毒島城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
毒島城(ぶすじま)は、その歴史は定かではないが、永禄年間に青木氏が在城したらしい。現地解説板は、規模が小さく防御性も高くないので出城であったとの説を載せている。
多田山丘陵東側の広い湿地帯の中に、浮島の如く浮かんだ楕円形の城である。現在では周囲の湿地帯は全て水田となっていて、城の中も畑となっている。楕円形の主郭の周りを一段低い腰曲輪がぐるりと全周取り囲んだシンプルな構造で、遺構は良く残っているが、土塁などの防御施設はない。しかし、往時は周囲を湿地帯が囲んでいたので、それだけで十分な防御性を発揮したのかもしれない。
それにしてもこの城の名前、毒の島。しかも読み方は「ぶすじま」である。すげー名前だ。もし自分の苗字が毒島だったら、なんかすげーヤダな・・・。(世の中の毒島さん、ごめんなさい。)小学校とかでものすごくいじめられそうな名前だ。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.12.58.6N36.23.10.0&ZM=9
天幕城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
天幕城は、赤堀城の支城として築かれた。戦国上野の動乱に翻弄された城らしく、那波氏、桐生氏、由良氏、小田原北条氏と、幾多の勢力の下を変転した。結局、北条氏滅亡に伴って廃城となった。
天幕城は、蕨沢川とその旧河道の低地に挟まれた台地上に築かれている。その立地条件からして赤堀城と似ているようだ。一番の高地に本丸を置き、その西と北には土塁が明瞭に残っている。西側の土塁は幅が広く、ただの土塁としてではなく、櫓台か曲輪の一緒として使われたのではないかと想像される。この土塁の更に西側にも腰曲輪があり、その南端には水の手曲輪まで残っている。本丸の東と北は二ノ丸が囲み、更にその外側は蕨沢川旧河道の低地を利用した広い外堀となっている。本丸南側には三ノ丸がある。三ノ丸は用水路が東西に突っ切っているので、多少破壊されているようだ。
城跡は現在では本丸・三ノ丸が畑に、二ノ丸はお花畑になっている。また外堀は「天幕城趾あかぼり蓮園」になっている。この日は初秋の良く晴れた暖かな日で、真っ赤な花が咲き誇ってきれいだった。赤堀城ほどの土塁のダイナミックさはないが、良好な遺構が残る城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.56.9N36.23.40.2&ZM=9
赤堀城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
赤堀城は、平将門の乱の鎮圧で大功を挙げた鎮守府将軍、藤原秀郷の末裔といわれる赤堀氏の居城である。南北朝動乱の前半期に赤堀直秀によって築かれた。赤堀下野守親綱のときに上野の戦国大名由良氏の幕下となったが、その後由良氏が小田原北条氏の勢力下に組み入れられると、北条氏家臣の小菅氏が在城したという。豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、赤堀城も廃城となった。
赤堀城は、2つの小河川に挟まれた台地上に築かれた城である。本丸内や周囲は畑や宅地となっているが、本丸の北側と東側に土塁と堀跡が良く残っていて、北東側には喰い違い虎口まで明瞭に残っている。この虎口の形状は、鬼門除けの入り隅を兼ねているようだ。南側の県道を跨いだ南側にも堀跡があったようだが、現在では耕地化でかなり埋められていて、わずかな段差が見られるに過ぎない。一方、北側にも曲輪跡と堀跡があったようだが、こちらは更地化で完全に湮滅していた。
小規模ながら明瞭な遺構の残る、良好な城である。住宅地の真っ只中にこれだけの遺構が残っているのはうれしい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.33.3N36.22.38.6&ZM=9
国済寺城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]
国済寺城は、別名道原城ともいい矢場川と渡良瀬川を天然の堀とした平城である。ほど近くにある市場城と共に、由良氏の金山城の支城として築かれた。位置的に、由良氏が足利長尾氏との境界に築いた境目の城であろう。太田市のHPによれば、「室町時代の永禄年間(1558~69)のある時期には、由良国繁の弟(後の長尾顕長)が居住していた」という。
往時は外郭が東西250m、南北約190mの規模で、東側の堀切は二重の構えとなっており、この堀切の北寄りには、鬼門除けのための「折」が設けられていた。また内郭は一辺約90mの方形で、堀と土居に囲まれており、南側中央にのみ虎口(出入り口)が付けられていたという。しかし残念ながら、現在は主郭は新興住宅地として整備され、周囲の曲輪も市街化で遺構のほとんどは湮滅してしまった。建設会社の裏に竹林があり、その中に堀跡らしき地形は残るが土塁は全く残っておらず、どうもはっきりしない。市場城もそうだったが、行政当局がもう少し史跡保護に積極的であったらと惜しまれる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.24.41.7N36.20.2.0&ZM=9
