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古城めぐり(山形) ブログトップ
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志田楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_9574.JPG←南郭群の石垣
 志田楯は、14世紀の末頃の長井氏領時代に志田義治の居城であったと伝えられている。古くは新宿の柵と称したと言われ、後に志田義治の時代を経て、文禄年間(1592~96年)には遠藤盛利が居城としたとされる(但し、1553年の『晴宗公采地下賜録』によれば、中野常陸介ら5名の地頭領主が新宿郷に安堵されているが、遠藤氏の名は見えない。)。1598年に豊臣秀吉の命で上杉景勝が会津・置賜に入部すると、盛利は伊達氏を離れて上杉氏の執政直江兼続の家臣となり、慶長出羽合戦の時には足軽300人を率いて二井宿口から上山に出陣した。しかし、慶長年間(1596~1615年)の末年に再び伊達家に仕えたと言う。

 志田楯は、屋代川の曲流部に張り出した標高380m、比高100mの山上に築かれている。山頂に南北に長く伸びた主郭を置き、北東と南東の尾根に段曲輪群を配している(北郭群・南郭群)。主郭は西辺に土塁を築いて防御し、南端近くは一段低くなっている。また南西部にも一段低くなった、細長い変則型の枡形虎口の小郭を築いている。その下の南西尾根十数m下方にも、縄張図にない馬蹄段曲輪がある。前述の北郭群・南郭群は、どの曲輪も削平がしっかりとしており見応えがある。特に南郭群の最上段には石垣が残っている。これは予想外に立派な石垣で、わずかな残欠に過ぎないが積まれた石が大きくしっかりと積まれており、東北の山城では類例が少ない。しかし隅部の処理は算木積みにはなっておらず、戦国末期から近世初期頃の構築と思われるが、上方の石積み技術がまだ流入する前に構築されたものの様である。この他、主郭の北西にも段曲輪が1段あって、堀切が穿たれている。その先も削平の甘い曲輪が続き、掘切がもう2本穿たれているが、最初の掘切だけしっかりした規模で竪堀も長く伸びるが、残り2本は小さいものである。また北郭群・南郭群の東面に帯曲輪があり、北郭群と南郭群を繋いでいる。この帯曲輪から谷戸を降ると川沿いに平場が広がっており、倉庫などが置かれたと思われる。

 志田楯は、現在でも外周を廻る屋代川が天然の外堀となり、渡る橋もないので、人の接近を阻んでいる。昨年来た時には川に阻まれた上、猿が出現しており、猟銃の音も山中に響いていて、近くの商店のおばさんに登るのはやめた方がいいと言われて断念した経緯があった。今回は、11月の猟解禁前で、且つ晩秋の渇水期を狙ったのが頭に当たり、長靴を用意したのもあって難なく渡河して登ることができた。山形で訪城目標としていた最後の城であったが、貴重な石垣に大喜びすることができた。
主郭北西尾根の掘切→IMG_9544.JPG
IMG_9586.JPG←南郭群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.018598,140.252666&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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小国城(山形県小国町) [古城めぐり(山形)]

IMG_8626.JPG←城址の遠望
 小国城は、出羽と越後の国境を守る伊達氏の城である。伝承では奥州藤原氏が一族の俊衡を配したとも言われる。室町時代中期には、置賜地方に進出した伊達政宗(儀山公)によって、粟生田備後守が配されたとされ、粟生田氏2代の後、上郡山氏3代が城主となった。豊臣秀吉の全国統一が成り、蒲生氏支配時代になると佐久間久右衛門が城代となり、1598年に上杉領となると奈良沢主殿助が城代となった。その後、城代制の下で城代は多くの変遷を経て、1692年に城代は御役屋将と改められた。明治3年に西条舎人秀興が御役屋将を免ぜられて、小国城はその歴史を終えた。

 小国城は、横川曲流部の左岸に築かれている。現在の旧小国小学校跡地の位置に土塁と堀で囲まれた本丸があったらしい。また江戸時代には、その西側の飯綱神社のある付近に御役屋が置かれ、小国城の本丸跡には代官所や米蔵が置かれた様である。いずれにしても、現在は宅地化・市街化で遺構は湮滅しており、城址を思わせるようなものは残っていない(御役屋西側の土塁の一部が残存するようだが、見逃した)。昭和20年代前半の航空写真を見ると、御役屋を囲んでいた西と南の土塁・堀がはっきりと確認できる。写真では外堀らしいものも見られ、どうも二重の堀で囲まれた城館であったらしい。今後、旧小学校跡地が再開発されていくものと思うが、できればかつての歴史を思わせる歴史公園にでもして欲しいものである、

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.063534,139.745965&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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本楯館(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8499.JPG←主郭と堀跡
 本楯館は、1189年に多田仁綱が築いた居館である。鎌倉幕府創業の功臣大江広元は、源頼朝より出羽国寒河江荘を与えられると、妻の父多田仁綱を目代として遣わし荘内を治めさせた。この時仁綱が築いたのが本楯館である。
 本楯館は、現在市街化で遺構はかなり湮滅が進んでいる。はっきりそれとわかるのは、主郭の北西部だけで、明確な郭跡の段差と堀跡が低地となって残っており、そこに「本楯館跡」と「土井ノ内」と刻まれた石碑が2ヶ所建っている。主郭は内堀で囲まれた方形の曲輪で、更に周囲を外堀で囲んだ環郭式の平城だったようである。しかし前述以外の内堀は湮滅し、僅かな地形の窪みとして名残りを残しているに過ぎない。外堀も、小さな水路がその名残りを残しているだけである。昭和30年代初頭の航空写真では、外堀はもう少し堀の姿を留めていた様で、その後の市街化で姿を消している。しかし立派な石碑と「本楯」の地名に、その歴史が刻まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.366812,140.292878&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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古館城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8494.JPG←外堀跡とされる水路
 古館城は、慶長出羽合戦の折、米沢から侵攻してきた直江山城守兼続率いる上杉軍に対する防備の為に最上義光が築いた城と伝えられている。南方約700mの位置に若木楯があり、楯主新関氏の居館を、最上氏が整備拡張したとも伝えられている。
 この城の存在は、山形市の発行している史跡案内地図で知ったが、城域は民家となって変貌しており、遺構は極僅かである。以前の訪問記では、地蔵堂が建っている付近が城址と思って来たが、その後『山形県中世城館遺跡調査報告書』で城の推測図を入手したところ、城の中心の位置がズレていたのと堀の推定位置が判明した為、今回再訪して記事を書き改めた。古館城は二重の堀で囲まれた環郭式の平城だったらしく、主郭跡とされる民有地の入口付近に城址碑が建っている。また、内堀は宅地化で完全湮滅しているが、外堀は一部水路となって残っている様である。僅かな遺構ではあるが、地名も古館と残っており、貴重である。石碑を見つけられたのも嬉しい。
民有地入口の城址碑→IMG_8489.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.266253,140.255992&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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山家城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8398.JPG←3段の石垣の一部
 山家城は、最上四十八楯の一で、山形城主最上義光の家臣山家河内守の居城である。山家氏は、山家信彦を祖とする国人領主で、南北朝期には南朝方として活動したが、後に羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として山形に入部した斯波兼頼(最上氏の祖)の家臣となった。戦国末期、山家河内守は最上義光の直属の家臣となり、義光が病没した時に殉死した4家臣の一人として名を連ねていることから、義光にかなり近い位置にいた側近であったものと思われる。

