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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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峰城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9652.JPG←主郭中央の仕切り土塁
 峰城は、国峰城主小幡氏の初期の居城と言われている。応永年間(1394~1427年)頃に築かれ、国峰城に居城を移した後も、「詰城」として機能していたと推測されている。甘楽地方では最も古く、且つ最も高所に位置し、小幡氏の隆盛の礎となった城とされている。尚、城址南西には峰峠を通る道が残っており、峠道を押さえる機能も併せ持った城であったと思われる。

 峰城は、標高662.4mの山上に築かれている。国峰城よりも谷一つ奥にあり、周囲を山岳地帯で囲まれている。しかし南麓に車道が延びており、城近くまで車で登ることができる。その先も城跡まで遊歩道が整備されているので、訪城は比較的容易である。ただ城の南中腹の峯集落というのが、急坂を登攀した先の山腹にある高地性集落で、ものすごい場所にある。車道もかなり急峻で、相方が途中でべそをかくほど急で狭い道である。
 城は大きく3つの曲輪で構成されており、中央が主郭、西の曲輪が二ノ郭、東の曲輪が三ノ郭である。それぞれの曲輪は堀切で分断されている。前述の遊歩道を登ると、主郭~三ノ郭間の堀切に至る。この堀切は鋭さはないが幅が広く、深さは3m程ある。三ノ郭は北西端に隅櫓台があるほかはほとんど自然地形の平場である。主郭は前述の堀切から入ると、虎口の内側に小さな蔀土塁が築かれており、一種の枡形虎口を形成している。主郭内は中央を東西に仕切り土塁が築かれ、南北2段の平場に区画されており、北側の平場の方がやや低い。この仕切り土塁は、虎口の蔀土塁と主郭西端の土塁とつながっており、縦長のエの字状となっている。主郭と二ノ郭の間の堀切は非常に浅くささやかである。二ノ郭は堀切沿いと北面・西面に低土塁が築かれている。この他、二ノ郭の南側から西側にかけて腰曲輪、南西尾根に3段程の小さな段曲輪群、北西尾根にも3段程の段曲輪が築かれている。北西尾根の城域端部は堀切で分断されている。また城への遊歩道入口脇にも横堀状の腰曲輪が見られ、その下方にもいくつかの平場が見られる。峰城の遺構は以上で、よく残っているが堀切に鋭さが無いなど、比較的素朴な形態を残しており、国峰城に移転した後はあまり積極的な利用はされていなかった様である。
主郭~二ノ郭間の堀切→IMG_9665.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.205386/138.879676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)

戦国期の城と地域―甲斐武田氏領国にみる城館 (中世史研究叢書)

  • 作者: 山下 孝司
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/07
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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一郷山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9597.JPG←東の段曲輪群
 一郷山城は、関東管領山内上杉氏の支城である。山内上杉氏の居城平井城の別城で、また北の多比良城(新堀城)に対する要害城(詰城)として機能し、これらで別城一郭の構えを成していたとされる。1563年、一郷山城は西上州に侵攻した武田信玄の攻撃を受け、城将安部之友以下悉く討死して、多比良城と共に落城した。
 一郷山城は、牛伏山の山稜東端の、標高440m程のピークに築かれている。現在、山頂は公園化されて、主郭跡には史実に基づかない模擬天守(博物館)が建ち、車道建設などで遺構の大半が失われてしまっている。しかし東の段曲輪群はかろうじて残存しており、辺縁部には土塁も見られる。しかし『日本城郭大系』の縄張図に見られる堀切・竪堀は湮滅して確認できない。この他、主郭から西に降った先の道路脇に土盛が見られるが、これは土塁の遺構であろうか?いずれにしても城郭遺構としては残念な状態である。しかし山上の天守の威容は周囲からよく見え、それはそれで壮観である。

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.220067/138.989410/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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国峰城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9410.JPG←主郭背後の大竪堀
 国峰城は、西上州有数の豪族小幡氏の歴代の居城である。小幡氏は、武蔵七党児玉党の一流で、鎌倉時代にこの地に入部したらしい。現地の石碑の刻文によれば、児玉氏行の子崇行が上野国甘楽郡小幡郷に入部して小幡氏を称したとされる。南北朝時代には白旗一揆に属して、武蔵野合戦などに北朝方として参陣して活躍し、後に鎌倉府の支配体制が確立すると関東管領山内上杉氏に属するようになった。小幡氏は、西上州に一族を広く分封して勢力を拡張し、上州八家の一つにも数えられるほど発展した。戦国時代になると、関東管領山内上杉氏の四宿老として長尾氏・大石氏・白倉氏と共にその名が挙げられている(『関八州古戦禄』)。その後、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われると、小幡憲重・信定父子は1553年に甲斐武田氏に服属した。憲政亡命後、西上州に残った上杉方として奮闘する箕輪城主長野業政は、小幡父子の留守に乗じて国峰城を奪い、一族の宇田城主小幡景定を国峯城主とした。居城を奪われた信実は、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入り、市川氏などの南牧衆が付けられた。1561年、第4回川中島合戦の後、武田信玄は国峰城奪還戦を開始して景定を追い落とし、信定は国峰城主に復帰した。その後、武田氏が箕輪城を攻略して長野氏を滅ぼし、西上州を制圧すると、武田氏重臣の内藤昌豊が箕輪城主となって西上州を統括した。小幡氏もその麾下で、西牧・南牧の産馬によって編成された小幡伝統の赤備500騎の騎馬隊を率い、武田軍団の一翼を担って各地を転戦、武田二十四将にも数えられた。しかし1575年、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、小幡氏の軍団も大損害を受けた。1582年、武田氏が滅亡して上野が織田氏の支配下に入ると、織田氏に服属し、上野に派遣された滝川一益の指揮下に入った。わずか3ヶ月後に織田信長が本能寺で横死し、神流川の戦いで滝川氏を破った北条氏直が上野を手中に収めると、信定は北条氏に従った。信定は、沼田城攻撃などで活躍し、1590年の小田原の役では小田原城に籠城した。一方、城主不在の国峰城は子の信秀が守ったが、北国勢の藤田信吉に攻略された。戦後、信定は信濃に閉居したが、小幡氏の赤武者を継承した井伊直政の尽力によって、徳川家康は信定の養子直之を取り立てて安中野殿に1100石の知行を与え、小幡氏は徳川旗本に列して家名を保った。

 国峰城は、標高434mの城山に築かれている。山頂に築かれた山城部、中腹の御殿平と呼ばれる丘城部、麓の平城部という、大きく3つのブロックから構成された大型の複合城郭である。この構成は、現地解説板では「他に類例を見ない特異な構造」としているが、近場では高山城が類似した構造となっているし、中世5大山城に数えられる様な大城郭では、往々にして見られる構造なので、全く特異な構造というわけではない。どちらかと言うと、これほどの城にもかかわらず山上の曲輪群があまりに小規模で居住性のないことの方が特異である。
 平城部は、中ツ沢・国峰の谷と恩田地区の平野部から成り、谷部と平野の間に長さ200mの堀を穿ち、更に北方に外堀を穿って防御線を構成していた。現在は耕地化でほとんどの遺構が失われているが、わずかに外堀の一部が残っている。昭和30年代の航空写真を見ると、長く一直線の堀が明確に見られる。外堀の東西には南から北に向かって張り出した丘陵地があり(東のものは紅葉山と呼ばれる)、丘陵上に砦を築いて、外堀と共に最外郭の防衛戦を構成していたと推測される。
 丘城部は、城山から東北東に伸びる広い緩斜面に段々の広い平場群を築いている。最上段が御殿平で、その名の通り城主居館が置かれていたのだろう。現在は公園となっており、立派な石碑が建っている。その周囲の腰曲輪群や下方の平場はほとんど藪に埋もれてしまっている。最下段の曲輪は最も広い面積を有するようだが、民家の裏にあるので見ることはできなかった。丘城部は要害性を備えた上に、曲輪群も居住性があり、国峰城の中心的なブロックであったと考えられる。
 山上の山城部は、尾根上の狭小な曲輪群と南斜面の多くの腰曲輪群で構成されており、丘城部に対する詰城となっている。山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根上に曲輪群を配置し、要所を堀切で分断している。大手は東尾根にあった様で、東斜面に動線制約の竪堀が穿たれ、南腰曲輪群の南東部にも竪堀が落ちている。主郭西側の堀切は、南斜面に長い竪堀となって落ちているが、その両側に腰曲輪群が配置されている。これは信濃旭山城の構造によく似ている。西尾根の曲輪群は、尾根に沿って延々と伸び、途中、南の支尾根にも堀切と曲輪を築いている他、最西端のピークには西出丸を置いている。更にここから北尾根と南西尾根にも曲輪群が伸び、特に北尾根では最下方に横堀状の腰曲輪を設けている。この付近の遺構については、『図説 中世城郭事典』の縄張図が正確である。支尾根はいずれも傾斜がきつく、南西尾根は細尾根となっている。山城部は、比較的大きな竪堀がいくつも穿たれて、堀切もゴツいものが多いが、一方で主郭は小さすぎ、詰城以外の機能を持っていない。

