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阿久利川事件跡(宮城県栗原市) [その他の史跡巡り]

IMG_3001.JPG←解説板の建つ一迫川畔
 阿久利川事件は、前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と俘囚長安倍氏との本格的な戦闘が始まる画期となった事件である。朝廷への貢納を怠るようになった安倍頼良は、1051年の鬼切部の戦いで勝利した翌年、朝廷からの大赦布告によって罪を免ぜられ、新任の陸奥守源頼義に服属して名を頼時と改めた(頼義と同音であるのを避けるため〔避諱〕)。しかし1056年の夏、任期が間もなく終わる頼義が、鎮守府の胆沢城から国府多賀城への帰途、阿久利川のほとりに宿営した際、頼義配下の権守藤原説貞の子光貞・元貞の陣屋が何者かに襲撃され、元貞の人馬が殺傷される事件が発生した。将軍頼義は詮議の結果、安倍頼時の子貞任の仕業と断定し、一方的に貞任を罰しようとした。貞任の出頭を命ぜられた頼時はこれを拒絶したことから、武力衝突が始まった。
 尚、この事件は、早くから西国に勢力を扶植して中央政界でも立場を強めつつあった平家に対し、出遅れていた源氏の棟梁頼義が、源氏の勢力を伸ばすために奥州制覇の野望があり、陸奥守の任期を伸ばして安倍氏を攻撃するために仕掛けた謀略との説が古くから根強い。そしてその野望は、子の源義家に引き継がれ、頼朝に至って結実することとなる。

 阿久利川事件跡は、正確な場所は必ずしも明確ではないが、近年の研究によって宮城県栗原市の築館と志波姫の境、一迫川畔の「阿久戸」という地域が比定地として有力とされている。この地から川を挟んですぐ北西には奥州街道が通り、古代城柵でもある伊治城があることから、古くからの交通の要衝でもあり、軍団の宿営地として考えるには十分な説得力がある。現在は一迫川の堤防内を通る車道脇に解説板が建っている(以前は標柱もあったようだが、現在は失われている)。伊治城に行く途中で、知らずにたまたま通りかかって解説板を見つけたのだが、こんなところで日本史の画期となる事件が起こっていたとは、地元の人にもあまり知られていないであろう。尚、解説板には「古戦場跡」と記載されているが、合戦があったわけではなく襲撃事件であるので、一般に広まっている「事件跡」という呼称を採用した。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.762399/141.041965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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佐沼合戦旧蹟(宮城県登米市) [その他の史跡巡り]

 登米市の佐沼地域には、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった佐沼合戦に関わる史跡が残されている。佐沼城を訪城した折、これらの旧蹟を巡り歩いた。

【伊達政宗陣場】
IMG_0024.JPG←陣場跡
 豊臣秀吉より葛西大崎一揆討伐の命を受けた政宗は、米沢城を出陣して6月25日に加美郡宮崎城を攻略、同月28日には一揆勢の本拠である佐沼城への攻撃を開始した。頑強な抵抗を排して、7月3日の朝には城を占領したと言う。この時政宗が本陣を敷いたのがこの陣場で、佐沼城西館の目と鼻の先にある。石碑が建てられている頂部は土壇となっているが、遺構であろうか?この他、周囲にも腰曲輪状の平場が確認できるが、非常に小規模な陣場である。佐沼城外郭の外堀となっていた長沼川を挟んで、西館の要害と指呼の間に対峙する比高10m程の丘陵地で、いかに伊達軍といえど、最初からここに本陣を敷くことはできなかったであろう。おそらく、もはや残るは本丸だけとなった佐沼合戦の最終盤に、合戦の最後を見届けるために政宗が本陣をここまで進めてきたのだろう。それは一揆を裏で扇動した自身の謀略の痕跡を消し去るために、一揆勢が一人残らず殲滅されるのを見届けるためであった。戦国武将とはいえ、これ程冷徹に何千もの民衆を葬り去るというのは、政宗とは恐ろしい男である。背筋が凍る思いである。尚、国道398号線から脇道に入った右手上方にも「伊達政宗陣地跡」の石碑が建っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.696178/141.191826/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【首壇】
IMG_0279.JPG
 1591年7月、伊達軍は佐沼城に立て籠もった一揆勢を討伐し、城を落城させると「屈強の侍500余人、その他百姓など2000余人」(政宗文書)を撫で斬り(要するに皆殺し)にし、その首を塚を築いて葬った。登米市役所北西の丘陵上の車道脇にあるが、案内板などが何もなく、場所が非常にわかりにくい。もう少し誘導標識などを設置してくれるとありがたい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.692712/141.185668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【兵糧山】
IMG_2054.JPG←長沼に突き出た丘陵地
 佐沼合戦の際に、伊達軍は長沼の水運を利用してこの地に兵糧を運んで集積したことから、兵糧山と呼ばれるようになった。先日、東京オリンピックでのカヌー競技の候補地として話題になった、長沼ボート場のすぐ北東にあり、長沼に突き出た丘陵地である。周りを沼で囲まれているので、敵襲を受けにくいことからこの地が選ばれたのだろう。現在は公園となっており、遺構は特にないが、史跡看板が立っている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.698824/141.147151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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野木宮古戦場(栃木県野木町) [その他の史跡巡り]

IMG_7924.JPG←野木神社
 野木宮合戦は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)における北関東の大規模な戦いである。この合戦の年次については2説あり、寿永2年(1183年)説と養和元年(1181年)説がある。従来は寿永2年説が有力であったが、2015年12月に小山市であった「中世小山一族」という3回シリーズの講座では、菱沼一憲氏が養和元年説について説明をしていた。養和元年説に基づくと、野木宮の北部、下河辺荘の支配をめぐる地域対立が合戦の要因で、当時「下野の両虎」と称された藤姓足利氏と小山氏の対立(共に藤原秀郷の後裔)、更に常陸の志田義広、下総の下河辺行平らを巻き込んだ、下野・上野・下総・常陸の武士達による北関東最大規模の地域紛争であったと解される。この時、源頼朝の弟範頼が合戦に加わっているが、これは小山朝政に旗頭として擁立された可能性があるということであった(これが範頼の歴史の表舞台への実質的な登場となる)。この合戦によって、小山氏より強勢だった藤姓足利氏は没落して源姓足利氏に取って代わられ、秀郷流藤原氏の嫡流が小山氏に移るなど、中世のこの地域の勢力構造を規定することになった。また、頼朝政権が確立する前から源範頼と小山・下河辺ら北関東武士団との結びつきがあり、これが後の範頼を総大将とした西征軍を北関東武士団が支え、西海合戦での困難な持久戦を完遂させた要因になったと推測されている。

 野木宮古戦場は、現在の野木神社の周辺一帯で行われた。この地は思川東岸の河岸段丘の縁に当たり、登々呂木沢・地獄谷などの沢筋が入り込む田園地帯であったと思われる。沢筋は今も残っているが、僅かな窪地に過ぎず、「地獄谷」と呼ばれるほどの急峻さを思わせる往時の面影はかなり薄れている。住宅地の奥にある野木神社は平安時代に創建された古社で、ここだけが往時の静寂さを伝えているかの様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.215540/139.708114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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玉ノ木原古戦場(宮城県七ヶ宿町) [その他の史跡巡り]