 山家城は、山形城の北東3.7kmの位置にある、標高234m、比高104mの館山(野伏山)に築かれた山城である。ほぼ独立丘陵に近い山の東西に連なる尾根全体に曲輪を配しており、比較的規模の大きな山城である。くの字に曲がった尾根上の3つのピークに、西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を配し、それぞれが独立性の高い、一城別郭的な縄張りとなっている。主郭は中央部に大きな土壇があり、規模と城の形態から考えて小型の天守台と推測される。主郭の前面には段曲輪が数段置かれ、その更に前面にはかなりの広さの細長い曲輪が広がっている。内部は一面の笹薮だが、3段の段差に仕切られており、先端には一段高く物見郭が築かれ、物見郭上には土塁と櫓台も築かれている。またこの広い曲輪の北側には、竪堀状の城道が斜面を降り、その下は小さな横堀と接続している。南側には帯曲輪群が築かれており、丁度長谷堂城の先端近くの帯曲輪群に似た構造である。主郭背後は切岸だけで尾根と区画されており、掘切の様な地形も見られるが、規模が小さい上に夏場の薮であまり明確ではない。二ノ郭は、頂部に物見台的な小郭を持ち、前面に2~3段の段曲輪、南面に腰曲輪群を伴っている。特筆すべきはこの南腰曲輪群に築かれた石垣で、3段にわたって築かれている。しかし、二ノ郭群の曲輪はいずれも小規模で、石垣も小さな平場を確保するための土留的な役割の様である。二ノ郭群の東に三ノ郭がある。三ノ郭は中心の平場の外周に一段低く腰曲輪が取り巻き、更に前面・後面に腰曲輪を伴っているようだが、薮で形状がわかりにくい。この他、山麓からの登り道の途中にも腰曲輪が見られるが、畑になっているものも多いので、どこからが後世の改変か判断が難しい。いずれにしても石垣や主郭天守台など、近世大名化した最上氏の下で、近世的な城として改修された遺構を留めていると思われる。近年、登道が整備され、解説板・駐車場が完備されているのもありがたい。盛夏でも十分に遺構を確認して回れたのは、嬉しい誤算だった。
主郭の天守台→IMG_8361.JPG
IMG_8332.JPG←竪堀状の城道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.272453,140.364611&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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飯田楯(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_8308.JPG←虎口郭
 飯田楯は、山形城主最上義光の家臣飯田播磨守が、尾花沢の本拠飯田楯から当地に封任となり、築いた城館と考えられている。おそらく山形城の防衛の為に、義光が山形城周辺に築かせて守りに就かせたものであろう。この後、飯田播磨守は、慶長出羽合戦で畑谷城救援に出陣し、討死したと言う。

 飯田楯は、成沢城の北北東1.2kmの位置、山形盆地南東部に張り出した丘陵先端に築かれている。スプーンの様な丘陵の上に主郭を含む4段の曲輪を配置し、その周囲に腰曲輪を巡らしている。一部は畑となっているが、その他は耕作放棄地でやや荒れている。特に最上段の主郭と腰曲輪の先端部は藪化している。しかし遺構は比較的良好に残っている。西側に登り口があり、腰曲輪を経由して頂部の曲輪群まで登れるので、この腰曲輪が虎口郭であったと推測される。南東のくびれた丘陵基部には掘切がなく、城の背後は切岸だけで防御されており、『山形県中世城館遺跡調査報告書』に記載されている通り、軍事的機能よりは日常的な居館としての性格が強かったのだろう。またこの基部には井戸から楯までの導水路跡も見られるとのことであったが、夏で草が生い茂っておりよくわからなかった。登り口の標柱も文字が消えていたのは少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.212878,140.327618&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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杉沢楯(山形県白鷹町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3571.JPG←本城前面の畝状竪堀
 杉沢楯は、歴史不詳の城である。最上川流域の平地部からはやや奥まった山上に築かれている。標高376mの山頂に築かれた城と、その西側に張り出した標高350mの尾根上に築かれた城の2つに大きく分かれており、ここではそれぞれ「詰城」「本城」と仮称する。大手は本城の北西尾根にあったと思われるが、麓が民家の敷地になっているので登れない。その代わり、城の南から東に抜ける車道を登って行くと、東側から詰城の南に伸びる尾根に比高わずか30m程で取り付くことができるので、それが一番手っ取り早い。

 このルートで最初に到達する詰城は、背後を二重掘切で遮断した小規模な城砦で、主郭の前面や左翼に腰曲輪を築いただけの簡素な作りである。ここから西に尾根を降っていくと鞍部に小堀切があり、その先に暫く歩くと三重掘切が見えてきて、ここから本城となる。三重掘切は、他の掘切と比べると規模は大きく、比較的鋭く穿たれている。本城の主郭は東西に細長く伸びて後ろですぼまっており、左右両側に腰曲輪を伴っている。この主郭の形状は、まるでWEC(世界耐久選手権)カーのLMPタイプのキャビン部分の様である。また背後にせり上がった土塁を伴っており、これはさながらリヤスポイラーの様である。主郭の前面にはニノ郭が広がり、その前面には腰曲輪が左右に交互に配置されている。最下段の腰曲輪の北端に虎口があり、その下に大手道が伸びている。この大手虎口は、左右に交互に竪堀を落として、S字状の土橋形状にして動線を制約している。この竪堀の内、西側に穿たれた竪堀と連携して、西側の平板な斜面に20条の畝状竪堀が穿たれている(『山形県中世城館遺跡調査報告書』では17本としているが、浅くなったものも含めて全部で20本確認できた)。ここは本城の前面に当たる斜面で、この方面の防御を強く意識していたことがわかる。畝状竪堀の内、南から10本は長さが短かめだが、11本目からは長く伸びている。いずれにしても、大手道から斜面への敵兵の移動を制約する意図が明確である。山形には最上氏の城に畝状竪堀が多いが、最上のものはいずれも長さが短くコブ状のものであるが、杉沢楯のものは規模構造が異なっており、完全な洗濯板状の長い竪堀群である。山形では特筆すべき貴重な遺構で、もしかしたら上杉氏が会津・米沢入部後に、最上氏との戦闘に備えて築いたものかも知れない。
本城背後の三重掘切→IMG_3496.JPG
IMG_3503.JPG←主郭と腰曲輪
大手道に穿たれた竪堀→IMG_3546.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:〔詰城〕
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.158334,140.104576&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    〔本城〕
     http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.15884,140.103096&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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愛宕山楯(山形県長井市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3384.JPG←主郭と繋ぎの曲輪・ニノ郭
 愛宕山楯は、歴史不詳の城である。最上川東岸にそびえる標高361.2m、比高160mの愛宕山山頂に築かれている。非常に山容の大きな山で、最短ルートでのはっきりした登道が確認できなかったため、南東麓の中伊佐沢南地区から山中に伸びる長い山道をGoogleMapの航空写真で見つけて、それを使ってアプローチした。大きく迂回する様に敷設された山道のため、迷うことはなかったが山頂まで1時間も掛かってしまった。

