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古城めぐり(群馬) ブログトップ
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平井城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02427.JPG←復元された本丸東側の空堀
 平井城は、関東管領を世襲した山内上杉氏の居城である。上杉氏は、室町将軍となった足利氏の外戚で、上杉氏の隆盛の基礎を築いた上杉憲房は足利尊氏の母方の伯父(母の兄)に当たる。憲房は、尊氏の挙兵からこれに従ってよき相談相手となり、1336年の京都争奪戦では尊氏を庇って討死を遂げた。その長子憲顕は鎌倉府の義詮、基氏の執事となって、後に初代関東管領となった。以後、関東管領職は上杉四家(山内・扇谷・詫間・犬懸)が相次いで襲ったが、途中からは山内上杉氏の系統のみがこれを世襲することとなった。1438年、鎌倉公方足利持氏は関東管領山内上杉憲実と不和となり、永享の乱が勃発した。平井城は、この時に上杉憲実の命で蒼海城主の総社長尾忠房が築城したと考えられている。その後、山内上杉氏を継いだ顕定によって、1467年に改修を受けたとされる。この時、詰城に当たる金山城も築城された様である。山内上杉氏は、その後も結城合戦・享徳の乱・長享の乱と打ち続く関東動乱の中心であり続け、それが伊豆・相模に討ち入った伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)に付け入る隙を与え、小田原北条氏の勃興を助けることとなった。北条氏は、2代氏綱・3代氏康と着々と勢力を拡張し、1546年の河越夜戦で一気に山内・扇谷両上杉氏の勢力を南関東から駆逐し、山内上杉憲政は平井城に敗走して逼塞を余儀なくされ、1552年遂に北条氏康に城を陥とされ、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元に逃れて援助を求めた。その後、平井城は北条氏の支配下に置かれた。1560年、長尾景虎は関東に出兵して平井城を奪還したが、間もなく破却したと言う。この後、景虎は小田原城を包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領職に就任し、上杉氏の名跡を譲られて上杉政虎と名を改めたことは、よく知られている通りである。

 平井城は、鮎川西岸に築かれた崖端城で、五角形の本丸とその西に二ノ丸とささ郭、北側に三ノ丸と総郭を連ねていた。現在は宅地化・耕地化によって遺構はほとんど湮滅している。しかし県道沿いに本丸土塁が復元され、本丸の東端には虎口・空堀・腰曲輪・竪堀・土橋が発掘復元されている。各曲輪は空堀によって分断されていたが、現在堀跡はほとんど湮滅している。しかしよく見ると、わずかにそれらしい痕跡が散見される。また県道沿いに幾つも標柱が立ち、平井城の歌とか永享の乱の歌など、不思議なものが平井城資料展示所に掲げられている。かつての一時期、この地が関東の中心であったが、今では思い浮かべられるよすがもない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.0.6N36.12.57.5&ZM=9
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根小屋城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02365.JPG←主郭の内枡形
 根小屋城は、甲斐武田氏が西上州に全く新たに取り立てた山城である。1566年、武田信玄は箕輪城の長野氏を滅ぼして西上州を完全に制圧し、このことは小田原北条氏・越後上杉氏と強い緊張状態を生じた。そこで信玄は、1568年或いは1570年に山名城・茶臼山城の間に新城を築き、信濃の武将望月甚八郎・伴野助十郎を入れて守らせたと記録されている。その後の歴史は定かではないが、甲斐武田氏の滅亡と共に廃城となったのだろう。

 根小屋城は、ウモさんのHP「埋もれた古城」に紹介されているのを見た時から、いつかは行きたいと思っていた念願の城だった。その遺構は期待に違わぬ見事なもので、殊に横堀竪堀を縦横に絡ませて連携させた堀のネットワークには感嘆する他はない。比高110m程の比較的緩やかな傾斜の丘陵に築かれた城で、その平山城に近い選地と縄張りはどちらかというと北条氏の影響を受けているように思える。主郭を中心にして周囲には空堀が取り巻き、更に外周に腰郭を巡らしている。この腰郭の形態は、まるで滝山城の様である。面白いのは、主郭は大手から見て手前にあり、奥が二ノ郭になっていることである。大手口の構造も、横堀と竪堀を絡めた複雑なものとなっている。各曲輪は堀切で分断され、その堀切はそのまま横堀や竪堀に繋がって複雑な形状をとっている。この他、主郭には大きな内枡形があり、腰曲輪に大きな井戸跡も残る。それほど大規模な城ではないが、城内は整備されているので遺構が非常に見やすく、その精緻な縄張りと相まって素晴らしい城である。
主郭周囲の腰郭と空堀→DSC02278.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.1.36.4N36.16.49.5&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361700&l=1390124
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山名城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02177.JPG←主郭下の横堀
 山名城は、寺尾下城とも呼ばれる山城である。源義家の孫で新田氏の祖となった新田義重の子義範は、この城に拠って山名氏を称し、以後8代にわたって居城としたと言う。南北朝の動乱では、山名時氏は新田系では珍しく足利尊氏・直義兄弟に従って各地を転戦し、武功によって伯耆を始めとする中国諸国5ヶ国の守護を兼帯し、三管四職に連なる室町幕府の重鎮となった。時氏の子氏清の時代には更に勢力を伸ばし、一族で11ヶ国の守護となり、ちょうど国内66ヶ国の1/6を領したことから「六分一殿」と称された。この頃の本貫の地である上野国山名郷との関係はよくわからないが、おそらくは完全に離れていたと思われる。一方の山名城は、戦国時代には木部氏の要害城として取り立てられ、1570年に武田信玄によって新たに築かれた根小屋城とほぼ同じ頃に、この城も大改修されたと考えられている。その後は、1590年の小田原の役終結に伴って廃城となったと思われる。

 山名城は、倉賀野城の南西2kmの位置にあり、高崎市西部に張り出した片岡丘陵の東南端近くの峰に築かれている。東西に曲輪を連ね、曲輪間を掘切で分断した、典型的な山城の縄張りである。主郭周囲は堀切がそのまま横堀となって北側を防御している。また主郭・ニノ郭の南側下方にも横堀が設けられて防御を固めている。遺構は良好に残るが、主郭のみ公園化されているもののそれ以外は薮が多く、遺構の確認が容易ではない。しかも堀切は皆大きく、腰曲輪も高低差が大きく取られて配置され、切岸の昇り降りが大変である。虎口や城道がほとんど残っておらず、曲輪間、特に腰曲輪との連絡がよく分からなかった。せっかくハイキングコースが整備されているのだから、もう少し周囲の曲輪も整備してくれると助かるのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.1.56.7N36.16.32.6&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361644&l=1390144
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箕輪城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01983.JPG←本丸周囲の空堀
 箕輪城は、西上野有数の豪族長野氏の居城である。明応・永正年間(1492~1521年)に長野業尚が築城したと言われている。以後、憲業・業政・業盛の4代にわたって、長野氏歴代の居城となった。長野氏は、箕輪城を本拠として関東管領兼上野守護の山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏の勢威が関東を圧し、山内上杉憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びると、長野業政は西上州に於いて北条・武田の両勢力に挟まれ、孤軍奮闘することとなった。武田信玄の西上州侵攻が始まると、業政は周辺支城網を駆使してこれを侵攻の都度撃退していたが、1560年に病没した。業政没後、国峰城・松井田城倉賀野城と徐々に西上州を蚕食した信玄は、1566年、遂に最重要支城である鷹留城を攻略し、残る箕輪城を総攻撃した。業盛は一族と共に御前郭で自刃し、箕輪城は落城して長野氏は滅亡した。