太田市のHP:http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/maizou/kokusai.html
※2010-11-28:城址位置誤認識が判明した為、再調査の上訂正。
矢田掘城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]
矢田掘城は金山城の支城の一つで、金山城主の由良氏一族の泉基国、基茂が城主であった。城とは言うものの、基本的には方形単郭居館に見える。一般的な館跡と違うのは、築かれた土塁が二重土塁であることであろうか。しかし、現地解説板をよく見ると、土塁に囲まれた曲輪内に点線で二重の四角が書かれており、往時は環郭式に二つの曲輪が存在していたのかもしれない。周辺は完全に宅地化しているため、遺構の残り具合は良好とは言えないが、それでも一部の土塁が残っており、特に大手があったと思われる南側の土塁は、二重土塁の形状のまま残っている。また大手道の名残と思われる道は土塁の近辺で屈曲しており、食違い虎口になっていたようである。これ以上、遺構が隠滅しないことを望みたい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.23.8.2N36.19.53.0&ZM=9
小川城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]
小川城は、沼田氏の一族小川氏の居城である。沼田景久は、1492年に荘田城の西の押さえとしてこの地に城を築き、次男の景秋を置いて小川氏を称したという。後に小田原北条氏の勢力がこの地に延びてきて小競り合いが繰り返される中で、宗家が戦死して断絶状態になったときもあった。そのころ、播磨の守護大名で三管四職の一家、赤松氏の裔、赤松捨五郎祐正なる者がこの地に流れ来て客分としている内、次第に才を認められて宗家の後家と女合わされて、上杉謙信の裁可を得て小川氏の名跡を継いだ。そして小川可遊斎と号して迫り来る北条勢と対峙して、1580年には北条勢に大勝を博したが、怒った北条氏邦の怒涛の進撃の前についに城を捨て、見城の柵(味城山のこと)での最後の抗戦も虚しく、越後に落ち延びたという。
城は利根川右岸の断崖上に築かれている。城の構造は名胡桃城に良く似ており、半島状に突き出た断崖上に本丸とささ曲輪を置き、唯一の攻め口である本丸西側の台地を掘り切って二の丸と分断している。本丸は公園化しているが、この堀が非常に良く残っていて、横矢も明瞭である。本丸には櫓台や土塁もあり、本丸周囲の遺構の残り具合は非常に良い。一方、二の丸であるが、国道に分断されているところまで名胡桃城に似ていて、更にその西側は畑と宅地に変貌している。わずかに看板によって、二の丸の堀跡がわかるくらいのものである。二の丸の西にも根小屋などがあり往時はかなり広かったようであるが、現在ではほとんど城跡の痕跡を見出すことはできない。
新幹線の上毛高原駅のすぐ近くなので、場所はわかりやすい。二の丸以降の曲輪ももっと残っていればよかったのだが。まあ、本丸の堀跡が見事に残っているだけでも良しとすべきか。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.59.3.2N36.41.22.4&ZM=9
それにしても、歴史とは面白いものである。まさか群馬で赤松一族の名を聞こうとは思わなかった。赤松氏は播磨の土豪であったが、元弘の倒幕戦で赤松円心則村が活躍して勇名を馳せた。しかし円心は護良親王に組していたため、後醍醐天皇の寵妃阿野廉子に嫌われ、恩賞をほとんどもらえず怒って播磨に引篭もった。後に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、足利方に付いて終始尊氏を支え続けた。京都争奪戦で一時は大敗した尊氏を強力に支援して、九州落ちから再度の西上まで支え続けて大功を挙げた。そのため足利幕府が開かれると播磨の守護に任命され、3代義満が武家の家格の序列を決めたときには、足利一門以外では京極佐々木氏と並んで四職の家柄となった。
名胡桃城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]
