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東金御殿(千葉県東金市) [その他の史跡巡り]

IMG_2570.JPG←御殿跡の現況
 東金御殿は、徳川家康の鷹狩りの際の宿泊施設である。家康は、江戸開府後、関東各地で鷹狩を行い、その際に御殿建設を命じたが、東金御殿もその一つである。家康の命を受けた佐倉城主土井利勝が、1613年から翌年にかけて東金代官嶋田次右兵衛尉重次伊栢を造営に当たらせたもので、東金辺で鷹狩りを行なう将軍(大御所)の宿泊施設であった。しかし1630年の大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行なわれず、1671年に東金が幕府直轄地から福島の板倉藩領となった際に、御殿は取り壊されたと言う。
 東金御殿は、現在の県立東金高校の敷地にあった。ここはかつての東金城の東麓に当たる。周辺は市街化が進み、遺構は全く残っておらず、解説板が建つだけである。尚、小西城下の正法寺には、東金御殿の御殿建築の一部が移築され、講堂となって残っている。
正法寺に残る御殿建築→IMG_2467.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.560063&lon=140.356481&z=16&did=std&crs=1
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発坂峠古戦場本陣跡(千葉県いすみ市) [その他の史跡巡り]

IMG_6953.JPG
 発坂峠古戦場は、万喜城主土岐頼春が押し寄せた安房里見氏の軍勢を撃ち破った古戦場である。戦国末期の1589年、それまでの度々の万喜城攻撃に失敗してきた里見義康は、またしても万喜城攻撃に軍勢を派遣した。安西遠江守が大手から、山川豊前守が搦手から攻撃し、正木頼忠が後詰となった。里見勢は、別働隊300人を坂水寺・発坂峠経由で東から背後に回り込ませて、前線に出張った頼春を挟撃しようと目論んだ。しかし武略に優れる頼春は、農民からの注進で里見軍の動きを察知し、旗立山に陣を移し、発坂峠に伏兵を配置して待ち伏せし、里見勢を撃破大勝したと言う。

 発坂峠古戦場は、国道465号線沿いにあり、閉鎖された旧道トンネルの手前に小さな神社と「発坂峠古戦場本陣跡」と刻まれた石碑が建っている。ここから50m程の高さを登れば旗立山に至り、そこにも石碑や解説板がある様だが、訪問した時はもう日没間近で登ることはできなかった。1589年と言えば小田原の役の前年で、豊臣秀吉と小田原北条氏の軍事的緊張が極度に高まっていた時期である。発坂峠の戦いは、歴史の本流からは外れた、房総半島の一角での局地戦に過ぎないが、土岐頼春の武名を遥か後世にまで轟かせる戦いとなった。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.266844&lon=140.367413&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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犬掛古戦場(千葉県南房総市) [その他の史跡巡り]

IMG_4198.JPG←古戦場の碑と解説板
 犬掛古戦場は、安房里見氏の内乱「天文の内訌」の古戦場である。伝承では、1518年に里見義通が病没すると、その嫡子義豊がまだ幼かったため、弟の実堯が後見役となって家中を取り仕切った。その後、義豊が元服しても実堯は国を譲らず、1533年、義豊は叔父実堯を稲村城に攻め滅ぼした。しかし翌34年、今度は実堯の嫡子義堯は小田原の北条氏綱の支援を得て、父の仇である義豊を犬掛に攻め破り、討ち滅ぼしたとされる。これによって里見氏の家督は、庶流の義堯の系統に移り、これ以後を後期里見氏とも称する。
 但し、近年ではこの伝承に異説が出て有力視されているらしい。いずれにしてもこの内乱の実態は、義豊を支援する小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・真里谷武田氏と、扇谷上杉氏と熾烈な抗争を続けて義堯を支援した北条氏綱との代理戦争であったと考えられている。

 犬掛の戦いは、里見氏の支城滝田城里見番所の間に広がる平久里川の氾濫原で行われた。東の山裾には古い小さな「古戦場」と刻まれた石碑と解説板が建てられている。また、その北東100m程の所には里見義通・義豊父子の墓が建っている。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.078737&lon=139.903401&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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三船山古戦場(千葉県君津市) [その他の史跡巡り]

IMG_3118.JPG←山頂部の砦跡
 三船山古戦場は、小田原北条氏と安房里見氏の間で戦われた古戦場である。1564年、第二次国府台合戦で里見氏を撃ち破った北条氏は、勝浦正木氏や東金酒井氏らを従属させ、上総侵攻の機会を伺っていた。1567年、上総の重要拠点で里見義弘の本拠でもあった佐貫城を攻略する為、三船山に砦を築いて藤沢播磨守・田中美作守らに守らせた。一方、体勢を立て直した里見氏は、佐貫城防衛の為逆襲に転じ、三船山砦に攻め寄せた。急報を受けた北条氏政は小田原城を出立して江戸湾を渡海し、三船山砦に本陣を敷いた。里見方は正木時茂の養子憲時率いる8000余騎の本隊が佐貫城から出陣して三船山の北条勢に突撃した。激戦の中、時茂率いる里見方別働隊が北条勢を背後から急襲し、挟撃された北条勢は一気に劣勢に陥り、殿を務めた岩槻城主太田氏資が討死して北条氏は大敗を喫した。この敗北によって、北条氏の両総攻略は一大蹉跌を余儀なくされ、一旦従属した国衆は再び離反した。一方、追い込まれていた里見氏は勢いを盛り返し、下総に侵攻するなど1576年の北条氏との和睦まで優勢を保つこととなった。

 三船山古戦場は、標高138.7mの三船山一帯で戦われた。この山の山頂部は広くなだらかな丘陵地となっており、それほど標高は高くないが眺望に優れ、東京湾一帯が一望できる。大軍を駐屯させるには便利であろうが、地形的な要害性はそれほどなく、また現在でも複数のハイキング路が整備されているので、攻め寄せやすい地勢だったものと思われる。山頂部には「三船山陣跡」の標柱・解説板が設置され、そこからやや東に離れた場所に、大きな塚が3つ築かれている。これはこの戦いで戦死した北条方の将兵を弔ったものらしい。ハイキングに適した、房総半島の戦国史の転機となった古戦場である。
山頂に残る塚→IMG_3124.JPG

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.30034&lon=139.894332&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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武田勝頼滅亡地(山梨県甲州市) [その他の史跡巡り]

