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古城めぐり(京都) ブログトップ

埴生城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_3668.JPG←櫓台に残る石垣
 埴生(はぶ)城は、神尾山城の支城と言われ、野々口左衛門尉親永が築いたと言われている。その子西蔵坊清親の時に、織田信長の命による明智光秀の丹波攻略があり、西蔵坊は光秀と八上城主波多野秀治との間を取り持ったと伝えられている。

 埴生城は、宿場町として反映した埴生集落背後に南から北に突き出た標高280m、比高80mの山上に築かれた城である。最福寺の墓地裏から登道がついている。墓地裏の道を小川を越えて東に一段登ると、そこには数段の広い平場があり、野々口氏の居館があったとされている。その背後には両側に土塁を築いた虎口があり、その奥には数段の平場群が展開しており、山麓大手の曲輪群と考えられる。山上の城はほぼ単郭の簡素な構造で、主郭の北西部にわずかに石垣を残した虎口を設けている。主郭の東側には腰曲輪を設け、主郭背後は一段高くなっており、天守台の祖形のような大型の櫓台であったと推測される。単郭の小城には不釣り合いな程の大櫓台で、しかもこの櫓台にも石垣が残っている。ちなみに石垣は、東腰曲輪に面した主郭東縁部にも確認できる。大櫓台の背後は、やはり小城には不釣り合いな程の規模の堀切で、尾根を分断している。その先は平坦な尾根が続くがほぼ自然地形のようである。埴生城は、その城の規模とは裏腹に、大櫓台や掘切、石垣まで有し、戦国後期まで存続した小土豪の城がどの様なものだったのかを今に伝える、貴重な遺構である。
山麓居館背後の大手虎口→IMG_3636.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.05561,135.447639&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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福知山城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8536.JPG←本丸の石垣
(2014年4月訪城)
 福知山城は、丹波を平定した明智光秀が築いた近世城郭である。元の名は横山城と言い、小笠原氏の流れを汲むと言われる塩見大膳頼勝が初めてこの地に城砦を築いたとされる。その後頼勝は、長男の頼氏を横山城に、次男長員を奈賀山に、3男利勝を猪崎城に、4男長利を和久城に、5男利明を牧城にそれぞれ配したと言われている。そして頼氏は姓を横山と改め、その子信房が横山城主の時、1579年8月に、既に丹波の大部分を平定していた明智光秀によって城を攻め落とされ、信房は自刃した。光秀は丹波を平定すると、家臣明智左馬頭秀満(三宅弥半次)に命じて横山城を大改修して近世城郭へと変貌させ、丹波統治の拠点とした。この時、治世に反抗的な近隣寺社を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと言われている。1580年4月、光秀は天橋立見物に行く途中、福知山城で城代の秀満より七五三の膳で振舞を受けた。1582年、光秀が滅亡すると、福知山城は羽柴秀長(秀吉の弟)の家臣が管理したとされ、その後、杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続いた。重勝は1600年の関ヶ原合戦で西軍方に付いて滅亡し、その後有馬玄蕃頭豊氏が城主となった。その後、城主は変遷し、1669年に朽木稙昌が城主となって以降、幕末まで朽木氏が続いた。

 福知山城は、由良川と土師川の合流点西側の丘陵上に築かれた平山城である。かつては本丸と二ノ丸を東西に連ね、堀切を挟んで西に伯耆丸と言う出丸を置き、更に平地に水堀を築いて外郭を囲んだ城であったが、現在は市街化によって、本丸以外のほとんどの遺構が失われている。しかし大手門跡やニノ丸跡などの解説板が各所に建っていて、往時の城の配置がわかるように配慮されている。また二ノ丸は台地ごと削られてしまったが、伯耆丸の台地は残っていて、改変されているものの往時の雰囲気を感じさせる。一方、本丸の石垣の上には天守や小天守・櫓等が再建されており、見事な姿を現している。天守台石垣には墓石が多数混ざっており、転用石だらけであるが、さすがにここまで来ると「なんか酷いなぁ」と思ってしまう。織田政権の持つ、非人間的な強権政治の側面が見て取れる。
天守台の転用石→IMG_8611.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.7.56.4N35.17.36.9&ZM=9
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位田古城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8484.JPG←境内の土塁と堀跡
(2014年4月訪城)
 位田古城は、宮ノ腰城とも言い、歴史不詳の城である。すぐ東側に隣接する山稜上には位田城(高城・低城)があり、一説にはこの位田古城も含めた全体が、位田の乱で丹波国人一揆の立て籠もった位田城であったとされる。
 位田古城は、現在の氏政神社の一帯にあったらしい。神社境内の東側には土塁と堀跡が残り、南西部には腰曲輪が築かれている。背後には広大な山林と畑地が広がっているが、明確な城址遺構は存在しないので、ほぼ単郭の居館的城郭であったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.313648&lon=135.238798&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世平山城
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位田城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8344.JPG←高城の段曲輪群
(2014年4月訪城)
 位田城は、丹波国内を揺るがした「位田の乱」の震源地となった城である。元々は南北朝期に位田次郎晴長が築き、後の戦国初期には位田五郎兵衛晴定が拠っていたと言われている。この頃、管領・丹波守護の細川政元の側近であった丹波守護代上原豊前守元秀は、領内で横暴な政策を強行した為、丹波の国人衆の不満が募っていた。そして1489年11月6日、遂に萩野氏・大槻氏らを主体とした丹波の国人達は、上原豊前守元秀・同紀伊守賢家の圧政に抵抗して挙兵し、位田城に立て籠もった。これが「位田の乱」である。この丹波国人一揆に対して、守護方は丹波・但馬・摂津など13ヶ国の大軍を動員して攻め寄せたが、一揆勢の守りは固く、一年間にわたって抗戦を続けた。しかし1490年11月10日、一揆勢は城に火を放って自落したと言う。その後の位田城の歴史は明確ではないが、一説には1561年に萩野肥前守が拠ったとされ、その後1572年に明智光秀によって落城したとされる。