 愛宕山楯は、愛宕山の広い範囲に遺構が散在しており、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図に記載のない曲輪も多数存在する。前述の山道を延々と辿った後、南の尾根に取り付いて尾根上を辿って行くと、地形図の338m地点の小ピークは物見台であったらしく、頂部は小郭となり、北側に2段程の腰曲輪が付随し、その先に小堀切が穿たれている。このピークの中央部は窪みがあり、もしかしたら狼煙台の跡かも知れない。そこから尾根を昇り降りして暫く歩くと明確な掘切が現れ、その上には腰曲輪を伴った平場があり、南東の出曲輪となっている。そこから一旦尾根に沿って降り、鞍部から登ったところが主城部である。主郭は愛宕神社が建っていた場所と想定され、南東にも曲輪が広がり、その先端にも南東と南にそれぞれ2段程の腰曲輪を築いている。また主郭の東に虎口があり、腰曲輪を経由して東尾根と北東尾根の曲輪群に通じている。東尾根には、南辺から曲輪先端までを土塁で防御した、大きな馬蹄段があり、ここでは三ノ郭としておく。その先の尾根にも数段の曲輪群が築かれている。一方、三ノ郭の北側に虎口があり、北東尾根の曲輪群に繋がっている。北東尾根の北側は、途中まで広い緩斜面となっており、位置的に軍団の駐屯地であったように考えられる。北東尾根も、登ってきた南尾根同様、ピーク上に曲輪群が散在するが、より普請が徹底されており、派生する尾根にも掘切や腰曲輪が見られ、より重要視されていた様だ。その先の主城からかなり離れた平坦地に出曲輪が設けられ、郭内を小堀切で2つの区画に分割している。再び主郭に戻ると、三角点のある北西の曲輪が二ノ郭で、主郭と二ノ郭は間に一段低い繋ぎの曲輪を築いて繋がっている。ニノ郭には櫓台が残り、祠と三角点がある。ニノ郭の南西尾根と北西尾根にも曲輪群が連なっており、特に北西の方は、尾根の先に独立性の高い広い出城を構えている。この出城は東西に長く、腰曲輪で囲まれ、北東端に向かって何段も曲輪を連ねている。出城の西端は腰曲輪の先に掘切が穿たれ、その先の尾根と分断している。これ以外にも、主城のニノ郭の南西尾根の先にも出曲輪があるらしいが、時間と体力の都合でパスした。

 愛宕山楯は、掘切は少ない一方、多数の曲輪を広範囲に築いており、どちらかと言えば軍団の駐屯性を重視した軍事駐屯地的な城と言う印象を受けた。そう言う意味では塩田城に築城構想が似ている様に感じられたが、一方で縄張り的には古い印象で、伊達氏の山城の特徴も殆ど無く、伊達氏の置賜進出以前の城であった可能性もある。しかし伊達氏以外の勢力に、これほど広い城が築けたのかという疑問も生じるところで、今後の考究を待ちたい。
南尾根途中の掘切→IMG_3268.JPG
IMG_3318.JPG←土塁が築かれた三ノ郭
北東尾根の出曲輪と掘切→IMG_3359.JPG
IMG_3407.JPG←出城西端の掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.085122,140.054709&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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虚空蔵山楯(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3127.JPG←南端で直角に曲がる3本目の掘切
 虚空蔵山楯は、星見ヶ城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。大洞山楯と同様、置賜盆地から上山を経て山形に通じる街道を眼下に収め、北方に築かれた伊達氏屈指の山城、岩部山城から西南西にわずか2.1kmしか離れておらず、類稀な多重堀切群を有している技巧性から、伊達政宗が最上義光の侵攻に備えて街道沿いに築いた城砦群の一つだったのではないかと、個人的に推測している。

 虚空蔵山楯は、川樋集落の西方の標高450m、比高160m程の小ピーク上に築かれた城である。このピークはちょっと変わった位置にあり、2つの山に挟まれた中間の谷戸の先に突出する形で、小高く盛り上がっている。城に登るとわかるが、城の背後は前述の谷戸が緩やかな傾斜地となって広がっており、この背後からの敵の接近をいかに防ぐかに防御の重点が置かれている。城のある虚空蔵山には、地元の人が「虚空蔵さん」と呼ぶ大きな祠が祀られており、かつては東麓から祠までの道が整備されていたが、現在は高齢化で登る人もいなくなって薮に埋もれつつあり、辛うじて道が残っている程度である。道を登って行くと、麓近くの緩斜面には階段状に多くの平場が道の両側に広がっている。ここは現在は耕作放棄地であるが、根小屋と呼ばれていたことから、居館地区であったらしい。ここには湧水があり、現在でも滔々と水が流れている。これらを見ながら登って行くと、虎口のような地形があり、そこから先は七曲りと呼ばれるつづら折れの山道となる。山道を登り切ると城域最下段の段曲輪に着くが、そこに虚空蔵さんの祠が祀られている。そこから上に5~6段程の段曲輪群が続く。これらの段曲輪群はそのまま側方に腰曲輪となって続いており、そこがまた上段へと登る城道を兼ねている。段曲輪群の最上段は、主郭前面に掘切を介して築かれた小さな二ノ郭で、物見台的な曲輪となっている。主郭との間の掘切は虎口を兼ねており、下段の腰曲輪から城道が続いている。主郭は前面・左面・背面を低土塁で防御した曲輪で、内部は3段程の段差に分かれた縦長のひしゃげた五角形をしている。背面の土塁は、そのまま南側の腰曲輪背面まで続いている。この城の白眉は、主郭背後の尾根に穿たれた6重掘切で、単純に6本の掘切で断ち切っただけではない、複雑な構造をしている。例えば3本目の掘切は、南側でL字状に折れ曲がって2本目の掘切にぶつかる手前で止まっている。また4本目は尾根上では円弧状に穿たれているが、南面に来たところで、折れ曲がってまっすぐ竪堀となって落ちている。5本目は円弧状に穿たれた横堀で、南側が4本目にぶつかる手前で止まっており、土橋となって削り残されている。この土橋の下には小郭があり、下方に伸びる竪堀を睥睨している。6本目は、城背後の谷戸裏の西側丘陵との間に穿たれており、そのまま南東に竪堀となって落ちている。ここには4本目の掘切が合流し、合流点に小さな円丘があり、その下の方では真ん中に中洲状に土塁がある二重竪堀となっている部分もある。この様に堀切が合流分岐し、更に堀の屈曲がある。竪堀はいずれも長く、要所には横矢掛かりの櫓台が築かれるなど、これらの複雑な構造は背後の緩い谷戸からの接近阻止を主眼とするものであろう。この他、主郭の北側と南側に腰曲輪が2段づつ築かれ、北側下方に畝状竪堀らしき地形も見られる。

 虚空蔵山楯は、比較的小規模な城砦であるが、それには不釣り合いな程、複雑な6重掘切が穿たれており、岩部山城と共に重視された城だったと思われる。岩部山城を月見ヶ城とも呼び、虚空蔵山楯を星見ヶ城とも呼ぶことからも、2つの城が相互に関連した城であったことを強く類推させる。尚、城への登道を訊いた山麓のおばあさんから、高齢でお参りできなくなった虚空蔵さんの祠に代わりにお参りして欲しいと頼まれ、無事に果たすことができた。ちょっとだけ人助けができた気がして、爽やかな気分になった城であった。
主郭背後の堀切→IMG_3081.JPG
IMG_3109.JPG←円弧状の5本目の掘切
虎口を兼ねた主郭前面の掘切→IMG_3208.JPG
IMG_3229.JPG←段曲輪にある虚空蔵さんの祠
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.089513,140.181438&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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大洞山楯(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2936.JPG←石積みの見られる虎口
 大洞山楯は、歴史不詳の城である。置賜盆地から上山を経て山形に通じる街道を眼下に収め、街道を挟んで虚空蔵山楯に向かい合うような位置にあり、その北方には伊達氏屈指の山城、岩部山城があること、また虎口に石積みが見られることから、伊達政宗が最上義光の侵攻に備えて街道沿いに築いた城砦群の一つだったのではないかと、個人的に推測している。