 長野氏滅亡後、信玄は箕輪城に重臣の内藤昌豊を置き、西上州統治の拠点とした。1575年、長篠の戦いで昌豊が討死すると、その子昌月が箕輪城主となったが、1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされると、一旦、北条氏邦が進駐。次いで信長に派遣された滝川一益がこれを追って松井田城経由で入城、間もなく厩橋城に移った。しかし、武田氏滅亡のわずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死すると、神流川合戦で一益は北条勢に敗れて本領の伊勢へ敗走し、箕輪城には再び北条氏邦が入り、内藤昌月は北条氏に従った。北条・徳川の2大勢力による旧武田領争奪戦「天正壬午の乱」の後、上州をほぼ併呑した北条氏は箕輪城を拡張整備した。しかし1590年の小田原の役では、北条氏邦は鉢形城で籠城し、箕輪城は一戦も交えずに前田利家に降服した。北条氏滅亡後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人井伊直政を12万石で箕輪城に封じ、直政は在城8年の間に箕輪城を近世城郭へと大改修した。1598年に直政が高崎城を築いて移ると、箕輪城は廃城となった。

 箕輪城は、上州に多い丘城タイプの城の中では最大の城で、西上野最大の拠点となる重要な城であった。その重要性は、武田信玄や徳川家康が重臣を置いて西上野の統治拠点としたことからも伺うことができる。その縄張りは近世城郭として仕立て直されただけあって勇壮・広大で、巨大な空堀で囲んだ本丸を中心に、多くの広大な曲輪群で構成されている。丘陵を巨大空堀で大きく分断しており、その規模は圧巻である。また、馬出を効果的に配置しており、絶妙の縄張りである。井伊氏時代の大手口には丸戸張と呼ばれる出丸があり、現在でも高台となって残っている。鍛冶曲輪や三ノ丸には石垣も残っている。それ以外にも丸馬出や埋門なども残り、見所には事欠かない。ただ国指定史跡となっているにも関わらず、城域が広大すぎて整備が追いつかないせいか、薮が多く遺構の確認が難しい部分も多い。空堀の配置は直線的で、北条氏の巨大平山城(滝山城滝の城小机城松山城など)の様な豪快な横矢掛かりこそ少ないが、必見の城であることに疑う余地はない。近世の改修を受けているものの中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせており、中世城郭と近世城郭の繋ぎとなる城として貴重である。
三ノ丸の石垣→DSC01877.JPG
DSC02062.JPG←鍛冶曲輪横の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.15.0N36.24.5.7&ZM=9
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磯部城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01588.JPG←三ノ丸の横堀と櫓台
 磯部城は、伝承では1201年に、源頼朝の寵臣であった佐々木盛綱入道西倉が築いたと伝えられるが定かではない。現在残る遺構から考えれば明らかに戦国期の改修を受けており、おそらく西上州に侵攻した武田信玄が1562年頃に築いたものと考えられている。
 磯部城は、柳瀬川南岸沿いの丘陵地に築かれた平山城で、現在は城山公園として整備されている。公園ではあるが薮が多く未整備の部分もあるが、その分遺構はほぼ完存している。堀切を挟んで本丸と二ノ丸が東西に並び、その南方下に馬出しと三ノ丸が配置されている。主要な曲輪の周囲には土塁や櫓台が築かれ、更に周囲を横堀が取り囲んで防備を固めている。また腰曲輪も築かれている。二ノ丸虎口などには横矢も掛かっているが、あまり発達した横矢を持っていないようである。全体的な印象としては北条氏が改修した武蔵勝沼城にやや似た感じであるが、勝沼城よりも規模は小さく、信玄の西上州侵攻の際の一時的な橋頭堡として構築されたものかもしれない。尚、東500mに位置する文殊寺の砦は狼煙台跡と言われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.51.50.9N36.17.41.9&ZM=9
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鷹ノ巣城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01563.JPG←本丸西側の堀跡
 鷹ノ巣城は、板鼻城とも言い、永禄年間(1567年頃)に武田信玄が築いて依田肥前守を置いたと伝えられている。その後の城の歴史は定かではないが、城の東にある小丸田出丸には江戸時代初期に里見讃岐守義高一万石の陣屋となったと言う。
 鷹ノ巣城は、道路地図にも記載されている城でありながら、解説板はおろか標柱すら立っていない謎の城である。比高20m程の丘陵上に築かれており、本丸の周囲に空堀を巡らし、更に周囲を幾つもの曲輪で囲んだ環郭式に近い縄張りだったようである。しかし現在は完全に宅地化・耕地化され、遺構はほとんど湮滅している。しかしよく見て回ると、堀跡の畑が部分的に残っており、それに沿って曲輪の切岸斜面が明確に残っている。本丸北側の曲輪部分は藪となっていて、遺構が残っている可能性があるが、薮が酷すぎて入っていくことができない。残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.55.42.6N36.20.14.9&ZM=9
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鷹留城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01455.JPG←主郭下の虎口(奥は堀切)
 鷹留城は、西上野有数の豪族長野氏の支城である。明応年間の1500年頃に、長野尚業が築いたと言われている。鷹留城は、長野氏の本拠箕輪城を防衛する周辺支城群の中核であった。長野氏は、箕輪城に拠って関東管領兼上野守護の山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏の勢威が関東を圧し、山内上杉憲政が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びると、長野業政は西上州に於いて北条・武田の両勢力に挟まれ、孤軍奮闘することとなった。武田信玄の西上州侵攻が始まると、業政はその支城網を駆使してこれを侵攻の都度撃退していたが、1560年に病没した。業政没後、国峰城・松井田城倉賀野城と徐々に西上州を蚕食した信玄は、1566年、高浜の砦を陥とし、これを橋頭堡として箕輪城と鷹留城の連絡を分断し、鷹留城を攻撃した。城将長野業通は弟の業勝・業固と防ぎ戦ったが、武田勢の猛攻の前に業勝は討死し、業通らは吾妻に敗走して鷹留城は落城した。鷹留城の落城後間もなく、箕輪城も落城して長野氏は滅亡した。

 鷹留城は、長野氏の本城である箕輪城の西方に位置し、箕輪城とは直線距離で5~6kmも離れていて、日本城郭大系に記す「別城一郭」の関係とはやや趣が異なっている。しかし他の周辺支城群と連携して、箕輪城を防衛する中核となっていたことに違いはなく、特に最も血脈の濃い一族を城将として配していたことは、この城の重要性を自ずから物語っている。鷹留城は比較的緩やかな傾斜の山に築かれており、急峻さを武器とした拠点防衛ではなく、ある程度の兵力集中による迎撃基地として機能したと思われる。南北に主要な曲輪が連なる連郭式の縄張りを基本とし、その周囲にいくつもの腰曲輪を構築して防備を固めている。主要な曲輪間は大きな堀切で分断し、周囲の腰曲輪には長短の竪堀が多数構築されて敵兵の斜面移動を防いでいる。また石積みが散見されるので(一部後世のものもある)、それなりにまとまった石垣で防御を固めていたようである。城の北限には大堀切に架かった見事な土橋も見られる。また西側尾根にも東西に長い曲輪があり、堀切も設けられている。中規模の山城であるが、堀切などの遺構は見事で非常に見応えがある。
大手道前の竪堀→DSC01374.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.53.36.3N36.23.29.0&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=362340&l=1385324
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松井田城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