IMG_9619.JPG←標柱が埋もれた草むら
 玉ノ木原古戦場は、奥州の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦の際に、伊達政宗と上杉景勝の軍勢が戦った古戦場である。1600年、徳川家康による上杉討伐とその隙に乗じた石田三成による徳川討伐の挙兵によって、天下を二分する合戦が生起した。下野国小山まで東下した家康は、三成挙兵の方に接し、ここで反転して西へ向かった。一方、石田三成と呼応した上杉方の総大将直江兼続は、後顧の憂いを断つ為、徳川方の最上領に大軍で攻め寄せた。山形城主最上義光は、山形盆地入口を護る要衝の長谷堂城に精鋭を集めて上杉勢に対する最後の防衛線とする一方、伊達政宗の元に嫡男義康を派して援軍を要請した。政宗はこれに応じ、叔父の留守政景に兵3000を与えて山形城の東方に進出させた。この時、政景は配下の茂庭綱元に別働隊を率いさせて七ヶ宿街道を西進させた。綱元は9月25日に湯原城を攻略し、更に二井宿峠に近い玉ノ木原に於いて上杉勢との間で合戦となった。七ヶ宿は、伊達宗遠・政宗(儀山公)父子が置賜に進出して以来の深い繋がりがあった為、この地の野武士達は伊達方に付いて奮戦したと言う。

 玉ノ木原合戦は、奥羽国境の二井宿峠を押さえる要衝、屋代楯東方の山間の平地で行われた。現在は国道113号線の脇の草むらの中に標柱が建っている。この標柱がまた、草に埋もれていてわかりにくく、普通ならば気付かずに通り過ぎてしまうだろう。古くからの重要な街道の歴史の1ページを伝えている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.0175,140.288072&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:古戦場
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仁木頼章墓所(兵庫県丹波市) [その他の史跡巡り]

IMG_5954.JPG
 仁木氏は足利一門で、元々は吉良氏・細川氏等の一門と同様に足利王国とも言うべき三河国を本拠としていた。仁木氏は一門中では家格が低く、ほとんど家来並みの扱いであったことが『吾妻鑑』の記述から知られる。それが一躍歴史の表舞台で活躍して丹波守護に補任されるまでになったのは、勿論尊氏の挙兵に従ったからである。仁木頼章・義長の兄弟は、丹波篠村での倒幕戦挙兵から観応の擾乱まで終始一貫して尊氏に従って奮戦した為、尊氏から重んぜられ、頼章は晩年の尊氏の執事まで務めている。頼章と丹波の繋がりは、1336年に京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に逃れた際、室泊の軍議に基いて丹波一国の軍事指揮官として派遣されたことに始まる。この時頼章は、久下・中沢・荻野・波々伯部ら丹波国人衆を率いて高山寺城に立て籠もっている。この後、瞬く間に態勢を盛り返して再挙東上した尊氏が京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、萩野朝忠を守護代とした。しかし尊氏の傍にあって補佐し続けたことを考えれば、頼章自身はほとんど丹波に在府したことはなかっただろう。1343年に守護代の朝忠が突如高山寺城に立て籠もって室町幕府に反旗を翻して討伐されると、頼章は責任を取って丹波守護職を辞し、山名時氏が丹波守護となった。1350年、室町幕府を二分した抗争、観応の擾乱が生起して尊氏・直義兄弟が争うと、山名時氏は直義党の有力者として尊氏に抗して戦い、直義の死後にその養子直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて時氏が京都に進撃した際には(1354年)、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う。しかし直冬は一旦は京都を制圧したものの結局京都争奪戦に敗れて石見に逼塞し、時氏も本拠の山陰に退き引いた。その後は尊氏・義詮による幕政運営の中で、尊氏の執事となった頼章は重要な役割を果たした。頼章が1358年に病没した時、朝廷の公卿洞院公賢が日記『園太暦』の中で、頼章を「武家随分の重人」と評し、頼章の訃報に接して「武家政道いかん」と頼章亡き後の幕政に一抹の不安を持っていることからしても、頼章が執事として尊氏晩年の幕政に重きを成していたことが推し量られる。

 仁木頼章の墓所は、頼章が築いた高見城の東麓にある三宝寺の境内にある。板状の3つの墓と小さな五輪塔があり、どれが頼章の墓かはよくわからないし、その他の墓が仁木氏一族のものかも不明であるが、南北朝動乱を生き抜きた足利一門の武将の足跡がしっかりと伝わっていることに感慨を覚えずにはいられない。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.129614,135.042604&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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伝・芳賀氏墓(栃木県真岡市) [その他の史跡巡り]

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 真岡市には、県指定の有形文化財になっている、芳賀氏の墓と伝えられる墓石群が残っている。芳賀氏の事績については真岡城飛山城の項に記載する。7基の墓石は一般的な五輪塔ではなく、いずれも層塔型で、鎌倉~室町時代のものとされ、この地域の特色を持った墓石とされる。初めて芳賀氏を称した高澄以下のものと伝えられている。
 この墓石群については国道121号線に案内の標柱が建っており、かねてよりその存在は知っていたが、その付近を探しても場所がわからず、近くを散歩していた地元の人に聞いてもわからず、長いことその所在がわからないでいた。今回たまたま近くを通りかかったので付近を捜索し、ようやく探し当てることができた。標柱から750m程も南に下った、五行川沿いの小さな墓地にあった。「京泉鹿島戸観音堂境内にある」とHP「とちぎの文化財」に記載されているが、この観音堂は地図にも一切記載がない程の小さなお堂であった。折角の貴重な文化財でもあり、もう少し場所がわかりやすいような丁寧な案内が欲しいところである。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.468958,140.031534&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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五月女坂古戦場(栃木県さくら市) [その他の史跡巡り]

DSC02046.JPG←宇都宮尚綱の供養塔
(2006年12月訪問)
 五月女坂古戦場は、早乙女坂とも書き、戦国時代中期に宇都宮氏と那須氏が激戦を繰り広げた古戦場である。宇都宮氏20代尚綱(俊綱)は、1541年、対立していた重臣の真岡城主芳賀高経を児山城に攻め滅ぼし、家中を統制した。高経の子高照は奥州白河に逃れ、益子氏出身の芳賀高定が尚綱の支持の下、芳賀氏の当主となった。1549年、白河にいた芳賀高照は那須氏の支援を得て宇都宮氏を攻撃し、一方尚綱は、2千余騎と言われる軍勢を率いて、那須氏の拠点倉ヶ崎城(喜連川城)に向けて出陣した。那須氏は兵力わずか500騎であったが、宇都宮勢の進軍路の途中にあった五月女坂に伏兵を潜ませてこれを迎え撃った。奇襲を受けた宇都宮勢は浮足立ったが、危地に陥った当主尚綱を庇って、上三川城主横田綱維ら5兄弟が枕を並べて討死するなど、必死に防戦し双方激戦となった。その最中に、那須方の鮎ヶ瀬弥五郎実光が放った矢が尚綱に当たり、尚綱は討死してしまった。総大将を喪った宇都宮勢は崩れたって大敗し、那須氏の大勝利となった。喜連川の領民は、危機を救った弥五郎への感謝の念を込めて、以後、五月女坂を「弥五郎坂」と呼ぶようになり、現在に至っている。