 大洞山楯は、高ツムジ山の北西の支尾根の先端部、標高470m、比高190mのピークに築かれた山城である。登り道は無いが、比較的登りやすい斜面なので、北西麓の適当なところから取り付いて直登するのが手っ取り早い。山頂に南北に細長い主郭を置き、北面から西面にかけて幾つもの帯曲輪群を設けた多段式の縄張りで、外周に横堀を配した、伊達氏の山城に多い形態となっている。主郭は灌木が多くて確認しづらいが、北端部がやや高くなっている様である。しかし主郭は全体に削平が甘く、その規模も相まって大した居住性を有していない。主郭背後には二重掘切があり、内側のものだけ土橋が掛かっている。どちらの掘切も西斜面に長い竪堀となって落ちている。主郭にはこの堀切に沿って土塁が築かれ、土塁も掘切から続く竪堀に沿って竪土塁となって最下段の帯曲輪まで繋がっている。城の大手道は北西にあり、横堀と帯曲輪群を経由する形で幾重にもクランクした巧妙な枡形虎口が築かれている。この虎口付近には、わずかに石積みが確認できるが、岩部山城など伊達氏の構築と思われる山城でも、特に輝宗・政宗期の戦国末期の城でしか石積みは確認できず、これらの特徴から考えれば、戦国末期の最上義光との抗争の中で築かれた小城砦と考えるのが良さそうである。比較的簡素な縄張りの城であるが、伊達氏の山城の特徴をよく残している。
北側斜面の横堀→IMG_2920.JPG
IMG_2928.JPG←虎口の石積み
主郭背後の二重掘切→IMG_3009.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.071271,140.195171&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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伝・片倉館(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2893.JPG←館跡とされる段丘
 伝・片倉館は、独眼竜伊達政宗(貞山公)の股肱の臣、片倉小十郎景綱の出生地と推測されている。小十郎の出生地については「米沢八幡宮の近く片倉館の生まれ」と書かれた文献があるだけで、この「米沢八幡宮」は現存せず、どこのことかで諸説に分かれている。その中で、塩ノ沢地区にある八幡神社のこととする説がある。伝承では、景綱の祖父片倉伊豆守景時が伊達晴宗に仕えて小松郷に采地を賜り、この地に居館を構えたと言われる。景時の2人の息子の内、長男景親は伊達輝宗の時代に小桜城を賜り、入道して意休斎と号した。一方、次男景重は片倉館を継いでと言う。この景重が小十郎景綱の父であり、景重は米沢八幡の神職であったと伝えられる。そして景重の子景綱はこの片倉館で生まれ、当初は藤田家の養子となったが、後に藤田家を出て、伊達輝宗によって政宗の小姓に取り立てられたと『伊達世臣家譜』に伝えられている。

 片倉館は、犬川東岸の段丘上に位置している。周囲より5m程の高台になっているが、現在は一面の畑となっており、地勢以外に遺構は残っていない。ただの川沿いの微高地で、これだけで城館跡と判断するのは難しい。しかし近年、川西町の青年グループが文献・記録を調査した結果、塩ノ沢地区に片倉館とその近くに八幡神社が書かれた絵図が見つかたことから、ここが片倉小十郎の生まれた片倉館だと推測しているらしい。また、訪城した際、場所に確証がなかったので、地元のご老人に伺ったところ、片倉小十郎の館はあそこだと教えてくれたので、地元ではそれと認識されている様だ。ご老人のご教示では、「台地奥(西端)の小高くなったところ」ということであり、確かにわずかに小高くなった部分があるがただの円丘で遺構ではあるまい。結局真偽は不明であるが、戦国時代に想像を廻らせてみるのも面白い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.993271,140.009047&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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館の越館(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2876.JPG←館西側の土塁跡
 館の越館は、独眼竜伊達政宗(貞山公)の股肱の臣、片倉小十郎景綱の館と伝えられている。『伊達家臣録』によれば「(安久津)八幡(神社)総裁片倉小十郎の館跡あり」と記載されており、館の越館から程近い安久津八幡神社の総裁を景綱が務めていたと伝えられている。この時に神社に近いこの地に館を構えたものだろうか。ちなみに伊達家中の内訌、天文の乱では、勝者の晴宗は稙宗党であった神宮寺から安久津八幡別当職を取り上げ、自党の金蔵院に与えたと言う。また1588年、安久津で伊達氏と佐竹・葦名連合の間に争乱があり、片倉小十郎らの鉄砲隊が葦名氏らの軍勢を追い払ったとも伝えられる。いずれにしても、七ヶ宿街道を通って奥羽山脈を越えて置賜盆地に入った入口に当たる地であり、置賜防衛の重要な地であったのだろう。

 館の越館は、屋代川とその支流の下有無川に挟まれた平地中央の段丘上に築かれている。現在は一部が墓地となるほかは耕作放棄地である。館跡は、ただ荒れた平場が残るだけで遺構には乏しい。しかし墓地の脇には僅かな土盛りがあり、土塁跡とされている。この土塁に沿って、墓地の中が一段低くなっており、これが堀跡であったと言う。また台地の東側辺縁部は、平場全体よりもほんの僅か高くなっており、外周を防御する土塁的な帯曲輪であった様だ。その先は数mの段差で、下には水路が流れている。一応土塁・堀はあるが、遺構としてはかなり不明瞭で期待しない方が良い。ただ、片倉小十郎にまつわる遺蹟ということで訪れた。
わずかに高くなっている東辺部→IMG_2889.JPG
IMG_2615.JPG←小十郎が総裁を務めたという
安久津八幡神社

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.004871,140.223087&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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亀岡楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2788.JPG←畝のある主郭掘切
 亀岡楯は、歴史不詳の城である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』では、その位置と構造から伊達氏の置賜進出以前に築かれたものと推測しているが、伊達氏の持ち城となってからも、高畠城を防衛する周辺城砦群の一翼を担ったり、物見や烽火台として使用されたものと見られる。一方、現地解説板では戦国時代の構築としている。伝承では安元年間(1175~77年)に山木判官景隆がこの地に住し、1380年に伊達氏に滅ぼされ、その後神岡茂広、飯坂蔵人左衛門が領し、1591年の伊達政宗の岩出山移封とともにこの地を離れたとされるが定かではない。尚、亀岡楯の北西の平地に西館と呼ばれる方形居館があり(現在は耕地整理で湮滅)、冬館とされる西館に対し、亀岡楯は夏館とも称される。

 亀岡楯は、文殊山から南西に張り出した稜線の先端部に当たる、標高330mの通称「館の山」に築かれている。稜線先端の平坦地に主郭を置き、堀切で背後の尾根を分断しつつニノ郭等の曲輪を連ねた簡素な構造である。主郭はほぼ全周を一段低い腰曲輪が取り巻き、特に尾根側は腰曲輪の幅が広く取られている。更にその外周に帯曲輪が2段ほど築かれ、武者走りを兼ねている。主郭の北西と南に段曲輪が数段築かれているが、これは登城道であろう。大手は北西尾根らしく、北麓には西来院跡地とされる平場群が広がっており、根古屋でもあったと思われる。その上の斜面にも帯曲輪が数段確認できる。一方、主郭背後には中規模の掘切が穿たれ、よく見ると堀底に岩石を削り残した畝のようなものが2本確認できる。丁度、韮山城砦群で見られたものと酷似しており、椿館の例に見られるように関東の小田原北条氏の築城技術が伝播していた可能性も考えられる。その後ろに小さなニノ郭があり、両側に腰曲輪が付随している。2本目の掘切は、両側の腰曲輪に繋がる竪堀状通路を連携させた変則的な二重堀切の様な形状になっている。ここには中央に土橋ならぬ石の橋らしいものが残る。解説板などでは掘切は3つとされるが、実際には尾根の鞍部に小さな4つ目の堀切もあった。亀岡楯は、簡素な縄張りから考えて、戦国期には物見程度の使用しかされていなかった様である。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_2778.JPG
IMG_2833.JPG←2本目の掘切の石の橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.973771,140.186116&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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二色根楯(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2577.JPG←大型の枡形虎口
 二色根楯は、天正年間(1573~92年)の頃、伊達氏の家臣粟野喜左衛門の居城と伝えられている。置賜地方から上山に通じる街道を扼し、置賜盆地の入口を押さえる要地にあり、城の規模も大きいことから、重要な拠点城郭を任される様な高位の重臣が配置された城と考えられる。