 位田城は、由良川の北岸にそびえる標高212.2mの高城山と、その西峰続きの標高150mの低城山に築かれている。山の名の通り、高城と低城の2つの城域に分かれているが、それ以外にも2城の中間に中城とも言うべき出丸があり、また高城山の中腹と麓近くにも平場が築かれている。基本的には曲輪群を段状に連ねた簡素な構造で、堀切はあるがいずれも規模が小さい。また、訪城時は縄張図が入手できていなかったのであまり気付かなかったが、この城には畝状竪堀が穿たれている。しかしいずれも規模が小さく、写真を見返して見ても笹薮などが生い茂っていてほとんど確認できないレベルである。
 南東山麓からハイキングコースを登って行くと、すぐに開けた平場があり、土塁と堀切が穿たれている。そのやや上に「たて堀跡」と書かれた標識があり、小さな竪堀が藪の中に残っている。更に暫く登ると、「陣屋跡」の標識のある小郭がある。これは陣屋というより木戸口だったのだろう。その先に高城があるが、手前に小堀切があり、4~5段程の段曲輪群だけで構成された簡素な縄張りである。ここから西の低城へと降っていくと、小堀切の先に細長い西郭がある。西郭の先端部に竪堀が確認できる。しばらく尾根を歩くと堀切があり、中城となる。中城は前後を堀切で防御しており、前側(西側)の方が深くなっており、低城からの接近を阻止しているのがわかる。ここにも畝状竪堀が穿たれているらしいが、笹薮でよくわからない。低城手前の細尾根の畝状竪堀も同様である。低城も高城と似たようなレベルの小城で、小さな腰曲輪を数段伴っている。ここの畝状竪堀も薮でよくわからない。低城の南の尾根には大手の曲輪群などが数ヶ所に見られ、山麓近くで一部が墓地となっている部分にも数段の平場と堀切が見られることから、ここも城域であったことがわかる。位田城は、思ったよりも城域が広く、また畝状竪堀があるとは言うものの、比較的古い形態を留めた古風な縄張りの城である。
山麓平場の土塁と堀切→IMG_8326.JPG
IMG_8381.JPG←中城前面の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.317763&lon=135.247446&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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栗城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8278.JPG←主郭の切岸
(2014年4月訪城)
 栗城は、一尾城とも呼ばれ、国人領主大槻氏の一族の城である。大槻氏は、高津城に拠った高津大槻氏、高城城に拠った高城大槻氏、栗城に拠った栗城大槻氏に大きく大別されるらしい。栗城は、日本城郭大系では1558年頃に大槻佐渡守時春によって築城されたとされている。1560年には、若狭高浜城主逸見駿河守宗近と高田豊後守らに攻められたが、客将村上蜂之助義近が奮戦して宗近を討死させた。また天正年間(1573~92年)には城主大槻民部が上京した留守中を赤井氏に攻められ、城を守った民部の妻が討たれたと言う。その他の歴史は不明であるが、明智光秀の丹波平定後、栗城も廃城になったと思われる。

 栗城は、高津城から由良川を挟んだ対岸の標高134.1mの城山に築かれた城である。東西に走る尾根上に曲輪群を配し、南斜面に出丸や城道兼用の大規模な竪堀を構築し、更に南斜面の中腹に広大な居館群を構えている。山麓の高台寺裏から登道が付いているが、明らかにかつての大手道の様で、側方に土塁を伴った道となっている。この道を登って行くと、竪堀や横堀と十字に交叉した大手枡形に至る。その東側には居館群の平場が広がり、土塁や虎口が明瞭に残り、途中には平場群を分断する竪堀も穿たれている。一方、前述の枡形と接続している城道兼用の竪堀を登ると、南出丸の腰曲輪に至り、この腰曲輪を西に辿って行くと三ノ郭堀切から落ちる竪堀に繋がっている。この竪堀も城道兼用である。三ノ郭堀切には土橋が掛かり、この西尾根には緩斜面が連続した後、広幅の浅い堀切の先に土塁が築かれた西出丸があって城域が終わる。三ノ郭から東へは、鞍部の曲輪を挟んでニノ郭、主郭と繋がっている。ここは切り立った大きな切岸だけで区画されている。主郭はほぼ全周を広い腰曲輪が取り巻いており、南側にはこの腰曲輪に繋がる城道も確認できる。主郭背後は堀切で分断している。縄張図ではこの堀切に沿う形で畝状竪堀があるとされるが、藪がひどい上埋もれていてよくわからなかった。栗城は現在は全く整備の手が入っておらず、藪がひどく繁茂し、遺構の確認は大変である。整備すれば、なかなか素晴らしい遺構なのだが。
大手の枡形→IMG_8319.JPG
IMG_8318.JPG←枡形に繋がる城道兼用竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.317989&lon=135.228284&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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高津城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8099.JPG←本城域手前の堀切
(2014年4月訪城)
 高津城は、八幡山城とも言い、何鹿郡の国人領主大槻氏の居城である。大槻氏は、室町時代後期より名が顕れ、1489年に丹波守護代上原豊前守の圧政に抵抗して丹波の国人領主層が挙兵した「位田の乱」の際に、丹波国人一揆勢の中にその名が見える。また1507年、管領細川政元が、若狭守護武田元信の救援要請に応じて丹後守護一色義有討伐の為に出陣した際、この高津の地に陣を敷いたとされる。一説には、この時政元は隠龍寺に宿陣したとも言われ、将軍の首をもすげ替える幕府の最高権力者であった政元を、自領に迎えて警護した大槻氏の勢威の程が伺われる。天正年間(1573~92年)の明智光秀による丹波平定では、大槻氏は光秀に徹底抗戦した丹波の3強の一、赤井氏に与した為、高津城も攻められて落城し、大槻氏は没落したと言う。