DSC08301.JPG←景徳院に残る勝頼達の墓
 武田勝頼は、武田信玄の4男で、信玄死後の武田氏を率いた。「率いた」と言うのは、家督は継いでいなかった可能性があるからである。信玄が今際の際に家督を継がせたのは、孫に当たる勝頼の子信勝で、勝頼は信勝が元服するまでの後見に過ぎなかったという説がある。それは「勝頼」の名乗りから見ても説得力がある。「頼」の字は勝頼の母方諏訪氏の通字で、甲斐武田氏の通字「信」は使っていないからである。そうした微妙な立場上からの劣等感があったのか、勝頼は父信玄の喪が明けてから、積極的な外征策に転じる。戦巧者の信玄でさえ落とせなかったとされる遠江の要衝高天神城を落とし、西へ西へと兵を進めた。しかし1576年、長篠設楽ヶ原で織田・徳川連合軍を強攻して致命的な大敗を喫し、信玄以来の多くの重臣を失い、武田氏の勢力拡張は終わりを告げた。1578年の越後上杉氏の内乱「御館の乱」では、景勝・景虎両者の和睦仲介に失敗し、景勝と和睦したことで景虎の敗北を招いた。景虎は北条氏政の実弟であったため、景虎の滅亡により小田原北条氏との同盟関係は破綻し、勝頼は上杉氏との同盟を結んだ。一方の北条氏は、西の徳川家康と同盟し、駿河・遠江において武田領を東西から挟撃する態勢を取った。勝頼は、戦場では勇猛な武将であったが、政略は稚拙であったらしい。殊に北条・徳川からの挟撃を許した外交の失敗は、武田氏の命運に深刻な事態をもたらした。西から徳川が攻めてくれば出撃してこれを撃退したが、すると今後は東から北条が攻めてくる。結局字義通り東奔西走して両軍を追い払うのに手一杯となり、国内は疲弊するばかりとなった。そして1582年、木曽義昌の武田氏からの離反をきっかけとして、織田軍による甲州征伐が開始された。信長の嫡子信忠と滝川一益を先鋒とした織田軍は伊那谷を進撃し、徹底抗戦した高遠城を除いて武田方は総崩れとなった。勝頼は領国の崩壊を前に軍議を開き、新たに居城としたばかりの新府城を自焼し、小山田信茂の岩殿城に落ち延びることに決した。しかし笹子峠まで来た所で信茂の裏切りを知り、やむなく天目山に籠もって最後の防戦をすることとなった。この時の勝頼主従は、わずか50名ほどであったと言われる。しかし田野で滝川一益の軍勢に捕捉され、秋山紀伊守光継・阿部加賀守・小宮山内膳正友信・土屋惣蔵昌恒らが迫り来る織田軍を激闘して防ぐ中、勝頼とその妻北条夫人、嫡子信勝は田野で自刃し、ここに新羅三郎義光以来の源氏の名門甲斐武田氏は滅亡した。

 ぶどうの産地として有名な勝沼より東、国道20号線から県道218号線にかけて、勝頼の最後の足跡が点々と記されている。勝頼主従が投宿し、縁者の理慶尼がその最後の有り様を語り継いだとされる大善寺や、四郎作古戦場・鳥居畑古戦場・土屋惣蔵片手切などである。そして景徳院には勝頼・北条夫人・信勝の墓があり、その遺骸を葬った場所に建てられた没頭地蔵や、自刃した生害石が残っている。これらの点在する史跡を西から辿ると、勝頼主従が徐々に山間の地に追い詰められていったことがよくわかり、いやが上にも滅亡の悲劇性が増してくる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.641202/138.803469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
     (景徳院)
タグ:墓所
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浦添ようどれ(沖縄県浦添市) [その他の史跡巡り]

DSC05528.JPG←陵墓の復元石垣
 浦添ようどれは、琉球王国中山王の陵墓である。英祖王統の初代英祖王が1261年に築いたと言われ(但し英祖王統はまだ実在が確定していない)、1620年に尚寧王が修築して、英祖王墓の傍らに尚寧王自身と尚寧一族の陵墓を築いた。尚、「ようどれ」とは夕凪の意味である。
 浦添ようどれは、浦添城の北側の山腹に築かれている。琉球風の、角部が弧を描いた総石垣の壮麗な陵墓であったが、沖縄戦で徹底的な破壊を受け、岩盤まで破壊されるほどの被害を受けたが、近年往時の姿に再建復元された。本土の陵墓や石垣技術と比べると明らかに異質なもので、現在は日本国として一括りにまとめられている沖縄が、かつては完全に独自の文明を花開かせていたことが、浦添ようどれを見るとよく分かる。墓室は横穴式で、内部も石造りにしており、英祖王陵である西室の内部は、付近にある「浦添グスク・ようどれ館」に復元されており、見ることができる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.247986/127.731010/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:墓所
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梶原塚(静岡県静岡市葵区) [その他の史跡巡り]

DSC05115.JPG←山頂の梶原塚
 梶原塚は、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時終焉の地である。景時の事績については梶原景時館の項に記載する。1199年、2代将軍頼家の時、鎌倉の御家人衆から弾劾されて鎌倉を追放された景時は、翌年1月再起を期して一族を率い上洛の途に就いた。しかし清美ヶ関付近で鎌倉の命を受けた駿河の武士達に発見されて合戦となった。一族家臣33人は死力を尽くして戦ったが次第に討ち取られ、最後を覚悟した景時とその子景季、景高の3人は、牛ヶ谷の山(現在の梶原山)の山頂を目指して登っていった。そして、湧き水で顔を洗い、喉を潤し、鬢のほつれを直して身を整え、山頂で自害して果てたと言う。
 現在梶原山の山頂は公園化され、景時親子を供養した塚が建ち、地元で梶原塚と呼ばれている。また「梶原景時終焉之地」と刻まれた立派な石碑も建てられている。山頂からは駿河湾が一望できる景勝地で、その無念さとは裏腹に良い死に場所を得たのだと、わずかながら心慰められる。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.023267/138.431500/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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一言坂古戦場(静岡県磐田市) [その他の史跡巡り]

DSC05027.JPG←一言坂の旧道
 一言坂古戦場は、遠江に侵攻した武田軍と徳川軍との間で戦われた戦いである。1572年、室町幕府将軍足利義昭の要請に応えて西上作戦を開始した武田信玄は、信濃から青崩峠を越えて遠江に侵攻した。天竜川沿いに南下した信玄の本軍は、途中徳川方から寝返った犬居城主天野景貫の先導を得て天方城などを降しつつ南下を続けた。一方、浜松城の徳川家康は寡兵であったが、遠江の動揺を恐れて出陣した。徳川軍は武田軍と遭遇し、三箇野川で戦いとなったが敗れ、浜松城へと敗走したが、一言坂で追いつかれた。この時、本軍を逃すため殿として本多平八郎忠勝と大久保忠佐が残り、武田軍と再び干戈を交えた。忠勝は、「蜻蛉切り」と言われた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ草に火をかけて敵を撹乱し、味方の軍を見事に退却させた。敵の武田軍も、その見事な戦いぶりを讃え、「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭に 本多平八」という落首を磐田市国府台に掲げたと言う。
 一言坂は、現在でも国道1号線が通る交通の要地で、旧道は1号線より50m程北に通っているが、1号線沿いの坂の途中に石碑と解説板が建っている。頻繁に車が行き交う現代からは遠く離れた、戦国の世の一コマである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.725724/137.838539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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千本浜古戦場(静岡県沼津市) [その他の史跡巡り]