 二色根楯は、温泉地で有名な赤湯温泉の北側にそびえる標高341.3mの館の山に築かれている。南陽市のHPに記載されている為、その存在は早くから知っており、もう何年も前に登城を試みたこともあったが、山の周囲はどこも果樹園となっていて適切な登り口がわからず、攻略出来ずに今に至ってしまった城であった。今回は先達の言に従い、薬師寺の西側の墓地裏から登城した。

 二色根楯は、空堀で囲繞された主郭を持った第Ⅰ曲輪群(主城部)と東の薬師山の南斜面に築かれた第Ⅱ曲輪群(東出城)から構成された一城別郭の縄張りで、伊達氏の山城らしく、二重横堀や枡形虎口が多用されている。墓地裏から登った先にある東出城は、薬師山の最高所ではなく南側の緩斜面に構築されている。背後に二重掘切を穿ち、前面にも小規模な二重横堀を築いて防御している。背後の二重堀切は、東側に回りこんで三重横堀となって出城を防衛し、西側では小型の竪堀と組み合わさって畝状竪堀となっている。東出城の曲輪は、伊達氏の山城に多い多段式の曲輪群で構成され、最高所に土塁を築いて背後の守りとしている。
 一方の主城部は、東出城以上に技巧的な造りとなっている。薬師山から館の山に向かうと、小堀切と土塁があり、その先にニノ郭の大堀切が現れる。深さ5m以上ある鋭い薬研堀で、北側には竪堀となって落ちている。この竪堀の両側には腰曲輪が付随し、特に西側のものは横堀が穿たれ、この横堀はその先で更に90度直角に曲がって竪堀となっておりており、その下にも腰曲輪がある。おそらく虎口を兼ねたものだろう。大堀切の南側はほぼ直角に折れて竪堀に変化し、上方の曲輪から横矢が掛けられている。この竪堀はその先で横堀が分岐し、そのまま主城の南側を防御する横堀に続いている。竪堀と横堀の分岐部には櫓台が設けられ、その横にも竪堀が穿たれている。即ちこの櫓台は、両側の2本の竪堀と背後の横堀(掘切)で囲まれた独立堡塁の様な形になっている。主城南側の横堀は城内通路を兼ねており、途中に外周土塁がクランクして枡形状の小空間も作られている。その脇では、クランクした主郭の空堀が合流しており、かなり複雑な堀のネットワークを構築している。横堀をそのまま西に進むと再びクランクして上方の主郭腰曲輪から横矢が掛けられ、その先には大型の土塁で構築された規模の大きな枡形虎口が築かれている。主郭は二ノ郭と空堀で完全に分断されており、東辺の土塁に虎口があることから、ニノ郭とは木橋で連結されていたらしい。主郭西側下方は規模の大きな二重横堀が囲繞し、主郭背後は幅広の空堀状の曲輪となっている。堀状曲輪の幅は20m程もあり、鉄砲戦を想定して築かれていることが明確にわかる。また空堀状曲輪は数段の段差に分かれて西に向かって降っており、その先に二重の食違い虎口を設けている。虎口の先は前述の二重空堀が合流し、空堀の中間土塁の先端が丁度櫓台の様にそびえている。二ノ郭は広い緩斜面であるが、数段の段差に分かれていて、最上部には大掘切沿いに櫓台が築かれ、西端付近は2段程の段曲輪となり、その下方に前述の二重食違い虎口に接続する形で腰曲輪が築かれている。その北側にも坂虎口があり、側方に櫓門か何かの土壇が残っている。この他、城からやや離れた西斜面中腹にも横堀が1本穿たれている。

 二色根楯は、横矢掛かりが各所に設けられ、虎口構造は精緻を極めた、非常に素晴らしい遺構である。主城部と東出城で築城構想がやや異なるのも面白い。
ニノ郭の急峻な大堀切→IMG_2466.JPG
IMG_2489.JPG←直角に曲がる大堀切
主郭西側の二重横堀→IMG_2609.JPG
IMG_2631.JPG←二重食違い虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.058195,140.161461&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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蒲生田館(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2366.JPG←主郭周囲の堀跡
 蒲生田館は、1522年に蒲生右近大夫賞積(ちかつぐ)と言う武士が築いたと言われている。賞積の子賞範の時、姓を蒲生と改めたとされる。また別説では、文禄年間(1592~96年)に蒲生氏郷の陣城であったとも言われるが、蒲生の名による仮託であろう。

 蒲生田館は、蒲生田集落の西側にある平城である。城内は一面の果樹園に変貌しているが、主郭は周囲より一段高くなった微高地となって、ほぼその輪郭を残している。主郭周囲は一段低くなっており、堀跡であることが明瞭であるが、かなり埋められていると思われる。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図によれば、主郭の周りに方形に近い北曲輪や、帯曲輪状の西曲輪・南曲輪があったとされるが、これら外周の曲輪は改変が進み、原型をあまり留めていない。この城跡は果樹園なので、夏は見学不能であろう。下手に入ると果物泥棒と間違えられる可能性が非常に高い。
主郭の塁線と堀跡の水路→IMG_2363.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.059986,140.141097&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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相森館(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2337.JPG←主郭周囲の堀跡
 相森館は、一時期伊達氏の本城であった高畠城の西1.6kmの位置にある、歴史不詳の城館である。1553年の『晴宗公采地下賜録』には、相森に所領安堵された地頭領主として「中村源三、佐竹越中」らの名が見える。一方、1528年の『安久津八幡例祭物取収並支払帳』には「六拾文相森井上筑後殿」と見える。いずれにしても、この地を領した地頭領主が住し、いくつかの在家があって支配していたものと推測されている。

 相森館は、現在果樹園と墓地となっている。主郭を中心に幾つかの曲輪跡とその周囲の堀跡が残るが、曲輪と堀の段差はわずかで、しかも南郭の堀跡は逆に土盛りされているなど、遺構が姿を消しつつある。更に悪いことには、すぐ西側に隣接して学校が建てられ始めており、既に城の西側部分は造成のため破壊されている。この他、昭和20年代後半の航空写真を見ると、主郭のすぐ東側を通る町道の東側も城域だったらしく、全体では横長の五角形をしていた様だ。しかし東側の外郭遺構も耕地化で全壊状態である。これ以上の破壊は是非避けて欲しいところである。それにしても何故中世城館の遺構を破壊して学校が建てられることが、未だに多いのだろう。こうした貴重な文化財を次代に引き継ぐ事も、学校の重要な使命の一つだろうに。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.998412,140.182403&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
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飯塚館(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2312.JPG←主郭周囲の堀跡
 飯塚館は、一説には伊達氏の一族伊達周防の館であったとも言われる。『出羽諸城の研究』では、伊達周防の居館として「糠野目館」を挙げており、「米沢の北方8kmにある。以前は長井氏の一族が住した。東は松川に望んだ平城で、西は約2kmをへだてて鬼面川がある。明応3年(1494年)、伊達尚宗、稙宗が松川をはさんで戦った古戦場である」としており、地形条件が一致していることから、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では飯塚館を糠野目館のことと推測している。そうだとすると、松川合戦で松川西岸に陣した伊達尚宗がここに本陣を置いた可能性も考えられると言う。また、1553年の『晴宗公采地下賜録』には、小梁川尾張守ら地頭領主の所領として「飯塚在家」の名が見え、それとの関連も考えられている。

