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古城めぐり(京都) ブログトップ
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二条城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2939.JPG←本丸周辺の水堀と石垣
 二条城は、上洛の際の将軍の宿所に当てるため、徳川家康が京に築いた城である。関ヶ原合戦後、実質的に天下を手中に収めた家康は、1601年に西国の諸大名に造営費用と普請役を課し、所司代板倉勝重を造営総奉行として翌1602年に二条城の築城を開始した。同年、家康は征夷大将軍の宣下を伏見城で受け、1603年、できて間もない二条城に入って御所に参内して「拝賀の礼」を行った。続いて、二条城で重臣・公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。1611年、家康は本来主筋に当たる豊臣秀頼を二条城に招き会見を行った。この時、秀頼の側にはその身を守るため加藤清正が付き従った。豊臣家を滅ぼした両度の大阪の陣では、大御所家康と2代将軍秀忠は、二条城に駐在して幕府方の本営となった。1619年、徳川和子(秀忠の娘)の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修が行われた。1624年、後水尾天皇の行幸に備えて、大改修が行われた。それまでの本丸は現・二ノ丸の位置にあったが、城域を西に大幅に拡張し、現在の縄張りとなった。現在残る二ノ丸御殿も基本的にはこの時のものである。1626年、3代将軍家光は、改修成った二条城に後水尾天皇を迎え、5日間に渡って各種の宴が催された。この時が二条城の最盛期で、その後、後水尾天皇が上皇となると行幸御殿は後水尾院の御所に移築され、また多くの建物が解体撤去された。1634年の家光の上洛以降、230年間将軍が二条城に入ることはなく、その間、落雷で天守は焼失し、また大火で本丸御殿や隅櫓などが焼失した。幕末の動乱期になると、14代将軍家茂の上洛の為、1862年に荒れていた城の整備・修復が行われ、63年に家茂が上洛して二条城に入った。1866年、徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けた。翌67年10月、15代将軍慶喜は二条城の二ノ丸御殿大広間に在京諸藩の重臣を集め、大政奉還を行った。慶喜が大坂城に撤収すると、二条城は朝廷に接収され、幕府の城としての役目を終えた。

 二条城は、世界遺産にもなっている有数の観光地でもあり、ここで多くを語る必要はないだろう。環郭式の総石垣の平城で、国宝・重文建築が多数残っている。二ノ丸は幕府の権威を示す豪壮華麗な様式で、特に唐門は近年修復されて素晴らしい姿を現している。一方で、二ノ丸御殿内の障壁画や天井画などは劣化が進んでおり、今後の修復が望まれる。本丸は、幕末の財政難の影響で、出枡形門からして質素である。二条城は現存遺構が多すぎて、2時間掛けても外周までは回りきれなかった。また、隅櫓・天守台・西門枡形など、周辺の絶好の撮影スポット付近が立入禁止で近づけない所が多く、植栽に邪魔されて綺麗に撮影できず、消化不良気味になってしまったのは残念だった。何年先になるかわからないが、再訪必須だなぁ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.014032/135.747671/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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新庄城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2652.JPG←尾根鞍部の堀切
 新庄城は、丹波小守護代として船井郡を領した井上氏の居城である。歴代の城主は、文明年間(1469~86年)以降、井上雅楽助・井上孫五郎・井上又六と続いた様で、丹波守護細川政元の奉行人波多野秀久の奉書や守護代上原元秀の遵行状を井上氏に発出している。また『丹波志』によれば、戦国後期には井上氏は没落していたが、井上治部少輔は明智光秀に仕えて丹波平定の先鋒となり、古邑を回復したと言う。

 新庄城は、標高230m、比高110mの城山に築かれている。城山は南北2峰あり、北の峰に本城、南の峰に出城を置いている。現在はほとんど人が入らない山らしく、城内は全体に藪が多い。また東の谷戸からの登城路があるが、倒木が多く一部では道が消失しており、結局斜面直登になる可能性が高い。私はこの道を知らなかったため、本城南東の尾根を直登した。
 本城は、主郭の周囲に腰曲輪を廻らし、北と南に数段の段曲輪、東尾根に2段の舌状曲輪を配置している。この舌状曲輪(上段)の付け根は一段低い鞍部の曲輪となっており、南側に虎口が付いていて、前述の登城路と繋がっている。この虎口を防衛するように、舌状曲輪後部に土塁・物見台が築かれている。下段の舌状曲輪の先端には土塁が築かれ、その側方に虎口が築かれている。舌状曲輪から下方にやや離れた南東尾根にも、明確に削平された曲輪が築かれている。一方、前述の鞍部の曲輪から主郭の北側に向かって明確な城道が残っている。主郭は三角形状の曲輪で角部に土塁を築いている。主郭内は藪が少なく、20年以上前の小学生が作った城址解説板が残っている。主郭から南尾根を辿ると、段曲輪の先の鞍部に二重堀切が穿たれている。内堀の外側には土塁も築かれている。これらによって出城との分断を図っている。
 南の出城も基本的な構造は本城と同じで、頂部の主郭の周りに腰曲輪を廻らし、更に北尾根に段曲輪を築いている。こちらも主郭へ至る城道が、段曲輪側方に明確に残っている。『図解 近畿の城郭Ⅰ』によれば、この出城の周囲の斜面には畝状竪堀が穿たれているとされているが、かなり小さい竪堀のため、遺構かどうかはかなり微妙な感じである。
 以上が新庄城の遺構で、頑張って藪漕ぎをした割にはあまりパッとしない城だったのは残念である。
舌状曲輪後部の物見台→IMG_2589.JPG
IMG_2677.JPG←出城の畝状竪堀?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.103646/135.518911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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藁無城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2492.JPG←二ノ郭の崩落した石積み
 藁無城は、丹波守護代として勢威を振るった八木城主内藤氏の一族、船岡内藤氏の居城である。詳細な事績には不明点が多いが、『広瀬家文書』によれば、1559年夏、藁無城主内藤季有が杉崎大和守と共に黒井城主赤井氏を味方として桑田郡小川村で八木城主内藤宗勝と戦ったが、赤井氏が宗勝方に寝返ったため季有は敗れ、波々伯部光好が仲介して季有と大和守は宗勝と和睦したと伝えられる。1564年春には、小山の郷士某が藁無城主内藤安芸守季行が謀反を企てていると八木城の内藤和泉守に告げたため、城主宗勝は和泉守に兵350余名を従わせ藁無城を攻めたと言う。個人的な推測であるが、船岡内藤氏がこれほど内藤宗家に反抗的であったのは、おそらく宗勝が内藤氏とは縁もゆかりもない松永久秀の実弟で、宗家を乗っ取られたためであろう。

