした。その際にも、矢ノ目館に本陣を置いている。小斎城の至近にあり、度々本陣として使用されていることを考えると、伊達氏の伊具郡奪還戦において、重要な城館であったのだろう。

 矢ノ目館は、阿武隈川曲流部の東岸の平地に築かれた城館である。かつては二重の水堀で囲まれた環郭式の縄張りであったが、現在は、外郭は水田に変貌し、内郭(主郭)のみが残っている。主郭は微高地で、現在民家が建っているので無断進入はできない。外から見ると部分的にわずかに土塁が残っている様である。周囲には堀跡の水田が残っているが、昭和20年代後半の航空写真を見比べると、広く改変されてしまっているらしい。いずれにしても、河川流域の低湿地帯に築かれた要害であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.922501/140.812905/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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角田城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6825.JPG←本丸南側に残る急斜面
 角田城は、江戸時代には伊達21要害の一、角田要害と呼ばれた城である。永禄年間(1558~69年)に田手宗光によって築かれた。田手氏は、伊達氏初代朝宗の6男宗綱に始まる伊達氏の一族で、元々伊達崎城主で伊達崎氏を称していたが、後に、本家の伊達氏と姓が似ているので、混同を避ける為に田手氏に改称したと言う。角田城が築かれた頃、隣接する伊具郡が相馬氏に攻略されると、宗光は伊達氏に叛いて相馬氏と通じたため角田城を逐われた。宗光の子宗時は、父に従わず伊達氏に留まっていたので、そのまま所領の相続を認められ、角田城主となった。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。この相馬氏との戦いの中で、宗時は1582年に討死した。1591年、伊達政宗が岩出山城へ移封となると、伊達成実が二本松城から角田城に移された。しかし1595年、成実は突如伊達家から謎の出奔をし、角田城は政宗の命を受けた屋代景頼によって接収されたが、成実の家臣団は城に籠もって抵抗し、羽田右馬助ら30余名が討死した。その後しばらく城主不在となっていたが、1598年、政宗の叔父に当たる石川昭光が角田城主となった。石川氏は、元々奥州の独立した小大名であったが、伊達晴宗の4男昭光を養子に迎えていた。1590年、小田原の役に不参の故を以って豊臣秀吉の奥州仕置で改易され、伊達氏を頼ってその家臣となった。江戸時代には伊達一門筆頭となり、伊達家家臣団中において最高の家格を保った。角田城は、元和の一国一城令で角田要害となり、石川氏の居館として幕末まで存続した。

 角田城は、比高10m程の丘陵上に築かれている。現在は、城の主要部は角田高校・角田中学に変貌し、周囲の外郭も市街化されて遺構はほとんど湮滅している。しかし地勢は残っており、本丸のあった角田高校は段丘上にあり、周囲には往時の切岸を思わせる斜面で囲まれている。また城の外周を囲んでいた堀も、僅かな水路としてその痕跡を残している。昭和20年代後半の航空写真を見ると、外周の水堀がはっきりとその形を残し、南の出丸も明瞭であるので、高度成長期における城址の破壊が惜しまれる。

 尚、現在市の郷土資料館となっている旧氏家邸には、角田城の移築門が残る他、邸宅も角田城の用材で建てられたとの伝承があるとのことである。また庭にある灯籠も角田城のものとされるなど、文化財として貴重である。大正時代の古いガラスがそのまま残っているというのも非常に珍しい。入館無料なのに、貴重な解説まで聞かせていただけるので、角田城訪城の際は寄った方が良い。
外周に残る堀跡の水路→IMG_6817.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.968561/140.778186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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伊達政宗陣場(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6618.JPG←遺構の可能性がある土塁
 伊達政宗陣場は、関ヶ原合戦の前哨戦として行われた全国各地の一連の戦いの中で、いわゆる「白石城の戦い」の際に伊達政宗が本陣を置いた陣場である。豊臣秀吉の没後、天下の主導権を握った徳川家康は、家康に対抗する石田三成に同調して会津で戦備を整えていた上杉景勝を討伐するため、諸大名に命じて上杉討伐に向かった。その際に、上杉領を背後から脅かすため、岩出山城の伊達政宗に信夫口からの攻撃を命じた。政宗は上杉領刈田郡の要衝白石城攻撃の為、白石城を真南に見据える白石川北岸の段丘上に本陣を置いて、上杉氏家臣甘糟備後守清長が守る白石城を7月24日から攻撃を開始し、一昼夜で攻め落とした。