 高津城は、高津八幡宮背後の標高140mの山上に築かれた城である。山頂部の2つの峰に主郭群とニノ郭群を南北に配置し、西の尾根の先に出丸群を配置している。郭内は綺麗に削平され、ハイキングコースも整備されているので遺構は見易い。神社から山道を進むと最初に西出丸がある。数段の曲輪群で構成された簡素な構造だが、規模は小さいものの土塁や横堀が築かれて防御を固めている。最下段の横堀は西端で直角に曲がっており、現地解説板では「横矢掛かり」として喧伝しているが、それ程技巧的な印象は受けない。一方更に登って行くと主城域に入るが、前面に大きな堀切が穿たれ、これがこの城一番の見所である。その上に腰曲輪数段を越えて主郭に至る。主郭は頂部の小郭と周りを囲む腰曲輪から成っており、北斜面や北尾根に竪堀・堀切もあるが、いずれも規模は小さく、特に竪堀は埋もれていてほとんどわからない程度である。主郭の背後に鞍部の曲輪を挟んでニノ郭群がある。ニノ郭も頂部の小郭と周りを囲む腰曲輪から構成され、更に西側に腰曲輪を伴っているが、背後に明確な堀切は確認できず、防御性がやや乏しい。高津城は、規模・技巧性とも普通の城で、いかにも地方領主の城という趣である。それを考えると、支城である将監城の先鋭的縄張りが極めて特異なものであることがわかる。もしかしたら、光秀軍による攻城戦の際には谷戸の奥にある将監城を本城とし、谷戸入口にある高津城と段山城は出城として機能したのかもしれない。
西出丸の横堀土塁→IMG_8070.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.299061&lon=135.212899&z=16&did=std&crs=1
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将監城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7940.JPG←畝状竪堀
(2014年4月訪城)
 将監城は、高津城砦群の一つである。高津城主大槻氏の一族大槻将監の居城であったと言われており、谷戸を挟んで北東の山上に位置する高津城(八幡山城)を防衛する城として築かれたと思われる。

 将監城は、段山城の南に続く丘陵地帯の東に張り出した尾根上に築かれている。基本的には頂部から北東と東に伸びる2つの尾根上に曲輪を連ねた連郭式の縄張りであるが、要所を堀切で分断し、外周にハリネズミの様に多数の畝状竪堀を配した先鋭的な構造となっている。北東の尾根の先端部から小道が付いており、木戸跡と思われる土塁の先に広い曲輪が広がっている。ここでは仮にこれを四ノ郭としておく。四ノ郭の上部には、5段程の腰曲輪群が段状に築かれ、この北側に竪堀状の城道が付き、側方に小規模な畝状竪堀を穿っている。最上段は物見台となり、背後に堀切が穿たれて土橋で三ノ郭に繋がっている。三ノ郭の南斜面には城内通路を兼ねたと思われる竪堀があり、これを10m程降ると井戸曲輪があって直径3m程の大井戸があり、現在でも水を湛えている。三ノ郭の上には切岸で屹立するニノ郭がそびえている。ニノ郭・三ノ郭とも低土塁を備え、北側に腰曲輪と小規模な畝状竪堀を伴っている。ニノ郭背後は大堀切で遮断され、背後には物見状の小郭と二重堀切、土橋状の細尾根が続いている。この土橋の北側は二重横堀と畝状竪堀で防御されている。この付近の畝状竪堀は、山形(例えば要害森楯)にあったのと同じコブ状(連れはオムライス型と言っている)のものである。細尾根の先は主郭に繋がる緩斜面の曲輪で、この側方の畝状竪堀が城内で最も大型で見易く見応えがある。主郭は最高所にあり、背後を大堀切で遮断している。ここにも堀切から落ちる竪堀に沿って数本の竪堀が穿たれている。主郭背後の尾根には物見台状の土壇もある。主郭は東に伸びる尾根に築かれた細長の平坦な曲輪で、先端に小堀切と緩斜面の曲輪を置き、更に数ヶ所に堀切を穿ち土橋で連結して東端の小郭まで至って、城域が終わっている。この主郭から東に伸びる曲輪群の南斜面にも畝状竪堀がある様だが、藪が多くあまり明瞭ではない。将監城は、大槻氏の支城群の中でも特異な先鋭的縄張りを有しており、必見の城である。
畝状竪堀→IMG_7943.JPG
IMG_8028.JPG←そびえ立つニノ郭
大井戸→IMG_7892.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.293773&lon=135.207492&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世平山城
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段山城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7795.JPG←Ⅲ郭群の斜め土橋と堀切
(2014年4月訪城)
 段山城は、高津城砦群の一つである。谷戸を挟んで東の山上には大槻氏の居城高津城(八幡山城)があり、その周囲には多数の城砦が築かれていることから、段山城も高津城を防衛する城として築かれたと思われる。