名胡桃城は、利根川右岸の高低差50m程もある険しい断崖上に築かれた城である。城の形状は、串焼きの形に似ている。すなわち曲輪を縦に連結して、その間を堀で横一直線に分断し、中央に土橋をかけているという構造である。半島状に突き出た断崖の上に築かれており、しかも周囲は絶壁になっているので三方からはまず攻めることは出来ない。したがって、本丸は先端に近い部分に築かれているが、ここに近づくには西側の台地側から、三の丸、二の丸を経由する以外方法はないであろう。曲輪間の堀はそれほど大きなものではなく、一番広いところでも10mに満たない。薬研掘ではなく箱掘形状のようだ。埋められているのか、深さもかなり浅くなってしまっている。本丸の先にも土橋を通じて、ささ曲輪、物見曲輪などがあるが、実質近づけるのはささ曲輪までで、その先の物見曲輪は手前の堀の薮がひどく、断崖の形状が全くわからないため、夏場には危険で近づくことは出来ない。それ以外に居館部分として、般若曲輪や外曲輪が残っている。外曲輪は、現在国道17号バイパスが分断している。ここは国道の真横にある珍しい城でもある。外曲輪は宅地や畑になっているので、遠目にしか見ることはできないが、中央に堀跡がかなりはっきりと残っている。外曲輪の南の渓谷内には水の手曲輪があるが、これも夏場では薮で近づくことが出来ない。こちらに行くと小規模ながら石垣が残っているらしい。全体に城の規模は小さく、あくまで拠点防衛もしくは敵地への攻撃拠点としての側面が重視されたものであろう。
名胡桃城はもともと、1492年頃に沼田景久が子息を配置して名胡桃氏を称したことに始まるが、現地解説板によれば、まだこの頃には城はなかったらしい。本格的に築城されたのは、沼田地方が上杉、北条、武田3氏の争奪の場となった時である。1578年に沼田城が北条氏の手に落ちると、利根川左岸の地は北条氏の勢力圏となり、それに対峙する最前線として真田昌幸が築城したものと考えられている。そして、この城を一躍有名にしたのは、1589年に北条方の猪俣邦憲が豊臣秀吉の裁定に反してこの城を攻め落とした事件である。これを契機として豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、北条氏の滅亡、天下統一、戦国の終焉へと時代は移っていくのである。この城はまさに時代の目撃者であった。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.59.44.4N36.40.1.4&ZM=9
荘田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]
沼田氏の出自は、いくつかの説があって、どれが本当か定かではないらしい。現地解説板では、北条時頼に滅ぼされた三浦氏の一族中の一人がこの地に逃れて来て沼田景泰と称し、、縁類の大友氏の所領を統治したとされている。そしてこのとき本拠地として築いたのが、この荘田城である。後に小沢城に移るまで、158年間の居城であったと言う。
城跡は現在、地図にも載っていないような小さな城址公園となっているが、城としての遺構ははっきり言ってよくわからない。公園の入り口は傾斜地の下にあるが、城はこの傾斜地の上にあったらしい。そこも公園の一部で広場になっているが、溝跡が発掘されて残っている。城の遺構かどうかは、解説がないので良くわからない。広場の南に小さな坂道があるが、形状からして堀跡らしく見える。また傾斜地の下には小川が流れていて、曲輪と水掘跡のように見えるが、これも後世の改変があって本当に遺構かどうかはわからない。正直、城址公園と言う割にはぱっとしない城跡だった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.1.31.3N36.39.50.8&ZM=9
小沢城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]
小沢城は、沼田氏が荘田城から1405年に移り住み、以来1519年に幕岩城へ移るまでの居城であった。小沢川という渓流沿いの崖上に築かれており、城の南側は小沢川の渓谷がそのまま外堀として機能している。現在は法城院という寺の境内になっているが、周囲には土塁と空堀が良く残り、明確な横矢も掛かっている。境内の中、東の虎口と思しき付近にも土塁があり、内堀があったようである。北側に開いているのが往時の大手口であったとの事で、やや離れてはいるが、横矢はこの大手を守るために作られていたようである。
こじんまりしているが明確な横矢も残っており、中世の城郭跡として貴重なものである。なお境内には、沼田平八郎景義の墓がある。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.36.3N36.39.37.3&ZM=9
沼田城(群馬県沼田市) [古城めぐり(群馬)]