 国峰城は、大きな城であるし、西上州の拠点的城郭で、北条氏の最大版図を示した地図に主要城郭として必ず記載されている程であるが、遺構面ではやや見劣りする。北条氏の主要城郭では最後まで未訪城となっていた城であったので期待していたが、少々残念である。
 尚、この城山では三角点が山頂ではなく、何故か北尾根をやや降った曲輪にあることを付記しておく。
東尾根の堀切と土橋→IMG_9374.JPG
IMG_9483.JPG←西出丸北尾根の横堀状腰曲輪
丘城部の御殿平→IMG_9294.JPG
IMG_9275.JPG←平城部の外堀跡
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.214588/138.896949/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


実録 戦国北条記   戦史ドキュメント

実録 戦国北条記 戦史ドキュメント

  • 作者: 伊東潤
  • 出版社/メーカー: エイチアンドアイ
  • 発売日: 2014/04/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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天引城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9196.JPG←北東尾根の横堀
 天引城は、関東管領山内上杉氏に属した甘尾若狭守の居城と伝えられている。山内上杉氏が没落し、西上州が武田氏の勢力下に入ると甘尾氏も武田氏に服属した。その後の甘尾氏の事績は不明であるが、多くの上州諸豪と同じく武田氏滅亡後は滝川一益に、滝川氏没落後は小田原北条氏に従ったのだろう。尚、この城にも八束城と同じく羊太夫(小幡宗勝とも言われる)の居城伝説があるようだ。

 天引城は、標高448.2mの朝日岳山頂に築かれている。登山道はいくつかある様だが、北麓の北登山口から北西尾根に登っていくルートがわかりやすいと思う。登り口から高さ100m程登ると、北西尾根中腹の腰曲輪に至る。ある程度の広さを持っているので、小屋掛けや倉庫などが置かれていたのだろう。そこから更に尾根を登っていくと、尾根中程の円弧状横堀に到達する。塹壕状の横堀で尾根を完全に遮断しており、尾根筋を登ってくる敵を迎え撃つ構造となっている。横堀からは1本だけ竪堀が落ちている。登り道はこの横堀に進入する形で屈曲しており、一種の枡形虎口となっている。その先の尾根はほぼ自然地形に近いが、平場状の地形も散見され、尾根上の曲輪として機能していたと考えられる。主城部は、主郭を中心に3~4段の腰曲輪で囲んでおり、単純な形態ではあるが普請はしっかりされていて、腰曲輪群も想像していたより広い。背後の南尾根には、小郭の先に岩盤を削りぬいたゴツい形の堀切で分断されて、城域が終わっている。また北東尾根を降った先にも遺構があり、最初に見えてくるのが塹壕線の円弧状横堀で、北東尾根のものより規模が大きい。この横堀から尾根に平行に大手道のような通路が降っている。その先を降っていくと小郭が見られる。ちなみにこの北東尾根では昭和期まで石切り場となっていたらしく、削岩機用の圧縮空気配管などが残っており、尾根の形状も改変されている。天引城は、比較的こじんまりした城ではあるが、尾根筋に横堀の防御線を構築するなど、特徴的な縄張りである。
南尾根の堀切→IMG_9248.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.221210/138.956602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


羊太夫伝承と多胡碑のなぞ 藤原不比等は討伐されたか

羊太夫伝承と多胡碑のなぞ 藤原不比等は討伐されたか

  • 作者: 関口 昌春
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2003/07/01
  • メディア: 単行本


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多比良城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9083.JPG←主郭北側の堀切跡
 多比良城は、新堀城とも呼ばれ、関東管領山内上杉氏の支城である。山内上杉氏の居城平井城の別城で、また南の一郷山城を要害城(詰城)とし、これらで別城一郭の構えを成していたとされる。1563年、多比良城は西上州に侵攻した武田信玄の攻撃を受け、城主多比良氏は城に収蔵されていた上杉家の宝物を焼き捨て、子女を自害させ自らも自刃したと伝えられている。その後は西上州の支配者の変遷に伴い、周囲の諸豪と同様に主君を変え、最後は小田原北条氏に属した。1590年の小田原の役では、多比良豊後守友定は上杉景勝の先鋒藤田能登守信吉に降ったと言う。

 多比良城は、土合川とその支流に挟まれた比高40m程の段丘先端部に築かれている。城内はほとんど畑となって改変されているが、概ね往時の形状を追うことができる。中心に方形に近い形状の広い主郭を置き、その周囲に空堀を巡らし、その外側に北郭・東郭・南郭の各曲輪を配置している。主郭南の堀跡にはソーラーパネルが並んでしまっており、景観を損ねている。主郭西側は土塁を伴った腰曲輪になっているが、藪化している。北郭も藪だが、主郭との間の堀切は良くその形状を残している。東郭は畑となり、東下方に一段低く腰曲輪を築いている。南郭は畑とソーラーパネルが置かれている。南郭南東の車道は鉤形に折れているので、虎口の跡かもしれない。以上の様に、城址がだいぶ改変されてしまっているのが少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.236399/139.009087/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/05/01
  • メディア: 単行本


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八束城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9011.JPG←長く落ちる二ノ郭堀切の竪堀
 八束城は、歴史不詳の城である。上野三碑の一、多胡碑に関係する羊太夫が住んでいたという伝説もあるが、現在残る遺構からは戦国期の城と推測されている。

 八束城は、標高453m、比高270m程の城山山頂に築かれている。まともに登ると稜線も長く大変なので、城巡りの先達、余湖さん推奨の南中腹の林道から東尾根にアクセスするルートでアタックした。そこからでも山頂までは150m程の比高差がある上、東尾根は砂礫で滑りやすい細尾根で少々危険である。東尾根から途中で派生する北尾根に2本の小堀切と小郭が見られる。この尾根の分岐から城の方に登るとやはり小堀切があり、ここの南斜面に落ちる竪堀が、中間土塁がコブ状に盛り上がった二重竪堀となっている。東尾根を登り切ると山頂の曲輪群に至る。主郭を中心に、東西に伸びる尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、主郭東のものを東1郭・東2郭・東3郭と仮に呼称すると、東尾根を登り切って到達するのが東3郭で、中間に土塁状の土盛りが見られる。東3郭と段差で仕切られた上に東2郭があり、背後に土塁と片堀切を穿っている。堀切の南側には土橋が架かり、東3郭に通じている。東3郭の後ろには主郭背後の堀切が穿たれている。この堀切は、一部に石積み跡が見られ、堀切から落ちる竪堀は主郭の北と南に築かれた腰曲輪と接続している。主郭は前後に堀切を穿った平場で、土塁は見られない。堀切を挟んで西にニノ郭があり、北側には広い緩斜面の腰曲輪が広がっている。この腰曲輪から見ると、二ノ郭は切岸で囲まれた独立丘の様に見える。二ノ郭の西側には堀切を挟んで、広い三ノ郭が広がっている。この堀切からは北に竪堀が長く伸びている。三ノ郭の先端には段曲輪があって城域が終わっている。この他、前述の通り主郭の北と南には腰曲輪が築かれているが、特に北のものは広く、北尾根からの登り口には土塁を伴った食違い虎口が築かれ、その下方には小郭も置かれている。
 八束城は、堀切は小~中規模で、技巧性もあまり見られないが、普請はしっかりしており、二重竪堀など武田氏系城郭に見られる特徴が垣間見られることは注意してよい。
食違い虎口と主郭の北腰曲輪→IMG_9021.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.219998/138.970463/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


上野三碑を読む

上野三碑を読む

  • 作者: 熊倉浩靖
  • 出版社/メーカー: 雄山閣
  • 発売日: 2017/05/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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高山城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8876.JPG←天屋城の二重堀切
 高山城は、この地の豪族高山氏の居城である。高山氏は、坂東八平氏の一、秩父氏の庶流で、秩父重綱の3男重遠が上野国高山邑に分封されて高山氏を称したことに始まる。1180年に木曾義仲が挙兵すると、高山重久は信濃横田河原の戦いに参加し、以後『吾妻鑑』の各所にその名が見える。南北朝時代の『太平記』にも高山遠江守・越前守の名が記されている。山内上杉氏が上野守護となると、高山氏は上杉氏に従い、その重臣となった。1552年に山内上杉氏の居城平井城が落城して小田原北条氏の勢威がこの地に及ぶと北条氏に服属し、1560年に越後の上杉政虎(謙信)が越山すると、再び上杉氏に従った。甲斐の武田信玄が西上州の攻撃を開始すると、1563年に高山氏は武田氏に服属した。しかし1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされ、信長の重臣滝川一益が上野に入るとこれに従った。わずか3ヶ月後、信長が本能寺で横死すると、北条氏直は神流川の戦いで滝川氏を破り、滝川氏は本領の伊勢へと落ち延び、西上州は北条氏の支配下に入った。高山遠江守定重は、神流川合戦で滝川方として奮戦したが、戦後は北条氏に服属した。1585年、北条氏が由良国繁の金山城を接収すると、定重は金山城の西城に在城した。1590年の小田原の役の際には、高山氏は小田原城に立て籠もり、北条氏滅亡と共に没落した。