 伊達政宗陣場は、現在は福岡小学校の敷地となっている。「陣場」の地名が残っている。小学校下の南東に、戊辰戦争の奥州鎮撫軍総督府参謀であった世良修蔵の墓の入口があり、そこを登っていくと途中に「伊達政宗公陣場跡」の標柱と解説板が建っている。それによれば、西側の地続きに大土手(土塁)を築き、南の崖面に2、3段の平場(腰曲輪)を構えた陣場とされ、確かに学校敷地の西辺に土塁状のものが残っている(但し、現在のものが往時の遺構かどうかは不明)。南面の腰曲輪はよくわからなかったが、崖面を通る車道が腰曲輪だった可能性がある。一方、北側の車道の通っているところもいかにも堀切跡という趣で、往時の沢を天然の堀切としたか、或いは多少手を加えて堀切状に仕立てたものであろう。いずれにしても改変が進んでいるので、はっきりとした遺構は確認できないが、白石城を見据える絶好の陣場であったことは、現在でもよく分かる。
陣場から見た白石城→IMG_6624.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.011803/140.615366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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滝野館(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4784.JPG←館の塁線跡か?
 滝野館は、仙台伊達藩の宿老遠藤家の館である。遠藤家の祖は、伊達輝宗の重臣として活躍した遠藤山城守基信で、1591年、2代宗信の時に伊達家が岩出山に移封となると、出羽米沢より栗原郡築館村佐野館に移封となり、1604年、3代玄信は川口村滝野に所替えとなり館を造営した。そのまま幕末まで存続し、11代允信の時に明治維新を迎えた。
 滝野館は、一迫川の西岸の滝野集落の北西部に位置している。現在は一面の耕地となり、遺構はほとんど湮滅しているが、集落より僅かな微高地となっており、民家裏の耕地の段差部は「御館」の塁線を残しているとも考えられる。いずれにしても、一番明瞭に残っているのは、集落内の「鉤の手」になった通りであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.773458/140.880893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
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川口楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4764.JPG←北郭の大土塁
 川口楯は、狩野修理の居館と言われている。おそらく真坂楯主狩野氏の一族の拠った城であろう。
 川口楯は、南から張り出した標高120m、比高60mの山丘上に築かれた城である。山頂に長円形の主郭を置き、外周に腰曲輪を築き、主郭の四方(東西南北)に伸びる尾根には馬蹄段を配した縄張りとなっている。西郭には八雲神社が建てられていて、そこまでは登道が整備されている。丘陵基部の南郭は2段の馬蹄段となり、堀切で基部を断ち切っている。北郭は、城下に向いた前面に、幅広の大土塁が築かれている。長さもあり、形状から考えて多門櫓ぐらいはあった可能性が考えられる。もしそうだとすると、城下に向いた前面に築かれたことから考えても、城下への視覚効果を狙ったものと思われる。川口楯はこじんまりした城であるが、北側前面の大土塁は印象的である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.764625/140.890206/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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陣楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4668.JPG←堀切から落ちる二重竪堀
 陣楯は、歴史不詳の城である。一説には、前九年の役の際に安部貞任が立て籠もった渕牛楯に対抗する楯であったとも言う(現地標柱の記載)。
 陣楯は、国道457号線が貫通する丘陵上にあったらしい。たまたま国道を走っていて、道端の標柱を見つけたので訪城した。笹藪がひどいので、あまりはっきりしないが、標高220mのピークから東下に張り出した尾根上に築かれた単郭の小城砦と思われる。平場の背後に掘切があり、この堀切は南側に落ちる竪堀が2本に分岐する変則的な二重堀切となっているようだ。一応、標高220mのピークにも登ってみたが、遺構らしきものは何も確認できなかった。渕牛楯に対抗する砦という伝承もむべなるかな、と言う印象である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.782625/140.883662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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後藤楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4578.JPG←三ノ郭に架かる土橋
 後藤楯は、駒場楯とも呼ばれる。元々は前九年の役の際に源頼義が陣所にしたとも言われ、後の天文年間(1532~55年)に大崎義隆の家臣後藤平馬之允高広の居城であったと伝えられている。