沼田城は、利根川とその支流の薄根川によって削られた険しい断崖上に築かれた上州北部の城である。城としての歴史は比較的新しく、沼田氏が1529年から1531年にかけて築いた城で、以後その本拠地とした。時まさに関東戦国の雄、小田原北条氏の勢力伸張の時に当たり、1545年に河越夜戦で一気に南関東から管領上杉氏をはじめとする旧勢力を駆逐して関東南半の覇権を確立すると、この城が北上野争奪の重要拠点としてクローズアップされることとなった。すなわち、越後の上杉謙信、相模の北条氏康、更にそこに碓氷峠を越えて進出してきた甲斐の武田信玄と、三者入り乱れての関東三国志の中心地となったのである。特にこの城が有名になるのは、甲斐武田氏きっての謀臣真田昌幸が進出してからである。このころにはすでに謙信はこの世になく、越後上杉氏の影響力は北関東から退き、更に武田氏が織田信長に滅ぼされると、独立領主の道を歩み始めた昌幸と、更に勢力拡大を目論み北上を続ける北条氏との対立が尖鋭化した。そして、このことが後に北条方による名胡桃城奪取、更に豊臣秀吉の小田原攻めへと通じる導火線となっていくのである。
城は現在公園化され、野球場やテニスコートなども作られたため、当時の面影を残す遺構は思いのほか少ない。しかし発掘された西櫓台跡の石垣や、曲輪間を切り刻むように走る渓谷状の深い堀切など、見所が残っていることも確かである。また城跡から利根川を望むと、その大きな高低差に要害性の高さを実感できる。江戸期に幕府によって破却されたせいもあって、天守台などもほとんど壊滅的な状態なのが残念だが、所々に残る土塁や堀跡がここが城であったことを物語っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.31.4N36.38.43.6&ZM=9
新田の庄 その2(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]
南北朝フリークの私は、この地には何度も足を運んでいるが、ブログとして取り上げるのは2回目。今回でほぼ回りつくしたはず・・・。
<大館館>
大館氏は新田氏の一族で、義貞の鎌倉攻めの際、極楽寺坂で戦死した大館宗氏が有名である。現在は一面畑となっていて何も残っていない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.7.4N36.15.2.5&ZM=9
<薮塚館>
薮塚氏も新田氏の一族である。近くにある藪塚温泉は義貞の隠し湯などと呼ばれているらしい。館跡は畑の真ん中にぽつんとある長円寺の境内であるが、よく見ると周囲には土塁や堀らしき名残が見られる。ただ改変が激しいので、本当に遺構かどうかは微妙。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.19.1.6N36.21.51.6&ZM=9
<伝薮塚氏墓>
東武桐生線沿いにあるのだが、なんと墓があるのが民家の庭先という、何とも気まずい場所にある。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.52.1N36.21.33.2&ZM=9
<長楽寺>
新田氏の一族、得川義季の開基と伝わる。境内には得川義季一族の墓所がある。
<世良田東照宮>
徳川幕府が、系図を騙った新田得川氏のゆかりを示すため、世良田の地に立てた東照宮。もともとは2代将軍徳川秀忠が日光に最初に建てた日光東照宮の建物を、3代家光が豪華さに乏しく東照大権現にふさわしくないとして、新たに立て直す際にこの地に移築したもの。確かにこれでは地味だわ。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.44.1N36.15.32.4&ZM=9
<世良田館>
長楽寺の裏の公園に、発掘された堀跡が残っているのが世良田館跡とされている。しかし、民家などが建っているため広範な発掘調査ができず、決定打となる証拠は無いらしい。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.39.2N36.15.32.9&ZM=9
<得川義季館>
縁切り寺として知られる、満徳寺の裏にある八幡宮が館跡とされる。特に遺構は見られなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.17.21.4N36.15.3.6&ZM=9
<新田館>
現在の総持寺が、元々の新田宗家の館跡とされている。義貞も挙兵はここから起こしたというが、それにしては兵を集結させた生品神社までの距離がありすぎる。新田の庄の伝承は虚実入り混じっていてにわかに確定しがたいが、やはり昔から知っている通り、反町館を義貞の居館と思いたい。現在は何も残っていないが、昭和初期まで土塁などが残っていたようだ。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.31.1N36.15.48.9&ZM=9
小泉城(群馬県大泉町) [古城めぐり(群馬)]