 五月女坂古戦場は、国道293号線から分岐した間道にある。元々はこちらが本道で、現在の国道は新たに作られた新道である。平野部から喜連川に向かって北東に坂道を登り始めた所に「早乙女坂古戦場」の標柱が建ち、その上に討たれた宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建っている。ここは、下野の戦国史の重要な一コマであり、位置の異なる新道に「弥五郎坂」の名が受け継がれていることは、いかにこの地の人達にとって重要な出来事であったかを物語っている。今ではこの道を通る車は少なく、新道を行き交う人からはその名の由来も忘れられつつあるのだろうが、喧騒よりも静かな風景の方がこの古戦場には似つかわしい。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.702171,140.007942&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:古戦場
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伊達政宗(儀山公)墓(山形県高畠町) [その他の史跡巡り]

IMG_3614.JPG
 伊達氏9代大膳太夫政宗(儀山公)は、伊達氏中興の祖と呼ばれ、戦国末期に彗星の様に現れて奥州を席巻した独眼龍政宗(貞山公)の先祖である。南北朝時代後期に父宗遠と共に周辺地域への領土拡大を積極的に図り、1380年から85年にかけて置賜地方に侵攻して長井氏を滅ぼし、その領土を併呑した。政宗の正室紀氏は、3代将軍として絶大な権力を振るった足利義満の生母の妹であり、将軍の叔父という姻戚関係を背景として、将軍義満と鎌倉公方足利氏満との対立の中、氏満と関係の深い長井氏領へ宗遠・政宗父子で攻め入ったものと考えられている。その勢威を以って鎌倉公方や稲村・篠川御所に抗して3度にわたって兵を挙げ、降伏してからも勢力を保ち続けた。政治的手腕に長け、文武を兼ねた政宗は伊達氏中興の祖と言われることとなった。置賜併呑後、政宗は出羽高畠城(屋代城)に移って、1405年にそこで没したと言われており、高畑の地に政宗夫妻の墓がある。この墓はしばらく埋もれていたらしいが、明治21年に伊達家による歴代当主墓所の調査の際に発見されたと言う。

 丘陵上に置かれた墓は、一風変わった五輪塔で、火輪の上の風輪が縦長に伸びており、空輪は頂部の突出が無く(摩滅したものか?)球形をしている。置賜、特に米沢は、上杉氏の遺跡のみ盛んに宣伝されてよく知られているが、実際にはこうした中世の伊達氏の遺跡が多数残っている。もっと伊達氏の歴史を積極的に宣伝してもよいのにと思う。

 尚、政宗夫妻の墓は資福寺館にも建っている他、福島県伊達市内にも政宗の墓と伝えられている五輪塔が存在する。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=38.036742&lon=140.213177&z=16&did=std&crs=1
タグ:墓所
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直江石堤(山形県米沢市) [その他の史跡巡り]

IMG_1329.JPG←野面積みの石堤
 直江石堤は、正式には谷地河原堤防と呼ばれ、上杉景勝の執政直江山城守兼続が築いた堤防である。1600年、豊臣秀吉亡き後に独断を強めた徳川家康に対して激しく抗した為、関ヶ原合戦の導火線となった会津の上杉景勝は、関ヶ原合戦で西軍敗戦の後、会津120万石から大減封されて米沢30万石に移された。兼続は、景勝の居城となった米沢城下の町作りの為に、洪水の多発地帯であった最上川に築堤が不可欠と判断して、近くの赤崩山に登って形勢を検討し、この石堤を築いたと言われている。
 また、石堤の上流2.5km程の所に掘立川に導水するための堰、猿尾堰が築かれたが、兼続は堰の着工前に城下の水難火難の無事を祈って、「龍師火帝の碑」を建立したと言う。

 直江石堤は、現在公園化されており、公園の西側に延々と堤防が伸びている。現在の最上川の流路からは結構離れた場所にあるが、これは近年の河川改修によって大きく流路が変えられたためらしい。多くは雑草に埋もれているが、一部に野面積みの石堤がはっきりと見られ、特に県道151号線の下流側は規模が大きく見応えがある。
 また、龍師火帝の碑は中ノ在家楯に程近い場所にあり、城に登る前に立ち寄った。改修された導水路の脇に往時の石碑が整備されて建っており、「龍師火帝」の文字が刻まれているのがはっきりと分かる。少々行き辛い場所にあるが、兼続ゆかりの遺蹟として一見の価値がある。
龍師火帝の碑→IMG_1339.JPG

 場所:【直江石堤】
     http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.86723&lon=140.12122&z=16&did=std&crs=1
     【龍師火帝の碑】
     http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.844968&lon=140.123645&z=16&did=std&crs=1
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有明の松(茨城県石岡市) [その他の史跡巡り]

IMG_1159.JPG←有明の松、後ろは難台山
 有明の松は、南北朝時代の難台山合戦にまつわる史跡である。難台山合戦は、下野の名族であった小山義政が始めた、前後17年にもわたって引き続いた「小山氏の乱」の一合戦である。その経緯は館岸城の項に記載する。義政の子若犬丸は、小田氏を頼って難台山城に立て籠もり、上杉朝宗率いる幕府軍に攻められ、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に難台山城は落城した。この落城の際に、城主小山五郎藤綱は婦女子を城から逃した。5~6名の従者に守られた婦女子は、敵の包囲する東側を避けて、一旦山頂まで登った後、手足を血だらけにしながら闇の中を西へと降って行った。敵の追撃を避けるため、夜が明けるまでに里に下り、ようやく平地に辿り着いたところで夜明けを迎えた。ここまで来てようやく安心し、道沿いにある大松の下で一休みした時、夜明けの空が爽やかであったので、自分等の行先も、この松にあやかり、長くたくましかれとの念願から有明の松と名付けてここを立ち去ったと伝えられている。
 現在、往時の松は松クイ虫の害で伐採されて残っておらず、新たに植えられた松と石碑が建っているだけである。ここからは東方背後に難台山城が遠望でき、悲哀の歴史を感じさせる。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=36.289816&lon=140.200689&z=16&did=std&crs=1
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三ツ木原古戦場(埼玉県狭山市) [その他の史跡巡り]

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 三ツ木原古戦場は、新興勢力である小田原の北条氏綱と旧勢力である扇谷上杉朝定が戦った古戦場である。父伊勢宗瑞(北条早雲)の創業を受け継いで着々と関東に勢力を広げた2代氏綱は、1524年に要衝江戸城を攻略し、その後武蔵への勢力拡大に向けて扇谷上杉朝興と激しい攻防が続けられた。一旦は、岩槻城蕨城毛呂城などを攻略して河越城に向けて北上を続けた北条勢であったが、扇谷上杉方の激しい逆襲に遭い、これらの諸城を奪還された。しかし天文年間(1532~55年)に入ると、安房里見氏・上総真里谷武田氏の内訌と上杉朝興の死を契機として両勢力の均衡が崩れ、1537年氏綱は、朝興の跡を継いだ上杉朝定が新たに取り立てた深大寺城(神太寺古要害)を攻略し、そのまま河越城へ向けて進撃した。一方、河越城の朝定は、北条勢迎撃のため叔父の上杉朝成を大将とする軍勢を差し向け、三ツ木原で両軍は激突した。氏綱はこの合戦に打ち勝ち、上杉方の大将朝成も生け捕りとなった。この敗戦に、朝定は河越城の維持を諦めて重臣難波田氏の拠る松山城に移り、氏綱はそのまま河越城を攻略した。享徳の乱以来、扇谷上杉氏の本拠であった河越城が落ちたことで、扇谷上杉氏の衰退は決定的なものとなった。