DSC04886.JPG←千本浜の首塚
 千本浜古戦場は、戦国時代末期の北条・武田両軍の激戦の地である。小田原の北条氏政と甲斐の武田勝頼は、越後上杉氏の内乱「御館の乱」を巡って対立関係となり、駿豆国境地域の支配を巡って激しく争った。特に戸倉城三枚橋城を拠点に両軍は厳しく攻防を繰り返し、1580年9月には千本浜で両軍による激戦が展開された。
 近代に入った後の明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下から、たくさんの頭蓋骨が発見され、千本浜合戦の戦死者のものと言い伝えられてきた。昭和29年に、人骨研究の権威鈴木尚東大教授の調査によって、当時のものと確認されたと言う。10代後半の若者の骨が多く、頭蓋骨の数と刀傷の深さから戦いの激しさが伺われたと、現地解説板に記載されている。
 千本浜古戦場には、明治期の発見時に骨を集めて弔った首塚が築かれ、現在でも本光寺の脇に残っている。塚には大きく立派な石碑が建ち、往時の歴史を留めている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.094069/138.848702/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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塩買坂古戦場(静岡県菊川市) [その他の史跡巡り]

DSC07681.JPG←古戦場の坂道
 塩買坂古戦場は、今川氏6代当主義忠が非業の死を遂げた古戦場である。応仁文明の大乱の時、東軍に付いた駿河守護今川義忠は、東軍の主将細川勝元の指令で西軍方の斯波義廉の領国であった遠江に侵攻し、横地氏・勝間田氏らの義廉方国人領主と戦った。1476年2月、義忠は500騎を従えて大井川を越え、勝間田城、次いで横地城を攻め落とし、横地秀国・勝間田修理亮両将を討死させた。義忠はその凱旋の途次、夜半に塩買坂に差し掛かったところで、横地・勝間田両軍の残党によって襲撃されて討死した。今川氏では、これをきっかけにして義忠後継を巡る争いが起き、これを収めて活躍したのが伊勢宗瑞(北条早雲)であった。

 塩買坂古戦場は、義忠の菩提寺でもある正林寺付近の坂道(県道)で、正林寺の参道入口に古戦場と刻まれた大きな灯籠が建っている。正林寺は後年、宗瑞の働きで無事に家督を継ぐことができた今川氏親が、1517年に父義忠の追善供養のために創建した寺で、義忠の墓が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.699301/138.128625/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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三方原古戦場(静岡県浜松市北区) [その他の史跡巡り]

DSC05841.JPG←古戦場碑
 三方原古戦場は、上洛を目指す武田信玄とそれを迎え撃った徳川家康が戦った古戦場である。1572年、15代将軍足利義昭の要請を受ける形で開始された信玄の西上戦は、信玄率いる本軍が信濃から青崩峠を越えて遠江に入り、犬居城を経由して二俣城を取り囲み、2ヶ月の包囲戦の上、落城させた。この時の武田勢の兵力は2万5千と言われる。一方、織田信長と同盟して武田勢に抗した家康は寡勢であり、信長からの援軍を含めても1万1千の兵力しかなかった。そこで、浜松城に籠城して武田勢を迎え撃とうとした家康であったが、信玄は案に相違して、浜松城を素通りして三方原台地へと向かった。これを見た家康は、居城を素通りされて領国を蹂躙されるは恥辱であると激怒し、家臣の反対を押し切って武田勢を背後から襲う強攻策に転じたとされる。こうして、家康を野戦に引きずり出した信玄は、三方原で徳川勢を迎え撃ち、12月22日に激戦が行われた。しかし、わずか2時間の戦闘で徳川勢は大敗し、家康の身代わりとなって死んだ夏目吉信以下多数の家臣を失い、信長から派遣された援将平手汎秀まで討たれた。家康も武田勢に逐われて命からがら浜松城に逃げ帰り、馬上で脱糞したと伝えられている。この大敗を深く心に刻んだ家康は、「顰像」と呼ばれる有名な絵を描かせ、終生自らへの戒めにしたと言う。一方、徳川勢に圧勝した信玄であったが、野田城を落した後に病に倒れ、上洛の夢は潰えた。

 三方原の戦いは、浜松城の北方約10kmの位置で行われたと言われている。国道257号線沿いの三方原墓園の駐車場脇に古戦場の石碑が建てられている。この他にも、浜松城のほど近くに犀ヶ崖、夏目吉信墓、本多忠実墓などの史跡がある。今では市街化が進み、往時とは景観が一変しているが、関連史跡も多く興味深い。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.793770/137.701725/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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伝・山吹の里(埼玉県越生町) [その他の史跡巡り]

DSC05156.JPG←山吹の里歴史公園
 山吹の里は、扇谷上杉氏の家宰で中世関東屈指の名将であった太田道灌の「山吹伝説」の地である。道灌が鷹狩りに出た際に(現地解説板では、「河越の領主であった頃、父の道真を訪ねた際」とされる)、俄か雨に遭い、近くの農家に立ち寄って蓑を借りようとした。すると、中から一人の少女が出てきて、黙って山吹の一枝を差し出した。花の意味がわからない道灌は、「花が欲しいのではない」と言って怒って帰ってしまった。後で道灌がこの話を人にしたところ、それは「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(「蓑」を掛ける)一つだに なきぞ悲しき」(後拾遺集)という古歌に寄せて、蓑の一つさえ持てない悲しさを山吹の枝に託したものでありましょう、と聞かされて自分の無学を恥じ、それ以降道灌は歌道に精進して、文武両道を兼ねた名将となったと言う(『常山紀談』)。この話は古い人には広く知られており、私の父も学校で習ったそうである。

 山吹の里伝説の地は、東京都豊島区や横浜市六浦などいくつか伝承地があり、越生町もその一つである。越生には道灌の父道真が、道灌生誕の地とされる山枝庵や、隠居所の自得軒を建てて住んでいるなど、道灌との縁が深く、龍穏寺には道灌父子の墓もある。またこの地は、古く武蔵七党児玉党に属する越生一族の山吹氏が居り、山吹の小名で呼ばれていた。現在は県道の脇に「山吹の里歴史公園」が整備され、小さな水車小屋などが復元されている。山枝庵など道灌縁の城館を訪ねた折に寄ると、何とも感慨深いものがある。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.963280/139.305278/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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河原田古戦場(栃木県栃木市) [その他の史跡巡り]