小泉城は、富岡氏の築いた平城である。富岡氏はもともと下総結城氏の流れと伝えられている。結城合戦で挙兵した結城氏朝の弟久朝の子、直光がかろうじて乳母に抱かれて結城城から逃れ、長じてのち富岡氏を名乗り、1489年に小泉の地に城を構えたという。以来100年、6代にわたって富岡氏歴代の居城となった。富岡氏は最初、古河公方傘下であったが、上杉謙信が関東管領を継いで北関東に勢力を伸ばしてくると、上杉方として働いた。後に越相同盟が結ばれると、転じて小田原北条方に付き、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡するまで北条氏に従ったと言う。特に沼尻合戦前後の、北関東での北条・佐竹2大勢力の抗争の中では、小泉城は佐竹方の館林城と金山城の間にあって楔を打ち込む重要拠点となった。
現在の城跡は北条氏傘下に入ってから改築されたものと考えられているそうで、実際その縄張りは、きちっと横矢の掛かった本丸土塁や三の丸外郭土塁など、戦国中期以降の戦術が取り入れられている。本丸を中心に全周を曲輪が取り囲んだ、おおむね環郭式の縄張りとなっていて、特に本丸全周と三の丸北側に土塁と水掘が明瞭に残っており、街中の平城としては奇跡に近いぐらい、往時の姿をよく残している。三の丸の一部は中学校となって遺構は消滅しているが、それでも道路沿いや公園との敷地境界におそらく当時からのものと思われる土塁状の地形が残っており、城跡の雰囲気を色濃く残している。本丸の規模などは少々小ぶりではあり、また公園化されて整備されすぎているきらいはあるが、中世の城跡として十分その遺構を楽しむことができる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.25.1.9N36.15.29.5&ZM=9
篠塚城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
篠塚城は、太平記に名高い篠塚伊賀守重廣の居城である。篠塚伊賀守は、鎌倉初期の名将畠山重忠の6世の裔で、重忠が源氏に代わって政権を握ろうとする北条氏に滅ぼされた後、かろうじてその子孫が命脈を保ったものである。篠塚伊賀守は怪力無双で名高く、挙兵した新田義貞に従って鎌倉を攻め落とし、新田家中の四天王の一人と称えられた。南北朝の争乱期になって北陸の地で新田一族の総帥義貞が戦死し、弟脇屋義助が伊予に転戦すると、それに従って伊予で戦い、並み居る足利方の大軍を相手に剛勇をもって鳴らしたと伝えられている。
城跡は、現在ではほとんど湮滅して遺構を見ることはできない。わずかに大手門跡と伝えられる場所に八幡神社があり、その脇に「篠塚城跡」の手書きの札がかけられているだけである。
なお、城跡から北東に600mほどのところにある大信寺の脇に、篠塚伊賀守重廣の墓が大事に守られている。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.26.39.4N36.14.45.8&ZM=9 (篠塚城跡)
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.26.58.2N36.15.8.4&ZM=9 (篠塚伊賀守の墓)
中野城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
中野城は、新田義重の後裔、中野景継が築いた城と伝えられている。景継の子、藤内左衛門が南北朝の争乱の真っ只中の1338年に新田一族の総帥、新田義貞と共に越前藤島の戦いで戦死すると、一旦廃城となった。時代がずーっと下って戦国後期になると、小泉城主の富岡氏の配下宝田和泉守が故城を修築して本拠としたという。
城跡は現在、神光寺の境内となっているが、遺構はほとんど湮滅している。わずかに寺の北側の駐車場周りに土塁らしき痕跡が見られるが、当時の遺構かどうかは定かではない。現地解説板によれば、南側に土塁と堀跡があるというが、現在では完全に消えうせている。境内には、中野景継築城当時の名残と伝えられる大カヤの木が残っており、県の天然記念物となっている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.28.6.2N36.15.45.2&ZM=9
市場城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]
市場城は県道39号線沿いにある平城で、道沿いにそれらしい土塁がよく残っているので、城好きの人が注意しながら車を走らせていれば、すぐ気付くであろう。城の歴史はよくわからないが、近くにある国済寺城(道原城ともいう)と連携して金山城の北東の防御線の一角を構築していたようだ。
遺構は、県道沿いに土塁、空堀が残り、市街地にしては良好な方だが、破壊も進んでいて城の往時の姿を掴めるほどではない。従って、どのような縄張りだったかもはっきりしないが、矢場川を天然の堀としていたらしく、今でも城の南の矢場川との間の畑は低地となっており、かつての堀跡らしい形状を良く残している。是非これ以上の破壊が進まぬよう、保存の手を打ってもらいたいものだ。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.25.14.6N36.19.44.9&ZM=9