 藁無城は、林松寺背後の標高270m、比高130mの山上に築かれている。登山道は消失していおり、城に行くには斜面を直登するしかない。丹波守護代の一族にしては小規模かつ技巧性のない城で、最高所に小さな主郭、その南・東・北の三方を囲む二ノ郭、その北に土塁状の長い土橋で繋がった三ノ郭、その背後に2段に分かれた四ノ郭を配置した、基本的には連郭式の縄張りとなっている。二ノ郭南から東にかけては腰曲輪が廻らされ、長土橋の両側にも腰曲輪が広がっている。三ノ郭西側には大きな穴が開いているが、おそらく採石跡であろう。二ノ郭切岸には部分的に石積みらしいものが見られるが、自然石が多く、ほとんど崩落している。採石の山となっていたせいで、石垣の石が持ち出されてしまった可能性もある。いずれの曲輪もわずかな段差だけで区画されており、堀切は四ノ郭後部の北尾根を分断する部分に、比較的小規模なものが穿たれているに過ぎない。正直言って、技巧性に乏しい並の山城の類で、苦労して直登するほどの価値はない様に感じた。
 尚、山麓の林松寺は、平時の城主居館があった場所との言い伝えがあり、ここには立派な石垣がある。
四ノ郭背後の堀切→IMG_2524.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.136853/135.481982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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塩貝城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2463.JPG←前面堀切から落ちる二重竪堀
 塩貝城は、大戸城とも呼ばれ、この地の国人領主塩貝将監の居城である。塩貝氏については、晴政・晴道父子の名が知られ、いずれも将監を称した。晴道は、八上城主波多野秀治に忠節を尽くし、1579年に明智光秀に塩貝城を攻め落とされたと言う。

 塩貝城は、標高310m、比高120mの山上に築かれている。北西麓から登り道が整備されており、所々に表示があるのでわかりやすい。標高280mの尾根まで辿り着くと、出曲輪である鍛冶屋敷と、本城との分岐点に至る。鍛冶屋敷は低土塁で囲まれた単郭の出城で、北側に張り出しを設け、東側に形の整った枡形虎口を築いている。鍛冶屋敷と本城の間の尾根中間部には、土橋の架かった堀切が1本穿たれている。本城は、前面に2本の堀切を段状に築いており、内側の堀切は側方に竪堀が長く落ち、特に西側では二重竪堀に分岐して落としている。東側は更に数本の竪堀を落として畝状竪堀としている。従って、本城前面の防御線はかなり重厚である。本城は頂部の主郭とその手前の二ノ郭を主体とし、更に西側に数段の腰曲輪を築いている。最下段の腰曲輪は、北端に縦土塁を築き、そこから前述の二重竪堀に対して横矢を掛けている。またこの腰曲輪の南端は竪堀で遮断している。二ノ郭は東側斜面に畝状竪堀が穿たれているため、塁線も竪堀で削られ、ウネウネしている。主郭は綺麗に削平されているが土塁は築かれていない。背後には堀切が穿たれているが、この堀切は整形が甘く、前面の普請に注力した結果、力尽きた様な感じである。南東の尾根をやや降ったところにも堀切が穿たれて、城域が終わっている。いかにも地方の小土豪の城という感じの小城砦であるが、前面防御に集中した一点豪華主義の城である。
鍛冶屋敷の枡形虎口→IMG_2375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.187883/135.473614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中村城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2247.JPG←放射状の竪堀
 中村城は、この地の国人領主で島城主川勝氏の支城である。詳細は不明であるが、川勝兵衛大輔氏隆が城主だったと伝えられている。

 中村城は、島城と谷戸を挟んでそびえる標高290m、比高100mの山上に築かれている。城へは、西麓の民家裏の小道を進み、東へ谷とへ登っていくと歓楽寺跡の平場があり、そこから南の斜面を直登すれば到達できる。主郭を中心に、北・南・西の三方の尾根に曲輪を配している。『図解 近畿の城郭Ⅲ』の縄張図の呼称に従うと、北尾根にⅢ郭・Ⅳ郭、南尾根にⅡ郭、西尾根にⅤ郭を置いている。いずれの曲輪も外周の切岸がしっかり構築されていて、下の斜面から見ると、塁線がそびえている。Ⅳ郭は上下Ⅱ段に分かれており、下段は中央が窪地となった緩やかな斜度を持った曲輪である。北から東の斜面には放射状に竪堀を落としている。4郭上段は削平が綺麗にされているが、その上のⅢ郭とされる部分は自然地形に近い斜面である。主郭へは前面の切岸の左方に進むと虎口がある。主郭内は綺麗に削平されているが、塚状のものと井戸跡と堀状溝が残っている。井戸跡と溝には現在でも水が溜まっている。溝は井戸と繋がっているので、水路として使われたのかもしれない。主郭と南のⅡ郭とはわずかな段差で区切られているだけだが、東辺近くは段差のない城道となっていて、側方に低土塁を伴っている。主郭の西には『近畿の城郭』に呼称が付いていない西郭があり、そこから尾根を降るとⅤ郭がある。Ⅴ郭の西の斜面にも竪堀が何本か穿たれているが、Ⅳ郭周囲よりも不鮮明である。あまり技巧性はないが、少々風変わりな縄張りの城である。
主郭の井戸・溝跡→IMG_2288.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.278742/135.558586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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日置谷城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2172.JPG←圧巻の畝状竪堀
 日置谷(へきたに)城は、歴史不詳の城である。上林川を挟んで南側には上林氏の居城であった上林城が向かい合っているが、日置谷城との関係は不明である。日置谷城はその技巧的な縄張りから織豊系の陣城と推測されており、『図解 近畿の城郭Ⅰ』では明智光秀に協力した上林氏が、織豊勢力の影響を受けながら構築した城との見解を載せている。

 日置谷城は、上林川北岸の比高100m程の山上に築かれている。東麓に上林禅寺があり、その背後から尾根筋に登り、尾根を西にたどると城に至る。大きく2つの城域に分かれ、標高220mの中間のピーク上に出城があり、西の標高240mの大きなピークが主城となっている。出城は単純な構造で、削平の甘い頂部の平場と北端の土橋の架かった堀切から成っている。
 圧巻なのが主城である。山頂に主郭を置き、西側に土塁の囲郭、南側に3段の曲輪群(ここでは上段郭・中段郭・下段郭と称する)を築いている。南の3段曲輪の東側には横堀が穿たれ、横矢掛かりのクランクを設け、上部で直角に曲がって東斜面へ竪堀となって落ちている。横堀の南端も竪堀となって落ちている。下段郭の付け根に虎口があり、おそらくこの横堀上に木橋を渡していたのだろう。横矢はこの木橋に対する防御と推測される。中段郭・下段郭はいずれも両翼を土塁で防御し、東側は前述の横堀で防御し、西側には畝状竪堀を設けている。ここの畝状竪堀は珍しい形で、一番下のものは下段郭側方の横堀を兼ね、上部でV字に分岐している。またその横の竪堀は逆U字形で初めて見る形状である。下段郭の下部中央には坂虎口、南西端には2本の竪堀で側方防御した桝形虎口が築かれている。上段郭は主郭の南面から東面に広がり、横堀沿いに土塁を設け、横堀直角部に土橋を架けている。東斜面には横堀から落ちる竪堀と連携させて計4本の畝状竪堀を穿っている。主郭はL字型の城内最大の曲輪で、全周を土塁で囲まれ、南東に隅櫓台を設け、その側方に上段郭から登る坂虎口を築いている。北尾根には2本の堀切を穿って分断している。主郭西斜面は内側に湾曲しているが、ここに合計11本もの畝状竪堀が構築されている。湾曲した斜面におびただしい数の竪堀が連なって落ちている様は壮観である。主郭の西側には西の囲郭と連携した二重桝形虎口が構築され、この虎口側方も畝状竪堀で防御している。この他にも2ヶ所の虎口っぽい窪みが主郭に見られ、複数の虎口を分散配置している様である。以上の様に、日置谷城は丹波地域の山城の中では、虎口構造に厳重な枡形を用い、横矢掛かりの横堀など相当に発達した縄張りを有しており、各地に割拠した小土豪の城とは明らかに一線を画している。小さい城ではあるが、丹波では最高峰の城の一つであろう。
主郭の隅櫓台と東虎口→IMG_2123.JPG
IMG_2185.JPG←畝状竪堀
主郭西側の二重桝形虎口→IMG_2196.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.366717/135.405958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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梨子ヶ岡城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1939.JPG←東斜面の畝状竪堀
 梨子ヶ岡城は、歴史不詳の城である。城主は坂田氏と伝えられるがその事績は不明で、周辺にはこの地域の国人領主である渡辺氏の沼ヶ谷城・赤道城があることから、梨子ヶ岡城も渡辺氏の勢力下にあった城であった可能性がある。