 段山城は、隠龍寺背後の標高80mの丘陵上に築かれている。入手した縄張図によれば、周囲に派生する丘陵も含めて大きく4つの郭群に分かれている。城の中心となるのは中央の丘陵上のⅠ郭群で、城内で最も広い曲輪を主郭とし、その周囲に小規模な横堀と腰曲輪を廻らし、前面と背面に堀切を穿って分断している。Ⅰ郭群の背後にの尾根には山道が通り、途中に堀切らしい地形を経由してⅢ郭群に至る。Ⅲ郭群の背後には切通し状の小道が堀切の様に通っている。Ⅲ郭群は北東に伸びる尾根上に多数の曲輪群を連ねており、途中に堀切が2本、南東の支尾根にも1本穿たれ、特に最上段の堀切は土橋が斜めに架かる珍しい形をしている。Ⅲ郭群の先にⅣ郭群があり、ここにも堀切が穿たれている。一方、Ⅱ郭群はⅠ郭群の西に谷戸を挟んで築かれており、削平の甘い曲輪の前方に土橋の架かった堀切を穿ち、前衛郭と区画している。段山城は、どうも古道を扼する要害だった様で、曲輪の削平など普請はしっかりしているが堀切はいずれも小規模で、古い形態の城だったと思われる。
Ⅰ郭群主郭周囲の横堀と腰曲輪→IMG_7765.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.297837&lon=135.207836&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世平山城
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猪崎城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8511.JPG←主郭の櫓台と横堀
(2014年4月訪城)
 猪崎城は、戦国時代にこの地を領した塩見氏(横山氏)一族の城である。塩見氏の出自は諸説あって明確ではないが、小笠原氏の流れであるらしい。永正年間(1504~21年)頃に横山城(後の福知山城)を築いてこの地に拠った塩見大膳頼勝が、3男監物利勝を猪崎城に配した。利勝は1538年の丹波松山における赤井氏との戦いで軍功を挙げた。その後、利勝の子播磨守家利が跡を継いだが、1579年、明智光秀の丹波平定によって猪崎城も攻め落とされ、城主塩見は討死した。

 猪崎城は、由良川北側の標高64.9mの城山に築かれている。現在三段池公園内の城址公園として整備されており、遺構をよく確認することができる。丘陵頂部に半円形の主郭を置き、主郭の北・東・南の半周に渡って横堀を穿ち、外周に腰曲輪群を連ねた縄張りとなっている。主郭の北端には横堀にわずかに横矢を掛けた櫓台が築かれ、堀底の監視と虎口の防衛をしていたと思われる。現地解説板では、「福知山地方では最も新しいタイプの中世城郭の一つ」と記載されているが、竪堀状の通路などが見られるもののそれ程技巧的とも思われず、また横堀の規模も普通で、よくある平山城という印象である。尚、猪崎城からは福知山市街が一望でき、福知山城の絶景ポイントの一つでもある。
主郭北東の腰曲輪群→IMG_7644.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.308046&lon=135.132755&z=16&did=std&crs=1
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島城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7530.JPG←ニノ郭~主郭間の堀切
 島城は、野々村荘を領していた国人領主川勝氏の居城と言われている。川勝氏は厩戸皇子(聖徳太子)の重臣秦河勝の後裔と伝えられ、室町時代には丹波の国人衆と同様に丹波守護で幕府管領でもあった細川氏に属していた。応仁の乱後に守護大名の権力が没落すると、川勝氏も自立した経済圏を確保するため、天文年間(1532~55年)か天正年間(1573~92年)の頃に島城を築いたと言われている。川勝兵部大輔継氏は、織田信長に従い、明智光秀による丹波平定にも協力して、信長から賞された。光秀の本能寺の変には従わなかったらしく、光秀滅亡後は豊臣秀吉に従った。その子秀氏は、1600年の関ヶ原合戦で西軍として、細川幽斎の拠る田辺城攻撃軍に加わった。しかし西軍敗北後、徳川家康から赦免を受けて福知山城攻撃に参加し、改易を免れた。その後は、徳川家の旗本として存続した。

 島城は、由良川と棚野川の合流点東側にそびえる、標高403.7m、比高224mの城山に築かれている。大きく4つの曲輪で構成され、山頂に主郭を置き、その西にニノ郭、ニノ郭の西と北にそれぞれ三ノ郭・四ノ郭を置いている。麓から整備されている山道を登ると、最初に四ノ郭に達する。四ノ郭は外周に土塁を巡らした曲輪で、背後を小堀切で区画している。そこから小郭を越えて登るとニノ郭に達する。二ノ郭は広く、主郭との間に堀切を穿って分断している。ニノ郭から西に降ったところに方形の土塁囲郭の三ノ郭があり、外周斜面に4本の竪堀が放射状に穿たれている。ニノ郭から主郭へは、側方に土塁を伴った尾根道で、堀切を越えると3段程の腰曲輪を経由して主郭に至る。この付近には石積みらしい跡や攻撃用の礫石(つぶていし)が見られる。主郭背後も腰曲輪とその先に小堀切や竪堀が数本穿たれて、城域が終わっている。以上が縄張りの概要であるが、この城で大きな謎なのはあちこちに掘られている井戸状の穴で、『日本城郭大系』によれば遺構であるらしい。出羽高楯城などにタコツボ遺構という塹壕が見られるが、同種のものであろうか?あまり効果的な配置とも思われず、意図は謎のままである。
三ノ郭外周の竪堀→IMG_7488.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.269479&lon=135.556138&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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周山城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7256.JPG←大手に残る大型櫓門跡
 周山城は、1579年に丹波を平定中の明智光秀が、新たに築城した東丹波統治の拠点である。光秀は、東丹波で長らく横領と略奪を繰り返し、悪政を行っていた宇津氏を滅ぼし、その居城であった宇津城を改修すると共に、新たな拠点として周山城を築いた。これは宇津城があまりに手狭であったためと思われる。伝承では完成を急ぐあまり、神社仏閣から手当たり次第に石垣や墓石などを徴用したと言う。しかしその後は善政を敷いて領民から慕われたと言う。その為、城の東麓に建てられた慈眼寺には、光秀の木像と位牌が光秀滅亡後も領民によって密かに祀られて、今日に及んでいる。1581年、光秀は津田宗及を周山城で「十五夜之月見」を催して歓待した。しかし翌82年、光秀は本能寺の変で信長を弑し、山崎合戦で羽柴秀吉に敗れて滅んだ。周山城は、この時廃城になったと思われる。