 尚、三ツ木原では、1333年の新田義貞による鎌倉攻めの際にもこれを迎え撃った幕府軍との間で合戦があったとされる。また現地解説板では、1440年の結城合戦に関連して上杉勢と結城勢の間でも、この地で合戦があったとされるが、詳細は不明である。

 三ツ木原古戦場は、新狭山駅に程近い本田技研の隣の三ツ木公園に石碑が建てられている。周辺は市街化が進み、かつての古戦場らしい面影は微塵もない。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.874893&lon=139.436187&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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苦林野古戦場(埼玉県坂戸市) [その他の史跡巡り]

IMG_0828.JPG←古墳上の石碑と解説板
 苦林野古戦場は、南北朝時代の古戦場である。1351年の観応の擾乱の時、実弟足利直義を破って室町幕府権力の一元化を成し遂げた足利尊氏は、薩埵山合戦の勝利に大きく貢献した宇都宮氏を上野・越後の守護とし、その重臣芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築して鎌倉府の体制を刷新した。しかし尊氏が死ぬと、鎌倉公方足利基氏(尊氏の次男)は、かつて幼い自分を養育した重臣でありながら、直義方に付いたため尊氏に追放された上杉憲顕を、再び執事(関東管領)に復帰させようとした。1362年のことである。その為、まず宇都宮氏の越後守護職を取り上げ、元の憲顕を越後守護に任じた。この処置に守護代であった芳賀禅可が反発し、上杉方と越後で戦った後に南下して上野に入った。一方、基氏は、反旗を翻した禅可を討伐するため平一揆・白旗一揆らを引き連れて武蔵に着陣し、禅可と合戦を行った。これが武蔵岩殿山合戦と呼ばれる戦いで、苦林野はその主戦場であったと『太平記』に記載されている。この戦いに打ち勝った基氏は、宇都宮氏を討伐するためそのまま下野に進軍し、ここで宇都宮氏綱の降伏を受け入れた。これによって薩埵山体制は終焉を迎え、鎌倉府(鎌倉公方・関東管領)の歴史は新たな段階に入ることになった。
 尚、室町後期に生起した長尾景春の乱の際、景春派の討伐に当たった扇谷上杉氏の家宰太田道灌が、景春の部将矢野兵庫助と1477年にこの地で激突したと伝えられている。

 苦林野古戦場は、善能寺塁から北西に240mの付近にある。小さな前方後円墳の上に、石碑と解説板が建っている。また、古墳の後円部には江戸時代後期に建てられた供養塚が残っている。戦いの規模はそれほど大きくないが、中世関東の歴史の一つの転換点となった場所であり、感慨深い。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.964348&lon=139.352018&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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境根原古戦場(千葉県柏市) [その他の史跡巡り]

IMG_9788.JPG←合戦の首塚・胴塚
 境根原古戦場は、酒井根合戦場とも呼ばれ、室町時代後期に太田道灌と千葉孝胤が一戦を交えた古戦場である。1476年に生起した長尾景春の乱の際に、景春方に付いた千葉一族討伐の為、1478年、扇谷上杉定正は家宰の江戸城主太田道灌と赤塚城主千葉自胤(武蔵千葉氏)らを下総国府台に向けて出陣させた。対する千葉孝胤は、原景弘・円城寺図書之助・臼井俊胤ら一族重臣を率いて境根原で迎撃した。合戦の様子は明確には伝わっていないが、『鎌倉大草紙』によれば孝胤の重臣木内氏・原氏らが討死したとされ、相当の激戦の末に孝胤方が敗れ、孝胤は一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城に籠城した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠・千葉自胤を率いて臼井城を攻囲したが、守りが堅く容易に落ちなかった。太田資忠は、ようやく臼井城を落城させたが、自身は乱戦の最中に討死したと伝えられている。

 境根原古戦場は、現在は光ヶ丘団地に変貌している。最も激戦が展開されたのは麗澤大学附近の小字赤作であったと言われ、赤作の名も一説には、討死した将兵の血でこの付近の野原が真っ赤に染まったことから付いたとも言う。いずれも既に景観が失われて久しいが、団地の中に合戦の首塚・胴塚と伝わる2基の円球状の塚が残っており、往時の歴史を伝えている。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.828336&lon=139.959155&z=16&did=std&crs=1
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源頼朝上陸地(千葉県鋸南町) [その他の史跡巡り]

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 源頼朝上陸地は、石橋山の合戦で大敗した頼朝が、再起を期して安房に逃れた際に上陸した場所である。1180年、頼朝は、平家の専横を憎む以仁王の令旨を受けて、平家打倒の兵を挙げたが、攻め寄せた大庭景親らの平家軍と石橋山で戦い、衆寡敵せず大敗した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の手引によって真鶴の岩海岸より小舟で脱出し、安房へ落ち延びた。上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされ、頼朝はここで北条時政、三浦義澄らに迎えられて合流した。この後、房総一の兵力を擁していた上総介広常の元へ向かうべく、長狭に移動し、ここで平家方の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破して、安西景益の館(平松城か?)に入った。その後、坂東各地の豪族に書状を送って味方を募り、源氏恩顧の諸豪を従えた頼朝は、鎌倉に入って武家政権樹立の基を築いた。

 源頼朝上陸地には、現在石碑と解説板が建っている。この海岸からは対岸の三浦半島がよく見えるが、頼朝が船出したのは更に遠く相模湾を越えた伊豆半島で、どれほどの時間と労苦を費やしてこの地まで逃れたかは想像に余りある。今では、夏にはのどかにバーベキューなどが行われる浜辺である。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.118071&lon=139.828461&z=16&did=std&crs=1
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善得寺跡(静岡県富士市) [その他の史跡巡り]

IMG_9050.JPG←善得寺跡の石碑
 善得寺は、戦国史上に名高い、甲相駿三国同盟が締結された寺である。1363年に下野国那須雲巖寺の大勲策禅師が開山した寺で、戦国期には駿河東部第一の寺となり、善得寺城も併設されたと言われる。天文年間(1532~55年)、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康の間で駿河東部を中心とした抗争が繰り広げられたが、上洛を目指して西に進出したい義元、北信を巡って越後上杉氏との抗争を行う信玄、関八州制圧を目指して東と北に勢力を伸ばしたい氏康の、3者の思惑が一致し、今川義元の軍師で善得寺の住持でもあった太原雪斎の仲介により、1554年、甲相駿三国同盟が締結された。この時、善得寺で今川・北条・武田の3大名の会盟があったといわれ、「善得寺の会盟」とも称されるが、3大名の当主が一堂に会して、と言うのは史実としては疑わしいとされている。後に武田氏が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、善得寺は尽く兵火により焼失した。