 高山城は、山内上杉氏の居城平井城の南方1.2kmに位置している。高山氏と山内上杉氏との密接な関係が窺われる位置関係である。高山城は、山上の天屋城、山腹の要害山城、鮎川に突き出して築かれた山麓の百間築地の砦など、大きく3つのブロックから構成された大型の複合城郭である。
 まず百間築地の砦は、「鮎川温泉 金井の湯」と言う施設の南の段丘上にある。畑や耕作放棄地、空き地などになっているが、その一角に石垣が残っている。「残っている」とは言うもののほとんどは復元なのだろう。段丘の北辺部に20m程の復元石垣があり、その他に2ヶ所、櫓台状の方形の石垣が見られるが、往時はどのような構造となっていたのかは、現状からでは皆目見当がつかない。東側に大手があったとされ、大手口の近くに両側を谷状の空堀を穿った馬出しとされる平場も確認できる。
 次の要害山城は、百間築地からの比高40m程の北西に突き出た山陵上に築かれている。独立性の高い砦で、山稜北端のピークに石祠のある主郭を置き、北側に2段の腰曲輪を築き、その下方に円弧状の横堀を穿って防御している。横堀には土橋が架かり、東側では尾根に並行して長く堀と土塁が伸びている。この先で、尾根上に登る城道と虎口が残っている。この尾根上の虎口と要害山城主郭との間は、なだらかな自然地形の尾根が伸びているだけである。虎口から南東に登ると広い平場が広がっており、城主居館か何かが置かれていた様に想像される。切岸に一部石垣が見られるが、往時の遺構なのか、近世の耕地化によるものなのかは不明である。
 最後の天屋城は、標高297.3mの山上にそびえている。城への道は途絶しているので、結構な斜面を直登するしかない。三角点のある北端のピークに主郭を置き、周囲に2段程の腰曲輪を巡らしている。更に北西尾根に堀切と2段の段曲輪を置き、南東尾根にも3段程の段曲輪を築いている。一方、主郭の南西に伸びる主尾根に、3本の堀切と曲輪を連ね、その先に大きな岩の尾根が続いた後、二重堀切が穿たれている。その先の尾根南端は物見台状のピークとなっている。この主尾根の堀切はいずれも中規模のものだが、岩盤削り出しのごつい形状のものである。また主尾根の東側には二重竪堀が1ヶ所、西中腹には大きく湾曲した大竪堀が穿たれている。この他、天屋城の東と西に伸びる稜線上に堡塁群があった様だが、周辺がゴルフ場となった為、東のものは湮滅し、西のものはゴルフ場を突っ切らないと辿り着けないので、未見である。
 高山城は、なかなか見応えのある遺構が残っており、一見の価値がある。天屋城の堀切の感じは長野の山城に似ており、武田氏支配時代に改修されたものかもしれない。
要害山城の横堀→IMG_8681.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【百間築地の砦】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.210736/139.027004/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【要害山城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.209040/139.027627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【天屋城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.207983/139.030223/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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平井金山城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8645.JPG←東尾根の曲輪群
 平井金山城は、関東管領を世襲した山内上杉氏の居城平井城の詰城と言われている。山内上杉氏の事績については、平井城の項に記載する。

 平井金山城は、標高326mの山上に築かれている。山頂に主郭を置き、主郭の東西の尾根上と北尾根に曲輪群を配置している。北尾根は更に途中で北西尾根と北東尾根に分かれている。南東麓に駐車場があり、登山道も整備されているので迷わず登ることができる。基本的には多数の平場群だけで構成された城で、城域は広いものの技巧的部分は少ない。各尾根筋に穿たれた堀切も、いずれも小規模である。しかし、東端の物見台付近や、北東尾根の櫓門跡の虎口には、小規模ではあるが石垣や石段が残存している。また北西尾根には岩盤を四角く削った井戸跡も残っている。この他、主郭の北側下方の北尾根曲輪群からの入口は桝形虎口となっている。北東尾根の先端には大手門跡の表札が立つが、埋もれていて形状がよくわからない。遺構は以上の通りで、平井金山城はどちらかと言うと古風な縄張りの形態をそのまま残しており、上杉憲政が北条氏康に逐われて越後に落ち延びた後は、ほとんど顧みられなかったものと推測される。
主郭虎口の土橋→IMG_8436.JPG
IMG_8622.JPG←北東尾根の櫓門付近の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.214078/139.017713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


戦国北条氏五代 (中世武士選書)

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本


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白倉城(群馬県甘楽町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7788.JPG←麻場城の空堀と復元木橋
 白倉城は、上野守護を兼帯した関東管領山内上杉氏の重臣であった白倉氏の居城である。白倉氏は、武蔵七党児玉党の流れを汲む国峰城主小幡氏の一族である。承久の乱で討死した白倉成季が、白倉氏の祖とされる。その後、小幡氏諸族と共に西上州に勢力を張り、小幡宗家と共に上州八家の一つにも数えられるほど発展した。戦国時代になると、関東管領山内上杉氏の四宿老として長尾氏・大石氏・小幡氏と共に白倉氏の名が挙げられており(『関八州古戦禄』)、小幡宗家とは独立した勢力として見做されていた様である。その後、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われ、これを庇護した越後の長尾景虎が憲政から山内上杉氏の名跡と関東管領職を譲り受けて上杉政虎(後の上杉謙信)となると、白倉道佐は政虎の側近として鶴岡八幡宮での管領就任式に随従した。甲斐の武田信玄が西上州の攻撃を開始すると、1563年に道佐は武田氏に服属した。しかし1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされ、信長の重臣滝川一益が上野に入ると、白倉重家(道佐の子)は滝川氏に服従した。信長が本能寺で横死すると、北条氏直は神流川の戦いで滝川氏を破り、滝川氏は本領の伊勢へと落ち延び、西上州は北条氏の支配下に入った。重家は、神流川合戦で滝川方として戦ったが、戦後は北条氏に服属した。1590年の小田原の役の際には、重家は小田原城に立て籠もり、白倉城は弟・重高に守らせたが、前田利家を総大将とする北国勢に攻撃され、白倉城は落城した。そして北条氏滅亡後、白倉氏も没落した。

 白倉城は、この地の多くの崖端城と同じく、鏑川沿いの平野の南に連なる段丘群の一角に築かれている。麻場城・仁井屋城という離れて並立する2つの城で構成され、更に麻場城の南西麓に平時の居館を置いている。
 麻場城は、現在公園として復元整備されているので、遺構がわかりやすい。主郭の周囲を規模の大きな空堀で囲繞し、南側に土橋を架けて二ノ郭に接続している。主郭の北にも虎口があり、木橋が復元されている。主郭には土塁がないが、二ノ郭は、主郭との間の空堀沿いに数mの武者走りを設けて土塁が復元されている。主郭の土橋にはクランクして入るようになっているので、蔀土塁を兼ねた様なものだったのだろう。二ノ郭の西側には空堀が残っているが、南側にあったと思われる堀切は埋まっていてわからなくなっている。この辺は民有地のため、復元されていない。また主郭外周の堀の外側には土塁が廻らされ、北側には腰曲輪が張り出している。北東斜面には小郭があり、横堀が穿たれている。更に城の三方の斜面にも帯曲輪が築かれている。
 仁井屋城は、麻場城の東方500m程の位置にあり、ほとんどの部分が畑になっている。改変が多く、しかも畑以外の部分はガサ藪で縄張りはかなりわかりにくい。『日本城郭大系』の縄張図によれば、中央の主郭を中心に北・南・東に曲輪群を配置し、主郭の東側以外の周囲には空堀が廻らされていたらしい。主郭の西・北・東は切岸状の段差が確認できるが、空堀は現在では埋められていたり藪がひどくてほとんど確認不能である。その他、明確な遺構としては、東斜面の帯曲輪が確認できた。
 居館は民家になっており、石碑もあるらしいが、敷地の奥にあるらしく見ることができなかった。時間も日没間際だったので、訪問は諦めた。一応敷地の入口付近に「麻場城主居館跡」の表示があるので、日中に訪問すれば見せていただけそうな雰囲気ではあった。

 白倉城は以上の通りで、麻場城は復元整備の甲斐あって見応えがあるが、上州八家に数えられた有数の豪族の城にしては単純で、縄張りも規模も少々物足りない印象を受ける。
仁井屋城の主郭と切岸→IMG_7708.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【麻場城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.247483/138.942440/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【仁井屋城】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.247916/138.947783/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
    【白倉氏居館】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/36.245147/138.940208/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