DSC01138.JPG←支尾根の畝状竪堀
 松井田城は、小田原北条氏の築いた巨大な山城である。元々は西上州の小豪族安中忠政が、甲斐の武田信玄の上州侵攻に備えて永禄年間初頭に築いたと言われている。しかし、1564年には信玄の激しい攻勢に晒されて松井田城は安中城と共に落城し、安中忠政は自刃、忠政の嫡子で安中城を守っていた忠成は信玄に降った。松井田城は武田氏の支城となり、市川国貞が城代となった。1582年に甲斐武田氏が織田信長に滅ぼされると、北条勢が一時松井田城に進駐したが、すぐに織田信長の派遣した滝川一益が碓氷峠を越えて着城したため撤収し、一益は家臣津田勝正を置いて上方との繋ぎとし、自身は厩橋城に入って上州経営の拠点とした。しかしわずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死すると、神流川合戦で一益は北条勢に敗れて本領の伊勢へ敗走し、松井田城は北条勢の占拠するところとなった。それに引き続いて、政治権力の巨大な空白地帯となった旧武田領を巡って北条・徳川の2大勢力が争奪戦を繰り広げたが(天正壬午の乱)、徳川勢の優勢下で講和が成立し、碓氷峠以東が北条領となった。上州をほぼ併呑した北条氏は、碓氷峠を押える要衝の松井田城に重臣の大道寺駿河守政繁を置き、城を大改修・拡張した。1590年の小田原の役では、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北国勢は碓氷峠を越えて松井田城を攻囲し、1ヶ月の籠城戦の後、城将大道寺政繁は降服して城を明け渡した。その後、松井田城は廃城となった。

 松井田城は、北条氏の山城(平山城は除く)としては、八王子城を除き、これまで私が見た中で最大の規模を持つ山城である。城域は広大で、並みの山城3つ分程の広さを有している。東西に連なる尾根上に曲輪を連ね、要所を堀切で分断する山城の典型的な縄張りとなっている。最高所に主郭を置き、大堀切を挟んで西側に馬出しと二ノ郭を配置している。二の郭の西側には連続横堀が構築され、西側からの侵入に備えている。その西側にも曲輪群が続いている。主郭には、現在神社が置かれている土壇があり、物見台か何かと思われる。主郭の東側にはいくつかの曲輪を挟んで、安中郭がある。ここが安中氏が築いた当初の松井田城の主郭と言われている。主郭から安中郭に至る途中の縄張りも巧みで、S字状の横堀やいくつもの堀切・竪堀、櫓台、桝形虎口、水の手曲輪など枚挙に暇がない。主郭などのある尾根から派生する支尾根にも多くの段曲輪を設け、こちらにも堀切や竪堀を設けている。一部には畝状竪堀もあり、巧みに防御を固めている。全体的に堀切等の防御構造は、北条氏の主要城郭としてはいずれも比較的規模が小さい。しかし巧みな縄張りといい城域の広大さといい、必見の山城であることは疑う余地が無い。
二ノ郭西側の連続横堀→DSC01221.JPG
DSC01273.JPG←S字状横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.47.41.5N36.19.10.4&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361921&l=1384731
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鶉古城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06129.JPG←公園入口に残る土塁と空堀
 鶉古城は、南北朝時代に築かれた城である。1333年5月、上野より挙兵した新田義貞の鎌倉攻めによって瞬く間に鎌倉幕府は滅亡し、得宗北条高時以下北条一族は鎌倉東勝寺で自刃して果てた。一方、高時の弟で僧籍にあった慧性(北条泰家)は、鎌倉防衛の総大将として分倍河原で新田勢と交戦し、一度は勝利を得たものの体勢を立て直した新田勢に大敗して敗走した。幕府滅亡後、泰家は奥州に潜行したが、一説に北条氏家臣荒間朝春と共に逃れて来て築いたのが鶉古城だと言われている。(但し、上野の新田氏本拠に近く、本当にここに築城して籠もったのか、個人的には疑問も感じる。)後に泰家は、時興と改名して京に潜伏し、建武の新政転覆の謀議を巡らした。これは、中先代の乱の直接の導火線となり、引いては60年にも及ぶ南北朝動乱の契機となった大事件であった。一方、鶉古城は、応永年間(1394~1428年)には多々良四郎忠致の居城となった。更に時代が下って戦国時代には、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形城主の小曽根政義が、小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で鶉古城を守備した。その後は館林城と共に北条氏の支配下に入った様だが、1590年の小田原の役の際、館林落城に伴い鶉古城も廃城となった。

 鶉古城は、多々良沼に西から突き出た半島状地形に築かれた城で、西の平野基部と2本の堀切で分断防御していたようである。現在は西側の外堀と土塁のみが残っている。土塁は高さ3m程で、空堀と共に約250mにわたって伸びている。しかし横矢は掛かっておらず一直線の形状で、古い城の形態を留めている。城内部は公園化されて改変を受けており、東側の堀は湮滅している様であるが水路として残っている可能性もあり、どこまで遺構が残っているか判別が難しい。いずれにしても三方を沼地で囲まれた要害であった。太平記の時代に築かれたと言う古い城は、現在は野鳥の楽園となって、水面に平和な時代を映し出している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.39.9N36.15.13.0&ZM=9
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片岡城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06086.JPG←唯一残る土塁
 片岡城は、片岡氏の居館である。平安時代末期に、板東平氏の平国繁がこの地に入部して片岡氏を称した。2代経繁は平清盛に仕えたが、1185年に平家が壇ノ浦で滅亡すると、関東を逃れて土佐に渡って黒岩城主となった。その後経繁は、1194年に片岡から妻子を呼び寄せたが、長男経俊と二男経政は亡き母の供養のため片岡村に残り、三男経氏と二人の女子が土佐に渡った。この系統が土佐片岡氏となり、戦国期には長宗我部氏の家臣として活躍したと言う。一方、故地上州の片岡氏の事跡はこの後不明である。1265年、新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となって城下町を整備した際に、ほとんどの片岡の住民は元宿へ移住させられた。この頃には片岡城は廃城になっていたものと思われる。
 片岡城は、現在は遺構のほとんどは湮滅し、民家の並ぶ地域の片隅に1本の土塁が残るのみである。しかし解説板が設置され、このわずかに残った土塁が大切に保存されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.27.5.9N36.15.23.0&ZM=9
タグ:居館
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赤岩城(群馬県千代田町) [古城めぐり(群馬)]