 善得寺の場所には、いくつかの説がある様だが、一つは善得寺城址とされる場所、もう一つは現在の善得寺公園付近である。この公園内には、歴代住持の墓の中に太原雪斎の墓も残っている。現在では小さな公園に過ぎず、場所の比定もされていないものの、戦国史に名高い場所として一度は訪れておきたい場所である。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.168872&lon=138.696165&z=16&did=std&crs=1
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木原畷古戦場(静岡県袋井市) [その他の史跡巡り]

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 木原畷古戦場は、三方ヶ原の戦いの前哨戦として行われた戦いの場である。1572年、室町幕府将軍足利義昭の要請に応えて西上作戦を開始した武田信玄は、信濃から青崩峠を越えて遠江に侵攻した。天竜川沿いに南下した信玄の本軍は、途中徳川方から寝返った犬居城主天野景貫の先導を得て天方城などを降しつつ南下を続けた。信玄は、一説には久野城を攻めたが久野宗能の激しい抵抗に遭ってそのまま通過したと言われ、東海道を西に向かって木原・西島に陣を張った。一方、浜松城の徳川家康は寡兵であったが、遠江の動揺を恐れて出陣した。この時、徳川方の偵察隊内藤信成・本多忠勝が木原畷で武田軍と衝突し、小競り合いを行ったとされる。即ち木原畷の戦いは、来るべき三方ヶ原の戦いに至る前の、小規模な局地戦であった。敗れた徳川勢は敗走し、これを追撃した武田勢との間で一言坂合戦が行われ、本多平八郎忠勝が活躍して勇名を馳せることとなった。

 木原畷古戦場は、許禰神社に石碑と解説板が建っている。神社のすぐ南の道路は旧東海道で、近くに一里塚も築かれている。木原畷も一言坂も東海道筋の戦いで、街道を押さえることがいかに重要だったのかを現代に伝えている様である。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.743975&lon=137.902087&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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会下山楠木正成本陣跡(兵庫県神戸市) [その他の史跡巡り]

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 会下山は、1336年の湊川合戦の際に楠木正成が本陣を敷いた場所である。この年の正月、京都争奪戦に敗れた足利尊氏は、丹波を経由して、赤松円心の勢力圏であった兵庫まで退き、更に室の津まで落ち延びた。ここで「室泊の軍議」と呼ばれる、今後の行方を左右する重要な軍議が開かれた。即ち、尊氏が一旦九州まで落ち延びてから再挙東上する迄の間、多くの一族武将を西国各地に派遣して、来るべき新田勢による追撃の防衛に当たらせることにしたのである。こうして今後の処置を抜かりなく行った尊氏は僅かな兵を連れて九州に向かい、少弐頼尚に迎えられて筑前に入った。多々良浜の合戦で、兵数的に圧倒的な不利な状況にもかかわらず、大逆転によって勝利した尊氏は、鎮西諸豪を傘下に収め、都での敗戦から僅か3ヶ月で態勢を立て直し東上を開始した。5月10日に備後の鞆の津を発向した足利勢は、尊氏が水軍を率いて海路を進み、弟の直義が大軍を率いて陸路を並進した。備中福山城三石城の新田勢を追い散らし、足利勢は兵庫に迫った。24日、直義は陸路軍を三手に分け、中央の大手軍を直義が直率し副将に高師泰、山の手軍の大将を斯波高経、浜の手軍の大将を少弐頼尚として進撃した。対する新田義貞は、二本松から和田の岬にかけて本軍を布陣して尊氏の直率する水軍の上陸に備え、和田の岬北西に位置する会下山に楠木正成が本陣を敷いて、足利方の陸路軍に備えた。合戦が始まると、足利方は水軍を擁する利点を活かして、細川定禅率いる水軍を新田軍の背後に当たる生田の森に迂回上陸させ、義貞を東西から挟撃する姿勢を示した。義貞は挟撃の危険に晒されて全軍を東に後退させた為、会下山に拠る楠木軍は孤立することとなった。正成は、元々この合戦に臨むに当たって死を覚悟していたと言われ、眼下に迫る足利の大軍を前に一歩も退かず、奮戦して一族もろとも自刃して果てた。尊氏は、正成の死を深く悲しみ、首実検して軍法に従って梟首した後、河内の遺族の元に首を送り届けたと伝えられている。

 会下山は、標高50~60m程の丘陵地で、ここからは義貞が全軍を布陣させた浜手から大阪湾を一望できる要衝で、会下山公園内に東郷平八郎の筆になる「大楠公湊川陣之遺蹟」と刻まれた石碑が建っている。公園付近は急峻な地形と狭い路地が入り組んだ住宅地に囲まれているので、車だと近づくのも容易ではない。往時はなおのこと、近づき難い地形だったことだろう。ここに布陣した正成の心中はいかばかりであったろうか。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.67776&lon=135.157463&z=16&did=std&crs=1
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上杉氏発祥地(京都府綾部市) [その他の史跡巡り]

IMG_7628.JPG←「上杉姓氏発祥之地」の石碑
(2014年4月訪問)
 上杉氏は、勧修寺流藤原氏の流れより出た中級官人の家柄であった。その祖、勧修寺(藤原)重房は、鎌倉幕府6代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向した。重房は丹波国何鹿郡上杉荘を賜り、上杉氏を名乗った。その子頼重の娘清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏の姻族として飛躍する機会を得た。清子の兄憲房は、若き尊氏の良き相談相手となって1336年正月の京都争奪戦で尊氏を庇って討死にし、その子憲顕は、初期の室町幕府を兄に代わって主宰した直義から絶大な信任を得て鎌倉府の執事となり、以後上杉氏の活動の拠点は関東と守護管国であった越後に移った。憲房の系統を主として、山内・扇谷・詫間・犬懸の4つの上杉氏が勢力を有し、「上杉四家」と呼ばれた。当初、関東管領には上杉四家が相次いで就いたが、途中からは山内上杉氏の系統のみがこれを世襲することとなった。戦国時代に入ると、小田原北条氏が勢力を伸ばし、3代氏康が河越夜戦で大勝して一気に関東南半の覇権を握ると、山内上杉憲政は領国の上野も支えられず、越後守護代の長尾景虎を頼って落ち延びた。景虎は憲政の請いを容れて関東に出兵、北条氏の居城小田原城を包囲し、鶴岡八幡宮で関東管領職に就任し、上杉氏の名跡を譲られて上杉政虎(後の謙信)と名を改めたことは、よく知られている通りである。

 この上杉氏の発祥の地が、綾部市にある。国道27号線の上杉交差点の付近で、線路を越えて東側に「上杉姓氏発祥之地」の石碑が建っている。ここから一山越えれば、そこはもう丹後の舞鶴で、上杉荘は丹波の北端に位置していることがわかる。南北朝フリークにとっては避けては通れない史跡の一つである。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.19.12.4N35.21.28.2&ZM=9
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足利尊氏挙兵地(京都府亀岡市) [その他の史跡巡り]