図説 戦国北条氏と合戦

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  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/06/30
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蕨城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7690.JPG←二ノ郭の堀切
 蕨城は、根古屋城とも呼ばれ、歴史不詳の城である。多比良城仁井屋城・麻場城といった諸城砦と類似した構造であることから、これら諸城と同時代に築かれ、国峰城主小幡氏に属していたのではないかとの説が提示されている。
 蕨城は、星川支流の蕨川と根古屋川に挟まれた、比高40m程の台地上に築かれている。城内は一部藪のほかはほとんどの部分が畑地となっている。東の車道脇から畑に登る道が付いている。台地先端近くに方形の主郭と二ノ郭を南北に連ね、主郭の周囲に腰曲輪とその南に三ノ郭を置き、更に三ノ郭の西に2段の腰曲輪、東には4郭、4郭の東にも腰曲輪を置いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭の間の堀切は耕地化で埋められたのか、かなり浅くなっているが、幅は広い。二ノ郭北側の台地基部にも堀切が穿たれているが、こちらは幅は狭いが深さはしっかりしている。また主郭西側の腰曲輪には土塁が築かれている。三ノ郭は2段の平場に分かれているようだが、進入不能のガサ藪で未確認である。確かに多比良城等とよく似た構造だが、規模がひと回り小さく、あまり技巧性も感じさせない。居館的機能の城と思われるが、その割に伝承が残っていないのが不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.279232/138.937333/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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奥平城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7607.JPG←本丸の現況
 奥平城は、後に徳川家康の家臣となって徳川譜代大名に名を連ねた奥平氏の発祥の城である。奥平氏は、村上源氏の赤松則景の子氏行が上野国甘楽郡司となり、12世紀末に奥平郷を領して奥平氏を称して、奥平城を築城したと言われている。但し別説では、武蔵七党児玉党の裔、氏行が則景の養子になったとも言われ、その出自は明確ではない。その後、6代定政は新田義貞に従って軍功を挙げ、その子孫も南朝方として活動したと言う。新田氏が没落すると、14世紀末に8代貞俊は三河国作手に移り、三河奥平氏となったが、それまでの約200年間奥平氏はこの地を居城とした。三河移住後もこの地には縁者が残っていたが、1563年、武田信玄に攻められ落城したとされる。尚、三河奥平氏は、後に長篠城の守将となって活躍した奥平信昌を輩出した。

 奥平城は、申田川と桜沢という2つの小河川に挟まれた段丘上に築かれている。2段の平場から構成されただけの簡素な城砦で、下段を「平郭」、上段を「城」と言うらしい。城とは即ち本丸のことであろう。現在は下段の平郭は畑となり、上段の本丸は東側が畑に、西側は竹薮となっている。近年密生していた竹藪がかなり伐採されたらしく、一応歩けるレベルになっている。しかし平場が広がるほかは、特にこれと言った遺構は確認できない。高崎市のHPには、「本丸西面に搦手の食い違い土塁があった」と記載されているが、これも既に湮滅しているようである。標柱・解説板はあるが、平場と切岸以外に遺構は確認できない。おそらく小河川を天然の堀とした居館であったのだろう。尚、城の北350m程の所に奥平家の廟所がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.275460/138.963747/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1




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乗附城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7443.JPG←Ⅰ郭背後の堀切
 乗附城は、寺尾上城とも言い、戦国時代には乗附治部左衛門・乗附囚獄ら乗附氏の城であったと言われている。乗附氏の事績については不明。尚この城にも寺尾中城と同様、尹良(ゆきよし)親王の伝承があるが、尹良親王の実在自体が疑わしいので、史実とは見做し難い。

 乗附城は、標高211m、比高90m程の山稜上に築かれている。城へは、国立のぞみの園という障害者施設の職員宿舎の近くから山道が付いており(1/25000地形図にある黒線の道)、この道を辿れば城の南西の尾根まで行くことができる。尾根上に堀切を介して曲輪群を連ねた連郭式の縄張りで、南西から順にⅣ郭・Ⅲ郭・Ⅱ郭・Ⅰ郭・Ⅴ郭・Ⅵ郭・Ⅶ郭とここでは仮称する。ちなみに『日本城郭大系』の縄張図ではⅢ郭を本丸としているが、これは間違いである。堀切は、Ⅰ郭背後のものは中規模で深く鋭いが、それ以外はいずれも浅く大した防御効果を持っていない。主郭前面だけ二重堀切になっているが、これもかなり浅い。また曲輪の規模もいずれも小さく、城中最大のⅢ郭でも大した広さではない。Ⅱ郭は2段の平場に分かれ、Ⅰ郭だけは前後に小郭を置いて護りを厳重にしている。またⅢ郭・Ⅱ郭・Ⅴ郭の北側斜面には腰曲輪が数段置かれ、堀切から落ちる竪堀は腰曲輪に通じる通路を兼ねている。特にⅠ郭前の二重堀切では、内堀はそのまま竪堀となって落ちているが、外堀は竪堀ではなく武者走りに変化して腰曲輪への連絡通路となる珍しい形状を採っている。またⅢ郭・Ⅱ郭では南斜面にも2段の腰曲輪が築かれている。この他、Ⅰ郭の北支尾根には段曲輪群が築かれており、曲輪群の付け根に堀切、その手前には土壇が構築され、下の方の段曲輪では両翼が突出して下の曲輪に対して相横矢を掛けるなど、主城部よりも普請がしっかりされ、新しい構造の様に見受けられる。乗附城は、城の規模・構造から考えて詰城には相違ないが、在地土豪の城が戦国期により強化された痕跡を見せている様だ。
Ⅰ郭手前の二重堀切→IMG_7512.JPG
IMG_7471.JPG←北支尾根の段曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.318989/138.968768/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東・甲信越 戦国の名城・古城 歩いて巡るベスト100

関東・甲信越 戦国の名城・古城 歩いて巡るベスト100

  • 作者: 清水 克悦
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2012/10/15
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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寺尾中城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_7230.JPG←四ノ郭群前面の畝状竪堀
 寺尾中城は、歴史不詳の城である。『吾妻鑑』には、1180年の源頼朝挙兵の際、同じ清和源氏の一族新田義重が上野寺尾城に引き籠もって軍兵を集めたとあり、それが寺尾中城ではなかったかとの説がある。しかし新田氏の本拠は新田庄であり、新田庄周辺に一族が盤踞していたことから、遠く西に離れた寺尾中城に立て籠もったとは考えにくいと思う(義重の子、山名義範がこの地域に土着していたとしても)。また応永年間(1394~1427年)に後醍醐天皇の孫、尹良(ゆきよし)親王が世良田政義の支援を受けて寺尾城に籠もったとの伝承もあるが、そもそも尹良親王なる人物が実在したかが疑わしいので、史実とは見做し難い。結局、はっきりしたことはわからないが、寺尾城砦群(上城・中城・下城茶臼山城)の中で最大の城域を有し、一部に技巧的な構造も見られることから、武田氏支配時代に武田氏か武田氏に服属した西上野の有力豪族が改修した城砦ではなかったかと個人的に推測している。

 寺尾中城は、観音山ファミリーパークから北東に伸びる長い稜線上に築かれている。公園から散策路が整備されているので、訪城はたやすい。基本的には尾根上に曲輪群を連ねた連郭式を基本とした縄張りであるが、派生する支尾根にはことごとく小郭群を配置するなど城域はかなり広範囲に及び、主郭背後の堀切から五ノ郭先端の堀切まで、直線距離でざっと600m以上にも及ぶ巨城である。しかし一つ一つの曲輪は小規模で、最も広い三ノ郭でも大した居住性を持っていないので、位置付けとしてはあくまで有事の際の詰城であろう。城内は大きく5つの曲輪群に分かれる。南西端の最高所に位置するのが主郭群で、背後を二重堀切で分断し、北西側に一段低く虎口郭を置いて枡形虎口を形成している。また南の支尾根に2段の段曲輪と、堀切を挟んで舌状曲輪を配置している。主郭の東に二ノ郭群がある。二ノ郭群は背後に堀切を穿ち、前面に小郭を置いた、簡素な構造である。二ノ郭群から三ノ郭群に至る間には、小丘状の繋ぎの曲輪があり、やはり背後に小堀切がある。前面にも堀切があるとされるが、現況からははっきりとは認識できない。繋ぎの曲輪の先に三ノ郭群がそびえている。曲輪の数では三ノ郭群が城内で最も規模が大きく、長さも全体で160m程もある。頂部の曲輪の西から北面に腰曲輪が廻らされ、更に北に伸びる尾根に沿って下段の曲輪が長く伸びている。下段の曲輪の付け根付近の両側に堀切が穿たれ、また曲輪の先端には枡形の土塁がある。その下方に堀切が穿たれた小郭があり、この堀切は東側に横堀となって伸びている。また西側は大竪堀となって落ちている。三ノ郭群には、更に西の支尾根と北西の斜面にも腰曲輪群が築かれ、その側方にはいずれも竪堀が穿たれている。西尾根曲輪群では下段の腰曲輪の外縁部に二重竪堀が穿たれている。また北西斜面の一番広い腰曲輪では、櫓台を備えた虎口を有し、竪堀に連結している。従って、竪堀が通路として機能していたことがわかる。三ノ郭群から四ノ郭群へ至る尾根は長い土橋となっているが、静岡の城ではこれを「一騎駆け」と言っている。四ノ郭群は、中間部東側に大竪堀が落ちている。一部垂直絶壁となった崩落地形も見られるが、竪堀状の城道であったことが後で絶壁上に物見台を見つけたことからわかった。四ノ郭群の前面の遺構は、寺尾中城で最も技巧的な部分である。坂土橋の側方に横堀と竪堀を組み合わせ、外周土塁と土橋をL字状に連結させた構造で、更に側方の竪堀は畝状竪堀を穿っているのである。ここの畝状竪堀は、横堀から落ちる形状となっており、そのためコブ状の畝を持っている。その先の急な尾根道を降って暫く行くと、ようやく五ノ郭群に至る。五ノ郭群の下段曲輪には鍛冶平稲荷神社が祀られている。五ノ郭群の先に小規模な二重堀切が穿たれている。その先の尾根は自然地形の様である。静岡(駿河・遠江)の城で二重堀切と言えば武田氏の専売特許の様になっているので、畝状竪堀・一騎駆け土橋などの遺構と合わせて考えると、寺尾中城は武田氏勢力による城と考えたい。