 周山城は、周山町の西にそびえる標高480m、比高240mの山上に築かれた城である。名将光秀によって新造された大規模な城郭で、広範囲に曲輪群と石垣が残存し、また中世城郭的な堀切による曲輪の分断はないものの、虎口には枡形が多用され、本丸には天守台まで築かれた丹波屈指の新鋭城郭である。基本的な結構としては、山頂の本丸を中心に東・南・西の三方の尾根に曲輪群を配した構造で、東にニノ丸・三ノ丸、西に4段程の曲輪群で構成された西郭群、南にも4段以上の曲輪群で構成された南郭群を置いている。いずれの曲輪にも石垣の残欠が所々見られるが、大規模に残っているのは西郭群と主郭西側、そして南郭群の上段曲輪である。その他は城が破却された時に壊されたと思われ、かなり崩れてしまっている。しかし往時の縄張りはほぼ復元可能なほど遺構が良好に残っており、例えば、三ノ丸から二ノ丸への登道の横には道に沿った登り石垣があり、但馬竹田城の登り石垣と共に織豊系城郭で考案された技術であった可能性を示唆している。また二ノ丸から本丸に向かう大手道には、入口に大型の大手櫓門がそびえ、その先に一直線に大手道が伸びていたらしく、土塁・石塁がはっきりとした形を残している。この櫓門には左側側方に隠し虎口も備えていたらしい。本丸は大手・搦手共に枡形虎口を備え、西郭から本丸搦手に通じる城門には、総石垣の屈曲した枡形が構築されていたことがわかる。南郭群も枡形虎口が2ヶ所確認でき、最上段曲輪の枡形には石段も残っている。南郭は、かなり広範囲に曲輪が展開していたらしく、未整備の藪の中に曲輪・石垣・枡形虎口等が残り、先端郭の切岸の脇には大きな搦手道があって、石塁を伴っていた様である。この他、三ノ丸の先にも北東の出丸や南東の出丸があり、かなり広範囲に城域が広がっていた様である。周山城は、光秀滅亡後の破却で大きく損壊していると思われるが、それでも往時の威容を垣間見ることのできる屈指の遺構である。
二ノ丸への登道の登り石垣→IMG_7232.JPG
IMG_7276.JPG←本丸に残る天守台
南郭の石垣→IMG_7314.JPG
IMG_7352.JPG←南郭群の搦手道と石塁
西郭から本丸への枡形城門跡→IMG_7383.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.156777&lon=135.622629&z=16&did=std&crs=1
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宇津城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7144.JPG←主郭東側の石垣
 宇津城は、この地の国人領主宇津氏の居城である。宇津氏は、南北朝時代に佐々木道誉や高師直と並ぶ婆沙羅大名として聞こえた美濃の大名、土岐頼遠の裔を称した。系譜によれば、1441年の豊後守頼顕に始まり、頼夏、頼高、頼重と続いた。頼高は、1527年に細川高国と細川晴元が桂川で戦ったとき、高国に属して出陣し、敗北した。天文年間(1532~55年)には、頼重が山国御領所の貢租を妨害した他、広い地域において押領・略奪を行って、皇室経済に打撃を与えた。宇津氏の強勢は、1561年に松永久秀が勅使として派遣されたが、久秀の力を以ってしても制止できなかった。1569年には、織田信長から横領を制止する朱印状が下されたが、それにも従わなかった。1579年、丹波に大挙侵攻した明智光秀によって、宇津城は一戦にも及ばず開城し、宇津氏は滅亡した。その後、宇津城は光秀によって修築され、また新たに周山城が築かれたと言う。

 宇津城は、下宇津の八幡神社の裏にそびえる、標高356m、比高150m程の山上に築かれている。八幡神社の裏から山上近くまでは竪堀状の溝が残っているが、おそらく伐採した木材の搬出路か何かだったのだろう。10分程急斜面と格闘しながら登ると、ようやく腰曲輪に到達する。強勢を誇った宇津氏の居城としては小規模な城で、南端の山上に主郭を置き、その北尾根に段状にニノ郭・三ノ郭を設け、主郭南から西面に腰曲輪を廻らしただけの簡素な縄張りである。それでも主郭の虎口や東側の塁線に小規模な石垣が確認できる。三ノ角の先は尾根筋だけを細い土橋として削り残した堀切で、ここで城域は終わっている。一方、南東斜面の下方に、堀切で背後を遮断した独立堡塁状の物見台が築かれて、南斜面にあったと思われる大手道を防衛している。悪政の限りを尽くした宇津氏であったが、城の規模から考えると、皇室経済に打撃を与える程の影響力が嘘のように思える。
三ノ郭の先の堀切と土橋→IMG_7156.JPG
IMG_7177.JPG←南東斜面の独立堡塁状の物見台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.148017&lon=135.579806&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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須知城(京都府京丹波町) [古城めぐり(京都)]

IMG_7068.JPG←算木積みの見られる主郭石垣
 須知城は、市森城とも呼ばれ、この地の土豪須知氏の居城である。須知氏については、太平記にも元弘争乱の際に六波羅探題に反旗を翻した足利尊氏の元に参集した丹波の土豪達の中に、「志宇知」の名で記載されている。須知城は南北朝時代に須知景光が築城したとされ、1352年に丹波守護代荻野朝忠に属した中津川(遠山)小次郎秀家らの軍勢が須知城を攻め落としたことが伝わっている。その後も丹波の有力国人の一人として、位田の乱などにも名が伝わっている。戦国後期の1579年、丹波に侵攻した明智光秀の軍勢によって落城したと言う。その後の城の歴史は伝わっていないが、現在残る石垣などの遺構からすると、明智氏支配時代にも繋ぎの城として機能したと推測される。