金山城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]
そんなわけでPC不在の期間が思ったより長くなってしまったので、結局約2ヶ月ほどブログを更新していなかったが、城巡りを休んでいたわけではない。今回は、先月中旬に行った金山城である。
金山城は、新田義貞の時代からあったというが、定かではない。関東が古河公方足利氏と関東管領上杉氏との抗争で動乱の巷にあった中で(享徳の大乱)、新田と足利両者の流れを汲む岩松氏が、新田嫡流亡きあと新田氏を名乗って、この金山城を築いたとされる。その後、下克上で主家岩松(新田)氏を追い落とした横瀬氏が、この城を本拠に勢威を振るっていた。横瀬氏は、のちに新田氏由来の由緒ある姓、由良氏に改称し、自身が正当な新田氏の後裔であると誇示した。もちろんこれは徳川氏が新田系の世良田得川氏の裔を称したように、まったくの作り事である。
さてその金山城であるが、さすがに関東7名城の一つに数えられるだけあって規模が大きく、整備復元された石垣なども迫力がある。石垣に囲まれて緩やかなカーブを描きつつ伸びている大手道は、どことなく安土城の大手道を思わせる。城域は広く、大手から主郭に至る周囲の曲輪の他にも、西側の西城と呼ばれる区域まで多くの堀切や曲輪、馬場などが残る。車で上って行って着いた先の駐車場が、西城のすぐ横に当たるのだが、西城の入口に明確な虎口が残っていたりと、全体に遺構が明瞭に残っており飽きることがない。また、主郭裏を北にずーっと下っていくと、いくつかの堀切や曲輪を通過して、坂中城とも言われる北城に繋がっている。南には小山があり、出城もあるようだ。全てを見て回ると相当な時間が掛かる。
この城で特異なのは、日の池・月の池と呼ばれる、2つの池が総石垣で作られていることだ。何かの宗教儀式が催されていたのではないかと推測されているそうだ。
金山城の石垣は、整備復元されたものなので、古色蒼然とした雰囲気を醸し出すようなものではなく、その辺は城愛好家の中で意見が分かれているようである。ただ、主郭裏に回っていくと、昔ながらの石垣が小規模ではあるが残っている。私は見なかったが、主郭の南側にも昔の石垣が残っているそうである。そのほかでは西城の虎口横の土塁上にも石垣が残っている。
私が訪れた日は、ちょうど秋の天気のいい日でハイキングに来ている家族連れが多かったが、主郭から背後に回って北城に至るルートは、訪れる人がほとんどなく、その分、藪も多かったが、山城歩きをしている者の目からすれば、こういうところの方が落ち着けるものだ。
さて今は山城シーズン真っ盛りである。私の天敵、クモの巣地獄も落ち葉と共に吹き払われ、雑草が少なくなり藪が小さくなったこの季節。今シーズンはどれだけ回れるだろうか。

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.51.3N36.18.55.1&ZM=8
館林城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]
館林城は、江戸時代始めには徳川四天王の一人として名高い榊原康政が居城し、後には5代将軍となる前の綱吉が藩主となっていた城として有名である。
城は、城沼と呼ばれる大きな沼に面した要害の地であったが、現在では平城の宿命で、宅地化や整備が進み、城沼は残っているものの、かつての曲輪の形状を把握するのは難しい。特に本丸付近はほぼ完全に更地化されていて、二ノ丸や八幡曲輪との間の堀はもちろん、土塁も極めて不完全にしか残っていない。一番土塁が良く残っているのは三ノ丸跡で、ここには土橋門が復元されており城のシンボルとなっている。
良く考えてみれば、関東の街中の城ですからね、かなり良好な方でしょう、ここまで残っていれば。実際行くまでは、こんなに三ノ丸の土塁が良好に残っていて、「城!」という感じの遺構が明瞭だとは思わなかった。
←本丸土塁跡
さて、そんな館林城だが、実は見所は別にある。というのは、この城はかつては壮大な総構えを持っていた数少ない城の一つで、その土塁の一部が残っているのである。一つは城の北東、加法師町交差点の横。もう一つは館林一中の周辺。特に後者はすごい。土塁の高さは大したことないが、一部宅地化などで途切れている部分があるとはいえ、延々数百mに及ぶ長大な土塁が残っているのである。また途中には横矢の折れなども数ヶ所、明確に残っている。更に一部には、かつての堀跡の地形までもが往時を忍ばせるように残っているのである。館林城では、ここが最大の見所といっても過言ではない。
岩槻城もそうだったが、一見宅地化の中に埋もれてしまったような城も、よく探すとこのように遺構が良く残っているものだ。ちなみに今回は、「武鷹館」という一般公開されている武家屋敷に寄った時に、中にいたボランティアのおじいさんに、親切に教えていただいたのでした。この場を借りて、感謝!