 尚、残念なことに、ネット上で見られる寺尾中城の案内と縄張図は、いずれも遺構の見落としがかなり多く、正確性に欠けてしまっている。一番実情に近いのが安曇野風来亭さんのHPにある鳥瞰図だが、それでも畝状竪堀や支尾根の小郭群は見落とされてしまっている。そんなわけで想定以上に広範囲に遺構があり、予想外に時間と体力を費やしてしまった。
土塁に連結する坂土橋→IMG_7233.JPG
IMG_7288.JPG←五ノ郭群先端の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.291253/138.997629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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寺尾茶臼山城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6937.JPG←主郭切岸と周囲の横堀
 寺尾茶臼山城は、鷹ノ巣城とも呼ばれる山城である。その歴史には諸説ある。
①鎌倉時代に新田氏の祖、新田義重が居城としたとする説。義重は八幡太郎源義家の孫で、弟の義康は足利氏の祖となった。義重は源頼朝挙兵の際、平家方に付いた為、鎌倉時代を通して新田氏は鎌倉幕府から冷遇された。その雪辱を果たしたのが、新田義貞である。
②南北朝時代に新田義貞の弟、脇屋義助が城主であったとする説。
③室町時代の正長年中(1428年頃)に和田小太郎という武士が築城したとする説。
④戦国時代の1565年に、武田信玄が山名城と鷹ノ巣城(寺尾茶臼山城)の間に新城(根小屋城)を築いたという『甲陽軍鑑』の記事。
 しかし新田氏居城説(脇屋義助も含めて)は、新田氏の本拠地(新田庄)が東に遠く離れていることから、事実ではないだろう。和田氏が築いた小城砦を、武田氏が根小屋城築城と共に改修したという辺りが史実に近いのではないだろうか。あくまで個人的推測であるが。

 寺尾茶臼山城は、標高170m、比高90m程の山上に築かれている。山頂に長方形の主郭を置き、その北面・東面に横堀を穿ち、周囲に二ノ郭・三ノ郭の平場が段状に築かれている。また主郭背後には堀切を挟んで南郭が置かれている。この背後の堀切は、この手の小城砦にしては規模が大きい。主郭の南面から西面は土塁で防御している。また主郭周囲の横堀には土橋が架かり、主郭虎口と横堀外周の土塁とを連結しており、根小屋城と似た構造となっている。この点から、武田氏改修の可能性が高いのではないかと思う。小規模な城であるが、普請はしっかりしており見応えがある。城山住宅団地から散策路があり、2台分の城址見学者用の駐車場もある。城跡も整備されているので、見学しやすい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.292100/139.008958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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タグ:中世山城
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平井城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02427.JPG←復元された本丸東側の空堀
 平井城は、関東管領を世襲した山内上杉氏の居城である。上杉氏は、室町将軍となった足利氏の外戚で、上杉氏の隆盛の基礎を築いた上杉憲房は足利尊氏の母方の伯父(母の兄)に当たる。憲房は、尊氏の挙兵からこれに従ってよき相談相手となり、1336年の京都争奪戦では尊氏を庇って討死を遂げた。その長子憲顕は鎌倉府の義詮、基氏の執事となって、後に初代関東管領となった。以後、関東管領職は上杉四家(山内・扇谷・詫間・犬懸)が相次いで襲ったが、途中からは山内上杉氏の系統のみがこれを世襲することとなった。1438年、鎌倉公方足利持氏は関東管領山内上杉憲実と不和となり、永享の乱が勃発した。平井城は、この時に上杉憲実の命で蒼海城主の総社長尾忠房が築城したと考えられている。その後、山内上杉氏を継いだ顕定によって、1467年に改修を受けたとされる。この時、詰城に当たる金山城も築城された様である。山内上杉氏は、その後も結城合戦・享徳の乱・長享の乱と打ち続く関東動乱の中心であり続け、それが伊豆・相模に討ち入った伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)に付け入る隙を与え、小田原北条氏の勃興を助けることとなった。北条氏は、2代氏綱・3代氏康と着々と勢力を拡張し、1546年の河越夜戦で一気に山内・扇谷両上杉氏の勢力を南関東から駆逐し、山内上杉憲政は平井城に敗走して逼塞を余儀なくされ、1552年遂に北条氏康に城を陥とされ、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元に逃れて援助を求めた。その後、平井城は北条氏の支配下に置かれた。1560年、長尾景虎は関東に出兵して平井城を奪還したが、間もなく破却したと言う。この後、景虎は小田原城を包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領職に就任し、上杉氏の名跡を譲られて上杉政虎と名を改めたことは、よく知られている通りである。

 平井城は、鮎川西岸に築かれた崖端城で、五角形の本丸とその西に二ノ丸とささ郭、北側に三ノ丸と総郭を連ねていた。現在は宅地化・耕地化によって遺構はほとんど湮滅している。しかし県道沿いに本丸土塁が復元され、本丸の東端には虎口・空堀・腰曲輪・竪堀・土橋が発掘復元されている。各曲輪は空堀によって分断されていたが、現在堀跡はほとんど湮滅している。しかしよく見ると、わずかにそれらしい痕跡が散見される。また県道沿いに幾つも標柱が立ち、平井城の歌とか永享の乱の歌など、不思議なものが平井城資料展示所に掲げられている。かつての一時期、この地が関東の中心であったが、今では思い浮かべられるよすがもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.219271/139.030437/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/05/01
  • メディア: 単行本


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根小屋城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02365.JPG←主郭の内枡形
 根小屋城は、甲斐武田氏が西上州に全く新たに取り立てた山城である。1566年、武田信玄は箕輪城の長野氏を滅ぼして西上州を完全に制圧し、このことは小田原北条氏・越後上杉氏と強い緊張状態を生じた。そこで信玄は、1568年或いは1570年に山名城茶臼山城の間に新城を築き、信濃の武将望月甚八郎・伴野助十郎を入れて守らせたと記録されている。その後の歴史は定かではないが、甲斐武田氏の滅亡と共に廃城となったのだろう。

 根小屋城は、ウモさんのHP「埋もれた古城」に紹介されているのを見た時から、いつかは行きたいと思っていた念願の城だった。その遺構は期待に違わぬ見事なもので、殊に横堀竪堀を縦横に絡ませて連携させた堀のネットワークには感嘆する他はない。比高110m程の比較的緩やかな傾斜の丘陵に築かれた城で、その平山城に近い選地と縄張りはどちらかというと北条氏の影響を受けているように思える。主郭を中心にして周囲には空堀が取り巻き、更に外周に腰郭を巡らしている。この腰郭の形態は、まるで滝山城の様である。面白いのは、主郭は大手から見て手前にあり、奥が二ノ郭になっていることである。大手口の構造も、横堀と竪堀を絡めた複雑なものとなっている。各曲輪は堀切で分断され、その堀切はそのまま横堀や竪堀に繋がって複雑な形状をとっている。この他、主郭には大きな内枡形があり、腰曲輪に大きな井戸跡も残る。それほど大規模な城ではないが、城内は整備されているので遺構が非常に見やすく、その精緻な縄張りと相まって素晴らしい城である。
主郭周囲の腰郭と空堀→DSC02278.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.283400/139.023249/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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山名城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02177.JPG←主郭下の横堀
 山名城は、寺尾下城とも呼ばれる山城である。源義家の孫で新田氏の祖となった新田義重の子義範は、この城に拠って山名氏を称し、以後8代にわたって居城としたと言う。南北朝の動乱では、山名時氏は新田系では珍しく足利尊氏・直義兄弟に従って各地を転戦し、武功によって伯耆を始めとする中国諸国5ヶ国の守護を兼帯し、三管四職に連なる室町幕府の重鎮となった。時氏の子氏清の時代には更に勢力を伸ばし、一族で11ヶ国の守護となり、ちょうど国内66ヶ国の1/6を領したことから「六分一殿」と称された。この頃の本貫の地である上野国山名郷との関係はよくわからないが、おそらくは完全に離れていたと思われる。一方の山名城は、戦国時代には木部氏の要害城として取り立てられ、1570年に武田信玄によって新たに築かれた根小屋城とほぼ同じ頃に、この城も大改修されたと考えられている。その後は、1590年の小田原の役終結に伴って廃城となったと思われる。