IMG_6237.JPG
 室町幕府の初代将軍となった足利尊氏は、元の名を高氏と言った。鎌倉幕府の御家人筆頭として、また頼朝の血脈が絶えて以来の源氏の嫡流として、鎌倉幕府の執権北条氏から厚遇を受け、得宗北条高時の一字を拝領して、高氏と名乗っていた(得宗とは北条氏の惣領のこと)。しかし鎌倉時代後期になると北条氏の得宗専制体制が強化され、得宗家の家来筋に当たる内管領が権勢を強め、また諸国の守護も多くを北条一門が独占する様になると、足利氏も圧迫を受けるようになったと考えられている。そして1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が、島を脱出して名和長年の支援で伯耆船上山に立て籠もると、狼狽した幕府首脳は名越氏などの北条一門と共に、高氏を船上山討伐に出陣させた。途中分国であった三河で一族の軍勢と合流して上洛した高氏は、京から丹波に入り、伝来の所領であった丹波篠村の篠村八幡宮に本陣を敷くと、この地で後醍醐天皇の綸旨を掲げ、倒幕の旗を挙げて全国の武家に参陣を促した。そして、一族と共に戦勝祈願の願文を捧げた。4月29日のことであったと伝えられる。こうして挙兵した高氏の元には、北条氏支配に反感を募らせていた諸国の武家が多数参集し、高氏はこれらを率いて京に進撃し、5月7日に六波羅探題を滅ぼして、建武の新政が始まる端緒となった。京に還幸した後醍醐天皇は、高氏を勲功第一とし、多くの所領と共に、自らの諱「尊治」の一字を与え、「尊氏」と名を改めさせた。
 しかしこうして始まった建武の新政は失政相次ぎ、諸国の武家の不満は以前にも増して高まった。そして1335年の中先代の乱を契機として、尊氏は新政より離反し、伊豆竹之下で新田義貞の討伐軍を打ち破り、再び京都に進撃した。しかし翌36年1月30日、一旦制圧した京都攻防戦に敗れた尊氏は、再び丹波篠村八幡宮に逃れてここで残兵を集め、再起を祈願した。この後、兵庫に出て、室津から九州に落ち延びた尊氏は、瞬く間に勢力を盛り返し、室町幕府を開くこととなった。

 足利尊氏の挙兵の地である篠村八幡宮は、亀岡市街の東の外れに位置する。それ程大きくはない、よくある程度の広さの境内と社殿に過ぎないが、「足利高氏旗あげの地」という石碑の他、足利一門が矢を奉献して塚の様になったという「矢塚」や、足利家の軍旗を掲げた「旗立楊(やなぎ)」などの史跡が残り、太平記や梅松論に伝えられる往時の状況が、目に見える様である。よく見ると、境内の林の中に土塁状の土盛が見られたが、まさか往時の陣跡であろうか?この地を訪れるのは2000年以来14年ぶりで、何とも懐かしかった。
矢塚→IMG_6243.JPG
IMG_6245.JPG←旗立楊
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.36.50.8N34.59.58.4&ZM=9
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東金御殿(千葉県東金市) [その他の史跡巡り]

IMG_2570.JPG←御殿跡の現況
 東金御殿は、徳川家康の鷹狩りの際の宿泊施設である。家康は、江戸開府後、関東各地で鷹狩を行い、その際に御殿建設を命じたが、東金御殿もその一つである。家康の命を受けた佐倉城主土井利勝が、1613年から翌年にかけて東金代官嶋田次右兵衛尉重次伊栢を造営に当たらせたもので、東金辺で鷹狩りを行なう将軍(大御所)の宿泊施設であった。しかし1630年の大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行なわれず、1671年に東金が幕府直轄地から福島の板倉藩領となった際に、御殿は取り壊されたと言う。
 東金御殿は、現在の県立東金高校の敷地にあった。ここはかつての東金城の東麓に当たる。周辺は市街化が進み、遺構は全く残っておらず、解説板が建つだけである。尚、小西城下の正法寺には、東金御殿の御殿建築の一部が移築され、講堂となって残っている。
正法寺に残る御殿建築→IMG_2467.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.560063&lon=140.356481&z=16&did=std&crs=1
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発坂峠古戦場本陣跡(千葉県いすみ市) [その他の史跡巡り]

IMG_6953.JPG
 発坂峠古戦場は、万喜城主土岐頼春が押し寄せた安房里見氏の軍勢を撃ち破った古戦場である。戦国末期の1589年、それまでの度々の万喜城攻撃に失敗してきた里見義康は、またしても万喜城攻撃に軍勢を派遣した。安西遠江守が大手から、山川豊前守が搦手から攻撃し、正木頼忠が後詰となった。里見勢は、別働隊300人を坂水寺・発坂峠経由で東から背後に回り込ませて、前線に出張った頼春を挟撃しようと目論んだ。しかし武略に優れる頼春は、農民からの注進で里見軍の動きを察知し、旗立山に陣を移し、発坂峠に伏兵を配置して待ち伏せし、里見勢を撃破大勝したと言う。

 発坂峠古戦場は、国道465号線沿いにあり、閉鎖された旧道トンネルの手前に小さな神社と「発坂峠古戦場本陣跡」と刻まれた石碑が建っている。ここから50m程の高さを登れば旗立山に至り、そこにも石碑や解説板がある様だが、訪問した時はもう日没間近で登ることはできなかった。1589年と言えば小田原の役の前年で、豊臣秀吉と小田原北条氏の軍事的緊張が極度に高まっていた時期である。発坂峠の戦いは、歴史の本流からは外れた、房総半島の一角での局地戦に過ぎないが、土岐頼春の武名を遥か後世にまで轟かせる戦いとなった。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.266844&lon=140.367413&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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犬掛古戦場(千葉県南房総市) [その他の史跡巡り]

IMG_4198.JPG←古戦場の碑と解説板
 犬掛古戦場は、安房里見氏の内乱「天文の内訌」の古戦場である。伝承では、1518年に里見義通が病没すると、その嫡子義豊がまだ幼かったため、弟の実堯が後見役となって家中を取り仕切った。その後、義豊が元服しても実堯は国を譲らず、1533年、義豊は叔父実堯を稲村城に攻め滅ぼした。しかし翌34年、今度は実堯の嫡子義堯は小田原の北条氏綱の支援を得て、父の仇である義豊を犬掛に攻め破り、討ち滅ぼしたとされる。これによって里見氏の家督は、庶流の義堯の系統に移り、これ以後を後期里見氏とも称する。
 但し、近年ではこの伝承に異説が出て有力視されているらしい。いずれにしてもこの内乱の実態は、義豊を支援する小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・真里谷武田氏と、扇谷上杉氏と熾烈な抗争を続けて義堯を支援した北条氏綱との代理戦争であったと考えられている。

 犬掛の戦いは、里見氏の支城滝田城里見番所の間に広がる平久里川の氾濫原で行われた。東の山裾には古い小さな「古戦場」と刻まれた石碑と解説板が建てられている。また、その北東100m程の所には里見義通・義豊父子の墓が建っている。

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.078737&lon=139.903401&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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三船山古戦場(千葉県君津市) [その他の史跡巡り]