 飯塚館は、すぐ南東側を米沢南陽道路が貫通しているが、幸い館跡は無傷で、畑地となってそのまま残っている。主郭を中心に、周りに幾つかの曲輪を巡らした環郭式の縄張りらしいが、現在明確なのは主郭と南のニノ郭である。特に主郭外周にははっきり堀跡とわかる窪地が田畑に変貌して残っており、主郭内とは1.5m程の高低差がある。ニノ郭の周囲にも堀跡らしい田畑があるが、郭内との段差はわずかである。飯塚館は、洲島城に似た感じで堀跡が明瞭に残り、一見の価値がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.974786,140.137042&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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小其塚館(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2307.JPG←主郭西側の堀跡
 小其塚館は、歴史不詳の城館である。1538年の『御段銭古帳』に「おその塚」とあるのが資料上の初見で、地頭領主として宮崎弥七郎らの名が見えると言う。置賜を支配した伊達氏配下の小領主の館であったものだろう。
 小其塚館は、現在の小其塚集落の中心付近の字「館後(たてのうち)」にある。付近は民家裏の畑地となっているが、主郭は周囲より僅かな微高地となり、北面から西面にかけて堀跡が一段低い畑となって残っている。この手のかすかに残った城館遺構としても僅かな堀跡であり、また主郭以外の縄張りは、後世の改変と民家裏であまり下手に歩けない為、よくわからなかった。主郭北側に虎口もあったらしいが、これも現在ではあまり良くわからない。もう少し遺構がはっきりと残っていたらと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.980164,140.118803&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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下荻楯(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2253.JPG←6重掘切の一部
 下荻楯は、歴史不詳の城である。小滝街道を押さえる要害であることから、小滝口に築かれた小滝城と共に、伊達氏が小滝街道の重要な守備地として築いたものと推測されている。

 下荻楯は、小滝街道西側の山稜上に築かれた城である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図によれば大きく3つの郭群に分かれ、主城部と考えられるのが第Ⅱ郭群で麓からの比高180m、物見郭と考えられるのが第Ⅲ郭群で、第Ⅱ郭群より更に70m程高所に位置する。縄張図に書かれていた北東から城へ登る道は完全に途絶しており、仕方なく沢を越えて物凄い急傾斜の斜面を登攀するハメになった。後から考えれば、地形図にある南東の山道から東尾根に直登するのが正解だったかもしれない。結局、小滝城と同様、城跡に到達するのに1時間も掛かってしまった。

 最初に到達したのは下荻楯の物見郭に当たる第Ⅲ郭群であった。調査報告書の第Ⅲ郭群の位置は間違っていて、実際には標高600mの小ピーク上に主郭がある。ピーク上に小さな主郭を置き、北東に延びる支尾根上に数段の段曲輪群を築き、先端近くに小堀切を穿っている。主郭背後にも小堀切が穿たれている。見るからに物見台という感じの小規模な曲輪群である。しかしその南東に続く尾根の先には、離れて掘られた2つの小堀切を挟んで、平坦な自然地形の平場が広がっており、先端にわずかな段差で区画された段曲輪があることから、ここも城域として機能していたことは確実である。一方、主城となる第Ⅱ郭群へは、この南東尾根の途中から北東に派生する支尾根を降っていく。途中に1本、浅い小堀切があって更に降ると、目の前に6重掘切が現れる。1番外側のものだけは側方に土橋が架かる浅い掘切だが、他の5本はこの城の他の堀切とは明らかに規模が異なり、深さ2m程であるがガッチリと穿たれたものである。そういった意味では、6重というより5.5重に近い。いずれにしても、主城部と背後の尾根との連絡を厳重に遮断する意図を持っていたことが明確にわかる。主郭は背後に土塁が築かれ、周囲に数段の帯曲輪群が廻らされた伊達氏の山城の一形態である多段式の曲輪となっている。この城では主郭から北に伸びる尾根に向かって、見事な8段程の段曲輪群が連なっており、壮観である。もう一つ、主城部から東に降った尾根にⅠ郭群があるらしいが、日没が近かったので今回はパスした。下荻楯では、前述の6重掘切が異彩を放っている。
物見郭(第Ⅲ郭群)の段曲輪群→IMG_2207.JPG
IMG_2279.JPG←第Ⅱ郭群の段曲輪群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.136987,140.155474&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    (本城)
    http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.136936,140.152491&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
    (物見郭)

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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赤松山楯(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_2110.JPG←畝状竪堀
 赤松山楯は、歴史不詳の城である。一説には、嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺して幕府軍の討伐を受けた播磨守護赤松氏の一族がこの地に逃れてきて住んだのではないかとも言われるが、確証はない。

 赤松山楯は、和田集落北側の山稜から南北に伸びる、比高100m程の支尾根上に築かれた城である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』で「伊勢エビ状」という面白い表現で記載される通りの形状で、南北に伸びる細長い尾根上に多数の段曲輪群を一直線に連ねている。東側斜面には2段の帯曲輪を設け、主城域の前面と主郭背後を堀切で分断している。主郭は最上部にあるが、幅は狭く居住性がなく、この城があくまで有事の際の詰城であったことを物語っている。この城で特徴的なのは、前面の掘切に連なる形で東側斜面に穿たれた畝状竪堀である。明らかに堀切と連携した形で穿たれており、帯曲輪への斜面移動を制約する目的で穿たれている。この他には、左右の斜面に数段の腰曲輪が築かれているのと、登り口近くの尾根上にも、腰曲輪状の平場が確認できる程度である。全体的な造りとしては中ノ在家楯に近い形態で、多数の段曲輪群で構成された城である。山麓から道が付いており、城内の藪も少なく遺構の確認がし易い。尚、赤松氏伝説はただの仮託と思うが、いかがであろうか?
主郭背後の掘切→IMG_2172.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.070173,140.106229&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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梨郷上楯(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1947.JPG←大手虎口
 梨郷上楯は、伊達氏の重臣増田摂津守興隆の居城である。増田氏は伊達氏の庶流で、伊達稙宗・晴宗・輝宗・政宗と数代にわたって仕えた。特に興隆の妻は独眼竜政宗の乳母でもあり、興隆の嫡子将監宗繁は政宗の乳兄弟に当たる程、伊達宗家と近い間柄であった。1591年に政宗が岩出山に移封となると、増田氏も伊達氏に従ってこの地を離れた。

 梨郷上楯は、竜樹山と経塚山の間の比高70m程の丘陵上に築かれている。広く平坦な主郭を最上部に置き、周囲に腰曲輪を廻らし、主郭から南に伸びる緩斜面の尾根に段曲輪群を築いている。この段曲輪群は耕作放棄地で、畑地だった頃の給水施設などが残っているため、やや改変を受けている。主郭背後には土塁も築かれている。この城で特徴的なのは、2ヶ所に築かれた枡形虎口で、特に南西の大手虎口は側方に櫓台を備え、伊達氏の城らしく端正に構築されたものである。西側の搦手虎口には、囮虎口らしきものまで備えており、二重に屈曲させた巧妙な動線である。その一方で、背後の尾根には掘切がなく切岸のみで、意外と防御は薄いのが不思議である。背後の尾根を辿ると竜樹山楯に通じることから、竜樹山楯を詰城として一対で機能したものかも知れない。残念なのは、全山笹藪で覆われており、雪解け直後の時期以外は遺構の確認が厳しいかもしれない。薮でコンタクトレンズを失くしかけたほどである。南東斜面には小規模な畝状竪堀もあるとされるが、これも笹薮で皆目わからない。尚、東麓の本覚寺には増田摂津守の墓が建てられている。
主郭の切岸→IMG_1918.JPG
IMG_1988.JPG←主郭西側の腰曲輪
搦手の枡形虎口→IMG_2009.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.056675,140.087979&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