 山名城は、倉賀野城の南西2kmの位置にあり、高崎市西部に張り出した片岡丘陵の東南端近くの峰に築かれている。東西に曲輪を連ね、曲輪間を掘切で分断した、典型的な山城の縄張りである。主郭周囲は堀切がそのまま横堀となって北側を防御している。また主郭・ニノ郭の南側下方にも横堀が設けられて防御を固めている。遺構は良好に残るが、主郭のみ公園化されているもののそれ以外は薮が多く、遺構の確認が容易ではない。しかも堀切は皆大きく、腰曲輪も高低差が大きく取られて配置され、切岸の昇り降りが大変である。虎口や城道がほとんど残っておらず、曲輪間、特に腰曲輪との連絡がよく分からなかった。せっかくハイキングコースが整備されているのだから、もう少し周囲の曲輪も整備してくれると助かるのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.278889/139.028889/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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箕輪城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01983.JPG←本丸周囲の空堀
 箕輪城は、西上野有数の豪族長野氏の居城である。明応・永正年間(1492~1521年)に長野業尚が築城したと言われている。以後、憲業・業政・業盛の4代にわたって、長野氏歴代の居城となった。長野氏は、箕輪城を本拠として関東管領兼上野守護の山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏の勢威が関東を圧し、山内上杉憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びると、長野業政は西上州に於いて北条・武田の両勢力に挟まれ、孤軍奮闘することとなった。武田信玄の西上州侵攻が始まると、業政は周辺支城網を駆使してこれを侵攻の都度撃退していたが、1560年に病没した。業政没後、国峰城松井田城倉賀野城と徐々に西上州を蚕食した信玄は、1566年、遂に最重要支城である鷹留城を攻略し、残る箕輪城を総攻撃した。業盛は一族と共に御前郭で自刃し、箕輪城は落城して長野氏は滅亡した。

 長野氏滅亡後、信玄は箕輪城に重臣の内藤昌豊を置き、西上州統治の拠点とした。1575年、長篠の戦いで昌豊が討死すると、その子昌月が箕輪城主となったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、一旦、北条氏邦が進駐。次いで信長に派遣された滝川一益がこれを追って松井田城経由で入城、間もなく厩橋城に移った。しかし、武田氏滅亡のわずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死すると、神流川合戦で一益は北条勢に敗れて本領の伊勢へ敗走し、箕輪城には再び北条氏邦が入り、内藤昌月は北条氏に従った。北条・徳川の2大勢力による旧武田領争奪戦「天正壬午の乱」の後、上州をほぼ併呑した北条氏は箕輪城を拡張整備した。しかし1590年の小田原の役では、北条氏邦は鉢形城で籠城し、箕輪城は一戦も交えずに前田利家に降服した。北条氏滅亡後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人井伊直政を12万石で箕輪城に封じ、直政は在城8年の間に箕輪城を近世城郭へと大改修した。1598年に直政が高崎城を築いて移ると、箕輪城は廃城となった。

 箕輪城は、上州に多い丘城タイプの城の中では最大の城で、西上野最大の拠点となる重要な城であった。その重要性は、武田信玄や徳川家康が重臣を置いて西上野の統治拠点としたことからも伺うことができる。その縄張りは近世城郭として仕立て直されただけあって勇壮・広大で、巨大な空堀で囲んだ本丸を中心に、多くの広大な曲輪群で構成されている。丘陵を巨大空堀で大きく分断しており、その規模は圧巻である。また、馬出を効果的に配置しており、絶妙の縄張りである。井伊氏時代の大手口には丸戸張と呼ばれる出丸があり、現在でも高台となって残っている。鍛冶曲輪や三ノ丸には石垣も残っている。それ以外にも丸馬出や埋門なども残り、見所には事欠かない。ただ国指定史跡となっているにも関わらず、城域が広大すぎて整備が追いつかないせいか、薮が多く遺構の確認が難しい部分も多い。空堀の配置は直線的で、北条氏の巨大平山城(滝山城滝の城小机城松山城など)の様な豪快な横矢掛かりこそ少ないが、必見の城であることに疑う余地はない。近世の改修を受けているものの中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせており、中世城郭と近世城郭の繋ぎとなる城として貴重である。
三ノ丸の石垣→DSC01877.JPG
DSC02062.JPG←鍛冶曲輪横の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.404653/138.951119/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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磯部城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01588.JPG←三ノ丸の横堀と櫓台
 磯部城は、伝承では1201年に、源頼朝の寵臣であった佐々木盛綱入道西倉が築いたと伝えられるが定かではない。現在残る遺構から考えれば明らかに戦国期の改修を受けており、おそらく西上州に侵攻した武田信玄が1562年頃に築いたものと考えられている。
 磯部城は、柳瀬川南岸沿いの丘陵地に築かれた平山城で、現在は城山公園として整備されている。公園ではあるが薮が多く未整備の部分もあるが、その分遺構はほぼ完存している。堀切を挟んで本丸と二ノ丸が東西に並び、その南方下に馬出しと三ノ丸が配置されている。主要な曲輪の周囲には土塁や櫓台が築かれ、更に周囲を横堀が取り囲んで防備を固めている。また腰曲輪も築かれている。二ノ丸虎口などには横矢も掛かっているが、あまり発達した横矢を持っていないようである。全体的な印象としては北条氏が改修した武蔵勝沼城にやや似た感じであるが、勝沼城よりも規模は小さく、信玄の西上州侵攻の際の一時的な橋頭堡として構築されたものかもしれない。尚、東500mに位置する文殊寺の砦は狼煙台跡と言われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.297937/138.860761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鷹ノ巣城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01563.JPG←本丸西側の堀跡
 鷹ノ巣城は、板鼻城とも言い、永禄年間(1567年頃)に武田信玄が築いて依田肥前守を置いたと伝えられている。その後の城の歴史は定かではないが、城の東にある小丸田出丸には江戸時代初期に里見讃岐守義高一万石の陣屋となったと言う。
 鷹ノ巣城は、道路地図にも記載されている城でありながら、解説板はおろか標柱すら立っていない謎の城である。比高20m程の丘陵上に築かれており、本丸の周囲に空堀を巡らし、更に周囲を幾つもの曲輪で囲んだ環郭式に近い縄張りだったようである。しかし現在は完全に宅地化・耕地化され、遺構はほとんど湮滅している。しかしよく見て回ると、堀跡の畑が部分的に残っており、それに沿って曲輪の切岸斜面が明確に残っている。本丸北側の曲輪部分は藪となっていて、遺構が残っている可能性があるが、薮が酷すぎて入っていくことができない。残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.340416/138.925627/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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鷹留城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01455.JPG←主郭下の虎口(奥は堀切)
 鷹留城は、西上野有数の豪族長野氏の支城である。明応年間の1500年頃に、長野尚業が築いたと言われている。鷹留城は、長野氏の本拠箕輪城を防衛する周辺支城群の中核であった。長野氏は、箕輪城に拠って関東管領兼上野守護の山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏の勢威が関東を圧し、山内上杉憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びると、長野業政は西上州に於いて北条・武田の両勢力に挟まれ、孤軍奮闘することとなった。武田信玄の西上州侵攻が始まると、業政はその支城網を駆使してこれを侵攻の都度撃退していたが、1560年に病没した。業政没後、国峰城松井田城倉賀野城と徐々に西上州を蚕食した信玄は、1566年、高浜の砦を陥とし、これを橋頭堡として箕輪城と鷹留城の連絡を分断し、鷹留城を攻撃した。城将長野業通は弟の業勝・業固と防ぎ戦ったが、武田勢の猛攻の前に業勝は討死し、業通らは吾妻に敗走して鷹留城は落城した。鷹留城の落城後間もなく、箕輪城も落城して長野氏は滅亡した。