 後藤楯は、比高40m程の西から東に張り出した丘陵上に築かれている。丘陵上には八幡神社が鎮座しているが、後藤楯の中心部は神社から東に2~300m離れた位置にある。かなり複雑な縄張りを有した比較的大きな城である。外郭の物見台であったと思われる神社から東に100m程降っていくと小堀切があり、ここから城域に入る。堀切沿いの土塁を迂回して進むと、尾根上に細長く何段かの平場群が続いている。その先端の尾根のくびれた部分に二重堀切が穿たれている。1本目は比較的浅いものだが、2本目は5m程の深さがあり、北側に深い竪堀となって落ちている。この先が城の中心部で、やや小さい方形の高台(ニノ郭)の先に切岸で囲まれた横長の広い主郭がある。主郭は外周に腰曲輪を伴い、北東角には小さな隅櫓台とその先の尾根に物見台の小郭があって、眼下を見張っている。一方、主郭の南東には枡形虎口が築かれ、その側方に堀切を挟んで櫓台が築かれている。主郭の東にも曲輪(三ノ郭)があり、南端に大きな櫓台が築かれ、その南側にやはり堀切を挟んで三角形の櫓台が築かれている。三ノ郭の東側は土橋の架けられた幅広な堀切(堀底は腰曲輪となっている)が穿たれ、その先も出丸的な曲輪となっているが、ここには給水施設があって改変を受けている。その先も移行がある可能性があるが、時間の制約もあって未踏査である。城内は藪が多いので確認しづらい部分も多いが、技巧的な縄張りが散見され、見所は多い。尚、八幡神社登り口に標柱が建っている。
二重堀切の一つ→IMG_4522.JPG
IMG_4558.JPG←三ノ郭の櫓台と堀切・外の櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.809266/140.938379/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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森楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4427.JPG←下段の腰曲輪
 森楯は、現地標柱によれば安藤五郎窺家の居館とされ、『森館軍記』という書物に出てくる居館と言う。また『日本城郭大系』によれば森周防、或いは森因幡守糺則の居館であったとされている。いずれにしても事績不明の城館である。
 森楯は、平野の只中にある比高20m程の独立丘陵に築かれている。たまたま通りかかって標柱を見つけて訪城した。登道を探して歩いていると、地元のおばあさんから、またそのちょっと先でおじいさんに別々に声をかけられた。城跡のことを伺うと、お二人共、異口同音に「城跡だと言われているけど何にもないよ」と力説していた。キャッスラーならよく聞く答えで、「ははん。てことは、遺構があるな」と思って、南面の鳥居のある階段を登って行くと、案の定腰曲輪らしい平場と切岸が目に飛び込んできた。
 森楯は、楕円形の丘陵頂部に、堀切で分断された主郭とニノ郭を置き、外周に2段の腰曲輪を築いて全周を囲繞している。堀切は城内通路を兼用していたようで、堀切南端から腰曲輪を西向かって歩くと、僅かに木戸口の土塁が残っている。堀切の主郭側には低土塁も築かれている。思った以上に良好な遺構に満足した反面、「家の真裏の山にこれだけしっかり遺構が残っているのに、『何もない』とはなぁ・・・」と、こうして遺構も歴史も埋もれていってしまうかと思うと、少々複雑な気分だった。
主郭・二ノ郭を分断する堀切→IMG_4445.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.811356/140.964214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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黒岩楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4375.JPG←ニノ郭の櫓台と竪土塁
 黒岩楯は、源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした奥州合戦の際に、藤原泰衡の家臣若九郎大夫が拠点としたと言われている。『吾妻鏡』には「黒岩口」と記されている。一方、鶴丸城主郭より谷戸を挟んで僅か300m程しか離れていないことから、鶴丸城の出城であったとも考えられている。