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大舟楯(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]

IMG_1888.JPG←主郭前面の掘切
 大舟楯は、伊達四十八館の一つで中目兵庫頭康長の居城である。中目氏の事績は不明であるが、後の仙台伊達藩において「御一家」格に列した重臣中目氏のことと思われる。その家格から考えれば、伊達家中でもかなり高位の重臣であった様である。

 大舟楯は、大舟丘陵から伸びた尾根北端の比高20mの丘陵地に築かれている。現在熊野神社が鎮座しているが城郭遺構は明瞭で、神社の建つ主郭の背後に掘切が穿たれ、その左右には竪堀が落ち、特に東側では二重竪堀となっている。この二重竪堀の内の1本は、主郭東側の腰曲輪に繋がっており、竪堀を兼ねた城道であった様である。また主郭前面にもしっかりした掘切が穿たれ、主郭西側の帯曲輪に繋がっている。前面の掘切の先の尾根は物見郭だったらしく、その先端にも小堀切と前衛の小郭が築かれている。小規模な崖端城であるが、神社の周りにはっきりとした城郭遺構が残っているのには、目を見張らされる。
二重竪堀→IMG_1844.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.950018,140.024132&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

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赤芝楯(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1752.JPG←物見曲輪周囲の帯曲輪
 赤芝楯は、歴史不詳の城である。大樽川東岸の馬場山と呼ばれる山稜中腹に築かれている。比較的ざっくりした作りの城で、丘陵上に曲輪群を展開しただけの古風な造りである。『山形県中世城館遺跡調査報告書』で主郭とされる平場の西側には比較的大型の土塁が築かれているが、ちょうど駿河徳山城で見られたようなざっくりした造りの大土塁である。この西側山腹には帯曲輪が築かれている。主郭の背後は谷戸状の窪地になっているが、掘切というほどの防御性はなく、その背後の尾根にダラダラと続いてしまっている。そうした面で、背後からの防御はかなり貧弱である。一方、北に伸びる尾根の先には、掘切を介して北端に物見曲輪が築かれており、帯曲輪や腰曲輪が築かれて、城内ではかなりしっかりした普請がされている。訪城時は残雪が多かったせいもあるが、遺構面では少々見劣りする城である。伊達氏の本城であった舘山城に近く、その後背地を押さえる場所にあることから、舘山城外周の防御砦であったのかもしれないが、それにしては縄張りが古めかしく(舘山城は戦国後期の城と考えられている)、その一方で城域はある程度の広さを持ち、軍事駐屯地的な規模となっている。非常に位置付けに悩む城である。
 尚、『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図は、例によって不正確である。
主郭西側の土塁→IMG_1810.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.895023,140.058593&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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古志田館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1697.JPG←主郭背後の土塁
 古志田館は、歴史不詳の城館である。笹野山楯の北東800m程の位置にあることから、笹野山楯に関連した館であった可能性も考えられる。
 古志田館は、県道245号線脇の比高10m程の丘陵の縁に築かれている。北から順に階段状に三ノ郭・ニノ郭・主郭と連なり、各曲輪間は切岸による段差だけで区画されている。三ノ郭は畑となっていたらしく改変を受けているが、ニノ郭・主郭は往時のままの様である。二ノ郭は主郭の腰曲輪的な曲輪で、主郭とは僅かな段差で区切られているだけである。主郭北東角には虎口郭が付随しており、戦国期の形態を見せている。また主郭南側には幅広の土塁が築かれ、裏の谷戸を掘切として背面の防御を固めている。しかし城館のある平場の西側は丘陵が続いており、山側からの攻撃に対してはほとんど顧慮されていない。あくまで平時の居館という位置付けだったものであろう。その為、山城である笹野山楯との関連が、個人的にはより強く類推されるのである。
主郭の虎口郭→IMG_1690.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.887403,140.094684&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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木和田館(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1648.JPG←南辺の土塁と堀
 木和田館は、歴史不詳の城館である。昭和61年の発掘調査による出土遺物の鑑定結果から、平安末期に当たる12世紀後半から末期頃の遺構と推測されており、その規模等から、僅かな郎党を従えた小地主である名主的武士層の館と考えられている。東北地方では最も古い部類に入る城館とされる。
 木和田館は、木和田集落の南方の東西に伸びる丘陵北麓の緩斜面に築かれている。ややひしゃげた方形をした館跡で、土塁と空堀に囲まれている。いずれも規模は小さく、大した防御性を持っていないことから、有事の際の防御をそれほど意識した城館ではないことがわかる。『山形県中世城館遺跡調査報告書』によれば、大手虎口は東側にあり、北面に窪地状の地形があるが、発掘調査の結果洗い場の跡であったらしい。これに付随して北面の土塁に2ヶ所の切れ込みがあるが、洗い場に堀の水を引き入れ排水するものと推測されている。訪城した時はまだ残雪があって、この窪地地形はあまりよく確認できなかった。木和田館はささやかな遺構であるが、それでも解説板が建っているのは嬉しいものである。
東側の虎口と土橋→IMG_1664.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.916576,140.164121&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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夏刈館(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3582.JPG←館跡の現況
 夏刈館は、伊達氏の「夏館」であったとされる城館である。元々は、1332~1471年まで永井左衛門の居城であったとも言われるが定かではない。戦国後期には、伊達輝宗が夏刈館に隣接する資福寺に頻繁に参詣していたとされ、嫡子梵天丸(後の貞山公政宗)の学問の師として名僧虎哉宗乙を招聘し、資福寺住職としていたことから、夏刈館は重要な城館であったと推測されている。現地解説板では夏刈館を「政宗館」とも表記しており、虎哉和尚に師事していた幼い政宗が、一族の伊達成実や後に名参謀となった片倉小十郎景綱と共に夏刈館で起居していたとも考えられている。

 夏刈館は、資福寺館の北東にほぼ隣接する位置にあった。現在は一面の畑に変貌し、遺構は完全に湮滅しているが、昭和初期までは三方を廻る堀が残っていたらしい。館の北側は、和田川によって削られた段差が残っており、往時の館の雰囲気をわずかに残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.01225&lon=140.140307&z=16&did=std&crs=1
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資福寺館(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3546.JPG←伊達氏の墓地脇の堀跡
 資福寺館は、伊達氏が尊崇した資福寺一帯の城館的遺構の名称である。資福寺は、元々鎌倉時代の1278年に長井氏3代時秀が創建したと伝えられ、出羽における禅門の中心となり、名僧を輩出した。南北朝末期に伊達氏が長井氏を攻め滅ぼして置賜地方を併呑すると、長井氏同様に資福寺を帰依寺・学問寺として手厚く保護し、後に伊達五山の一つに数えられた。1572年に伊達輝宗は、嫡子梵天丸(後の貞山公政宗)の学問の師として名僧虎哉宗乙を招聘し、後の独眼竜雄飛の礎を築いたが、この虎哉和尚が住職を務めたのが資福寺であった。1591年に伊達氏が岩出山に移封となると、資福寺も移転された。