 鷹留城は、長野氏の本城である箕輪城の西方に位置し、箕輪城とは直線距離で5~6kmも離れていて、日本城郭大系に記す「別城一郭」の関係とはやや趣が異なっている。しかし他の周辺支城群と連携して、箕輪城を防衛する中核となっていたことに違いはなく、特に最も血脈の濃い一族を城将として配していたことは、この城の重要性を自ずから物語っている。鷹留城は比較的緩やかな傾斜の山に築かれており、急峻さを武器とした拠点防衛ではなく、ある程度の兵力集中による迎撃基地として機能したと思われる。南北に主要な曲輪が連なる連郭式の縄張りを基本とし、その周囲にいくつもの腰曲輪を構築して防備を固めている。主要な曲輪間は大きな堀切で分断し、周囲の腰曲輪には長短の竪堀が多数構築されて敵兵の斜面移動を防いでいる。また石積みが散見されるので(一部後世のものもある)、それなりにまとまった石垣で防御を固めていたようである。城の北限には大堀切に架かった見事な土橋も見られる。また西側尾根にも東西に長い曲輪があり、堀切も設けられている。中規模の山城であるが、堀切などの遺構は見事で非常に見応えがある。
大手道前の竪堀→DSC01374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.53.36.3N36.23.29.0&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362340&l=1385324
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松井田城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01138.JPG←支尾根の畝状竪堀
 松井田城は、小田原北条氏の築いた巨大な山城である。元々は西上州の小豪族安中忠政が、甲斐の武田信玄の上州侵攻に備えて永禄年間初頭に築いたと言われている。しかし、1564年には信玄の激しい攻勢に晒されて松井田城は安中城と共に落城し、安中忠政は自刃、忠政の嫡子で安中城を守っていた忠成は信玄に降った。松井田城は武田氏の支城となり、市川国貞が城代となった。1582年に甲斐武田氏が織田信長に滅ぼされると、北条勢が一時松井田城に進駐したが、すぐに織田信長の派遣した滝川一益が碓氷峠を越えて着城したため撤収し、一益は家臣津田勝正を置いて上方との繋ぎとし、自身は厩橋城に入って上州経営の拠点とした。しかしわずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死すると、神流川合戦で一益は北条勢に敗れて本領の伊勢へ敗走し、松井田城は北条勢の占拠するところとなった。それに引き続いて、政治権力の巨大な空白地帯となった旧武田領を巡って北条・徳川の2大勢力が争奪戦を繰り広げたが(天正壬午の乱)、徳川勢の優勢下で講和が成立し、碓氷峠以東が北条領となった。上州をほぼ併呑した北条氏は、碓氷峠を押える要衝の松井田城に重臣の大道寺駿河守政繁を置き、城を大改修・拡張した。1590年の小田原の役では、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北国勢は碓氷峠を越えて松井田城を攻囲し、1ヶ月の籠城戦の後、城将大道寺政繁は降服して城を明け渡した。その後、松井田城は廃城となった。

 松井田城は、北条氏の山城(平山城は除く)としては、八王子城を除き、これまで私が見た中で最大の規模を持つ山城である。城域は広大で、並みの山城3つ分程の広さを有している。東西に連なる尾根上に曲輪を連ね、要所を堀切で分断する山城の典型的な縄張りとなっている。最高所に主郭を置き、大堀切を挟んで西側に馬出しと二ノ郭を配置している。二の郭の西側には連続横堀が構築され、西側からの侵入に備えている。その西側にも曲輪群が続いている。主郭には、現在神社が置かれている土壇があり、物見台か何かと思われる。主郭の東側にはいくつかの曲輪を挟んで、安中郭がある。ここが安中氏が築いた当初の松井田城の主郭と言われている。主郭から安中郭に至る途中の縄張りも巧みで、S字状の横堀やいくつもの堀切・竪堀、櫓台、桝形虎口、水の手曲輪など枚挙に暇がない。主郭などのある尾根から派生する支尾根にも多くの段曲輪を設け、こちらにも堀切や竪堀を設けている。一部には畝状竪堀もあり、巧みに防御を固めている。全体的に堀切等の防御構造は、北条氏の主要城郭としてはいずれも比較的規模が小さい。しかし巧みな縄張りといい城域の広大さといい、必見の山城であることは疑う余地が無い。
二ノ郭西側の連続横堀→DSC01221.JPG
DSC01273.JPG←S字状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.47.41.5N36.19.10.4&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361921&l=1384731
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鶉古城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06129.JPG←公園入口に残る土塁と空堀
 鶉古城は、南北朝時代に築かれた城である。1333年5月、上野より挙兵した新田義貞の鎌倉攻めによって瞬く間に鎌倉幕府は滅亡し、得宗北条高時以下北条一族は鎌倉東勝寺で自刃して果てた。一方、高時の弟で僧籍にあった慧性(北条泰家)は、鎌倉防衛の総大将として分倍河原で新田勢と交戦し、一度は勝利を得たものの体勢を立て直した新田勢に大敗して敗走した。幕府滅亡後、泰家は奥州に潜行したが、一説に北条氏家臣荒間朝春と共に逃れて来て築いたのが鶉古城だと言われている。(但し、上野の新田氏本拠に近く、本当にここに築城して籠もったのか、個人的には疑問も感じる。)後に泰家は、時興と改名して京に潜伏し、建武の新政転覆の謀議を巡らした。これは、中先代の乱の直接の導火線となり、引いては60年にも及ぶ南北朝動乱の契機となった大事件であった。一方、鶉古城は、応永年間(1394~1428年)には多々良四郎忠致の居城となった。更に時代が下って戦国時代には、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形城主の小曽根政義が、小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で鶉古城を守備した。その後は館林城と共に北条氏の支配下に入った様だが、1590年の小田原の役の際、館林落城に伴い鶉古城も廃城となった。

 鶉古城は、多々良沼に西から突き出た半島状地形に築かれた城で、西の平野基部と2本の堀切で分断防御していたようである。現在は西側の外堀と土塁のみが残っている。土塁は高さ3m程で、空堀と共に約250mにわたって伸びている。しかし横矢は掛かっておらず一直線の形状で、古い城の形態を留めている。城内部は公園化されて改変を受けており、東側の堀は湮滅している様であるが水路として残っている可能性もあり、どこまで遺構が残っているか判別が難しい。いずれにしても三方を沼地で囲まれた要害であった。太平記の時代に築かれたと言う古い城は、現在は野鳥の楽園となって、水面に平和な時代を映し出している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.39.9N36.15.13.0&ZM=9
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片岡城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06086.JPG←唯一残る土塁
 片岡城は、片岡氏の居館である。平安時代末期に、板東平氏の平国繁がこの地に入部して片岡氏を称した。2代経繁は平清盛に仕えたが、1185年に平家が壇ノ浦で滅亡すると、関東を逃れて土佐に渡って黒岩城主となった。その後経繁は、1194年に片岡から妻子を呼び寄せたが、長男経俊と二男経政は亡き母の供養のため片岡村に残り、三男経氏と二人の女子が土佐に渡った。この系統が土佐片岡氏となり、戦国期には長宗我部氏の家臣として活躍したと言う。一方、故地上州の片岡氏の事跡はこの後不明である。1265年、新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となって城下町を整備した際に、ほとんどの片岡の住民は元宿へ移住させられた。この頃には片岡城は廃城になっていたものと思われる。
 片岡城は、現在は遺構のほとんどは湮滅し、民家の並ぶ地域の片隅に1本の土塁が残るのみである。しかし解説板が設置され、このわずかに残った土塁が大切に保存されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.27.5.9N36.15.23.0&ZM=9
タグ:居館
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赤岩城(群馬県千代田町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06066.JPG←光恩寺の本堂裏の土塁
 赤岩城は、佐貫太郎資綱の子次郎太郎嗣綱が築いたと伝わる城である。その後、嗣綱の子文治四郎広嗣は青柳城を築いて移ったと言う。その後の城の歴史は不明である。
 赤岩城は、現在の光恩寺が城跡で、周囲に土塁や空堀跡が残っているほか、境内北東に城山と呼ばれる大きな前方後円墳があり、物見台としていたようである。基本的には光恩寺境内を中心とした単郭方形居館であったのだろう。城山の上には、佐貫氏の後裔で館林城を築いたと言われている赤井照光の墓がある。またこの城の南西数百mには赤岩の渡しがあり、永禄年間に上杉謙信が船橋を掛けて軍勢を率いて渡ったと伝わるので、おそらくはこの渡し場を押さえる為に築かれた城だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.26.33.7N36.12.18.2&ZM=9
タグ:居館
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大袋城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06024.JPG←大袋城遠望
 大袋城は、館林城の前身で、1470年頃に関東管領山内上杉氏の家臣赤井氏が築いたと言う。享徳の乱の最中の1472年には、長尾景信・太田道灌らが攻囲70余日にして足利成氏方の赤井文三・文六を降したと言う。後に赤井照光が館林城を築いて移るまで、ここが館林の拠点であった。
 大袋城は、城沼に面した半島状に突き出した平地に築かれた城で、かつては土塁や堀跡が残っていたようであるが、現在はほとんどが民家となり遺構は完全に湮滅している。周囲の沼には釣り人が多く、ここがかつて城跡だったことを忘れさせる風景が広がっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.52.7N36.14.6.2&ZM=9
タグ:中世平城
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前橋城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02861.JPG←本丸の土塁
 前橋城は、室町・戦国時代には厩橋城と言い、戦国後期に上杉・北条・武田という三大強国の係争地帯となった上州の動乱の中心にあり続けた城である。