IMG_3118.JPG←山頂部の砦跡
 三船山古戦場は、小田原北条氏と安房里見氏の間で戦われた古戦場である。1564年、第二次国府台合戦で里見氏を撃ち破った北条氏は、勝浦正木氏や東金酒井氏らを従属させ、上総侵攻の機会を伺っていた。1567年、上総の重要拠点で里見義弘の本拠でもあった佐貫城を攻略する為、三船山に砦を築いて藤沢播磨守・田中美作守らに守らせた。一方、体勢を立て直した里見氏は、佐貫城防衛の為逆襲に転じ、三船山砦に攻め寄せた。急報を受けた北条氏政は小田原城を出立して江戸湾を渡海し、三船山砦に本陣を敷いた。里見方は正木時茂の養子憲時率いる8000余騎の本隊が佐貫城から出陣して三船山の北条勢に突撃した。激戦の中、時茂率いる里見方別働隊が北条勢を背後から急襲し、挟撃された北条勢は一気に劣勢に陥り、殿を務めた岩槻城主太田氏資が討死して北条氏は大敗を喫した。この敗北によって、北条氏の両総攻略は一大蹉跌を余儀なくされ、一旦従属した国衆は再び離反した。一方、追い込まれていた里見氏は勢いを盛り返し、下総に侵攻するなど1576年の北条氏との和睦まで優勢を保つこととなった。

 三船山古戦場は、標高138.7mの三船山一帯で戦われた。この山の山頂部は広くなだらかな丘陵地となっており、それほど標高は高くないが眺望に優れ、東京湾一帯が一望できる。大軍を駐屯させるには便利であろうが、地形的な要害性はそれほどなく、また現在でも複数のハイキング路が整備されているので、攻め寄せやすい地勢だったものと思われる。山頂部には「三船山陣跡」の標柱・解説板が設置され、そこからやや東に離れた場所に、大きな塚が3つ築かれている。これはこの戦いで戦死した北条方の将兵を弔ったものらしい。ハイキングに適した、房総半島の戦国史の転機となった古戦場である。
山頂に残る塚→IMG_3124.JPG

 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.30034&lon=139.894332&z=16&did=std&crs=1
タグ:古戦場
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武田勝頼滅亡地(山梨県甲州市) [その他の史跡巡り]

DSC08301.JPG←景徳院に残る勝頼達の墓
 武田勝頼は、武田信玄の4男で、信玄死後の武田氏を率いた。「率いた」と言うのは、家督は継いでいなかった可能性があるからである。信玄が今際の際に家督を継がせたのは、孫に当たる勝頼の子信勝で、勝頼は信勝が元服するまでの後見に過ぎなかったという説がある。それは「勝頼」の名乗りから見ても説得力がある。「頼」の字は勝頼の母方諏訪氏の通字で、甲斐武田氏の通字「信」は使っていないからである。そうした微妙な立場上からの劣等感があったのか、勝頼は父信玄の喪が明けてから、積極的な外征策に転じる。戦巧者の信玄でさえ落とせなかったとされる遠江の要衝高天神城を落とし、西へ西へと兵を進めた。しかし1576年、長篠設楽ヶ原で織田・徳川連合軍を強攻して致命的な大敗を喫し、信玄以来の多くの重臣を失い、武田氏の勢力拡張は終わりを告げた。1578年の越後上杉氏の内乱「御館の乱」では、景勝・景虎両者の和睦仲介に失敗し、景勝と和睦したことで景虎の敗北を招いた。景虎は北条氏政の実弟であったため、景虎の滅亡により小田原北条氏との同盟関係は破綻し、勝頼は上杉氏との同盟を結んだ。一方の北条氏は、西の徳川家康と同盟し、駿河・遠江において武田領を東西から挟撃する態勢を取った。勝頼は、戦場では勇猛な武将であったが、政略は稚拙であったらしい。殊に北条・徳川からの挟撃を許した外交の失敗は、武田氏の命運に深刻な事態をもたらした。西から徳川が攻めてくれば出撃してこれを撃退したが、すると今後は東から北条が攻めてくる。結局字義通り東奔西走して両軍を追い払うのに手一杯となり、国内は疲弊するばかりとなった。そして1582年、木曽義昌の武田氏からの離反をきっかけとして、織田軍による甲州征伐が開始された。信長の嫡子信忠と滝川一益を先鋒とした織田軍は伊那谷を進撃し、徹底抗戦した高遠城を除いて武田方は総崩れとなった。勝頼は領国の崩壊を前に軍議を開き、新たに居城としたばかりの新府城を自焼し、小山田信茂の岩殿城に落ち延びることに決した。しかし笹子峠まで来た所で信茂の裏切りを知り、やむなく天目山に籠もって最後の防戦をすることとなった。この時の勝頼主従は、わずか50名ほどであったと言われる。しかし田野で滝川一益の軍勢に捕捉され、秋山紀伊守光継・阿部加賀守・小宮山内膳正友信・土屋惣蔵昌恒らが迫り来る織田軍を激闘して防ぐ中、勝頼とその妻北条夫人、嫡子信勝は田野で自刃し、ここに新羅三郎義光以来の源氏の名門甲斐武田氏は滅亡した。

 ぶどうの産地として有名な勝沼より東、国道20号線から県道218号線にかけて、勝頼の最後の足跡が点々と記されている。勝頼主従が投宿し、縁者の理慶尼がその最後の有り様を語り継いだとされる大善寺や、四郎作古戦場・鳥居畑古戦場・土屋惣蔵片手切などである。そして景徳院には勝頼・北条夫人・信勝の墓があり、その遺骸を葬った場所に建てられた没頭地蔵や、自刃した生害石が残っている。これらの点在する史跡を西から辿ると、勝頼主従が徐々に山間の地に追い詰められていったことがよくわかり、いやが上にも滅亡の悲劇性が増してくる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.48.21.4N35.38.15.0&ZM=9
     (景徳院)
タグ:墓所
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浦添ようどれ(沖縄県浦添市) [その他の史跡巡り]

DSC05528.JPG←陵墓の復元石垣
 浦添ようどれは、琉球王国中山王の陵墓である。英祖王統の初代英祖王が1261年に築いたと言われ(但し英祖王統はまだ実在が確定していない)、1620年に尚寧王が修築して、英祖王墓の傍らに尚寧王自身と尚寧一族の陵墓を築いた。尚、「ようどれ」とは夕凪の意味である。
 浦添ようどれは、浦添城の北側の山腹に築かれている。琉球風の、角部が弧を描いた総石垣の壮麗な陵墓であったが、沖縄戦で徹底的な破壊を受け、岩盤まで破壊されるほどの被害を受けたが、近年往時の姿に再建復元された。本土の陵墓や石垣技術と比べると明らかに異質なもので、現在は日本国として一括りにまとめられている沖縄が、かつては完全に独自の文明を花開かせていたことが、浦添ようどれを見るとよく分かる。墓室は横穴式で、内部も石造りにしており、英祖王陵である西室の内部は、付近にある「浦添グスク・ようどれ館」に復元されており、見ることができる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E127.43.59.5N26.14.37.8&ZM=9
タグ:墓所
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梶原塚(静岡県静岡市葵区) [その他の史跡巡り]