DSC06066.JPG←光恩寺の本堂裏の土塁
 赤岩城は、佐貫太郎資綱の子次郎太郎嗣綱が築いたと伝わる城である。その後、嗣綱の子文治四郎広嗣は青柳城を築いて移ったと言う。その後の城の歴史は不明である。
 赤岩城は、現在の光恩寺が城跡で、周囲に土塁や空堀跡が残っているほか、境内北東に城山と呼ばれる大きな前方後円墳があり、物見台としていたようである。基本的には光恩寺境内を中心とした単郭方形居館であったのだろう。城山の上には、佐貫氏の後裔で館林城を築いたと言われている赤井照光の墓がある。またこの城の南西数百mには赤岩の渡しがあり、永禄年間に上杉謙信が船橋を掛けて軍勢を率いて渡ったと伝わるので、おそらくはこの渡し場を押さえる為に築かれた城だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.26.33.7N36.12.18.2&ZM=9
タグ:居館
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大袋城(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06024.JPG←大袋城遠望
 大袋城は、館林城の前身で、1470年頃に関東管領山内上杉氏の家臣赤井氏が築いたと言う。享徳の乱の最中の1472年には、長尾景信・太田道灌らが攻囲70余日にして足利成氏方の赤井文三・文六を降したと言う。後に赤井照光が館林城を築いて移るまで、ここが館林の拠点であった。
 大袋城は、城沼に面した半島状に突き出した平地に築かれた城で、かつては土塁や堀跡が残っていたようであるが、現在はほとんどが民家となり遺構は完全に湮滅している。周囲の沼には釣り人が多く、ここがかつて城跡だったことを忘れさせる風景が広がっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.52.7N36.14.6.2&ZM=9
タグ:中世平城
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前橋城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02861.JPG←本丸の土塁
 前橋城は、室町・戦国時代には厩橋城と言い、戦国後期に上杉・北条・武田という三大強国の係争地帯となった上州の動乱の中心にあり続けた城である。

 蒼海城主総社長尾忠房は新たに石倉城を築いたが、利根川の氾濫により押し崩され、後に箕輪城主長野氏の一族、長野賢忠が崩れ残った残片を頼りに新城を築いたのが、厩橋城であると言う。以後、箕輪城の支城として機能したが、1551年に関東管領山内上杉憲政が小田原の北条氏康の圧迫を受けて越後に亡命すると、賢忠の子道安は北条氏に従い、北条氏家臣の福島頼季・師岡山城守らが進駐した。1560年、上杉謙信が越山して関東に進出すると、厩橋城の長野氏はこれに呼応し、謙信は厩橋城に本陣を置いて関東経略の前線拠点とした。関東管領職を譲り受けた謙信は、以後1578年に急死するまでの18年間に、厩橋城を前進基地として13回とも言われる関東出陣を行った。厩橋城代には、1563年に北条(きたじょう)高広を任命し、以後北条氏が厩橋を支配した。1578年に謙信が死去すると、後継を巡って御館の乱が勃発し、北条高広とその子景広は北条氏康の子で謙信の養子となっていた上杉三郎景虎に与した。しかし景勝方に敗れて景広は討死し、主君景虎は鮫ヶ尾城で自刃し、主家を失った高広は武田勝頼に従った。勝頼は、厩橋城を足掛かりに東上州に侵攻して膳城を陥とし、城主河田備前守を討ち取った。1582年に勝頼が織田信長に滅ぼされると、織田信長の武将・滝川一益が関東管領として厩橋城主となった。しかしそのわずか3ヵ月後に信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直は神流川の合戦で滝川一益を破ってこれを追い落とし、厩橋城は北条氏の支配下に入った。1590年の小田原の役では、北国勢に攻められて落城し、北条氏が滅んで関東に入部した徳川家康は、譜代の平岩親吉を厩橋城に封じた。関ヶ原合戦後は酒井重忠が厩橋城に入部した。

 徳川家の譜代の重臣酒井氏は、9代150年にわたって北関東の要である前橋城を支配した。この間に城は大改修されて近世城郭に生まれ変わり、名も厩橋城から前橋城と改められた。1749年に酒井氏は姫路城に移封となり、徳川家康の次男結城秀康の後裔松平朝矩が前橋城に入った。しかし前橋城は利根川による侵食が甚だしく、1767年に朝矩は川越城に移り、前橋城は取り壊されて陣屋となった。幕末になると不穏な国情から前橋城再築の必要が生じ、1863年に着工され、3年8ヵ月後の1867年に完成した。再築された前橋城は、旧三ノ丸を本丸とした渦郭式の縄張で、細部には西洋式の稜堡様式を取り入れた。城を取り巻く土塁の要所に砲台を設け、火砲の射程に合わせて「折」を延ばし、丸馬出しは規模を拡大し、大手の角馬出しは五稜郭のものに近似した構造とした。しかし完成を急いだ為、城門や建物は簡素なものだったと言う。そしてこのまま明治維新を迎えることとなった。

 このような複雑な歴史を持つ前橋城は、明治以降の市街化で本丸以外の遺構は壊滅してしまっている。現在本丸跡には群馬県庁が置かれ、その周囲には土塁だけがかつての雄姿を残している。この土塁は折れの部分の形状が角張っているが、これは幕末に改修された新しい土塁だからなのであろう。その他では本丸東側の大通り沿いに、前橋新城の車橋門の渡櫓の石垣がわずかに残っているのみである。本丸土塁が残っているだけ宇都宮城よりマシとは言うものの、かつて関東7名城の一に数えられた堂々たる城は、残念なことに時の彼方に消えてしまっている。
車橋門跡の石垣→DSC02886.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
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タグ:近世平城
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石倉城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02842.JPG←かつての外堀跡の道路
 石倉城は、1485年に上野守護代の蒼海城主総社長尾忠房の嫡子憲景が築城した城である。憲景は1512年の新井城の戦いで戦死し、三男長景が城主となった。1563年、武田信玄が西上野に進攻すると、長景は厩橋城の守りについたが、留守となった石倉城を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。1565年には越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還したものの、翌66年、再度信玄に攻め取られ、信玄の重臣で保渡田城主の内藤修理亮昌豊親子が城将を兼帯した。その後、昌豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条(きたじょう)丹後守高広に降り、その家臣寺尾左馬助(石倉治郎)がこれを守った。1590年の小田原の役では、松平修理太夫康国率いる徳川勢の進攻に対し、寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。康国はこの戦いで討死し、弟の松平新六郎が一千余騎で猛攻を掛け、左馬助以下残る城兵は城を枕に討死し、石倉城は落城したと言う。
 尚、この歴史は、現地の石碑に記されたものに拠ったが、日本城郭体系では1565年に信玄が築いた城とされ、小田原の役の際の落城の経緯も異なったものが書かれており、どちらが正しいのかは分からない。