 梨子ヶ岡城は、県道1号線から南にやや奥まった上林川沿いの比高80m程の山稜先端のピーク上に築かれている。北麓の玉泉寺裏から適当な斜面を直登すると城に到達する。多重堀切と畝状竪堀を多用した城で、その技巧的縄張りには眼を見張らされる。山頂に主郭を置き、主郭の西から北にかけて一段低く腰曲輪を廻らし、前面(北面)に狭い二ノ郭を置いている。二ノ郭の前面には中規模の堀切が穿たれ、その前面は物見台となっている。主郭の背後の南尾根には三重堀切が穿たれて、背後を分断している。主郭の東面と西面には畝状竪堀が穿たれており、西側のものは小さくわかりにくいが、東側のものはしっかりと穿たれており、壮観である。前述の堀切・三重堀切からはいずれも竪堀が長く落ち、畝状竪堀の一部となっている。また主郭西側には張り出した堡塁があり、その先の西尾根には二重堀切が穿たれている。梨子ヶ岡城は、規模の小さい小城砦であるが、これだけ徹底して防御が固められているのは、少数の兵力で城を守りきるための工夫だろう。見応えがあって素晴らしい遺構である。
西尾根の二重堀切→IMG_2002.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326689/135.349996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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甲ヶ峯城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1804.JPG←城域入口の堀切・土橋
 甲ヶ峯城は、山家城とも呼ばれ、この地の豪族和久氏の居城である。1563年に和久左衛門佐義国によって築かれたとされる。和久氏は、戦国時代に天田郡(福知山)一帯を治めた横山城主塩見氏の一族で、塩見頼勝の4男長利が和久城に分封されて和久氏を称した。その後、戦国後期に丹波守護代内藤氏の命で、天田郡から何鹿郡に入部して甲ヶ峰城を築いたと言われている。しかし一方、和久氏の菩提寺とされる照福寺の寺伝では、1445年に和久氏の菩提寺として創建されたと伝えられており、時代が合わないので、今後考証の余地がある。1565年の和久郷合戦で、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死すると、和久氏は赤井氏に服属した。明智光秀が丹波を平定すると、光秀に降ってその配下となり所領を保ったが、城破却の命に従わず1580年に滅ぼされた。尚、照福寺は、現在は国道27号線近くの丘陵地にあるが、往時は甲ヶ峯城の出曲輪として山上にあったと言われ、和久氏はこの出曲輪を「寺庵」と称して破却しなかったため、光秀の討伐を招いたと言う。

 甲ヶ峯城は、標高236mの山上に築かれている。西麓の伊也神社から登り道が整備されている。本城は、山上に段差だけで仕切られた主郭・二ノ郭を置き、その両側に腰曲輪を築き、前面に三角形状の三ノ郭、南の尾根に段曲輪群を配している。大手は南西の尾根で、城の入口には中央に土橋を架けた八の字形の堀切を穿って防衛し、三ノ郭から二ノ郭に至る城道側方にも2本の竪堀を穿って防御している。また主郭背後には堀切を穿って尾根筋を遮断している。この背後の尾根を北東に辿ると、砦もしくは物見らしい土壇があり、その北西の先に照福寺跡とされる出曲輪がある。出曲輪は背後に虎口を備え、東側に低土塁を築き、前面に曲輪群を築いており、いかにも城砦の造りである。遺構としては以上で、それほど規模は大きくなく、技巧性もあまり感じられない城であるが、藪が伐採されて整備されているので、曲輪の姿が綺麗でよくわかる。
主郭背後の堀切→IMG_1850.JPG
IMG_1867.JPG←出曲輪の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.302019/135.322080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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山家陣屋(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1733.JPG←切岸に残る石垣
 山家陣屋は、現地解説板などでは山家城と称され、近世山家藩の藩政を司った陣屋である。1582年に、谷出羽守衛友が羽柴(豊富)秀吉より1万6000石で山家に封じられて陣屋を構えた。衛友の父、大膳亮衛好は、織田信長に仕えて1576年の石山本願寺攻めで軍功を挙げ、家紋「揚羽蝶」を賜ったが、1579年の三木城の別所長治を攻めて討死した。衛友も父と共に参戦していたが、父討死の時その屍を奪い返し、仇を討ち、秀吉から感状と「五三の桐」の紋を受けて山家に所領を賜ったと言う。以後、移封されることなく幕末まで存続した。

 山家陣屋は、上林川東岸の段丘角部に築かれている。現在、城址公園として整備されている。さすがに1万石を超える石高の大名の陣屋だけあって、かなり広大な面積を持った陣屋である。しかも丹波という平地の少ない土地柄もあって、陣屋が築かれたのは街中の平地ではなく、急崖に囲まれた段丘辺縁部で、選地は中世城郭そのものである。陣屋の敷地内には井戸跡や石積みの段差が残り、曲輪辺縁部は一段低く帯曲輪状になっている。外周には横堀が穿たれ、切岸には一部石垣が残っている。北西辺には塁線に折れを設けて横矢を掛け、切岸下の西側の斜面は広い緩斜面となって、曲輪として機能していたと考えられる。予想外に良好な城郭遺構で、陣屋というより城の名が相応しい。
外周の横堀→IMG_1742.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.301371/135.317852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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高城城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1631.JPG←主郭背後の2本土橋の堀切
 高城城は、八田城とも言い、何鹿郡の国人領主大槻氏一族の城である。南北朝時代に大槻左馬頭清宗がこの地の地頭となって入部し、高城山上に高城城を築いたと言われている。大槻氏の事績はあまり明確ではないが、足利尊氏・直義兄弟が全国に建立した安国寺の寺役の職務を司ったと言われ、そうした室町幕府との結び付きがあったためか、室町時代を通じて何鹿郡の中北部に勢力を扶植し、高城大槻氏を始め、高津城栗城などに一族が蟠踞した。天正年間(1573~92年)の明智光秀による丹波平定では、大槻清秀は明智勢に攻められて自刃したと言う。1591年、清秀の子清勝は500石で豊臣秀次に仕え、1615年の大阪夏の陣で討死したと伝えられている。又、高城城は1406年に地震などで大破したと言う。