DSC00585.JPG←升塚
(2006年9月訪問)
 河原田古戦場は、皆川氏を危急存亡の淵に追い詰めた古戦場である。1523年、宇都宮城主宇都宮忠綱は、鹿沼西部の加園城の渡辺氏・上南摩城の南摩氏を併呑し、その余勢をかって皆川領に大挙侵攻した。皆川城主皆川宗成は嫡子成勝ら一族を引き連れて河原田に布陣し、総力を挙げてこれを迎え撃った。両軍は河原田で激突し、激戦の中、当主宗成・弟成明以下一族家臣の多数を失う大難戦となった。しかし、そのとき、小山・結城氏の連合軍が北上して宇都宮侵入の態勢を示したことで、忠綱は急遽軍を返し、皆川氏は総崩れギリギリのところで辛勝した。当主を失った皆川氏は成勝が家督を継ぎ、小山・結城氏らと連携して徐々に勢力を回復させ、江戸時代までその命脈を保った。

 河原田の戦いが行われた地は、現在、「合戦場」の地名が残っている。周囲一帯は一面の住宅地で、かつての激戦を思わせる風景は微塵もないが、この合戦の戦死者を集めて葬ったと言われる升塚が例幣使街道沿いに残っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.413253/139.748014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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薩埵山古戦場(静岡県静岡市清水区) [その他の史跡巡り]

DSC00129.JPG←峠からの景観
 薩埵山古戦場は、東海道の要衝薩埵峠付近を主戦場として展開された戦いである。現在は江戸時代末期の安政の大地震(1854年)によって海岸付近の地盤が隆起し、海岸に道が通っているが、中世においては山中の峠か海沿いを通る「親知らず子知らず」の難所であった。街道を遮る様に山稜が海岸まで迫っている交通の要地である為、度々合戦の舞台となった。

 大きな合戦は二度行われた。一度目は南北朝時代の1351年、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の中である。尊氏は、1335年の箱根山の合戦以来、弟直義に多くの権限を譲り、幕政を主導させていたが、直義と執事高師直の不和によって、幕府を二分する内訌に発展した。それは、元々の室町幕府政権の二元性(軍権と政権)に根差した対立であった。擾乱の委細はここでは省くが、京都を脱出した直義は、八相山の戦いの後、直義方の足利一門と共に北陸から東下して鎌倉に入った。尊氏は、天下三分の状況を有利に持ち込むべく、南朝と和議を結び直義追討の綸旨を得て、軍勢を率いて東に向かった。尊氏は薩埵山に本陣を構え、一方、直義方は三島に本陣を据え、先鋒の上杉憲顕、石堂義房・頼房父子らが尊氏軍に対峙した。兵力は直義方が優勢であったが、後方より宇都宮氏綱ら尊氏方の大軍が箱根竹之下まで進出すると、直義方は浮き足立ち、総崩れとなった。伊豆山中に逃れた直義は、結局和議を結んで鎌倉の尊氏の元に戻ったが、後に急死した。一説には実兄尊氏による毒殺とも言われるが、真相は闇の中である。
 もう一つの大きな合戦は、戦国時代後期の1569年、武田信玄の駿河侵攻によって生起した戦いである。今川義元亡き後の今川氏の弱体化を見て取った信玄は、1568年12月、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に攻め込んだ。今川氏真を駿府から逐ったが、今川氏救援のため駿河に進出した小田原北条氏の軍勢が薩埵山に陣を構え、横山城の武田勢と3ヶ月余りにわたって対峙した。苦境に陥った武田勢は甲斐に敗走し、その後1569年12月、信玄は北条勢が前線拠点としていた蒲原城を落とし、3度目の侵攻でようやく駿河を制圧した。北条勢は蒲原城陥落まで、約1年に渡って薩埵山に陣を構えていたと推測されている。
 この他に、最初に信玄が駿河に侵攻した際、駿府防衛のため今川方の軍勢が薩埵山に布陣して抵抗したとされる。

 薩埵山古戦場は、広義では薩埵峠から数キロに渡って山稜上に展開する陣場群を含むが、ここでは薩埵峠の石碑の建つ街道として記載する。駐車場から700m程南に離れた所に峠の石碑が建ち、展望台が据えられている。幾つもの解説板などが建っていて、その中に古戦場のことを記載したものもある。展望台からは、眼下に東名高速と国道1号線が通る、よく知られた海沿いの絶景が広がっている。本来なら遥かに富士山の雄大な景観を望むことができるのだが、訪問した当日は生憎の雲で富士の姿を望むことができなかった。この景観を望みながら、武将たちは何を思っていたのだろうか。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.065849/138.539129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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鳥打場古戦場(山形県大蔵村) [その他の史跡巡り]

DSC07272.JPG←夏山塚
 鳥打場古戦場は、最上氏と庄内の武藤氏(後の大宝寺氏)とが戦った古戦場である。最上氏は室町時代末期より北に勢力を推し進め、一族の成沢城主成沢兼義の子、孫次郎満久をこの地に入部させて清水城を築かせた。一方、武藤氏は1563年、庄内3郡を制圧し、その勢いに乗じて最上の鮭延氏をも制圧した。この時、まだ幼かった鮭延秀綱は捕らえられて庄内へ連れ去られた。その後、1565年、武藤勢は再び大軍で最上地方に侵攻し、清水領に迫った。時の清水城主清水義高は知勇兼備の武将として知られ、最上勢の主将としてこれを鳥打場に迎え撃った。義高は、自ら陣頭に立って勇戦奮闘し、一族もよく戦って武藤勢を撃退して清水城防衛に成功したが、義高は流矢に当たって戦死したと言う。江戸時代中期の1763年、義高の200回忌供養の折、村人は義高を偲んでかつての古戦場の戦死の地に夏山塚を築き、今に伝わっている。

 鳥打場古戦場は、清水城の北方わずか2.3kmの距離に位置し、清水城防衛の最前線であったと考えられる。最上川東岸の丘陵地で、清水城主の「御狩場」であったことから「鳥打場」と呼ばれたとされる。現在は夏山塚公園となっており、国道458号線に公園の案内板が出ている。丘陵上の小さな公園には、清水義高を供養した夏山塚が残っており、「清水城主五代 義高公戦死の地」の標柱が建っている。清水義高は、死後200年も経ってから供養塚が築かれるというのは、よほどその遺徳が慕われていたのであろう。公園の眼下には今では平和な田園地帯が広がっており、かつての激戦は時の彼方に過ぎ去っている。
 尚、私事ではあるが、この公園まで来た所でアクシデントが発生し、車のタイヤがパンクしてしまった。久しぶりにJAFのお世話になった史跡巡りとなってしまった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.717762/140.229911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小夜の中山古戦場(静岡県掛川市) [その他の史跡巡り]