DSC05115.JPG←山頂の梶原塚
 梶原塚は、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時終焉の地である。景時の事績については梶原景時館の項に記載する。1199年、2代将軍頼家の時、鎌倉の御家人衆から弾劾されて鎌倉を追放された景時は、翌年1月再起を期して一族を率い上洛の途に就いた。しかし清美ヶ関付近で鎌倉の命を受けた駿河の武士達に発見されて合戦となった。一族家臣33人は死力を尽くして戦ったが次第に討ち取られ、最後を覚悟した景時とその子景季、景高の3人は、牛ヶ谷の山(現在の梶原山)の山頂を目指して登っていった。そして、湧き水で顔を洗い、喉を潤し、鬢のほつれを直して身を整え、山頂で自害して果てたと言う。
 現在梶原山の山頂は公園化され、景時親子を供養した塚が建ち、地元で梶原塚と呼ばれている。また「梶原景時終焉之地」と刻まれた立派な石碑も建てられている。山頂からは駿河湾が一望できる景勝地で、その無念さとは裏腹に良い死に場所を得たのだと、わずかながら心慰められる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.26.5.3N35.1.11.8&ZM=9
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一言坂古戦場(静岡県磐田市) [その他の史跡巡り]

DSC05027.JPG←一言坂の旧道
 一言坂古戦場は、遠江に侵攻した武田軍と徳川軍との間で戦われた戦いである。1572年、室町幕府将軍足利義昭の要請に応えて西上作戦を開始した武田信玄は、信濃から青崩峠を越えて遠江に侵攻した。天竜川沿いに南下した信玄の本軍は、途中徳川方から寝返った犬居城主天野景貫の先導を得て天方城などを降しつつ南下を続けた。一方、浜松城の徳川家康は寡兵であったが、遠江の動揺を恐れて出陣した。徳川軍は武田軍と遭遇し、三箇野川で戦いとなったが敗れ、浜松城へと敗走したが、一言坂で追いつかれた。この時、本軍を逃すため殿として本多平八郎忠勝と大久保忠佐が残り、武田軍と再び干戈を交えた。忠勝は、「蜻蛉切り」と言われた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ草に火をかけて敵を撹乱し、味方の軍を見事に退却させた。敵の武田軍も、その見事な戦いぶりを讃え、「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭に 本多平八」という落首を磐田市国府台に掲げたと言う。
 一言坂は、現在でも国道1号線が通る交通の要地で、旧道は1号線より50m程北に通っているが、1号線沿いの坂の途中に石碑と解説板が建っている。頻繁に車が行き交う現代からは遠く離れた、戦国の世の一コマである。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.50.29.9N34.43.20.6&ZM=9
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千本浜古戦場(静岡県沼津市) [その他の史跡巡り]

DSC04886.JPG←千本浜の首塚
 千本浜古戦場は、戦国時代末期の北条・武田両軍の激戦の地である。小田原の北条氏政と甲斐の武田勝頼は、越後上杉氏の内乱「御館の乱」を巡って対立関係となり、駿豆国境地域の支配を巡って激しく争った。特に戸倉城三枚橋城を拠点に両軍は厳しく攻防を繰り返し、1580年9月には千本浜で両軍による激戦が展開された。
 近代に入った後の明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下から、たくさんの頭蓋骨が発見され、千本浜合戦の戦死者のものと言い伝えられてきた。昭和29年に、人骨研究の権威鈴木尚東大教授の調査によって、当時のものと確認されたと言う。10代後半の若者の骨が多く、頭蓋骨の数と刀傷の深さから戦いの激しさが伺われたと、現地解説板に記載されている。
 千本浜古戦場には、明治期の発見時に骨を集めて弔った首塚が築かれ、現在でも本光寺の脇に残っている。塚には大きく立派な石碑が建ち、往時の歴史を留めている。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.51.6.6N35.5.26.9&ZM=9
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塩買坂古戦場(静岡県菊川市) [その他の史跡巡り]

DSC07681.JPG←古戦場の坂道
 塩買坂古戦場は、今川氏6代当主義忠が非業の死を遂げた古戦場である。応仁文明の大乱の時、東軍に付いた駿河守護今川義忠は、東軍の主将細川勝元の指令で西軍方の斯波義廉の領国であった遠江に侵攻し、横地氏・勝間田氏らの義廉方国人領主と戦った。1476年2月、義忠は500騎を従えて大井川を越え、勝間田城、次いで横地城を攻め落とし、横地秀国・勝間田修理亮両将を討死させた。義忠はその凱旋の途次、夜半に塩買坂に差し掛かったところで、横地・勝間田両軍の残党によって襲撃されて討死した。今川氏では、これをきっかけにして義忠後継を巡る争いが起き、これを収めて活躍したのが伊勢宗瑞(北条早雲)であった。

 塩買坂古戦場は、義忠の菩提寺でもある正林寺付近の坂道(県道)で、正林寺の参道入口に古戦場と刻まれた大きな灯籠が建っている。正林寺は後年、宗瑞の働きで無事に家督を継ぐことができた今川氏親が、1517年に父義忠の追善供養のために創建した寺で、義忠の墓が建っている。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.7.54.1N34.41.45.4&ZM=9
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三方原古戦場(静岡県浜松市北区) [その他の史跡巡り]

DSC05841.JPG←古戦場碑
 三方原古戦場は、上洛を目指す武田信玄とそれを迎え撃った徳川家康が戦った古戦場である。1572年、15代将軍足利義昭の要請を受ける形で開始された信玄の西上戦は、信玄率いる本軍が信濃から青崩峠を越えて遠江に入り、犬居城を経由して二俣城を取り囲み、2ヶ月の包囲戦の上、落城させた。この時の武田勢の兵力は2万5千と言われる。一方、織田信長と同盟して武田勢に抗した家康は寡勢であり、信長からの援軍を含めても1万1千の兵力しかなかった。そこで、浜松城に籠城して武田勢を迎え撃とうとした家康であったが、信玄は案に相違して、浜松城を素通りして三方原台地へと向かった。これを見た家康は、居城を素通りされて領国を蹂躙されるは恥辱であると激怒し、家臣の反対を押し切って武田勢を背後から襲う強攻策に転じたとされる。こうして、家康を野戦に引きずり出した信玄は、三方原で徳川勢を迎え撃ち、12月22日に激戦が行われた。しかし、わずか2時間の戦闘で徳川勢は大敗し、家康の身代わりとなって死んだ夏目吉信以下多数の家臣を失い、信長から派遣された援将平手汎秀まで討たれた。家康も武田勢に逐われて命からがら浜松城に逃げ帰り、馬上で脱糞したと伝えられている。この大敗を深く心に刻んだ家康は、「顰像」と呼ばれる有名な絵を描かせ、終生自らへの戒めにしたと言う。一方、徳川勢に圧勝した信玄であったが、野田城を落した後に病に倒れ、上洛の夢は潰えた。

 三方原の戦いは、浜松城の北方約10kmの位置で行われたと言われている。国道257号線沿いの三方原墓園の駐車場脇に古戦場の石碑が建てられている。この他にも、浜松城のほど近くに犀ヶ崖、夏目吉信墓、本多忠実墓などの史跡がある。今では市街化が進み、往時とは景観が一変しているが、関連史跡も多く興味深い。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.42.17.1N34.47.26.2&ZM=9
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