 高城城は、標高298.7m、比高210mの高城山に築かれている。現在ではほとんど人が入らない山らしく、登山道は東麓の久香寺からのもの以外は道がわからなくなっている様だ。東の登山道を使うと、途中神社やNTT基地局を経由する長い尾根の縦走をして、ようやく城域に達する。最初に眼前に現れるのが主郭背後の堀切で、ここには東掛城で見られたのと同じ2本土橋が架かっている。主郭は背後に低土塁を築いた城内で一番広い曲輪で、南西部に西尾根に連なる曲輪群に通じる城道が降っている。西尾根の曲輪群は切岸だけで連ねられた段曲輪群で、先端に当たる最下段の曲輪の側方に枡形虎口が築かれている。この他には北出曲輪と南出曲輪があり、北出曲輪には背後に土橋の架かった堀切が穿たれ、南出曲輪には側方に竪堀が穿たれている。これらに繋がる城内通路は比較的明瞭に残っている。遺構としては以上で、単純であまり面白みのない遺構である。藪も少々多めなので、写真映えもせずパッとしない城である。
最下段曲輪の枡形虎口→IMG_1660.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.348815/135.299442/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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嶋間城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1597.JPG←虎口郭周囲の竪堀群
 嶋間城は、高城城の支城と言われている。城主は大槻備中守であったと伝えられるが、その事績は不明である。
 嶋間城は、高城城が築かれた高城山の南西麓の比高20m程の小丘陵に築かれている。南に主郭、北に二ノ郭があったが、二ノ郭は児童センターの建設で採土されて消滅している(全国どこの地域でも、こうした文化・教育施設等を作るために貴重な遺跡(城跡)を破壊している例が多数あるが、何とかならないのか?!)。主郭部は、北端の櫓台は消滅しているが、それ以外の部分の遺構はほぼ完存している。主郭の北面から西面にかけて横堀が穿たれているが、北面は消失しており、西面の小さな横堀が残っている。主郭の南西は塁線が内側に凹んでおり、その下方にほぼ方形の虎口郭が築かれている。この虎口郭の北側の付け根には、西に向かって竪堀状の虎口が築かれていて、下方の横堀に接続している。このことから、横堀が城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの虎口郭周囲と、その下方の斜面には数本の竪堀が穿たれている。しかし竪堀は、一部を除き非常に小さい溝状である。この他、主郭にはわずかに土塁が残り、東麓からの登り道脇にも竪堀が見られる。一部破壊されつつも残存遺構は良好だが、規模の小さな小城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.344159/135.291567/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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丸山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1481.JPG←主郭背後の堀切
 丸山城は、この地の国人領主大槻氏の支城である。栗城主の弟大槻山城守遂重が城主であったが、1571年に織田信長方の軍勢によって落城し、その後は帰農したと言う。
 丸山城は、谷戸に面した比高30m程の丘陵上に築かれている。丘陵頂部に主郭を置き、その東面から南面にかけて、数段の腰曲輪を廻らし、主郭後部を低土塁と堀切で分断しただけの簡素な構造の小城砦である。主郭の東端に坂虎口が築かれて腰曲輪へ通じている。腰曲輪は南東部で馬蹄形に広がっているが、その他の部分では帯曲輪状である。曲輪の削平や土塁・堀切の普請はしっかりしており、小さい城ながら見応えがあって興味深い。
南東に広がる腰曲輪群→IMG_1498.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.332624/135.226851/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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物部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1330.JPG←主郭の大型の櫓台
 物部城は、一時期丹波守護代となって強勢を誇った上原氏の居城である。上原氏は、信濃諏訪神党の一族上原成政が1193年に物部郷の地頭として入部したことに始まるとされる。最初は高屋山に城を築いたが、後に物部城を築いて居城を移した。戦国時代初期には、上原豊前守元秀は管領細川政元の重臣として重用され、丹波守護細川氏の下で八木城主内藤氏に代わり丹波守護代となった。しかし元秀は国内で横暴な政策を強行した為、1489年、これに抵抗した丹波国人衆の位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏らが反乱を起こして位田城に立て籠もり、位田の乱が発生した。この丹波国人一揆に対して、守護方は丹波・但馬・摂津など13ヶ国の大軍を動員して攻め寄せたが、一揆勢の守りは固く、一年間にわたって抗戦を続けた。そして1490年、一旦は一揆勢は城に火を放って自落したが、翌年には一揆勢が再起して位田城など7つの城を占拠して反乱を続け、結局乱が鎮圧されたのは1492年の位田城陥落の時であった。その後も上原氏の勢威は続き、1493年、明応の政変における将軍廃立でも重要な役割を担った。これらの大功によって上原氏は増長し、被官共々驕慢な振る舞いが多く、刃傷沙汰を起こして元秀が死ぬなどして勢力を弱めた。そして1571年、上原右衛門少輔の時、黒井城主赤井直正に攻められて物部城は落城した。