DSC04858.JPG←名越邦時を葬った鎧塚
 小夜の中山は、箱根と並ぶ東海道の難所と言われた峠である(「佐夜の中山」とも書く)。交通の要所を押さえる高地であったため、度々合戦の舞台となった。最も有名なのは、南北朝時代の合戦である。1333年に鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を始めたが、失政相次ぎ、諸国の武家だけでなく公家からも怨嗟の声が上がった。そんな中の1335年7月、執権北条氏の残党が北条高時の遺児時行を奉じて大規模な反乱を起こした。いわゆる中先代の乱である。挙兵した北条家残党は鎌倉奪還を目指して瞬く間に関東を席巻した。この時鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向けたが、女影原では岩松経家や渋川義季(直義の妻の兄)が戦死。府中では、下野の名族小山秀朝が一族家人数百人と共に討死するという事態に陥った。そして直義が自ら軍勢を率いて井出の沢で時行勢を迎え撃ったが、激戦の末ここでも足利勢は敗れ、直義は鎌倉府の主の成良親王を京都に逃げ延びさせ、自身は兄尊氏の妻登子と嫡男千寿王(後の義詮)と共に三河まで落ち延びた。この後、時行勢は鎌倉を占領したが、後醍醐天皇の聴許を待たずに東下した足利尊氏率いる足利勢は、三河矢作宿で直義と合流すると、遠江の橋本の戦いを皮切りに、小夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川、鎌倉口と東海道7つの要害戦を一度も落とさず進撃し、たちどころに時行勢を追い散らして鎌倉を取り戻した。時行が鎌倉を保つこと20日余り。故に中先代の乱は二十日先代の乱とも呼ばれる。小夜の中山合戦は、足利尊氏が北条時行の軍勢を打ち破ったこれらの戦いの一つであった。

 小夜の中山合戦では、足利一門で海道軍の大将の一人であった今川頼国(今川範国の兄、今川了俊の伯父に当たる)が北条一族の大将名越太郎邦時を打ち取った。頼国は、討死した邦時の武勇を讃え、この地に塚を作って葬ったと言われ、「鎧塚」として現在に残っている。この他にも周辺には史跡が多く、なかなか見所が多い。峠付近は公園になっており、西行の歌碑が建っている。また関ヶ原合戦の前、会津の上杉討伐に東下する途中の徳川家康を、掛川城主山内一豊が茶亭を設けてもてなしたと伝えられる久延寺や、その時水を汲んだという「御上井戸」も残っている。

 静岡に来たことがほとんど無かった私は、東海道はてっきり海岸近くや平地の街道だとばかり思っていたが、途中には山も多く起伏の多い街道であったことがよくわかった。殊に小夜の中山峠付近は、難所と言われるだけあって急坂の道が続き、車のなかった昔は、多くの旅人や軍勢を苦しめたことであったろう。思うに、小夜の中山合戦は高地の争奪戦だったようである。小夜の中山には、その地名のなんとも言えぬ風雅な響きが好きで、以前から一度は来てみたいと思っていた。茶畑の中を続く旧東海道の小道は、ここを西に東にと多くの武将たちが通ったかと思うと、何とも感慨深い。
一豊が家康をもてなした茶亭跡→DSC04898.JPG
DSC04874.JPG←公園頂部からの眺望

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815318/138.096074/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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手越河原古戦場(静岡県静岡市駿河区) [その他の史跡巡り]

DSC04846.JPG←古戦場の石碑
 手越河原古戦場は、南北朝時代の古戦場である。この地は安倍川と藁科川が自由に流れていた広い河原で、駿河府中の西を押さえる交通の要衝であった。その為、南北朝時代に度々合戦の場となった。中でも名高いのは、1335年に行われた合戦である。中先代の乱の後、鎌倉に腰を落ち着けて新政からの離反の態度を鮮明にした足利尊氏に対して、後醍醐天皇は新田義貞に足利討伐を命じた。大軍を率いて東下する義貞に対して、尊氏は高越後守師泰に矢作川での防衛を命じた。これは、三河国が足利氏の鎌倉時代からの領国で、しかも東国にある鎌倉府からの威令が強い範囲が三河国までであったためとされる。尊氏は師泰に、矢作川より西への進軍を禁じ、師泰は新田勢に苦戦を強いられて兵を退き、遠江鷺坂を経て、駿河まで後退した。ここで足利直義が新手の兵を率いて師泰軍に合流し、手越河原に防衛線を敷いた。義貞の大軍は手越河原に押し寄せ、ここでも両軍による激戦が展開された。太平記では両軍合わせて10万余と言われる。正午頃に始まった合戦は、両軍入り乱れて夜8時頃に至るまで17度にわたって激戦が展開され、決着せず両軍川を挟んで兵馬を休めた。深夜になって、義貞は屈強の射手を選んで夜討ちを懸けると、足利勢は周章狼狽して、麾下に参じていた佐々木道誉など多数の武家が新田方に降参し、足利勢は敗北を喫した。今川了俊の「難太平記」によれば、この時、足利方の部将細川定禅は直義に討死を勧め、淵辺伊賀守義博は「まず御前で討死つかまつろう」と言って、ただ一騎で新田勢の中に駆け入って討死した。また今川名児耶三郎入道も、この時に討死。一方、今川範国は直義に、「今は討死の時ではありません。一旦退いて、後日の合戦を期すべきです。」と言って、直義を退かせたと言う。退いた直義は、足利一門と箱根の水呑に要害を構えて、最後の合戦を挑もうと立て籠もった。この後、鎌倉で蟄居していた尊氏が、足利一門を救うために密かに挙兵し、竹之下の合戦へと繋がっていくのである。

 足利直義ら足利一門が浮沈を掛けて戦った手越河原は、現在では市街化の波に飲まれ、往時の姿はほとんど残っていない。JR安倍川駅の近くのみずほ公園内に古戦場の石碑が建っており、かつての激戦の名残をわずかに伝えているのみである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.938508/138.365840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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川中島古戦場(長野県長野市) [その他の史跡巡り]

DSC03603.JPG←一騎打ちの像
 川中島古戦場は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が正面切って激突した第4次川中島の戦いの主戦場である。武田信玄の信濃侵攻と葛尾城主村上義清の越後亡命によって惹起された甲越両軍の激突は、1553年~64年迄の12年間に5回あったとされている。そのほとんどは両軍にらみ合いに終始していたが、1561年の第4次川中島合戦だけは両軍の精鋭部隊が全面対決する激戦となった。甲陽軍鑑によれば、妻女山に陣を敷いて長期滞陣の構えを見せた謙信に対して、信玄は山本勘助の考案した啄木鳥戦法を採用し、別働隊に妻女山背後から奇襲攻撃を行わせ、押されて妻女山を降りた上杉勢を八幡原で待ち受ける武田勢本軍が迎え撃ち、挟み撃ちにするという作戦であったとされる。しかし奇襲の前夜、海津城から立ち上る多数の炊煙を見た謙信は、武田勢の動きを察知し、夜陰に紛れて密かに妻女山を降り、千曲川を夜間渡渉して武田勢本軍の正面に全軍を布陣した。明朝、八幡原に濃く垂れ込めていた霧が朝日と共に徐々に晴れてくると、両軍は至近距離で対峙しており、鶴翼の陣で備えを固める武田勢に、上杉勢は車懸りの陣で襲いかかった。兵数は、妻女山別働隊に兵を割いた武田勢が不利で、上杉勢の猛攻に押し込まれ、信玄の実弟典厩信繁ら名立たる武田方将帥が討死する大難戦となった。しかしその後、妻女山から戻った別働隊が主戦場の八幡原に到着して上杉勢の背後を襲うと、攻守逆転して上杉勢は撤退を余儀なくされた。この際、上杉謙信は、単騎武田本陣に斬り込んで、武田信玄と直接一騎打ちをしたと言う。