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.36.7N36.14.32.8&ZM=9
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.6.6N36.14.50.6&ZM=9(加法師町の総構)
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.11.8N36.15.11.0&ZM=9(館林一中裏の総構)
新田の庄 その1(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]
新田氏は、頼朝の系統が絶えた後、本来源氏の嫡流にあるはずの家柄であったが、頼朝挙兵の際に平家に組したため、以来鎌倉幕府から冷遇され、弟分の足利氏の風下に置かれ続けた。その鬱屈を晴らすかのように1333年、鎌倉攻めを決行して見事にこれを攻め落とし、一躍時代の寵児となった。南北朝の動乱において終始南朝側に立って奮戦したが、総帥の義貞をはじめ、徐々にその戦力をすり潰されていき、結局新田宗家は滅亡してしまった。その後、新田・足利両家の流れを汲む岩松氏がこの新田の荘を押さえ、新田の姓を名乗った。岩松氏は、太田市の北に金山城を構え本拠とした。更に時代が下り戦国時代になると、岩松氏の家老、横瀬氏に実権を奪われ、ついに下克上で横瀬氏が金山城を支配することとなった。新田氏由来の由緒ある姓、由良氏に改称した横瀬氏は、上杉氏と小田原北条氏の2大勢力に挟まれながらも巧みに生き延び、最終的に豊臣秀吉の小田原仕置き、徳川家康の関が原合戦の後も生き延び、幕末までその家名を残した。
また徳川氏は、新田氏の一流、世良田(得川)氏の裔を称したので、新田の荘は江戸時代を通じてある程度の保護を受け続け、そのせいか新田氏関係の史跡が多く残っている。
しかし、館跡等の明確な遺構が残っているものは数少ない。義貞の館跡と伝わる反町館と江田館ぐらいのものである。そのほかは、義貞の舎弟脇屋義助の館跡と言われる脇屋館を始め、大館館、台源氏館、岩松館など全て、宅地化と耕作地化で遺構が壊滅している。特に脇屋館などは、戦後まで土塁が明瞭に残っていたそうなので、当局が保護することなく破壊されてしまったことが非常に惜しまれる。
以下に、新田の庄の史跡について記す。
<寺尾城>
新田氏の祖、新田義重が始めて新田の庄に入封して以来、3代の居館となったと伝えられている城である。現在は県道に面したレストランになっていて、石碑が建てられているほかは往時をしのばせる遺構は皆無である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.20.16.7N36.19.34.7&ZM=9
<脇屋館>
新田義貞の弟、脇屋義助の館跡である。脇屋義助は兄義貞に従って、鎌倉攻めをはじめ、伊豆竹之下の戦い、京都争奪戦、湊川の戦い、越前金ヶ崎城の攻防、越前府中・足羽の戦いと戦い続けた勇将である。越前では、三峯城を拠点に義貞の後方支援をしていたが、義貞が戦死し三峯城も攻略されると、美濃を経由して吉野に戻り、更に転戦して伊予で陣没した。館跡は前述の通り、遺構は湮滅しており石碑しかない。ここから北西数百mのところにある正法寺は、脇屋義助ゆかりの寺で、境内には銅像のほかに、義助の遺髪塚が残っている。

場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.20.28.3N36.18.1.2&ZM=9
<反町館>
新田義貞が1333年に鎌倉攻めに挙兵した際の居館跡と伝えられている。現在は反町薬師の境内となっているが、周囲に土塁や水掘がよく残っている。単郭の居館跡かと思ったが、ここから北西のやや離れたところにも堀跡らしき地形が見られたので、複郭の平城であったのかもしれない。主は代わったが、南北朝以降も戦国期まで使われていたらしいので、その頃拡張されたものかもしれない。また、この館跡から南西の方向に、義貞が鎌倉の方向に放った矢が刺さったという「矢止の松」が残っている。

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.52.2N36.17.49.8&ZM=9
<伝新田氏累代の墓>
円福寺境内に、新田氏累代の墓と伝わる20基ほどの墓石がある。円福寺は、新田4代政義の開基と伝えられている由緒のある寺である。なお、この地域は由良郷と呼ばれ、新田宗家の所領であった。

<台源氏館>
円福寺の東400mほどのところにある。新田氏4代の政義が居館を築き、新田義貞、脇屋義助の生誕の地と伝えられている。遺構は全くなく、石碑があるのみである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.20.31.7N36.17.36.7&ZM=9
<江田館>

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.17.12.8N36.17.41.7&ZM=9
<堀口館>
堀口氏は新田の一族で、堀口貞満が有名である。新田麾下の猛将で、太平記だけでなく梅松論にもその名が見える。特に有名なのは、湊川の合戦で破れた後、叡山に遷座して足利軍に抗戦していた後醍醐天皇が、独断で足利尊氏との和睦を受諾して叡山から下りようとした際に、主君義貞を見捨てるつもりかと食って掛かった一幕である。
さて館跡であるが、遺構は湮滅しており何も見出すことは出来ない。早川沿いの民家の脇に標柱と解説板があるだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.20.3.2N36.14.45.8&ZM=9
<岩松館>
青蓮寺はもともと源義国の居館があったとされ、後に子孫の岩松氏に伝えられて岩松氏の館跡と言われている。岩松氏は、足利・新田両家の流れを汲む珍しい一族で、太平記では岩松経家が足利尊氏と新田義貞の仲を取り持って、倒幕に踏み切らせたと伝えられている。倒幕が成って建武の新政が始まると、最初に恩賞が与えられたのはこの岩松経家で、飛騨守に任命された。その後は一貫して足利方として活動した。1335年の中先代の乱で北条時行を擁した北条遺臣が鎌倉目指して進撃した際に、女影が原で渋川義季と共にこれを迎え撃ったが、激戦のうえ破れて戦死した。後に岩松氏は新田の正嫡を称して新田氏を名乗ったが、戦国期の下克上で重臣の横瀬氏(由良氏)に取って代わられた。
遺構は全く湮滅しているが、寺の近くには源義国や岩松尚純夫妻の墓がある。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.20.20.2N36.15.29.5&ZM=9
<船田館>
新田義貞の執事、船田善昌の館跡と伝わる。現在は民家になっており、門前に標柱のみ存する。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.17.3.3N36.15.43.0&ZM=9
<綿打館>
現在の大慶寺がその跡地である。綿打氏は新田一族で、境内には綿打氏の墓がある。遺構はあるようなないような・・・?