 物部城は、犀川とその支流に挟まれた比高35m程の独立丘陵に築かれている。丘陵南東端に物部神社があり、その参道から登ることができる。南東から順に五ノ郭・二ノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭と直線的に並べた連郭式を基本とし、東西の斜面に1~2段の腰曲輪を築いた縄張りとなっている。前述の物部神社があるのが五ノ郭である。そこから横堀状の通路を登っていくと、奥の右手に二ノ郭虎口があるが、反対側には動線制約の大竪堀が穿たれている。まずこの竪堀の規模が大きいのにビックリする。二ノ郭と主郭はわずかな切岸だけで区画され、主郭前面には天守台とも考えられる大型の櫓台が築かれている。主郭は丘陵中央の最高所にあり、背面にも大きな土塁を築いている。この土塁の西側側方に搦手虎口があり、北の三ノ郭に通じる城道が伸びている。また東側には斜面を迂回する武者走りも残っている。主郭と三ノ郭は大きな切岸で区画されている。西側の腰曲輪は複雑な構造で、櫓台を備えた虎口があって、下方に城道が伸びている。三ノ郭の先端にも土塁が築かれ、東斜面には畝状竪堀が穿たれている。三ノ郭と四ノ郭も大きな切岸で区画され、四ノ郭東側には櫓台が築かれている。四ノ郭の先端は数段の帯曲輪となって終わっている。これらの主要な曲輪間の動線には、西側の腰曲輪群が使われており、要所には横矢掛かりが多数散見される。四ノ郭付近だけは竹薮で踏査が大変だが、それ以外は比較的藪が少なく遺構の確認がし易い。低丘陵の単純な形の城なので、全然期待していなかったが、堀切こそ無いものの要所にかなり技巧的な遺構が確認でき、さすがは一時期強勢を誇った守護代の城だと感心させられた。
二ノ郭虎口脇の大竪堀→IMG_1309.JPG
IMG_1404.JPG←三ノ郭側方の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.357022/135.218825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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下舘城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1288.JPG←天守台跡の土壇
 下舘城は、豊臣秀吉の家臣石川備後守貞通の城である。貞通は、秀吉の毛利攻めの頃からその幕下に仕えたとされ、1591年、丹波国天田郡2千石余を加増された。しかし秀吉の死後の1600年、関ヶ原合戦において西軍に属して丹後田辺城攻撃に参加したため、戦後改易された。尚、東の丘陵上にある舘城も貞通の城と伝えられ、地元では本城の舘城に対して下舘城は出城であったと伝えられているらしい。
 下舘城は、犀川東岸の舘町地区の西端に位置している。宅地化・耕地化で遺構はほとんど湮滅しているが、わずかに天守台跡と伝承される土壇のみが残存している。またこの土壇の裏はわずかな低地になっており、堀跡であったと推測される。それら以外は、往時の姿は見る影も無いが、現状から推測すると城というほどの規模ではないので、方形の居館か陣屋であったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326934/135.213268/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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甲ヶ岳城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1207.JPG←三ノ郭の土橋と堀切
 甲ヶ岳城は、鴻ヶ嶽城とも記載され、丹波守護代内藤氏が築いた城と言われている。1564年、丹波守護代の八木城主内藤備前守宗勝は、福知山盆地進出の拠点として、一族の内藤正綱に命じて甲ヶ岳城を築かせたと言う。1576年、内藤氏は高津城栗城の大槻氏を攻めたと言われ、その際に甲ヶ岳城は前進基地として大きな役割を果たしたと思われる。1579年、明智光秀が八木城を攻め落とすと、内藤正勝は再起を期して甲ヶ岳城に逃れたが、遂に討死にして甲ヶ岳城も廃城になったと言う。以上が現地解説板などに語られる一般的な伝承であるが、一方、元々この付近は高津城を本城とした大槻氏の支配領域で、安場から観音寺の間に大槻安芸守辰高が城を多数築き、大槻左京亮倫高の代に落城したとされ、甲ヶ岳城もこうした大槻氏の支城群の一つであった可能性も捨てきれない。

 甲ヶ岳城は、標高289.8mの甲ヶ岳山頂に築かれている。北東から尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭・五ノ郭とここでは呼称する。三角点があるのが四ノ郭で、ほとんどが藪に覆われ、緩斜面上に段々に平場群を築いている。南斜面には竪堀が数本穿たれている。四ノ郭からやや幅広の堀切を介して三ノ郭に至る。この堀切には北端に土橋が架かり、南端には堀内障壁がわずかに見られ、三ノ郭側には土塁が築かれている。三ノ郭と主郭の間も堀切で分断されている。主郭は、前面に虎口郭を設け、主郭に登るようになっているが、単純な坂虎口で馬出しという程の機能性はない。主郭には秋葉神社が建っている。主郭後部には低土塁が築かれ、その裏に二ノ郭がある。二ノ郭の南西角には枡形虎口があるが、藪でわかりにくい。二ノ郭の先が五ノ郭で、一面藪に覆われている。この他に、城への登り道の途中にも竪堀が穿たれており、登城道を防衛していたと考えられる。遺構は比較的よく残っているが、あまり技巧性は感じられず、特に四ノ郭や五ノ郭は辺縁部が自然地形に近くなってしまっており、普請も少々荒い感じである。その中では2本の堀切だけが異彩を放っている。
 尚、甲ヶ岳の東と北西の支尾根には茶薄山城・野山砦があり、甲ヶ岳城の出城であったと考えられている。
登山道途中の竪堀→IMG_1166.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.296835/135.222559/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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茶薄山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1136.JPG←腰曲輪に囲まれた主郭
 茶薄山城は、甲ヶ岳城の出城と考えられる。伊藤伊織が城主であったと伝えられるが、その他の歴史は不明である。
 茶薄山城は、甲ヶ岳の北東尾根先端の比高110m程のピーク上に築かれている。甲ヶ岳城への登山道が尾根に至ると、そのすぐ左手(東側)が城域である。登山道が尾根に至る部分も実は登山道自体が堀切道で、尾根上には土橋が架かっている。主郭はまるで古墳の様な高台になっており、周囲に腰曲輪を廻らしている。わずかな段差で何段かの平場に分かれ、更に東には低い位置に平場が広がっているが、この辺りは藪が酷く判然としない。この下段の平場の付け根には竪堀が穿たれているようである。茶薄山城は、出城の位置付け通り、簡素な構造の小城砦である。登山道のすぐ脇になければ、わざわざ見に行くほどの遺構ではない様に思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.299444/135.229490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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石原城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1107.JPG←土塁と空堀
 石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
 石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
 尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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鬼ヶ城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0950.JPG←山上の曲輪群
 鬼ヶ城は、明智光秀の丹波平定に頑強に抵抗した国人衆が立て籠もった城と伝えられている。1575年、明智光秀は織田信長の命により丹波に入ると、口丹波亀山城主内藤忠行は、光秀の入部を祝し、忠行の主従は光秀に従った。そして各地の土豪は光秀に降る者と、徹底抗戦する者とに分かれ、久下・中沢・並河・釈迦牟尼仏(にくるべ)・河田らの各氏は退いて、鬼ヶ城・高見城に拠って抵抗を続けたと言う。その後、光秀の丹波攻略に抵抗していたのは、八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏となったが、赤井直正の弟幸家は、安芸毛利氏の一族吉川元春と通じてその来援を請い、元春来援の際の本陣とするため、鬼ヶ城に砦を築いたと言う。しかし元春の来援がないまま丹波は平定され、鬼ヶ城も光秀の陥れるところとなった。『信長公記』によれば、1579年7月に明智光秀が鬼ヶ城を攻めて近在に放火し、付城を築いたとあると言う。

 鬼ヶ城は、標高544mの峻険な山上に築かれている。東麓の観音寺から登山道が整備されている。登頂比高は340mもあるので登るのは一苦労だが、山頂からは360度の大パノラマで、疲れは吹き飛んでしまう。遺構も見事で、峻険な山城なので小さい城だと思っていたが、普請はかなり大規模である。『図解 近畿の城郭Ⅰ』所収の縄張図は、なぜか大手の曲輪群や北東尾根の曲輪群が抜けてしまっているが、実際はそれらも遺構であることは明白で、従って実際の城域はもっと広いのである。登山道を登り南尾根に至ると、その北側に平場群と明確な虎口が見られ、ここから城域に入る。この大手郭の坂虎口は両側に櫓台を設けており、黒井城東出丸の虎口に酷似している。この大手郭の東にも段曲輪が3段ほど築かれている。更に登ると側方に石垣の残った虎口を設けた曲輪に至る。この上に城の中心部がある。頂部に主郭があり、南東斜面に沿って3段の腰曲輪が設けられ、ここにも石垣の跡が見られる。この腰曲輪から西に向かって武者走りが伸び、南西の腰曲輪を経由して、北尾根の曲輪群に繋がっている。北尾根曲輪群は南北に長い曲輪を連ねており、山上の主郭部が狭く居住性がないのに対して、そこそこの広さがあり、城兵の居住区になっていたと考えられる。この他にも前述の通り、主郭の北東尾根に連なる曲輪群があり、この東郭群は全部で9段もの馬蹄段が築かれている。鬼ヶ城は、福知山市街全域を一望できる要地にあり、しかも予想以上に規模の大きな遺構群で、赤井氏が光秀に抵抗するために構築したという伝承も十分説得力がある。山上の眺望も素晴らしく、苦労して登る価値は十分ある。
大手郭の虎口→IMG_0901.JPG
IMG_1057.JPG←東郭群の馬蹄段
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.341481/135.142307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中村城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0797.JPG←南郭周囲の横堀
 中村城は、この地の土豪塩見氏の居城と言われている。中村城主塩見氏については2説あり、横山城主塩見頼氏の子であるとも、或いは播磨守護赤松満祐の後裔で、嘉吉の乱で満祐滅亡後に遺児若松丸(満義)が何鹿郡沢之庄に落ち延び、その子義近が一尾城主大槻佐渡守の女を娶って中村に移住し、塩見に改めたとも言う。