 以上が甲陽軍鑑で伝えられる合戦の概要で、妻女山の地形などを考えると、そのまま甲陽軍鑑の記載を鵜呑みにできるものではないが、八幡原で激戦が行われたことは事実であるらしい。その為、長野市内にはこの戦いにまつわる史跡が多数残されている。夏を中心にそれらの史跡を巡ったが、史跡の詳細については長野市の特設サイト「川中島の戦い」に詳しいので、ここでは一々記載しない。

 信玄が本陣を敷いたとされる場所は、現在八幡原史跡公園となって整備されており、一騎打ちの場面を描いた有名な銅像などが建っている。八幡社の周囲には、低い土塁が残っており、これは信玄本陣の遺構であるとされている。さすがに戦国史上、最も有名な戦いであり、朝早くからここを訪れる人は多い。私が訪れたのが、狙ったわけではないが偶々決戦のあった9月10日近くの日で、合戦の様子を想像するとなかなか感慨深いものがあった。旧暦新暦の違いがあるにせよ、夏の盛りの激戦で、両軍の兵士は汗まみれで、体力的にもさぞキツかっただろうと思う。そして、度重なる両軍の激突は、徒に川中島地方の農村を荒廃させるだけで、結局両軍に何の恩恵ももたらさなかったことは、何とも皮肉という他はない。
武田方本陣跡の土塁→DSC03592.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.591188/138.186700/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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人見原古戦場(東京都府中市) [その他の史跡巡り]

DSC02526.JPG←浅間山山頂の浅間神社
 人見原古戦場は、南北朝時代の古戦場である。観応の擾乱で、弟足利直義を討つため東下した足利尊氏は、直義を破って鎌倉に入ったが、北朝方(足利方)の分裂につけ込んで挙兵した新田義宗・義興ら南朝方に攻めこまれた。そして、1352年閏2月20日に武蔵国人見原・金井原一帯で、新田勢との間で激しい合戦が繰り広げられた。しかし尊氏は敗れて危殆に陥った。尊氏は自刃を覚悟するほどであったというが、辛くも石浜に逃れて、軍勢を立て直した。そして、関東諸豪の援軍も得て、新田勢を関東から駆逐することに成功した。この一連の合戦を武蔵野合戦といい、人見原古戦場は金井原古戦場と並ぶ激戦地であった。
 人見原古戦場の地は、浅間山を中心に、その周辺に広がる人見ヶ原一帯であった。平地部は都市化が激しく、往時の面影はないが、浅間山は公園化されてその姿を残している。山頂には浅間神社が祀られて、その脇に武蔵野合戦のことを簡略に記載した、浅間山の解説板が建っている。解説板にちょこっと記載があるだけで、古戦場碑がないのは残念。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.30.19.8N35.40.40.6&ZM=9
タグ:古戦場
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加賀塚(東京都日野市) [その他の史跡巡り]

DSC02518.JPG
 加賀塚は、小田原北条氏の家臣竹間加賀入道の墓である。日野に知行地を有し、日野本宿に住していた。天正年間(1573~92年)には鉢形城の守備に当たったと伝えられ、1590年の小田原の役の際には、2月8日に鉢形城から戻り、この地で切腹したと言う。
 加賀塚は、住宅地の只中の加賀塚公園の奥にある。小さな塚の上に自然石の墓があり、その手前には昭和15年に子孫の竹間弥惣次氏によって建てられた供養塔が建つ。こんな宅地の只中に、戦国時代の歴史がひっそりと伝わっているとは、何とも興味深い。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.23.45.8N35.40.43.7&ZM=9
タグ:墓所
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石浜渡津跡(東京都福生市) [その他の史跡巡り]

DSC02377.JPG←渡し場跡の碑
 現在、福生市の牛浜付近には、石浜渡津と呼ばれる多摩川の渡し場があった。南北朝時代の観応の擾乱で、弟足利直義を討つため東下した足利尊氏は、直義を破って鎌倉に入ったが、北朝方(足利方)の分裂につけ込んで挙兵した新田義宗・義興ら南朝方に攻めこまれ、閏2月20日に武蔵国人見原金井原で新田勢を迎え撃ったが、戦利なく危殆に陥った。尊氏は自刃を覚悟するほどであったというが、辛くも石浜に逃れて、軍勢を立て直した。そして、関東諸豪の援軍も得て、新田勢を関東から駆逐することに成功した。この武蔵野合戦において尊氏が逃れた「石浜」は、一般には石浜城の地と言われているが、別説ではこの石浜渡津のあった福生市牛浜であるとも言われている。
 石浜渡津跡は、現在は多摩川河川敷の多摩川中央公園の中に石碑が建てられているだけである。前後の状況や、『太平記』の記述に「小手指原より石浜までは、四十六里(約30km)」とあることから考えれば、やはり石浜城が尊氏再起の地と考えるのが妥当と思うが、ここにもそうした説があることを知り、訪問した。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.730523/139.325845/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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遠藤原古戦場(神奈川県中井町) [その他の史跡巡り]

DSC02947.JPG←広茫たる遠藤原
 遠藤原古戦場は、1569年の武田信玄による小田原攻めの際の古戦場である。信玄の軍勢がこの地を通った際、北条方の追撃に遭った。その時の戦死者の霊を慰めるために多くの五輪塔が建てられ、「五十塚」「六十塚」という地名が付近に残ったと言う(現在、五輪塔は残っていない)。またこの地では過去にも、相模平定を進める伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦一族との間で戦いが繰り広げられたとも言われている。
 遠藤原は、日枝神社周辺の、金目川とその支流座禅川に挟まれた比高40m程の台地で、広茫たる平原が広がっている。軍勢の展開に有利で、しかも高所にあって周囲に高地がなく、敵に望見されない地であり、戦場として設定する適地であったのだろう。孫子・九地篇で言う「交地」であろうか。度々戦場となった地は、今では一面の畑となっている。日枝神社に、古戦場に関する解説板がある。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.14.51.2N35.20.49.8&ZM=9
タグ:古戦場
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浅井畷古戦場(石川県小松市) [その他の史跡巡り]