 須知城は、京都縦貫道の丹波ICに程近い、標高384mの山上に築かれた山城である。表示等はないが、整備された明確な登道が山上まで伸びており、登口さえ分かれば藪漕ぎの苦労なく訪城できる。大きく、主郭・ニノ郭・三ノ郭を直線的に連ねた主城域と、背後の尾根に築かれた東郭とに大別できる。西の尾根から登って行くと、切り立った切岸の上に三ノ郭がそびえ、三ノ郭中央には櫓台があり、そこから先は平坦な曲輪群が連なっている。主城部は切岸だけで区画されているが、ニノ郭と主郭の前面には低い石垣が築かれ、側方に小規模な枡形虎口が形成されている。主郭背後の土塁の後ろには、中世城郭では例の少ない、見事な高石垣が築かれている。この石垣は、角部に算木積みの技法まで見られる本格的なもので、この城で他に見られる石垣とは規模も石積み技術も格段に優れており、光秀によってもたらされた穴太衆のものと思われる。主郭の背後は、小規模な段曲輪・堀切と土塁・石垣のある繋ぎの曲輪があり、その先に東郭が築かれている。東郭は背後の尾根筋を防御するために拡張された曲輪のようで、上段郭・中段の方形囲郭・下段郭の3つに分かれている。ここにも石垣が見られるが、規模は小さい。須知城は堀切は小規模なもの1本しかなく、比較的簡素な縄張りの連郭式山城であるが、近世城郭への移行期の城の形態が垣間見られ興味深い。主郭背後の高石垣のみ見所の、一点豪華主義と言う印象の城である。
ニノ郭前面の石垣→IMG_7050.JPG
IMG_7092.JPG←東郭群の方形囲郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.141718&lon=135.439451&z=16&did=std&crs=1
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黒田城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7013.JPG←豪快な畝状竪堀
 黒田城は、当地の土豪森氏の拠った城である。伝承では947年に森筑後守宗政が築いたとされるが、元より確証はない。戦国時代の1533年には、城主森越前守高之が黒井城・籾井城で軍功を挙げたとされ、1550年には黒田城で合戦があったことが当時の感状から知られている。

 黒田城は、園部市街を眼下に収める標高260m、比高130mの山上に築かれている。Y字状に分かれた尾根に沿って、中心に主郭を置き、三方の尾根にそれぞれ北郭・南郭・東郭を配置し、曲輪間を堀切で分断している。堀切は大した規模ではないのだが、この城で出色なのは南郭東側に穿たれた豪快な畝状竪堀で、この方面だけ厳重な防御構造が構築されている。この他、東郭の先には東出郭があり、南郭の先にも南出郭が築かれている。これらの出郭との間の尾根は、両脇を削って一段低い腰曲輪とし、中央に土橋を残す珍しい技法が使用されている。またこの構造を堀切や竪堀と組み合わせて動線を制約している。黒田城は、小土豪の城らしく規模は小さいが、なかなか特徴的な築城法が見られる山城である。
北郭との間の堀切→IMG_6980.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.113657&lon=135.454794&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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園部城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6917.JPG←高校入口に現存する櫓門
 園部城は、1619年に但馬出石城よりこの地に移封となった小出吉親が新たに築いた近世城郭である。一説には、この地には荒木山城守氏綱の拠った中世園部城があったと言われ、1578年に丹波に侵攻した明智光秀が攻め落としたとされる。その後は小出氏による近世園部城の築城まで、明確な歴史は残されていない。近世園部城は城主が小出氏のまま幕末まで存続し、1868年に明治新政府から築城の許可を得て、櫓門・巽櫓の他、小麦山山頂に三重櫓が築かれた。しかし、1872年には破却された。
 園部城は、園部町の中心部にあった平城で、現在の園部高校敷地がかつての本丸跡に当たる。現在は市街化が進み、遺構はかなり失われているが、高校の片隅に櫓門と巽櫓が立派な姿を留めている。一方、北にやや離れた裁判所の入口に門跡の石垣と土塁が残っている。小麦山は公園化されており、山頂はただの平場で慰霊碑などが建つ他は遺構は残っていない。この他、八木町の安楽寺に、太鼓櫓が移築されて残っている。
裁判所に残る石垣・土塁→IMG_6934.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.105039&lon=135.469686&z=16&did=std&crs=1
タグ:近世平城
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八木城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6731.JPG←本丸の天守台跡
 八木城は、丹波守護代内藤氏の居城である。1333年に足利尊氏が丹波篠村八幡で挙兵した際、内藤左衛門尉が参陣して軍功を挙げ、また1336年正月の京都争奪戦に敗れ、丹波に敗走した尊氏を内藤左衛門尉が館に迎えたことが太平記に記載されている。以来、丹波の有力国人として重きを成し、丹波守護を兼帯した三管領家の一つ細川氏の下で1431年以降、代々守護代を務めた。1507年の管領細川政元の暗殺後、丹波守護家でもあった細川氏内部の抗争により、丹波にも抗争の余波が広がった。内藤国貞は始め細川高国に従ったが、1526年に高国が細川尹賢の讒言を信じて近臣の香西元盛を誅殺し、怒った波多野稙通・柳本賢治兄弟(共に香西元盛の兄弟)が高国から離反して挙兵すると、国貞もこれに呼応して尹賢の率いる追討軍から離脱した。その後、三好長慶が細川晴元と対立した時には、長慶に属した。1553年に長慶の部将松永久秀らと共に晴元方の八上城主波多野晴通を攻めたが、返って香西元成・三好政勝らに攻められて八木城は落城し、国貞は討死した。しかし久秀の弟長頼が間もなく八木城を奪回し、長頼はそのまま八木城を預けられ、内藤氏の名跡を継承して内藤備前守宗勝を称した。1565年に宗勝は、勢力を伸ばしてきた黒井城主赤井直正との和久郷合戦で大敗し、討死した。宗勝の子が飛騨守忠俊で、ルイス・フロイスより洗礼を受けてジョアン(如安)と号し、有名なキリシタン大名となった。忠俊は、織田信長に擁立された足利義昭に仕え、信長との戦いの際にも義昭方として二条城に出陣した。義昭が敗れて毛利氏を頼って鞆ノ浦に逃れると、八木城を落とされた忠俊も鞆ノ浦に隠棲し、丹波の戦国大名内藤氏は滅亡した。