 蒼海城主総社長尾忠房は新たに石倉城を築いたが、利根川の氾濫により押し崩され、後に箕輪城主長野氏の一族、長野賢忠が崩れ残った残片を頼りに新城を築いたのが、厩橋城であると言う。以後、箕輪城の支城として機能したが、1551年に関東管領山内上杉憲政が小田原の北条氏康の圧迫を受けて越後に亡命すると、賢忠の子道安は北条氏に従い、北条氏家臣の福島頼季・師岡山城守らが進駐した。1560年、上杉謙信が越山して関東に進出すると、厩橋城の長野氏はこれに呼応し、謙信は厩橋城に本陣を置いて関東経略の前線拠点とした。関東管領職を譲り受けた謙信は、以後1578年に急死するまでの18年間に、厩橋城を前進基地として13回とも言われる関東出陣を行った。厩橋城代には、1563年に北条(きたじょう)高広を任命し、以後北条氏が厩橋を支配した。1578年に謙信が死去すると、後継を巡って御館の乱が勃発し、北条高広とその子景広は北条氏康の子で謙信の養子となっていた上杉三郎景虎に与した。しかし景勝方に敗れて景広は討死し、主君景虎は鮫ヶ尾城で自刃し、主家を失った高広は武田勝頼に従った。勝頼は、厩橋城を足掛かりに東上州に侵攻して膳城を陥とし、城主河田備前守を討ち取った。1582年に勝頼が織田信長に滅ぼされると、織田信長の武将・滝川一益が関東管領として厩橋城主となった。しかしそのわずか3ヵ月後に信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直は神流川の合戦で滝川一益を破ってこれを追い落とし、厩橋城は北条氏の支配下に入った。1590年の小田原の役では、北国勢に攻められて落城し、北条氏が滅んで関東に入部した徳川家康は、譜代の平岩親吉を厩橋城に封じた。関ヶ原合戦後は酒井重忠が厩橋城に入部した。

 徳川家の譜代の重臣酒井氏は、9代150年にわたって北関東の要である前橋城を支配した。この間に城は大改修されて近世城郭に生まれ変わり、名も厩橋城から前橋城と改められた。1749年に酒井氏は姫路城に移封となり、徳川家康の次男結城秀康の後裔松平朝矩が前橋城に入った。しかし前橋城は利根川による侵食が甚だしく、1767年に朝矩は川越城に移り、前橋城は取り壊されて陣屋となった。幕末になると不穏な国情から前橋城再築の必要が生じ、1863年に着工され、3年8ヵ月後の1867年に完成した。再築された前橋城は、旧三ノ丸を本丸とした渦郭式の縄張で、細部には西洋式の稜堡様式を取り入れた。城を取り巻く土塁の要所に砲台を設け、火砲の射程に合わせて「折」を延ばし、丸馬出しは規模を拡大し、大手の角馬出しは五稜郭のものに近似した構造とした。しかし完成を急いだ為、城門や建物は簡素なものだったと言う。そしてこのまま明治維新を迎えることとなった。

 このような複雑な歴史を持つ前橋城は、明治以降の市街化で本丸以外の遺構は壊滅してしまっている。現在本丸跡には群馬県庁が置かれ、その周囲には土塁だけがかつての雄姿を残している。この土塁は折れの部分の形状が角張っているが、これは幕末に改修された新しい土塁だからなのであろう。その他では本丸東側の大通り沿いに、前橋新城の車橋門の渡櫓の石垣がわずかに残っているのみである。本丸土塁が残っているだけ宇都宮城よりマシとは言うものの、かつて関東7名城の一に数えられた堂々たる城は、残念なことに時の彼方に消えてしまっている。
車橋門跡の石垣→DSC02886.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.3.50.0N36.23.16.2&ZM=9
タグ:近世平城
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石倉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02842.JPG←かつての外堀跡の道路
 石倉城は、1485年に上野守護代の蒼海城主総社長尾忠房の嫡子憲景が築城した城である。憲景は1512年の新井城の戦いで戦死し、三男長景が城主となった。1563年、武田信玄が西上野に進攻すると、長景は厩橋城の守りについたが、留守となった石倉城を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。1565年には越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還したものの、翌66年、再度信玄に攻め取られ、信玄の重臣で保渡田城主の内藤修理亮昌豊親子が城将を兼帯した。その後、昌豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条(きたじょう)丹後守高広に降り、その家臣寺尾左馬助(石倉治郎)がこれを守った。1590年の小田原の役では、松平修理太夫康国率いる徳川勢の進攻に対し、寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。康国はこの戦いで討死し、弟の松平新六郎が一千余騎で猛攻を掛け、左馬助以下残る城兵は城を枕に討死し、石倉城は落城したと言う。
 尚、この歴史は、現地の石碑に記されたものに拠ったが、日本城郭体系では1565年に信玄が築いた城とされ、小田原の役の際の落城の経緯も異なったものが書かれており、どちらが正しいのかは分からない。

 石倉城は、総社城などと同じく利根川西岸に築かれた崖端城で、利根川の浸食によりかつての本丸跡はかなり崩壊してしまっている。梯郭式に近い囲郭式の城で、本丸の周囲に二ノ丸があり、二ノ丸の西側外周を三ノ丸で囲んでいたようである。現在は市街化によって遺構は完全に湮滅し、わずかに二の丸公園や外堀公園にその名を残すだけである。しかし国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真によると、耕地の中に本丸や二ノ丸周囲の堀跡が見られ、最も明瞭に残っているのは外郭の外堀であった。現在の外堀公園東側に隣接する道路が、この外堀跡だったようだ。戦国後半の関東三国志の渦中の城も、今ではすっかり市街化の中に埋没してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.3.30.5N36.23.22.2&ZM=9
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総社城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02821.JPG←櫓台が置かれた遠見山古墳
 総社城は、近世初期に秋元長朝が築いた平城である。秋元氏は元々、深谷上杉氏の三宿老の一人として活躍し、後には小田原北条氏の家臣となった。その事跡は秋元氏館の項に記す。1590年に北条氏が滅びると浪人となったが、後に井伊直政の推挙により徳川家康に仕えた。1601年に関ヶ原合戦の功績で総社に1万石で入部すると、長朝は蒼海城を放棄して新たに総社城を築いた。秋元氏は総社城に居る間に天狗岩用水などを開削し、新田開発に大きな足跡を残した。そして、2代泰朝の時、1633年に加増されて甲州谷村城に転封となり、以後総社城は廃城となった。
 総社城は、総郭南北780m、東西750mの同心円状の縄張りで、遠構えの西は天狗岩用水を大堀とし、各郭は濠と丸野面積みの石垣で被覆されていたと言う。しかし現在では、本丸と二ノ丸の半分は、利根川の浸食によって崩壊し、それ以外の曲輪も宅地化と耕地化によって遺構は完全に湮滅している。城域内に遠見山古墳が残るが、総社城の櫓台として使われたことからその名が付いたとされる。周囲にはほとんど城らしい痕跡は残っておらず、どこが城跡かかなり迷うほどである。よく見て回れば、あちこちに大手跡や木戸跡などの標識があるようだが、回る気力も起きず今回はパスした。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.56.6N36.24.27.6&ZM=9
タグ:近世平城
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蒼海城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02811.JPG←本丸跡の土塁
 蒼海城は、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の本拠である。長尾氏と言えば、上杉謙信(長尾景虎)を輩出した越後長尾氏が有名であるが、これと同族である。長尾氏は足利氏の有力な姻族である上杉氏(足利尊氏の母清子の実家)の家臣として南北朝期より台頭した。足利直義の股肱の臣、上杉重能の家臣長尾景忠は、1337年に上野守護代となり、その4男忠房は総社を与えられて総社長尾氏の祖となった。忠房は、元々国府があったと思われる地を城塞化して、蒼海城とした。
 関東管領を世襲するようになった山内上杉氏の家宰には同族の白井長尾氏が就いていたが、1473年に長尾景信が亡くなると、山内上杉顕定は家宰に景信の嫡子景春ではなく、景信の弟で惣社長尾氏を継いだ忠景を任じた。これは顕定が白井長尾氏の勢力伸張を警戒したためとされる。これを不満とした景春によって、長尾景春の乱と呼ばれる大乱を招くことになった。
 戦国時代に入り、駿河から伊豆に入った伊勢宗瑞(北条早雲)が勃興して小田原北条氏を興し、2代氏綱が勢力を伸張させると、1524年ごろ総社長尾顕方は北条氏に通じた。しかし箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業に挟撃されて苦しみ、ついに長野氏に降って上杉方に復帰した。後に長野業政の計らいで総社長尾景房が白井長尾氏を継いだが、以後、総社長尾氏は全く衰え、1566年に蒼海城は武田信玄に攻略され、総社長尾氏は上杉謙信を頼って越後へと退去した。その後、蒼海城は荒廃した。
 1590年に北条氏が滅んで徳川家康が関東に入部すると、諏訪頼水が総社に入部した。しかし蒼海城は、国府跡に築かれた為か、地形に拘束された縦横列郭構造の不合理な城であったらしく、長尾景行の子忠房さえ放棄して石倉城を築城したほどで、諏訪氏も入城せず、諏訪氏が諏訪高島へ移ると、秋元長朝が入部したが、新たに総社城を築城して移り、蒼海城は廃城となった。

 蒼海城は現在はほとんど宅地化され、往時の地形を知ることはほとんど不可能である。しかし御霊神社が置かれた地はかつての土塁上と考えられ、その南東には本丸跡の土塁が残っている。中は畑になっているようだが周囲を民家で囲まれており、中を見ることはできないようだ。早くに失われた城の為、遺構がほとんど残っていないのも致し方ないところなのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.13.5N36.23.12.5&ZM=9
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