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.16.58.1N36.18.40.6&ZM=9
<新田義興の墓>
威光寺は新田義興の開基と伝えられている。新田義興は、義貞の嫡男義顕が越前金ヶ崎で自刃した後、弟義宗、従弟脇屋義治と共に、新田一族を率いて足利方に抵抗したが、後に足利方におびき出され、多摩川の矢口渡で謀殺された。威光寺にはこの義興の墓といわれる宝篋印塔がある。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.20.46.5N36.17.20.2&ZM=9
<矢止の松>
新田義貞が挙兵に当たって、事の吉凶を占うため、鎌倉に向けて矢を放った。その矢が当たった松と伝えられている。反町館から南西に400~500mもの距離があるので、ただの伝承であろう。
<冠掛けの松>
新田義貞が鎌倉攻めの折、この松に冠を掛けて休憩したと伝えられている。大通寺境内にある。新田義貞は疾風のような速さで上野国府を襲撃したはずなので進軍の方向が異なる。これもただの伝承であろう。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.32.1N36.16.55.1&ZM=9
<駒つなぎの松>
新田義貞は鎌倉攻めの折、利根川渡河を前にこの松に自分の馬をつないで休息したという。これも冠掛けの松に同じ。
<新田触れ不動尊>
新田義貞挙兵の折、遠い越後の新田一族に一夜にして挙兵の知らせを触れ回った不動尊として有名である。明王院のことである。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.18.24.6N36.15.21.1&ZM=9
<二体地蔵塚>
新田義貞のもとに来た鎌倉の徴税使二人の傍若無人の行為が義貞挙兵の引き金となった。義貞は挙兵に当たり、まずこの二人の徴税使を血祭りに上げてさらし首にした。その跡地である。
<勾当内侍の墓>
早川沿いの花見塚公園に、勾当内侍の墓と伝えられている墓石がある。もちろん単なる伝承に過ぎない。勾当内侍は、足利尊氏追討で功を挙げて左中将の地位に昇った新田義貞が後醍醐天皇から賜ったと言われる絶世の美女で、その物語は太平記に名高い。しかし、実際にそのような女性がいたかどうか、分かってはいない。その最後も、近江堅田で死んだとも、東国まで来て義貞の菩提を弔ったとも言われ、全く分かっていない。あくまで太平記のロマンの中の話である。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.19.2.9N36.14.50.2&ZM=9
以上が今回回った史跡である。ちなみに館跡などには石碑が建てられているが、のきなみ昭和12~3年ごろの建立である。ちょうど日本全体が大きく右傾化していった時代に、皇国史観が生み出した産物であろう。台源氏館の「新田義貞卿誕生地之碑」などは、海軍大将の加藤寛治の揮毫である。軍縮条約で紛糾したときに艦隊派の巨頭として、海軍を大きく歪めた張本の一人である。このあたりはちょっと心情的に微妙なものがある。
さて、この日、私は新田の荘から義貞の鎌倉攻めの進軍路を追って、挙兵の地の生品明神から一路南下した。挙兵した義貞の軍は、わずか150騎であったと伝えられている。この時のことを吉川英治は私本太平記の中でこう書いている。
「たとえ成算はあったにしろ、一族悉皆でもわずか150騎という小勢で起ったその勇気は驚目にあたいする。それも四隣すべて北条勢力圏とみられていた関東平野のまん中から起ったのだ。」と。
なお、私は以前転勤で金沢にいたことがあり、その際福井の新田塚などに行ったことがある。そこは、義貞が戦死した灯明寺畷の跡である。また義貞が葬られた丸岡の称念寺の義貞墓所も訪れた。そのことを思い出し、ここから起った義貞が遥かに遠い福井で命を落としたことを思うと、胸の内が熱くなるようだった。

※2008-8-15(太平洋戦争終戦の日):大幅増補
※後日の続編もありますので、参照下さい。→こちらへ