 中村城は、猪崎城の北北西わずか900m程の位置にある、南北に長い丘陵上に築かれている。遺構の名称は、丹波の城歩きではよく拝見しているHP「山城賛歌」の呼称に従って記載する。城内は大きく、北郭・主郭・南郭から構成されおり、南郭には薬王寺社が祀られ、その参道から訪城できる。低丘陵で、かつ参道があるので、何の苦労もなく城に至るのはあっという間である。しかし遺構は見事で、社殿の建てられた南郭は外周を横堀で囲繞しており、南に土橋の架かった虎口が築かれている。南郭の北には堀切を挟んで主郭がある。南郭の北西角にはこの堀切に降りる虎口が付いている。主郭内は段差で2段に分かれ、南端に土塁を築いている。主郭の東側は、南郭から続く横堀を穿ち、西側には2段の腰曲輪を築いている。主郭の北側には堀切を挟んで北郭群があるが、北郭背後は大土塁となっており、主郭北側の堀切の分断効果を大きくしている。北郭群は3~4段の馬蹄段より成り、特に最上段の北郭1は広く、削平も見事である。北郭から大土塁の西側を迂回する城道が残り、腰曲輪の段を経由して主郭に登る動線も明瞭に残っている。遺構としては以上で、形態は比較的単純な直線連郭式の城であるが、普請はしっかりしていて見応えがある。
主郭~南郭間の堀切→IMG_0814.JPG
IMG_0844.JPG←北郭1と大土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.315379/135.128939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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荒河置山城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0674.JPG←大手郭側方の畝状竪堀
 荒河置山城は、歴史不詳の城である。『片山文書』によれば、南北朝期の1339年、船井郡和知の地頭片山忠親が「安良賀城」を攻め落としたとあり、この安良賀城が荒河(置山)城のことであろうと推測されている。一方、『丹波志』には城主として山吹将監・荒河伊達右衛門などの名が見えるが、詳細は不明。また現地の遺構には小規模な畝状竪堀があることから、少なくとも戦国期の城と考えられ、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死した、1565年の和久郷合戦に関係した城砦であったかもしれない。

 荒河置山城は、由良川と和久川の合流点西側の、標高102.4m、比高87m程の丘陵上に築かれている。南麓に武神社があり、そこから登っていくことができる。南尾根を進むと、段々になった曲輪群が見られ、更に登っていくと山頂の主郭群に至る。主郭群は主郭を中心に5段ほどの同心円状に段差だけで区画された平場で構成されている。主郭には方形の高台があり、天守台かそれに準ずる櫓台があったものと考えられる。大手は北東にあったと考えられ、主郭群最下段の曲輪(大手郭)には、前面に低土塁があり、下に2段程の段曲輪が構築され、その先に堀切が穿たれている。また大手郭の両側方には小規模な畝状竪堀が確認できる。一方、主郭群の北西下方には物見台があり、その下に土橋の架かった堀切が穿たれ、北西出曲輪に繋がっている。この他、南西麓の時広大明神付近も平場が見られ、城域であった可能性がある。また南東の尾根にも出曲輪があり、頂部の曲輪は横堀で防御している。しかし後で調べたら古墳だったようなので、この横堀は元々古墳の周濠であったのかもしれない。荒河置山城は、未整備の山であるが藪は酷くはなく、遺構が良く確認できる。
北西出曲輪への堀切・土橋→IMG_0708.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.316832/135.108061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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新庄城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0554.JPG←堀切bに繋がる横堀
 新庄城は、歴史不詳の城である。横堀の発達状況から、戦国中期の内藤宗勝時代の改修が推測されている。尚、福知山市域には多数の中世城郭がひしめいているが、市街地の西方に当たる和久川流域も城郭密集地帯で、7km程の地域に新庄城を含めて大小22もの中世城郭が並び立っている。

 新庄城は、和久川西岸の標高50m、比高30m程の丘陵先端に築かれている。先端に粟島神社があり、そのすぐ裏がもう城域で、神社左手の裏から小道が付いている。『図解 近畿の城郭Ⅱ』と現地解説板で縄張図は同じだが、曲輪の呼称番号が異なる。ここでは現地解説板に従って呼称する。城域は大きく3つの区域に分かれ、一番北の先端曲輪群(Ⅲ郭~Ⅴ郭)、堀切aを介して南西曲輪群(Ⅰ郭~Ⅱ郭)、それと本城からやや離れた南出曲輪(Ⅵ郭)である。先端曲輪群は切岸だけで区画された曲輪群で、Ⅲ郭背後には大きな櫓台が築かれている。その背後は堀切で分断されている。南西曲輪群は、細長いⅡ郭とその上のⅠ郭から構成されている。Ⅱ郭の南側には小規模な横堀があり、横堀の東端は直角に曲がって竪堀となって落ちている。Ⅰ郭も背後を土塁で囲んでおり、北側に腰曲輪を置いている。Ⅰ郭背後には堀切bがあるが、直線的で単純な堀切aと異なり、北側で大きく折れて横堀となって廻り、先端で北に直角に曲がって竪堀となって降っている。その先には少々わかりにくいが二重竪堀が落ちている。要するに横矢掛かりの堀切となっているのである。南出曲輪Ⅵ郭は、背後に大土塁を築き、更に溝状の小二重堀切を穿っている。西側を小さな横堀で防御し、Ⅵ郭南端には小型の枡形虎口を築いている。遺構は以上の通りで、訪城が容易で、藪もそれほどひどくないので、中々楽しめる。
Ⅲ郭背後の櫓台→IMG_0472.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.305731/135.092139/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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野田城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0444.JPG←二重堀切の内堀
 野田城は、歴史不詳の城である。背後に当たる南東の山上に狭小な白髪城があることから、砦の白髪城に対する本城であった可能性が指摘されている。