 黒岩楯は、前述の通り鶴丸城の至近に位置する標高110mの山上に築かれている。比較的小規模な城ではあるが、山頂の主郭から西側に階段状にニノ郭・三ノ郭と2段の曲輪が展開し、これら2つの曲輪の北辺は主郭から竪土塁が一直線に下っている。この土塁は曲輪間の登道も兼ねていたと思われる。一番下の三ノ郭では先端部が90度折れ曲がって5m程伸びている。更にニノ郭の竪土塁脇はニノ郭平面より一段高い方形の平場となっており、形状からして櫓台が置かれていた様だ。三ノ郭は南半分だけがL字状に張り出した形状で、西の谷戸に向かって横矢が掛けられている。一方、竪土塁は主郭の南東にも短く張り出しており、主郭南側まで伸びた腰曲輪状の二ノ郭と東側の腰曲輪を分断している。この下には虎口を兼ねた堀切があって、南出曲輪が築かれている。主郭の北側は横堀状の腰曲輪があり、北側に櫓台が築かれている。この横堀状腰曲輪の北には、小郭群を連ねた竪土塁状の曲輪群が築かれていて、最下段は物見台状の平場となっている。竪土塁状曲輪群の北(外側)に沿って通路があり、大手道だったらしい。この大手道は最上部で前述の櫓台に突き当たって、坂虎口で横堀状腰曲輪に繋がっている。黒岩楯は、小規模ながらも技巧的な縄張りが垣間見られる。縄張りを見る限り、鶴丸城との連携を意識した様子はなく、極めて独立性が高い。しかし戦国期の遺構であることは間違いないと思われ、鶴丸城と並立した期間はあったものと推測されるので、どのように連携していたのかは今後の考究に待ちたい。
主郭北側の横堀状腰曲輪と櫓台→IMG_4400.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.837652/140.989941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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鶴丸城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4253.JPG←ニノ郭群東の畝状竪堀
 鶴丸城は、別名を岩ヶ崎城とも言い、葛西氏の家臣富沢氏の居城である。富沢氏は元々葛西氏の庶流であったと言われ、その祖右馬之助が南北朝時代の岩切城合戦の際に吉良貞家に味方した軍功により、三迫富沢郷を賜って鶴丸城を築いて居城とした。右馬之助は名を富沢日向道祐と改め、以後明岩・直家・直綱・直景と5代に渡り、代々日向守を名乗った。富沢氏の支配地域は大崎氏の領国と近かった為、後に大崎氏に仕えるなど、葛西氏に抗する動きを見せるようになった。特に戦国後期に入ると、4代直綱は葛西晴信に対して度々反乱を起こし、晴信はこうした富沢氏ら領内の有力国人衆の反乱鎮圧に忙殺された。天正年間(1573~92年)に入ると、伊達氏に誼を通じるなど、終始葛西氏に対する対抗姿勢を崩さなかった。しかし強勢を誇った富沢氏も、1590年、5代直景の時に豊臣秀吉の小田原征伐の不参のため、葛西氏と共に改易された。葛西大崎一揆の際には、葛西晴信の軍に付いて佐沼城に立て篭もり、伊達政宗の軍勢に攻められて討死し滅亡した。富沢氏滅亡後、鶴丸城は伊達政宗の5男宗綱、6男宗信の居館となり、茂庭周防の補佐により5万石の城下町を築こうとしたが、いずれも夭逝して成らなかった。その後、石母田・田村・古内・茂庭の各氏が入部し、最後は中村氏が170年にわたって支配して幕末まで存続した。

 鶴丸城は、栗駒小学校の北にそびえる標高100m、比高70mの丘陵上に築かれた城である。広い城域を有した城で、大きく4つの曲輪群と、そこから派生する尾根状の曲輪群で構成されている。最も西の最高所に主郭があり、その東に堀切を挟んでニノ郭、更にやや離れて東に三ノ郭・四ノ郭が築かれている。いずれの曲輪にも腰曲輪が築かれている。主郭は南尾根に腰曲輪が連なり、二ノ郭・三ノ郭は北東の尾根上に腰曲輪が連なっている。薮でわかりにくいが、先端には小堀切も穿たれている。四ノ郭は上下2段の平場に分かれ、更に外周に腰曲輪が廻らされている。南には虎口が築かれ、虎口脇に竪堀が穿たれて防御を固めている。この城で特徴的なのは二ノ郭群の東斜面に大きく展開した大きな畝状竪堀である。しかし斜度の緩い斜面に穿たれており、どこまで防御性を発揮したのかはよくわからない。畝状竪堀よりも、急峻な切岸にした方が防御性が高いように思われる。鶴丸城は、全域が公園化されており、歩いて回るのには良いが、肝心の遺構は公園化による改変が多く、今一つ感心しない。姫松楯を手本にして欲しいところである。

 それにしても鶴丸城は完全な山城であり、これを元和の一国一城令以後も取り立てていた伊達政宗は、徳川幕府を舐めきってるとしか思えない。伊達氏は、この城に限らず領内各所の要害といい、一国一城令を完全に無視した態度はさすがにふてぶてしい。
主郭から見たニノ郭→IMG_4194.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.835897/140.992302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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