 石倉城は、総社城などと同じく利根川西岸に築かれた崖端城で、利根川の浸食によりかつての本丸跡はかなり崩壊してしまっている。梯郭式に近い囲郭式の城で、本丸の周囲に二ノ丸があり、二ノ丸の西側外周を三ノ丸で囲んでいたようである。現在は市街化によって遺構は完全に湮滅し、わずかに二の丸公園や外堀公園にその名を残すだけである。しかし国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真によると、耕地の中に本丸や二ノ丸周囲の堀跡が見られ、最も明瞭に残っているのは外郭の外堀であった。現在の外堀公園東側に隣接する道路が、この外堀跡だったようだ。戦国後半の関東三国志の渦中の城も、今ではすっかり市街化の中に埋没してしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
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総社城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02821.JPG←櫓台が置かれた遠見山古墳
 総社城は、近世初期に秋元長朝が築いた平城である。秋元氏は元々、深谷上杉氏の三宿老の一人として活躍し、後には小田原北条氏の家臣となった。その事跡は秋元氏館の項に記す。1590年に北条氏が滅びると浪人となったが、後に井伊直政の推挙により徳川家康に仕えた。1601年に関ヶ原合戦の功績で総社に1万石で入部すると、長朝は蒼海城を放棄して新たに総社城を築いた。秋元氏は総社城に居る間に天狗岩用水などを開削し、新田開発に大きな足跡を残した。そして、2代泰朝の時、1633年に加増されて甲州谷村城に転封となり、以後総社城は廃城となった。
 総社城は、総郭南北780m、東西750mの同心円状の縄張りで、遠構えの西は天狗岩用水を大堀とし、各郭は濠と丸野面積みの石垣で被覆されていたと言う。しかし現在では、本丸と二ノ丸の半分は、利根川の浸食によって崩壊し、それ以外の曲輪も宅地化と耕地化によって遺構は完全に湮滅している。城域内に遠見山古墳が残るが、総社城の櫓台として使われたことからその名が付いたとされる。周囲にはほとんど城らしい痕跡は残っておらず、どこが城跡かかなり迷うほどである。よく見て回れば、あちこちに大手跡や木戸跡などの標識があるようだが、回る気力も起きず今回はパスした。

 お城評価(満点=五つ星):☆
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タグ:近世平城
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蒼海城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02811.JPG←本丸跡の土塁
 蒼海城は、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の本拠である。長尾氏と言えば、上杉謙信(長尾景虎)を輩出した越後長尾氏が有名であるが、これと同族である。長尾氏は足利氏の有力な姻族である上杉氏(足利尊氏の母清子の実家)の家臣として南北朝期より台頭した。足利直義の股肱の臣、上杉重能の家臣長尾景忠は、1337年に上野守護代となり、その4男忠房は総社を与えられて総社長尾氏の祖となった。忠房は、元々国府があったと思われる地を城塞化して、蒼海城とした。
 関東管領を世襲するようになった山内上杉氏の家宰には同族の白井長尾氏が就いていたが、1473年に長尾景信が亡くなると、山内上杉顕定は家宰に景信の嫡子景春ではなく、景信の弟で惣社長尾氏を継いだ忠景を任じた。これは顕定が白井長尾氏の勢力伸張を警戒したためとされる。これを不満とした景春によって、長尾景春の乱と呼ばれる大乱を招くことになった。
 戦国時代に入り、駿河から伊豆に入った伊勢宗瑞(北条早雲)が勃興して小田原北条氏を興し、2代氏綱が勢力を伸張させると、1524年ごろ総社長尾顕方は北条氏に通じた。しかし箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業に挟撃されて苦しみ、ついに長野氏に降って上杉方に復帰した。後に長野業政の計らいで総社長尾景房が白井長尾氏を継いだが、以後、総社長尾氏は全く衰え、1566年に蒼海城は武田信玄に攻略され、総社長尾氏は上杉謙信を頼って越後へと退去した。その後、蒼海城は荒廃した。
 1590年に北条氏が滅んで徳川家康が関東に入部すると、諏訪頼水が総社に入部した。しかし蒼海城は、国府跡に築かれた為か、地形に拘束された縦横列郭構造の不合理な城であったらしく、長尾景行の子忠房さえ放棄して石倉城を築城したほどで、諏訪氏も入城せず、諏訪氏が諏訪高島へ移ると、秋元長朝が入部したが、新たに総社城を築城して移り、蒼海城は廃城となった。

 蒼海城は現在はほとんど宅地化され、往時の地形を知ることはほとんど不可能である。しかし御霊神社が置かれた地はかつての土塁上と考えられ、その南東には本丸跡の土塁が残っている。中は畑になっているようだが周囲を民家で囲まれており、中を見ることはできないようだ。早くに失われた城の為、遺構がほとんど残っていないのも致し方ないところなのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
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保渡田城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02774.JPG←かつて本丸櫓台だった天子塚古墳
 保渡田城は、甲斐武田氏の重臣内藤昌豊が築いた平城である。1566年、武田信玄は西上州に侵攻し、最後まで抵抗を続けていた西上州の豪族長野氏を滅ぼして箕輪城を制圧し、西上州を手中に収めた。そして、内藤昌豊を箕輪城代としたが、昌豊は保渡田に新城を築き、そこに在城して西上州を支配した。長篠の戦いで多くの武田氏重臣と共に昌豊が討死すると、子の大和守昌月が跡を継いで保渡田城に居城したが、武田氏が滅び、更に織田信長が本能寺で横死して旧武田領が権力の空白地帯となると、北条・徳川両軍が旧武田領に侵攻し、両者の講和の結果、西上州は北条領となった。昌月もこの時北条に降ったと言われているが定かではない。以降の事跡は城共々不明である。
 保渡田城は、武田信玄の重臣内藤昌豊の城としては、いささか小さな城である。かつての城域はほとんど宅地に変貌している。しかしその遺構は断片的にではあるが、本丸周囲の土塁や堀跡のほか、北城と呼ばれる曲輪の土塁、堀跡が比較的明瞭に残っている。本丸南側には天子塚古墳があるが、櫓台として使われたようである。武田氏特有の丸馬出しも見られず、縄張も比較的平凡なので、その規模からしても、おそらく居館としての機能を主とした城だったと思われる。もう少し遺構が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
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北新波砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02744.JPG←横矢の掛かった土塁と空堀
 北新波砦は、西上州の豪族長野氏の築いた砦である。この長野郷は長野氏の発祥の地で古くから勢力を持ち、箕輪城周辺に多くの砦を築いて、武士団を統率していたと考えられる。その数なんと23もの環濠遺跡群が確認されており、北新波砦もその一つである。その歴史は定かではないが、武田信玄の西上州侵攻における箕輪城落城の際に殉死した新波新左衛門が、砦の将とも伝えられている。
 北新波砦は、平地に築かれた小さな砦であるが、ほぼ方形に土塁と空堀を廻らした遺構が良好に残っている。南側には出枡形状の突出部があり、突出部のすぐ横にある南に開いた大手虎口を防御していたものと考えられる。大手虎口は土橋で郭外に通じていたようである。また南東に隣接する満勝寺にも土塁と堀跡が残り、複郭の砦であったようだ。小さいながらもこうした遺構が公園化されて良く保存されていることは、非常に喜ばしいことだと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.58.25.3N36.21.44.5&ZM=9
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北城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02725.JPG←畑の中に残る外堀跡
 北城は、北爪の砦とも呼ばれ、関東管領山内上杉氏の麾下で勇名を馳せた西上州の豪族長野氏の拠る箕輪城の直衛支城であった。1560年頃に築かれたとされ、守将の北爪土佐守は、武田信玄の西上州侵攻の際、箕輪城で戦って討死した。箕輪城の落城で長野氏は滅亡し、それに伴って北城は廃城になったと思われる。
 北城は、二重の堀で囲まれた、ほぼ方形の環郭式の平城であった。現在は城の中央を南北に道路が貫通し、城内は宅地や畑に変貌している。主郭はうどん屋さんのある辺りである。城域の西半分は遺構が比較的明瞭で、畑の中にわずかに堀跡が残っている。東半分は民家が並び、その痕跡すら失われている。日本城郭体系によれば、かつては虎口も明瞭であったようだが、今ではほとんど分からない。しかし、地元の人にはここが城跡であったことがしっかりと伝えられているようだった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
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高崎城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02677.JPG←南側の高土塁
 高崎城は、徳川家康の重臣井伊直政が築いた近世城郭である。元々この地には、鎌倉時代に和田正信が築いた和田城があった。和田氏は、室町時代には上野守護も兼帯した関東管領山内上杉氏に従い、小田原北条氏によって山内上杉氏が越後に追われると、甲斐武田氏に臣従。その後、武田氏が滅びると北条氏に従ったが、1590年の小田原の役で北国勢の大軍に降り、廃城となった。北条氏滅亡後、関東に入部した徳川家康は、1598年に中山道が開通して碓氷峠の戦略的重要性が増すと、同年、これを押さえる拠点として井伊直政に命じて、和田城の故地に高崎城を新たに築かせた。直政はその後、関ヶ原の戦功によって在城わずか2年半で近江佐和山に移ると、蒼海城主諏訪頼水が5年間所管するなど城主の幾多の変遷を経て、高崎藩主の居城として幕末まで存続した。