 八木城は、桂川の西にそびえる標高330mの城山に築かれている。丹波三強と呼ばれた内藤氏の居城であり、丹波の三大城郭の一つに数えられるだけあって、広大な城域を有している。北東の高速裏の登口から登ると、最初に屋敷群の平場群が目に飛び込んでくる。その名の通り、家臣団の屋敷だったものと思われ、平場群の中に切通し状の通路跡や土塁が散見できる。そこから山道を登って行くと大手を守る対面所と呼ばれる出丸を経由して、本城域に達する。東端に本丸を置き、間に馬屋と呼ばれる繋ぎの曲輪を置いて、その西側に二ノ丸を配置している。本丸はかつてはかなりの石垣があったと思われるが、現在はかなり失われている様だ。前段に腰曲輪群を置き、後部には「金の間」と呼ばれる小さな天守台を残している。ここから南の尾根には内藤土佐郭という出丸があり、間には小堀切が穿たれている。馬屋曲輪は西端に櫓台を築き、二ノ丸や北郭群への防御を固めている。ここから北の尾根には、段曲輪群の先に内藤五郎郭があり、大堀切を挟んで並河重郎郭がある。いずれも腰曲輪や土塁で防衛された出丸で、内藤五郎郭から本城へ向かう位置には石積みの木戸口があったらしく、崩落した石が散乱している。一方、馬屋曲輪の西には堀切を挟んで二ノ丸があり、上下2段の曲輪に分かれている。二ノ丸の南西には八木玄蕃郭があるが、数段の平場だけで構成された簡素な郭である。その更に西の峰には内藤法雲郭がある。広い曲輪で構成され、南端に櫓台と大堀切が築かれている。ここには城中最大の石垣が残っている。内藤法雲郭は最も防備が厳重で、おそらく詰城の位置付けだったのだろう。いくつか散見される石垣は、おそらく破却されたものらしく、かなり失われているが、それでも往時の雰囲気をよく残している。
内藤法雲郭の大堀切→IMG_6873.JPG
IMG_6874.JPG←内藤法雲郭の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.061247&lon=135.523717&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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神尾山城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6577.JPG←虎口の石垣
 神尾山城は、別名を本目城とも言い、丹波の戦国大名波多野稙通(元清)の弟柳本弾正賢治が拠った城である。1507年に幕政を壟断してきた管領細川政元が、家督相続を巡る内紛から家臣に暗殺されて以降、細川氏内部で激しい抗争が繰り返された。このため、細川氏の重要な守護管国の一つであった丹波にも抗争の余波が広がった。波多野稙通は管領細川高国の後ろ盾を得て勢力を伸ばし、八上城を本拠とし、弟元盛を讃岐出身で細川管領家(京兆家)内衆の香西氏に、末弟の賢治を大和国衆の柳本氏に入れて、細川氏内部での立場を強化していった。1526年、高国は細川尹賢の讒言を信じて、近臣の香西元盛を誅殺し、怒った元清は弟の賢治とともに高国の政敵細川晴元に通じて高国から離反した。この時、賢治は神尾山城に拠って兵を挙げ、高国の追討軍を撃退したと言う。その後の1553年には、丹波守護代の八木城主内藤国貞は守護代の地位を巡って波多野晴通と対立し、本目城で討死したと伝えられている。1575年、織田信長から丹波平定を命じられた明智光秀は、神尾山城を波多野氏討伐の拠点の一つとして利用したと考えられる。光秀の丹波平定に最も激しく抵抗したのが八上城主波多野秀治兄弟で、八上城を兵糧攻めの末、人質を差し出すことで和睦が成立し、波多野兄弟が連れて来られたのが、神尾山城であったと伝えられている。

 神尾山城は、金輪寺背後の標高430mの山上に築かれた城で、金輪寺も城の一郭として機能したものと推測される。城域は広いが、旧態依然とした縄張りの城で、仕切り土塁で区画されただけの広い主郭・ニノ郭の周囲に腰曲輪を廻らし、南下方に三ノ郭を配置し、支尾根に段曲輪群を築いただけの構造となっている。堀切は唯一、三ノ郭背後に土塁とともに築かれているだけで、曲輪間の分断にもあまり考慮がされていない様である。この他、ニノ郭に登っていく大手道の途中にわずかに石垣の残る虎口があり、主郭周囲の腰曲輪にも石積みの跡が見られる。主郭やニノ郭から腰曲輪・段曲輪に繋がる部分には虎口が数ヶ所築かれているが、いずれも平易な坂虎口で、枡形虎口は見られない。金輪寺までは車で登れ、寺のすぐ背後から曲輪が展開し、ニノ郭まで登道も整備されているので訪城は容易だが、如何せん縄張りの面白みには欠ける城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.039623&lon=135.469837&z=16&did=std&crs=1
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笑路城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6463.JPG←主郭の石垣と井戸跡
 笑路城は、明智光秀に属した長沢氏の居城である。天文・弘治年間(1532~58年)頃には城主として長沢氏の名が見え、1577~79年頃、時の城主長沢家綱は丹波攻略中の明智光秀に法貴坂戻り岩で対面し、法貴山城主酒井孫左衛門がこれを取り成しで所領安堵され、以後光秀の幕下となった。1582年の本能寺の変にも光秀に従って軍功を挙げ、中国大返しで急進してきた羽柴秀吉と戦った山崎の合戦で討死したと言う。