IMG_7305.JPG←浅井畷古戦場
(2005年3月訪問)
 浅井畷古戦場は、北陸の関ヶ原と呼ばれた古戦場である。1600年、徳川家康が上杉討伐の為に諸将を率いて東下した虚を突いて、石田三成が徳川討伐に挙兵したことで、国内を二分する戦いが始まった。加賀の前田利長は、父利家亡き後、家名存続のため家康に膝を屈し、実母芳春院を人質として、徳川方に付くという苦渋の決断を既にしていた。三成挙兵の報を受けた利長は、西軍に付いた丹羽長重の拠る小松城に大軍で攻め寄せた。しかし小松城を攻略できず、矛先を変えて大聖寺城を攻め落とした。その後利長の本隊は金沢城に向かって兵を引揚げ、三道山城に入った。一方、前田勢の殿(しんがり)であった長連竜配下の部隊は、本隊合流の為、御幸塚城から間道を抜けて大領野を過ぎようとした時、浅井畷で丹羽勢の伏兵の急襲を受けた。時に8月9日。雨の降る悪天候の中、白兵戦が繰り広げられた。小松城からは丹羽方の援軍が次々と到着して参戦し、長連竜隊は大苦戦となった。しかし急報を受けた前田方の援軍もやがて到着し、双方痛み分けとなって戦闘は集結した。丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門らが討死し、前田方でも長家の九士、小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助をはじめ多数の将士が命を落とした。この合戦後、金沢城に戻った利長は、家康の催促を受け、再び出陣し三道山城に入った。この時、丹羽長重から和を請う使者が発せられ、利長はこれを受諾した。この時、既に関ヶ原で東西両軍が激突、三成主導の西軍は壊滅し、勝敗は決していた。戦後の論功行賞で、丹羽長重を釘付けにした功によって、利長は加増を受け、加賀・能登・越中を領する100万石の大大名となった。

 浅井畷古戦場は、小松市街の南方、現在周囲に田園風景の広がる住宅地の一角にある。長家の九士の墓が立てられており、いずれも戦いで倒れた方を向いて墓が立てられたと伝えられている。浅井畷の戦いは、関ヶ原の本戦はもとより、最上・上杉両軍が激突した慶長出羽合戦と比べても、小規模で短時間で集結した局地戦であったと思われるが、加賀100万石の礎を築いた重要な戦いとなった。後に加賀八家の一つとして重臣の家系となった長家が、江戸時代を通して大切にこの古戦場を保護したのだろう。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.27.14.6N36.22.46.6&ZM=9
タグ:古戦場
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伝小山若犬丸二児の墓(神奈川県横浜市金沢区) [その他の史跡巡り]

DSC00220.JPG
 小山若犬丸は、下野の名族小山義政の嫡子である。父義政は、宇都宮氏と勝手に抗争を開始するなどした為、鎌倉公方足利氏満から討伐された。その経緯は、館岸城の項に記載する。義政が滅ぼされた後も、その子若犬丸は奥州に逃げて態勢を立て直しながら、難台山城に立て籠もるなどして鎌倉府に対する叛乱を繰り返した。しかし遂に、1397年奥州で滅ぼされ、小山氏嫡流は滅亡した。若犬丸の二人の遺児、7歳の宮犬丸と3歳の久犬丸は捕らえられ、鎌倉に送られた後、六浦の海に沈められて殺されたと言う。
 小山若犬丸二児のものと伝えられる墓は、県道23号線沿いの比高20m程の丘陵地の南端に祀られている。理髪店の裏山と、某HPに記載されていたが、この理髪店は既に廃業していた。裏山は、崩落を防ぐ為、近年コンクリートで固められ、山の西側中腹には新しく数棟の住宅地が分譲されていた。この住宅地の奥から山に登る小道があり、南端に合計4基の五輪塔が残っている(内1基は欠損)。地元のご老人に道を教えて頂いたが、地元では「五輪様」と呼んでいるらしい。
 以前に難台山城を訪れ、その歴史を調べた際、小山若犬丸の子は護送された後殺され、その墓が横浜にあると知って、今回訪ねてみた。中世の歴史は、人知れず都会の中にも埋もれているものだと実感した次第。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.37.9.4N35.19.30.6&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.61600694416&latitude=35.328498588863
タグ:墓所
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関戸吉信墓(静岡県河津町) [その他の史跡巡り]

DSC08532.JPG
 関戸吉信は、堀越公方の家臣で深根城の城主である。吉信の父播磨守宗尚は、関東管領山内上杉憲実によって奥伊豆鎮護の為に派遣されて深根城を築いたと言う。1493年、駿河今川家の客将で興国寺城主であった伊勢宗瑞(北条早雲)は、足利政知の死後の堀越御所の乱れを見て、伊豆に侵攻した。宗瑞が瞬く間に堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼすと、奥伊豆の土豪は多く宗瑞に従ったが、関戸吉信は徹底抗戦し、10月6日に深根城を宗瑞に攻められた。吉信は城を脱出したものの、河津の山奥の天城街道沿いで自刃して果てたと言う。
 関戸吉信の墓は、深根城の北方約8kmの位置にあり、河津ループ橋の近くの梨本集落の中にある。現在町の指定文化財となっており、古びた宝篋印塔が小さな社の中に大切に保存されている。小田原北条氏勃興の陰で沈んだ武将の哀れさを感じさせる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.56.38.2N34.47.9.4&ZM=9
タグ:墓所
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江川邸(静岡県伊豆の国市) [その他の史跡巡り]

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 江川邸は、元小田原北条氏の家臣で、江戸時代には韮山代官となってこの地を治めた江川氏の屋敷である。江川氏の遠祖宇野氏は、清和源氏の流れを汲む大和の武士であったが、保元の乱に敗れて伊豆韮山の地に移住したと言われている。1493年に伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に進出すると23代江川英住は宗瑞に従って龍城山を提供し、宗瑞はこの山に韮山城を築いた。その後、5代にわたって北条氏の幕僚となり、韮山城麓の居館(江川曲輪)とその裏山の砦(江川砦)を守備して韮山城防衛の一翼を担った。戦国末期には、北条家中で外交を担当した韮山城主北条氏規に従って徳川家康との交渉などに当たった為、家康との間に親交があり、1590年の小田原の役での韮山城籠城戦では、韮山城開城の交渉を行なった。28代江川英長は徳川家康に仕え、徳川幕府の下で韮山の代官となり、関東南西部も含めた広大な領域を管轄した。以後、代官を世襲して幕末まで至り、36代江川英龍(坦庵)は江戸防衛の台場砲台建設を企画担当し、韮山反射炉を築造して銃砲を鋳造し、日本初のパンを作るなど、多方面に渡る活躍をした。また佐久間象山の師でもあったと言い、日本の近代化にも多大な貢献をした。