 高崎城は烏側東岸に築かれた城で、明治期に他の多くの城と同様、城内に陸軍の兵舎が置かれたため、城内の遺構は隠滅している。しかし三ノ丸周囲の土塁と水堀が、ほぼ全周にわたって見事に残っている。この土塁と水堀は、最外郭に当たる為か、1ヶ所突出部を設けるほかはほとんど直線的に配置されている。土塁は一様な高さではなく、南側の方が高くなって規模も大きく、5m程の高さがあって見応えがある。それ以外では、本丸に4つあった隅櫓の内、乾櫓だけが現存し、三ノ丸土塁上に移築されている。市街化によって往時の面影はかなり失われているものの、外郭だけが見事に残る近世城郭である。

 尚、城の西に架かる和田橋のたもとに和田城の唯一の遺構の櫓台土塁が残っているそうだが、今回は見逃してしまった。いずれ再訪してみたい。

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
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倉賀野城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02618.JPG←住宅地の中に残る堀跡
 倉賀野城は、武蔵七党児玉党に属する倉賀野氏の居城である。倉賀野氏は、治承年間に秩父三郎高俊がこの地に入部して倉賀野氏を称したのに始まり、南北朝時代に倉賀野頼行が倉賀野城を築いたと言う。倉賀野氏は結城合戦以降、関東管領山内上杉氏に従い、戦国関東の重要な画期となった河越夜戦の際にも山内上杉憲政に従ったが、倉賀野行政は乱戦の中で討ち死にした。行政の死後、倉賀野十六騎と呼ばれる重臣達が幼主を助けて倉賀野城を守った。しかし倉賀野衆内部には内紛分裂があったようで、1559年秋、倉賀野十六騎の内、金井秀景が武田信玄に従ったと言う。1560年、小田原北条氏に追われて越後に逃れた上杉憲政の請いを受け、長尾景虎(後の上杉謙信)が越後から関東に出馬すると、倉賀野左衛門五郎尚行はこれに従って小田原城まで遠征し、一方、その後巻き返しに出た北条・武田両軍は倉賀野城を攻撃した。尚行は橋爪若狭守に助けられて敵を撃退したが、1565年には武田信玄の西上州侵攻によって、箕輪城に先立って遂に落城した。以後、倉賀野城は甲斐武田氏の持ち城となり、1570年には金井秀景が倉賀野城主となって、倉賀野淡路守秀景と名乗った。1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされると、秀景は厩橋城に進出した織田信長の家臣、滝川一益に従った。本能寺の変で信長が横死すると、上野に侵攻した北条氏直は神流川合戦で一益を破り、一益は残兵を倉賀野城に収容した後、伊勢に逃げ帰った。その結果、倉賀野城は北条氏の手中に帰し、以後、秀景は北条氏直に従い、倉賀野城には垪和伯耆守が駐留して北武蔵と上野の国務に当たった。1590年の小田原の役では、秀景は小田原城に籠城し、倉賀野城は北国勢の大軍の前に降伏開城し、以後廃城となった。

 倉賀野城は烏川北岸に望む断崖上に築かれた城で、かつては幾重にも外堀を廻らした広い城であった。三ノ丸北側には丸馬出しもあったようで、おそらく武田氏によって改修されたものであろう。しかし現在では市街化によってほとんど湮滅し、往時の姿を想像することは難しい。しかしよく歩いてみると、住宅地の合間にかつての堀の名残が残っていて、ここが城であったことをわずかに伝えている。尚、現地に掲げられている縄張図に拠れば、西の林西寺周辺には西城と呼ばれる出城があったようである。しかし、ここも遺構はほとんど確認できなかった。かつては関東三国志の争奪の只中の城であったが、時の彼方に消えてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.2.51.9N36.17.27.8&ZM=9
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館林城 その2(群馬県館林市) [古城めぐり(群馬)]

DSC09283.JPG←加法師町交差点の南の土塁と堀
 正月明けてから、城の再訪が続く。今回は、実家に行った帰りに寄った館林城
 年末に会社が休みに入ってから、国土変遷アーカイブをじっくりと見る機会ができたので、GoogleやYahooで表示される現在の航空写真と比べてみると、街中の城でも結構遺構が残っていることがわかった。館林城もその一つ。
 以前に行った時は、加法師町交差点の横と館林一中の周りの土塁を見たが、それ以外の部分でも土塁と堀跡が2ヶ所残っていた。一つは加法師町交差点から南に150mほど離れたところにある加法師曲輪遺構。もう一つは朝日町交差点の80mほど南の城町地区内の外曲輪遺構。どちらも薮化が激しく中に入るのが一苦労だが、高さ2~3mの土塁とその前面の堀跡がしっかりと残っている。特に後者の方は200m程の長さにわたって土塁が残り、なかなか見事なものである。ただ、東の方は宅地開発中らしく、重機で土塁が崩され始めているところだった。このまま行けば数年でこの土塁遺構は消え失せてしまうかもしれない。大変残念なことではあるが、街中の近世平城の宿命であろうか?
 なお、どちらも思いっきり住宅街の中なので、見に行く方は不審者に間違われないよう注意して欲しい。
朝日町交差点の南の土塁と堀跡 →DSC09306.JPG

 場所:
 加法師町交差点の南:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.8.9N36.14.45.0&ZM=9
 朝日町交差点の南:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.32.42.5N36.14.47.9&ZM=9