 笑路城は、法貴山城の南南西1.9kmの位置にある、標高414mの山上に築かれている。東西に並んだ主郭・ニノ郭を中心に、南側に腰曲輪を廻らし、西に馬掛郭、北西に乾郭、更に西に西出曲輪と配置され、ニノ郭背後は大堀切で分断し、その上に櫓台が築かれた縄張りとなっている。城内には塁線や虎口付近に石垣の残欠が多数残っており、多分主郭は総石垣であった様である。主郭切岸の下には井戸跡が残っている。また、主郭・ニノ郭に全部で3ヶ所見られる内枡形の虎口も、石垣造りであったらしい。主郭には天守台とされる小さな櫓台があり、その付近にも石垣の石が多数散乱している。主郭の西半分には鉄塔が建っており、その際に一部石垣は破壊されていると思われるが、概ね残っているようで、この櫓台から曲輪内の仕切り土塁が残っている他、主郭北側に石列も確認できる。一方、馬掛郭から西出曲輪へは途中2本の小堀切が穿たれている。笑路城はあまり大きな城ではなく、縄張りも比較的素朴であるが、石垣が随所に散見され、小規模ながら天守台も見られることから、近世城郭への過渡期の城の形態を残している。
天守台の石垣残欠→IMG_6502.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.969994&lon=135.520426&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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法貴山城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6368.JPG←横堀
 法貴山城は、伝承では管領細川晴元の家臣酒井三河守が築いた城と言われている。後に明智光秀が丹波平定を織田信長から命じられた際、笑路城主長沢重綱(家綱)が法貴坂の「明智戻り岩」で明智光秀と対面し、時の法貴山城主酒井孫左衛門がこれを取り成して、重綱の所領は安堵されたと言う。

 法貴山城は、霊仙ヶ岳から東に張り出した標高400mの支峰に築かれている。明確な道がないので、明智戻り岩付近の斜面から適当に直登するしかない。登って行くと南西に張り出した物見台の様な小さな緩斜面があり、堀切・竪堀状の地形があり、更にその上に虎口が設けられた緩斜面状の南出丸が築かれている。そこを尾根に沿って登って行くと、城に到達する。山頂の主郭は中央を仕切り土塁で区画して東西2郭に分かれ、外周に低土塁を廻らし、東側を二重堀切で分断、そこから南斜面に二重横堀を廻らして防御を固めている。また主郭周囲には腰曲輪が築かれている。曲輪はいずれも削平が甘く、横堀・堀切もそれ程規模が大きくないので、普請は今一つと言う感じである。二重横堀は、途中屈曲して上の腰曲輪に繋がる虎口と接続し、この虎口には櫓台が築かれて横堀に対する防御性を高めている。横堀からは竪堀が数本落ちているが、城外への虎口を兼ねていたと考えられる。全体に藪が多くて見栄えしない上、普請もやや不徹底であり、少々物足りない印象を受ける。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=34.985678&lon=135.528816&z=16&did=std&crs=1
タグ:中世山城
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丹波亀山城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6261.JPG←内堀跡
 丹波亀山城は、明智光秀が築いた丹波攻略の拠点城郭である。元々室町時代に小規模な城砦があり、戦国時代には丹波守護代内藤氏の一族内藤忠行が居城としていたと言う。1575年、明智光秀は細川藤孝と共に織田信長より丹波攻略を命じられた。丹波は、古より京の背後を扼し、山陰・山陽に繋がる街道を押さえる要衝で、京の安定的な確保と来るべき中国の毛利攻めには無くてはならない土地であった。1575年2月、老ノ坂を越えて丹波に入った光秀は、内藤忠行に亀山城で迎えられ、赤井直正の黒井城攻めを進めるが、八上城主波多野秀治の策略によって大敗を喫し、居城の近江坂本城まで総退却した。この時亀山城も波多野氏の手に落ちた。その後、2年程の間、亀山城を巡って一進一退が繰り返され、ようやく亀山城を確保した光秀は、1577年に亀山城を修築して丹波攻略の拠点とした。1579年、5年の歳月を掛けて丹波を攻略した光秀は、その功を信長から絶賛され、丹波一国を与えられた。1582年5月、光秀は信長より中国毛利攻めに当っていた羽柴秀吉の援軍を命じられたが、亀山城を出立した光秀の軍勢は、西へ向かわず老ノ坂を越えて京へ入り、信長の宿所となっていた本能寺を急襲した。本能寺の変である。しかし信長を討った光秀の天下は長くは続かず、中国大返しで急進してきた秀吉と山崎で戦って敗れ、光秀は落ち武者狩りに襲われて滅亡した。光秀滅亡後、1583年には羽柴秀勝、1590年には羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が城主となり、その後は石田三成、前田玄以などが城代となった。1609年、岡部長盛が城主となり、翌年、徳川家康は亀山城の天下普請を発令した。この時、今治城主であった藤堂高虎は、自身が創出した初の層塔型天守であった今治城天守を家康に献じ、亀山城に移築された。江戸時代には、多くの城主の変遷があったが、城は幕末まで存続した。

 丹波亀山城は、桂川南の台地を利用して築かれた平山城で、現在大本教の聖地「亀岡天恩郷」に変貌している。大規模な近世城郭らしく、かつては惣堀まで含めて3重の堀に囲まれた石垣を多用した城であったが、明治以降大きく破壊されてしまい、大本教が城址を購入して整備をするも、昭和に入って大弾圧を受け、爆破までされたと言う。戦後、再び大本教が城址を再建し、石垣などを積み直した。従って、現在残る石垣はほとんどは戦後に積み直されたもので、往時のものはほとんど残っていない。城の中心部は前述の通り大本教の聖地となっているが、受付に申込んで簡単なお祓いを受ければ、城址を歩くことができる。但し、天守台などは立入禁止の聖域のため、周囲から石垣を眺めるしか無い。受付の方の話では、天守台近くにある井戸のみ往時のままであるらしい。この他、往時の内堀跡が池となって残っている。城の北側にも大きな内堀が南郷公園となって残り、市内にも外堀などがわずかに公園化されて残っている。いろいろな意味で悲運の城であるが、宗教団体と行政が協力して城跡を大切に残しており、また部外者の見学にも開放的で、非常に好感が持てる。
市内に残る外堀跡→IMG_6257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=35.013556&lon=135.581002&z=16&did=std&crs=1
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