 野田城は、由良川南岸にそびえる標高160m、比高110mの山上に築かれている。城跡は井根山公園となって改変を受けている。普通、公園化された城址は、山頂近くまで車道が伸びているものだが、ここは車道がないので山麓から歩いて登らなくてはならない。というわけで、歩道が整備されているとは言え、「公園」にしてはしっかりした登山をしなければならない。登っていくと、山の西尾根に段曲輪状の小平場が散見されるが、登り道で改変されているので遺構かどうかはっきりしない。途中、山をぐるりと巡る幅広の遊歩道を突っ切ってその先の階段を登ると、主郭に至る。山頂の主郭東端には井根山秋葉神社が建っている。主郭は幅の狭い東西に細長い曲輪であるが、これもかなり改変されている。主郭後部に一段低く二ノ郭があるが、これも公園化で改変されている。ところが二ノ郭の東尾根に、突然のように二重堀切が現れる。ここから落ちる竪堀は南に長く降っている。また主郭と二ノ郭の付け根部分から南斜面へも、竪堀が1本落ちている。明確なのはここまでで、それ以外の縄張りは不分明である。解説板はおろか、城址標柱もなく、神社の縁起解説板にも野田城のことは一言も触れられていない。非常に残念な、忘れられた城となってしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.288341/135.267920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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綾部陣屋、附・綾部城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0374.JPG←保育園北面の急斜面
 綾部陣屋は、江戸時代の九鬼氏の陣屋である。戦国時代、この地の本宮山には八上城主波多野秀治の部将江田兵庫頭行範が1565年頃に築いた綾部城があった(本宮山は、現在は大本教団の聖地になっており、登ることができない)。江田氏は、南北朝時代に南朝軍の総帥であった新田義貞の有力な一族で、太平記にも名高い江田兵部大輔行義の後裔とされる。1579年、織田信長は波多野氏討滅のため、明智光秀の援軍として丹羽長秀・羽柴秀長らを丹波に進撃させた。綾部城は、但馬から侵攻した羽柴秀長により落城し、行範は氷上郡に逃れ氷上郡の城で討死にしたと言う。その後は明智光秀の持ち城となり、光秀滅亡後は羽柴(豊富)秀吉の支配下となった。1515年、大坂の役の軍功により別所豊後守吉治が2万石で入部したが、1628年、遊猟が過ぎるとして改易となった。その後1633年に、九鬼水軍で名高い鳥羽藩の3男九鬼隆季が御家騒動から丹波綾部に2万石で転封となり、綾部藩を立藩して改めて綾部城の西麓に陣屋を構えた。この陣屋も1650年に火事で全焼し、幕府の許可を得て台地上に移城して再建された。そのまま幕末まで存続した。

 綾部陣屋は、この最後の台地上に築かれた陣屋で、せんだん苑南保育園から綾部幼稚園にかけての一帯にあったと言う。比高10m程の段丘となっており、市街化が進んで往時の面影はないに等しいが、北面に往時の切岸跡と思われる急斜面が確認できる。この斜面下には、用水路と若宮清水と呼ばれる井戸が残っており、往時の遺構であるかもしれない。保育園の西側の坂道は大手坂と呼ばれたが、大正6年の貞明皇后行啓の際に、御召の馬車が通行できるように切り下げ工事を行って改変してしまったということである。この道路沿いの保育園壁面に、「綾部城大手門跡」の看板が建っている。
野田城から見た綾部城(本宮山)→IMG_0402.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.295767/135.257277/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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上杉弾正屋敷(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0344.JPG←屋敷跡にある上杉天満宮
 上杉弾正屋敷は、足利家の姻族上杉氏の一族、上杉弾正少弼朝定の館である。上杉氏については上杉氏発祥地の項に記載する。朝定は、扇谷上杉氏の祖、上杉重顕(足利尊氏の叔父に当たる)の子で、上杉氏発祥の地であるこの地に屋敷を構えたと伝わっている。朝定は、一時期丹後守護を務め、尊氏が後醍醐天皇の供養のために建立した天龍寺の落慶法要の際にも、随行した幕府諸大名の中にその名が見える(太平記)。観応の擾乱では、多くの上杉一族と同様、足利直義に従ったが、1352年に死没した。

 上杉弾正屋敷は、現在の上杉天満宮の付近一帯にあったという。わずかな微高地となっている以外に、明確な遺構は確認できない。屋敷があったと言っても、おそらく朝定はほとんど足利尊氏・直義の近くにいて在京していることが多かったはずで、実際にここに居住していたことはほとんどなかっただろう。どちらかと言うと、祖先伝来の地上杉庄の支配拠点として、朝定の名で政庁機能(陣屋)が置かれたものではなかったかと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.359770/135.320621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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上林城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0298.JPG←天守台?の石垣
 上林城は、生貫山城とも言い、上林谷一帯を支配した豪族上林氏の居城である。上林氏は、黒井城主赤井氏の庶流で、足利尊氏に従って軍功を挙げた赤井秀家が、何鹿郡上林庄に入部して上林氏を称したと言う。上林城は、戦国前期の天文年間(1532~55年)に、上林下総守晴国によって築城され、以後その居城となったとされる。この頃が上林氏の最盛期であったらしく、1533年の光明寺再建奉加帳には上林一族11名が有力施主として名を連ねた。戦国後期になると、明智光秀勢の上林庄侵攻などにより上林氏の勢力は弱まり、結局はこの地からの退転を余儀なくされた。上林氏の一流は、戦国前期より山城国宇治で茶業にたずさわっており、後に宇治の茶舗上林家として有名になった。上林氏退転後、1601年に藤懸永勝が上林庄に6000石で入部して、上林城下に陣屋を築いて幕末までこの地を治めた。

 上林城は、上林川南岸の標高199.3m、比高60m程の古城山に築かれている。城跡は公園化されており、主郭まで車道があるので一部破壊を受け、改変されている部分が多いが、城の形は概ね辿ることができる。山頂に主郭を置き、東下方に東曲輪、更にそこから降る形で主郭北斜面に馬掛曲輪という名の幅広の腰曲輪が築かれている。その他には、南尾根に南曲輪、南西尾根に西曲輪が築かれている。また馬掛曲輪から南に1段下がった腰曲輪には井戸跡が残っている。馬掛曲輪から西に降る尾根にも北西曲輪があるらしいが、未整備なのと雨天だったため未見である。いずれの遺構にも目新しさが無く、技巧性も感じられないが、主郭にだけ後部に天守台とも考えられる大きな土壇があり、その前面には石垣が築かれている。改変が多いせいもあって、全体的にはあまりパッとしない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.359735/135.406601/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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余部城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0227.JPG←主郭の堀切の跡地
 余部城は、丸岡城とも呼ばれ、八上城主波多野氏の傘下にあった福井因幡守貞政の居城である。歴史上初めて余部城が現れるのは、15世紀の応仁の乱の時で、東軍の軍事拠点であった。東軍の主将細川勝元の京兆家は丹波守護を兼帯していたので、京都西方の支援拠点としたものであろう。戦国後期の天正年間(1573~92年)には、波多野氏が強勢をもって丹波南半をほぼ手中にし、その傘下にあった福井貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。この頃の亀岡盆地には、大堰川右岸地域の河岸段丘上に国人領主たちがそれぞれの城郭を構えており、西から順に並河城・余部城(丸岡城)・荒塚城(中世亀山城)・古世城・馬堀城がほぼ等間隔で築かれていた。明智光秀は織田信長の命を受けて丹波に侵攻し、1577年、貞政が降伏勧告を拒否したため宇津根・雑水川・安行山の三方から余部城を攻撃し、貞政以下の城兵は自刃し、余部城は落城した。