金山城 その2(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSC09193.JPG←八王子山の横堀
 金山城には以前行っているが、本城以外にまだ見逃している遺構があったため、今年の正月に再訪した。今回訪れたのは、比丘尼坂筋違門、北八王子山矢倉台、中八王子山矢倉台、大手門の各遺構である。
 比丘尼坂筋違門は、東の山麓から山道を登ってくると到達する。ここへは、大八王子山矢倉台から石塁と空堀が到達して、筋違い虎口を形成していたようであるが、終戦後の失業対策で遺構を壊して切通しとし、車道を通したという。現在では土塁の残欠らしきものはあるが、遺構かどうかよくわからない。
 北八王子山矢倉台は、この比丘尼坂筋違門から登山道が伸びており、それに従って登っていくと到達する。遺構としては大したものではなく、ちょっとした平場があるぐらいである。しかし重要なのはここからである。この北八王子山から中八王子山まで横堀が尾根筋に沿って伸びているのが明瞭に残っているのである。この横堀は、中八王子山まで来るとY字状に分岐して矢倉台南側を取り巻くようにして防御している。中八王子山矢倉台は数段の平場から構成されており、切岸の一部には石垣の跡と思われる石積みもわずかではあるが散見される。現地解説板では埋門跡があったということだが、確認できなかった。
 この八王子山から北の本城との間の谷間に向かって、石塁が竪土塁のように伸びている。
 大手門跡には竪土塁(実際は石塁らしいが確認できなかった)とその北側に「桜の井戸」と呼ばれる井戸跡が残っている。
 なお、現在大手門跡付近の平地に、城址資料館を建設中である。
竪土塁状の石塁→DSC09177.JPG

 場所:
 比丘尼坂筋違門:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.59.8N36.18.38.3&ZM=9
 中八王子山矢倉台:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.49.0N36.18.30.4&ZM=9
 大手門:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.22.42.5N36.18.33.4&ZM=9
 

大胡氏館(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07391.JPG←養林寺境内に残る堀と土塁
 大胡氏館は、大胡城から西に200m程のところにある。現在の養林寺がその跡とされ、大胡氏の初期の居館があったとされている。浄土宗の開祖法然と親交のあった大胡太郎実秀は、ここに居を構えていたという。境内の北と西周囲には土塁と堀跡が残っている。おそらくは単郭の方形居館であったのだろう。
 なお境内には、徳川将軍5代の供養塔と大胡城主牧野康成の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.9.33.7N36.25.2.3&ZM=9
タグ:居館

大胡城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07323.JPG←本丸の土塁と空堀と土橋
 大胡城は、平将門討伐で功を挙げた鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利氏の庶流大胡氏の築いた城である。足利成行の重俊が勢多郡大胡に入部して大胡氏を称した。大胡氏は源平の争乱時には源頼朝に従って功を挙げたが、南北朝期から室町時代にかけての時期に惣領家は滅び、その一族が存続し続けた。戦国期に入ると関東管領上杉氏に従っていたが、河越夜戦で小田原北条氏が一気に南関東の覇権を握った後、大胡勝行は由良氏の圧迫を受けて北条氏に下り、江戸牛込に移り住んで以後牛込氏と称した。(→牛込城参照)その後、越後の上杉謙信が上野に進出してくると、大胡城に北条高広を入れた。謙信の死後、高広は武田勝頼に下り、更に勝頼が織田信長に滅ぼされると、最終的には小田原北条氏に従った。1590年に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、関東には徳川家康が入部し、大胡城には牧野康成が2万石で入った。1616年に牧野氏が移封になると廃城となった。

 大胡城は荒砥川沿いの台地上に築かれた、この地方に多い丘城である。山上城などと同じく、南北に長く曲輪を連ねている。各曲輪は堀で分断されており、城のちょうど中央の最高所に本丸を置く。本丸は周囲の二ノ丸より5m程高くそびえていて、その周囲に空堀で防御している。本丸内の外周には比高の高い土塁が取り巻いている。本丸東側は絶壁となっている。本丸と二ノ丸は公園化されていて、遺構もほぼそのまま残っている。二ノ丸内には枡形虎口の石垣も残る。二ノ丸から西に下っていくと、玉蔵院跡という平場があり、その外側に外堀(小川)が残っている。本丸から深い堀(小川)を挟んで北にある北城には現在大胡幼稚園が置かれている。かつてはこの敷地の中に、堀で区画された馬出しがあったらしい。更にその北には幅の広い堀を挟んで近戸郭があるが、堀底には道路が通り、郭内には大胡神社が鎮座する。一方、二ノ丸の南には深い堀(小川)を挟んで三ノ丸があるが、テニスコートに変貌している。更にその南の南郭には前橋市役所大胡支所が置かれており、かつての面影はない。城の東側の平地部はかつての根小屋で、地名としても残っており、牧野氏の時代に家臣団の屋敷地として整備されたのであろう。

 市街化で当時の面影が失せている部分も多いが、周囲の堀跡など全体に遺構は良く残っていて、とくに本丸周辺の遺構は一見の価値がある。現在でも十分要害性を感じることのできる、良好な遺構である。
本丸と北城の間の堀跡→DSC07320.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.9.44.4N36.24.59.0&ZM=9
タグ:中世平山城

山上城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07231.JPG←北曲輪西側の堀と土塁
 山上城は、藤沢川と山田川という小河川に挟まれた台地上に築かれた、いわゆる丘城である。鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利成行の孫の五郎高綱がこの地に入封して山上氏を称し、この城を築城したといわれる。高綱の子太郎高光は源頼朝に仕えた。その後も山上氏は勢力を維持し、室町時代に上杉氏が関東管領となっていた頃には、由良氏・薗田氏・桐生氏などとともに東上州の四家として重きをなしたと言う。その後、戦国後期になると、山上城は膳城などと共に北条・上杉・武田3氏による争奪の舞台となり、天正18年の北条氏滅亡に伴って廃城となったという。このことから最終的には北条氏の勢力下に入っていたようである。
 山上城は近くにある膳城とほとんど同じような立地条件にある。この地域の城は、おおむね上毛電鉄の線路を境に北側は丘城、南側は平城と、立地条件が変わるという。殊に山上城は南北に長い台地上にあるため、南北に曲輪が連なり、防御の弱くなる東西側面を腰曲輪を築いて防御性増強を図っている。現在城跡公園となっているが、完全公園化しているのは三ノ丸だけで、それより北の曲輪はほぼ原状維持されているようだ。本丸は城内最高所に置かれ、周囲を空堀と帯曲輪で防御されている。二ノ丸とは堀も介さず連続しているのだが、面白いのは西側だけ二ノ丸との間に堀を設けていることである。北曲輪は最も防御が厳重で、東以外の三方に空堀を設け、更にその先に土塁や笹曲輪を作って防御性を高めている。二ノ丸と三ノ丸の間は空堀で分断し、三ノ丸は広大で、現在一面の芝生公園となっている。三ノ丸の南側は低地となっていて畑や宅地となっているが、ここからは近年武田氏系城郭の特徴である丸馬出しが発見された。笹曲輪から三ノ丸までの西側には数百mに及ぶ長い土塁と空堀が構築され、本丸より北では土塁と空堀は二重となっていて厳重に防御している。西側にここまで徹底的な防御施設を構築しているのは、東側は眼下に藤沢川が迫って天然の外堀となっているのに対して、西側は平坦な地形が続き防御が弱かったからであろう。このほかに更に南側にも櫓台跡とされる高台が残っている。
 膳城とは近く立地条件も似ているが、全体に城の構築思想は大きく異なっており、あまり技巧性のない縄張りである。城域は広く、多数の兵員を置くことのできる軍事駐屯地だったようである。遺構は非常に良く残っており、ほぼ全ての縄張りが復元可能なレベルで一見の価値がある。
本丸・二ノ丸と東側の帯曲輪→DSC07250.JPG
DSC07237.JPG←西側の長大な堀と土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.51.8N36.25.30.3&ZM=9
タグ:中世平山城