 江川邸は、現在国の重要文化財となり、一般に公開されている。鎌倉・室町時代より続くと言われる主屋の屋根裏には、親交のあった日蓮の直筆棟札が掲げられている。その霊験もあってか、豊臣軍の韮山城攻撃の際にも主屋や裏門は残り、特に裏門の門扉には、当時の攻防の際の鉄砲や鏃の跡が残っていると言う。その他、井戸や枡形、宗瑞手植えとも言い伝えられるきささげの木なども残り、興味深い。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.45.1N35.3.4.4&ZM=9
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蛭ヶ小島配流地(静岡県伊豆の国市) [その他の史跡巡り]

DSC07515.JPG←富士を望む頼朝・政子像
 蛭ヶ小島は、平治の乱後に源頼朝が配流された地である。1160年、平治の乱で源氏の棟梁源義朝は敗死し、その子でまだ14歳の青年であった兵衛佐頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。それから1177年に北条政子と結ばれるまでの17年間を、頼朝はこの地で過ごした。そして1180年に旗揚げし、平家の目代山木兼隆を攻め滅ぼした後、石橋山で大庭景親率いる頼朝討伐軍を戦いを交えた。その経緯は、石橋山古戦場の項に記載する。この後、再起した頼朝は鎌倉に幕府を開き、日本史上初めての武家政権を樹立するのである。
 蛭ヶ小島は、現在は周りを田畑で囲まれた一面の平地であるが、往時は低湿地帯の中に田島(中洲)が点在する、浮島の中の一つであったらしい。遺構らしいものは何もないが、公園として整備され、若き頼朝と政子夫婦を描いた銅像が、富士山を遥かに望んでいる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.15.7N35.2.53.7&ZM=9
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稚児ヶ淵(静岡県伊東市) [その他の史跡巡り]

DSC06328.JPG←稚児ヶ淵の急流
 稚児ヶ淵は、源頼朝と当地の豪族伊東祐親の娘八重姫との間の一子千鶴丸が殺されたと言われる場所である。平治の乱で父源義朝が敗死し、捕らえられた頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。その後、当地で成長した頼朝は、伊東祐親が大番役で在京中に、その娘八重姫と恋仲となり、千鶴丸を設けた。平家に忠節を尽くしていた祐親はこれを知って激怒し、平家の怒りを恐れて、千鶴丸を松川の上流の淵へ沈めて殺してしまったと言う(曽我物語)。
 稚児ヶ淵は、正確な場所は比定されていない様だが、その往時の雰囲気を最もよく残す場所として、鎌田城のある城山北東麓に解説板が建っている。車道脇の解説板の所から下の川辺に降りる小道を下って行くと、その先には往時さながらの急流が残っている。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.5.8.8N34.56.19.5&ZM=9
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丸岡藩砲台跡(福井県坂井市) [その他の史跡巡り]

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(2005年2月訪問)
 丸岡藩砲台跡は、幕末の1852年に丸岡藩が沿岸警備の為に築いた砲台である。この付近の海岸は越前松島と呼ばれる景勝地であるが、その東部の海上へ突き出した海岸線上に、円弧状に土塁を築き、内側と5個の砲眼を石垣で補強したものである。時に、相次ぐ外国船の到来で風雲急を告げており、自領防衛の為に、著名な砲術家であった高島秋帆の門人と伝えられる栗原源左衛門の設計で築造されたと言う。
 丸岡藩砲台跡は、現在でも日本海に向けて砲眼を設けた土塁・石垣が残っている。保存状態が良く貴重なものであることから、国の指定史跡となっている。
内側から見た砲眼→IMG_6922.JPG

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.9.24.1N36.14.59.4&ZM=9
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石橋山合戦関連史跡(神奈川県湯河原町・真鶴町) [その他の史跡巡り]

 湯河原の山中と真鶴の海辺には、源頼朝挙兵の際の石橋山合戦に関する史跡が残っている。平治の乱で父源義朝が敗死し、池禅尼の助命嘆願で一命を救われて伊豆蛭ヶ小島に配流となっていた源頼朝は、1180年、平家打倒の兵を挙げた。その経緯は石橋山古戦場の項に記載する。石橋山で大敗した頼朝は、山中を僅かな供を連れて逃げ隠れ、命からがら安房へと落ち延びた。その後頼朝は、関東諸豪の兵を糾合して関東を席巻し、鎌倉に入った。そして後に鎌倉幕府を開き、武家政権を名実ともに樹立することになるのである。

<土肥大杉>
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 石橋山で大敗した頼朝は、僅かな配下と共に土肥山中の杉山に逃れた。山中を捜索する大庭景親の手勢に追い詰められた頼朝主従は、大杉の空洞で息を潜めていたが、敵将の一人梶原景時はそれと知りつつ機知を以って頼朝を庇い、その命を救ったと言う。
 土肥大杉は、県道75号線から山道を入った深い山林の中にある。大杉まで歩いて10分程掛かる。大杉は大正6年の台風で倒れてしまい、現在はその跡地に大きな石碑が建っているだけであるが、よくこんな山中の杉が長い間語り継がれてきたものだと思う。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.3.55.2N35.10.54.8&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.06398611109&latitude=35.185635784818

<しとどの窟>
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 しとどの窟は、史跡名称としては「土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地)」と呼ばれ、石橋山で大敗した頼朝が隠れ潜んだ場所と言われている。8月23日に石橋山合戦で敗北し、24日夜明けに椙山山中の岩窟に潜んで九死に一生を得たと言う。その夜は箱根権現の永実坊に宿り再び椙山に戻って3日間椙山山中に隠れ、28日に舞鶴から安房に逃れたと言う。
 しとどの窟は、山中にある水の滴り落ちる大きな窟で、窟の中には観音像が立ち並び、ここまで下ってくる道は参道として整備されている。
 尚、ゼンリンの地図では表示されている場所が間違っているので、注意が必要。城山隧道をくぐり抜けて、直ぐ右に曲がって細い参道を降りていくのが正解。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.4.45.9N35.9.36.8&ZM=9

<謡坂>
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 椙山山中を彷徨い逃れた頼朝は、岩海岸から安房へ向かって船出したが、その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平が謡い踊ったと言われている。謡坂の地名は、それに由来すると言う。
 現在は住宅地の中の、何の変哲もない坂道であるが、石碑が建っていて由来を伝えている。ここを降った先の海岸が、頼朝が船出した海岸である。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.8.39.0N35.9.22.4&ZM=9

<頼朝船出の浜>
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 頼朝船出の浜は、頼朝が再起を図るため安房に向かって船出した浜と言われている。民家の横に石碑が建っており、その石碑には「源頼朝開帆處」と刻まれている。
DSC06060.JPG←頼朝が船出した岩海岸

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.8.35.0N35.9.28.5&ZM=9
タグ:古戦場
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