 余部城は、曽我谷川北岸の比高10m程の段丘先端に築かれている。先端に主郭、その西側に縦長の二ノ郭があったと推測されているが、現在は宅地化で遺構はほとんど湮滅している。主郭には「古城」「政所」の地名が残っており、それから推察すると、主郭北半には政庁機能があったらしい。また江戸時代の記録によれば、主郭には原初的な天守が築かれていたらしい。二ノ郭には「古城浦」の地名が残るが、これは古城裏の転訛であろうか。2000年頃までは、主郭と二ノ郭の堀切の痕跡が残っていたらしいが、その後の宅地開発でこれらのわずかな痕跡も失われてしまった。地名以外では、西岸寺前の城址石碑と解説板だけがその名残を伝えているに過ぎないのは、極めて残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.018865/135.571203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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古世城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0212.JPG←往時の切岸と思われる擁壁
 古世城は、丹波亀山城の築城以前にあった、歴史不詳の城である。城主は菱田介次郎という武士であったとされる。中世の亀岡盆地には、大堰川右岸地域の河岸段丘上に国人領主たちがそれぞれの城郭を構えており、西から順に並河城・余部城(丸岡城)・荒塚城(中世亀山城)・古世城・馬堀城がほぼ等間隔で築かれていた。菱田氏は、明智光秀の丹波侵攻によって滅亡し、その後の亀山城築城によって、その惣構の一角に取り込まれることとなったと推測される。

 古世城は、丹波亀山城の惣構東端の京口番所付近に築かれていた。往時は主郭・二ノ郭・三ノ郭と坤郭(蔵屋敷)の4郭があったとされ、西側に空堀、東から南にかけては水堀で防御していた様である。現在、二ノ郭が昌壽院となっているほかは、宅地化で改変され、城の形を追うことはほとんど困難である。わずかに東側に擁壁に変貌した切岸があり、河岸段丘上に築かれていた地勢を残しているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.008373/135.590386/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世崖端城
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亀山城惣構え(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0159.JPG←宗福寺裏の土塁
 丹波亀山城は、幕末まで存続した丹波口を押さえる重要拠点の城だっただけあって、総構えが構築されており、その一部が残存し史跡指定されている。最近では「丹波亀山城惣構跡保存会」という団体がその啓蒙活動を行っており、その資料を参照しながら総構えを辿ってみた(資料は亀岡市のHPからダウンロードできる)。その中で、史跡指定されていない宗福寺裏の土塁が、最も良く旧状を残している。しかし内側の寺は閉まっており、また外側は畑地なので近づいて見ることができず、遠目に眺めただけであるが、立派なものである。この他、嶺樹院から宗堅寺にかけての裏側に残っている土塁・水堀跡の水路が遺構としてわかりやすいが、かなり改変を受けている様で、往時の規模よりかなり小さくなっていると考えられる。この他、「遠見遮断」と呼ばれる鉤の手の道路なども残っており、往時をわずかに忍ばせている。
嶺樹院~宗堅寺裏の遺構→IMG_0217.JPG

場所:【宗福寺裏の土塁】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.008303/135.579336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【嶺樹院~宗堅寺裏の土塁・水堀跡】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.007775/135.584421/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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東掛城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0098.JPG←2本土橋の架かる堀切
 東掛城は、長谷山城主赤沢加賀守義政の城であったと言われている。赤沢氏は、三好長慶の丹波入りを助けたと言われている。その後、石田氏がこの城に拠ったと言う。1577年、丹波攻略中の明智光秀が波多野氏の八上城を攻めた際、波多野方に加担していた播磨三木城の別所長治に備えるため、石田紀伊守長保を用い、石田氏は別所勢と戦ってこれを撃退するなど活躍したと言う。

 東掛城は、標高432m、比高182mの山上に築かれている。南麓に素戔鳴神社があり、その裏から尾根筋を登った。主郭に白玉竜王が祀られており、そこまでの登り道があったらしく、南尾根には踏み跡があるので、迷うこと無く城に到達できる。以下、遺構の符号は『図解 近畿の城郭Ⅲ』に従って記載する。比較的小規模な山城で、山頂にほぼ長円形の主郭があり、その周囲を腰曲輪が一周している。主郭と腰曲輪のそれぞれ東側だけ低土塁があり、その東に堀切Cが穿たれている。ここには両側に土橋が2本架かっている。その先に小郭があり、幅広の土橋が架かった小掘切で城域が終わる。一方、主郭の北西には、腰曲輪の下に二ノ郭があり、その下にも腰曲輪があって、その先に堀切Aが穿たれている。主郭下の腰曲輪からこの堀切までは、城内通路が良く残っている。堀切Aにも2本土橋が架かっている。その先に削平の甘い三ノ郭があり、先端を堀切Bで分断して城域が終わっている。大した城ではないが、堀切に架かった二ヶ所の2本土橋が特徴的である。尚、『図解 近畿の城郭Ⅲ』ではこれらを土橋ではなく「堀内障壁」としているが、変則的な土橋であろうと私は考えている。
主郭虎口と腰曲輪→IMG_0049.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.944761/135.544209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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埴生城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_3668.JPG←櫓台に残る石垣
 埴生(はぶ)城は、神尾山城の支城と言われ、野々口左衛門尉親永が築いたと言われている。その子西蔵坊清親の時に、織田信長の命による明智光秀の丹波攻略があり、西蔵坊は光秀と八上城主波多野秀治との間を取り持ったと伝えられている。

 埴生城は、宿場町として反映した埴生集落背後に南から北に突き出た標高280m、比高80mの山上に築かれた城である。最福寺の墓地裏から登道がついている。墓地裏の道を小川を越えて東に一段登ると、そこには数段の広い平場があり、野々口氏の居館があったとされている。その背後には両側に土塁を築いた虎口があり、その奥には数段の平場群が展開しており、山麓大手の曲輪群と考えられる。山上の城はほぼ単郭の簡素な構造で、主郭の北西部にわずかに石垣を残した虎口を設けている。主郭の東側には腰曲輪を設け、主郭背後は一段高くなっており、天守台の祖形のような大型の櫓台であったと推測される。単郭の小城には不釣り合いな程の大櫓台で、しかもこの櫓台にも石垣が残っている。ちなみに石垣は、東腰曲輪に面した主郭東縁部にも確認できる。大櫓台の背後は、やはり小城には不釣り合いな程の規模の堀切で、尾根を分断している。その先は平坦な尾根が続くがほぼ自然地形のようである。埴生城は、その城の規模とは裏腹に、大櫓台や掘切、石垣まで有し、戦国後期まで存続した小土豪の城がどの様なものだったのかを今に伝える、貴重な遺構である。
山麓居館背後の大手虎口→IMG_3636.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.05561,135.447639&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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