膳城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07129.JPG←複雑に横矢の掛かる堀
 膳城は、2本の小河川に挟まれた台地上に築かれた城である。この地域に多い、いわゆる丘城である。築城年代は定かではないが、膳氏の居城であったのではないかといわれている。膳氏は悲しい歴史の一族で、周辺土豪との争いで何度も城を落とされて逃亡し、20年近く桐生氏に奪われていたこともあった。最終的には1572年に由良氏に攻められて城を落ち延び、以後城に戻ることはなかった。その後、上州を舞台に繰り広げられた北条、上杉、武田という強豪3氏による関東三国志の中で城主は変遷する。その中で城も整備拡張され、規模の大きい城となった。
 膳城で有名なのは1580年の武田勝頼による膳城素肌攻めである。すなわち、東上州を攻略しつつあった武田勝頼は家臣と平服で巡行していたところ、酒に酔って喧嘩を始めた城兵がこの一行に襲い掛かり、怒った勝頼一行はそのまま甲冑を着けずに城を攻め落としたというのである。伝承の域を出ないが、勝頼の剛勇ぶりを良く伝える逸話である。名門武田家を滅ぼしたことでとかく評価の低い勝頼であるが、武将としてはやはり傑出していたのだろう。
 城は現在本丸とその周囲のみが公園化されて残り、それ以外は宅地化されてしまっているが、この本丸周辺だけでも見ごたえがある。公園化といっても、変な改変の手を加えることなく原状維持と散策路案内を主眼としているので、史跡保存の見本としたいレベルである。各曲輪は複雑に横矢を掛け、堀は屈曲しながら曲輪間を分断し、土塁や櫓台、土橋も明瞭に残っている。道路から土橋を渡るとすぐ本丸になるが、本丸の四周は空堀で防御されている。本丸東側は馬出しだったようである。本丸西側には二ノ丸などの曲輪が続き、本丸南側には大きな櫓台を伴った三ノ丸がある。また本丸から道を挟んで東側にも堀跡の一部が残っているがこれは前述の馬出しの遺構であろう。とにかく素晴らしい遺構群で、とても言葉で伝えられるものではない。この地域の軍事的緊張感をまざまざと見せ付けられる見事な遺構である。すぐ近くの山上城などと比べると、かなり高度な縄張りであるので、地域防衛の重要拠点となっていたのではないだろうか?後でGoogleMapの航空写真などで調べると、大手虎口跡なども民家の裏に残っているようなので、もう一度再訪したい。
道の反対側にも堀跡が残る→DSC07146.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.13.33.8N36.25.6.1&ZM=9

中村城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07058.JPG←主郭北側の堀と土橋
 中村城は、方形居館跡と考えられる城址である。歴史的由来は定かでなく築城者は伝承で中村右馬之丞とされるだけで、古文書や発掘調査でも城の来歴を示すようなものは見つからず、よくわからないようだ。
 水田の広がる平野の真っ只中にある平城で、現在は北と西側の土塁と空堀だけが残っている。北側の堀には虎口の土橋跡が見られる。西側の土塁は単純な直線形ではなく、南端で主郭側に大きく曲がりこんでいる。これは搦め手虎口の跡であるらしい。主郭跡は現在民家になっているので、外回りから眺めるだけである。南側に民家に入る道が伸びているが、これはかつての大手道の跡であるらしい。ちょっと道が屈曲しているところが、大手虎口の跡と考えられる。主郭南には一段低く南曲輪が、北にも狭い帯状の北曲輪があったというので、単なる単郭の居館ではなかったようだ。
 遺構はよく残っているが、歴史が定かでないので何とも感想を言いかねる城である。おまけに場所がメチャクチャわかりにくい。もっと案内板を整備してもらえればと思う。

 お城評価:☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.12.56.9N36.25.18.1&ZM=9
タグ:居館

女渕城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07004.JPG←池(水堀)に面した曲輪
 女渕城は、水堀を多用した平城である。誰がいつ城を築いたかは定かではないが、足利直義(将軍尊氏の弟)の名と共に古文書に城の名が登場するらしい。北条・上杉・武田による関東三国志の動乱の中で、幾多の城主の変遷を迎えた。最終的には武田氏滅亡後、小田原北条氏が南上野を領国化して北爪氏をこの城に配したが、天正18年の北条氏滅亡に伴って廃城となった。
 女渕城の西に隣接して大きな貯水池が残るが、これは当時からのものであり、その広さから考えて人工のものではなく、もともとこの地にあった池をうまく縄張りに組み入れたものであろう。城は連郭式の縄張りで、南北に連なる4つの曲輪(北から北曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸)と池を挟んで西曲輪の計5つの曲輪から構成されていたようである。現在は公園・畑・宅地および御霊神社境内となっている。かなり改変を受けてはいるが、往時の縄張りはほぼ追うことができる。水堀も一部は埋め立てられているが、その形状を残している部分が多く、二ノ丸南の道路も元は二ノ丸と三ノ丸を分断する水堀跡だったようである。道路際に三ノ丸の土塁跡も残っている。残念なのは、三ノ丸西の池が全て埋め立てられて公園になってしまっていたことである。また本丸などの池に面した切岸が護岸工事でコンクリートに変貌しているが、これはやむを得ないところであろう。当時の縄張りをほぼすべて追うことのできる、数少ない貴重な街中の平城である。
北曲輪の堀跡、→DSC07021.JPG
    ここが一番城跡らしく見える
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.12.19.4N36.24.37.3&ZM=9

大室城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC06982.JPG←二ノ丸周囲の水堀
 大室城は、もともとこの地の土豪の大室氏が12世紀末頃まで構えた城であったが、この頃は北西500mほどの場所にあったという。室町時代には現在の地に新たに現在の地に築城され、白井長尾氏に属して家臣の牧弾正の居城となった。時代が下って1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が覇権を握ると、1601年に酒井氏が前橋城に入封し、家臣の石川氏がこの城を守った。1749年に酒井氏が姫路に移ると石川氏もそれに従い、城の管理を最善寺に任せたという。
 大室城は、東神沢川沿いの台地上に築かれた平城で、本丸には大室神社が、二ノ丸には公民館が置かれている。本丸と二ノ丸は東西に並んでおり、二ノ丸は周囲より一段高く、本丸はそれより更に一段高くなっている。本丸にはそれほどの広さがないので、城主の館は二ノ丸にあったものと思われる。二ノ丸の南北と東の三面には土塁と水堀が残り、よく整備されている。本丸北には堀跡の道を挟んで馬出し状の高台が、また西側にも堀を挟んで土塁が残っている。現地解説板の縄張図では、更に北曲輪・南曲輪があり、城下町を取り込んだ総郭になっていたようだが、現在では宅地化で湮滅している。全体に小規模ながら、よく城跡らしい雰囲気を残している。
 群馬県民は、赤堀城など中小土豪の作った小さい城ながら、市街化で破壊しつくすことなくどれもよく遺構を保存し、丁寧に解説板まで整備している。素晴らしいことだと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.11.23.4N36.22.59.6&ZM=9
タグ:中世平城
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