 資福寺館は、こうした資福寺の周囲に築かれていた二重の土塁・堀を指す。最上川と鬼面川の合流点に近く、対岸の洲島城と相対する位置にあり、有事の際に渡河点を押さえる出城としての機能を持っていたものであろうか?現在は寺も無くなって久しく、宅地化・耕地化が進んでいるが、それでも堀や土塁の跡が断片的にだが明確に残り、思いの外に遺構が良く残っている。元々私はこの資福寺跡には城館の存在は知らず、寺跡に残る伊達氏9代政宗(儀山公)夫婦・伊達輝宗・伊達氏重臣遠藤基信の墓にお参りに行ったところ、現地解説板に城館の記載があり、遺構を確認して回った。
 尚、資福寺館の北東には伊達氏の夏館と言われる夏刈館があり、虎哉和尚に師事した幼い政宗が、一族の伊達成実や後に名参謀となった片倉小十郎景綱と共に、この地で成長したのかもしれない。
北東隅部の土塁と堀跡→IMG_3567.JPG
IMG_3572.JPG←内堀跡の水路
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.010509&lon=140.136123&z=16&did=std&crs=1
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片倉館(山形県長井市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3517.JPG←西側の二重土塁
 片倉館は、伊達氏の家臣片倉氏の居館である。片倉氏とは言っても、独眼竜伊達政宗の名参謀として有名な片倉小十郎景綱を輩出した片倉氏とは、系譜が異なる様である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』によれば、1509年の伊達尚宗の出兵督促状の宛名に片倉右京の名があり、また1542年に生起した伊達家中の内訌、天文の乱では、右京の子片倉図書介が晴宗方に付いて鮎貝氏と戦い軍功を挙げて加増を受け、更に乱終結の後、論功行賞で図書介の子修理亮が加増を受けたと言う。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、修理亮も岩出山に移ったが、その支族の清次が当地に残り、帰農したと伝えられている。

 片倉館は、現在でも片倉家の屋敷が建っている。最上川の支流、野川南岸の平野部に築かれた居館で、五角形の将棋型をしている。東側は既に湮滅しているが、西側半分の二重土塁が残っている。尚、片倉家の方に話を伺ったが、あまり歴史に興味が無いらしく、県の遺跡調査報告書に載っていることもご存知無い様だった。そうした方からすれば、私達の様な突然の来訪者が屋敷周りを見て回るのははた迷惑な話であるので、遺構を見学する際は、ご迷惑をお掛けしないよう遠目に見るだけに留める等、細心の注意が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.097404&lon=139.997921&z=16&did=std&crs=1
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椿館(山形県飯豊町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3453.JPG←主郭前面の畝堀
 椿館は、歴史不詳の城館である。椿郷は、伊達氏家中の内乱、天文の乱の後、元々下郡山因幡・同石見・同三郎左衛門の所領であったものが、湯目雅楽丞・中野常陸・牧野弾正左衛門等の有力武将に安堵替えされたと伝わっており、伊達領国の中でも重要な所領であったものと推測されている。

 椿館は、飯豊中学校の校庭西側にそびえる比高20m程の丘陵先端に築かれている。平坦な方形の台地を利用し、西側の台地基部を掘り切っただけの、基本的には簡素な構造の城館だが、出色の遺構が眠っている。まず台地基部の掘切は、櫓門であったらしい大手虎口に土橋を架け、土橋に対して横矢掛かりの櫓台を築いた「左袖」となっている。主郭内の掘切沿いには、高さ2m程のしっかりした土塁が築かれている。そしてこの館での白眉は、主郭前面(東側)下方に築かれた畝堀である。畝堀といえば小田原北条氏の専売特許とも言うべき最先端の築城技術の一つで、山中城を始め河村城下田城韮山城支砦群などで見られることで有名だが、なんと遠く離れた山形の地で同じ技術が見られる。椿館の畝堀の畝は、横堀の中に一段低く畝を構築したもので、落とし穴を掘った為に削り残された部分が畝になっているのではなく、明らかに横堀を穿った後に障壁として畝を築いていて、北条氏のものと酷似している。この他、小さな枡形虎口と腰曲輪数段が築かれて、前面の防御を固くしている。
 椿館は、小さな城館に過ぎないが、山形でまさかの畝堀にお目に掛かることのできる、特異な城館である。小田原の役の際、北条氏滅亡後に伊達政宗が築城技術者を密かに連れ帰ったものか、それ以前の北条との軍事同盟で築城技術者の交流があったものなのか、なかなか想像をかき立ててくれて面白い。
掘切と左袖の櫓台→IMG_3492.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.041962&lon=139.985948&z=16&did=std&crs=1
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館山楯(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3321.JPG←山腹を巡る二重横堀
 館山楯は、伊達氏の譜代家臣西大枝氏の城であったと伝えられている。西大枝氏は、伊豆の豪族伊東氏の流れと言われるらしく、「伊藤」の別姓を持っていたと言う。源頼朝の奥州合戦の際、阿津賀志山合戦での戦功により文治年間(1185~89年)に伊達朝宗が伊達郡に入部した際、西大枝氏もこれに従って坂東から下向して西大枝郷(福島県国見町)を領し、姓を改めて西大枝氏を称したとされる。館山楯主の西大枝氏は、おそらくこの西大枝郷を本貫とする西大枝氏の支族で、伊達氏が長井氏を滅ぼして置賜を併呑すると、置賜支配の為にこの地に入部したものであろう。17代義綱孫四朗は、1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、これに従ったと言う。

 館山楯は、標高433.6m、比高140mの館山山頂に築かれた城である。館山には現在明確な登道がないようで、私は北東麓の寺の背後から尾根筋を登った。館山は比較的緩やかな山容で、辿った尾根も広幅の緩い尾根なので、マーキングを付けながらでないと帰りに迷う可能性が大きい。(山頂近くに行くと道が現れたが、下りの途中で消失していた。)
 館山楯は、柳沢楯に酷似した縄張りで、城内は多重帯曲輪群で囲繞した多段式の曲輪を中心とし、城の外周のほぼ全周を二重横堀で囲んだ豪壮な山城である。中心の最高所に主郭を置き、北西に伸びる尾根上に北郭、南に伸びる尾根上に南郭を配置し、全体は逆「く」の字に曲がった曲輪配置となっている。それぞれの曲輪には全て数段の帯曲輪が巡らされ、その外周に前述の通り二重横堀が延々と巡らされている。また山頂から派生する4つの尾根(北・北西・南西・南東)は、いずれも二重横堀と繋がった二重掘切で分断し、更にそこに竪堀状虎口などを連携させている。北尾根のものは掘切を西側で直角に曲げて二重竪堀で落とし、北西尾根のものは掘切から横堀・竪堀にY字状に分岐させ、南東尾根のものは二重竪堀を穿つなど、中々複雑な構造を採っている。虎口については、東・北東・西・南東の4ヶ所が確認できる。いずれも多重枡形を用いた複雑なもので、幾重にも動線を屈曲させている。特に複雑なのは北東と南東のもので、北東ではL字状の枡形土塁の外側に横堀を屈曲させ、また竪堀状虎口を内堀・外堀の連絡路として構築し、これを枡形虎口と連携させている。南東では枡形の規模は小さいが、動線がクランクした内枡形の外に更にジグザグに動線を屈曲させた構造である。各パーツの規模はそれほど大きくはないが、非常に巧妙な縄張りで、伊達氏の築城技術の一つの到達点を示した、戦国末期の遺構と考えられる。
弧を描く二重横堀→IMG_3268.JPG
IMG_3205.JPG←同じく二重横堀
薮に埋もれた複雑な枡形虎口→IMG_3229.JPG
IMG_3258.JPG←北西の二重掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.927855&lon=139.974769&z=16&did=std&crs=1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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